(2)100人-三国から隋・唐

古代から現代までの中国歴史上気にかかる100人について

           三国時代から隋・唐まで 220年−907年












ID 人   物
1
婦好
2
周公
3
よそ者の妻
4
孔子
5
墨子
6
商鞅
7
孫擯
8
荘子
9
趙の武霊王
10
呂不
11
秦の始皇帝
12
項羽
13
漢の武帝
14
張騫
15
司馬遷
16
王莽
17
班氏
18
王充
19
張陵
20
張角
21
曹操
22
蔡エン



23
諸葛亮
24
石崇
25
王衍
26
石勒
27
王義之
28
鳩摩羅什
29
陶淵明
30
拓践珪(道武帝)
31
崔浩
32
武帝
33
煬帝
34
太宗
35
玄奘
36
則武天
37
高仙芝
38
玄宗
39
安禄山
40
李白
41
杜甫
42
楊責妃
43
韓愈
44
白居易
45
魚玄機
46
薛濤
47
李商隠
48
李徳裕
49
黄巣





ID
人   物
49 耶律阿保機
50 李存勗
51 趙匡胤
52 柳宗元
53 王安石
54 沈括
55 蘇軾(蘇東坡)
56 方臘
57 徽宗
58 李清照
59 岳飛
60 張擇端
61 朱薫(朱子)
62 馬遠
63 丘処機(丘長春)
64 元好問
65 クビライ・カアン
66 関漢卿
67 パスパ
68 トクト





ID
人   物
69 洪武帝
70 鄭和
71 王陽明
72 海瑞
73 李時珍
74 張居正
75 ヌルハチ
76 徐霞客
77 魏忠賢
78 馮夢龍
79 張献忠
80 呉三桂
81 顧炎武
82 朱トウ
83 蒲松齢
84 康照帝
85 曾静
86 曹雪芹
87 乾隆帝
88 へシェン
89 林則徐
90 汪端
91 僧格林泌
92 洪秀全
93 西太后
94 秋瑾
95 孫文
96 魯迅
97 蒋介石
98 胡適
99 毛沢東
100 ケ小平




赤壁の戦い   風向きが変わり魏軍の艦隊に挑む呉軍の艦隊



      三国時代 二二〇年頃の鼎立した領域図











24 石崇(二四九―三〇〇)
退廃的貴族
石崇は二四九年に生まれた。父の石苞は晋(西晋)の建国に大いに貢献した軍人で、晋王朝を創始した皇帝によって貴族となり、高位高官を得た。石竃は大司馬(軍事をつかさどる省の長官)まで出世している。
石崇は特権的な貴族の子弟として生まれ、荊州の長官に任命された。荊州は中国のほぼ中央に位置する(現在の湖北省の長江中流域にあたる)ため、南北および東西間の過渡期の多大な商業を牛耳る立場にあった。石崇はこの地域を通行するすべての商人から金品を搾取し、莫大な富を築き上げる。
石崇の財産には、一〇〇人を超える愛妾、三〇基以上の水車、八〇〇人以上の奴隷と召使、そして膨大な量の貴金属と貨幣、土地、家屋がふくまれていたという。
もうひとりの富豪の貴族、王トとぜいたくを競った話は有名だ。王トは晋の皇帝の母方の叔父にあたり、甥の皇帝の七光りでぜいたくのし放題だった。王トが高価な紫色の布地を張りめぐらして二一キロメートルにおよぶ回廊を作ると、石崇はすぐさま手織りの絹織物で二七キロメートルを超える回廊を作って見返した。王トが皇帝から贈られた高さ三〇センチもある異国の貴重な珊瑚樹を見せびらかすと、石崇はそれをこなごなに壊し、自分がもっているもっと大きくて美しい珊瑚樹ととり換えようと言った。王トは台所用品を(薄めた)糖蜜で洗わせ、石崇は高級な蜜蝋を燃やして炊事をするというぜいたくぶりだった。
石崇は風雅を好んだ。彼は郊外の山あいに金谷園という庭園を建造すると、二九六年に客を招き、池や噴水や木立に囲まれた美しい東屋や塔、演壇、テラスつきの楼閣のなかで詩を詠む催しをした。詩を作れなかった者は罰として三リットルの葡萄酒を飲まされた。
石崇の私的な後宮に集められた一〇〇人を超える愛妾のなかに、寵愛を一身に集める縁珠という女性がいた。とても美しいベトナム人の娘で、笙を奏でるのが得意だった。石崇はこのたぐいまれな美女を「升三杯分の真珠」で買いとったという。
石崇は政争にまきこまれ、三〇〇年に宮廷の職を辞した。時流にのった廷臣の孫秀が縁珠をゆずるよう要求したが、石崇は拒絶した。
孫秀は計略を繰って石崇を罪におとしいれた。石崇を捕らえるために兵士が金谷園にやってくると、縁珠は塔から身を投げて死んだ。ともに詩作を楽しんだ友人の貴族と石崇はいっしょに刑場に向かった。この友人はかつて金谷園で、「白髪を頂き、われら最期をともにせん」と詩に歌っている。まさに予言どおりになったのである。










25 王衍 (256―311)

清談に明けくれた廷臣
初期の酉晋(二六五−二二六)は、貴族階級から見ればもっとも充実した時期であり、高尚な議論が尊ばれた哲学の時代だった。しかし儒学者にとってこの時代は暗黒時代であり、暗愚の時代である。儒教道徳と社会的な責任感は片隅に追いやられ、道教がさかんになった。
王衍は二五六年に海に面した現在の山東省で有力な貴族の家庭に生まれ、玄学(存在と無についての形而上学的な思索を重んじる学問)に没頭したことで知られている。子どもの頃、高名な文人が王街を見てこう言ったという。「一体どのような婦人からあれほどすぼらしい子どもが生まれるのだろう! しかしあの子はそのうち国家に災いをもたらすかもしれん」裕福な貴族の王街は、一度も金銭の心配をする必要がなかった。彼は自分がいかに高尚な人間かをひけらかすために、「銭」という言葉をいっさいHにしなかった。彼の妻はお金に汚い人で、なんとかして夫に「銭」と言わせてやろうとたくらみ、ある日夫が寝ている寝台のまわりに銭を積み上げて出られないようにした。王衍は目覚めると、召使の女に 「そこにあるものをどけろ」と命じた。「銭」という下購な言葉は断固使わなかったのである。竹林の七賢(世俗の危険ややっかいごとを避けて竹林に集い、酒を酌みかわして談論を楽しんだといわれる画家や詩人のグループ)のひとりで王衍のいとこにあたる人物に、いまの世に王衍にならぶ者はいるかと皇帝がたずねると、「だれもおりませぬ」という返事が返ってきた。
晋の宮廷は、姻戚関係で結びついた似た者同士の貴族の天下だった。王衍は順調に出世し、黄門侍郎(詔勅の吟味役)から尚書令(政務の実行)、そして大尉(軍事をつかさどる官)にまでなったが、彼は世俗的な問題にまるで興味がなく、ひたすら清談(高尚な形而上学的議論)にふけるのを好んだ。

「竹林の七賢」の図。北京の願和園所蔵。

西晋はしだいに政治的混乱を深め、崩壊しはじめていたが、王衍は自分の地位を守ることしか考えていなかった。娘を嫁がせた皇太子が好智にたけた皇后と仲たがいすると、すぐさま娘を皇太子と離婚させた。このあまりに日和見主義的な行為は、王街の倣慢さをいっそう強く印象づける結果になった。
そうやって保身に走った王衍だったが、「八王の乱」(晋を創始した武帝が二九〇年に崩御後、皇太子、皇后、外戚などのあいだで起こった激しい勢力争い)とそれに続く反乱は、まもなく王衍をまきこまずにおかなかった。王衍は官職からしりぞこうとしたが、軍の最高司令官である元帥として、軍を率いるよう命じられる。二二一年の初夏、一〇万を超える晋の全軍は「蛮族」のリーダーである旬奴系の石勒に械滅された。王衍もふくめて、皇族や貴族の多くが捕らわれの身となった。
石勒の取り調べを受けた王街は、自分は政治にはなんの興味もないと主張し、晋の没落の責任を他人になすりつけ、石動こそ帝位にふさわしいとへつらうように言った。石勒は忠誠心のかけらもないこの日和見主義者を、壁の下敷きにして殺すように命じた。王衍は幼い頃、「いずれ国を滅ぼすであろう」と予言されたという。「清談」にふけるあまり、その予言を現実させてしまった。










26 石勒(シーラ)(二七四−三三三)

奴隷から身を起こして後趙を建てた皇帝
石勒は西晋初期の二七四年に、武郷県(現在の山西省)で異民族の羯族の子として生まれた。
掲族はかつて遊牧国家の北匈奴に所属したコーカソイド(白色人種)だといわれていた。匈奴をはじめとする遊牧民は、有史時代になってからシルクロードをたどって中央アジアから移住してきた人々とつながりがあると考えられているが、青銅器時代や初期の鉄器時代にはすでに、先史時代のインド・ヨーロッパ語族が中国北部で初期のシナ語派(中国語とほぼ同義)の人々といっしょに暮らしていたことを示す証拠がある。おそらく掲族は先史時代からその地域にいた民族と有史時代の移住者との温血なのだろう。
二九〇年に晋の創始者の皇帝が亡くなり、皇帝の一族が互いに殺しあう「八王の乱」 (二九一−三〇六) が起きると、西晋は急速におとろえ、三〇〇年以降になると華北は諸王の挙兵により戦乱状態におちいった。政治が混乱し経済が停滞したこの時期に、民衆は皆生活に苦しんだが、国内の少数異民族ははるかにひどい苦しみを味わった。
三〇二−三〇三年のあいだ、石勒が属していた羯族の氏族からたくさんの人々が地方軍閥に捕らえられ、奴隷として売り飛ばされた。石勒も奴隷にされ、ふたり一組で囚人として首棚をはめられて拘束され、山東省まで送られて漢人の地主に売られた。石勒はその後自由の身になった。漢人の主人の好意による(中国の記録によれば)とも、石勒の努力のおかげだともいわれている。その後石勒はふたたび晋の兵士に捕らえられるが、逃亡して群盗となった。仲間にはほかにも「蛮族」が混ざっていたのは確かで、彼らはまもなく「石勒十八騎」とよばれる武人の集団を形成して、その後の石勒を支えた。三〇五年に彼らは牧夫の汲桑(ジーサン)に合流して武装集団を作り、「八王の乱」で争った諸王のひとりに名目的に仕えることになった。昔奴隷だった石勒に中国名をあたえたのは汲桑だといわれている。
汲桑が晋の将軍に殺害されると、石勒はやむなく劉淵の軍にくわわった。劉淵は南匈奴の指導者で、三〇四年に漢王を称した。漢はのちに(前)趙(五胡十六国のひとつ)と名をあらためる。華北に建設された最初の異民族国家である。
石勒はすぐれた将軍であり、軍事的遠征と表面的服従、そして敵を分裂させてから征服するという戦略を巧みに組みあわせて、晋軍の壊滅に大いに貢献した。石動は自分がたんに私利私欲で動く元「蛮族出身の奴隷」ではなく、先見の明のある指導者たることを証明し、急速に頭角を現した。彼はまもなく有能な漢人の張賓を参謀として採用し、漢人官吏を集めた「君子営」を組織した。
長らく生き別れになっていた石勒の母が三二年に晋の将軍によって石勒のもとに送りとどけられた。帰順をうながす晋の誘いをことわり、石勒は晋の大軍を撃破し、生粋の「貴公子」王衍が率いる晋の貴族を捕らえ、処刑した。そして前趙軍と合流して晋の都洛陽を制圧した。
石勒はしだいに前越から自立し、二二九年に正式に独立した。石勒は趙王と自称し、襄國(現在の河北省刑台市)に宮廷を置いた(この同を後趨とよぶ)三三〇年になると石勒は事実上の皇帝を示す天王の称号を名のって即位する。そしてついに黄河と涯河にはさまれた地域から晋軍を排除した。
石勒は自分と同じ部族の者を「国人」とよんで滝っとも高い地位に置き、都や地方に伝統的な学問(儒学)を学ぶための学校を設置し、三人目、四人目の子どもが生まれた家庭には褒章をあたえて人口増加を奨励した。石勒は字が読めなかったが、中国史を朗読させ、それを聞いて楽しんだ。
中央アジア出身の僧、仏図澄は石勒の軍師として迎えられた。この僧は石動のかつての君主で前趙の王となった劉曜(劉淵の後継者)と対決することを石勒に勧めた。石勒は三二八年に決戦を挑み、劉曜を殺した。こうして石勒はまざれもない華北の支配者となったのである。
石勒は勝利に浮かれることなく、謙虚だった。漢人の廷臣が石勒の歓心をかうために、彼こそ古代の神話的な半神半人の君主以来の名君だとたたえた。すると石勒は答えた。
わたしが身の程を知らないとでも思っているのか? 神代の君主と比べられてはおそれ多い。もしもわたしが漢の高祖(漢の初代皇帝、劉邦)に会ったなら、喜んで部下となり、配下の名将たちといちばんの手柄を競うだろう。もしも後漢を建国した光武帝に合ったなら、互いに中原の覇権を争うだろうが、どちらが勝つかは最後までわからぬ。君子たるものは天に恥じぬよう公明正大にふるまわねばならぬ。曹操〔後漢を減はして魏を建国した〕や司馬懿(魏の政治の実権をにぎり、晋の実質的な建国者となった)のように、皇帝亡きあと皇后や皇太子から皇位を奪うような恥知らずな行むをしてはならないのだ。
石勒は権力の絶頂にあった三三三年に死亡した。遊牧民の伝統を守って、遺体の埋葬場所は秘密にされた。石勒の息子が継ぐべき帝位は、甥の石虎に奪われた。僧の仏図澄は石勒に続いて石虎からも保護を受けた。石虎の信仰は、動乱が続く中国の庶民のあいだに「異民族の」信仰(仏教)を広めるうえで重要な役割を果たした。
?
石 勒(せき ろく、274年 - 333年8月)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。字は世龍。上党郡武郷県(現在の山西省楡社県の西北)出身の羯族であり、匈奴別部の羌渠の血を引いている。元の名を?と言い[1]、幼名は匐勒[2]と言った。祖父は耶?于[3]、父は周曷朱[4](又の名を乞翼加)。前趙の将軍として各地を攻略し、王浚・劉?・段匹?・曹嶷といった敵対勢力を次々と滅ぼした。劉聡の死際には後事を託されたが、劉曜と対立すると自立して後趙を樹立し、前趙を滅亡に追いやって華北に覇を唱えた。奴隷から皇帝まで昇った、中国史上唯一の人物。
若き日
祖父と父はいずれも部落の有力者であった。

成長すると壮健な肉体と何事にも動じない胆力を身につけた。また、武芸に秀でており、特に騎射の才能は並はずれたものがあった。彼の父は凶悪粗暴で周囲の胡人から疎まれていたが、石勒は父の代理として実務を仕切っていたので、皆から慕われていたという。

302年から303年にかけて并州で飢饉が発生すると、石勒は諸胡人を引き連れて故郷を離れ、親交のあったィ駆を頼った。この地には胡人を捕えて売り飛していた北沢都尉の劉監がいたが、ィ駆が上手く匿ったので石勒は難を逃れる事が出来た。しかし、ィ駆に迷惑を掛け続ける事を嫌い、ほどなくして石勒は彼の下を離れた。

その後、同じく親交のあった李川の下に身を寄せようとして再び移動を始めたが、道中ほとんど食べ物を口に出来ず、寒さにも苦しんだ。そんな最中、郭敬という人物に出会うと、石勒は涙ながらに窮状を訴えた。これを聞いた郭敬は手持ちの銭と携帯していた食料を与え、衣服も合わせて提供した。

同時期、并州刺史司馬騰は配下の張隆らに命を下し、并州一帯の胡人を捕えさせた。石勒もこの時彼らに捕らえられ、冀州まで連行された。その途上、石勒は何度も張隆から暴行を受け、屈辱を味わった。不憫に思った郭敬は、連行の任務に当たっていた族兄郭陽とその兄子郭時に石勒を守るよう頼んだ。郭陽らは何度も張隆に暴行を控えるよう求めて石勒を庇い、さらに衣服や薬を提供して飢えや病から救った。

その後、石勒は師懽の下に売り渡され、しばらく彼の奴隷として農作業に従事した。ほどなくして、師懽は石勒の外見風貌から常人ならざるものを感じ、認められて奴隷から解放された。

師懽の家の隣には馬牧場があり、その牧場の主は汲桑といった。石勒は奴隷だった頃から彼と非常に仲が良かった。石勒には馬の状態を瞬時に見抜く特技があったため、自由の身となると汲桑の下に身を寄せた。

それから石勒は傭兵稼業にも手を出すようになり、8人の仲間を集めて群盜となって各地を荒らし回った。さらに10人を加えて総勢18人となると、十八騎と号した(石勒十八騎)。馬を略奪して移動手段を手に入れると、広範囲に渡り遠征を行い、絹や宝玉を略奪して回った。帰還すると、その品物を汲桑に献上し、世話になった恩を返したという。

汲桑と挙兵
305年、司馬穎の宿将である公師藩らが挙兵すると、石勒と汲桑は牧場の人を従えて公師藩の下へと駆けつけた。この時汲桑は、石勒を漢人化させるために石という姓を与え、名を勒と改めさせた。これより以後、彼は石勒と呼ばれるようになった(これ以前は?と呼ばれていた)。公師藩が?攻略に向けて軍を進めると、石勒は前隊督に任じられて従軍した。平昌公司馬模は馮嵩に命じてこれを迎え撃たせると、公師藩軍は散々に撃ち破られた。

306年、公師藩は白馬から南に渡河して逃亡を図ったが、濮陽郡太守苟晞の追撃を受け斬り殺された。石勒と汲桑も追撃を受けたが、牧場へと逃げ込み追手を振り切った。

307年、汲桑は石勒を伏夜牙門に任じて牧人を指揮させ、郡・県の囚人や山間の沢に隠れ潜んでいた敗残兵をかき集めさせた。こうして勢力を拡大させると、汲桑は大将軍を自称し、司馬越・司馬騰を誅殺して司馬穎の仇を取る事を大義名分に掲げて挙兵した(司馬穎は307年に処刑された)。汲桑は石勒を掃虜将軍・忠明亭侯に封じて前鋒都督とし、司馬騰のいる?へと進軍を開始した。

5月、汲桑と石勒は迎え撃ってきた馮嵩を撃ち破ると、勢いのままに?を攻略した。驚いた司馬騰は単騎で逃亡を試みたが、追いつかれて斬り殺された。石勒らの入城により、?では1万人以上が虐殺され、大規模に略奪が為された。最後には宮中に火が放たれ、その火は10日が経過しても治まる気配を見せなかったという。

?から兵を引き上げた石勒らは、続いて司馬越討伐を目論み、延津より渡河して南の?州を攻撃した。司馬越はこの知らせに驚嘆し、苟晞と王讃に迎撃を命じた。

6月、石勒らは幽州刺史石?が守る楽陵に攻め込み、石?を敗死させた。次いで、石?の救援に向かっていた乞活(流民集団)の田?を迎え撃ち、これを打ち破った。さらに苟晞らが迎え撃ってくると、平原と陽平の間で対峙し、睨み合いは数ヶ月に渡った。大小合わせて30を超える戦を繰り広げたが、両軍とも譲らなかった。

7月、汲桑と石勒の予想以上の強さに司馬越は驚き、自ら軍を率いて官渡まで乗り出し、苟晞の援護に当たった。司馬越の支援を受けた苟晞は一気に攻勢をかけ、汲桑・石勒は死者1万人余りを数える大敗を喫した。彼らは散り散りになった残兵をかき集めて、漢の劉淵の下に向かおうとした。しかし、冀州刺史丁紹が行く手を遮り、赤橋にて大いに破った。2人は別々に逃亡を図り、汲桑は馬牧へと、石勒は楽平へとそれぞれ向かった。

12月、乞活の田?・田蘭・薄盛らは、司馬騰の報復として汲桑討伐の兵を挙げ、汲桑は楽陵で討たれた。

劉淵に帰順
逃亡中の石勒は、胡人数千を従えて上党に拠点を築いていた張?督・馮莫突の下にたどり着いた。張?督らは石勒を快く迎え入れて重用した。

石勒は張?督へ「劉単于(劉淵)は、晋朝打倒の為に挙兵した。汝らは彼に従おうとしていないが、このまま独立できると考えているのか。」と尋ねると、張?督は「無理であろう。」と答えた。石勒は「独立する気がないのならば、すぐに兵馬を帰属させるべきである。今、部落の殆どが既に劉単于から褒賞を賜り、招集を受けている。汝を見限り単于に付こうとしている者がいるとの噂もある。 速く動かないと取り返しのつかないことになる。」と、張?督に説いた。 張?督らには初めから謀略など何も無かったので、部族が離反して自分達を殺すのではないかと憂慮するようになった。

307年10月、張?督らは石勒に従い、劉淵の下を訪れ帰順を申し出た。劉淵は張?督を親漢王に封じ、馮莫突を都督部大に任じた。また、石勒を輔漢将軍に任じ、平晋王に封じて彼らを監督させた。石勒は張?督を自分の義兄とし、彼の名を石会と改めさせた。

当時、烏桓の張伏利度が2千の兵を従えて楽平に拠点を築いており、劉淵は彼を何度も招いたが応じなかった。石勒は張伏利度の下へ赴くと、劉淵から罰せられたので逃亡してきたと称して帰順を願い出た。張伏利度は石勒の到来に大いに喜び、兄弟の契りを結んだ。石勒は諸胡人を率いて各所を襲撃し、向かう所敵無しの強さを見せつけると、皆恐れて彼に敬服した。 石勒は兵の心が自分に付いたと確信すると、頃合いを見計らって張伏利度を捕え、諸胡人へ「今、大事を起こすにあたり、我と張伏利度のどちらが主君としてふさわしいか。」と言った。皆、石勒を主君に推戴したため、石勒は張伏利度を解放すると、部族を引き連れて劉淵の下へと戻った。劉淵はこの功績に報いるべく、石勒に都督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の兵を配属させた。

趙・魏を荒らす
308年1月、劉淵の命により、石勒は10将を従えて東方へ向かい、趙・魏の攻略に向かった。

劉淵は劉聡に壺関の攻略を命じると、石勒は前鋒都督に任じられ、兵7千を従えて従軍した。并州刺史劉?は黄秀らを壺関の救援に向かわせたが、石勒は敵軍を白田で打ち破り、黄秀を斬り捨てると、そのまま軍を進めて壺関を陥落させた。

劉淵は石勒に魏郡・頓丘の各所の砦攻略を命じ、劉零・閻羆ら7将と兵3万を与えた。石勒が多くの砦を陥落させると、50を超える砦が帰順した。石勒は砦の守将に将軍・都尉の称号を与え、強壮な者5万人を選抜して兵士とし、老人や弱者には以前の通りの平穏な暮らしを約束した。軍は規律が守られ略奪行為を働くものは無かったため、民は石勒に心を許した。

9月、王弥と共に?に進攻し、晋軍を潰滅させた。安北将軍の和郁は城の守りを放棄して衛国へと逃亡した。

10月、劉淵が帝位に即くと、石勒は持節・平東大将軍・校尉・都督に任じられ、平晋王の称号はそのままとされた。

石勒は三台へ軍を進めて魏郡太守の王粋を捕らえ、続けて趙郡に進攻して冀州西部都尉の馮沖を斬った。勢いのままに中丘に拠点を置く乞活の赦亭・田?を攻撃すると、これらを掃討した。戦功により石勒は安東大将軍に任じられた。また、開府(独自に役所を設置して役人を配属すること)を許され、左右長史・司馬・従事中郎が置かれた。

309年、石勒は鉅鹿・常山に攻撃を掛けると、2郡の守将を斬り殺した。さらに、冀州の郡県で100を超える砦を陥とし、10万以上の兵を帰順させた。その中から賢人を集めると、君子営と呼ばれる政権の中枢を担う組織を作り上げた。この時、後に石勒の頭脳となる張賓を引き入れて、彼を謀主・軍功曹に任じた。また、?膺・張敬を股肱に、?安・孔萇を爪牙に、支雄・呼延莫・王陽・桃豹・?明・呉予を将帥に任じた。

石勒は張斯に并州北山の郡県を巡察させ、まだ帰順していない羯人の説得に当たらせた。彼らは石勒の威名を恐れ、その多くが傘下に入った。石勒は常山に軍を進めると、諸将を派遣して中山・博陵・高陽の各県に攻め込ませた。これにより、数万人が戦わずして降伏した。

幽州刺史王浚は祁弘に鮮卑の段務勿塵ら10万を超える騎兵を指揮させ、石勒の討伐に乗り出した。石勒は祁弘軍と飛龍山で一戦を交えたが、1万以上の兵を失う大敗を喫した。石勒は黎陽まで兵を退いて軍を建て直すと、諸将を派遣してまだ帰順する意思を示さない砦や、反乱を起こした砦を攻撃した。そして30を超える砦を攻め下すと、守備兵を配置して民衆を慰撫させた。その後信都へと軍を転進すると、冀州刺史王斌を斬った。

車騎将軍の王堪と北中郎将の裴憲は、石勒討伐を掲げて洛陽から出陣した。石勒は陣営と兵糧を焼き払うと、両軍を迎え撃つべく黄牛の砦に入った。魏郡太守劉矩は石勒に帰順して郡を明け渡した。石勒は劉矩に砦兵の指揮権を与え、中軍左翼とした。石勒が黎陽に至ると、恐れた裴憲は軍を捨てて淮南に逃亡し、王堪は倉垣まで軍を退いた。劉淵は功績を称えて石勒を鎮東大将軍に任じ、汲郡公に封じた。また、持節・都督はそのままとされたが、汲郡公については固辞した。

その後、閻羆と共に?圏・苑市の2つの砦に攻め込むと、どちらも陥落させた。この戦闘の最中、閻羆が流れ矢に当たり戦死したため、彼の兵を吸収した。

310年1月、密かに軍を石橋から渡河させると、白馬を急襲して攻め落とし、男女3千人余りを生き埋めにした。

2月、?城を強襲し、?州刺史袁孚を殺した。続け様に倉垣を陥落させ、王堪を殺した。再び北へ渡河して、広宗・清河・平原・陽平の諸県に立て続けに攻め込むと、石勒に帰順した者は9万人を超えた。その後、またもや軍を返して南へ渡河すると、恐れをなした?陽郡太守裴純は、建業へと逃亡した。

