中国歴史上の女性たち

中国歴史上の女性たち

唐時代 女性、女性の遊び

唐時代 女性、女性の遊



◎ 女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものがあった。

◎ 唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。


■ 唐時代 女性、女性の遊び

唐時代の女性



唐の音楽と歌舞


唐の歌妓


唐時代の気風


生活実態


■食事と料理


女性の服装と化粧


女性と結婚


■女性に関する年中行事・趣味趣向


  /年中行事/運動・競技/屋外遊戯/酒と酒宴/屋内娯楽/喫茶と茶道/散楽と劇/牡丹の流行/異国趣味/無頼と刺青/遊侠と奢豪/虎と狐への信仰



女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものがあった。


人日の剪彩/蕩鞦韆(ぶらんこ蕩ぎ)/闘百草(百草を闘わす遊び)/弓子団子/七夕の乞巧(針仕事の占い)/拜新月/蔵鈎(鈎隠し)/動物の飼育



唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。


元宵節観燈(燈龍の見物)/春薪踏青(ハイキング)/芝居見物/ポロ見物



大唐帝国の生活、女性論

45.  韋莊
(836―910)、字は端己、京兆の杜陵(陝西省西安市の南郊)の人。中唐の詩人韋応物の玄孫で、宰相韋見素の孫。父母を早く失い、家は没落、貧に苦しんだ。五十代に入ってから、数年間、広く長江の中、下流域を渡り歩き、何度も科挙に落第した末、昭宗の乾寧元年(894年)、59歳でようやく進士に及第(高等文官試験)に合格し、校書郎に任じられた。66歳で四川省にいた王建が叛乱を起こしたので、朝廷では李詢を正使、韋荘を補佐として宣撫に赴かせたが、ほどなくして唐が亡び、王建が前蜀の帝を称えると、韋荘はそのまま王建に仕え、王建が前蜀王朝を建てるのに協力して、吏部侍郎・同平章事に任ぜられた。宰相にまで昇進している。前蜀の都は成都にあり、韋荘はその郊外の、かつて杜甫が住んでいた浣花草堂を修復して、自分の庵にした。温庭?と並んで温韋と併称され、晩唐期を代表する詞人である。韋莊の詞は率直明快さを特色とし、『花問集』 には48首の詞が収められている。

46. 薛濤
(768年 - 831年)は中国・唐代の伎女・詩人。魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。長安の出身(一説では成都とも)。父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。
薛濤は西川節度使が管轄する官妓であった。「韋皐から李コ裕までの歴代十一人の節度使に仕えて、詩によって知遇を受けている。その間に元?・白居易・牛?孺・令狐楚・裴度・嚴綬・張籍・杜牧・劉禹錫等、凡そ二十人の名士とも詩を唱和したとされる。また薛濤が詠じた詩は、『稿簡贅筆』には「有詩五百首」とあるが、現存しているのは約九十首である。

 薛濤井について
唐代の女流詩人薛涛にちなんで清代のはじめに造られ、成都の南部を流れている錦江のほとりに位置している。
薛涛は西暦770年に成都で誕生し、この地で父をなくし、楽妓に身を落すことになりました。しかし、詩才に富んでいる彼女は数多くの名詩を残して唐代一の女流詩人と称えられました。晩年彼女が水を汲み、詩箋(しせん)を作ったといわれる井戸が公園内にあります。詩箋が美しく明代に皇帝への貢物ともなったことから「薛涛井」としての名も広まりました。
薛涛は生涯を通じて竹を愛し、竹を広く植えることで竹を敬う気持ちを表した。彼女だけではなく、竹は昔から文人墨客が欠かしてはいけないものとして珍重されてきたものである。常緑植物として一年中生気に満ちていることから、中国では頑強なことのシンボルとなっている。常に天に向かい聳えたっているので、粘り強く向上心のあることに喩えられ、根がしっかりはっていることも自制心を持っている喩えとして賛美されている。
現在の望江楼は竹の公園として国内外の観光客を引き付けている。正門に入り、まず目に入るのは道の両側にびっしりと植え込まれている各種の竹である。130余りの種類があり、中国内で竹の品種の一番多い公園となっている。
公園の南西に立っている四層の建物が望江楼で、「崇麗閣」ともいい、下の二層が四角、上の二層が八角の楼閣で、そりかえった屋根は実に優美さを感じさせている。

唐・蜀、官妓 薛濤
春望詞四首  
〔一〕
花開不同賞,花落不同悲。
欲問相思處,花開花落時。
花さく季節が来ました。でもこの同じ場所で同じときに観賞することはないのです。花が落ちる季節になってもその悲しみを一緒にすることはないのですお聞きしたいことがあります。あなたがわたしのことを思ってくださる場所のことを。それがわかったら私がその場所に飛んで行って花さくときから花が散る時まで一緒に過ごしたいと思います。
〔二〕
?草結同心,將以遺知音。
春愁正斷?,春鳥復哀吟。
行楽を愉しむ中、二人で声を上げてたくさん草をとり、それを愛のあかしとして「同心むすび」にむすぶ。
まさに客とそれをしたことで恋しい人への思いをふと忘れ得たような思いがするのです。女の春の愁いというものはそんなことでも断ちることになるのです。春に盛んな鳥が啼くと、おんなにとってはまた悲しそうな聲でさえずっているように聞こえてきます。
〔三〕
風花日將老,佳期猶渺渺。
不結同心人,空結同心草。
春の日は終わろうとしている。風流な風も、行楽の花も、女もおいてゆく。又逢うことのお約束今なお、遠いぼんやりしたままなのです。心が通い合っているあの人とは結ばれることはなかった。でも、空しいことは、あのとき、誓い合って結んだ「同心むすび」の草を今一人で結んでいることなのです。
〔四〕
那堪花滿枝,翻作兩相思。
玉箸垂朝鏡,春風知不知。
枝もたわわに咲いている春の盛りの花を見るのはもうとてもたえきれない。だから、花は見たくないと背を向ける。まだきっと両方で恋しあっているはずなのです。鏡にあの人からもらったきれいなカンザシが鏡の中で光っている。春風は知ってか知らずか、カンザシをそっと揺らしてゆくのです。











音楽と歌舞
古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。
初唐では九寺の一つである太常寺が舞楽を司る中心となり、宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。
宮廷音楽で歌われる歌の歌詞は唐詩が採用された。民間にも唐詩を歌詞にし、音楽にあわせて歌うものが現れ、晩唐には音楽にあわせるために書かれた詞を作られた。また、「闘歌」という歌の上手を競わせる遊びも存在していた。
舞踊は宮廷や貴族の酒宴ばかりでなく、民間の酒場や行事でも頻繁に行われた。外国から様々な舞踊が伝えられ、その種類も大きく増加した。様々な階層のものが舞踊を好み、楊貴妃や安禄山は胡旋舞の名手であったと伝えられる。
舞踊は、ゆったりした動きの踊りを「軟舞」、テンポが速い激しい踊りを「健舞」と分けられた。「胡旋舞」や「胡騰舞」は健舞に含まれた。伝統舞踊に外国からの舞踏が加わっていき発展していった。
唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。
唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。
安史の乱以後は、戦乱や、梨園の廃止、教坊の縮小とともに、楽工や妓女は地方に流れ、音楽や舞踊の普及は進んでいくことになった













教坊の曲 舞踊と長安の歌妓
紅桃
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。
謝阿蛮
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。
張雲容
全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。
王大娘
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。
許和子(永新)
『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。
念奴
『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元?の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。














