硯は見るだけでも楽しい。


気に入った筆を持てば、いつも書きたくなる。


墨はいい墨に出会うといろいろ工夫して書いてみたくなる。


書斎の周辺に気に入った小物を置いて楽しむ。


文房四寶
この四つの文房具の中でも特に硯が重んじられ、多くの文人に愛でられる対象となった。使用しても消耗することがなく、骨董価値が高かったためである。次に墨・紙という順で、筆は新しくないと実用的でないので骨董的な価値に乏しく、愛玩の対象とはあまりならなかった。

唐代においても硯や墨の優劣について論じたという記録があるが、南唐文化の影響を色濃く受けた宋代以降に文房四宝が語られることが多くなった。硯は端渓硯が最も有名であるが、歙州硯も同じくらい賞玩され、墨も歙州に名工と評される李超・李廷珪父子が名を馳せ、張谷もこの地に移ってきた。紙についても、歙州にて澄心堂紙という極めて良質の紙が産出された。宋初には硯・墨・紙について、歙州は代表的な生産地となっていた。これは南唐の国王である李中主・後主の親子2代にわたる工芸優遇政策によるところが大きい。工人に官位を与え俸禄を優遇したため、優秀な人材が集まり、技術が高度化して、優れた製品を継続的に生産できるようになったのである。

南唐期の文房四宝は歴代皇帝に珍重され、復元が試みられた。また、葉夢得・唐詢・欧陽脩・蘇軾・米?・蔡襄など著名な文人、書家も重用した。

毛頴傳 唐 韓愈


§-1      §-1  §-2  §-3  §-4  §-5 

毛穎とは、「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。
筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。(5分割掲載)

 
§1-1
毛穎者,中山人也。
其先明?,佐禹治東方土。
養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。
嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。
當吐而生。」
已而果然。
§1-2
明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊?娥、騎蟾蜍入月。
其後代遂隱不仕云。
居東郭者曰 泗\,
狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。
盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。

§2-1
秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。
將大獵以懼楚。
召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。
得天與人文之兆。
§2-2
筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。
缺口而長鬚,八竅而趺居。
獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。
秦其遂兼諸侯乎!」

§2-3
遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,
獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。
秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。
曰見親寵任事。

§3-1
穎為人,強記而便敏,自結繩之代以及秦事,無不纂?。陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。
§4-1
累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生○8友善,相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒?往,上未嘗怪焉。

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠○7謝。上見其髮禿,又所?畫不能稱上意。上?笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。
§5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。其一?姓,文王之子,封於毛,所謂魯、衛、毛、?者也。戰國時有毛公、毛遂。獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名,而?姓之毛無聞。穎始以俘見,卒見任使,秦之滅諸侯,穎與有功,賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

807年-08元和二年40歳毛頴傳-#1
昌黎先生集 昌黎文巻八02
全唐文/卷0567/5807年元和2年40?漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10135

(1)§1-1毛穎傳
(筆を人に擬し、筆の姓を穎として伝を立てたものである。)
毛穎者,中山人也。
毛穎というものがいる、中山の人である。
其先明?,佐禹治東方土。
その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。
養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。
万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。
嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。
明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。
當吐而生。」
だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。
已而果然。
やがて果たしてその通りになった。
§1-2
明視八世孫,世傳當殷時居中山,
明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、
得神仙之術,能匿光使物,
神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。
竊?娥、騎蟾蜍入月。
?の妻?娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。
其後代遂隱不仕云。
其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。
居東郭者曰 〈泗\〉,
東の城郭付近に屠る者は氓ニいった。
狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。
すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。
盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。
それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、氓殺して、その一家のものすべてを殺して"肉びしお"にした。

(1)§1-1
毛穎という者,中山の人なり。
其の先は明?,禹を佐けて東方の土を治む。
萬物を養いて功有り,因りて卯の地に封ぜられ,死して十二神と為る。
嘗て曰く:「吾が子孫は神明の後,與物と同じかる可からず。
當に吐いて生むべし。」と。
已にして果して然り。
§1-2
明視 八世の孫,世に傳う 殷の時に當って中山に居り,神仙の術を得て,能く光を匿し物を使い,?娥を竊み、蟾蜍に騎りて月に入る。
其の後代 遂に隱れて仕えずと云う。
東郭に居る者を〈泗\〉【しゅん】と曰う。
狡にして善く走り,韓盧と能を爭い,盧 及ばず。
盧 怒りて,宋鵲と謀りて之を殺し,其の家を醢【かい】にす。


作時年:807年元和2年40?
全唐詩卷別:全唐文/卷0567/5文體:雜文(俳諧文)
昌黎先生集 昌黎文巻八02韓愈全集校注〔三〕一六九三
詩題:毛頴傳
序文#1
作地點:長安 國子博士 
及地點:洛陽分司 (國子博士)
交遊人物:00


『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(本文)
§1-1
毛穎者,中山人也。
其先明?,佐禹治東方土。
養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。
嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。
當吐而生。」
已而果然。
§1-2
明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊?娥、騎蟾蜍入月。
其後代遂隱不仕云。
居東郭者曰 泗\,
狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