7月、劉聡が河内に侵攻すると、石勒は騎兵を率いて合流し、武徳を共同で攻撃した。懐帝が救援軍を派遣すると、石勒は諸将に武徳を任せ、王桑と共に長陵に進んで冠軍将軍梁巨を迎え撃った。梁巨は降伏を願い出たが、石勒は聞き入れなかった。梁巨は城壁を乗り越えて逃亡を図ったが、兵士に取り押さえられた。石勒は軍を返して武徳に戻ると、捕らえた兵1万人余りを生き埋めにし、梁巨の罪を数え上げてからその首を刎ねた。これにより残った晋軍は総退却してしまったため、河北の各砦には激震が走り、皆石勒に降伏を請い、人質を送った。

8月、劉淵が死去すると長子の劉和が跡を継いだが、劉聡によって殺された。代わって帝位に即いた劉聡は、石勒を征東大将軍・并州刺史に任じ、汲郡公に封じた。以前の持節・開府・都督・校尉はそのままとされた。しかし石勒は、将軍職を頑なに辞退したため、征東大将軍の位は見送りとされた。

10月、劉粲が兵4万を率いて洛陽攻略に向かうと、石勒は重門に輜重を留め、騎兵2万を率いて大陽で劉粲軍に合流した。そして晋軍を?池で撃ち破ると、洛川まで至った。劉粲は?轅から、石勒は成皋関からそれぞれ洛陽へ軍を進め、倉垣で陳留郡太守の王讃を包囲した。しかし、王讃軍の反撃に遭ったため、文石津まで軍を退いた。

石勒は洛陽侵攻を諦め、北上して王浚を攻めようとしたが、この時王浚配下の王甲始が遼西鮮卑を率い、文石津の北で漢の将軍趙固を破ったとの報が入った。この為、石勒は船と営舎を焼き払い、重門に留めていた輜重を回収してから撤退した。

江漢を狙う
その後、石勒は石門から黄河を渡り、襄城郡太守崔曠が守る繁昌を攻撃し、崔曠を斬り殺した。

同年、雍州で流民となっていた王如・侯脱・厳嶷が淮南一帯で兵を起こした。彼らは石勒の襲来を知ると大いに恐れ、兵1万を割いて襄城の守りを固めさせた。石勒はこれを撃破し、残兵を尽く捕虜とした。さらに南陽に至ると、宛北の山に布陣した。王如は珍品や車馬を送って石勒を慰労し、兄弟の契を結ぶ事を求め、石勒は同意した。 王如は侯脱と不仲であったので、石勒に侯脱を攻めるよう持ち掛けた。石勒はこれを聞き入れ、夜になると三軍に命令を発し、鶏の鳴き声と共に出陣した。日が昇る頃には宛門に迫り、そのまま侯脱軍に攻撃すると、2日で攻め落とした。厳嶷は手勢を率いて侯脱の救援に向かったが、既に敗れていたので、石勒の下を訪れて降伏した。石勒は侯脱の首を刎ね、厳嶷を平陽に護送した。両軍を吸収した石勒の勢力は、益々盛強となった。

南の襄陽に進攻し、江西の砦30余りを攻め落とすと、?膺に襄陽の守りを任せた。石勒は王如を除こうと思い、自ら精鋭3万を率いて討伐に向かったが、王如軍の士気が盛んであったので、襄城へと軍を向けた。王如もまた石勒を排除せんとしており、弟の王璃に騎兵2万5千を与え、石勒軍を労うと見せかけて強襲しようとした。石勒はこれを見破っており、機先を制すべく迎撃に出て王璃軍を潰滅させると、江西まで軍を進めた。

311年、石勒は江漢(長江・漢水一帯)の地で自立しようという志を持った。琅邪王司馬睿(後の元帝)は、石勒が江南の地まで侵攻してこないかと憂慮し、王導に兵を与えて石勒討伐を命じた。石勒軍はこの時、兵糧の輸送がうまくいっておらず、また疫病によって兵の大半を失っていた。そのため、輜重を焼き払って兵士に携帯できる分の兵糧を甲に巻き付けさせると、渡河してそのまま江夏を急襲した。江夏郡太守の楊?は、守備を放棄して逃亡した。

2月、続けて北の新蔡に進攻すると、新蔡王司馬確を南頓で斬り殺した。これを知った朗陵公何襲・広陵公陳?・上党郡太守羊綜・広平郡太守邵肇は兵を引き連れて石勒に降伏した。石勒は軍を止める事無く、許昌に進攻して陥落させ、平東将軍王康を斬った。

西晋崩壊
3月、東海王司馬越は洛陽の兵20万余りを率いて石勒討伐に乗り出したが、その途上に陣中で病没した。司馬越は死ぬ間際、太尉の王衍に後事を託したが彼は受けなかった。晋軍は指揮官不在のまま、司馬越の棺を封国である東海に運ぶため、軍を動かした。司馬越が死んだとの報が洛陽に届くと、司馬越の妃裴氏と子の司馬?も、衛将軍何倫と右衛将軍李ツに伴われて東海へ向かった。

4月、石勒は晋の大軍が東下しているのを知ると、軽騎兵を率いて強襲を掛けた。王衍は銭端に命じて迎え撃たせたが、石勒はこれを返り討ちにし、銭端を斬り殺した。さらに攻勢を続けて本隊を撃ち破ると、撤退しようとした敵軍へ追撃をかけ、騎兵を分けて包囲すると一斉射撃を浴びせ掛けた。これによって敵軍の将兵10万人余りは折り重なるように倒れて天高く積み上がり、逃げ切れた兵はほとんどいなかった。この戦いで東海王太子の司馬?と王衍を始めとして、襄陽王司馬範・任城王司馬済・西河王司馬喜・梁王司馬禧・斉王司馬超・吏部尚書劉望・豫州刺史劉喬・太傅長史??といった面々を生捕りとした。これにより、晋朝の主戦力は事実上壊滅した。

晋の重臣たちを幕下に引き出すと、石勒は晋がなぜ凋落したのかを問うた。王衍は晋朝廷の衰退の原因を詳細に話し、晋滅亡は必然であったと述べ、媚び諂って石勒に帝位に即くよう勧めた。石勒は「汝は若い頃から朝廷に仕え、名声は四海に及び、その身は重任を担ってきた。官界に興味がないことはないはずだ。天下が破綻したのが汝のせいでないというのなら、誰のせいだというのか!」と詰った。大臣たちは皆死を恐れて命乞いをしたが、司馬範だけは厳然とした顔つきで泰然自若としており、一切泣き言を言わなかった。石勒は彼だけは助けようと思ったが、生かしておいても益は無いと孔萇が説いたので諦めた。諸王公や卿士は外に引き出されると、1人1人首を刎ねられ、死者はおびただしい数に上った。王衍と司馬範だけは刃に掛けず、夜になってから壁を押し倒してその下敷きにして圧殺した[5]。また、司馬越の棺を暴いてその屍を焼き払うと「天下を乱したのはこの男である。天下のために報いを与え、その骨を焼いて天地に告げよう」と宣言した。

次いで石勒は?倉まで軍を進め、何倫・李ツの軍に追いつくと、これを潰滅させた。 司馬?を始め諸々の王公や官僚を生け捕りにすると、その場で全員を処断した[6]。ここでも死者はおびただしい数となった。何倫は下?へ、李ツは広宗へと逃亡した。

5月、劉聡は大将軍呼延晏に洛陽攻略を命じ、石勒にも合流するよう命じた。石勒は精鋭3万を率いて成皋関から入り、同じく洛陽へ軍を進めていた劉曜と王弥に合流した。

6月、漢軍の攻勢により洛陽が陥落すると、王弥と劉曜に後を任せ、?轅を出て許昌に軍を置いた。劉聡は石勒の功績を称えて征東大将軍に任じたが、再び固辞して受けなかった。

王弥と対立
石勒は穀陽に進攻して冠軍将軍王茲を斬った。さらに陽夏に進んで王讃を生け捕りにすると、従事中郎に取り立てた。続いて蒙城を急襲して苟晞を捕えると、左司馬に任じた。劉聡は石勒を征東大将軍・幽州牧に任じたが、またも将軍職を固辞して受けなかった。

漢の大将軍王弥は洛陽攻略中に劉曜と対立し、青州で自立を画策するようになり、青州にいる左長史の曹嶷と連絡を取り合っていた。だが、石勒から背後を襲われるのを憂慮し、石勒へ謙った書を送ってその出方を窺った。かねてより、石勒と王弥は表面上は親しく振舞っていたが、内心互いに疎ましく思っていた。張賓は王弥を誘い出して誅殺するよう勧めると、石勒は深く同意した。

同じ時期、王弥もまた曹嶷の兵を使って石勒を誅殺しようと思い、配下の劉暾を曹嶷の下へ派遣したが、劉暾は東阿に至った所で石勒の游騎部隊に捕えられた。劉暾の懐から王弥が曹嶷に送った書状が発見されると、石勒は彼を殺した。

その後、石勒は乞活の陳午と蓬関で戦った。王弥も劉瑞と対峙しており、劣勢に立たされていたので、石勒へ救援を求めてきた。張賓の進言を受け、石勒は王弥救援に向かって劉瑞軍を急襲し、乱戦の最中に彼を斬った。これに王弥は大いに喜び、劉暾が殺されたのを知らなかったこともあり、石勒に警戒心を抱く事は無くなった。石勒はすぐさま軍を返して、陳午と肥沢で戦った。陳午の司馬李頭が和睦を請うと、石勒は同意して翌日軍を撤退させた。

10月、遂に計画を実行に移し、王弥を己吾での酒宴に誘い出した。王弥は疑う事無く宴席に赴き、心行くまでそれを楽しんだ。酒宴がたけなわとなると、石勒は刀片手に王弥に近づいた。そしてそのまま斬り掛かり殺害した。そして、その兵を吸収すると、王弥に反逆の意思があった為に誅殺したと劉聡に報告した。

この報告に劉聡は激怒し、すぐさま使者を派遣して石勒を責め咎めた。しかし石勒の勢力は強大であったことから、離反を恐れて罰することは出来ず、逆に鎮東大将軍・都督并幽二州諸軍事・并州刺史に任じた。持節・征討都督・校尉・開府・幽州牧も以前のままとなった。

この後、苟晞と王讃は石勒に謀反を起こそうと企てた。だが、石勒に事が露見してしまい、2人共に斬り殺された。

葛陂に駐屯
同年末、石勒は豫州の諸郡を襲撃すると、そのまま長江に達した所で軍を返して、葛陂に軍を留めた。降伏した将軍や2千石以下の官吏から、軍糧を税として供出させた。

石勒は奴隷として売り飛ばされて以来、母の王氏と生き別れになっていた。その王氏は石勒の従子石虎と共に、劉?の下にいた。劉?は張儒に命じて、この2人を石勒のいる葛陂まで送り届けさせた。また書も合わせて送り、晋朝へ帰順して劉聡を討つよう要請した。この書に目を通した石勒は「事業や功徳を行う手段が根本的に我と異なっているな。腐れ儒者どもには理解できんだろう。貴公は本朝(晋)に忠節を尽くしていればいい。我は元より夷(異民族)であり、彼らの為に力は尽くせぬ。」と劉?に返書を送った。だが、母と石虎を送ってくれたことに対しては感謝の意を示し、使者の張儒を厚くもてなして名馬珍宝を贈って見送った。そしてこれ以後、劉?との関係を断ち切った。

この時期、石勒は?陽郡太守李矩を攻めたが、撃退された。

312年2月、石勒は葛陂に砦を築き、農業と造船に力を注いで軍備を整えると建業進攻を目論んだ。司馬睿は諸将に命じて、江南の兵を寿春に集結させた。当時3ヶ月に渡って長雨が降り続いており、石勒軍では飢餓に加えて疫病が蔓延した。石勒は兵の大半を失い、もはや戦どころではなくなってしまった。檄書が朝夕に次々と届き、晋軍が刻一刻と接近している事を知ると、進退窮まった石勒は諸将を集めて対応策を検討した。右長史?膺は、司馬睿に降伏して晋将となえい、河北を平定する事を申し出て許しを請う様進言すると、石勒は答えず深い溜息をついた。さらに、中堅将軍?安は高所に移動して雨水を避ける様進言したが、石勒は「将軍は何を怯えているのか!」と怒った。孔萇・支雄を始めとした30将余りは、敵軍が集結しきる前に夜襲を掛け、城を得て兵糧を奪取する事を進言すると、石勒は「これぞ勇将の計略である。」と笑い、各々に鎧馬1匹を下賜した。張賓の方を向いて「貴公はどう思うか。」と問うと、張賓は「将軍は洛陽を攻略し、天子の生け捕りや王侯の殺害、妃主の略奪に加担しました。将軍の髮を全て引き抜いたとしても罪の数に及ばない程、彼らは将軍のことを憎んでいるでしょう。 降伏という選択肢はまず有り得ません。そもそも王弥を誅殺した後、ここに拠点を構えたのは誤りだったのです。天が数百里に渡って長雨を降らせているのは、将軍にここに留まるべきではないと示しているのでしょう。?には険固なる三台(銅雀台、金雀台、冰井台の3つの宮殿)があり、西はすぐ漢都平陽に接して四方を山河によって囲まれています。まさしく要害の地勢を有しております故、ここに拠点を移すべきです。背く者を討って降伏する者を慰撫し、その上で河北が平定されれば、将軍の右に出る者はいなくなりましょう。今、晋軍が迫ってきていますが、彼らは寿春を守る為に出兵したにすぎません。我々が軍を返したと聞けば、喜んで兵を退くことでしょう。奇兵で襲撃する暇などありますまい。念のために先に輜重を北道に沿って先発させ、将軍は大軍を率いて南下して寿春に向かう振りをするのです。輜重が十分遠くまで行ってから、大軍をゆっくりと転進させれば、進退を恐れる事などありません。」と答えた。石勒は服の裾を払って立ち上がり、髯を震わせると「張賓の計こそ正しい。」と、方針を決した。続け様に?膺を叱責すると「貴公は補佐する立場にあり、功業を成すこと考えるべきであるのに、何故に降伏を進めたのか。本来ならば斬首に値するが、貴公の臆病なまでに慎重な性格は熟知している。故に今回ばかりは不問に付す。」と述べ、彼を右長史の任から解き、代わりに張賓を右長史に昇進させて中塁将軍を加えた。これ以後、石勒は張賓を名指しで呼ばず、『右侯』と呼び敬うようになった。

石勒が葛陂を出発すると、石虎に騎兵2千を与えて寿春に向かわせた。この時、江南からの米や布を積んだ輸送船数10艘が到着し、石虎の将兵は我先にとこれらに群がり、守備の備えをしなくなった。そこに晋軍の伏兵が、一斉に姿を現わしたため、石虎軍は巨霊口で破れ、500人を超える水死者を出した。その上、晋軍を指揮していた紀瞻に、100里に渡って追撃された。紀瞻軍が石勒軍に近づくと兵士は動揺し、晋軍本隊が近づいてるのではないかと口々に語った。石勒は陣を布いてその来襲に備えさせた。紀瞻も逆に石勒の伏兵を警戒し、敢えて軍を進める事無く寿春に軍を返した。

河北へ侵攻
襄国に拠る
石勒は葛陂から北に向かったが、行く先々で陣地は堅く守られ、農作物は略奪されないように全てが取り除かれていた。そのため、石勒軍は深刻な飢餓状態に陥り、遂に兵同士が食糧を巡って争い合うまでに至った。東燕まで達すると、汲郡の向冰が兵数千を率いて枋頭で陣を布いていた。石勒は棘津から北に渡河しようと考えていたが、向冰が待ち構えているだろうと思い、諸将を集めて策を練る事にした。張賓は勇士を選抜して密かに渡河させ、向冰軍の船を急襲して奪い取るよう献策し、石勒はこれに従った。

7月、支雄と孔萇を文石津から筏を使って慎重に渡河させた。石勒自身は酸棗から棘津へと向かった。向冰は石勒軍の襲来を知ると、船を集めて迎撃しようとした。その時既に、支雄らは渡河を完了させて向冰の砦門に到達しており、船30艘余りを手に入れると、兵を全て渡河させていた。そして、主簿鮮于豊に向冰を挑発させ、3ヶ所に伏兵を配置して撃って出てくるのを待ち受けた。向冰が挑発に乗り撃って出てくると、3方から伏兵が一斉に姿を現わし、向冰は挟み撃ちに遭い軍は潰滅した。この勝利によって石勒は兵糧を手に入れ、軍はようやく息を吹き返した。

さらに進軍して?を急襲すると、北中郎将劉演が守る?城の三台に攻撃を仕掛けた。劉演配下の臨深・牟穆は石勒軍の襲来を知ると、数万を引き連れて降伏した。張賓は三台が険固である事から、まずは要害の地である邯鄲か襄国を都とし、河北最大の勢力である王浚と劉?の討伐に当たるべきであると進言した。石勒は同意して襄国に軍を置いた。

また張賓の進言を受け、石勒は襄国に拠ったことを劉聡に上表すると共に、諸将に冀州郡県の砦を攻撃させた。これによりその多くが降伏し、兵糧を石勒の下に送った。上表文を受け取った劉聡は、石勒を使持節・散騎常侍・都督冀幽并営四州雑夷征討諸軍事・冀州牧に任じ、上党郡公に進封し、5万戸を加増し、開府・幽州牧・東夷校尉はそのままとされた。

段部撃退
王浚は石勒への備えとして、広平に割拠していた游綸と張豺に官位を授けて仲間に引き込んだ。彼らは数万の兵を擁して苑郷に拠点を構え、石勒と対峙した。

12月、石勒は?安・支雄ら7将に苑郷攻撃を命じると、彼らは城の外壁を撃ち破った。

これに対して王浚は、督護の王昌を始め、鮮卑段部の段疾陸眷・段末波・段匹?・段文鴦らに5万余りを与えて襄国に向かわせた。

この時、襄国城では堀の改修作業が終了していなかったため、石勒は城から離れた所に幾重にも柵を築かせ、さらに砦を設けて守りを固めた。段疾陸眷の軍が渚陽まで至ると、石勒は諸将を繰り出して続け様に決戦を挑んだが、全て蹴散らされた。連勝に勢いづいた敵軍は、一気呵成に攻城戦の準備に取り掛かった。この情報が石勒軍に伝わると、兵の間に動揺が走った。石勒は将を集めて軍議を開くと「今、敵がすぐそこまで接近している。我が軍との兵力差を考えれば、包囲攻撃を仕掛けられたらば、解く事は不可能に等しいであろう。 外からの救援は無く、籠城しようにも兵糧が底を突きかけている。この現状にあっては、孫武と呉起が生き返ったとしても、守り切る事は出来ないと思われる。そこで私は、将士を選抜して、野戦で決戦を雌雄を決しようと考えたのだが、どう思うか。」と意見を求めた。諸将は皆、守りを固めて敵の疲弊を待ち、撤退を見てから追撃を掛けるべし、と口を揃えた。そのため石勒は張賓と孔萇に意見を求めると、彼らは北壁に突門を造り、敵が軍を整備し終える前に不意を突いて撃って出て、段末波の陣営を急襲するよう勧めた。石勒は我が意を得たりと微笑を浮かべると、作戦は決したと軍議を閉じた。

すぐさま、孔萇を攻戦都督に任じて北城に突門を造らせた。想定通り、段疾陸眷は北壁の近くに布陣を開始した。石勒は城壁の上に立つと、布陣がまだ整っていないのと、将士が武器を手許に寄せずに眠り込んでいるのを確認した。そこで、引き連れてきた将士に城壁の上で太鼓を鳴らさせ、これを合図に孔萇が各突門に配していた伏兵を出撃させた。孔萇自身も段末波の陣へと急襲を掛けたが、段末波の兵は精鋭揃いであり、打ち破れずに孔萇は兵を退かせた。 段末波はすぐさま孔萇軍に追撃を掛け、そのまま城門へと侵入した。しかし、石勒らはそれを読んでおり、ここにも伏兵を配置していた。これによって、段末波は生け捕られた。 同様に急襲を受けていた段疾陸眷らは、段末波の敗北を知ると散り散りに逃げ去った。この勝利に乗じた孔萇は追撃をかけ、敵兵は30里余りに渡って屍が転がり、鎧馬5千匹を鹵獲する大戦果を挙げた。

段疾陸眷は敗残兵を収集し、渚陽に兵を留めると、石勒の下へ使者を立てて講和を求めた。また鎧馬と金銀を送り、合わせて段末波の弟3人を人質に差し出して、身柄交換も求めた。諸将は段末波を殺して敵の戦意を挫く事を勧めたが、石勒は「遼西鮮卑の段部と言えば強国であり、我らとの間に怨恨など全くなく、ただ王浚に利用されたに過ぎぬ。今、段末波1人を殺して、1国から怨みを買うのは避けるべきであろう。彼を解放してやれば必ずや我らに感謝し、二度と王浚に利用される事も無くなろう。」と言い、人質交換に応じた。

石勒は石虎を段疾陸眷の下に派遣し、同盟と兄弟の契りを結んだ。これにより、段疾陸眷らは渚陽を引き払って退却し、王昌も薊に引き上げた。游綸と張豺は段疾陸眷の敗北を知ると、石勒に帰順した。石勒は游綸を主簿として取り立てた。

石勒は段末波を酒宴に呼び出すと、父子の誓いを交わした。そして、使持節、安北将軍に任じ、北平公に封じて遼西へと帰還させた。段末波は石勒の厚恩に感じ入り、帰路の途中、日毎に南へ向かって3度拝礼したという。 これ以後、段部は内部分裂を起こし、王浚の威勢は次第に衰えていく事となった。石勒は参軍閻綜を劉聡の下に向かわせ、勝利を上奏させた。

?城攻略
次いで石勒は信都へ向けて出兵し、冀州刺史王象を殺した。王浚は邵挙に冀州刺史を代行させ、信都の守りを任せた。

313年4月、石虎が?城の三台に攻め込み、これを陥落させた。劉演は廩丘へと逃亡し、将軍の謝胥・田青・郎牧は三台の流民を引き連れて降伏した。石勒は桃豹を魏郡太守に任命じ、彼らを慰撫させた。

さらに、乞活(流民集団)の李ツと上白城で戦い、その首級を挙げた。この時、かつての恩人である郭敬と再開した。石勒は郭敬に衣服と車馬を与え、上将軍に任じ、降伏した兵も全て許して彼の配下につけた。

劉聡は功績を称え、石勒を侍中・征東大将軍に任じた。また、母の王氏を上党国太夫人、妻の劉氏を上党国夫人とし、王妃と同等の章綬首飾をつけることを許した。

この時期、人質として留まっていた段末波の弟が、隙を見て抜け出し遼西へと逃亡した。石勒はこれに激怒し、見逃した役人を皆殺しにした。

司州や冀州が次第に安定を取り戻し始めると、人民はまた租税を納めるようになった。石勒は太学を設置すると、経書に詳しく書物に精通している官吏を文学掾として取り立て、将校の子弟から選抜した300人を教授させた。またこの時期、石勒は母の王氏を亡くした。彼はその亡骸を山谷深くに埋葬したため、その詳しい場所を知る者は誰もいなかった。襄国城の南において九錫の礼を備えると、改めて公式に母の葬儀を行った。

石勒は石虎を魏郡太守に任じ、?城と三台の統治を任せた。

王浚を討つ
油断を誘う
5月、孔萇に命じて定陵を攻撃させ、王浚が任じた?州刺史田徽を斬り殺した。これを知った乞活の薄盛は、勃海郡太守の劉既を捕えると5千戸を引き連れて石勒に帰順した。烏桓の審広・漸裳・?襲は王浚に見切りを付け、密かに石勒に使者を派遣して帰順を申し出た。石勒はこれを受け入れ、手厚く慰撫した。

この時期、王浚は百官を置いて自立の動きを鮮明にし、驕り高ぶって淫虐の限りを尽くしていた。張賓は、身を低くして王浚を奉じ油断を誘うよう進言すると、石勒は深く同意した。

12月、配下の王子春と董肇に多くの珍宝を持たせ、王浚の下へ派遣した。そして、彼を天子に推戴すると共に書を渡して「この石勒は本来はしがない胡人で、戎の地の出身に過ぎません。晋室の乱れにより天下は飢餓に陥り、流民は苦しみ冀州に逃げ込みました。その為、止む無く彼らの命を守るために部族を率いて立ち上がりました。今や晋室は衰え、遠く呉・会稽の地に移ったため、中原から主がいなくなり、民は従うべき者を見失いました。明公殿下(王浚)は天下に人望を慕われており、帝王となる者は明公を置いて他におりません。臣が身命を投げ打ち、義兵を興して暴乱を誅しているのは、正に明公のためであります。殿下が天に応じて時に順じ、皇帝位に登られることを伏して願っております。臣は明公を天地父母と同じように慕っており、明公が臣の心を察していただければ、子の如く従いましょう。」と述べ、側近の棗嵩に厚く賄賂も贈った。この頃、王浚の陣営では段疾陸眷が反乱を起こしており、士民の多くが彼の下を去っていたため、石勒の申し出を大いに喜んだ。石勒の下に使者を派遣し、贈り物を渡して返礼とした。

王浚の司馬游統は范陽の統治を任されていたが、王浚に反旗を翻して石勒に帰順しようと謀り、密かに使者を出していた。石勒はその使者の首を刎ねると、その首を王浚の下へと送り届けさせて誠実を示した。王浚はますます石勒の忠誠を信じるようになり、疑う事は二度となかった。