女性と結婚
唐代は、儒教礼節による束縛が弱かったことと、北方民族の習慣による影響により、中国の歴史上で比較しても、女性の地位が例外的なほどに高かった。そのため、女性の精神面、肉体面における活動は開放的で活発であった。
盛唐時代には、女性は顔を露わにして馬に座るのではなく、またがった上で外出を行い、そのときに、積極的な様々な異国の服飾や男装を着ることが多かった。また、ポロなどの運動や狩りなども積極的に行っていた。また、男性と酒の席で同席して会話を交わし、単独で男性と交流し、友人となることもあった。
官僚の夫人たちは、家に閉じこもらずに、お互いに社交活動を行い、夫の公務を助けることもあった。また、官僚の家の女性たちは男性の客を避けるような傾向は強くはなかった。
政治においては、唐代前期に、武則天のように皇帝となるものもあらわれ、韋皇后、安楽公主、太平公主など政治に関わりを持つ女性が多数、輩出した。しかし、「女禍」と呼ばれ、中唐以降は政治に参画する女性はほとんどいなくなった。軍事においても、高祖の娘である平陽昭公主や皇帝を自称して鎮圧された陳碩真のような事例も存在し、行動的であった。
また、文化活動でも活躍し、多数の女性による唐詩が作られ、上官婉児・李季蘭・薛濤・魚玄機など著名な女流詩人も輩出した。歌舞や音楽において、宮廷や民間ともに女性が大きな役割を果たし、楊貴妃も名人であることで知られる。散楽における女芸人や書法において優れた技量をもった女性がいた。
また、当時の伝奇小説や唐詩によれば、多くの女性が自発的な愛情を持ち、それを世間に肯定的に受け止められ、時には親に許され、夫ですら強く責めないことがあったことが分かる。恋愛において、男性は才能を重んじられ、女性は容貌を重んじられた。
唐代は道徳からいえば推奨されていたとはいえ、婦徳に基づいた行動をした「列女伝」に名を連ねる女性の数は少なく、絶賛されるほどではなかった。庶民層には家事を行わず、礼節を守らない女性もあり、官僚にも恐妻家といわれる夫も多かった。姑と嫁の関係も、一方的に姑が強いものではなく、家庭内礼節は守られないことが多かった。未婚の女性が男性と交際し、処女ではなくなったり、富裕層の既婚女性が愛人を交わることもよく見られ、貞操観念は強くなかった。中唐以降は、儒教による礼節が厳しくなり、このような女性による行動の事例はあまり見られなくなった。また、徳宗時代に、宋氏の五姉妹によって、「女論語」が著される。「女論語」は読みやすく、夫に対する服従とともに、女性の家庭において果たす積極的な役割を説くという面も存在した。
女性の教育は、詩歌や書法、礼法、管弦などの音楽、裁縫と機織りなどに行われ、階層によって、重点が異なっていた。士族では7歳前後から書を勉強し、経典を読んだ。商人や武官、庶民の家でも書を知る女性は少なくはなかった。書を読むことにより、礼法を学ぶことに重きを置かれ、詩歌については士族の女性が身につけることは肯定されなかったため、礼法に緩い士族の家や、庶民や妓女の女性が勉学された。識字できる女性の層は全体的に広がっていた。音楽は、官僚や士族、一部の庶民の家では、広く学ばれ、楽器や歌を修得する女性が多かった。裁縫は多くの階層で学ばれ、庶民階級では裁縫と機織りが家庭教育の中心であった。女性の教育は、その母親が行った。
女性には様々な家事労働があり、その主要な役割を果たしていた。一般官吏や庶民の家では女性が家事や育児、料理を行ったが、最も主要な家事が針仕事であった。針仕事によって作られた布で衣服を自給し、兵役の男性に軍服を与え、税である布類を納め、生計を助けた。夫の仕事を手伝うこともあった。男子の幼少期や女子の教育も行い、父母舅姑や夫の世話もした。
結婚について、律では一夫一妻制をとっていたが、多妾は認められていた。良人と賤人の結婚は許されず、士族と庶民の差も厳格なものではなかったが、厳然として存在した。女性の婚期は13歳から18歳まで、大体15歳前後であった。結婚は親の命令で行われたが、親が娘に夫を選ぶことを許すこともあった。結婚において、男性は家柄・財産・文才が重視され、女性は容貌・家の財産が重んじられた。結婚は六礼を経る過程で、結納や持参金が必要であった。貧家の女性が婚姻できず、高齢の男性と若年の女性の婚姻がなされるという問題も生まれた。夫が妻の実家で婚礼を行い、妻が夫の実家に赴かず、夫が入り婿となることも多く、妻は家庭の中で比較的、高い位置にいた。結婚後も妻の実家である妻族が、妻の強い力となり、夫に圧力を与えることもあった。婚姻を行っているにもかかわらず、女性が夫以外の男性と自由な性愛関係が行われ、道徳的に強い批判がなされないこともあった。
上層階級の妻は、出産と育児、家政、裁縫・機織・料理などの家事、夫の業務や社交の補佐などが社会機能として求められ、妾には家政の代わりに、夫への快楽の提供などが要求された。上層階級の妻には、家全体を整え、夫の官界への評判と評価を高めることが期待された。夫の業務や社交の補佐については、多大な貢献が行われたことが多くの記録で分かる。
離婚や再婚の事例は多く、律によって、夫が妻と離婚してよい場合として、七出を犯した場合が定められている。七出には、男子を産まないことや、舅姑によく仕えないこと、嫉妬深いことなどがあげられており、男性は栄達して、妻を換えることがしばしば見られた。ただし、唐代の特徴として、夫婦における協議離婚や妻から積極的に離婚を要求することも、認められていた。また、女性の再婚もむしろ推奨されていた。皇帝の娘である公主は夫が死去した後、多くが再婚しており、特別なものではなかった。
唐代では、南北朝時代から続く、上層階級の妻が夫の女性関係への激しい嫉妬を示す妬婦の事例が多いのも特徴である。背景には、北方民族における母系制度の影響、礼節道徳が弱かったことと、多妾制度と正妻の立場が曖昧であったことがあると考えられる。嫉妬深いことは、夫が離縁する「七出」の一つにあげられているが、妬婦たちは夫へ激しい嫉妬を示し、夫に激しい怒りを露わにし、夫の寵愛する妾や婢を傷つけ、殺すなどの行為を行った。次第に、多妾制度が定着していったため、妬婦の勢いは弱まっていった。
律上では、女性の権利は男性に比べればかなりの制限があった。女性は財産の相続権を有さず、戸絶(家の後継ぎがいないこと)の時のみ、相続権が与えられた。妻が夫のもとを勝手に去った場合は罰せられ、夫婦の暴力は妻がおこした場合の方が重かった。また、戦乱の時には多くの女性が殺戮や略奪の対象となった。その一方で、母親は子に従うことを推奨されることはなく、敬い、孝行するべき対象とみなされていた。








唐時代の気風
唐代の気風は、安史の乱を境として、初唐と盛唐の前期、中唐と晩唐の後期に大きく分かれる。全体的に律令制度は確立していったが、貴族制の特徴は濃厚であり、制度としては緩やかで柔軟なものであり、それが気風にも影響していた。
前期における唐は、中国の中世において、最も盛んな時代である。唐政府は、唐王朝の皇帝である李氏が北方民族であった鮮卑の系統でいることもあって、北方民族の文化影響が強い北朝を継承しており、人々は道徳を厳しく遵守せず、唐の太宗は周辺民族を含めて「天下は一家」として、全体的に開明的で開放的な政策を行った。
また、周辺国家や民族の交流が非常に盛んであり、異民族の文化や風習、宗教を受け入れ、習慣として盛んになった。そのため、全体として漢族が異民族の影響を受け、融合した時代となった。唐政府の政策は、異民族にも相当に平等なもので、異民族でも高官になることができ、自己の民族文化を保ったまま生活することもできた。周辺諸国も漢字を共有のものとする東アジアに文化圏が生まれるほど、多大な影響を受けた。都市の一般住民も異国からの文物が浸透していった。
また、律令体制も完成し、全国で通用するようになった。そのため、中国の時代のなかで比較的公平な社会であった。科挙制度を継続したため、いまだ貴族制の影響は強かったが、社会階層の流動化は進展していた。科挙では詩作が重視されたので、多数の文人が生まれた。また、音楽や書道、各種の遊戯も盛んであった。
この時代は儒教道徳は弱わり、自由に振る舞うことや勇気があることも重視された。文人にも辺境に赴き、軍事に関わることを求めることも多く、多くの「辺塞詩」が生まれた。官僚や女性を含め、人々は、様々な異民族から影響を受けた格好をすることができた。
経済については、資源の開発が進み、唐政府が周辺国を制圧したため、通商圏が拡大し、周辺から物資が流入するようになり、全体的に好景気であった。陸上だけでなく、海外貿易も増加し、中国南方も発展した。
後期については、安史の乱により、皇帝権力を支える基盤は衰え、地方に藩鎮勢力が割拠し、世界帝国的な性格は後退した。しかし、商業の発展を背景に、武力国家から、両税法の施行により財政国家に生まれ変わり、唐政府は困難を財政の力を背景に乗り切った。また、文学は発展し、印刷技術は向上していった。他面、物価が高騰したため、自作農が崩壊し、流民があふれ、「客戸」として各地の荘園や新興地主の小作となっていき、社会不安の要素となった。
貴族制は衰退し、新興地主層の興隆とともに、官が規制できない民の力が増大してきた。武宗の「廃仏令」など唐国内における排外主義は強まり、周辺国も独立の傾向が強くなった。社会も余裕がなくなり、個人が自由に振る舞うことも少なくなった。