(下し文)
(1)§1-1
毛穎という者,中山の人なり。
其の先は明?,禹を佐けて東方の土を治む。
萬物を養いて功有り,因りて卯の地に封ぜられ,死して十二神と為る。
嘗て曰く:「吾が子孫は神明の後,與物と同じかる可からず。
當に吐いて生むべし。」と。
已にして果して然り。
§1-2
明視 八世の孫,世に傳う 殷の時に當って中山に居り,神仙の術を得て,能く光を匿し物を使い,?娥を竊み、蟾蜍に騎りて月に入る。
其の後代 遂に隱れて仕えずと云う。
東郭に居る者を〈泗\〉【しゅん】と曰う。
狡にして善く走り,韓盧と能を爭い,盧 及ばず。
盧 怒りて,宋鵲と謀りて之を殺し,其の家を醢【かい】にす。

(現代語訳)
(筆を人に擬し、筆の姓を穎として伝を立てたものである。)
毛穎というものがいる、中山の人である。
その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。
万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。
明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。
だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。
やがて果たしてその通りになった。
明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。?の妻?娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。
其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。
東の城郭付近に屠る者は氓ニいった。
すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。
それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、氓殺して、その一家のものすべてを殺して"肉びしお"にした。

(訳注) (1)§1-1
毛穎傳
1. (筆を人に擬し、筆の姓を穎として伝を立てたものである。)
2. 毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。
筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

毛穎者,中山人也。
毛穎というものがいる、中山の人である。
3. 中山 江蘇省?水県の南にある山の名。安徽・江蘇の界にあって兎の毛を多く産する。筆の良い材料である。

其先明?,佐禹治東方土。
その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。
4. 明? 明視に同じ。兎の名。『礼記』曲礼に「兎を明視といふ」とあり、明視は祭祀用の免のみをいう。
5. 東方 十二支の卯を東方に当てる。卯は動物の兎とする。故に卯の地に封ぜらるという。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。
万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。
6. 十二神 十二支のこと。各々動物をあて、卯は兔である。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。
明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」
だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。
7. 吐而生 兎の音は吐、『論衡』に 「免は毫を舐めて孕み、其の子を生むに及んで口より出だす。名づけてはん?と日ふ。俗に呼んで?といふ」とある。?は兎の子の名称。これを八世の孫の名とする。口から生むというのは、生児の胞衣を舐めて清めるのを、口から生んだと見た。

已而果然。
やがて果たしてその通りになった。

(2) §1-2
明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊?娥、騎蟾蜍入月。
明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。?の妻?娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。
8. 竊?娥、騎蟾蜍入月 ?娥は嫦娥。嫦娥(じょうが、こうが)は、中国神話に登場する人物。后?の妻。古くは?娥(こうが)と表記された。
『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后?が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられる。
別の話では、后?が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。
道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている。
「?娥」が本来の表記であったが、前漢の文帝の名が「恒」であるため、字形のよく似た「?」を避諱して「嫦」を用いるようになった。のちに旁の「常」の影響を受けて読みも「じょうが」(に対応する中国語での発音)に変化した。韓愈自身も盧仝と同じテーマの《月蝕詩效玉川子》がある。月蝕詩效玉川子作 韓愈 韓退之(韓愈)詩<96-#1>U中唐詩514 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1622
李商隠《嫦娥》「雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。」○常蛾 月の女神。「1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥」詩参照。仙薬を飲んでいる。
9. 蟾蜍 月に住むといわれるひきがえる。李白「古朗月行」月の満ち欠けはカエルが食べてかけていく。

其後代遂隱不仕云。
其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈泗\〉,
東の城郭付近に屠る者は氓ニいった。
10. 〈+兔〉 氓ナ表示。すばしこく走る兎の名。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。
すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。
11. 韓慮 韓国の黒犬、『戦国策』秦策に「秦卒の勇、串騎の多を以(ゐ)て、以て諸侯に当らば、肇へは、黄塵を馳せて寒兎(足の悪い兎)を逐ふが若きなり」と。これを反対に用いた。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。
それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、氓殺して、その一家のものすべてを殺して"肉びしお"にした。
12. 宋鵠 朱の良犬。古来、韓慮と共に名犬とされる。これも擬人的に用いる。
13. 醸 ししびしお。肉皆。肉の塩から。



§-2     §-1  §-2  §-3  §-4  §-5 

§2-1
秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。
將大獵以懼楚。
召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。
得天與人文之兆。
§2-2
筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。
缺口而長鬚,八竅而趺居。
獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。
秦其遂兼諸侯乎!」

§2-3
遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,
獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。
秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。
曰見親寵任事。

§3-1
穎為人,強記而便敏,自結繩之代以及秦事,無不纂?。陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。
§3-2
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。
§3-3
自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