314年1月、王子春が王浚の使者と共に戻ってきた。これに先んじて石勒は精鋭に隠れるよう命じ、その替わりに疲弊し弱体化した兵を府に入れて、わざと王浚の使者の目に付くようにさせた。使者に会うと王浚の書を受け取り、彼から贈られた払子を敢えて手に取らず、壁に掛けて朝夕にこれを拝した。そして「我は王公(王浚)と直に会う事は適わないので、王公から賜ったこの払子を、王公のように思って拝する事にしたのだ。」と使者に語った。そして再び書を持たせて、董肇を王浚の下へと派遣した。そこには『3月中旬には自ら幽州に参上し、尊号を奉上しようと思っております』と言う内容が記されていた。また、再び棗嵩に賄賂を贈り、并州牧・広平公の地位を求め、本気で王浚に従う姿勢があることを見せた。使者を返した石勒は王子春を呼び出して王浚の政事に関していくつか質問した。王子春は「幽州は去年の大洪水のため、人民は食うに事欠く状態です。王浚は粟百万を積んでいるにもかかわらず、救済する所か憂う様子もありませんでした。それ所か、刑事も政事も苛酷を極め、租税も甚だ重いと言った有様です。賢良の士を害し、諫める者を誅し、民はこれに堪えられず、彼を見限り他所へと流れて行っています。 外では鮮卑・烏桓が離反し、内では棗嵩・田矯らが私腹を肥やしております。そのため、人心は乱れ、士卒は疲弊のため弱体化している始末です。それでもなお、王浚は楼閣を建て、百官を並べて自らを漢高(劉邦)や魏武(曹操)より上であると世迷言を言っております。 幽州では怪しい流行り歌があり、聞いた者は皆王浚の暴政に心を寒くするといいますが、王浚は泰然自若としております。彼が滅びる時期は近いでしょう。」と答えた。石勒は笑みを浮かべると、机を撫でながら「これで王彭祖は生け捕れるな。」と自信を覗かせた。王浚の使者が薊城に帰還すると、石勒の軍は弱兵ばかりであること、石勒の忠誠に二心は無いことを告げた。これに王浚は大いに喜び、石勒への信頼の度を強めた。そしてますます増長し、守りを怠るようになった。

薊城攻略
2月、石勒は兵に召集を掛け、王浚攻撃を決行しようとしたが、劉?や鮮卑・烏桓が後顧の憂いであったため、張賓に相談した。張賓は軽騎兵で電撃戦を掛け、鮮卑や烏桓が動く前に勝負を決すべしと進言した。さらに、劉?と王浚は仇敵同士であることから、劉?には書を送って人質を送り講和を求めておけば尚安心であると述べた。これを聞いた石勒は大いに喜び、意を決した。

軽騎兵を率いて幽州を急襲すべく、まだ夜の明けきらぬ内に出陣した。游綸の兄游統は范陽におり、游統に軍計を漏らすのではないかと恐れたため、柏人に至った時に游綸を殺した。張慮を劉?の下に派遣して書を送り「我のこれまで犯してきた過ちはとても多く重い。王浚を討つことで少しでも償いたい。」と伝えた。以前より王浚を忌々しく思っていた劉?は、この申し出に大いに喜び「石勒は天命を知るや過ちを省み、連年の咎を反省し、幽州を抜いて善を尽す事を願い出てきた。今この願いを聞き入れ、任を授けて講和する事とした。」と諸州郡に檄文を飛ばした。

3月、石勒軍が易水まで進軍すると、王浚の督護孫緯はこれを防ごうとしたが、游統が反対したため軍を動かせなかった。石勒到来を王浚に報告すると、王浚の将士は皆迎え撃つ事を求めたが「石公がここまで来たのは、正に我を奉戴しようとせんがためである。これ以上この話をする者はこの場で斬る!」と王浚は怒鳴った為、諸将は口をつぐんだ。王浚は石勒をもてなすために宴席の準備に取り掛からせた。

石勒が早朝に薊に至った時、門はまだ閉じられていため、門番に開門させた。伏兵が潜んでいるのではないかと疑い、王浚に献じて礼とすると偽って牛や羊数千頭を駆け込ませ、 街道を埋め尽くして、もし兵がいても身動きが取れないようにした。石勒は入城すると、兵に略奪を許可した。この事態に王浚は初めて不信感を抱き、驚き戸惑って完全に冷静を失った。王浚の側近は兵を出して対処する事を求めたが、彼はそれでも許可を出さなかった。石勒がそのまま役所に乗り込むと、流石の王浚も恐れて逃亡を図ったが、石勒は部下に命じて王浚を捕えさせると自らの前に立たせた。石勒が徐光に目配せすると、徐光は 「君の位は高く、爵は上公に列せられていた。幽都と言う精強な国に拠り、燕の地の突騎兵を用い、強兵を手中にしていた。しかし、洛陽、長安が陥落しようとしているにもかかわらず、ただ傍観するだけで天子を救おうともせず、あまつさえ自ら取って代わろうとしていたな。また、暴虐の徒にほしいままにさせ、忠良の士を殺害した。己の欲望のままに行動し、毒を燕の地に蔓延させた。お前を生かしておいては、天のためにならない。」と王浚と責め立てた。王洛生に騎兵500を与え、王浚を襄国まで護送させた。王浚は隙を見て自ら水に身を投じて自殺を図ったが、あえなく引き上げられ、市場に引きずり出されて首を刎ねられた。

石勒が王浚の精兵1万人を殺すと、王浚の部下達は次々に石勒の下を訪れて謝罪し、賄賂を贈って命乞いをした。王浚の楽陵郡太守であり、厭次に駐軍していた邵続も石勒に降り、石勒は邵続の子である邵乂を督護に任じた。石勒は朱碩・棗嵩らが賄賂を横行させて政事を乱したこと、游統が王浚に忠を尽さなかったことを責め、その首を刎ねた。また、烏桓の審広・漸裳・?襲・?市を襄国に移送した。そして、王浚の宮殿に火を放って焼き払い、王浚に拘留されていた流民を各々の故郷へと帰した。

劉翰を寧朔将軍に任じ、幽州刺史を代行させて薊の守備に当たらせ、各郡県に長官を置いた。その後、石勒は軍を返して襄国へと帰った。その途上、孫緯から強襲され大敗を喫したが、石勒はなんとか逃げ延びた。

石勒は襄国に帰還した後、左長史傅遘を劉聡の下へと派遣し、王浚の首を奉じさせ、併せて戦勝の報告をさせた。劉聡は使者の柳純に節を持たせて派遣し、幽州平定の勲功をもって石勒を大都督・陝東諸軍事・驃騎大将軍・東単于に任ずる旨を報告させた。侍中・使持節・開府・校尉・二州牧は元のままとされた。また、金鉦と黄鉞、さらに鼓吹を前後二部与えられ、12郡を増封された。石勒はこれを固辞し、2郡を受けただけであった。石勒は左長史張敬ら11人を伯・子・侯に封じた。また文武官もその功績によって進位させた。

4月、劉翰は裏切って段匹?の下へと亡命した為、石勒は薊城を失陥した。さらに、邵続も石勒から離反して段匹?と結び、劉胤を江東に派遣して司馬睿と連絡を取り合った。怒った石勒は子の邵乂を殺した。石勒は兵を出して邵続を包囲させたが、段匹?は段文鴦を派遣したため、石勒軍は引き上げた。

并州を獲得
劉?・劉演との争い
この時期、襄国を大飢饉が襲い、穀物2升が銀1斤に、肉1斤が銀1両に高騰した。

秋、幽州・冀州が次第に安定してくると、石勒は初めて戸籍の実情を丹念に調べるよう州郡に命じた。そして、絹2匹、穀物2斛を出させるよう各々の戸に命じた。

これより前、青州刺史の曹嶷が劉聡に反旗を翻して東晋に降った。彼は斉・魯一帯の郡県を攻略し、臨?を拠点にすると、10万余りの兵を擁して黄河に沿って守りを築いた。

315年3月、これに対して石勒は漢朝廷へ「曹嶷は東方で割拠する意思があります。討伐するべきです。」と上書した。しかし劉聡は、石勒が曹嶷を滅ぼしてから更に勢力を拡大することを恐れ、進言を却下した。

石勒配下の支雄が廩丘で劉演と戦ったが、返り討ちに遭った。劉演は韓弘・潘良に頓丘を襲撃させ、石勒が任じた頓丘郡太守邵攀を斬った。支雄は韓弘らに反撃を仕掛け、廩丘で追いつき潘良を斬った。

劉?は楽平郡太守焦球に常山を攻撃させると、石勒配下の常山郡太守?泰を斬った。劉?の司馬温?が西の山胡(匈奴の部族)を攻撃すると、石勒配下の?明が迎え撃ち、?城で返り討ちにした。

4月、陳川が浚儀で東晋に反旗を翻すと、石勒に帰順した。?明はィ黒と?平で戦い、これを降伏させた。そのまま進軍を続けて、東燕・酸棗と立て続けに打ち破り、2万戸余りを襄国に引き連れて軍を返した。

7月、石勒は葛薄を濮陽に進攻させた。葛薄は濮陽を陥落させると、濮陽郡太守韓弘の首級を挙げた。

劉?は王旦に中山を攻撃させた。王旦は石勒配下の中山郡太守秦固を駆逐した。石勒配下の劉?が敵軍を迎え撃ち、望都関で王旦を生け捕りにした。

石勒は邵続の守る楽陵へと進攻した。邵続は段匹?に救援を要請し、彼は段文鴦を救援として派遣した。石勒はこれを聞くと軍を退いた。

9月、劉聡が使者を遣わして石勒に弓矢を下賜して陝東伯を加え、征伐の自由を与えた。また、刺史・将軍・守宰・列侯の任命を全て石勒に任せ、年毎に報告させることとした。さらに、長子の石興を上党国世子として翊軍将軍・驃騎副貳とした。

章武の王?が挙兵し、石勒領の河間、勃海の諸郡を荒らし回っていた。そこで石勒は揚武将軍張夷を河間郡太守に、参軍臨深を勃海郡太守に任命して、各々に歩兵騎兵合わせて3千を与えて鎮圧にあたらせた。また、長楽郡太守程遐を昌亭に布陣させ、援護をさせた。

平原烏桓の展広・劉?等の部落3万戸余りを襄国に移した。

ィ黒が石勒の下から離反すると、支雄・?明がィ黒の守る東武陽を陥落させた。ィ黒は河に身を投じ、支雄らは東武陽の人民1万人余りを襄国に引き入れた。

廩丘を攻略
316年4月、石虎に乞活の王平が守る梁城を攻撃させたが、石虎は敗北を喫して退却し、転進して劉演の守る廩丘を攻撃した。邵続は段文鴦を劉演の救援に差し向けたが、石虎が盧関津を固めていたため、段文鴦はこれ以上の進軍が出来ず、やむ無く景亭に軍を留めた。すると、豫州の豪族張平らが挙兵して劉演の救援に向かった。石虎は夜の内に陣営を放棄して、外に伏兵を配置し、河北に帰還すると吹聴して回った。張平らはこれを信じ込み、空になった石虎の陣営に侵入した。これを確認した石虎は軍を返して急襲を掛け、張平軍を撃ち破ると、そのまま廩丘を攻めてついに陥落させた。劉演は段文鴦軍に逃げ込む事が出来たが、劉演の弟劉啓は捕らえられ、襄国へと護送された。劉演は劉?の兄子であり、石勒はかつて劉?によって母を守ってもらっていたため、彼に恩義を感じていた。そのため、劉啓に田宅を下賜し、儒官をつけて経を学ばせた。

この時期、蝗害が大発生し、中山・常山の被害が最も酷かった。中山の丁零?鼠が石勒に反旗を翻し、中山・常山に攻め込んだ。石勒は騎兵を率いて?鼠軍の討伐に当たり、彼の母妻を生け捕りにすると、軍を返して帰還した。?鼠は代郡へと逃亡した。

7月、河東や平陽で蝗害が発生し、10人のうち5〜6人が流亡するか餓死した。石勒は石越に騎兵2万を与えて并州に駐屯させ、流民を按撫させた。これにより20万戸の民が石勒に帰順した。劉聡は黄門侍郎喬詩を派遣して石勒を責めたが、石勒はこれを無視して密かに曹嶷と結んだ。

?城の戦い
11月、石勒は楽平郡太守韓拠が守る?城へと攻め込んだ。韓拠は劉?に援軍を請い、劉?は箕澹に兵10万余りを与えて石勒軍に当たらせた。自らも広牧に進軍して、箕澹の援護についた。石勒は敵軍を迎え撃とうとしたが、ある者が「箕澹の兵馬は精盛であり、一戦を交えるべきではありません。ここは、溝を深く塁を高くして、その鋭気を挫き、攻守の勢が変わるのを待つべきです。そうすれば、必ずや万全を得られるでしょう。」と諫めた。石勒は「敵は大軍であるが、遠征してきているがために、体力は尽きている。また、多いと言っても烏合の衆に過ぎず、号令すら行き渡っていない。一戦を交えれば捕えられるというのにこれでも強いというのか。しかも敵はすぐそこまで来ているのに、どうして退き下がることが出来るのか。大軍が一旦動き始めたなら、簡単には返せない。 もし箕澹が我が軍の退却に乗じたらば、反転して当たる暇も無くなる。そうなれば、溝を深く塁を高くしてる暇もないのだぞ。ここで戦わねば、自ずと滅亡の道をたどる事になるわ。」と反論し、言い終えると同時にこの者を斬り捨てた。そして、孔萇を前鋒都督に任じて、3軍に「退き下がった者は、その場で斬る。」と命じた。

山上に囮の兵を配置すると、その近くに伏兵2部隊を潜りませた。石勒は軽騎兵を率いて箕澹軍と戦ったが、頃合を見て兵を収め、北に逃げたように見せ掛けた。これに箕澹は、兵に追撃を命じた。十分に誘い込んだ所で石勒は伏兵を発し、その前後から挟撃を加えた。これによって箕澹軍を大破し、鎧馬1万匹を鹵獲した。箕澹は騎兵千余りと共に代郡へ落ち延び、韓拠は劉?の下に逃げ込んだ。孔萇は桑乾まで箕澹を追撃し、そのまま代郡まで攻め込み、箕澹の首級を挙げた。

12月、劉?の長史李弘は、石勒に降伏して并州を明け渡した。そのため、劉?は遂に段匹?の下へと逃亡した。石勒は、陽曲・楽平の住民を襄国に移すと、守備兵を設置して軍を返した。石勒は、兼左長史張敷を劉聡の下に派遣して戦勝報告をさせた。

勢力拡大
流民を収容
石勒が楽平の征伐に出た隙に、南和令趙領が広川・平原・勃海の数千戸を招集し、石勒から離反して邵続の下へと走った。河間の??も兵数100を集めて石勒に反旗を翻した。

石勒は冀州の諸県を巡察すると、右司馬程遐を寧朔将軍、監冀州七郡諸軍事に任じた。

司州・冀州・并州・?州の流民数万戸は遼西に居留していたが、次々に招引されたため、人民は生業を満足に出来なかった。孔萇らは幽州、冀州の間で群盗をなしていた馬厳、馮?に攻撃を仕掛けたが、なかなか攻め落とせずにいた。張賓は石勒へ、軍を退いて体勢を整え、徳のある者に統治を任せて仁政を敷けば、遼西の流民は自ずと帰順するだろうと進言した。 石勒はこれに従い孔萇らを帰還させた。その上で、武遂令李回を易北都護・振武将軍・高陽郡太守に任じた。馬厳の兵の多くはかつて李潜という人物の部下であり、李回はかつて李潜の府長史であったため、馬厳の兵は李回の威徳を慕っていた。李回が着任したと聞くと、多くの兵が馬厳から離反して李回に付いた。馬厳は部下が離反したので恐れを抱き、幽州へと逃亡を図ったが、その途中に水に溺れて溺死した。馮?は兵を率いて石勒に降伏し、李回は易京へと移った。数千の流民がこの年だけで石勒に帰順したため、石勒は大いに喜んだ。この功績を賞して李回を弋陽子に封じ、300戸を加増した。また張賓には1千戸を加え、前将軍に昇進させたが、彼はこれらを固辞して受けなかった。

段部内乱
317年6月、東晋の豫州刺史祖逖が?城に入ると、石勒は石虎を派遣して?を包囲させた。桓宣が援軍を率いて?に向かうと、石虎は撤退した。

石虎は長寿津を渡河して梁国に攻め込み、内史の荀闔を殺した。

7月、劉?は段匹?と段渉復辰・段疾陸眷・段末波と固安で面会し、石勒を討つべく謀議を重ねた。石勒は参軍王続を段末波の下に派遣し、貢物を贈って離間させようとした。段末波はかつて石勒に受けた恩に報いようと考えており、そこへ手厚い賄賂が贈られたため、段渉復辰・段疾陸眷を引き返すよう説得した。この3人が離脱したため、劉?と段匹?もやむなく薊城へと帰った。

邵続は兄子の邵済に石勒の領地である勃海を攻撃させ、邵済は3千人余りを引き連れて帰還した。劉聡配下の趙固は洛陽ごと東晋に帰順したが、石勒の強襲を恐れて参軍高少に石勒を崇拝する書を奉じさせ、併せて劉聡を討つ事を求めた。石勒は大義をもってこれを責め、この要請を拒否した。趙固は深く恨んで、郭黙と共に河内・汲郡を襲撃した。

318年、段末波は鮮卑単于の段渉復辰を殺すと、段忽跋隣を単于に擁立した。段匹?は幽州から段末波に攻撃を仕掛けたが、逆襲に遭って撃ち負かされ、段匹?は幽州へと逃げ帰った。

5月、段匹?が劉?を殺すと、劉?の将士は相継いで石勒に帰順した。段末波は弟に騎兵を与え、段匹?のいる幽州を攻撃させた。段匹?は兵数千を引き連れて邵続の下に逃走を図った。石勒配下の石越は段匹?に攻撃を掛け、塩山で大いに撃ち破った。段匹?再び幽州に戻り、守りを固めた。この戦いで石越が流れ矢に当たって戦死したので、石勒は彼のために音楽を3ヶ月に渡って慎むと、平南将軍を追贈した。

曹嶷は東晋に付いたものの、建業からは遠く隔たっていたため、援護が望めない状態だった。そのため、石勒が侵攻してくるのではないかと恐れを抱き、その勢力が強大化するにつれ不安は日増しに高まり、使者を派遣して講和を求めた。これを受けて石勒は曹嶷を東州大将軍・青州牧に任じ、琅邪公に封じた。

前趙から離反
?準の乱
7月、劉聡の病気が重篤になると、石勒の下へ早馬を出して、大将軍・録尚書事に任じ、輔政を任せる遺詔を託したが、石勒はこれを固辞した。それでも劉聡は使者に節を持たせて派遣し、再度石勒を大将軍・持節に任じ、都督・侍中・校尉・二州牧はそのままとして、10郡を増封した。しかし、石勒はこれも受けなかった。劉聡が死去すると、子の劉粲が皇帝位を継いだ。

8月、大将軍の?準が乱を起こすと、平陽で劉粲を殺害し、劉氏を老若男女問わず全て東市に引き出して斬首した。また、永光・宣光の二陵(劉淵と劉聡の墓)を掘り返し、劉聡の屍を斬った上で宗廟を焼き払った。この報を受けた石勒は張敬に騎兵5千を与えて前鋒に任じ、?準討伐を命じた。石勒自身も精鋭5万を率いて張敬軍に続き、襄陵の北原に本陣を置いた。周辺の羌族・羯族4万余りが石勒に帰順した。?準は何度か決戦を挑んだが、石勒は守りを固めて?準の鋭気を削いだ。この時、劉曜も長安を発して、蒲坂まで軍を進めていた。

10月、劉曜が皇帝位に即き、石勒を大司馬・大将軍に任じ、九錫を加え、10郡を増封したこれで以前の封郡と併せて13郡となり、さらに趙公に進爵させた。

石勒が平陽の小城に攻撃を仕掛けると、平陽大尹周置らは6千戸余りを率いて石勒に降伏した。また、巴?族や諸々の羌族・羯族で帰順してきた10万余りの民を司州の諸県に移した。?準は卜泰を使者に立て、乗輿と服御を持たせて石勒に講和を求めた。石勒は劉曜と志を共にしていたため、卜泰を捕らえて劉曜の下へと送った。また、劉曜の下に逃げるという選択肢は無い事を示し、その軍勢を挫こうとした。

劉曜は卜泰へ、?準がもし降伏するならば全てを許して政事を任せる、と伝えて密かに盟約を結び、卜泰を平陽に帰して諸部族を慰撫させようとした。卜泰が平陽に戻される事を知った石勒は、卜泰と劉曜が謀を企てて自分をはめるつもりなのではないかと疑い、卜泰を斬ろうとした。しかし諸将は皆 「今、卜泰を斬ったならば、?準の降伏は二度と望めません。ここは、卜泰は漢(劉曜)と同盟して共同で?準を誅殺する事になったと城中に発表させるのです。そうすれば、?準は震え上がって必ずや速やかに我らの下に降伏してくるでしょう。」と言った。石勒はしばらく考え込んだ後、諸将の意見に従って卜泰を帰した。卜泰は平陽に帰ると、劉曜からの提案を伝えたが、?準は劉氏の一族を皆殺しにしたため、投降を躊躇った。

12月、卜泰は?準配下の喬泰・馬忠らと共に兵を挙げ、?準の首級を挙げた。そして、子の?明を盟主に推戴すると、卜泰と卜玄に伝国の六璽を持たせて劉曜の下に派遣し、帰順の意を示した。石勒は?準の勢力を取り込もうと目論んでいた為、劉曜に出し抜かれたことに激怒した。令史の羊升を平陽に派遣すると、?準を殺害したことで?明を責め立てた。これに?明は怒り、その場で羊升を斬り捨てた。これを知った石勒は、怒り心頭となり、?明討伐の軍を挙げた。?明は迎撃するも破れ、屍が2里に渡って連なった。敗走した?明は城門を築いて守りを堅め、無策に撃って出る事をしなくなった。東晋の彭城内史周堅は、沛郡内史周黙を殺害すると、彭城ごと石勒に帰順した。石虎は幽州・冀州の兵を率いて、石勒軍と合流して平陽に攻め込んだ。劉曜は征東将軍の劉暢を?明の救援に差し向けると、石勒は軍を蒲上に留めた。石勒の進攻に?明は平陽の兵を伴って劉曜の下へと逃げ込んだ。劉曜は西の粟邑へと移ると、?氏を全て誅殺した。石勒は平陽の宮室を焼き払うと、裴憲と石会に劉淵・劉聡の二墓を修復させた。また、劉粲を始めとした100余りの屍を収容して葬ると、渾儀や楽器を襄国に移した。左長史王脩を劉曜の下に派遣して、戦勝報告をさせた。

劉曜と対立
319年、劉曜は司徒郭らに節を持たせて石勒の下に派遣し、石勒を太宰・大将軍に任じ、趙王に進爵させる旨を伝えた。以前からの20郡に加えて7郡を増封すると、入朝する際の儀礼は曹操が漢の輔佐をした際のものに準じるものとした。夫人は王后に、子の石興は王太子とされた。王脩の舎人である曹平楽は、王脩と共に劉曜への使者として派遣されていたが、そのまま劉曜の下に留まり仕える事にした。曹平楽は「大司馬(石勒)は王脩らを派遣して表面上は恭順の態度を示していますが、 その実、大駕(天子、この場合は劉曜)のの強弱を探らせているのです。王脩の帰りを待って謀事を立て、乗輿を急襲つもりでいるのです。」と劉曜に述べた。この時、劉曜の軍勢は傷つき疲弊していたため、王脩がこの事を石勒にばらすのを恐れた。劉曜は怒りを露わにすると、郭らに帰還を命じて王脩の首を粟邑の市で刎ねた。そして、石勒への太宰の任命を停止した。

3月、同じく使者として派遣されていた劉茂は何とか逃げ帰り、王脩が殺された経緯を報告した。これに石勒は激怒し、曹平楽の3族を皆殺しとし、王脩に太常を追贈した。また、官位の授与が停止された事も知らされると、怒りは頂点に達し「我は劉家を奉じ、人臣の道を治めてきた。もし我がいなければ帝を称することなどできなかったであろう。その基礎は我が築いてきたのだ。しかも、我は古人の如く、以前同様に主君を奉じているにも関わらず、その使者を殺してしまうとは! 帝王が起こるのに、決まりなどあるものか。趙王・趙帝の位は我自らが名乗ることにする。名号の大小を他者に決められる謂れがあるものか。」と言い放った。そして、太医・尚方・御府諸令を設置した。

4月、陳留郡太守を自称していた陳川が祖逖に敗れ、石勒に帰順した。

祖逖は蓬関で陳川と一戦を交えると、石勒は石虎に兵5万を与えて救援に向かわせた。石虎は浚儀で祖逖軍を撃ち破り、梁国へと退却させた。さらに石虎は揚武将軍左伏粛に祖逖を攻撃させ、石勒も桃豹を蓬関に送り込むと、祖逖は淮南郡まで退いた。石虎は陳川の部衆5千戸を広宗に写し、桃豹に陳川の故城を守らせた。

石勒は宣文・宣教・崇儒・崇訓を始め10余りの小学を襄国の四門に新たに設け、将軍豪族の子弟百100人余りを選抜して学問を受けさせた。また、専門の役所を置いて貨幣を造らせた。

河西鮮卑の日六延が叛乱を起こすと、石虎に討伐を命じた。石虎は日六延を朔方で撃ち破ると、2万の首級を挙げ、3万人余りを捕らえ、獲得した牛馬は10万を数えた。

同時期、孔萇は幽州に進軍して諸郡を平定した。段匹?の兵士は食糧不足のために四散してしまい、彼は薊を離れて上谷に拠点を移した。代王拓跋鬱律は精兵に上谷を攻撃させ、段匹?は妻子を棄てて楽陵へと逃亡し、邵続の下に身を寄せた。

曹嶷が使者を石勒の下へ派遣して貢物を献上し、黄河を境に互いの領土を定めることを要請し、石勒は同意した。

後趙樹立
10月、石虎は張敬・張賓を始めとした諸将100人余りと共に、石勒に尊号を称するよう進言した。石勒は書を下し「我は徳が少ないながらも、偶然が重なり今の地位に至るのであり、周囲からの反発を日夜恐れている。それなのに、どうして尊号を称して四方の人から詰られる事など考えるか。かつて、周文(周の文王)は、天下の3分の1を占めながらも殷朝に服属した。小白(桓公)は周室を凌ぐ紀雄があったが、尊崇を続けた。そしうして彼らは国家を殷周よりも強国とした。我の徳は2伯に大きく劣るのだぞ。郷らは即座にこの議を止め、二度と繰り返すことのないように。これより敢えて口にした者は、容赦無く刑に処する。」と述べた。