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生活実態
唐代も他時代と同様、階層により、生活実態に多くの差があった。
五品より上の官僚である勅任官の特権が大きく、彼らの生活は豊かなもので、長安の里坊の4分の1を占める邸宅も存在した。また、彼らの母や正妻は外命婦制度により、封号を与えられた。彼らの生活は豊かなもので、妻女も家事を行う必要がなく、歌舞音曲や化粧、豪華な飾り物を買う余裕があった。彼らのほとんどが多くの妻妾を持った。また、貴族出身である場合、ほとんどが、先祖伝来の荘園を所有していた。
九品から六品までの認証官は、周りを塀に囲まれた四合院の邸宅に住んでいることが多かった。彼らの生活は余裕はなく、貧困におちいるものもいて、多くは昇進を望んでいた。彼らの妻女は、機織りなどを行い、家事をすることもあった。
九品に入らない流外官と呼ばれる官吏は、胥吏とも呼ばれる存在であった。土着の人が選ばれ、地方政治の実情を把握し、現地のものとの関係も深かった。地方に赴任する官僚より、実務は胥吏が握っていることも多かった。彼らの多くは豪族や新興地主の血縁者であり、公課などの免除がないにも関わらず、負担を拒否することもあった。豪族である場合、住居は庭が広い四合院であることが多かった。彼らの妻女は家事の負担も軽かった。
農民については、敦煌文書や唐詩などで確認できる。敦煌では、社という地縁を中心とした共同体を組み、各自社人として、仏事と葬儀の援助、宴会などの相互補助を行った。社は、社長・社官・録事を長とし、事業の度に労力や酒・粟・油などを提供するため、負担が重かった。遅れた場合や退会した場合は、杖で打ったり、宴席を設けるなどの罰則が行われた。そのため、貧困なものは社人になることはできず、罰則にも関わらず退会を願い出るものもいた。社には、官吏が入ってくる場合もあった。敦煌での生活は厳しく、徴兵や多くの負担が存在し、逃戸や子供の人身売買などが行われていた。貧民が税の催促に、里正や村頭から暴力を受けた記録もある。
全国的にいえば、農民の家では男性は耕作を行い、女性は織り物を行うのが一般的であった。妻女たちは家事と養蚕、紡績の仕事に明け暮れた。租税を納めた上で、貧困層は落ち穂を拾って飢えをしのいだ。休耕の時も男女ともに日雇いに出て、老人になるまで働いた。南方の農民は比較的、負担が軽かった。農民は兵役もあり、女性が耕作を行うこともあった。
職人については、世襲であり、転業も許されなかった。手工業にも行は多数存在し、行頭は行の人に政府の用役を供し、役所との間をつないだ。一般の手工業者と、農業兼業の手工業者は国家服役をなさればならず、小商人より地位が低かった。紡績と専業とする女性には生涯、嫁にいくことができないものもいた。
商人については、富裕なものを王侯貴族を超えて、住居も豪邸であることが多かった。商人は交易のために移動し、数年は家を空け、事故にあい消息を絶つものが相当数いた。また、交易先に移住するものもいた。商業は店舗を構えたところで、女性が主人となり、行うこともあった。貧しい商人は行商人が多く、移動の危険が大きかった。
家族の規模は5〜7人程度が平均的で、庶民階層は子供を複数養う余裕がある家が少なかった。また、三世代同居は、庶民階級に多かった。
庶民の家でも、私賤人である僕や奴・婢を使うことは一般的であった。私賤人たちは主に生産労働に従事し、女性の私賤人には家事労働を行うものもいた。私賤人たちの結婚は主人によって決められた。

食事と料理
平和が続き、生活が安定すると物資は豊富なものとなり、外国各地から食材がもたらされ、外国の料理も通常にふるまわれる料理の一種となっていた。
この時代、シルクロードを通って、もたらされたものに香辛料があげられる。胡椒、ヒハツ、ニンニクなどが料理に使われた。西域から伝えられたキュウリやほうれん草も一般に普及した。
中国北部では粟や豆、麦がつくられ、盛唐に小麦粉食が流行したため、麦の生産量が増大した。南部では米がつくられ、大運河を使って北方に運ばれたため、米食が北部で増加し、米を使った料理も増えた。
西域から渡ってきた小麦粉で作る麺類と、小麦粉を練り、焼いてつくられたパン類の餅がすでに主食の一部となっていた。他に饅頭、ワンタン、餃子が流行した。現存する餃子の最古のものは唐の高昌王墓から出土した唐代の化石である。[13]また、西域から新たに、ヒツラ(ピラフ)が伝わった。
肉食は、牛、羊、豚、鶏、ラクダなどの家畜や、狩った鹿や猪、兎、熊などが食された。遊牧民族の肉料理の方法も伝わっていた。
また、海洋技術の発達により、蟹、イカ、ナマコや海藻が採られるようになった。
果物は、ブドウ、ザクロ、ミカン、ウリ、ナシ、スモモ、モモが食べられた。特に南方で捕られたライチは貴重で、楊貴妃に好まれたことで知られた。サツマイモ、ナツメは当時は甘み類の1つであった。
富裕層はすでに多用な食事を食べることが可能になり、珍奇な食材を好むグルメ嗜好も生まれてきた。庶民は穀物やウマゴヤシなどの菜食が中心だった。医食同源という考え方も生まれ、食餌療法も広まっていた。











服飾と化粧
長い戦乱のため、乱れていた冠服制度は初唐になって整えられた。黄色は皇帝専用の色となり、皇帝は黄袍を着て、皇族と百官は紫・緋・緑・青色の袍服を位階により決められ、着ることを定められた。民の衣は、白や黒が基本であった。貴族や官僚の衣は絹が使われ、民は褐と呼ばれるズボン形式の麻の衣を着た。百官はまた位階により定められた冠や魚袋、笏をつけて朝廷に出仕した。
男性の服飾は、従来のゆったりとした服飾に代えて、胡服と呼ばれた北朝で流行していた北方民族の衣を源流とする衣が中心となった。頭には、?頭という頭巾が流行し、身分に関わらずつけていた。胡服は狭い袖の上着、ズボンで、革帯で締め、長靴で乗馬しやすいものであった。また、丸襟の袍衫が好まれ、布製に代わり、革の履が使用された。また、西域から来た胡服を着ていたという説もある。
女性の服飾は、胡服の流行や外国の服飾が導入され、国家に関係なく自由であり、色とりどりに染色したものが使われ、絶え間なく、移り変わっていった。大多数は、短い襦か長い衫をつけ、下半身に胸や腹まで引き上げる長裙をつける襦裙を着ていた。他に、襦裙の上半身の上に着る半臂という半袖の衣が好まれた。また、披帛という薄く軽い絹の布を肩にかける装飾品も使われ、先の尖った履をはいた。胸元まで露出することがあり、開放的なものであった。襦裙は時代がすすむとともに、ゆるやかなものに変わっていった。
宮廷の女性の間で女性が男装を行い、盛唐以降に民間で流行し、男性用であった服飾を女性が着ることが多くなった。別に流行ったものとして、胡服がある。これは男性のものとは違い、主に西域から入ってきたもので、狭い袖の上着、長ズボン、長靴が特徴的であった。
頭には、顔を見られぬために、冪リ(べきり、『リ』は「よんまがえ」と下部が「離」)と呼ばれる全身を覆う布がついた頭巾をつけた。次第に、帷帽というつばが広い、つばにつけた紗(うすぎぬ)を顔から首まで垂らした帽子をつけるようになった。胡服が流行してからは、西域から入ってきた胡帽が流行り、顔をうすぎぬで遮らなくなった。その後、渾脱帽という頭の先が尖った顔を出す帽子をつけるようになった。
女性の髪型は、多様なものになった。髻は、高髻をはじめとして、100種近くも存在した。まず、宮中の女性で流行り、民間に伝わった。髻には、様々な材質に細工が施された簪を頭につけ、10本以上もつけることもあった。
化粧は?脂が流行し、額や頬に塗られた。また、顔を飾るための額黄、黛眉、花鈿、斜紅などの工夫がなされ、額黄は額に黄色のパウダーを塗るもので黛眉で眉を描き、多様な眉の描き方が存在した。花鈿は、金箔、紙などを様々な模様に切り、額や頬を飾るもので、粧靨は両頬にえくぼを描くもの、斜紅は顔の両側で紅を斜めに描くものであった。装飾品は、耳飾り、頭飾り、ネックレス、腕輪、香袋などがつけられた。