§4-1
累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。
上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
-2
相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒?往,上未嘗怪焉。
後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。
上見其髮禿,又所?畫不能稱上意。
-3
上?笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。
吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」
因不復召,歸封邑,終於管城。
其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

§5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。
其一?姓,文王之子,封於毛。
所謂魯、衛、毛、?者也。
戰國時有毛公、毛遂。
獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。
《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
-2
及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。
而?姓之毛無聞。
穎始以俘見,卒見任使。
秦之滅諸侯,穎與有功。
賞不酬勞,以老見疏。
秦真少恩哉。」



807年-08元和二年40歳毛頴傳-#5
昌黎先生集 昌黎文巻八02
全唐文/卷0567/5807年元和2年40?漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10170

(1)§1-1毛穎傳
(筆を人に擬し、筆の姓を穎として伝を立てたものである。)
毛穎者,中山人也。
毛穎というものがいる、中山の人である。
其先明?,佐禹治東方土。
その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。
養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。
万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。
嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。
明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。
當吐而生。」
だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。
已而果然。
やがて果たしてその通りになった。
§1-2
明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊?娥、騎蟾蜍入月。
明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。?の妻?娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。
其後代遂隱不仕云。
其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。
居東郭者曰 〈泗\〉,
東の城郭付近に屠る者は氓ニいった。
狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。
すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。
盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。
それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、氓殺して、その一家のものすべてを殺して"肉びしお"にした。

(1)§1-1
毛穎という者,中山の人なり。
其の先は明?,禹を佐けて東方の土を治む。
萬物を養いて功有り,因りて卯の地に封ぜられ,死して十二神と為る。
嘗て曰く:「吾が子孫は神明の後,與物と同じかる可からず。
當に吐いて生むべし。」と。
已にして果して然り。
§1-2
明視 八世の孫,世に傳う 殷の時に當って中山に居り,神仙の術を得て,能く光を匿し物を使い,?娥を竊み、蟾蜍に騎りて月に入る。
其の後代 遂に隱れて仕えずと云う。
東郭に居る者を〈泗\〉【しゅん】と曰う。
狡にして善く走り,韓盧と能を爭い,盧 及ばず。
盧 怒りて,宋鵲と謀りて之を殺し,其の家を醢【かい】にす。

§2-1
秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。
始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。
將大獵以懼楚。
大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。
召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。
将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。
得天與人文之兆。
「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。
§2-2
筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。
占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。
缺口而長鬚,八竅而趺居。
そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。
獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。
ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。
秦其遂兼諸侯乎!」
秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

§2-3
遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,
そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。
獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。
そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。
秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。
秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。
曰見親寵任事。
その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

§2-1
秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。
將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。
左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。
天は人文を與うるの兆を得たり。

§2-2
筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。
缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。
獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。
秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

§2-3
遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。
俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。
秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。
曰びに親寵せられて事に任ず。


作時年:807年元和2年40?
全唐詩卷別:全唐文/卷0567/5文體:雜文(俳諧文)
昌黎先生集 昌黎文巻八02韓愈全集校注〔三〕一六九三
詩題:毛頴傳
序文#1
作地點:長安 國子博士 
及地點:洛陽分司 (國子博士)
交遊人物:00


『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(本文)
§2-1
秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。
將大獵以懼楚。
召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。
得天與人文之兆。
§2-2
筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。
缺口而長鬚,八竅而趺居。
獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。
秦其遂兼諸侯乎!」
§2-3
遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,
獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。
秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。
曰見親寵任事。

(下し文)
§2-1
秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。
將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。
左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。
天は人文を與うるの兆を得たり。

§2-2
筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。
缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。
獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。
秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。
§2-3
遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。
俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。
秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。
曰びに親寵せられて事に任ず。

(現代語訳)
§2-1
始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。
大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。
将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。
「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。
-2
占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。
そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。
ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。
秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。
-3
そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。
そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。
秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。
その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

(訳注)
○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。
筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。
§2-1
秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。
秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。
始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。
14. 蒙恬(もうてん、未詳- 紀元前210年)は中国の秦の将軍。蒙?(?は敖の下に馬)の孫、蒙武の子、蒙毅の兄。兵三十万をひきいて匈奴討伐などに功績を挙げ、万里の長城を築き、匈奴におそれられた。始皇帝の死後、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。
蒙恬が獣の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのが筆の始まりとされていた。蒙恬が毛氏を囲むという説話とした。
〔しかし1928年に戦国時代の遺跡から筆が発見されたのでこの説は覆された。現在では甲骨文字の中に筆を表す文字が発見されており、筆の発明は殷代まで遡るのではないかと考えられている。蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている。〕

將大獵以懼楚。
將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。
大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。
左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。
将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。
15. 庶長 左右の将軍職名。
16. 軍尉 尉は司法警察の官、軍の司法警察官。
17. 連山 連山易。周易の外に、連山、帰蔵の二派の易法があったという。今伝わらない。
18. 筮 筮竹でうらなう。筮竹(ぜいちく)とは、易占において使われる50本の竹ひごのようなものである。長さは35cmから55cm程度のものが多く、両手で天策と地策に分けるときに扇形に開きやすいよう、手元に当たる部分をやや細く削ったものもある。算木とともに、易者のシンボル。