石勒は再び書を下し「今は大乱の最中にあって、律令は日に日に煩雑になっている。なので、律令の要点だけを選び取り、条制を定めて施行することにする。」と述べ、法曹令史貫徹志に命じて制度5千文を作らせ、10年余りに渡りこれを律令とした。

この時期、東晋の泰山郡太守の徐龕が、反旗を翻して石勒に帰順した。

11月、石虎を筆頭に張敬・張賓・左右司馬の支屈六・程遐ら文武百官29人が「臣らが聞いたところによると、非常の度には必ず非常の功があり、非常の功があれば必ず非常の事が起きるといいます。三代(夏・殷・周)が次第に衰えると、五覇(春秋五覇)が代わる代わる興り、難を静め時代を救いました。まさに神聖にして英明であると言えましょう。謹んで思いますに、殿下は生まれながらにして聖哲であり、天運に応じてあらゆる世界を鞭撻し、皇業を補佐しました。そのため、全ての大地は困苦から息を吹き返し、嘉瑞や徴祥は日を追って相継ぎ、人望は劉氏を超えたと言え、明公に従う者は、10人いればその内9人となりました。こうして今、山川は静まり、星に変事なく、四海を次々と翻す様を見て天人は思慕敬仰しております。誠に中壇に昇り、皇帝位に即いて、立身出世を図る者達にわずかばかりの潤を授けるべきなのです。劉備が蜀に在し、魏王(曹操)が?に在した故事に依って、河内、魏、汲、頓丘、平原、清河、鉅鹿、常山、中山、長楽、楽平の11郡と、趙国、広平、陽平、章武、勃海、河間、上党、定襄、范陽、漁陽、武邑、燕国、楽陵の13郡を併合し、合計24郡、29万戸を以って新しい趙国とする事を求めます。昔に倣って太守から内史に改め、禹貢に倣って魏武が冀州の境を復活させたように、南は盟津、西は龍門、東は黄河、北は塞垣とすべきでしょう。そして、大単于が100蛮を鎮撫するのです。また并州、朔州、司州の3州を廃して、部司を置いて監督させるのです。謹んで願いますに、上は天意に添い、下は群望を汲み取らん事を。」と上疏した。石勒は西面して5度断り、南面して4度辞退したが、百巻が皆叩頭して強く求めたため、遂にこの上疏を聞き入れた。

石勒が趙王を称すと、宴会は7日に渡って催された。恩赦を下して百姓の租税を半分にし、親や兄姉に孝行する者、耕地を新たに開いた者、義の為に死んだ者に絹を、孤児や老人、未亡人に対して穀物3石を下賜した。春秋の列国、漢初の侯王が、代ごとに元年を称したのに基づいて、年号は立てずに趙王元年と改めた。社稷、宗廟を建立し、東西に宮殿を造営した。胡人の禁法を重くし、衣冠の者や華族に対する横暴を押さえ込ませ、胡人を国人と号するようにした。使者に州郡を巡行させ、農事と養蚕を励行させた。

従事中郎裴憲、参軍傅暢・杜?を経学祭酒に、参軍続咸・?景を律学祭酒に、任播・崔濬を史学祭酒に任じた。中塁将軍支雄・游撃将軍王陽を門臣祭酒に任じ、胡人の訴訟に専従させた。張離・張良・劉群・劉謨を門生主書に任じ、胡人の出内を管理させた。張賓に大執法を加え、朝政を取り仕切らせると、官僚の首位とした。石虎を単于元輔、都督禁衛諸軍事に任じた。前将軍李寒を司兵勲に任じ、国人の子に撃刺戦射の法を教授させた。記室佐明楷・程機に『上党国記』を、中大夫傅彪・賈蒲・江軌に『大将軍起居注』を、参軍石泰・石同・石謙・孔隆に『大単于志』を編纂させた。

これ以後の朝会では、常に天子の礼楽をもって群臣と接するようになり、朝廷内の礼儀作法の体裁が整えられた。群臣が論功を議する事を求めると、石勒は「我が軍を起こして以来、16年の歳月が流れた。文武の将士で我の征伐に付き従ってくれた者で、矢石を受けなかった者はおらず、皆苦難を乗り越えてきた。その中でも、葛陂での戦いで功績が最も著しかった者に先に賞を与えるべきであろう。生き残った者には、軽重や功位に従って爵封し、既に死した者には賞一等を加える事とする。存命している者にも亡くなった家族に対しても、十分に慰撫して我の心を伝えて欲しい。」と答えた。また書を下して、国人に対して親兄弟の嫁を娶ったり喪中の婚礼を禁止し、葬儀も漢人の習俗のようにさせた。

東晋との争い
邵続を捕縛
320年1月、段匹?が段文鴦と共に後趙の領土である薊を攻撃すると、石勒はその隙を突いて中山公石虎に邵続が守る厭次を包囲させた。また、孔萇も邵続を攻撃して11の陣営全てを陥落させた。2月、邵続は自ら石虎を迎撃したが、石虎は伏せていた騎兵に背後を遮断させ、遂に邵続を生け捕りにした。石虎は邵続を厭次城下に連れていき、城内に投降を呼びかける様命じたが、邵続は応じなかった。段匹?は薊から引き返そうとした所で邵続が捕虜になったと知り、その士兵が離散した。石虎軍は厭次への進路を塞いだが、段文鴦が数100の兵を率いて力戦し、なんとか厭次に入城した。段匹?は邵続の子邵緝、兄子邵存、邵竺等と共に城を固守した。

石虎は邵続を襄国に送ると、石勒は邵続を忠臣と認め、礼をもって遇して従事中郎に任じた。更に「今後戦に勝って士人を捕えても、勝手に殺してはならない。」という命を下した。

6月、孔萇は段文鴦の陣営10余りを陥落させたが、勝利に驕り守備を怠ってしまった。守りが手薄なのを知った段文鴦は孔萇の陣営に夜襲を掛け、孔萇は大敗を喫して退却を余儀なくされた。

東晋の司州刺史李矩が前趙領の金?(洛陽城内の西北の角にある小城)を攻略すると、劉曜配下の左中郎将宋始、振威将軍宋恕・尹安・趙慎は寝返って洛陽ごと石勒に降伏した。石勒は石生を派遣して宋始らを迎えさせたが、彼らは心変わりして李矩に投降した。李矩は潁川郡太守郭黙に兵を与えて洛陽に入らせた。石生は宋始軍を攻撃して将兵を尽く捕虜とし、黄河を渡って北へ引き上げた。河南の人々は皆、李矩に帰順したので、洛陽が空になった。

東晋の徐州刺史蔡豹が檀丘で徐龕を撃ち破った。徐龕は使者を派遣して、石勒に蔡豹討伐の計を述べて救援を要請した。石勒は王伏都を徐龕軍の前鋒とすると、張敬に騎兵を与えて後続させた。張敬軍が東平に達すると、徐龕は張敬に攻撃されるのではないかと恐れ、王伏都を始め300人余りを殺害して再び東晋に降伏した。石勒は激怒し、張敬に要害の地に拠って対峙するよう命じ、持久戦に持ち込んで徐龕軍が疲弊するのを待った。数か月後、石虎に歩兵騎兵合わせて4万を与えて徐龕の討伐を命じた。石虎軍が近づくと、徐龕は長史劉霄を石勒の下に派遣し、妻子を人質に差し出す条件で降伏を願い出たので、石勒はこれを聞き入れた。蔡豹は卞城に軍を置いていたが、石虎は転進してこれに攻め込み、蔡豹は夜の闇に紛れて逃亡を図った。石虎は軍を引くと封丘に城を築いて帰った。また、朝臣で掾属以上の士族300戸を襄国の崇仁里に移し、公族大夫を置いてこれを統治させた。

祖逖襲来
桃豹は陳川の故城を守っていたが、祖逖は韓潜を派遣してその故城に入らせた。桃豹は西台を拠点とし、韓潜は東台を拠点とし、両軍は40日余り対峙した。

祖逖は布袋に土を詰めて米のように見せ、1000人余りを使って台上に運び、桃豹に見せつけた。また、同時に数人に米を担がせて道中で休憩しているように見せ、桃豹軍が来ると米を棄てて逃走させた。桃豹は食料が乏しかったため、東晋軍に充分な食糧があると思い恐れた。劉夜堂は驢馬千頭を使って桃豹に食糧を送らせたが、祖逖は韓潜と馮鉄に命じて?水でこれを奪った。桃豹は夜に乗じて城を離れ、東燕城に撤退した。祖逖は韓潜を封丘に駐軍させて桃豹に迫り、馮鉄は二台を占拠し、祖逖自身は雍丘に駐軍した。この後、祖逖軍がしばしば後趙を攻め、多くの拠点が祖逖に降ったため、後趙の領土が削られた。

7月、祖逖は?に拠点を構えると、兵の訓練を重ねて穀物を蓄え、中原奪還の準備を始めた。祖逖はいかに戦わずに自陣営に取り込むかを考え、巧みに慰撫した。そのため、黄河以南の多くが石勒から離反して、祖逖に帰順を申し出た。石勒は祖逖を難敵と判断し、自分から動こうとはしなかった。そして書を下して「祖逖は何度も国境を脅かしているが、彼は北方の出身であるので故郷への思いは強いであろう。そこで幽州政府は祖氏の墳墓を修復し、守冢二家を置くように。上手くいけば、祖逖が恩義を感じてその寇暴を止めてくれるであろう。」と述べ、幽州政府に祖逖の先祖や父の墓を修築させ、墓守として二家を置かせた。更に石勒は祖逖に手紙を送り、交易を開始するよう要請した。祖逖は手紙を返さなかったが、互いに市を開いて通商を始めることを黙認した。これによって互いに多くの利を得ることができた。

ある時、祖逖の牙門童建が新蔡内史周密を殺して後趙に降ったが、石勒は童建を斬ると、首を祖逖に送り「我は叛臣や逃吏を最も憎む。将軍(祖逖)が嫌う者は、我が嫌う者と同じである。」と伝えた。祖逖は深く感謝し、後趙を裏切って祖逖に降る者がいても受け入れず、諸将には後趙の民を侵犯しないよう命じた。また、参軍王愉を石勒の下に派遣し、貢物を贈って修好すると、石勒は王愉を厚くもてなした。祖逖は再び左常侍董樹を派遣し、馬百匹、金50斤を贈った。これにより豫州の地は平安を取り戻し、つかの間の平安が実現した。

礼楽・法の整備
この時期、大雨が連日降り止まず、中山・常山で特に被害が凄まじかった。長雨により?沱河が氾濫を起こし、山谷が崩落した。また、松の巨木が根こそぎ流され、?沱河から渤海まで至り、原隰(低湿な平原)に流れ着いた木が山の如く積み重なった。

石勒は軒懸の楽(打楽器を三面にぶら下げた諸侯の楽器)、八?の舞(雅楽に用いられた舞)を制定し、金根大輅(天子の乗る車)、黄屋左纛(天子が車上で用いる装飾物)、天子車旗(天子の旗)を備えるなど、礼楽を整えた。朝臣で掾属以上の士族の300百戸を襄国の崇仁里に移すと、公族大夫を置いてこれを統治させた。宮殿や諸門が完成すると法令を更に厳しく運用するようになり、特に胡を諱とする事に最も重きを置いた。

321年、石勒は五品を定めて張賓に領選を任せた。この後に九品を制定した。張班を左執法郎に、孟卓を右執法郎に任じ、士族を見定めさせ、推挙の任務を補佐させた。公卿や州郡に命じ、秀才・至孝・廉清・賢良・直言・武勇の士を毎年各1人ずつ推挙させた。都部従事を1州に1部を置き、俸給は2千石とし、その職務は丞相司直に準じさせた。

石勒は令を下して「去年の水害によって巨材が流され、至る所で山積み状態になっている。これは天が、我に宮殿を修繕せよと仰ってるのだ。そこで洛陽の太極殿を模して、建徳殿を建てる事とする。」と述べると、従事中郎任汪に工匠5千を指揮監督させて、木材の回収に当たらせた。

石虎に命じて託候部の掘咄那のいる?北を攻撃させた。石虎は掘咄那を大破して、牛馬20万余りを略奪して帰還した。

この時期、建徳校尉王和が丸石を掘り当てた。そこには『律權石,重四鈞,同律度量衡,有新氏造。』と銘が刻まれていた。議者でも詳しいことは分からなかったが、瑞兆ではないかと論じた。参軍続咸は「王莽の時代の物のようですね。」と言った。当時の兵乱の後、法令や制度が失われてしまっていたので、礼官に命じて法令規則を定めさせた。さらに同じ時期、1つの鼎が発見された。容積は4升ほどで、中に大銭30文が入っており、「百が千となり、千が万となる。」と記載されていた。また、13字の銘が刻まれていたが、篆書だったので解読出来なかった。これらは永豊倉に収められた。これ以後、公私に銭を使うよう令が下されたが、民衆はあまり喜ばなかった。市錢により絹の価格が定まり、中絹1匹が1千200、下絹が800と公布された。しかし百姓の間では、中絹が4千、下絹が2千で取引されていた。ずる賢い者は、私銭を用いて不当に安く絹を買い、公官に高く売りつけていた。だが、事が露見してしまい、連座を含めて10数人が処刑されるといった事が後を絶たなかったため、遂に銭が広まる事は無かった。

石勒は洛陽にあった銅馬、翁仲の2つの像を襄国に移し、永豊門に列した。

石勒は百姓がまだ業を再開して間もない事から、資産がまだ十分に蓄えられていないだろうと考え、酒の醸造を禁止した。そのため、郊祀や宗廟には醴酒を使用させた。これが数年間続いたため、醸造をする者はいなくなった。また、命を下して「武郷は我にとっての豊沛(劉邦が挙兵した地)である。我が死した後には、魂霊が帰す場所となろう。三世に渡って税を免除す。」と述べた。

石虎を車騎将軍に任じ、騎兵3万を与えて鮮卑の鬱粥がいる離石を攻撃させた。石虎は鬱粥を破り、牛馬10万余りを獲得した。鬱粥が烏丸へと逃亡すると、諸城は尽く降伏した。

諸勢力を併呑
段匹?討伐
3月、石虎は厭次に進軍して段匹?と戦い、孔萇は領内の諸城を陥落させた。段文鴦は数10騎を率いて出陣し、多くの兵を斬ったが、後趙の兵が四方から包囲を縮めると、段文鴦はついに力尽きて捕えられた。これにより城内の戦意が消失し、段匹?は単騎で東晋に奔ろうとしたが、邵?がこれを留め、城を挙げて石虎に降った。石虎は段匹?を襄国へと護送し、石勒は段匹?を冠軍将軍に、弟の段文鴦と将軍衛麟を左右中郎将に任じ、金章紫綬を授けた。また、段匹?に従っていた流民3万戸余りを解散させ、故郷に帰らせると、守備兵を置いて慰撫させた。これにより冀州・并州・幽州が後趙の支配下に入り、遼西以西の諸集落は皆石勒に帰順した。

段匹?は石勒に臣従せず、東晋の朝服を着て東晋の符節を持った。その為、暫くして石勒は段匹?・段文鴦・邵続を殺した。

322年2月、世子の石興が死去していたため、次子の石弘を世子に立てて中領軍を統率させた。

徐龕討伐
石虎に中外の精兵4万を与え、徐龕の討伐を命じた。徐龕は泰山郡城に籠城したので、石虎は長期戦に備えて耕作を行い、城を何重にも囲んだ。

王敦の乱が勃発すると、東晋の鎮北将軍劉隗は石勒の下に帰順し、石勒は鎮南将軍に任じて列侯に封じた。

7月、石虎は徐龕軍を撃ち破り、徐龕を捕らえて襄国へと護送した。石勒は徐龕を袋に詰め込み、百尺の樓上からその袋を地面に叩きつけさせた。そして、かつて徐龕により殺された王伏都らの妻子に徐龕の骸を袋から出させて、それを切り割かせると、食べるよう命じた。降伏した徐龕軍の兵3千は、皆生き埋めにされた。

これを知った東晋の?州刺史劉遐は大いに恐れ、鄒山から下?まで退却した。琅邪内史孫黙は石勒に帰順し、徐州・?州の間の砦の多くが人質を送って降伏を願い出た。これらを皆受け入れ、守備兵を置いて慰撫した。

この時期、張賓がこの世を去った。訃報を聞いた石勒は「天は我に事業を成就させないつもりか!何故に我から右侯をこんなに早く奪ったのか!」と慟哭した。程遐が張賓に代わって右長史に任じられ、権勢を握った。朝臣でこれを恐れない者はおらず、皆程氏に取り入るようになった。しかし、程遐は石勒の意に沿わない建議を度々行ったので、石勒は「右侯は我を見捨てて逝ってしまった。我はこのような輩と事業を共にしなければならなくなった。何と残酷なのだ!」と嘆き、涙を流す日々を重ねた。

河南侵攻
10月、祖逖が前月に死去したのを受け、石勒は河南へ侵攻して襄城・城父の2県を支配下に入れた。さらに、征虜将軍石他[7]が西進して東晋軍を撃ち破り、将軍衛栄を生け捕りにして帰還した。石勒が焦を包囲すると、豫州刺史祖約はこれを撃退できず、恐れて寿春まで退却した。石勒は遂に陳留を奪還し、梁・鄭一帯が再び戦禍に見舞われることとなった。

この時期、後趙では広範囲に渡り疫病が発生し、10人の内2、3人が死亡した。そのため、石勒は徽文殿の建設を中止した。

石勒は王陽を豫州に配置して、東晋への侵攻の機会を窺った。これにより兵難が連日訪れ、梁鄭の間はさらに騒然となった。

323年3月、饒安・東光・安陵の3県で火災があり、7千家余りが燃え、1万5千人が犠牲になった。

後趙軍が彭城と下?へ侵攻し、東晋の徐州刺史卞敦と征北将軍王邃は??に撤退した。

4月、石勒は慕容?へ使者を送って和を結ぼうとしたが、慕容?は使者を捕えて東晋の首都建康に送った。

青州占拠
同年、石虎に中外の歩兵騎兵合わせて4万を与え、曹嶷の討伐に向かわせた。石虎が山東へ到来すると、曹嶷は海中の根余山に逃れて兵力を保とうと考えたが、病の為実行できなかった。石虎が兵を進めて広固を包囲すると、東莱郡太守劉巴・長広郡太守呂披が郡ごと降った。曹嶷は配下の羌胡軍を黄河の西に駐屯させると、石勒は征東将軍石他に攻撃させ、これを撃破した。左軍将軍石挺が援軍を率いて広固に至ると、曹嶷は遂に降伏した。石虎は襄国へ送ると、石勒は曹嶷を殺害して配下の3万人を穴に生き埋めにした。

石虎は曹嶷の下にいた人民を皆殺しにしようとしたが、青州刺史劉徴が諫めたので、男女700任を留めて劉徴に広固を治めさせた。これにより、青州の諸郡県や砦は、全て後趙の支配下となった。

後趙の司州刺史石生は陽?を守る東晋の揚武将軍郭誦を攻撃したが打ち破れず、襄城へ転進して千人余りを捕虜にして帰還した。

司州・?州を領有
石勒はしばしば太学や小学に臨み、諸学生への経義の授業を観察し、優秀な者には帛を賞与した。右常侍霍皓を勧課大夫に任じ、典農使者朱表・勧都尉陸充と共に州郡を巡行させた。その結果を下に戸籍を作成させ、農業を励行させた。また、農業において成果をなした者に、五大夫を賜爵した。

324年1月、後趙の将兵都尉石瞻が下?に進攻し、東晋の将軍劉長を撃ち破った。さらに蘭陵まで進軍すると、続けざまに彭城内史劉続を破った。東莞郡太守竺珍と東海郡太守蕭誕は反旗を翻して郡ごと石勒に帰順した。石勒は徐州・揚州で徴兵を行い、下?に進軍して石瞻と合流した。劉遐は大いに恐れ、下?から泗口へと退いた。

後趙の司州刺史石生が前趙領の新安を攻め、河南郡太守尹平を殺し、10を超える砦を陥落させ、5000戸余りを奪って撤収した。ここから両国の戦いが始まり、河東・弘農一帯の戦禍が絶えなくなり、民が苦難に陥った。

石生を延寿関から許潁(許昌・潁川)へと出撃させた。1万人余りを捕虜とし、2万人を降伏させ、遂に康城を陥落させた。東晋の将軍郭誦は石生に猛追を掛け、千人余りの首級を挙げた。石生は離散した兵をかき集めて康城に入り、汲郡内史石聡はこれを知ると救援に向かい、郭黙軍に攻撃を掛けて男女2千人余りを捕らえた。石聡はさらに攻撃して郭黙と李矩を撃ち破った。

325年1月、石勒は宇文乞得亀に官爵を送り、慕容?を攻めさせたが、慕容?の子慕容?に阻まれた。

3月、北羌王の盆句除が劉曜の傘下に入ると、後趙の将軍石他が雁門から上郡へと侵入して盆句除を攻撃し、3000部落余りを連れ去り、牛馬羊100万余りを強奪して去った。劉曜は激怒してこの日の内に渭城まで軍を進め、中山王劉岳に追撃を命じた。劉曜自らは富平に進軍し、劉岳を援護した。劉岳は石他軍と河濱で戦って大勝を収め、石他を始め甲士1500の首級を挙げた。河に追い詰められて水死した者は5000を超えた。劉岳は捕虜や家畜を悉く奪還し、帰還した。

東晋の都尉魯潜が反旗を翻すと、石勒に許昌を明け渡して帰順した。

4月、石瞻が東晋の?州刺史檀斌が守る鄒山に攻め込み、その首級を挙げた。後趙の西夷中郎将王騰[8]は并州刺史崔?と上党内史王慎を殺害し、并州ごと前趙に帰順した。

5月、後趙の石生が洛陽へ駐屯し、河南を荒らし回った。李矩・郭黙は迎撃したが度々敗北し、兵糧が欠乏したこともあり、前趙へ降伏の使者を派遣して救援を求めた。劉曜は劉岳を盟津から渡河させ、鎮東将軍の呼延謨には荊州・司州の兵を与えて、??から東へ進軍させた。劉岳は盟津、石梁の2砦を攻め、これを陥落させて5000余りの首級を挙げた。さらに金?へ進むと、石生を包囲した。中山公石虎が歩騎兵合わせて4万を率いて、成皋関から救援に向かった。劉岳はこれを察知すると、陣を布いて待ち受けた。両軍は洛西で衝突した、劉岳は劣勢となり石梁まで退き下がった。優位に立った石虎は塹壕を掘り柵を環状に並べ、劉岳軍を包囲して外からの救援も遮断した。包囲された劉岳軍は兵糧が底を突いて久しく、馬を殺して飢えを凌ぐ状態までになった。さらに石虎は呼延謨軍を撃ち破り、呼延謨の首級を挙げた。劉曜は自ら軍を率いて劉岳の救援に向かったが、石虎が騎兵3万を以って行く手を阻んだ。前軍将軍の劉黒が石虎配下の石聡を八特坂で撃破した。劉曜は金谷まで軍を進めたが、兵士たちは後趙を恐れて動揺し、散り散りに逃亡してしまい仕方なく長安に戻った。

6月、劉岳を始めとして、部下80人余り、?羌3000人余りが、石虎によって生け捕りにされ、襄国へと護送された。士卒9000が石虎によって生き埋めにされた。さらに石虎は并州にいる王騰を攻撃し、彼を捕らえた後に殺害し、7000人余りの兵卒を穴埋めとした。李矩は劉岳の敗北を知ると大いに恐れ、?陽から逃げるように帰った。李矩の長史崔宣は、李矩の兵2千を連れて石勒に降伏した。この戦いによって、司州・?州の全域を領有するようになり、徐州・豫州の淮河に臨む諸郡県は、全て石勒に帰順した。

寿春攻略
石勒は日時計を洛陽から襄国に移し、単于庭に列した。また、建国の大業をなした功臣39人の名を石函に刻み、建徳前殿に置いた。また、襄国に桑梓苑を設けた。

326年4月、石生が汝南へ侵攻し、内史祖済を捕らえた。

10月、石勒は?に宮殿を作り、世子の石弘に?の統治を任せようと考え、程遐と密かに謀った。そして、石弘に禁兵1万人を配し、車騎が統べていた54の陣営全てを任せた。さらに、驍騎将軍・領門臣祭酒王陽に六夷の統率を命じ、石弘の補佐に当たらせた。?は以前より石虎が守っており、彼は自らの勲功が重いので?を譲る考えは全く無かっだが、三台が修築されると石虎の家室は無理矢理移された。石虎は程遐を深く怨み、左右の者数10人を夜に程遐の家を襲わせ、彼の妻娘を陵辱して衣物を略奪させた。

11月、石聡が寿春に攻め込むと、祖約は何度も救援を要請したが東晋朝廷は応じなかった。石聡は逡遒・阜陵へ侵攻して5千人余りを殺掠した。建康は大いに震撼し、司徒王導を江寧へ派遣して備えた。蘇峻配下の韓晃が石聡を攻撃すると、石聡は撤退した。

12月、東晋の済岷郡太守劉?・将軍張闔らが反旗を翻し、下?内史夏侯嘉を殺し、石生に帰順して下?を明け渡した。石瞻は河南郡太守王羨が守る?に攻め込み、これを陥落させた。東晋の彭城内史劉続は蘭陵・石城に拠ったが、石瞻が攻め落とした。

石勒は州郡に命じ、掘り返されて晒されたままの墳墓について、盗掘した犯人を探し出すよう命じた。また、野晒し状態となっている骸骨を収めさせるために、県に棺衾を備えるよう命じた。また、牙門将王波を記室参軍に任じ、諸子百家の九流を定めさせた。また、秀才や孝廉の制度を始めた。

327年12月、石勒は石虎に5千騎を与えて代の国境へ侵攻させた。拓跋?那は句注・?北で迎撃に当たったが、不利となったために大寧に移った。

328年1月、?平県令の師懽が黒兎を獲らえると、石勒に献上した。程遐らは「これこそ龍が飛翔し革命を為す吉兆であります。晋は水を以って金を承けました。兎は陰精の獣であり、黒は水です。これは、殿下が速やかに天人の望みに従うべきであると示しているのです。」と言った。これを受けて大赦が下され、太和元年と改元した。