女性と結婚
唐代は、儒教礼節による束縛が弱かったことと、北方民族の習慣による影響により、中国の歴史上で比較しても、女性の地位が例外的なほどに高かった。そのため、女性の精神面、肉体面における活動は開放的で活発であった。
盛唐時代には、女性は顔を露わにして馬に座るのではなく、またがった上で外出を行い、そのときに、積極的な様々な異国の服飾や男装を着ることが多かった。また、ポロなどの運動や狩りなども積極的に行っていた。また、男性と酒の席で同席して会話を交わし、単独で男性と交流し、友人となることもあった。
官僚の夫人たちは、家に閉じこもらずに、お互いに社交活動を行い、夫の公務を助けることもあった。また、官僚の家の女性たちは男性の客を避けるような傾向は強くはなかった。
政治においては、唐代前期に、武則天のように皇帝となるものもあらわれ、韋皇后、安楽公主、太平公主など政治に関わりを持つ女性が多数、輩出した。しかし、「女禍」と呼ばれ、中唐以降は政治に参画する女性はほとんどいなくなった。軍事においても、高祖の娘である平陽昭公主や皇帝を自称して鎮圧された陳碩真のような事例も存在し、行動的であった。
また、文化活動でも活躍し、多数の女性による唐詩が作られ、上官婉児・李季蘭・薛濤・魚玄機など著名な女流詩人も輩出した。歌舞や音楽において、宮廷や民間ともに女性が大きな役割を果たし、楊貴妃も名人であることで知られる。散楽における女芸人や書法において優れた技量をもった女性がいた。
また、当時の伝奇小説や唐詩によれば、多くの女性が自発的な愛情を持ち、それを世間に肯定的に受け止められ、時には親に許され、夫ですら強く責めないことがあったことが分かる。恋愛において、男性は才能を重んじられ、女性は容貌を重んじられた。
唐代は道徳からいえば推奨されていたとはいえ、婦徳に基づいた行動をした「列女伝」に名を連ねる女性の数は少なく、絶賛されるほどではなかった。庶民層には家事を行わず、礼節を守らない女性もあり、官僚にも恐妻家といわれる夫も多かった。姑と嫁の関係も、一方的に姑が強いものではなく、家庭内礼節は守られないことが多かった。未婚の女性が男性と交際し、処女ではなくなったり、富裕層の既婚女性が愛人を交わることもよく見られ、貞操観念は強くなかった。中唐以降は、儒教による礼節が厳しくなり、このような女性による行動の事例はあまり見られなくなった。また、徳宗時代に、宋氏の五姉妹によって、「女論語」が著される。「女論語」は読みやすく、夫に対する服従とともに、女性の家庭において果たす積極的な役割を説くという面も存在した。
女性の教育は、詩歌や書法、礼法、管弦などの音楽、裁縫と機織りなどに行われ、階層によって、重点が異なっていた。士族では7歳前後から書を勉強し、経典を読んだ。商人や武官、庶民の家でも書を知る女性は少なくはなかった。書を読むことにより、礼法を学ぶことに重きを置かれ、詩歌については士族の女性が身につけることは肯定されなかったため、礼法に緩い士族の家や、庶民や妓女の女性が勉学された。識字できる女性の層は全体的に広がっていた。音楽は、官僚や士族、一部の庶民の家では、広く学ばれ、楽器や歌を修得する女性が多かった。裁縫は多くの階層で学ばれ、庶民階級では裁縫と機織りが家庭教育の中心であった。女性の教育は、その母親が行った。
女性には様々な家事労働があり、その主要な役割を果たしていた。一般官吏や庶民の家では女性が家事や育児、料理を行ったが、最も主要な家事が針仕事であった。針仕事によって作られた布で衣服を自給し、兵役の男性に軍服を与え、税である布類を納め、生計を助けた。夫の仕事を手伝うこともあった。男子の幼少期や女子の教育も行い、父母舅姑や夫の世話もした。
結婚について、律では一夫一妻制をとっていたが、多妾は認められていた。良人と賤人の結婚は許されず、士族と庶民の差も厳格なものではなかったが、厳然として存在した。女性の婚期は13歳から18歳まで、大体15歳前後であった。結婚は親の命令で行われたが、親が娘に夫を選ぶことを許すこともあった。結婚において、男性は家柄・財産・文才が重視され、女性は容貌・家の財産が重んじられた。結婚は六礼を経る過程で、結納や持参金が必要であった。貧家の女性が婚姻できず、高齢の男性と若年の女性の婚姻がなされるという問題も生まれた。夫が妻の実家で婚礼を行い、妻が夫の実家に赴かず、夫が入り婿となることも多く、妻は家庭の中で比較的、高い位置にいた。結婚後も妻の実家である妻族が、妻の強い力となり、夫に圧力を与えることもあった。婚姻を行っているにもかかわらず、女性が夫以外の男性と自由な性愛関係が行われ、道徳的に強い批判がなされないこともあった。
上層階級の妻は、出産と育児、家政、裁縫・機織・料理などの家事、夫の業務や社交の補佐などが社会機能として求められ、妾には家政の代わりに、夫への快楽の提供などが要求された。上層階級の妻には、家全体を整え、夫の官界への評判と評価を高めることが期待された。夫の業務や社交の補佐については、多大な貢献が行われたことが多くの記録で分かる。
離婚や再婚の事例は多く、律によって、夫が妻と離婚してよい場合として、七出を犯した場合が定められている。七出には、男子を産まないことや、舅姑によく仕えないこと、嫉妬深いことなどがあげられており、男性は栄達して、妻を換えることがしばしば見られた。ただし、唐代の特徴として、夫婦における協議離婚や妻から積極的に離婚を要求することも、認められていた。また、女性の再婚もむしろ推奨されていた。皇帝の娘である公主は夫が死去した後、多くが再婚しており、特別なものではなかった。
唐代では、南北朝時代から続く、上層階級の妻が夫の女性関係への激しい嫉妬を示す妬婦の事例が多いのも特徴である。背景には、北方民族における母系制度の影響、礼節道徳が弱かったことと、多妾制度と正妻の立場が曖昧であったことがあると考えられる。嫉妬深いことは、夫が離縁する「七出」の一つにあげられているが、妬婦たちは夫へ激しい嫉妬を示し、夫に激しい怒りを露わにし、夫の寵愛する妾や婢を傷つけ、殺すなどの行為を行った。次第に、多妾制度が定着していったため、妬婦の勢いは弱まっていった。
律上では、女性の権利は男性に比べればかなりの制限があった。女性は財産の相続権を有さず、戸絶(家の後継ぎがいないこと)の時のみ、相続権が与えられた。妻が夫のもとを勝手に去った場合は罰せられ、夫婦の暴力は妻がおこした場合の方が重かった。また、戦乱の時には多くの女性が殺戮や略奪の対象となった。その一方で、母親は子に従うことを推奨されることはなく、敬い、孝行するべき対象とみなされていた。








年中行事
年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。
元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。
人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。
上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。
探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。
寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、3月1日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。
上巳節は、3月3日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。
端午節は、5月5日に、悪鬼を防ぐため、艾(よもぎ)人形を戸口にかけ、艾の虎を頭にかぶる行事である。粽子(ちまき)を食べ、竜船競渡(ボートレース)を行うこともあった。宮廷でも、衣服やチマキが下賜された。部屋に飾る鍾馗の絵は唐代からはじまっている。
夏至節には、百官は3日間の休みが与えられる。
七夕は、7月7日に、年に一度、織女星と牽牛星が会う日である。爆衣・爆書という衣類や書籍の虫干しが行われ、夜に粥や瓜を食べ、竹を立てて二つの星を祭る。針穴に色糸を通して織物の上達を祈る「乞巧節」でもある。
「天長節」は、8月5日の玄宗の誕生日を国慶節としたことによる。宮廷では宴席を行い、興慶宮の広場で、玄宗のもとで宮廷楽団の音楽や大規模な舞踊、出し物や曲芸、軽業、手品などの百戯が行われた。全国の寺観でも盛大な儀式が行われ、農民も天神を祭るという行事に組み入れられた。
「中秋節は、8月15日に、中秋の名月を眺める日であり、この日の満月が最も美しい月とされた。果物などを食べながら、月見を行った。唐代の半ばにはじまり、晩唐には定着した。
重陽節は、9月9日に、人々が高い丘や高楼の高所に登高し、茱萸(かわはじかみ)の枝や菊の花を髪に挿し、その実を入れた袋を肘に下げ、菊酒を飲み邪気を祓う行事である。翌日の9月10日が小重陽で酒宴が開かれた。
冬至節は、11月15日に、皇帝が朝賀を行う前に天に祭り、天下太平・五穀豊穣を祈り、式典が催される。元旦とともに重視され、官僚は7日間の休日を与えられた。民間でも「拝冬」として祝い、ご馳走をする。この前夜は、「至除夜」と言われ、徹夜して夜明けを迎える。
臘日は成道日の12月8日に、酒宴などを行って祝う行事。宮中でも宴会が開かれる。
徐夕は、12月29日か30日の1年の最終日。夜の「除夜」に、新しい年を迎えるため、酒を飲んで、徹夜する。宮廷では「大儺」の儀式が行われた。


運動・競技
狩猟が盛んで、遊牧民族の文化の影響も強く、唐の皇帝は狩猟を好むものが多かった。そのため、皇族や貴族は大勢を率いて狩猟に出かけた。皇帝の狩猟には宮女も同行し、女性のみの集団で狩猟を行うこともあった。鷹狩りのための鷹を捕り、飼育する技術は大いに向上していた。
ポロは、「打毬戯」と呼ばれ、中国では唐代から行われた。皇帝、貴族、文官、武官、女性までが行い、楽しんでいた。皇帝では、玄宗は親王時代から長じ、宣宗、僖宗は皇帝の時に楽しんでいる。唐と吐蕃とでチームが組まれ勝負することもあった。宮中の庭では毬場が作られ、貴族や官僚は邸宅の庭にポロの毬場をもつ者もいて、地方都市にも地方官が管理のもとに毬場が作られた。女性はロバに乗ったり、徒歩で行うことが多かった。ポロは春によく行われ、軍人にも好まれ、すぐれた技芸を誇るものあった。
蹴鞠は「打毬」とも呼ばれ、古来から行われ、地面を浅く掘らずに、塀で囲まれた専用の毬場がつくられた。春にしばしば遊ばれ、二人で遊ぶものを「白打」、会として行うものを「員社」と呼んだ。妓女にも優れた技量を持つものがいた。
綱引きは抜河と呼ばれ、古来から伝わり、主に正月15日の上元節に行事として行われたが、後に期日を定めず競技として行われるようになった。綱に直接手をかけるのでなく、小さい綱を大きな綱に結んで引き、勝敗を決めた。宮廷で高官や宮女が加わって行うこともあった。玄宗時代にしばしば行われ、長安では千人以上が集まって競うこともあった。
ブランコ(蕩鞦韆)は、女性や子供に好まれ、髪飾りが落ちるほどの高さを競って遊んだ。宮中にはブランコが作られ、宮女が遊ぶ風景を見て、玄宗は空を飛ぶ仙人になぞらえて「半仙戯」と名付けた。これは民間にも伝わり「半仙戯」と呼ばれるようになった。
角觝は、「角力」、「相撲」とも呼ばれる格闘技である。古来から伝わり、唐代でも軍人の間などで見物客の前で行われ、宮中にも皇帝に仕える名手がいて、何百人の弟子を持つものもいた。角觝は、散楽に含まれ、見せ物の娯楽にもなった。