得天與人文之兆。
天は人文を與うるの兆を得たり。
「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。
19. 天与人文之兆 天が人類の文化を与える兆(うらかた)、兆は予言のきざし、もとは亀甲を焼いてひびわれた形。その形からうらなう、うらかた。

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。
筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。
占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。
20. 衣褐 粗毛で織った衣を着る。人に擬する。

缺口而長鬚,八竅而趺居。
缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。
そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。
21. 缺口 三つ口に裂けている。
22. 八竅 『荘子』斉物論に「百骸九竅」とある。九つの穴は、両目、両耳、鼻の両孔、口、及び下の二つの穴。兎は下は一つの竅であるから八竅という。胎生するものは九竅、ただ兎だけは八竅であるとの言い伝え。
23. 趺居 あぐらをかく。脚を組んで尻を地に付けて坐る。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。
獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。
ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。
24. 髦 長毛。毛の中で長いもの。すぐれた人にたとえる。その両義をかねて用いる。
25. 簡牘是資 簡牘に是れ資する。文書を書くたすけとする。書記をさせるのと、筆に用いるのとを兼ね言う。簡は竹のふだ、牘は木の片、ともに字を書く。紙の発明前はこれを用いた。
○天下其同書 天下が同じ文字を通用する。統一国家となる。

秦其遂兼諸侯乎!
秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。
秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。
26. 兼諸侯 秦が初めて諸侯の国を兼併して天下を平げること。

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,
遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。
そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。
27. 豪 すぐれた人物。これも毫(兎の毛)を暗示する。
28. 穎 毛穎、筆の擬人名。《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。
俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。
そして、俘虜を章台宮に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。
29. 俘 活け捕りの者。捕虜。
30. 章台宮 戦国の時、秦の宮内にあった台。咸陽(長安)。今の陝西省長安県にあった。
31. 加束縛 毛を束縛して筆にすること。これを毛竺族を束縛して禁錮する意味に兼用する。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。
秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。
秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。
32. 賜之湯沐 湯沐の料に領地を賜う。古代の諸侯が天子に朝するとき、天子は斎戒沐浴の邑(都市)を賜うた。これを湯沐邑といぅ。沐は髪を洗う。
33. 管城子 この文によって、筆の異名を管城子、管城侯という。管城は河南省鄭県治にあった古国名(春秋戦国時代)。竹管を筆軸とすることから縁語として用いた地名。

曰見親寵任事。
曰びに親寵せられて事に任ず。
その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。









§-3     §-1  §-2  §-3  §-4  §-5 

§3-1
穎為人,強記而便敏,
自結繩之代以及秦事,無不纂?。
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。
§3-2
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。
§3-3
自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

§4-1
累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。
上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
-2
相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒?往,上未嘗怪焉。
後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。
上見其髮禿,又所?畫不能稱上意。
-3
上?笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。
吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」
因不復召,歸封邑,終於管城。
其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

§5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。
其一?姓,文王之子,封於毛。
所謂魯、衛、毛、?者也。
戰國時有毛公、毛遂。
獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。
《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
-2
及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。
而?姓之毛無聞。
穎始以俘見,卒見任使。
秦之滅諸侯,穎與有功。
賞不酬勞,以老見疏。
秦真少恩哉。」

807年-08元和二年40歳毛頴傳-(§3)
昌黎先生集 昌黎文巻八02
全唐文/卷0567/5807年元和2年40?漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10191

毛穎傳
(筆を人に擬し、筆の姓を穎として伝を立てたものである。)

§3-1
穎為人,強記而便敏,
毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、
自結繩之代以及秦事,無不纂?。
太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、
陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、
山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,
山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。
仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。
又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。
その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。
§3-3
自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。
秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。
又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。
毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。
雖見廢棄,終默不泄。
たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。
惟不喜武士,然見請,亦時往。
このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)
§3-1
頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。
仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。
又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。
その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。
§3-2
及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。
又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。
§3-3
秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、
下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。
又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。
廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。
惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。


作時年:807年元和2年40?
全唐詩卷別:全唐文/卷0567/5文體:雜文(俳諧文)
昌黎先生集 昌黎文巻八02韓愈全集校注〔三〕一六九三
詩題:毛頴傳
序文#1
作地點:長安 國子博士 
及地點:洛陽分司 (國子博士)
交遊人物:00

45
『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(本文)
§3-1
穎為人,強記而便敏,
自結繩之代以及秦事,無不纂?。
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。
§3-2
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。
§3-3
自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

(下し文)
§3-1
頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、§3-2
及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。
又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。
§3-3
秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。
又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。
廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。
惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。

(現代語訳)
§3-1
毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷である、
太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。
陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、
山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物である。
-2
仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。
その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、
市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。
-3
秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。
毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。
たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。
このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)

(訳注)
毛穎傳
○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。
筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