4月、石堪が宛城を攻撃し、東晋の南陽郡太守王国を降伏させた。南陽都尉董幼は反旗を翻し、襄陽の兵を引き連れて降伏した。石堪はさらに軍を進めて祖約が守る寿春へ侵攻し、淮上まで軍を進めた。祖約配下の陳光は挙兵して祖約を攻め、祖約はかろうじて逃れたが、陳光はそのまま後趙に帰順した。

6月、祖約の諸将は皆、密かに石勒に使者を送って内応した。石聡は石堪と共に淮河を渡り、寿春を攻めた。

7月、祖約の軍は壊滅し、祖約は歴陽へと敗走した。こうして寿春は後趙の勢力圏となった。寿春の百姓で石聡に捕虜とされたのは、2万戸余りに上り、皆石勒の下に送られた。

前趙を滅ぼす
劉曜捕縛
同月、石勒は石虎に4万の兵を与えると、?関から西に向かい、前趙領の河東を攻撃した。石虎に呼応したのは50県余りに上り、石虎は易々と蒲坂まで軍を進めた。劉曜は自ら中外の水陸精鋭部隊を率いると、蒲坂救援に向かった。劉曜が衛関から北へと渡河すると、石虎は恐れて退却を始めた。劉曜はこれに追撃を掛け、8月に入ると高候で追いつき、石虎軍を潰滅させた。将軍石瞻を斬り、屍は200里余りに渡って連なり、鹵獲した軍資はおびただしい数となった。石虎はかろうじて朝歌に逃げ込んだ。劉曜は大陽から渡河して、一気に金?(洛陽城内の西北角にある小城)を守る石生に攻撃を仕掛けると、千金堤を決壊させて水攻めにした。?陽郡太守尹矩と野王郡太守張進は劉曜に降伏したので、襄国に激震が走った。

11月、石勒は自ら洛陽の救援に向かおうとしたが、左右の長史・司馬の郭敖と程遐は、劉曜はの士気が高いことから反対した。これに石勒は激怒し、剣を手にして程遐らを怒鳴りつけ、退出を命じた。そして、2年前に石勒に不遜な態度をとった為、獄に繋がれていた徐光を赦免して呼び出してこの事を尋ねると、徐光は今こそ天下平定の好機であると進言した。仏図澄も「大軍を出せば、必ずや劉曜を生け捕れましょう。」と徐光の意見を後押ししたため、石勒は大いに喜んだ。内外に戒厳令を下し、諫言した者は容赦無く斬ると宣言した。

石堪と石聡及び豫州刺史桃豹らに、各々兵を率いさせて?陽で合流させた。また、石虎に命じて石門に進軍させた。左衛将軍石邃を都督中軍事に任じ、石勒自らも歩兵騎兵合わせて4万を率いて金?へと向かい、大?から渡河した。石勒は振り返って徐光に「劉曜は兵を成皋関に置けば上計であり、洛水を守っていれば次計だ。何もせずただ洛陽を守っているだけならば、生け捕りに出来ようぞ。」と言った。

12月、後趙の諸軍が成皋へと集結すると、その数は歩兵6万、騎兵2万7千に上った。石勒は劉曜の守備軍がいないのを見ると大いに喜び、手を突き上げて天を指差した。また自分の額を差すと「天よ!」と叫んだ。そして、兵に銜枚を甲に巻き付けさせ、急いで軍を進め、鞏・?の間に出た。劉曜は後趙の増援が来たと知ると、?陽の守備兵を追加して黄馬関を閉じた。さらに石勒自らが到来したと知ると、金?城から撤退して洛西の南北10里余りに渡って布陣し直した。劉曜が城西に布陣した事を知ると石勒はますます喜び、側近に「天は我を賀しているか!」と言った。石勒は歩兵騎兵4万を率いて宣陽門から進入すると、旧太極前殿に昇った。石虎は歩兵3万を率いて城北から西進し、劉曜の中軍に突撃した。石堪・石聡は各々精騎8千を率いて城西から北進し、劉曜軍の前鋒と西陽門で決戦を繰り広げた。石勒自らも甲冑を身に着け、?闔門から出撃し、南北から挟撃した。これにより劉曜軍は潰滅し、石堪が劉曜を生け捕って石勒の下に送った。劉曜は軍内で晒し者となった。5万人余りを斬首し、屍は金谷まで続いた。石勒は「捕らえたかったのはこの1人だけであり、すでに事は済んだ。将士は武器を収めて帰命の路に就くがよい。」と命を下し、軍を返した。

石勒の前に引っ立てられた劉曜は 「石王(石勒)よ、重門の盟(310年に共同で河内を包囲した時に交わした誓い)を忘れたか。」と問うと、石勒は徐光を介して「今日の事は天がそうさせたのだ。他に何を言うことがあるか。」と伝えた。劉曜は河南の丞廨に置かれ、傷が激しかったので金瘡医の李永によって傷の治療を受けた。石勒は劉曜を李氷と共に馬輿へ乗せ、征東将軍石邃に騎兵を与えて劉曜の護衛をさせながら、襄国へと送った。帰国すると、石勒は前趙皇太子劉煕への降伏勧告の書を劉曜に書かせようとしたが、劉曜は「諸大臣と共に社稷を維持せよ。我が意に背くことの無い様に。」とだけ記した勅書を書いた。石勒がこれを見ると、大いに気分を害し、しばらくしてから劉曜を暗殺した。

上?攻略
329年1月、冠軍将軍趙胤は甘苗を派遣し、歴陽で祖約を破った。祖約は側近数100人を連れて、闇夜に紛れて石勒の下へと亡命した。さらに配下の牽騰も軍を伴って降伏した。祖約と面会した石勒は、王波に命じて「卿は反逆するも進退行き詰まって帰服してきたが、我が朝廷は逃げ込む藪とでも考えているのか。卿は何の面目があって顔を出せるというのか。」と責め立てさせ、前後の檄書を示したが、後に祖約を許した。

劉熙らは劉曜が捕縛されたと知ると、長安を去って上?に逃げ込んだ。石勒は石虎に兵を与えてこれを討たせた。諸将は守備を放棄して逃亡したので、関中は騒乱に陥った。将軍蒋英と辛恕は数10万の兵を擁して長安に拠ると、使者を派遣して石勒を招き入れた。石勒は石生に洛陽の兵を与え、長安に入らせた。

8月、劉胤と劉遵は数万の兵を率いると、長安へと攻め込んだ。隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平の諸郡の戎・夏は皆挙兵して劉胤に呼応した。劉胤が仲橋まで軍を進めると、石生は長安の守りを固めた。石勒は石虎に騎兵2万を与え、劉胤を迎え撃たせた。

9月、両軍が義渠で激突した。劉胤は石虎軍に破れ、兵5000余りを失った。劉胤が上?へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、上?を攻め落とした。屍は1000里に渡って転がり、劉熙を始め、王公卿校以下3千人余りが捕らえられ、石虎はこれらを全て殺した。さらに、台省の文武官、関東の流民、秦雍の豪族9000人余りを襄国へと移し、王公と5郡の屠各5000人余りを、洛陽で生き埋めにした。こうして、前趙は劉淵から劉曜に至るまでの3世27年で滅亡した。主簿趙封に伝国の玉璽・金璽・太子玉璽を持たせ、石勒の下に送り届けさせた。

石虎は集木且羌が守る河西に進攻し、これを陥落させた。数万人を鹵獲し、秦隴の地は尽く平定された。前涼の張駿は驚愕し、使者を派遣して称藩するとともに、石勒に貢物を献上した。また、?王の蒲洪、羌酋長の姚弋仲が石虎に降伏を願い出た。石虎は蒲洪を監六夷軍事に、姚弋仲を六夷左都督に任じ、?・羌の15万部落を司州・冀州に移した。

石勒は冀州の諸郡を巡行して、高年・孝悌・力田・文学の士と対面し、それぞれに穀帛を下賜した。遠近の牧守に命を下し、属城に対して「言いたい事があれば、包み隠さず些細な事であっても発言する事を望む。」と通達させた。

皇帝即位
330年2月、群臣達は石勒の功業が既に充分であり、吉兆も多く集まっていることから、今こそ尊号を王から帝へ改め、天地の望みに答える時期が来ているのではないか、と議論した。石虎らは皇帝の璽綬を奉じ、石勒に尊号を奉ったが、石勒は聞き入れなかった。群臣が固く要請すると、石勒は趙天王と称して、皇帝の代行とした。また、祖父の耶?于に宣王、父の周曷朱に元王の尊号を贈ち、妻の劉氏を王后に、世子の石弘を太子に立てた。子の石宏を持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・大単于に任じて、秦王に封じた。左衛将軍石斌を太原王に封じ、小子の石恢を輔国将軍に任じて、南陽王に封じた。中山公石虎を太尉・守尚書令に任じ、中山王に封じた。石生を河東王に、石堪を彭城王に封じた。石虎の子である石邃を冀州刺史に任じて、斉王に封じ、散騎常侍・武衛将軍を加えた。石宣を左将軍に任じ、石挺を侍中に任じて、梁王に封じた。左長史郭敖を尚書左僕射に任じ、右長史程遐を右僕射・吏部尚書に任じ、左司馬?安、右司馬郭殷、従事中郎李鳳、前郎中令裴憲を尚書に任じた。参軍事徐光を中書令・秘書監に任じた。論功封爵により、開国郡公に文武21人、郡侯に24人、県公に26人、県侯に22人が封じられ、その他の者もそれぞれ格差に応じて封じられた。

侍中任播らは参議し、趙が金を承けて水徳となったことから、旗幟は黒と、牲牡は白とし、子年に社を祭り、丑年に臘を行うべきであると述べると、石勒はこれに従った。石勒は「今より疑難の大事があれば、八座[9]と委丞郎を東堂に集め、議論した上で決する事とする。また、軍国の要務であれば、令僕尚書は寒暑昏夜の区別なく入朝して申し述べるように。」と書を下した。

石勒は祖約が本朝に忠を尽くさなかったことから忌み嫌っており、長らく面会をしなかった。程遐は石勒へ祖約誅殺を勧めると、安西将軍姚弋仲もこれに同意したので、石勒は彼を殺害することを決めた。祖約と彼の一族を呼び寄せると、石勒は病気を理由に程遐を代役に立て、祖約を始め宗室の者を連行させた。祖約は自分に禍が降り掛かると知り、大いに飲んで酔い潰れた。市に至った所で引き出されると、外孫を抱きかかえてそのまま泣き崩れた。祖約はそこで斬り殺され、諸子姪親属の100人余りも尽く誅殺された。婦女や伎妾は、諸胡人に下賜された。

5月、前涼の張駿は前趙滅亡を契機に河南の地を奪還すると、狄道まで勢力を伸ばし、武街・石門・候和・強川・甘松の5か所に護軍を置き、後趙との国境とした。

6月、石勒は鴻臚孟毅を派遣して張駿を征西大将軍、涼州牧に任じて九錫を授ける旨を伝えたが、張駿はこれを受け容れずに使者を拘留した。

丁零の?斌が後趙に入朝してくると、石勒は句町王に封じた。

9月、群臣が再三に渡って石勒に尊号に即くよう求めた。石勒は遂にこれ受け入れ、皇帝位に即いた。境内に大赦を下し、建平と改元した。襄国から臨?に遷都した。高祖を順皇、曾祖父を威皇、祖父を宣皇、父を世宗元皇帝、母を元昭皇太后と追尊した。また、文武官をそれぞれ格差をつけて進封した。妻の劉氏を皇后に立て、昭儀、夫人の位を上公に、貴嬪、貴人を列侯に見なし、員数はそれぞれ1人とした。また、三英、九華を伯爵に、淑媛、淑儀は子爵に、容華、美人は男爵に見なし、賢淑から選び出して員数は不定とした。太子の石弘を皇太子に立てた。

石勒が徐光へ「大雅(石弘)は穏やかな性格で、将家の子でないかのようだ。」と言うと、徐光は「漢祖(劉邦)は馬上で天下を取り、孝文(劉恒)は静かにそれを守りました。聖人の後、必ずや世に粗暴な者は不要となります。これこそ天の道なのです。」と答え、石勒は大いに喜んだ。徐光は再び「皇太子は仁孝温恭ですが中山王(石虎)は雄暴多詐であり、もし一旦陛下に不慮のことがあれば、社稷の危機を招くのではないかと憂慮しております。中山の威権を少しずつ奪い、太子を早く朝政に参画させられますように。」と進言すると、石勒は内心同意したが従わなかった。

襄陽攻略
同月、荊州監軍郭敬、南蛮校尉董幼が襄陽に進攻した。東晋の南中郎将周撫は監?北軍事に任じられて襄陽を守った。石勒は郭敬に命じて樊城に軍を引かせ、城の旗幟を全て収めて誰もいないように見せかけさせた。さらに、もし不審に思った偵察がやって来たならば『せいぜい城を堅守しておくがいい。後7、8日もすれば、騎兵の大軍が至るであろう。そうなっては、逃げるのは難しかろう。』と告げるよう命じた。郭敬は人を派遣して馬に水浴びさせ、全頭を終えると、また最初から浴びさせ、昼夜休む事無く続けさせ、多くの馬がいるように見せかけた。間諜は帰ると、襄陽を守る南中郎将周撫にこの事を報告した。周撫は石勒の本軍が至ったのだと思い込み、恐れおののいて、武昌へと逃げ込んだ。郭敬軍が襄陽に入ると、中州の流民は尽く後趙に帰属した。郭敬は兵に略奪を働かせなかったため、百姓は安堵した。東晋の平北将軍魏該の弟の魏程らは、その兵を引き連れて、石城を開いて郭敬に降伏した。郭敬は襄陽城を壊し、百姓を?北に移すと、樊城の守りを固めた。郭敬は荊州刺史に任じられた。

秦州休屠の王羌が石勒に反旗を翻すと、秦州刺史臨深は司馬管光に州軍を与えて討伐に向かわせた。しかし、管光軍は王羌軍に返り討ちにされたため、隴右は騒然となり、?羌は一斉に叛乱を起こした。この事態に石勒は、石生を隴城に向かわせた。王羌の兄子である王擢は王羌と不仲であったので、石生は王擢に賄賂を贈って王羌を挟撃した。これにより王羌は大敗して涼州へと敗走した。そして、秦州にいる夷人の豪族5千戸余りを雍州に移した。張駿はこれを聞くと大いに恐れ、拘留していた孟毅を帰らせた。

331年1月、劉征は婁県を攻撃し、武進を占領したが、?鑒により撃退された。

統治
石勒は書を下して「今より法を処する事があれば、尽く科令に準拠するように。我の怒りを買った者であっても、徳位が高ければ訓罰すべきではない。あるいは、職務に殉じた者の遺児が罪に遭遇したならば、門下は皆各々にこれを奏すように。さすれば我が良く考えて対応しよう。」と述べた。

高句麗・粛慎が矢を、宇文屋孤が名馬を献上してきた。張駿は長史馬?を派遣して、書物を奉じて高昌、于?、?善、大宛の使者を後趙へ送り、貢物を献上させた。東晋の荊州牧陶侃は兼長史王敷を派遣して、江南の珍宝奇獣を献上した。秦州は白獣と白鹿を、荊州は白雉と白兎を、済陰は苑郷を降して木連理・甘露を送った。吉兆が相次ぎ、また程遐らが義を慕っているとして、石勒は3年以下の刑を赦免し、百姓の去年の払われていない祖税を等しくした。また、涼州でも死刑以下に特赦を下し、涼州の計吏を皆郎中に任じ、絹10十匹、綿10斤を下賜した。また、使者を派遣して張駿を武威郡公に封じ、涼州諸郡を食邑とした。

ある時、南郊において白気が壇から天に昇っているのを見ると、石勒は大いに喜んで宮殿に戻り、4年の刑を赦免した。その後、石勒は藉田を行い、宮殿に帰ると5年以下の刑を赦免して、公卿以下に各々格差をつけて金帛を下賜した。

日蝕が起こると、石勒は3日に渡り正殿を避け、群公卿士にそれぞれ封事を上げるよう伝えた。州郡に命じて、諸々の祠堂の内、正典に則っていない物を禁じて、全て除かせた。だが、雲雨を呼ぶと伝えられる物は、百姓にとって有益であるとして例外とした。また、郡県に改めて祠堂を建てさせ、嘉樹を植えさせ、岳や?などを差をつけて祭った。

4月、石勒が?に宮殿を建造しようとすると、廷尉続咸は上書して強く諫めた。石勒は激怒し「この老臣を斬らねば、朕の宮殿は成し得ないだろう!」と言い、御史に命じて続咸を収監させた。中書令徐光は「陛下は天性の聡叡があり、唐虞(堯・舜)をも超越しています。にもかかわらず、忠臣の言に耳を貸さないとは、夏癸(夏の桀王)、商辛(殷の紂王)が如き君と同じではありませんか。彼の進言が採用するに足るのであれば用い、足りなくともそれを許容すべきです。どうして一度の直言だけで、列卿を斬るというのですか!」と進言すると、石勒は感嘆して「人君となった以上、自分勝手な事をしてはならんな!どうしてこの発言の忠であることに気づかなかったのか。これまでの事は戯れと思ってくれ。人家であっても100匹の資産があれば、市に別宅を欲しがるものだ。我は天下の富、万乗の尊を有していながら同じことをするとはな!いずれ宮殿は建造するが、今はいったん造営を中止して、我が直臣の思いを顕すことにしよう。」と述べた。そして、続咸に絹100匹、稲100斛を下賜した。また、公卿百僚に書を下して、賢良・方正・直言・秀異・至孝・廉清の者を毎年一人を推挙させ、答策を行って上位の者を議郎に、中位の者を中郎に、下位の者を郎中に任じ、その推挙された者にも更に推薦させて、招賢の路を広げるように、と伝えた。この時期、明堂・辟雍・霊台を襄国城西に建てた。

9月、大雨が連日のように続き、中山の西北では川が氾濫し、巨木100万根余りが流されて堂陽に集まった。これに石勒は大いに喜び「諸卿は知らぬのか。これは災いではなく、天が我に?都を造営せよと言っておるのだ。」と公卿に述べた。そして、少府任汪、都水使者張漸に造営を監督させ、石勒自ら口出しを行った。

同時期、蜀の梓潼・建平・漢固の三郡の巴蛮が、石勒に帰順した。

洛陽の土中には成周(西周時代の洛陽の呼称)があり、またかつて漢晋の旧都であったことから、石勒は洛陽に遷都する意志を抱いた。そして、洛陽を南都として、行台を置いて書侍御史に洛陽を治めさせた。

石虎の野心
程遐は石勒へ「中山王の勇武権智は群臣のうちに及ぶ者がありません。ですが、その振る舞いを観ますと陛下以外の者は皆蔑んでおります。専征の任を担って久しく、威は内外に振るっておりますが、性格は不仁で残忍無頼です。その諸子も皆成長して兵権を預かっております。陛下の下にいる間は二心は抱かないでしょうが、その心中は怏怏としており、おそらく少主(石弘)の臣になることを良しとしないでしょう。どうか早くこれを除き、大計を図られますように。」と進言したが、石勒は「今、天下はまだ平定されておらず、兵難も未だやんでいない。大雅(石弘)も幼いことから強い輔佐が必要である。中山は佐命の功臣であり、魯衛に等しい存在であるぞ(魯は周公旦の封国。衛は弟の康叔の封国。両者とも善政を布き、その統治ぶりも兄弟の様であると評された。)。やがては伊霍(伊尹・霍光)の任務を委ねようとしている。どうして卿の言に従えようか。卿が恐れているのは、幼主を補佐する際に実権を独占出来なくなることであろう。卿も顧命には参加させる。そのようなことを心配するでない。」と返した。程遐は涙を流し「臣は公事について上奏しておりますのに、陛下は私事をもってこれを拒まれます。何故忠臣の必尽の義を、明主が襟を開いて聞き入れないのですか。中山は皇太后に養育されたとはいっても陛下の同族ではなく、親族の義を期待してはなりません。陛下の神規に従って鷹犬の功を建てるには至りましたが、陛下はその父子に対して恩栄をもって、もう充分に酬いておられます。魏は司馬懿父子を任用したが為に、遂に国運を握られてしまいました。これを観て中山がどうして将来に渡って有益な存在であると言えるでしょうか。臣は幸いにして東宮を任されるようになりましたが、もし臣が陛下に言を尽くさなければ誰が言うことが出来るでしょうか。陛下がもし中山を除かなければ、宗廟は必ずや絶える事でしょう。」と述べたが、石勒は聞き入れなかった。

徐光もまた機会を得て石勒へ「陛下は八州を平定され、この海内に帝として君臨されているのに、どこか喜んでおられないように見えますが何故でしょうか。」と問うと、石勒は「呉蜀の地がまだ平定されておらず、中華は未だ統一されていない。司馬氏はなおも丹楊に余命を保っているので、後世の人々が我を符?に応じていないと考えるのではないだろうか。これを考える度に顔色が優れないのだ。」と答えた。徐光は「臣は陛下がなぜ腹心の患を憂うことなく、四肢を憂えているのか不思議に考えます。魏は漢を承けて正統な帝王となり、劉備が巴蜀の地に拠ったとは言え、これをもって漢が続いたなどとは言えません。呉は江東の地に割拠しましたが、魏の美を損なうことはありません。陛下は既に二都を包括して中国の帝王となられており、司馬氏の後継者は玄徳と大差なく、李氏もまた孫権のようなものです。符?は今陛下の下にはありませんが、これがどこに帰すかは四肢の軽患に過ぎません。中山王は陛下から神略を授けられ、天下では皆その英武は陛下に次ぐものだと言っておりますが、残虐多姦であって利を見て義を忘れるという性質からして伊・霍の忠はありません。彼ら父子の爵位が重くなれば王位を傾ける勢いとなりかねません。彼の様子を見ますと、常に不満の心を抱いているのが良く分かります。最近でも東宮の側で宴を行うなど、皇太子を軽んじる様子がありました。陛下はこれを許容しておられますが、もし陛下の御代が終わりになりましたら、臣は宗廟が必ずや荒れ果てることになると恐れております。これこそ心腹の重疾であって陛下はこれを図られるべきです。」と進言した。石勒は黙然としてしまい、ついに従うことはなかった。

東晋の将軍趙胤が馬頭を攻略すると、石堪は将軍韓雍を救援に向かわせたが間に合わず、南沙・海虞を落とされ、5千人余りが捕らえられた。

郭敬が軍を退いて樊城に留まると、東晋軍が再び襄陽城に入った。4月、郭敬は再び襄陽に攻撃を仕掛け、これを陥落させると、今度は守備兵を置いてから戻った。

石勒は太子の石弘に尚書の奏事を決済させ、中常侍厳震に監督させて征伐・刑断の大事を預けた。これによって、厳震の威権は大いに高まり、宰相をも凌ぐものとなった。その一方で、石虎の下を訪れるものは減り、一時の権勢を失ったので大いに不満を抱いた。

石勒は?に赴くと、石虎の邸宅へと向かい「汝の功績に並ぶ者はいないのだ。宮殿が完成したら、次は王(石虎)の邸第を築くので、卑小な事に囚われることのないように。」と述べると、石虎は冠を脱いで拝謝した。すると石勒は「我は王と共に天下を取ろうとしているのに、謝する必要など無い!」と声を掛けた。

7月、郭敬が南の江西へと進攻すると、東晋の太尉陶侃は子の平西参軍陶斌と南中郎将桓宣を派遣し、虚を突いて樊城に攻め込ませ、城中の人民を連れ去った。郭敬は軍を返して樊城の救援に向かい、涅水で桓宣軍に追いつき、戦闘を繰り広げた。郭敬の前軍は大敗を喫し、桓宣軍も兵の大半が死傷したが、略奪した物全てを取り返してから去った。陶侃はさらに兄子の陶臻と竟陵郡太守李陽を新野に攻め込ませ、陥落させた。これを受け郭敬は撤退した。桓宣は南の襄陽を陥落させると、軍を留めて守備に当たらせた。後趙はその後再び襄陽を攻めたが、桓宣は弱兵でこれを退けた。

郡国に命じて学官を立て、郡ごとに2人の博士祭酒を置かせ、弟子150人を教授させた。良く励んで修了した者は、御史台に顕彰させた。さらに、太学生5人を佐著作郎に抜擢して、時事を記録させた。

この時期、日照りが続いていたため、石勒自ら廷尉に臨んで囚人の記録に目を通し、5年以下の刑については速やかに判決を下し、罪が重い者には酒食を下賜して沐浴を許し、秋まで判決を待った。

333年1月、成漢の李雄に使者を送り修好を求めたが、李雄はその貢物を焼いた。

5月、石勒は?水宮に赴いたが、病状が悪化したため引き返した。石虎と太子石弘、中常侍厳震を呼び出すと、禁中に控えさせた。だが、石虎は石勒の命と偽り、石弘・厳震を始め内外の群臣や親戚を退けた。これにより石勒の病状を把握する者はいなくなった。石虎は再び命を偽り、石宏・石堪を襄国に召還した。石勒の病状が少し回復すると、石宏がいるのを見て驚き「秦王は何故にここに来るか?王に藩鎮を任せたのは、正に今日のような日に備えるためではないか。誰かに呼ばれたのか?それとも自ら来たのか?誰かが呼んだのであれば、その者を誅殺してくれよう!」と声を挙げた。この言葉に石虎は大いに恐れ「秦王は思慕の余り、自らやってきたのです、今、送り返すところです。」と述べた。数日後、石勒が再び石宏について問うと、石虎は「詔を奉じてから既に発っており、今は既に道半ばと言った所かと思われます。」と答えたが、実際には石宏を外に駐軍させ、帰らせなかった。

広阿で蝗害が発生すると、石虎は密かに子の石邃に騎兵3千を与え、蝗が発生した所を回らせた。

最期
石勒の病状がいよいよ悪くなると「死して三日の後に葬り、内外の百僚は葬儀が終わり次第、喪を解くと共に婚姻・祭祀・飲酒・食肉の禁を取りやめるように。征鎮や牧守は喪といえども持ち場を離れないように。死体を棺に収めるには時服、載せるのは常車を用い、金宝や器玩を副葬する必要は無い。大雅(石弘の字)はまだ幼いので、恐らく朕の志を継ぐにはまだ早いであろう。中山(中山王の石虎)以下、各々の群臣は、朕の命に違う事の無きよう努めよ。大雅は石斌と共に協力し、司馬氏の内訌を汝らの戒めとし、穏やかに慎み深く振舞うのだ。中山王は深く周霍(周公旦と霍光)を三思せよ。これに乗じる事の無い様に。」と遺命を告げた。