屋外遊戯
郊遊は、「踏青」とも呼ばれ、現在のピクニックに似た、男女を問わず主に春の季節に行う屋外における運動である。長安の周りが盛んで、景勝地や郊外にでて、遊園を開いた。
闘百草は、主に少女たちによって、草や花を採り、珍しさものの種類の優越を競う遊びである。唐代に盛んとなった。
捕蝉戯は夏に蝉をとる遊びである。唐代では、蝉を売る人が現れ、女性や子供は買い、戸口や窓に吊り、鳴き声を競った。
闘鶏は、古来より行われ、唐代で盛んであった。玄宗は酉年生まれであり、闘鶏を好み、皇族や貴族には財産をつぶすほど力をいれるものも存在し、庶民はおもちゃの鶏で我慢した。
闘蟋は、秋に宮中の女性たちがコオロギを飼い、枕元に置いて鳴き声を聞くもので、後に庶民に伝わった。長安で流行し「闘蟋」として賭け事にまで発展するに至った。
闘歌は、歌を歌い、その優劣を比べるものである。長安にある東市と西市の代表で優劣を比べることがあった。
登高は、周辺の山や丘の高所に登り、天を仰ぎ、地を眺めるものである。天に近づくことで天の精気を受け取り、心身の清新をはかることを目的としていたが、次第にただ感慨にふけるために行われるようになった。






屋内娯楽
囲碁は、隋代から19路盤が用いられ、現代に似た打ち方であった。唐代、囲碁は特に盛んであり、囲碁は文人たちに好まれ、女性にも打つものがいた。713年の玄宗期に、棋待詔制度が創設され、皇帝に召し出される囲碁の名人が指定され、新羅や日本の名人と打つこともあった。玄宗自身も碁を好み、日本人の弁正と打ったという話や棋譜も残っている。囲碁は、民間や辺境でも広く遊ばれ、碁盤や碁石には貴重な素材を用いられることもあった。
象棋も唐代には打たれ、駒には「将」、「馬」、「車」、「象」「卒」、「砲」などがあった。すでに、現在のシャンチー(象棋)に近いルールになっていた。
弾棋は、貴族や文人の間で遊ばれた。中央と四隅が高くなった盤を用い、交互に石を弾き、相手の石に当てた数を競うもので詳細な内容は分からなくなっている。唐末まで遊ばれた。
博や双陸はサイコロや盤、駒を用いて遊ばれ、賭け事などに用いられた。詳細な内容は分からなくなっている。


酒と酒宴
唐代は、酒の禁令がなかったため、酒造業が急速に発展した。酒の種類は増加し、紅麹の酒など甘い酒が中心であり、また、好まれた。多くの詩人が飲酒をテーマに漢詩で唱った。
酒の中でも葡萄酒は、高昌国を制圧したことで、葡萄と醸造技術が伝えられ、葡萄酒の味が向上し、広まっていった。葡萄酒は紅のものと、白のものがすでに存在していた。葡萄酒は西涼州産が最高級のものとして知られていた。また、果実酒も存在した。杯は木製、陶磁器は主流であったが、高級なものに白玉製やガラス製があった。
当時の酒宴は、食事が終わって酒を飲んだ。酒宴は午後にはじまり、日暮れに終わり、夜に酒宴を行うと照明に多額の費用がかかった。相手に酒を奨める時は、杯に酒を酌んで奨めた。順次に一人ずつ杯から酒を飲み、一斉に飲むことはなかった。また、酒宴の時に音楽が奏でられ、歌が歌われることがあった。歌舞は楽人や妓女たちだけでなく、主人や客から行われることもあった。
冬の季節には、遊牧民族が行うゲル(氈帳)を邸宅の庭に設置し、中に炉を置いて、酒宴を行う風習も存在した。
酒宴の時に行われる様々な遊戯は、酒令と呼ばれた。酒令の遊戯は文学的なもの多かった。参加者は20名程度を標準とし、主人の他に酒を管理する「明府」、酒宴を運営する二名の「録事」が定められた。遊戯には、壺に矢をいれて数を競う「投壺」、二組に分かれて相手の組のうち背にものを持った人物をあてる「蔵鈎」、盆でものを隠して、なにが入っているかを当てる「射覆」があった。いずれも負けた場合には、罰杯が課された。唐代には、「指巡胡」という片手をあげた胡人の人形を回し、倒れた人形の指が示した人物が罰杯を飲むという遊戯が生まれた。また、「骰子令」というサイコロを使った遊戯もあった。複雑なものとして、「律令」という古典を利用した遊戯があり、その中には、筒の中にいれた籤をひき、そこにある古典を模した言葉により、罰杯の相手を決める「酒籤」や古典の知識を競い合うものがあった。また、「著辞令」というで即興で詩をつくり、曲をつけるものがあった。


喫茶と茶道
茶の普及は唐代になって行われた。南北朝時代までは南方における習慣であったが、統一王朝である唐が安定したため、物流が確立し、北方にも流通した。また、後趙時代から禅宗の寺において、禅修行のため、眠気覚ましに覚醒作用のある茶を飲むことが許されたため、在家の仏弟子たちの間で飲まれており、北方にも次第に普及した。
盛唐になり、茶の普及が広がっていくなかで、陸羽が、上層階層向けに、史上はじめての茶の専門書である「茶経」を書き、喫茶を規範化する動きが行われた。それ以前は、茶には、生姜や蜜柑の皮、葱、紫蘇などをいれ、飲んでいたが、「茶経」では茶が持つ真の味を損なうとして、新たな喫茶や茶の煎り方を薦めている。そのため、文人や官僚の間で喫茶の形式化が進むことになり、「茶道」という言葉も生まれた。茶は皇族や貴族、官僚に浸透し、風習にまでなった。9世紀になり、茶は、「荼」という字で表されていたが、「荼」は「苦菜」の意味も含むことから、独立して「茶」という字で表されることになった。茶は南方で採り、北方では固められ、「餅茶」として運ばれた。飲むときは、粉にして抹茶の形にして飲んだ。次第に北方でも茶を生産するようになる。北方の随所に茶を売る店や茶店が生まれ、飲まれるようになった。
茶には塩や生姜をいれる風習は続いた。「餅茶」だけでなく、「散茶」も存在した。晩唐には、「点茶」が生まれた。
また、唐代には禅宗の寺だけでなく、寺全般に茶を普及し、禅宗では喫茶は宗教儀礼の中に、茶礼として組み入れられていった。寺院では需要に応じて、茶園がつくられていた。
「餅茶」は、茶の主流もあり、保存・運搬ともにすぐれ、回?に好まれ、「茶馬交易」が行われ、日本にも伝来した。茶の生産・消費の増大とともに、780年には茶税がはじまり、課税され、唐政府の重要な財源となった。835年に、全て官営茶園で独占しようとする動きがあったが、猛烈な反対に遭い、中止となっている。





散楽と劇
散楽は、「百戯」とも呼ばれる民間で行われる様々な娯楽のための技芸の総称である。次第に西域の技芸が取り入れられるようになり、盛唐では、宮廷でも左右教坊によって管轄された。散楽は、民間の音楽や角觝など武術、芝居も含まれるが、主流は曲芸や幻術(手品)、であった。内容は、竿木、縄伎(戯縄ともいう)、舞馬(象で行うこともある)、跳丸、弄剣、筋斗(とんぼ)、球伎、馬伎、呑刀、吐火、舞剣、植瓜、種棗、盤舞、杯盤舞などがあった。
竿木は、唐代には特に盛んであった。高い竿を頭に乗せて動く、あるいは、他の者が、頭に乗った状態の竿に登る技芸であった。登る人の軽業も筋斗(とんぼ)や逆立ちを組み合わせた。竿の上に物を載せることもあった。
縄伎は綱渡りのことであり、音楽に合わせて高下駄をはいた女性が縄の上でお互いに交差するもの、長竿を足に結んで渡るもの、渡るものの肩の上に二人が乗るものなど変化の多かった。
馬伎は、教坊にいる内人の女性によって行われ、鎧を着て、馬に乗り、弓を射て、刀剣を扱うもので、馬上で様々な技芸を行い、多数で様々な陣を形作った。
滑稽劇は、従来からの舞踏劇に加え、唐代には「参軍戯」という滑稽な演劇が流行した。参軍戯は、動作や台詞に加えて、音楽や歌舞もあり、女優もいた。参軍戯を得意とするものは、宮廷のみならず、民間にもいた。また、「踏揺娘」という歩きながら歌う滑稽な歌舞劇も生まれた。舞踏劇では、「大面戯」という蘭陵王を題材にとったものがよく行われた。
人形劇は唐代には盛んであり、人形は「傀儡子」、人形劇は「傀儡戯」と呼ばれた。糸で関節が動く木彫りの人形を操って動かすもので、精巧な人形が巧みに動かされて、演劇が行われたと伝えられる。「郭公」という禿頭の滑稽劇が人気であった。
散楽は、宮廷だけではなく、皇族や貴族の邸宅で行われた。また、長安には、大慈恩寺、青竜寺、大薦福寺、永寿寺などの寺の境内や門前に「戯場」が置かれ、散楽が演じられた。
安史の乱以後は、散楽も、各地の節度使のもとや地方の州で行われるようになった。