穎為人,強記而便敏,
頴は人と為り、強記にして便敏、
毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、
34. 為人 生まれつき。
35. 便敏 すばしこい。

自結繩之代以及秦事,無不纂?。
結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。
太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。
36. 結縄 縄を結んで文字に代える太古の政治。孔安国「尚書序」に 「古は伏義の天下に王たるや、書契を造って、以て結縄の政に代ふ」 と。
39. 纂? 集め記す。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、
陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,
山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、
山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、
40. 山経地志 山岳の記、地理の書。
41. 九流 『漢書』芸文志に、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家着流を九流という。

§3-2
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。
及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。
仏教や老子の書、外国の説に至るまで、皆つまびらかに知りつくすところである。
42. 浮圖 @仏陀(ぶつだ)。仏(ほとけ)。A僧。出典野ざらし 俳文・芭蕉「もとどりなき者はふとの属にたぐへて」[訳] 髪を束ねていない者は僧侶の仲間だとして。B仏塔。
43. 老子 春秋戦国時代の中国における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
44. 詳悉 非常にくわしくて漏れのないこと。詳細に述べること。また、そのさま。詳悉法 修辞法の一。事物のありのままを綿密に叙述する方法。

又通於當代之務,官府簿書、
その上当世の大切な仕事をもよく知っていて、役所の帳簿、

?井貸錢注記,惟上所使。
市場町中の貨幣金銭の勘定書きなど、ただ主上の使うままに何事によらず記録したのであった。
45. ?井〔昔,中国で,井戸のある周辺に人家が集まったことから,あるいは市街では道が井の字の形をしているからともいう〕人家の集まっている所。まち。ちまた。

§3-3
自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。
秦の皇帝及び太子扶蘇、次子胡亥、丞相李斯、中辛府令の趙高から一般の国人に及ぶまで、この毛頴(筆)を愛し用いないものはなかった。
46. 太子扶蘇、胡亥 扶蘇は秦の始皇帝の長男。胡亥は秦朝の第2代皇帝。
丞相斯 秦代の宰相。字は通古[1]。子は李由ら。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
47. 中車府令高 秦の丞相・中車府令趙 高(ちょう こう、? - 紀元前207年)は、戦国時代末期から秦にかけての宦官、政治家。

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。
毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。

雖見廢棄,終默不泄。
たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。

惟不喜武士,然見請,亦時往。
このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)










§-4    §-1  §-2  §-3  §-4  §-5 


§4-1
累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。
上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
§4-2
穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒?往,上未嘗怪焉。
§4-3
後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。
上見其髮禿,又所?畫不能稱上意。
上?笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。
§4-4
吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」
因不復召,歸封邑,終於管城。
其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

§5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。
其一?姓,文王之子,封於毛。
所謂魯、衛、毛、?者也。
戰國時有毛公、毛遂。
獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。
《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
-2
及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。
而?姓之毛無聞。
穎始以俘見,卒見任使。
秦之滅諸侯,穎與有功。
賞不酬勞,以老見疏。
秦真少恩哉。」


807年-08元和二年40歳毛頴傳(§4)
昌黎先生集 昌黎文巻八02
全唐文/卷0567/5807年元和2年40?漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10219

(#9)§4-1
累拜中書令,與上益狎。
穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。
上嘗呼為中書君。
天子は常に穎を中書君と呼んだ。
上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。
天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。
獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。
(§4-1)
累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。
上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。
上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。
獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。
(#10)§4-2
穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の?先生と友として仲が善かった。
相推致,其出處必偕。
互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。
上召穎,三人者不待詔輒?往。
天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。
上未嘗怪焉。
天子は それを一度も怪しまなかった。
§4--2
穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の?先生と友として善し。
相い推致し,其の出處 必ず偕【とも】にす。
上 穎を召せば,三人の者 詔を待たずして 輒ち?に往く。
上 未だ嘗って怪まず。

(#11)§4-3
後因進見,上將有任使,拂拭之。
後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。
因免冠謝。
それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。
上見其髮禿。
天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。
又所?畫不能稱上意。
また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。
上?笑曰:「中書君老而禿。
天子はおかしそうに笑っていわれた、中書君は年老いて禿げてしまう。
不任吾用。
私の役に立たない。
§4--3
後に進み見るに因りて,上 將に任使すること有らんとして,之を拂拭す。
因りて冠を免いで謝す。
上 其の髮の禿するを見る。
又た?畫【ぼかく】する所 上の意に稱【かな】う能わず。
上 ?笑して曰く:「中書君 老いて禿す。
吾が用に任せず。
(#12)§4-4
吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」
私は常に中書君と呼んでいたが、君は今字を書くにあたらない ねじけて適当でないということなのか。」と。
對曰:「臣所謂盡心者。」
答えていった、私は世にいう所の君に心を尽くしたのです(筆の毛の心が尽きたので字は書けない) と。
因不復召。
そこで天子は二度と毛頴を召さなかった。
歸封邑,終於管城。
毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。
其子孫甚多,散處中國夷狄。
その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。
皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。
皆、管城の号を頭につけているが、ただ中山に居る老だけが父祖の業を継いでいるのである。