333年7月、石勒は死去した。享年60、在位すること15年であった。夜の内に密かに山谷に埋葬されたため、その所在を知る者はいなかった。文物を備えて虚葬され、高平陵と号した。諡号を明皇帝、廟号を高祖とされた。死後、その遺命は守られず、石虎が事実上実権を握り、石弘はその傀儡と化した。

人物・逸話
石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み、漢人士大夫を登用して律令・官制を整えた。また、『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。かなりの激情家であり、怒りに任せて失敗を犯す逸話が数多く記載される。その一方で寛大な面も持ち合わせていた。

性格を表す逸話
316年12月、石勒の姉の夫である広威将軍張越が諸将と博打に興じていると、石勒は傍から眺めていた。張越が石勒をからかうと、石勒は真に受けて激怒し、力士を怒声で呼び寄せた。そして、張越の首を折るよう命じ、そのまま殺してしまった。
319年3月、石勒が劉曜から離反すると、参軍晁賛に命じて正陽門を築かせた。しかし、突如としてその門が崩壊した。これに石勒は激怒して晁賛を死罪とし、怒りに任せて性急に刑を執行させた。だが、すぐさまこれに後悔し、晁賛に棺服を下賜し、大鴻臚を追贈した。
320年、宮殿や諸門が完成すると、法令を更に厳しく運用するようになり、特に胡を諱とする事に最も重きを置いた。ある時、酔っ払った胡人が馬に乗ったまま、止車門に突入した。これに石勒は激怒し、宮門小執法の馮?を呼びつけて「人君が令を制定するのは、天下に威行を広めるためである。まして、天下より狭い宮殿の間では尚更である。馬を走らせて門より入ってきた者は、何人であった。なぜ裁かなかったのだ。」と問い質すと、馮?は恐怖と緊張のあまり「馬にて入ってきたのは、酔った胡人でありまして、甚だこれを制止したのですが、言葉が通じなかったようでして。」と、諱とされた「胡」を使ってしまった。これに石勒は 「胡人であれば、言葉は通じ難いな。」と笑いながら答えると、馮?を大目に見て罪しなかった。
321年、従事中郎の劉奥は建徳殿の造営の際、天井の木の寸法を誤って小さくしてしまい、石勒に殿中で斬られた。石勒は後にこれを悔やみ、太常を追贈した。
11月、石勒は武郷の父老や旧友を襄国に招いた。一団が到着すると、石勒は座を囲んで宴会を開いた。語らいの中で、石勒の過去話になった。石勒が貧しかった頃、隣家の李陽と何年にも渡って麻池(包頭市九原区西南)を巡って争い、時には殴り合いになる事もあった。そのため、李陽は恐れて宴会に参加しなかった。石勒は座を共にしている父老に「李陽は壮士であるが、どうして来ていないのだろうか。麻池での事であったら、布衣(庶民)の時のいざこざに過ぎん。我は正に天下を治めようとしているのに、どうして匹夫に仇なそうとするというのか。」と語り、使者を派遣して李陽を呼び寄せた。李陽が到着すると石勒は杯を交わし、酔いが回り始めると、李陽の腕を引き寄せながら「我はかつて卿の老拳に嫌気が差していた。卿もまた我の毒手に飽き飽きしておろうな。」と笑った。李陽に立派な邸宅を下賜し、参軍都尉に任じた。
324年、参軍の樊坦は清廉な人物であったが、暮らしが貧しかった。樊坦は章武内史に抜擢され、石勒に謁見すると、石勒は樊坦の衣服がぼろぼろなのを見て「樊参軍はそれ程までに貧であったのか。どうして朝服がそれほどぼろぼろなのだ。」と大いに驚いた。樊坦は誠朴な人柄であり、ついうっかり「先日、無道な羯胡に資財の全てを奪われ、このように貧窮しております。」と、石勒が羯族の出身であるのを忘れて、軽率に答えてしまった。石勒は「羯賊の暴掠に遭われたのであれば、その補償をしてやろねばな。」と笑いながら返した。樊坦は大いに恐れて、叩頭しながら涙を流し、応対もままならなかった。石勒は「我が法律は俗士を遠ざけるためにあるのだ。卿は老書生であり、何も心配する事は無い。」と声を掛け、車馬、衣服、銭300万を下賜した。そして、俗世の振る舞いにもう少し興味を持つよう勧めた。
石勒は常日頃より文学を好み、軍旅の最中でも常に儒生に史書を読ませてそれを聴いていた。また、古代の帝王の善悪について自分なりの考えを論じ、朝賢や儒士が称賛するほどその見識は深かった。人に漢書を読ませていた時、?食其が六国の後裔を王に立てる事を勧めた場面に差し掛かると「これは失策である。どうしてこれで天下を統一できようか。」と大いに驚いた。話が進んで留侯(張良)がこの策を諫めた場面になると「これならば信頼できる。」と感想を述べた。彼の天資英達は、このようであった。
324年、石勒が近郊で狩りに出ようとした時、主簿程琅は「劉氏(前趙)や司馬氏(東晋)の刺客が林の如く放たれております。もし変事が起きてしまえば、帝王といえども一夫の敵に過ぎません。孫策の禍を忘れてはなりません。枯木や朽株でさえ尽く障害と成り得ます。馬を走らせると害が起こるのは、今古よりの戒めとすべきです。」と諫めたが、石勒は顔色を変えて怒り「自分の幹力は自分が一番知っている。対応出来ぬと思うか。卿はただ文書を見て言ってるだけであろう。卿如きが心配する事ではない。」と言い返した。この日、石勒は獣を追っていたが、その際に馬が木に激突して死に、石勒も危うく大けがをする所であった。石勒は「忠臣の言を用いなかったのは、我の過ちであったか。」と言い、程琅に朝服と錦絹を下賜し、爵位を関内侯とした。この事が朝臣に伝わると、謁見の際には忠言を争ってするようになった。
326年3月、夜に石勒は密かに軍営を検察しようと思い、絹や金銀を門番に渡して外に出ようとした。しかし、永昌門の門衛王假はこれを認めずに捕らえようとしたが、従者が至ると慌ててそれを止めさせた。明朝、石勒は王假を呼び出すと、職務に忠実であることを称え、振忠都尉に任じると共に、関内侯に封じた。
怪異譚
石勒が生まれた時、赤い光が室内を照らし、白い気が天から中庭に降り注いだ。この光景を見た者は、生まれた子が非凡な存在になると思ったという。
14歳になると、村人に付き従い、洛陽に行商に出るようになった。ある時、東門に寄り掛かって詩歌を吟じていると、通りを行く人から注目を受け、その中の一人に西晋の政治家王衍がいた。王衍は石勒を一目見ると、優れた才覚の持ち主であると見抜いた。王衍は従者に向けて「向こうに見える胡族の少年の声色や容貌に注意を向けてみろ。常人ならざる志が感じ取れるであろう。恐らく将来、国家の患になるであろう。」と語った。王衍は東門を通り過ぎた後、ふと石勒の事を思い返し、従者の一人に彼を連れてくるように言った。従者が門に至ったが、時既に遅く、石勒は去った後だったという。
石勒が住処を構えていた武郷北原の山下で、草木が騎兵のような形となった。さらに、石勒の家の庭中に人参が突如として生え、周りの花や葉が盛んに茂った。その見た目は、人の姿にそっくりだった。この奇妙な現象に、村長や人相見が集まり「この家に住む胡人からは、非凡な風格と並々ならぬ志を持っている。末恐ろしい存在になるやも知れん。」と、口を揃えた。そして、多くの人々を呼び集めると、石勒を厚遇するよう勧めた。ほとんどの人は失笑し、まともに取り合わなかったが、?県の郭敬と陽曲県のィ駆だけは、正に言う通りであると感じ、共に石勒に資金援助をした。石勒はこの二人の恩に感じ、農作業に協力してそれに報いた。
石勒が郭敬の庇護下にあった頃、襄国において「力在左,革在右。讓無言,或入口。」という歌謡が流行った。「讓」から「言」を除けば「襄」となり、「或」の字が「口」の中に入れば「國」の字を成す。その後、石勒は暗示の通り襄国に都を置いた[10]。
村で農作業を行っていた時、刀槍のぶつかる音や鈴の音が石勒の耳に聞こえてきた。帰るとこの事を母に告げたが、母は「働きすぎて耳鳴りがしてるだけでしょう。不吉な予兆などではないでしょう。」と気にも留めなかった。奴隷時代、野に耕作に出た石勒は、いつも太鼓と角笛の音を聞いていた。石勒は他の奴隷にこの事を告げると、他の者も同じように音が聞こえていると答えた。石勒は「幼い頃、まだ私が故郷に居た頃から、この音が聞こえていた。」と語った。奴隷の一人が、帰って師懽にこの事を報告した。師懽は以前より、石勒の外見からただならぬものを感じていため、この報告を聞いて奴隷から解放する事を決めたという。
奴隷時代、ある老父が石勒に目を止めると「貴公は必ずや人の上に立つ者となる。甲戌の歳、王彭祖(王浚の事、彭祖は字)を図るように。」と声を掛けた。この言葉を聞いた石勒は「もし貴殿の言う通りとなったらば、その恩徳を決して忘れないでしょう。」と返した。振り返ると、そこにはもう老父の姿は無かったという。しばらく経ち、武安の臨水で傭兵をしていた時、敵の遊軍の急襲を受け、捕虜となった事があった。連行の道中、鹿の群れが捕虜の列の近くを走り抜けて行ったため、兵士は我先にと鹿を追い始めた。その隙を突いて石勒は逃げる事が出来た。追っ手が迫っていないかと振り返ったその時、あの老父の姿を発見した。老父は石勒に近づき「さっきの鹿の群れは、我が放ったものだ。貴公は中州の主となるべきお方であるから、救ったまでだ。」と述べた。石勒は拝礼すると、彼から教えを請うたという。
328年11月、石勒は洛陽奪還の為に兵を挙げ、大?から渡河した。延津は流氷で覆われ、猛烈な風が吹き荒れていたが、石勒軍が到着すると氷は融けて風も和らいだ。そして、渡河し終えると、再び流氷が延津を埋め尽くした。石勒はこれを神霊の助けであると捉え、この地を霊昌津と名づけた。
332年、象のように大きく、尾足が蛇形の流星が出現し、北極から西南に流れていくこと50余丈、その光明は地を照らした。遂に河へと落ち、その時の音は900里余り先まで聞こえた。また、黒龍が?の井戸から現われ、石勒はこれを見ると喜び、群臣を?に集めて朝会した。
333年、?惑が昴に入り、隕石が?の東北60里の所に墜落した。始め、赤・黒・黄の雲が入り混じって幕のようになり、その長さ数10匹に渡った。墜落音は、雷が轟いたかのようであった。墜ちた辺りの土地は、空気が火のように熱せられ、舞い上げられた塵は天まで届こうとしていた。農家の者が墜落現場を見に行ったところ、土が燃えているかのように沸き立っていた。また、1尺余りの石が1個あり、青色で軽く、叩いてみると磬のような音がしたという。石勒が死去したのはそれから21日後の事であったという。
その他
332年1月、高句麗と宇文屋孤の使者が到来すると、石勒は宴会を行ってもてなした。宴もたけなわになった頃、徐光へ「朕は古えの基礎を開いた君主と比べてどうであろうか。」と問うた。徐光は「陛下の神武謀略は高皇(劉邦)を凌ぎ、雄芸卓犖は魏祖(曹操)を超越しております。三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王)以来比べるべき存在はおらず、軒轅(黄帝)に次ぐ存在といえるでしょう!」と答えると、石勒は笑って「人が自らを知らないことがあろうか。卿の言は甚だ過ぎたるものである。もし朕が高皇に出会ったならば北面してこれに仕え、韓彭(韓信・彭越)と鞭を競って功を争うだろう。光武(劉秀)に遇したならば共に中原を駆け、天下の覇権を取り合ったであろう。大丈夫が事を行う時は公明正大に、日月を皎然とするべきであるのだ。曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺いて天下を取ってはならぬのだ。朕は二劉の間にはあろうが、軒轅と比べるなど畏れ多い!」と答えた。群臣は皆、頓首して万歳を称した。
332年、暴風雨が吹き荒れ、建徳殿端門と襄国市西門に雷が落ち、5人が死亡した。また、西河の介山では鶏の卵程の大きさのある雹が降り、平地では3尺降り、窪地では1丈余りも積もった。さらに、禽獣に襲われて死亡した人が万人を超え、太原・楽平・武郷・趙郡・広平・鉅鹿に渡る千里余りで樹木が倒壊し、穀物は全滅した。石勒は東堂で正服すると、徐光へ「過去にこれ程の禍があったであろうか。」と問うと、徐光は「周、漢、魏、晋の全てに見られました。災いは天地の常事ではありますが、明主が変を為さなければ起こる事は無く、故に敬天の怒に触れたのではないかと思われます。去年、寒食を禁じられましたが、介子推(彼の死を偲んで清明節の前日には火を使わず冷たい食事をとる風習が生まれた。)は陛下の郷里では神とされ、歴代が尊ぶ所であり、この風習を替えてはなりません。たった1人の慨嘆によって、王道は損なわれます。まして群神の恨みを買ってしまえば、上帝が怒動しない事がありましょうか!天下をこの様には出来ません。介山一帯は晋の文候が封じられた所であり、百姓にこれを奉じさせるのです。」と答えた。これを受けて石勒は「寒食は既に并州の旧風となっており、朕はその俗に生まれ育ったので、これを異とする事は出来ないな。以前外議を行った際、子推は諸侯の臣に過ぎないので、王たるものこれを忌とすべきではないとの議があり、故にこれに従っていたが、或いはこのために災いが到ったのではなかろうか!子推は朕の郷里の神であり、寒食の法を正しく定めれば乱は起きないであろう。尚書は速やかに旧典の定議を調べて、それを聞かせるように。」と書を下した。これを受けて有司は上奏し、介子推が歴代から尊崇を集めていることから、寒食を復活させ、更に嘉樹を植えて祠堂を建て、戸を給して祀を奉じさせる様。申し述べた。これに黄門郎韋?が反論し「『春秋』より案じますに、蔵氷によって道は失われ、陰気が漏れ出して雹となると記載があり、子推の以前より雹が降っていたことは明らかです。故に今回の一見は子推とは関係なく、陰陽から乖離したため発生したに他なりません。子推は賢者であり、どうしてこのような暴害を為すというのですか!今回の原因を死人に求めると言うのは、間違っていると思われます。今、氷室を造りましたが、恐らく蔵氷の所在は厳冬の地に無く、多くが山川の側にあるため、気が漏れ出て雹となったと思われます。子推の如き忠賢を以て、介休・綿山の間でこれを奉じさせれば、天下に通らないことがありましょうか。」と述べた。石勒はこれに従い、氷室を地下の厳寒の場所に移させた。また、以前通りに并州では寒食が行われるようになった。


















(2)100人-三国から隋・唐



三国時代から隋・唐まで
二二〇年−九〇七年
漢が滅亡すると、中国はまず三人の武将によって分割された。さらにその後はさまざまな地域で短命の王朝が興亡を重ねた。たとえば南京を中心にした地域では、二二二年から五八九年のあいだに六つの王朝が入れ代わり立ち代わり支配した。分裂による世情不安が続くこの時代には、漢代に中国に伝えられた仏教がさかんに信仰されるようになった。五八一年、隋が中国を再統一したが、この王朝は長く続かず、唐がそれにとって代わった。唐はしばしば中国文化の「黄金時代」と考えられている。首都の国際都市長安(この時代の世界最大の都市)には中央アジア全体から商人が訪れ、高価でめずらしい品々をもたらした。分裂の時代には宗教、芸術、音楽、そして文学がかつてない盛り上がりを見せ、近隣や遠方の地域から中国に流れこむ影響によっていっそう豊かさを増した。現代にも通用する文学や美術批評の規範が確立したのもこの時期である。

 三国時代
  魏 220−265
  蜀 221−263
  呉 222−280
 西晋 265―316
 東晋 317−420 および十六国時代 304−439
 南北朝時代
  南朝:宋 420−479
   斉 479−502、梁 502−557、陳 557−589 
  北朝:前秦[十六国]351−394
   後秦[十六国]384−417
   北涜 386−534
   北斉 550−577
   東魏 534−550
   西魏 535―557
   北周 557−581
 隋 581−618
 唐 618−907

中央アジア
  タラス河畔の戦い
  小勃律


 三国時代から隋・唐まで 220年−907年
ID
人   物 記 事 ・ 備 考
23
諸葛亮 ―伝説的な軍師・名宰相
24
石崇 ―退廃的貴族
25
王衍 ―清談に明けくれた廷臣
26
石勒 ―後趙の皇帝―奴隷から身を起こして後趙を建てた皇帝
27
王義之 ―中国最高の書家
28
鳩摩羅什 ―訳経僧
29
陶淵明 ―田園詩人
30
拓践珪(道武帝) ―北魏皇帝になった遊牧民の部族長
31
崔浩 ―可汗に仕えた漢人官僚
32
武帝 ―梁王朝の創始者
33
煬帝 ―隋の二代皇帝
34
太宗 ―唐王朝の基礎を築いた名君
35
玄奘 ―西域を巡礼した訳経僧
36
則武天 ―中国史上唯一の女帝
37
高仙芝 ―唐で活躍した高句麗の武将
38
玄宗 ―開元の治 後半の頽廃
39
安禄山 ―安史の乱、反乱軍首領
40
李白 ―中国を代表する詩人謫仙人
41
杜甫 ―中国を代表する詩人詩聖
42
楊責妃  ―皇帝の寵姫
43
韓愈 ―文芸復興、散文詩
44
白居易 ―大衆的詩人
45
魚玄機 ―民妓で幼い頃から詩を書き、温庭?多くの詩人も評価
46
薛濤 ―詩人・官妓、高級官僚と付き合う
47
李商隠 ―一般官僚、秀逸の詩
48
李徳裕 ―後唐の宰相
49
黄巣 ―群盗・反乱軍首領
         



23 諸葛亮(181年−234年)
伝説的な軍師・名宰相

(1) 諸葛亮は一八一年に北部の郷紳の家庭に生まれ、叔父に養育された。二〇七年に軍閥の劉備は諸葛亮のすぐれた才能の噂を聞き、彼の住むわらぶき屋根の家を三度たずねて助力を乞うた。三度目の訪問で諸葛亮はようやく劉備の願いを聞き入れると、中国再統一のための遠大な計画を描いてみせた。劉備が長江の上流域と中流域を確保し、下流域を拠点とする孫権と同盟を結んで華北の曹操(伝記21)に対抗し、機会をとらえて北部を両面からはさみ撃ちにして征服するというプランである。
この戦略はそれから十数年後に実現する三国時代を予見しているが、その道のりは平坦ではなかった。二〇八年、曹操は中国統一の野望をいだき、圧倒的な大軍を率いて南下した。諸葛亮の助言により、孫権・劉備の連合軍は協力して長江の赤壁で曹操軍を倒した。これが有名な赤壁の戦いである。
二一四年、諸葛亮の意見にしたがって、劉備は長江上流域と四川省の広大で肥沃な地域を手中におさめることができた。ところが二一九年に、長江中流域の劉備の支配地域を守っていた将軍関羽が孫権軍に殺害されてしまった。
曹操の息子の曹丕が後漢の名ばかりの皇帝を廃し、二二〇年に新しく魏王朝を創設すると、劉備は漢の正統性を継承するためと主張し、漢皇帝を名のって即位した。しかし劉備の国は通常、四川省地域の昔の地名にちなんで蜀とよばれる。諸葛亮は蜀の宰相に就任した。
劉備は諸葛亮の反対を押しきって孫権と戦って敗北し、まもなく二二三年に死去した。孫権は新たに呉の建国を宣言した。諸葛亮は無能な劉備の息子を支えながら、蜀で全権をにぎった。諸葛亮は蜀ですぐれた行政手腕を発揮したが、より強大な魏にはかなわないと悟っていた。
それでも魂に何度も遠征軍を送り、そのたびに撃退された。二三四年、諸葛亮は最後となった遠征の最中に病没。五三歳だった。
諸葛亮が亡くなってまもなく、彼の名は知略にすぐれた軍師として知られるようになる。たとえば、諸葛亮がほとんど無防備な無人の都市の市壁の上で静かに竪琴を奏でると、敵の大軍は驚きあわて中国が敵を敗走させた海戦の図て退却したという話が伝えられている。一輪の手押し車や、部隊が湖や川を渡るためのしかけを考案したのも諸葛亮だといわれている。何世紀ものあいだに、人知を超えた戦の天才という諸葛亮像がふくらんだ。宋代に口語体の大衆文学が流行しはじめると、全知全能の果断な軍師という諸葛亮のイメージが固まった。理想化され、神格化された諸葛亮像を完成させたのは、一四世紀の小説『三国志』である。



(2)諸葛 亮(ジューガー リァン、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は孔明(こうめい)。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。

書生時代
徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉?の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉?に送られたとなっている。
その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。
舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は房陵太守?祺の妻、次姉は?徳公の息子の妻であり、?徳公の甥の?統も親戚である。

三顧の礼
明の時代に描かれた三顧の礼の様子
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と?統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実に訳の分らぬ話である」とある。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。

赤壁の戦い
建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉jが後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉gは命すら危ぶまれていた。劉gは自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉gは一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。
観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉gに外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉gはこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省武昌)へ赴任する事にした。劉gの兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉jが継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉jはすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか」[1]と答えた。その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

入蜀
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された?統が劉備陣営に加わった。
建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、?統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は?統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛・趙雲・劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。
建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また法正・劉巴・李厳・伊籍とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

夷陵の戦い
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。
建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法公直(法正)が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。たとえ東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた(法正は建安25年(220年)に死去している)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず君が国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。 また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は言葉だけで実力が伴わない。故に重要な仕事を任せてはいけない。君はその事を忘れずにな」と言い残した。[2]

益州南部の平定
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。 諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、ケ芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華?・王朗・陳羣・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。
益州南部で雍?・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。

北伐
建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。
魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた[3]。
翌年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[4]。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。
諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、?を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返り、隴西まで進出したが隴西太守の游楚は抵抗するとすぐ軍を引いた。これに対して魏の明帝曹叡は張?を派遣したが、諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命していた[5]。しかし馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張?により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。趙雲も曹真に敗北し、曹真と張?は3郡奪回へ進軍した。進路の確保に失敗した蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。
撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、趙雲を降格し、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。
同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが[6]、偽作説が有力である。二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の?昭の奮戦により、二十日余りの包囲した後、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。
翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。
建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、張?ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張?が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に、司馬懿に追撃を強要された張?を伏兵を用いて射殺している[7]。 食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。
建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。

死後
諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、魏延は楊儀の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。
諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。
諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく?陽に廟が建立された[8]。 魏の鍾会は蜀に侵攻した際、諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。

評価:陳寿の評
『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。
しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。
また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなかった。諸葛亮の才は興業を成した管仲・蕭何に匹敵した。では敵のほうが兵数が多く、(管蕭の同僚である)王子城父、韓信のような名将もいなかった為、北伐は成功しなかったであろうか?(そうではない)。魏に対する北伐が成功しなかったのは天命であり、人智が及ぶところではなかったのだ」と評している[9]。
諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で、
「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」(傅玄『傅子』)
「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」(王夫之『読通鑑論』)
「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」(洪邁『容斎随筆』)
など様々に擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。















27 王義之(三〇三−三六一頃)

中国最高の書家
王義之は三〇三年頃、現在の山東省で名門貴族の家柄に生まれ、その後は北部の戦火を避けて長江デルタ(長江河口を中心に、江蘇省南部から漸江省北部にかけて広がる地域)に家族で移住した。王氏は東晋の成立 (表向きは西晋の皇族司馬家の復興) に功績があったので、「王と司馬はともに統治する」といわれるほどに信頼され、全員が地位の高い官職についている。そうした家柄と強力なうしろだてによって引き立てられ、王義之は出世して現在の江西省長官や右軍将軍までつとめた。しかし王義之は政治にあまり野心がなく、王氏の有力な一員と衝突してから、両親の墓前で二度と晋の官僚にはならないと誓いを立てた。王義之は清談と道教の「無為自然」を実践して妻をめとったという逸話がある。東晋の有力な大将軍の郁壁が王氏のなかから娘婿を選ぶために使者を送ってきた。王氏の青年たちがこぞって気どったふるまいをするなかで、王義之だけは例外だった。腹を見せながら長椅子に横たわり、特別なことは何もないといわんばかりに軽食をつまんでいたのだ。自然体が評価されて王義之が婿に選ばれた。
王義之の名が後世に伝わっているのは、その見事な書のおかげだ。当時の中国の書は、厳格な「隷書」から、束縛が少なく、現代も使われている「槽書」、それに隷書から派生した自由な「行書」と、行書をさらにくずした「草書」に移行する過渡期にあった。

長い道教の経典を一巻書き上げてガチョウと交換してもらった故事にならって再現

王義之はこれらの新しい書体をみごとにこなした。言い伝えによれば、王義之があまりに熱心に書を練習したため、彼が筆と硯を洗った池は真っ黒に染まったという。三五三年四月二二日に、王義之は「蘭亭序」をしたためた。これは現代の紹興市郊外の風光明媚な山麓に、四一人の高名な文人が集まってもよおした春の宴を記念したものだ。この宴では余興として葡萄酒を入れた杯を小川に浮かべ、客は目の前を杯が流れていく前に詩を書くように求められた。詩を作れなかった場合は、罰としてその酒を飲む決まりだった。二六人が詩を作り上げ、王義之は参加者の詩を集めた詩集に哀調あふれる序文を書いた。この序文は中国史に残るもっとも有名な書として知られている。唐の太宗(二代皇帝李世民)はこの作品を愛するあまり、原本を自分の陵墓にいっしょに埋葬するよう命じた(また、太宗が命じて編纂された晋の歴史書『晋書』 に、太宗みずから王義之の伝記を書いた)という。王義之の原本はすべて失われ、現代で
は模写や拓本のみが伝えられている。そのうちもっとも古いものは、唐代初期に作られた。そのひとつは清の乾隆帝が愛蔵したもので、紫禁城の書斎に保管されていた。
王義之の一族は道教を信仰していた。ある日、王義之は美しい白いガチョウの群れを見て一羽ほしくなり、長い道教の経典を一巻書き上げてガチョウと交換してもらったという。王義之の末子もまた、すぐれた書家として知られている。
王義之は五八歳で世を去ったが、中国の書聖として不滅の名を残した。