牡丹の流行
牡丹は当時の世界で最も花卉園芸が盛んであった唐において代表となる花であった。
牡丹は、武則天によって、郷里の太原から長安に移植され、洛陽に遷都した時に移され、次第に全国に伝わったとされる(ただし、発見されている牡丹の野生種は中国西南の山地が中心である)。また、武則天が、古来からの名である「木芍薬」から「牡丹」に改名したとも伝えられる。牡丹はまた「富貴花」とも呼ばれ、「百花王」ともうたわれた。
玄宗時代に、牡丹は爆発的に流行し、唐代の終わりまで流行は耐えなかった。玄宗は興慶宮の沈香亭に植えられた牡丹を楊貴妃とともに観賞することを好み、華清宮にも植えていた。文宗も牡丹を好み、中唐以降では、漢詩の「花」は牡丹を指した。
長安では、牡丹の盛んな時期には、人々が牡丹を求めて、20日間ほど長安中の名所を車馬や徒歩で行き来した。また、毎年3月5日に牡丹を陳列し、街の人を招いて、見栄えの良さが競われた。長安の人々は牡丹のために狂奔して金を惜しまず、珍奇な牡丹は数万銭をすることもあった。牡丹の花で知られた官僚や武将の屋敷も存在し、破産するものもあったと伝えられる。そのために園芸業が繁盛した。
長安の牡丹の名所は、慈恩寺、西明寺、崇敬寺などが知られていた。慈恩寺の牡丹は場所によって、長安で一番初めに咲き、また、最後に咲いたと伝えられる。西明寺は、牡丹の時期には寺の一部が開放され、唐代を通じて最も良く知られていた。官庁でも牡丹が植えられ、名所になることもあった。総じて、紫色、紅色の牡丹が好まれ、後に黄牡丹が現れ、白い牡丹は人気が薄かったとされる。


異国趣味
唐代は、西域のものを中心とした異国の文物が好まれ、盛唐の長安、洛陽において、特に盛んであった。長安では貴族から庶民から、ペルシア、インド、ソグド、突厥の絵や飾りがつけられた工芸品が使われた。ペルシア語や突厥語の言語や文字が学ぶ者もいた。
西域や突厥の影響を受けた衣類、食事に加え、天幕などの住居も流行した。音楽や舞踊も西域のものが愛好された。画家による異国人や異国の神々を題材に描いたものが多数存在し、壁画に残っている。塑像でも異国人をモデルにしたものが作られ、仏像も異国の影響が強いものが作成された。百戯の一部となる曲芸や幻術も伝来した。
また、多くの唐詩で異国人や異国の動物が題材として唱われた。
中唐以降は、異国品は身近なものではなくなっていったが、異国を題材とした文学が、より盛んとなった。李賀、杜牧などが唐詩に用い、多くの伝奇小説が書かれた。
異国人[編集]
唐は比較的、胡人と呼ばれる異国人に寛容であったため、唐代では胡人が各地に居住していた。胡人は、長安、洛陽、広州、揚州などの商業取引が盛んな大都市や市場がある中都市に集まっていた。胡人は、西域から来たソグド人、北方の突厥人や回?人が特に多かった。胡人は、唐代以前に、中国西北部に集落をつくり、唐の建国後移住するものが多かった。彼らは、商人だけでなく、宗教家、画家や楽士、工芸家、曲芸師などがいた。
胡人は、居住区を区別され、都市の胡人居住地においては、それぞれの長が選ばれ、紛争は自国の法律で裁くことが定められ、他国同士の紛争は唐の法律で裁かれた。胡人は、唐で死んだ場合、妻子がいなければ、財産は国の所有になった。また、唐の女性を妻妾にした場合は連れ帰ることは許されなかった。
胡人の商業に対する規制は強く、朝貢や関税の形をとって、商品を一部差し出す必要があることが多かった。さらに、交易を行う商品は制限された上で、大きな市で販売をしなくてはいけなかった。また、輸出品も大きく制限された。それであっても、胡人の商人は成功するものが大勢いた。彼らは、利益を得るため、各地に赴いて、商取引を行い、大金で交易するものも数多かった。また、長安には邸店を開いていたペルシャ人もいた。
長安を中心とした高級な酒場である旗亭や酒楼では、胡姫と呼ばれる若いソグド人の白色人種の女性が働いていた。彼女らの中では、唄や胡旋舞などの踊りに長じるものも多かった。
初唐や盛唐では節度使などの唐政府の要職に就くことが多かったが、中唐以降は、服装や結婚、不動産所有が規制されることが増え、唐全体として排外主義の思想が強くなった。
宗教としては、長安には、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、密教の寺院が建立され、9世紀の武宗の宗教弾圧までは様々な宗教が混在していた。


無頼と刺青
安史の乱後の客戸とよばれる農業人口移動の増大や都市の発展とともに、唐代後半に大きな存在になったのが、無頼である。
遊民層にもっとも目立つ存在で、生業につかず、規範や道徳を嫌って衝突する人間たちが無頼と呼ばれた。無頼はまた、博打を好んだため「博徒」と呼ばれ、暴力を誇り、都市の市場を主な活動範囲としていた。彼らは出身階層に関わらず、個人の資質によって存在した。若者が多かったため、悪少年、軽薄少年とも呼ばれた。無頼となり、家族や故郷と別離して都市に流れてくるものも多く、長安に客戸坊というスラム街をつくっていた。彼らが治安を乱すことが多く、盗賊になることもあった。大室幹雄は、彼らの行動動機は「生の過剰」によるものであると評している。[14]
唐政府は無頼を弾圧したが、府兵制崩壊後は、無頼が募兵の重要な供給源となり、罪を犯しても軍に逃げ込み、逃れるものが多く、無頼は次代の五代十国時代にはさらに増加した。また、無頼の組織化もはじまっていた。
盗賊となった無頼には、強盗の時に殺人を行い、食人するという習慣が生まれていた。宿屋に絵を描き、仲間に連絡を行うということもなされていた。
この時代、かつては犯罪者の証であった刺青が流行し、無頼の多くが刺青を行っていた。左右の腕には漢詩を彫ることが多く、全身に漢詩全てを描くこともあった。背中に毘沙門天や、全身くまなく、蛇などを彫る技術も存在し、刺青を彫ることを商売にしているものもいた。刺青は傷をつけて墨をいれるもの、針がついた印で押して墨を刷り込むものがあり、様々な技術と工夫があった。