吾 嘗て君を中書と謂えり。
君 今 書に中【あたら】ざりて邪【ねじけ】るか?」と。
對えて曰く:「臣は所謂【いわゆる】 心を盡す者なり。」と。
因りて復た召されず。
封邑歸りて,管城に終る。
其の子孫 甚だ多く,中國夷狄に散處す。
皆 管城を冒し,惟だ 中山に居る者のみ,能く父祖の業を繼ぐ。



《毛穎傳》現代語訳と訳註解説
(本文)
§4-1
累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。
上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
§4-2
穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒?往,上未嘗怪焉。
§4-3
後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。
上見其髮禿,又所?畫不能稱上意。
上?笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。
§4-4
吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」
因不復召,歸封邑,終於管城。
其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

(下し文)
(§4-1)
累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。
上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。
上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。
獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。
§4--2
穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の?先生と友として善し。
相い推致し,其の出處 必ず偕【とも】にす。
上 穎を召せば,三人の者 詔を待たずして 輒ち?に往く。
上 未だ嘗って怪まず。
§4--3
後に進み見るに因りて,上 將に任使すること有らんとして,之を拂拭す。
因りて冠を免いで謝す。
上 其の髮の禿するを見る。
又た?畫【ぼかく】する所 上の意に稱【かな】う能わず。
上 ?笑して曰く:「中書君 老いて禿す。
吾が用に任せず。
-4
吾 嘗て君を中書と謂えり。
君 今 書に中【あたら】ざりて邪【ねじけ】るか?」と。
對えて曰く:「臣は所謂【いわゆる】 心を盡す者なり。」と。
因りて復た召されず。
封邑歸りて,管城に終る。
其の子孫 甚だ多く,中國夷狄に散處す。
皆 管城を冒し,惟だ 中山に居る者のみ,能く父祖の業を繼ぐ。

(現代語訳)
穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。
天子は常に穎を中書君と呼んだ。
天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。
ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の?先生と友として仲が善かった。
互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。
天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。
天子は それを一度も怪しまなかった。

後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。
それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。
天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。
また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。
天子はおかしそうに笑っていわれた、中書君は年老いて禿げてしまう。
私の役に立たない。

私は常に中書君と呼んでいたが、君は今字を書くにあたらない ねじけて適当でないということなのか。」と。
答えていった、私は世にいう所の君に心を尽くしたのです(筆の毛の心が尽きたので字は書けない) と。
そこで天子は二度と毛頴を召さなかった。
毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。
その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。
皆、管城の号を頭につけているが、ただ中山に居る老だけが父祖の業を継いでいるのである。


(訳注)
毛穎傳§4
○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。
筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

累拜中書令,與上益狎。
穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。
49. 中書令 中書省長官、詔勅を掌る。これを後に「書に中(あたる」と解するが、これは諧謔であって、本来は宮中の書記を掌るので中書といったものである。

上嘗呼為中書君。
天子は常に穎を中書君と呼んだ。
50. 嘗 常と通用する。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。
天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。
51. 衡石 衡は重さをほかる秤の横棒、石は分銅(おもり) である。
52. 程 目ど。区切り。限度とする。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
穎は絳の人陳玄、弘農の陶泓及び会稽の?先生と友として仲が善かった。
53. 絳人陳玄 山西省の緯県は墨の名産地。故に経の人陳文という。・陳文は墨の異名。陳は古い。玄は黒。古くて黒いから名づけた。
54. 弘農 河南省の地名、硯を出す。
55. 陶弘 仮設の人名で、硯を指す。硯に陶器のものがあった。弘は下(ひく)く深い貌。凹(くぼ)んでいること。
56. 会稽 浙江省の地名。紙を産する。
57. ? こうぞ。紙の原料、木の名。紙を擬人的に?先生という。

相推致,其出處必偕。
互いに推し薦め合い、出仕するも家居するも必ず一緒にした。

上召穎,三人者不待詔輒?往。
天子が毛頴を召されると、その三人の者も、詔を待たずに、そのつど共に往ったのである。

上未嘗怪焉。
天子は それを一度も怪しまなかった。

後因進見,上將有任使,拂拭之。
後に、毛頴が天子の前に進んでまみえた時に、天子は仕事を命じて使おうと、物のよごれを払い、拭い去るよぅにして、人材を見出そうとしておられたし、毛頴は天子の払った手が触れた。
58. 任使 官に任じ使う。任官。
59. 払拭 埃を払い汚れを拭く。真才を抜き用いるのは、物が払拭を経て、ここに塵垢を去るのに喩える。払ったり拭いたりしていたその手が毛穎に触れて、筆のさやが脱げることをいう。人才を択ぶのと筆を拭い払うのとをかけて用いた語。「払拭の恩」という語もある。抜擢の恩の意。