28 鳩摩羅什 (344−413年頃)【くまらじゅう】

訳経僧
鳩摩羅什は三四四年頃に生まれた。
父の鳩摩羅炎はインドの世襲の宰相の家系といわれ、鳩摩羅という姓は「王子」を意味している。父は僧になるために家をすて、中央アジアに出た。亀茲国(現在の新疆ウイグル自治区クチャ県) の王に「国師」として迎えられ、王の妹が鳩摩羅炎に恋をしたので、彼は還俗して結婚した。そして生まれたのが鳩摩羅什である。鳩摩羅什の両親はともに仏教を篤く信仰し、母はついに尼僧になるために夫と別れ、鳩摩羅什をつれてインド北西部のカシミール地方へ行き、そこでおよそ一三年間仏教を学んだ。
鳩摩羅什が一九歳の頃亀茲国に戻ると、すぐれた仏教の師として名声はすぐに周辺諸国に広まった。華北にチベット系民族が建国した前秦の王符堅は、三八二年に中央アジアに遠征軍を派遣した。目的のひとつは、鳩摩羅什を前秦の宮廷に迎え入れることだった。前秦が滅ぶと、鳩摩羅什はチベット系の後涼の王に引きとめられ、そこで中国語を学んだ。四〇一年に後涼が別のチベット系の後秦に滅ぼされると、鳩摩羅什は後秦の君主によって首都の長安に迎えらえた。
鳩摩羅什は国費によるはじめての仏典漢訳事業を指揮することになった。鳩摩羅什はインドと中央アジアの血を引き、中国語に堪能で、仏典と教義を完全に理解しているのである。これまで翻訳された仏典に改良をくわえるのに、彼ほどふさわしい人材はいなかっただろう。
経典はまず口頭で訳され、次に筆記されて、サンスクリット語の原典と比較された。そして原典に忠実でありながら優雅な中国語になるように、さらに監修が重ねられた。しかし鳩摩羅什は、翻訳というものは「他人を養うために米を阻囁するようなものだ」と語っている。報われない仕事だという意味だ。
鳩摩羅什とその弟子たちは、一〇数年かけて三五部二九四巻の経典を翻訳した。この業績に数でまさるのは、唐の玄奘三蔵だけだ。鳩摩羅什の翻訳した経典は現在も使いつづけられている。それらはインド仏教の学問体系と教義、そして文化を大量かつ体系的に中世の中国に紹介するはじめての試みだった。鳩摩羅什は大乗仏教を布教していたが、決して小乗仏教を排斥することはなく、中観派の教えも伝えるのを怠らなかった。
鳩摩羅什は四一三年五月二八日に入滅する。









29 陶淵明(陶潜) (三六五−四二七)

田園詩人
陶淵明は陶潜という名でも知られ、定説によれば東晋時代の三六五年に長江下流域で生まれている。陶淵明は南部の漢化した少数民族出身の名高い大元帥の曾孫だが、彼が生まれた頃には一家の運勢は傾いていた。陶淵明は何度か仕官したが、官位はつねに低いままだった。ライバル関係にあるふたりの有力な東晋の武将に別々の時期に仕えていたこともある。ひとりは東晋の帝位を一時的に纂奪した貴族で、もうひとりはその貴族を倒して殺害し、のちに新しい宋王朝 (四二〇−四七九) を建てている。
四○五年に陶淵明は官職から完全にしりぞく決意をし、「俸給としてわずかな米を得るために、どうして郷の小役人に腰をかがめて頭を下げられるだろうか」とその心境を述べている。陶淵明は四二七年に亡くなるまで農夫として隠遁生活を送った。一般に自伝的作品と考えられている短い随筆『五柳先生伝』 のしかに、こんな一節がある。

先生はどこの人であるかわからぬ。またその姓名をも詳かにせぬ。ただその屋敷のほとりに五本の柳の木があるから、それをそのままとって号としたのである。物静かでロかず少なく、名利を追わぬ。読書を好古が、細かい穿撃はせぬ。わが意を得た個所に出合うたびに、喜びのあまり三度の食事も忘れるほどだ。生まれつき酒が大好きだが、貧乏なためいつでも飲めるというわけにはいかない。親戚や友人がそうした彼のことを知って、酒を用意して彼を招くことがある。すると彼は、やって来るや忽ち飲み乾してしまう。酔いさえすれば満足である。そこで酔うとすぐに帰って行き、決していつまでもぐずぐず居座ることはしなかった。屋敷内はごく狭っ苦しくひっそりしているうえに、冬の寒風も夏のカンカン照りも満足に防げなかった。つぎはぎして毛脛の出たポロをまとい、飲みもの食べものに不自由することがしょっちゅうだが、平然たるものだ。かねがね詩文を作ってひとり楽しみ、いささか自分の本懐を示した。世間的な損得なぞはつゆほども気にかけず、かくてひとりで死んで行くのである。(『陶淵明全集・下』、松枝茂夫・和田武司訳注、岩波書店)

輿で運ばれる陶淵明の図。陳洪綬画。
陶淵明の多くの詩、とくに田園詩とよばれる作品は、彼の死後、人々に大きな影響をあたえた。たとえば「飲酒其五」と題する詩は、末の政治家で文筆家の王安石 に絶賛された。

廬を結んで人境に在り、而も車馬の 喧しき無し。
君に問う 何ぞ能く爾ると、心速く地白から偏なり。
菊を採る 東範の下、他心然として南山を見る。
山気 日夕に任し、飛鳥 相与に還る。
此の中に真意有り、弁せんと欲して己に言を忘る。?
『陶淵明全集・上』、松枝茂夫・和田武司訳注、岩波書店?
(人里に庵を結んで住んでいるが、車馬の騒々しい音にわずらわされることはない。どうしてなのかと聞かれるが、心が俗世を離れていれば、自然と僻地にいるような境地になるものだ。東の垣根で菊をとり、ゆったりと南山を眺めれば、夕暮れ時の山のたたずまいはすぼらしく、鳥たちが連れ立って巣に還っていく。この自然のなかにこそ、人間のあるべき真の姿がある。それを説明しようとしても、もう言葉を忘れてしまった。)
この詩の最後の二行の表現には荘子の影響がみられる。荘子は「無為自然」に生きることを説き、陶淵明など中国の知識人はその教えに共鳴して自己抑制的な儒教からの解放をめざした。そうした考えが顕著に表れているのが「桃花源記」だ。これは神仙などではなく、ごくふつうの人間が暮らす村の物語で、彼らは秦王朝の圧政と混乱をのがれてきた人々の子孫である。村人たちは辺郡な山あいの渓谷にある隠れ里で、政府というものをもたずに簡素で穏やかな生活を送っている。このユートピアを漁夫が偶然見つけて人に話すが、その村は二度と発見できなかった。この物語には「一▲垂」(中国の神話世界の神々で理想の皇帝)以前の理想社会に対する陶淵明の強い憧れが示されている。皇帝も王もいなかった理想的な時代への郷愁が反映している。


五柳先生傳
先生不知何許人、不詳姓字。先生は何許の人なるかを知らず、姓字も詳かにせず。
宅邊有五柳樹、因以爲號焉。宅邊に五柳樹有り、因て以て號と爲す。
先生はどこの人かも、本当の名もわからない、宅邊に五本の柳の木が生えているのを以て、五柳先生と号している。一篇は、このようなとぼけた書き出しで始まる。

閑靜少言、不慕榮利。 閑靜にして言少なく、榮利を慕はず。
好讀書、不求甚解。  書を讀むを好めど、甚だしくは解するを求めず。
毎有會意、欣然忘食。 意に會ふこと有る毎に、欣然として食を忘る。
先生は物静かで無駄口をたたかず、また営利を求めない。読書を好むが、そう深く追及するでもない。だが、たまたま意に適う文章に出会うと、欣然として食事を忘れるほどに没頭することもある。

性嗜酒、而家貧不能恒得。 性酒を嗜む、而れども家貧にして恒には得ること能はず。
親舊知其如此、或置酒招之。舊其の此くの如きを知り、或は置酒して之を招き。
造飮必盡、期在必醉。   飮に造らば必ず盡し、期するは必ず醉ふに在り。
既醉而退、曾不吝情去留。 既に醉ひ而して退くに、曾て情を去留に吝にせず。
生来酒が好きであるが、貧乏暮らしでいつも飲めるというわけではない。親類友人が同情してたまに誘ってくれる時には、遠慮なく飲み干し、必ず酔う。しかし酔いが回るとぐずぐずせずに、さっさと引き上げる。

環堵蕭然、不蔽風日。   環堵蕭然として、風日を蔽らず。
短褐穿結、箪瓢屡空、晏如也。短褐穿結し、箪瓢屡しば空しきも、晏如たり。
狭い部屋は寂れ果てて、風除け、日除けにもならない。短い上着には穴があいている始末。米櫃や水筒はしばしば空になる。しかし先生は、平然としてうろたえない。

常著文章自娯、頗示己志。 常に文章を著して自ら娯しみ、頗る己が志を示す。
忘懐得失、以此自終。   懐ひを得失を忘れ、此を以て自ら終る。
ここでいう文章とは詩文のこと。先生は詩を賦しては自ら楽しみ、また己の志を述べる。
かくのごとく、先生の一生は得失にこだわらない、潔いものであった。以上が本文であるが、これには次のような贊がついている。

贊曰、黔婁有言、不戚戚於貧賤。  贊に曰く、黔婁言える有り、貧賤に戚戚たらず。
不汲汲於富貴、極其言茲若人之儔乎。富貴に汲汲たらず、其れ茲れかくの若き人の儔(たぐひ)を言ふか。  
黔婁は春秋時代の隠者、大臣に就任することを拒否し、一生清貧の生活を送った人物である。その言葉に、貧しくともくよくよせず、富を求めてあくせくしないとあるが、それは即ち五柳先生の生き方でもある。

酣觴賦詩、以樂其志。    酣觴して詩を賦し、以て其志を樂しましむ。
無懷氏之民歟、葛天氏之民歟。無懷氏の民か、葛天氏の民か。
酒に酔いて詩を賦し、己の志を楽しむ、その生き様のおおらかなことは、無懷氏或は葛天氏の民の如くである。無懷氏は古代の帝王伏羲の祖先といわれ、その民は貧しいながら安らかな生活を楽しんだ。また、葛天氏は伏羲以前の帝王で、その政治は言わずして信ぜられ、強制なくして行われた。

この贊にあるとおり、五柳先生は清貧に甘んじ、酒を愛し、詩を賦しては己の志を楽しんだ。これは、陶淵明自身が理想として抱いた人物像であるともいえそうだ。陶淵明はこのような理想像を己に課することによって、生き方の目標ともしたのではないか。

ところで、五柳先生伝には、晩年の陶淵明を特徴付ける二つの要素が弱いと、漢学者の一海知義は指摘する。ひとつは躬耕、ひとつは老いである。帰去来を書いて以降、躬耕は陶淵明のライトモチーフであるかのように、繰り返し詩に歌われた。ところが、五柳先生伝は躬耕に言及するところ殆どない。また、老いを嘆き死を恐れることも、晩年の陶淵明に特徴的なことであったが、五柳先生伝は「以此自終」と、ごくあっさりと触れているのみである。

こんなところから、五柳先生伝は陶淵明の比較的若い頃、少なくとも帰去来以前に書かれたものではないかと、一海知義は推論した。筆者にもそのように思われる。








30 拓跋珪 (道武帝) (371−409)

中国皇帝になった遊牧民の部族長
拓跋珪は内モンゴル自治区東部の参合被の近くで、遊牧民の拓跋部の部族長の家に生まれた。最近の考古学的発見によれば、拓跋部は中国東北部の西側から興った部族のようだ。拓跋珪もふくめて、部族長は吋汗とよばれた。拓跋部は多数の部族のゆるやかな連合体である鮮卑族の一部族で、鮮卑は匈奴がおとろえると、匈奴に代わって北アジアで勢力をふるった。拓跋珪が生まれた頃には、鮮卑は中国北部に移住していた。
拓跋珪は父の死後に生まれた子である。わずか五歳のとき、拓跋部の建てた代という国で珪の祖父にあたる代王が殺害され、珪と母は、母の兄弟のいる氏族に身をよせることになった。三八六年に珪は世襲の地位である拓跋部の長を正式に名のる。まもなく珪は後燕の支援を受けて、対立する部族を倒した。後燕は鮮卑族のもうひとつの部族である慕容部が建てた国で、この部族は遊牧国家の君主をさす可汗という称号をはじめて用いたC拓践部の部族国家である代をふたたび統一すると、珪はしだいに勢力範囲を拡大し、ついにかつての同盟相手であった後燕の慕容部と対立することになる。三九五年、後燕は太子の慕容宝の指揮のもと、一〇万人近い大軍を派遣して代を攻撃した。戦力のまさる慕容軍に対し、拓跋珪は兵を率いて黄河を渡り、黄河以西に退却した。
こうして拓跋珪が戦闘を避ける戦略をとったことによって、慕容の大軍は夏から秋のあいだに勝負を決めることができなくなった。
慕容軍の大将は二月二三日の夜間に撤退する決心をし、黄河を渡るつもりで準備していた船をすべて焼きはらった。慕容軍が撤退を開始してから一週間後、驚くべきことに黄河が凍結した。拓跋珪は二万人の騎兵隊を率いて凍った黄河を渡り、慕容軍を猛追した。六日後、彼らは珪の生誕地、参合被の湖の曹序に到着。慕容軍は湖の東岸の川のほとりに野営しており、敵兵が迫っていることにまったく気づいていなかった。翌朝(一二月八日)、日の出とともに拓跋軍の騎兵隊が丘の上から攻撃をしかけ、別の一隊が逃げ道をふさいだ。



有名な仏教遺跡の雲崗石窟。仏教は拓跋珪の治世にさかんになった。

後燕軍は完全に不意をつかれた。大混乱のなかで一万人の兵がふみにじられ、あるいは溺れて死んだ。四万から五万の兵がなすすべもなく武器をすて、降伏した。大将の慕容宝にしたがって逃げおおせたのは、わずか数千の騎兵だけだった。慕春軍の兵はすべて虐殺された。
参合板の決定的な戦いから八か月後、拓跋珪は中国的な儀礼をとりいれ、隋や唐のように全中国を統一するために世襲の王朝に向かって体制を整えた。
三九八年、拓跋珪は国号を魏(建国は三八六年)とあらため、帝位について道武帝となった。
魏はのちに北魏とよばれるようになる。拓跋珪は平城(現在の山西省大同市付近) に新しい恒久的な都の建設を命じ、四〇〇年の春に、皇帝みずから土地に鋤を入れる中国的な儀式をとり行なった。北魏の政治体制の特徴は「均田」制(世帯の大きさに応じて耕地を支給する)を実施したことだ。そのおかげで農業生産性が大きく向上した。
柘跋珪の死は突然訪れた。四〇九年一一月六日、反抗的な一五歳の息子、拓跋紹の母を処刑しようとしたとき、母を助けようとした息子に殺されたのである。

北魏の革新性についての特集、特に馮太后の耕作地の改革
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》1. 文明太后馮氏について 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》2. 北魏建国期の政情 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》3. 馮太后の簾政 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》4. 官奉の制定 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》5. 均田法について 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》6. 計口受田制と隣保互助策 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》7. 北魏均田制の評価 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》8. 再編整備された隣保組織「三長制」
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》9. 三長制の実施 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》10. 三長制施行の時期 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-1 北魏朝の文明太后》11. 仏教の復興−文明太后の崇仏









31 崔浩(?−四五〇)

可汗に仕えた漢人官僚
崔浩は華北の有力貴族の出身である。曽祖父は「蛮族」の匈奴や羯族と戦った忠実な晋の家臣だった。父は東晋(西晋滅亡後、二一七年に江南で建国)の宮廷に仕えるために南下しようとしたが果たせず、華北で勢力を拡大していた拓跋珪の臣下となった。
崔浩と彼の父は華北の文人で、中国文化や伝統的な政治制度に精通していた。崔浩は拓跋珪に依頼されて珪の長子(のちの明元帝)の教師をつとめ、拓跋部の功臣が居ならぶ宮廷でも荏浩の助言は尊重された。
崔浩が明元帝とその息子の野心的な太武帝のためにとった軍事・外交戦略の概要は、華北でしのぎを削る「蛮族」勢力の平定と、江南にある漢人王朝との共存だった。崔浩がまず華北の安定を優先したおかげで、拓跋氏は華北のゆるぎない支配者の地位を獲得した。
四二九年、崔浩は拓跋部の功臣によるほぼ全員一致の反対を抑えて、太武帝がモンゴル高原の遊牧国家、柔然を討つのを助けた。戦いは大勝利に終わり、三〇万人を超える遊牧民が降伏した。太武帝は彼らに向かい、崔浩をたたえてこう言った。
ここにいる貧弱で学者のような男を見るかいい。こやつの手は弓も引けず槍ももてぬ。だが、胸のうちには兵士よりも鎧よりも強いものをもっておる。わたしは最初、この遠征をためらっていた。わが軍の勝利はすべてこの男の指導のたまものである。
崔浩は仏教を嫌悪し (仏陀を「異人の神」とよんだ)、おそらく戦略的な理由から、中国古来の道教を奨励した。崔浩にうながされて、太武帝は四四六年に「異人の」信仰である仏教を禁止した。
崔浩はそれまでの功績によって公に叙せられ、次々と重要な官職をあたえられて、ついには最高の地位のひとつである司徒(教育をつかさどる官)にまで昇った。崔浩は宮廷の指示によって魏の「国史」を編纂し、それを石碑に彫って民衆に公開した。しかし拓跋部の祖先の風俗習慣について書いた部分が民族的な侮辱とみなされて、四五〇年の夏に大武帝は崔浩とその一族をことごとく処刑した。









32 武帝(464−549)
梁王朝の創始者
中国が南朝と北朝に分かれていた時代、蕭衍は華南に梁王朝 (五〇二−五五七) を建てた。蕭衍は四六四年に南斉の皇帝につながる有力な貴族の家に生まれたので、恵まれた幼少期をすごし、苦労せずに官職についた。崩御してから贈られた武帝という勇ましい称号とは裏腹に、彼は才能豊かな文筆家で、信仰に篤い皇帝だった。
南斉の永明時代 (四八四−四九三)、蕭衍は南斉の皇帝の第二子を中心に集まった高名な詩人のグループ「竟陵八友」の一員だった。しかし、四九三−四九四年にかけて、蕭衍は鋭い政治的洞察力を発揮して、皇帝の甥の斎 鸞が帝位を奪うのに手をかした。粛街はその功績で黄門侍郎(詔勅の吟味にあたる官)の要職に任ぜられ、政治権力を増していく。蕭衍が四九五年に北魏の侵入をしりぞけると、その武勲が認められ、四九八年に現在の湖北省にあった雍州の長官に任命された。以後、この土地が蕭衍の拠点となった。
蕭衍は蕭鸞の後継ぎの子があまりに暴虐であったので、五〇〇年に挙兵して彼を殺害し、五〇二年、三八歳でみずから帝位につき、国号を梁とあらためた。蕭衍は勤勉な君主となり、毎朝早くから南朝の帝国である梁の統治に心を砕いた。冬には手にあかぎれを作りながら執務したという。私生活は質素で、同じ帽子を三年間かぶりつづけた。
蕭衍は文学を奨励し、華南に伝わる民謡を蒐集した。当時はまだ新しかった七言詩の発展にも力をつくした。蕭衍の長子粛続が編纂した詩文選集『文選』は、いまも文学史上重要な価値がある。
武帝の生涯で特筆すべき点は、仏教に対する献身的な保護である。異国から伝わったこの新しい信仰は、華南では知識人によって熱心に受け入れられたが、華北では教育のない一般庶民のあいだに広まった。武帝は最初、道教の影響を強く受けていたが、しだいに仏教に惹かれるようになった。木版刷りの仏典の口絵には、しばしば僧や尼僧、菩薩に囲まれる武帝の肖像が描かれている。
五二七年から五四七年にかけて、武帝は四度出家を試みるが、そのたびに宮廷や政府の役人が仏教寺院に多額の金銭を払って皇帝を世俗にとりもどした。
五四七年、武帝は廷臣の反対を押しきって、華北の武将、候景の投降を受け入れた。候景は白色人種の才能ある将軍だったが、枚滑で、翌年に反乱を起こした。候景は首都(現在の南京市)を長期間包囲したのち、五四九年四月二四日、ついに陥落させた。武帝は宮廷に監禁され、十分な食事をあたえられないまま、しだいに飢えて六月一二日に死亡した。











33 煬帝(五六九−六一八)

隋の二代皇帝
隋の二代皇帝は、五六九年に陳西省で華北の有力な軍人氏族の腸氏に生まれた。母の独孤皇后は鮮卑と匈奴の血が混じった家系の出身である。父の楊堅は北周の摂政をつとめた人で、北周は「蛮族」の拓践部が建てた北魏に代わって五七五年に華北を統一した。五八一年、煬堅は北周の皇帝から帝位を奪い、国号を隋とあらためた。
新帝の次男(名前は広)として誕生した未来の煬帝は、太子に立てられ、?州(現在の山西省)の総司令官に任命された。当時、井州は東突蕨の侵入を防ぐための軍事上の要衝だった。五八四年、彼は華南から妃を迎える。
長江中流域にあった後梁の傀儡皇帝の娘で、梁を建国し、仏教を保護した武帝の子孫にあたる。


煬帝の肖像

五八六年、太子広は長安によびもどされ、都の周辺地域の統治責任者となった。五八八年、隋がついに南朝の陳を討って中国を統一する決意を固めると、太子広は行軍元帥に任命される。隋は翌年早々に陳の最後の君主を捕らえることに成功した。
隋は表面上、中国の長子相続制度を採用していた。はじめは広の兄の勇が太子に立てられたが、六〇〇年の終わり頃に太子を廃され、狂人として監禁された。広は一二月一三日に新太子になると、弟の秀も投獄した。六〇五年に父の文帝が亡くなると、即位した煬帝は一晩のうちに父の愛妾を自分のものにし、兄の勇とその八人の息子を死
に追いやったといわれている。こうした状況を考えると、文帝の死は煬帝による父親殺しという疑いが強く、僧侶の残した記録にもそう書かれたものがある。
即位後まもなく、暢帝は多数の大規模な建設事業に着手する。まずは「東都」洛陽の建設に二〇〇万人の労働者を動員した。良江デルタと新たに完成した東都を結ぶ人運河の開削にはさらに費用をついやした。−この運河は首都と帝国の「米蔵」である華南との交通を確保する必要から作られた。この運河の歴史的重要性は大きい。長い歴史をもち、現在も利用されている京杭大運河(北京と漸江省杭州市までを結んでいる)の一部は、腸帝によって建設されたものだ。
これらの土木工事と軍事遠征によって、隋は史上類のない大帝国に発展した。しかし、こうした大事業の負担を負わされる民の苦しみははかりしれなかった。たとえば大運河の開削には男手だけではたりないため、婦女子まで労役に駆り出されたのである。
暢帝の領土拡大戦争は、国家に最大の負担をあたえた。隋は初代文帝の時代から、かつて強勢を誇った突蕨を弱体化させ、突厭の可汗数名に隋の宗主権を認めさせている。国土は小さいが強力な高句麗王国に対しても暢帝はくりかえし侵略の手を伸ばした。
暢帝は六三年から高句麗遠征を開始するが、第一回遠征は平壌で敗退。国内各地で農民反乱が起きていたにもかかわらず、なおも六一三年に第二回遠征を挙行する。今度は高句麗の防衛線を打ち破る寸前までいったが、隋の有力な将軍が後方で反乱を起こし、首都に軍が迫っているという知らせがとどく。遠征は中止され、反乱は即座に鎮圧されたが、この事件は支配層の貴族が帝国に見切りをつけつつあることを示していた。六一四年には第三次遠征隊が高句麗に派遣されたが、反乱にくわわるために逃亡する兵士があいついだ。高句麗の王が和議を申し入れ、遠征軍は撤収した。
暢帝はひんぽんに国内を巡幸した。農民反乱が拡大し、貴族の離反がいっそう進むなかで、六一六年に三度目の、そして最後となる南方巡幸に出発した。暢帝は長江下流域のデルタ地帯に作られた江都(現在の揚州市)に長期間逗留した。言い伝えによれば、花で飾り立てた船に羽をつめたクッションを敷き、ぜいたくにしっらえた庭園の間を水路でめぐつたという。六一八年四月一〇日、近衛軍団が反乱を起こし、その翌日、暢帝と多数の息子や孫たちを殺害した。二か月後の六月二一日、長安で唐王朝の創立が宣言された。
腸帝は秦の始皇帝(伝記H) や則天武后(伝記36)とならんで、中国史では昔から悪役扱いされている。歴史を記述する場合、どうしても前王朝を倒した王朝によって前の王朝の歴史が書かれることになるので、国家転覆を正当化するために、しばしば君主の個人的悪行が強調されるのはやむをえない。












34 太宗(五九九−六四九)
唐王朝の基礎を築いた名君
隋の楊帝(伝記33) が中国史上最悪の君主として誇張されているとすれば、五九九年に李世民として誕生した唐の太宗は、伝統的に最高の君主として祭り上げられている。しかし、このふたりには共通点が多い。次男であること、そして新しい王朝の二代皇帝であることもそうだ。
実際、このふたりの皇帝の血筋は近い。李世民の父で唐の高祖(王朝の創始者)李淵は、暢帝のいとこにあたる。六一七年初め、隋の衰退が決定的なのを見て、北の最前線にある太源(山西省太源市)で留守(皇帝不在の城で皇帝権を代行する役職)という重要なポストについていた李淵は反乱を起こす。
東突蕨から大きな支援を受けて、李淵は兵を隋の首都、長安に向け、二一月一二日に陥落させた。翌年、唐王朝の成立が宣言された。死後に高祖の名を贈られた唐の創始者、李淵は、唐王朝の樹立に功績のあったふたりの息子に対して、順当に長子の建成を太子に立て、次男の世民を秦王とした。