遊侠と奢豪
遊侠について、中唐の李徳裕は「豪侠論」において、『さて、侠はおそらく非常の人である。己の身を人に委ねることを承諾するけれども、かならず節気(義に偏ること)を本とする。義は侠でなければ立たず、侠は義でなければならない』、『気に任せて義を知らない士は盗というべきである』と述べ、明確に遊侠を「義」によって盗賊を区分している。[15][16]
唐代では、生業につかず、規範や道徳を嫌う無頼と同一化されることも多いが、無頼の中で、「義」を自身の基礎倫理として活動したものが遊侠や侠客、富裕層でも遊侠と交わり、あるいは養う、遊侠と似た行動を行ったものが「豪侠」などと呼ばれた。
遊侠は、生業につかず、規範や道徳を縛られずに反抗して、自分を得ることに快感をおぼえた。唐代の遊侠は、古代の遊侠と異なり、目立った異風の風体をし、刺青を行い、それをみせびらかすことを好んだ。また、闘鶏、鷹や犬を使った狩猟、剣術、騎馬、射撃、博打、飲酒、宴会、妓女との交歓などの遊戯を積極的に楽しみ、優れた技能を見せつけ、自分たちが他者と異なることに喜びを感じた。彼らは疾走や軽業などすぐれた肉体的技能を持つものが多かった。盗賊の仲間になり、犯罪を犯して他人から財産を奪うものも多く、「五陵」などの土地に遊侠が集まることもあった。剣侠と呼ばれる剣を操る技能を誇り、刺客を兼ねるものもいた。刺客は、飛天夜叉の術と呼ばれ、遊侠の優れた跳躍や疾走、軽業、剣術を示す記録が残っている。また、敵討ちなどを行う女侠と呼ばれる女性の遊侠も存在したことが、当時の「豪侠小説」や李白の詩で散見される。
ただ、他の無頼と識別する点として、遊侠が義挙を行うことがあげられる。彼らは義侠心に基づき、弱者に味方し、強者に逆らった。具体的には、恩に報い仇を討ち、逃亡者を救い、役人に抵抗し、貧民や弱者を救うことなどを好んで行った。唐代は法律が整備され、役人を攻撃する事件は少なかったが、組織をつくり、都市の交通や経済に要衝になわばりを持つ「大侠」と呼ばれるものもいて、逃亡者を助けた記録が残っている。また、刺客としても標的に義があると判断した時は暗殺をとりやめることがあった。
遊侠は様々な手段で生計を立てていた。その勇猛さや武術により、高官に招かれ、その刺客や食客になるものが多かった。また、遊侠を好む豪族や豪商とつながって非合法な行為を含めた経済活動を行うものもいた。盗賊となり、民から略奪を行うものもいた。ただ、唐代では、政府からの豪族の独立指向が薄くなり、政府から見れば違法な行為を含めた自立のために遊侠を招くことが減少した。しかし、安史の乱後、地方の藩鎮は独自の軍事力を欲し、遊侠や刺客などを大勢招き、政敵の暗殺などを行わせた。
遊侠は、任侠が流行していた隋代を受け継ぎ、唐建国の軍事における功臣たちは遊侠出身のものが多く、太宗も若年時代は、好んで遊侠の人と交流したことが伝えられる。盛唐時代になると、土地を捨て客戸や盗賊となるものに、遊侠が少なからず存在した。また、豪族や富豪、文人に遊侠に似た行いをするものが多かった。長安には、遊侠が多数存在し、恩義に報いる刺客も多かったとされる。この時代に、李白は作品において、遊侠の生き方を絶賛している。安史の乱後は、社会不安となり、遊侠の活動は増し、不法行為を行うものが増えた。その後は、平時が続いたが、藩鎮勢力が遊侠を集め、刺客により唐政府の要人が暗殺されるなど、刺客が各地にあらわれるなど、遊侠の存在は大きいものであり続けた。唐末の反乱や戦乱において、再度、遊侠の活動は活発となった。
唐代は特に遊侠を称える詩が多く、詩人たちが、遊侠たちに多大なる好意と尊敬をよせていたことが分かる。辺境の軍事に志願して従軍する勇気が、多数の詩人たちに称えられ、中唐時代の遊侠については、多くの「豪侠小説」で記述されている。当時の遊侠の筆記の記録者や伝奇小説の作者の姿勢は、盗賊に関する記述と違い、明らかにある種の賛嘆や共感が伺える。
なお、「豪侠小説」における遊侠たちの身体的能力のイメージは、当時の散楽(百戯)の技芸が影響しているという説もある。
奢豪とは、富裕層のうち、贅を尽くして財力を顕示するものを指した。彼らの多くは皇帝の側近であった。また、財力が豊かであり、贅を尽くした上で、四方から客を招くものが巨豪と呼ばれていた。彼らのうち、役人や科挙受験生らを援助するものがあり、彼らは朝廷へ影響力を持っていた。




虎と狐への信仰
唐代の説話に残る怪談に出てくる代表的な獣が虎と狐である。
虎は、農村部では身近にいる人間を食べる危険な猛獣として怖れられ、旅人や農民が襲われ、人々と敵対する事例が多数あった。
酉陽雑俎によると、『虎が交尾すると月に暈がかかる。虎が人間を殺すと、死体を立ち上がらせ衣を解かせてから食べる、夜、見る時、一つの目から光を放ち、もう一つの目でものを見る』とされる。
また、別説では四つ指を「天虎」、五つ指を「人虎」と呼ぶという。
唐代の説話では、李徴などにように、人が突如、変身して、心身ともに虎に化すもの。虎の皮を着て虎に変身してしまうもの。「?鬼」という食した人間の霊を家来として虎が操るもの。人が虎の皮を着て虎として使命を果たしているというもの、さらに虎に襲われた話や、虎狩りの話など多様の説話が残されている。
総じて、虎と人との精神の違いの表現、虎の皮に大きな意味を持たせていることが多く、虎は、神秘的で霊的な生き物として畏敬を払われていた。
狐は、古来より強い力のある霊獣とされ、人に変化し、千里の外を知り、蠱魅で人の知覚を失わせ、千年生きれば「天狐」となるとされてきた。初唐では、農村では狐の信仰が盛んで、家屋で祭って祈り、飲食物を人間と同じものを与え、『狐魅がなくては村は成り立たぬ』という諺があり、民間信仰では天狐が特に重視されていた。
酉陽雑俎によると、狐は紫狐と呼ばれ、夜、尾をたたくと火を出す。髑髏を頭に乗せて北斗に礼をして、髑髏が頭から落ちなければ、人間に変身する。天狐は、九尾、金色で陰陽に透徹するとされる。
唐代の説話では、天狐は大きな力を持ち、人を狐媚で操り、並の道士や神よりはるかに強いが、力の強い道士や仙人、神には劣るとされることが多い。また、人間に積極的に害をなすよりも、人に化け、人間に婚姻を求めたり、婚姻を結んだ人間を援助を行う傾向にある。天狐は民間信仰の神と妖怪の境界にいた存在とされる。








■ 女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものがあった。
人日の剪彩
陰暦の正月七日は「人日」 である。この日、宮中でも民間でも、女性は美しい色彩の絹布をとりだして、花、葉、鳥などの図案をはさみで切り抜く。「閏婦は刀を持して坐し、自ら憐む 裁ちて新しきを乗るを。葉は催して情は色を綴り、花は寄せて手は春を成す。燕(燕の模様の努紙)は帖めて敷戸に留め、鶏(鶏の模様の努紙)は謝りて餉う人を待つ。撃ち来って夫婿に問う、何処ぞ真の如からざらん」(徐延寿「人日華麻」)。上手にできれば、それを木に飾ることもあれば、それを空に飛び散らせる人もあった。こうした勢彩は主に節句のめでたさを盛り上げるために行ったのであろうが、また女性たちはこの機会を借りて自分の器用さを人に誇ったのである。
* 人日は一月一日から六日まで各種家畜の成育を占い、七日が人、八日が穀物の占い口であった。これは年頭に豊凶、吉凶を占う習俗であり、古代日本にも伝わった。


蕩鞦韆(ぶらんこ蕩ぎ)
この女性の遊びは、毎年、寒食(清明節の前二日の節句)と清明節(冬至から一〇六日目、春の到来を祝う)前後に行われた。「天宝年間、宮中では寒食節に至ると、鞦韆を作って宮婦たちを乗せて宴楽とした。これを半仙の戯?(半分仙人気分となる遊び)とよんだ」(『開元天宝遺事』巻下)。民間の女性もぶらんこをして遊んだ。唐詩に、
「少年き児女は鞦韆を重んじ、巾を盤け帯を結んで両辺に分かつ。身は軽く裙薄く 力を生じ易し、双手は空に向き 鳥の翼の如し。下り来り立ち定まりて 重ねて衣を繋ぎ、復た斜めの風の 高きを得ざらしむるを畏る。傍人 上に送る 那ぞ貴ぶに足らん、終に鳴?を賭け 聞いて自ら起つ。回り回って高樹と斉しかるが若く、頭上の宝釵 従って地に堕つ」(王建「鞦韆詞」)。
また別の詩に、
「五糸もて縄を繋ぎ 墻を出ること遅く、力尽き纔かに?りと隣の圃を見る。下り来って矯く喘ぎ末だ調うる能わず、斜めに朱闌に借りて久しく語無し」(韓?「鞦韆」)とある。これらの詩からみると、少女たちはぶらんこが大好きで大いに勝負を争い、時にアクセサリーまで賭けて、誰が最も高く揚がるか競った。
韓?《鞦韆》
池塘夜歇清明雨,繞院無塵近花塢。
五絲繩?出牆遲,力盡才?見鄰圃。
下來嬌喘未能調,斜倚朱欄久無語。
無語兼動所思愁,轉眼看天一長吐。

王建《鞦韆詞》
長長絲繩紫復碧,??枝高百尺。
少年兒女重秋千,盤巾結帶分兩邊。
身輕裙薄易生力,雙手向空如鳥翼。
下來立定重系衣,復畏斜風高不得。
傍人送上那足貴,終賭鳴?鬥自起。
回回若與高樹齊,頭上寶釵從墮地。
眼前爭勝難為休,足踏平地看始愁。

浣渓沙五首 其二
欲上鞦韆四體傭、擬教人送又心?、畫堂簾幕月明風。
此夜有情誰不極、隔墻梨雪又玲瓏、玉容憔悴惹微紅。
(浣渓沙五首 其の二)
鞦韆【しゅうせん】に上らんとして四体慵【ものう】し 人をして送らしめんと擬【ほっ】するも又心 ?【おどろ】く、畫堂の簾幕に月明らかに風ふく。
此の夜情有るを誰か極めざらん、墻【かき】を隔てて梨雪又玲瓏【れいろう】たり、玉容憔悴して微紅惹【みだ】る。
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-2韋荘80《巻2-30 浣渓沙五首 其二 (欲上鞦韆四體傭)》二巻30-〈80〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5602