因免冠謝。
それで、冠を脱いで (筆のさやを取る)挨拶を申し上げた。

上見其髮禿。
天子はその髪の禿げた(筆の毛先が切れている) のを見られた。
60. 髪禿 筆の毛がすり切れたことを喩える。

又所?畫不能稱上意。
また彼の計画(字を書く)することが天子の意にかなわなかったようだ。
61. ?画 筆でなぞり線を書くこと。

上?笑曰:「中書君老而禿。
天子はおかしそうに笑っていわれた、中書君は年老いて禿げてしまう。

不任吾用。
私の役に立たない。

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」
私は常に中書君と呼んでいたが、君は今字を書くにあたらない ねじけて適当でないということなのか。」と。
62. 不中書 字を書くにあたらない。
63. 邪 かたよる。もとる。ねじける。

對曰:「臣所謂盡心者。」
答えていった、私は世にいう所の君に心を尽くしたのです(筆の毛の心が尽きたので字は書けない) と。
64. 尽心 心を尽くすのと、筆の心(しん)の毛が尽きて書けないのとを兼ねていう。

因不復召。
そこで天子は二度と毛頴を召さなかった。

歸封邑,終於管城。
毛頴は領城に帰り、管城で命を終わった。
65. 管城 河南の鄭州の管城。古代、秦の時期の筆の発祥の地。ブランド名。

其子孫甚多,散處中國夷狄。
その子孫は甚だ多く、中國の中だけでなく異民族の国々の各所に散らばり住むようになった。
66. 中國夷狄 中國の中だけでなく異民族の国々。

皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。
皆、管城の号を頭につけているが、ただ中山に居る老だけが父祖の業を継いでいるのである。
67. 中山 中山国(ちゅうざんこく)は、戦国時代の中国で、現在の河北省中南部を中心とする一帯を領土とした国である。中山と改名する前は春秋時代以来の中原の北部にいた白狄が建国した都市国家で「鮮虞」という名で知られていた。当初は太行山脈の西側にあったが、紀元前414年に武公が衆を率いて太行山脈を越え、現在の河北省中部に中山国を建国した(ただし必ずしも旧領のすべてを放棄したわけではない)。武公は周の定王の孫であり、そのため異民族の国でありながら周王朝と同姓の「姫姓」の国であった。













§-5     §-1  §-2  §-3  §-4  §-5      


§1-1
毛穎者,中山人也。
其先明?,佐禹治東方土。
養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。
嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。
當吐而生。」
已而果然。
§1-2
明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊?娥、騎蟾蜍入月。
其後代遂隱不仕云。
居東郭者曰 泗\,
狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。
盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。
§2-1
秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。
將大獵以懼楚。
召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。
得天與人文之兆。
§2-2
筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。
缺口而長鬚,八竅而趺居。
獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。
秦其遂兼諸侯乎!」

§2-3
遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,
獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。
秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。
曰見親寵任事。

§3-1
穎為人,強記而便敏,
自結繩之代以及秦事,無不纂?。
陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。
§3-2
及至浮圖、老子、外國之?,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、?井貸錢注記,惟上所使。
§3-3
自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

§4-1
累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。
上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。
§4-2
穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽?先生友善。
相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒?往,上未嘗怪焉。
§4-3
後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。
上見其髮禿,又所?畫不能稱上意。
上?笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。
§4-4
吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」
因不復召,歸封邑,終於管城。
其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。

§5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。
其一?姓,文王之子,封於毛。
所謂魯、衛、毛、?者也。
戰國時有毛公、毛遂。
§5-2
獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。
《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,
世遂有名。而?姓之毛無聞。
§5-3

穎始以俘見,卒見任使。
秦之滅諸侯,穎與有功。
賞不酬勞,以老見疏。
秦真少恩哉。」

807年-08元和二年40歳毛頴傳(§5)
昌黎先生集 昌黎文巻八02
全唐文/卷0567/5807年元和2年40?漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10233

#13 §5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。
太史公はいう、毛氏は両族がある。
其一?姓,文王之子,封於毛。
その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。
所謂魯、衛、毛、?者也。
世にいう所の魯・衛・毛・?のうちの一国である。
戰國時有毛公、毛遂。
戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。
§5-1
太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。
其の一は?姓,文王の子,毛に封ぜらる。
所謂る魯、衛、毛、?という者なり。
戰國の時に毛公、毛遂有り。
#14 §5-2
獨中山之族,不知其本所出。
ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。
子孫最為蕃昌。
子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。
《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。
及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,
蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。
世遂有名,而?姓之毛無聞。
世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。
#2
獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。
子孫 最も蕃昌なりと為す。
《春秋》の成るや,見孔子に?たる,而も其の罪に非ず。
蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,
世よに遂に名有り。而して?姓の毛は聞ゆる無し。

#15 §5-3
穎始以俘見,卒見任使。
毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。
秦之滅諸侯,穎與有功。
秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。
賞不酬勞,以老見疏。
秦真少恩哉。」
けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。
-3
穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,
秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。
賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。


§5《毛頴傳》現代語訳と訳註解説
(本文)
§5-1
太史公曰:「毛氏有兩族。
其一?姓,文王之子,封於毛。
所謂魯、衛、毛、?者也。
戰國時有毛公、毛遂。
§5-2
獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。
《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,
世遂有名。而?姓之毛無聞。
#15 §5-3
穎始以俘見,卒見任使。
秦之滅諸侯,穎與有功。
賞不酬勞,以老見疏。
秦真少恩哉。」

(下し文)
§5-1
太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。
其の一は?姓,文王の子,毛に封ぜらる。
所謂る魯、衛、毛、?という者なり。
戰國の時に毛公、毛遂有り。
#2
獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。
子孫 最も蕃昌なりと為す。
《春秋》の成るや,見孔子に?たる,而も其の罪に非ず。
蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,
世よに遂に名有り。而して?姓の毛は聞ゆる無し。
-3
穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,
秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。
賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

(現代語訳)
太史公はいう、毛氏は両族がある。
その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。
世にいう所の魯・衛・毛・?のうちの一国である。
戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。
子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。
『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。
蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。
秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。
けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

(訳注)
#13 §5-1 毛穎傳
○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。
筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

太史公曰:「毛氏有兩族。
太史公はいう、毛氏は両族がある。
68. 太史公 中国前漢時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった。前漢で太史公を務めた『史記』の著者である司馬遷の自称。 本紀、世家、列伝の終わりの部分には、「太史公曰」から始まる文章があり、本紀、世家、列伝で紹介した人物についての司馬遷の評価が書かれている。

其一?姓,文王之子,封於毛。
その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。
69. 姫姓 周王朝は姫姓の家。
70. 文王之子 周文王の第八子鄭が毛伯に封ぜられ、毛姓となる。毛は河南省宜陽県境にあった古代の国名。文王は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子、?仲・?叔の兄。周王朝の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。文王は商に仕えて、三公の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を?河の西岸の豊邑に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。

所謂魯、衛、毛、?者也。
世にいう所の魯・衛・毛・?のうちの一国である。
71. 所謂 世にいう所の、『左伝』僖公二十四年に「魯・衛・毛・?は文の昭なり」とあるのをいう。

戰國時有毛公、毛遂。
戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。
72. 毛公 大毛公亨、毛公萇、共に『詩経』を伝えた漢の儒者。その訓伝によって『毛詩』(詩経)が伝わった。
73. 毛遂 古代の戦国時代、趙の国の都邯鄲は強大な秦の軍隊に包囲され、危険にさらされていた。そこで邯鄲を救うため、趙の王は楚の国と連合して秦に立ち向かう策を立て、楚を説得するため、親王である平原君を遣ることにした。こちら平原君は早速自分の食客の中から知勇兼備の士20人を選び、同行させようとしたが、19人は選べたものの、あと一人足りない。と、このとき、食客の一人毛遂が、同行を申し出た。
毛遂は自ら薦めて「自らを錐にたとえて、遂をして早く嚢中に処るを得しめは、乃ち穎脱して出でん。特(ただ)其の末の見(あら)わるるのみに非ざるなり」といって、従って功をてたという故事がある。

#15 §5-2
獨中山之族,不知其本所出。
ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。
73. 本本源、出身の由来

子孫最為蕃昌。
子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

《春秋》之成,見?於孔子,而非其罪。
『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。
74. 春秋 中国の五経の一つ。魯の隠公1 (前 722) 年から哀公 14 (前 481) 年まで 242年間の魯を中心とする各国の史実を編年体で簡単に記述している。孔子が魯の史記によって1字1句の表現に賞罰の意を寓し (これを春秋の筆法という) ,王法を示したものとされ,哀公 14年にいたったとき,聖獣麟が捕えられたのを聞き擱筆したと伝えられる。漢代に五経の一つとなって中国史学 (春秋学) の基となり,またこの書名から春秋時代 (前 771〜403) の名称が生れた。これを解説した春秋三伝 (『公羊伝』『穀梁伝』『左氏伝』) も経書に数えられる。

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,
蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。
75. 蒙將軍 蒙恬のこと。
76. 中山 中山国(ちゅうざんこく)は、戦国時代の中国で、現在の河北省中南部を中心とする一帯を領土とした国である。中山と改名する前は春秋時代以来の中原の北部にいた白狄が建国した都市国家で「鮮虞」という名で知られていた。当初は太行山脈の西側にあったが、紀元前414年に武公が衆を率いて太行山脈を越え、現在の河北省中部に中山国を建国した(ただし必ずしも旧領のすべてを放棄したわけではない)。武公は周の定王の孫であり、そのため異民族の国でありながら周王朝と同姓の「姫姓」の国であった。

世遂有名,而?姓之毛無聞。
世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。

#15 §5-3
穎始以俘見,卒見任使,
毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。
77. 俘 俘虜。

秦之滅諸侯,穎與有功,
秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。
78. 穎與有功 毛穎がそれに関係して功があった。与は関与。政治には常に文筆がかかわる。

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」
けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。
80. 不酬勞 功労に相応しない。


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