闘百草(百草を闘わす遊び)
五月五日の端午の節に摘み草を比べ合って遊んだ風俗
草花を採ってその優劣を競う遊びで、端午の節句の前後、百草の生い茂る頃に行われた。「帰り来って小姑に見え、新たに放って百草を弄しむ」(劉駕「桑婦」)、「閑来に百草を闘わし、日を度るも敗を成さず」(雀顛「王家少婦」)などと詩に詠われでいる。これは主に少女たちの遊びであろう。中宗の時代、安楽公主は五月五日の「闘百草」 の時、出し物を豊富にするために、わざわざ人を南海のある寺院まで派遣して、南朝宋の謝霊運が臨終の時に寺に寄進した美害(ほほひげ)を取り寄せて、百草遊びの賭け物とした(『隋唐裏話』巻下)。この「闘百草」という遊びは、恐らく草の品種で勝ち抜けを競ったものと思う。それで安楽公主は、謝霊運のほほひげを草の一種のように装って賭け草にするという、奥の手を考えついたのであろう。

弓子団子
端午の節句に、宮中の女性たちは団子を作り、それを小さな弓で射る遊びもした。「粉団で角黍(粽)を造り、金盤の中に貯く。小さな角で弓子を造るが、うっとりするほど繊細巧妙である。箭を架えて盤中の粉団めがけて射かけ、当たれば食べでもよいが、粉団は滑威して射ぬくのは難しい」(『開元天宝達事』巻上)。この遊びは宮中だけで行われたらしく民間には普及しなかった。

七夕の乞巧(針仕事の占い)
旧暦七月七日の夜の針仕事の占いは、一年の中で女性にとって最も重要な祭日だった。この日の晩は宮廷でも民間でも祭壇をつくり、鄭重に線香、果物、酒などをお供えして、香を焚いて牽牛と織女の二神を祭り、音楽を奏して宴会を開き、賑やかに過ごした。女性たちは織女に様々なお願い事 − 針仕事が上手になるように、幸せになるようにと願い、また「困難を乗り越え、手と目がさらによく利き、織りも縫いも心のままにできるよう」お願いした(『柳河東集』巻一八「乞巧文」)。この夜、女性たちは月に向い針に糸を通してみる。うまく通れば上手になると解釈した。宮中の女性たちは、次のような新しい占いもした。「宮女たちは、瓜の花と酒食を庭に並べて牽牛と織女に願いごとをした。また各人が蜘株を捉えて小さな盆の中に入れ、蜘妹がかける巣の糸が粗いか細かいかを見て、自分の針仕事が上手か下手かを占った」(『開元天宝達事』巻下)。

拜新月
「幼女綾かに六歳、末だ巧も拙も知らず。向夜堂前に在りて、人に学んで新月を拝む」(施肩吾「幼女詞」)、「東家の阿母も亦た月を拝し、一拝一悲 声断絶す。昔年 月を拝しては容輝を蓮 にし、如今 月を拝しては双すじの涙垂る。衆女の 新月を拝するを回り看て、却って憶う紅閏の年少の時」(張婦人「新月を拝す」)、などと唐詩に歌われている。拝月はもちろん新月が初めて出た時に行う。古代の小説や戯曲の中に家庭の女性が拝月する情景がしばしばでてくる。それらによって、拝月は昔から女性たちがお月様に願いごとをする機会であったことを知るのである。
新月 二日月 三日月 上弦の月



蔵鈎(鈎隠し)
「蔵鈎を得て多少を語らん(数を当てん)と欲し、嬢妃官女は相い和すに任す。朋毎に一百人を定(定数)となし、三千匹の森羅を遣勝る」(羅宗涛『教壇変文社会風俗事物考』台北文史哲出版社、一九七四年より引用)。これは双方百人ずつが勝負を競う集団的な遊びで、これは宮中の女性だけに盛んに行われたもののようである。
* 鈎とは、とめ金、帯どめなど、先端が曲っている金属製の小物の総称。


動物の飼育
「年は二八(十六歳)、久しく香閏に鎖こめられ、禍児(狩)と鶴鵡を相手に戯ぶのが愛き」(『敦煙変文社会風俗事物考』より引用)とあるように、家庭の少女や婦人、それに宮中の女性たちは常に鶴鵡や犬などの小動物を友として飼い、寂しさをまざらわせていた。楊貴妃が飼っていた鶴鵡は雪衣女といい、犬は康国(中央アジアのサマルカンド)から献上されたもので、どちらも高貴な品種であった。宮女や妃妾もまた常に小さな金の龍に蟻蜂を捉えて飼い、夜枕辺に置いて鳴き声を聞き、孤独の苦しみをまざらわせた。後に、この風習を民間が争ってまねるようになり、蟻蜂を飼うのを娯楽とした(『開元天宝遺事』巻上)。






■ 唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。

元宵節観燈(燈龍の見物)
元宵節(正月十五日)の燈会は、婦人たちが遊びに出かけるのに最もよい時であり、民間の女性ばかりでなく、后妃や宮女たちも観燈のために外出できる機会であった。中宗の時、宮女たちが見物に出かけたところ、多くの宮女が失踪して帰らなかった。容宗の時代、ある年の元宵節に官府は宮女たち数千人を集めた。彼女たちは三日間踏歌(腕を連ね足踏みしながら舞う踊)をして、歓楽の限りを尽したという(『旧唐書』中宗紀、『朝野愈載』巻三)。

春薪踏青(ハイキング)
正月十五日以後から三月の清明節の前後にかけて、人々は盛んにハイキングをしたり、野宴を催したりして楽しんだ。女性も春のハイキングに巻き込まれ、一年の内、最も愉快で自由なめ日を楽しんだ。「長安の男女は春の野を遊歩し、名花に遇えば敷物を広げ、紅い 裾を順番に挿し掛けて、宴の幌とする」、「都の男女は、毎年正月半ば過ぎになると、各おの車に乗り馬に跨り、園圃(農園)あるいは郊野(郊外の野原)の中に帳をしつらえて、探春の宴をする」(『開元天宝遺事』巻下)。こう見てくると、春の野に遊宴を催すとは、何と現代的なことかと思う。長安の曲江池、楽游原などの景勝の地は、ひとたび新春が訪れると女性たちがみな押しょせて見物したり笑い合ったりする場所であり、その他の景勝地もみな同様であった。唐詩の中には女性たちが春を楽しむ情景を歌ったものが少なくない。李華の詩「春遊吟」 に、「初春 芳句(春の野)遍く、千里 藷として職に盈つ。美人は新しき英を摘み、歩歩 春緑に玩る」とあり、また施肩吾の詞「少婦遊春詞」 に、「錦を集め花を轢めて勝遊を闘かわせ、万人 行く処 最も風流」とある。杜甫は「麗人の行」 の中で、貴婦人たちの訪春の情景を「三月三日 天気新なり、長安の水辺 麗人多し」と描写した。張萱の 「?国夫人游春図」は、さらに生々と唐代貴婦人の游春の情景を再現している。

芝居見物
劇場で芝居見物することも、唐代の女性たちが最も好む娯楽だった。宣宗の娘万寿公主が慈恩寺の演芸場に行って芝居を見たのも、その一例である(『資治通鑑』巻二四八、宣宗大中二年)。

ポロ見物
女性は自らポロに参加したばかりでなく、見物もまた楽しみだった。李潮は桂管(広西省桂林)観察使となった時、名儒の呉武陵を招いて副使にした。彼らが球場で宴会をしていたところ、この孔門の弟子は、女性が観覧席で群れをなしてポロを見物しているのが気に入らず、あろうことか観衆の前でズボンを脱ぎ小便をしていやがらせをした(『太平広記』巻四九七)。結局、この行為によって道学先生が人前で物笑いとなったのか、それとも女性たちが恥ずかしくなって球場から出ていったのか、今は知るよしもない。
種々の節句の祝典や冠婚葬祭などに当ると、女性たちは好んで外出し、大いに遊び騒いだ。そうした記録は少なくない。裏陽公主(高祖李淵の次女)は、「市里を併行する」 のが大好きだった(『旧唐書』李宝臣附李惟簡伝)。また、『集異記』(巻二)に、「憲宗の墓を遷し変えた時、集州司馬の職にあった襲通達の妻、娘などが車に乗って通化門に行って見物し、夜遅くなってやっと帰った」とある。また、『太平広記』(巻二三)に「剣南節度使の張某は、華陽(陳西省洋県)の李尉の美貌の妻を一目見ようと思い、特別に各寺々に宝物などの陳列をするように命じ、女性たちを見物に誘い出そうとした。果して李の妻もその夜見物に現れた」という。

外出遊覧という娯楽は、彼女たちの心身をのびやかにさせたばかりではなく、彼女たちに異性との自由な交際と恋愛の機会をも与えたのである。
ポロ見物