後宮の女性に囲まれてチベットからの使節を迎える太宗。

六二四年までに唐は隋の旧領を再統一し、突欧の侵入を撃退した。中国の長子相続の伝統にしたがって太子となった建成と弟の世民とのあいだには反目が生まれた。世民は傑出した軍事指導者であり、すでに六二一年には古典文学と学問を奨励するための文学館を建てて、儒学者の絶大な支持も得ていた。
六二六年七月二日、李世民は兄の太子と弟を城の正門で待ち伏せして殺害した。これを玄武門の変という。殺されたふたりの兄弟の子息もすべて処刑された。高祖は強制的に皇位をゆずらされ、九月三日に「退位」した。中国の正史はこの皇位継承にまつわる父親殺しの臭いをごまかそうとした。しかし、ある仏教徒が書いたよく知られた文学作品は、李世民の兄弟殺しと父親の幽閉を批判し、「退位した」高祖の最後の数年間はみじめなものだっただろうと暴露している。権力をにざるために李世民がとった手段は、孝行を重んじる儒教道徳から見れば容認しがたいとしても、部族を率いる族長は跡継ぎ候補のなかでもっとも有能な男子を選ぶべきであるという原則に立てば、理にかなっていたといえる。この原則は唐初期だけでなく、末期にもくりかえされたし、現在の中国の一部または全体を支配下に置いた遊牧国家の多くもこの原則にしたがっていた。
死後に太宗の称号を贈られた李世民は、唐帝国の強化と拡大にのりだした。新たに作った官吏登用試験を拡張し、才能ある儒学者を登用するとともに、貴族が政治の実権をにざるのを防ごうとした。暢帝の前例を教訓に、財政を倹約し、批判や反論を奨励して、中国の皇帝にはめずらしいほどの寛容性を発揮した。土地の国有化と私有制を合わせた均田制 (拓践部の北魂で成立し、修正をくわえて受け継がれた) とともに、太宗のこうした政策は、急速な経済の復興と繁栄を可能にした。
唐は六二九−六三〇年に束突厭を完全に滅ぼし、もっとも強力な君主だった頴利可汗を捕らえた。その後は中国人と 「蛮族」を平等に扱うという進歩的な政策をとり、政府の役人の半分が降伏した突厭人やほかの民族の長によって占められるまでになった。太宗は六三〇年に 「天可汗」 の称号を名のる。広大なステップ地帯とそこに居住していた遊牧民に対する唐の支配を表明するためだ。太宗の治世にはネストリウス派キリスト教(景教)の伝道師が首都に居住することが許され、ビザンツ (東ローマ) 帝国の皇帝が六四三年に宮廷に使節を送ってきた。
四〇代なかばから終わりにかけて、太宗は寛容性を失い、浪費が激しくなった。六四五年に高句麗への遠征を指揮するが、隋の暢帝と同様に失敗に終わっている。それでもめげることなく今度は西に目を向け、西突蕨に対する攻撃を開始する。太宗は若い頃の道教への傾倒が薄れ、仏教を受け入れる姿勢を見せた。おそらく唐の 「外交政策」 に仏教が果たす役割の重要性を見抜いてのことだろう。
太宗は重い病にかかり、しばしば宮廷の執務を休んだ。そして長期間太子を摂政の地位に置いた。しかし、ステップ遊牧民のあいだに自分の威光を保つのがきわめて重要だと感じていたのはまちがいない。六四六年の夏、太宗は西の前線に位置する霊州県(現在の寧夏回族自治区の都市)におもむき、遊牧民の族長を集めて忠誠を誓わせた。太宗は六四九年ヒ月一〇日、〇歳で世を去った。

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35 玄奘 (六〇〇−六六1)
西域を巡礼した訳経僧
玄笑は俗名を晰ノ勘といい、六〇〇年に河南省で生まれた。一二歳のとき、出家していた兄を追うようにして僧となった。玄笑は学識豊かな高僧となったが、当時使われていた中国語仏典にものたりなさを覚えていた。それらの多くは中央アジアに伝わる仏典をもとに、中国語も原典の梵語も十分理解していない人の手で翻訳されたものだからだ。
当時、唐の太宗(伝記聖は仏教に理解を示さず、インドへの巡礼に出たいという玄笑の願いはことごとく却卜された。やむをえず玄柴は許可なく六二九年に出発する。国を出られたのは、国境を管理する数人の仏教徒の役人が協力してくれたからだ。砂漠で死にそうな渇きに苦しめられたのち、玄笑はトウルファンの高呂国の王に師としてとどまるよう引きとめられた。玄笑は王を説得して出発し、中央アジアを抜けてカシミール地方にたどり着き、パミール高原とヒンドゥークシユ山脈を越えた。途中、現在のアフガニスタンで二体の巨大なバーミヤンの仏像を見て、それを記録に残している。三年後、玄英はようやくインド北部に到達した。
玄柴はインドに一〇年あまり滞在し、インド亜大陸にある数多くの僧院や仏教の聖地を訪ねた。また、当時、仏教最大の学問センターだったナーランダー大学で五年間学んでいる。多数の仏典や遺物を蒐集したのち、玄笑は故国への旅につき、六四五年の初めに唐の都の長安に帰りついた。
唐の太宗は膨大な数の経典を漢訳する事業におしみない援助をあたえ、玄笑は残りの生涯のほとんどをそのために捧げた。完成した経典は合計一二三五巻、二▲▲00万字におよんでいる。玄笑は中国語の本を数冊サンスクリット語に訳したといわれているが、それは見つかっていない。玄英は六六四年に亡くなった。

唐代に描かれた虎をつれた巡礼僧。
玄笑を描いたものと長らく(誤って)考えられていた。玄笑は旅先で見聞きしたことを 『大唐西城記』 に記録した。中央アジアやインドで訪れた一一〇の国々や、人づてに話を聞いた二四の国について詳しく書いている。
インドには数えきれないほどのすぐれた哲学者や言語学者、数学者、論理学者や思想家が生まれているが、なぜか昔のインドには歴史書を書く伝統がなかった。そのため、玄笑の 『大唐西域記』 に記録された詳細な報告は、中世インド史の欠けた部分を埋める重要な役割を担っている。
中央アジアと南アジアを通る玄笑の旅をもとに、明代の有名な口語体小説『西遊記』 が生まれた。この物語では、巡礼者玄突 (仏教の経・律・論の三蔵に精通した僧侶という意味で、三蔵法師とよばれている) が三人のお供 − 孫悟空、猪八戒、沙悟浄 − をつれて、インドへの長い道のりをたどることになっている。


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36.  武則天  (600〜664)
中国史上 唯一の女帝
武則天后は名を昭といい、ほぼ半世紀にわたって中国の事実上の支配者となった。実際に皇帝として一五年間君臨している。中国の長い歴史のなかで、正式に皇帝として即位した女性は則夫武后だけだ。
則大武后は六二四年に生まれた。父は現在の山西省の、中国の北の国境地帯で材木商を営んでいた人で、唐の高祖の建国に協力して功績を上げ、宮廷内で高い地位に昇った。隋の皇族から後妻を迎えたことで社会的地位も高まった。則天武后はこの夫婦のあいだに生まれた次女である。
父が四川で総司令官の地位にあったので、則夫武后は四川で子ども時代をすごした。六三七年に唐の太宗(伝記聖の後宮に入る。三年後に太宗が亡くなると、後宮の女性たちの慣習にしたがって尼僧になった。しかし則大武后は次の皇帝となった高宗(太宗の息子)の目にとまり、ふたたび後宮に召し出されることになる。権勢をふるったこの女性に批判的な中国の文献によれば、このふたりは太宗がまだ健在だった頃から不倫関係にあり、太宗の死後、その仲が再燃したのだといわれている。則夫武后と唐の皇族はともに「蛮族〓どちらも鮮卑系」の血を引いており、遊牧民の文化ではこうした逆縁婚(死者の息子や兄弟がその未亡人と結婚する慣習)は決して受け入れがたいものではない。しかし儒教倫理においては、そうした行為はきわめて不道徳だと考えられたのである。高宗が則大武后を後宮に入れたのは、高宗の皇后王氏にそそのかされたせいかもしれない。王皇后は高宗の寵愛をめぐってひとりの寵姫とライバル関係にあったので、この寵姫を失墜させるために武后を高宗に近づけたとも考えられる。
則夫武后は高宗とのあいだに四人の息子を生んだ。一度は手を組んだ王皇后をおとしいれるため、武后は生まれたばかりの自分の娘の首を絞めて殺し、ライバルである王皇后にその罪を着せた。王皇后は廃位され、六五五年に則大武后が皇后となった。権力をにざるやいなや、武后は反対派を宮廷から一掃した。
高宗は気が弱く、生まれつき病弱だった。六七四年、武后は皇帝に匹敵する地位(高宗を天皇大帝、武后を天后と称した)を得て、高宗と武后は「二聖」と称された。翌年、武后は正式に摂政となり、病弱な皇帝は完全に政治からしりぞいた。六七八年からは武后ひとりで廷臣や外国の使節と宮殿で面会した。
長男の太子弘は六七五年に急逝した。実母の武后が毒殺したと見られている。次男の太子賢は四川に追放され、六八四年に母によって自殺に追いこまれた。
六八三年、高宗がついに崩御すると、武后の第三千が中末として即位する。しかしこの皇帝はわずか五五日で廃位され、代わって第四子が皇位について容宗となった。まもなく香宗は「自発的に」権力を放棄し、促偏に甘んじた。則夫武后は六九〇年に正式に帝位につき、国号を唐から周にあらためた。
武后は権力を固めるために恐怖政治を行ない、密告者や冷酷な官吏を厚遇した。また僧や美少年を集めて寵愛したとも批判されている。しかし武后にもっとも批判的な中国の歴史家でさえ、家柄に関係なく傑出した才能の持ち主を見つけ出し、忠実で有能な官僚として採用した武后の見識には一目置いている。
武后に登用された有能な官僚の力によって、武后が政権をにぎった唐(周)帝国はきわめて安定した国情を保った。経済は発展し、領土の拡大は続いた。戸数で見ると、人口は半世紀のあいだに六〇パーセント増加した。
ほとんどすべての面で、則大武后の長い治世はうまくいっていた。
あるとき、武装蜂起の宣言文が武后の面前で読み上げられた。それは才能ある詩人が起草したもので、武后は自分に対する悪意に満ちた個人攻撃をならべた文章の優美さに感銘を受け、顔色も変えずに言ったという。これほど才能ある若者が世に埋もれ、これまで宮廷に召し出されなかったのは宰相の怠慢である、と。
武后は長安から東都洛陽に都を移し、いくつかの大規模な建築事業に着手した。また、仏教を保護し、経典の則大武后の孫娘、永秦公主の墓に描かれた壁画。
永泰公主は武后に対して批判的な意見を述べたため、17歳で殺された○写経を奨励した。とくに女性君主の出現を預言した短い経典(武后が帝位につく根拠とされた)の写しを全国の寺に置かせた。この教典の印刷には世界でもっとも古い木版印刷が使われた可能性もある。
ヒ〇五年二月二〇日、宮廷内でクーデターが起き、武后の悪名高い寵臣や忠臣の数名が殺害され、武后は退位させられた。この年の一二月一六日、武后は軟禁状態に置かれたまま死亡した。しかし武后の子孫はその後二世紀にわたって唐を支配しっづけ、「聖神皇帝」と称した武后は最大の敬意をはらわれて、現在の西安郊外にある巨大な陵墓に高宗とともに合葬されている。興味深いことに、則天武后が自分の功績を記念するためにこの陵墓に建てた石碑には、文字がひとつもきざまれていない。

(X 政権を握った女性) 《§-2 唐朝の則天武后》1. 皇后の座をねらう武照儀の執念 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-2 唐朝の則天武后》2. 武后、朝政を独裁する 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-2 唐朝の則天武后》3. 武周革命 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之
(X 政権を握った女性) 《§-2 唐朝の則天武后》4. 皇帝になった則天武后 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-2 唐朝の則天武后》5. 竜門石窟の造営 漢文委員会
(X 政権を握った女性) 《§-2 唐朝の則天武后》6. ササン朝ベルシア文化・文物の移入
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37 高仙芝(?上空ハ)
唐で活躍した高句麗の武将
高仙芝は唐との戦いに敗れて唐に移り住んだ高句麗人の子孫である。中央アジアで軍人としてスタートし、中央アジアの広大な領域を守る節度使(辺境防衛のための国防司令官)の夫蒙霊督(チベット系蒐族)にしだいにその実力を認められる。
中央アジア、とくにカシミール地方の多くの国が唐から離反し、チベット高原で新たに勢力を増した吐蕃になびいていた。七四七年、高仙芝は一万の兵を率いて遠征し、小勃律を討った。小勃律はカシミール北部にあった国で、その王は吐巷の王の娘を后にめとっていた。高仙芝は亀叢(現在の新彊ウイグル自治区クチャ県)に置かれた中央アジア防衛の拠点を出発し、パミール高原とムルガブ川を越えて、首尾よく小勃律の首都を陥落させ、吐蕃の援軍が到着する前に王と王妃を捕らえた。
高仙芝は亀蓑を経由せずにこの勝利を直接唐の宮廷に報告した。そのため直属の上司にあたる夫蒙霊撃に叱責されるが、高仙芝の武功に感心した宮廷は夫蒙霊努を解任し、高仙芝を後任につけた。
七五〇年、高仙芝は石固(現在のウズベキスタンの首都タシケント周辺)を攻撃し、その王を唐の宮廷に連行して、公開処刑を行なった。また、このとき高仙芝は多くの財宝を略奪し、私物化した。和睦をよそおって石国王をだまし討ちにし、私欲に走った高仙芝の行動は周辺諸国の反感をかい、処刑された王の息子はアラブ人の助けを求めた。一世紀前にササン朝ベルシアを滅ぼしたイスラム帝国は、この頃には唐と国境を接するまで版図を広げていた。こうして唐草とアラブ軍はタラス河畔で衝突することになる。
七五一年、高仙芝は三万の兵からなる連合軍を指揮し、現在のカザフスタンを流れるダラス川の沿岸でアラブバーミヤンの仏像。タラス河畔の戦いで高仙芝が敗れた後、
中央アジアで仏教が衰過した。
軍を迎え撃った。五目後、テユルク系遊牧民のカルルク族が突然アラブ軍にねがえったため、唐軍は大敗を喫した。高仙芝は数千騎の兵とともに撤退したが、残された兵はすべて殺されるか捕虜になった。
タラス河畔の戦いは歴史の分岐点である。明確な証拠はないが、この戦いをきっかけに中国の製紙技術が西に伝わったといわれている。(もっとも、紙はこの時代より何世紀も前からシルクロード周辺で使用されていた)。この戦いは中央アジアにおける唐の支配の終わりのはじまりだった。これ以来、中央アジアから仏教、儒教、そしてイスラム以前のイラン文化が姿を消し、代わって中央アジア全体のイスラム化が進んでいく。
高仙芝の最期はあっけなかった。七五五年の冬、安禄山 (伝記38) を先頭に猛烈な勢いで進撃する反乱軍に対し、高仙芝は急ごしらえのよせ集めの官軍を率いて防衛を命じられた。高仙芝の不名誉な負け戦である。
高仙芝はおそらく七五六年の初めに処刑された。
99
二l玉 ら帽
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38 玄宗

















38 安禄山(ヒ〇三頃卜七五七)
反乱軍首領

安禄山は七〇三年頃、現在の中国東北部にあたる唐の北東の辺境で生まれる。ソグド人(イラン系農耕民族)の父と巫女である突厭系の母とのあいだに生まれた混血である。安禄山は母とともに突蕨で育ったが、のちに母がソグド系の人と再婚した。安というのは、この再婚した父の姓だ。中央アジアにイラン語を話す人々の大きな集団が存在し、彼らが中国東北部にまで広がっていたことは、北アジアのアルタイ諸語を話す人々のあいだにイスラム以前のイラン文化の影響が長く続いていたことを示している。
中国の記録によれば、安という姓は中央アジアに住む人々のなかでも現在のウズベキスタンのブハラ出身者に多かった。安禄山は安という姓を継父から受け継いだのである。彼はすくなくとも六民族の言葉を話せたので、ますますさかんになる交易の仲介業者として国境地帯で働いた。あるとき羊泥棒の罪に連座して、あやうく処刑されそうになった。しかし中国の北の国境地帯の節度使として赴任した張守珪に才能を認められ、罪を許されて軍に入った。
安禄山は当時、中国の北東を脅かす最大の勢力だった契丹や、それとつながりのあるモンゴル祖語を話す部族と戦って功績を上げた。彼はたちまち昇進し、張守珪の養子に迎えられる。養子をとるのは、辺境警備にあたる軍人が信頼できる味方を増やすためによく行なわれる習慣だった。
七三六年にはすでに安禄山は衛将軍(将軍位のひとつ)に昇進していた。この年、契丹の 「反乱軍」討伐で手痛い敗北を負い、軍法会議にかけられてあやうく死刑になるところだった。しかしこの件が宮廷に報告されると、後顧の憂いを断つために死刑にすべきであるという宰相の進言をはねつけて、皇帝玄宗は安禄山を許した。
安禄山は着実に昇進し、ヒ四四年に節度使に昇格する。玄宗は安禄山を信頼しきっていた。安禄山は太った巨体で激しくまわりながら踊るソグド人の舞踊「胡旋舞」を舞って、皇帝をいたく喜ばせた。皇帝の寵愛のおかげで、安禄山は宮廷で厚遇され、七五〇年には諸侯王の称号のひとつである平王がみたえられた。
安禄山は着々と兵力をたくわえた。ついに軍事的に重要な北東部の三地方の節度使を兼任するまでになった。現在の北京に近い
氾陽に拠点を置き、勢力範囲は山西省から中国東北部まで広がった。七五五年一二月一六日、安禄山は長いあいだ温めてきた反乱計画を実行に移す。一〇万人を超える安禄山の兵は、ほとんど抵抗もなく怒涛のように中原を抜けて唐の東都洛陽に迫った。洛陽はわずか三四日で陥落した。
七五六年正月 (旧正月、新暦の二月五日)、安禄山は洛陽で帝位につき、国号を大燕と称したり 唐の廷臣や官僚が数多く忠誠を誓った。数か月後、反乱軍は首都長安に通じる交通路を防衛していた唐草を撃破。あわてた玄宗は主だった者をひきつれて長安を脱出し、遠い南西の地をめざした。その途中で玄宗の豊満な寵姫、楊貫妃が悲劇的な死を迎えている (楊一族を恨む官軍の兵士に殺害されたと考えられている。)。
七五七年一月、安禄山は息子によって殺害される。


唐の政府が安禄山の乱のさなか、首都を脱出する玄宗。

この反乱を完全に平定するには、ウイグル軍の協力を仰いでさらに六年を要した。しかし唐王朝が昔日の繁栄をとりもどすことは二度となかった。
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39 李白/40杜甫(七〇丁七六二/七一二−七七〇)
中国を代表する詩人
李白
李白は唐の二大詩人のうち年長のほうで、七〇一年に生まれた。中央アジアに亡命した漢民族の末裔か、もともと中央アジアにいた異民族の子孫だという説がある。
杜甫は李白の誕生から一一年後 (七二一年)、現在の河南省で名高い儒家の知識人の家庭に生まれた。祖父は唐代初期の有名な詩人で官僚であり、父は地方行政官だった。
ふたりの詩人はどちらも幼少期から卓越した才能を見せたが、彼らがたどった経歴はかなり対照的である。李白は科挙を受けようとしたことはなく、有力者の引き立てに頼って高い地位につこうとした。しかし李白は宮廷でうまくやっていけず、その不満を何編かのすぐれた詩に託している。よく知られている詩に、「萄道難」(長安から現四川省の局までの険しい道のりを歌っている)がある。
七四二年の秋、李白が仕官をあきらめかけたとき、玄宗から都に召し出された。詩人としての李白の評判が高かったのはもちろんだが、玄宗の関心の一部は李白が終生学んできた道教にあったのである。玄宗は道教を信仰していた。李白は翰林院 (詔勅を起草する機関)にポストをあたえられた。その後の二年間は李白の栄達の時期である。李白が宮廷に着任すると、高齢の官僚で道教を信奉する詩人が李白の詩を激賞し、「謫仙人」(天から迫われる放された仙人)とよんだ。

宋代に描かれた李白の肖像

皇帝は李白を「金宮」(黄金の宮の意味で、李白が「宮中行楽詞」)で長安の宮殿をたとえた言葉(に迎え入れ、この詩人に一杯のスープを手ずから給仕するという歓待ぶりだった。
李白は酔っぱらいながらも、玄宗の寵姫、楊貴妃 (伝記41) の類まれな美しさをたたえて三篇の詩を詠んだことで知られている。詩人としての名声は高まったが、宮廷詩人の生活は思うにまかせないことも多かった。
七四四年、李白は田舎暮らしに戻った。
杜南は生まれてまもなく母を失い、伯母に育てられた。李白と同様、杜甫も若い頃は各地を放浪し、それから高級官僚 (農業をつかさどる役所の次官) の娘と結婚した。科挙に挑んだが落第し、仕官するために有力者の推薦を求めなければならなかった。
ふたりの詩人が顔を合わせたのは、李白が宮廷を去り、杜甫がまだ洛陽で仕官の道を探しているときだった。
家柄や年齢、性格、詩風、信仰の違いはあっても、彼らのあいだには杜甫が「兄弟のよう」と表現した友情が芽生えた。
ふたりの詩人の人生を変えたのは安禄山の乱 (伝記38) だ。杜宙は反乱軍に捕らえられながらも、なんとか脱出して、即位したばかりの皇帝、粛宗のもとにはせ参じた。その心意気を称賛され、杜甫は官職をあたえられる。位は高くないが、皇帝にきわめて近い側近である。しかしまもなく、杜甫は失脚した宰相を弁護したために左遷される。反骨心がまねいたわが身の不幸と苦痛を杜南はいくつかの詩に歌っている。まもなく杜甫は官職をすて、家族をつれて四川に移り、成都(現四川省の省都) に草堂(草ぶきの廬)を建てた。
一万、安禄山の乱のさなか、李白は粛宗の弟の軍にくわわったが、それが裏目に出た。皇位を狙う皇弟軍はたちまち粛宗に敗れた。李白は捕らえられ、反逆罪で有罪となった。死罪を宣告されるが、のちに刑が軽減されて遠い南西の地に永久追放となり、最後には恩赦をあたえられた。
杜宙は占い友人である李白の詩をほめたたえる詩をいくつか書き、李白のぶじを祈った。李白はヒ六二年に硯在の安徽省の長江流域の土地で亡くなった。言い伝えによれば、李白は酔って川面に映る月を捕まえようとして溺れたのだという。この伝説は、名月を酒の相手に招いたと歌う李臼の有名な詩(「月下独酌」)から生まれたのだろう。
牡甫は強い権力をもつ四川節度使の厳武の保護を受けて、おちついた暮らしができた。七六五年に厳武が急逝すると、四川を離れる。七七〇年の冬、現在の湖南省で、洞庭湖にそそぎこむ湘江で船に乗っていて、船上で亡くなった。
李白と杜甫は中国の二大詩人とみなされ、中国では学校でかならず彼らの詩を習う。李白の詩は感傷的で豊かな想像力を感じさせ、杜宙の詩は叙述的でより現実を見すえ、彼が生きた動乱の時代を生き生きと描いている。
ふたりの詩のうち、短いものをあげておこう。

「沙邸城下にて杜甫に寄す」
我来る 意に何事ぞ
李白
高臥す沙邸城
城辺に舌樹有り
日夕 秋声を連ぬ
魯酒 酔う可からず
斉歌 空しく複た情
君を思えば淡水の若く
浩薄として南征に寄す (『世界古典文学全集27 李白』、武部利男訳、筑摩書房)
(わたしは結局ここへ何をしに来たのだろう。沙丘の町で毎日昼寝をしているだけだ。町はずれに古い木が立
っていて、朝な夕なにざわざわと秋風に鳴っている。魯の酒は薄くて酔えず、斉の歌は心にむなしく響く。君(杜甫をさす)のことを思うと、心は浅水の流れのように広々とただよって、南への思いがつのる。)












 (712−770)



「客至」 杜甫
舎南舎北皆な春水
但だ見る群鴎の日日束たるを
花径曾て客に縁りて掃わず
蓬門今始めて君が為に開く
盤喰市遠くして兼味無く
樽酒家貧しくて只だ旧酪あるのみ
敢て隣翁と相い対して飲まんや
範を隔て呼び取りて余杯を尽くさん (『杜甫全詩訳注(二)』、下定雅弘・松原朗編、講談社)
(家の北にも南にも春の出水が満ちて、ただカモメが毎日やってくるのを眺めているばかりだった。花が散った道は客が来るからといって掃いたこともないが、よもぎの生えた門を今日はじめてあなたのために開けた。市場が遠いので料理の数も少なく、貧しいので古い酒しかない。隣家の老人とさしむかいで酒を飲んでもかまわないなら、垣根越しによぴよせて、あまっている酒を飲みはしてしまおう。)
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42 楊貴妃 【ヤングゥィフ工イ】(719−756)
皇帝の寵姫
楊貴妃は幼名を玉環(「ヒスイの輪」)と言い、七一九年に由緒ある貴族の家柄に生まれた。七三四年、楊貴妃は玄宗の子、寿王の妃に選ばれる。楊貴妃を妃に推したのは、玄宗の妃の武恵妃 (伝記36則夫武后の一族の出身) だった。
玄宗は七一〇年に宮廷内のクーデターによって権力を掌握し、七二一年に正式に皇帝に即位した。唐は玄宗の長い治世の前半に絶頂期を迎え、帝国の版図は中央アジアのアムダリヤ川 ?タジキスタンとアフガニスタンの国境沿いを流れる川? から日本海までおよんだ。しかし年をへるにしたがって、かつては戦闘的で進取の気性に富んだ若き君主も、しだいに国政より日々の悦楽に興じる老いた支配者になり果てた。
七三七年の終わりに、寵愛していた武恵妃が亡くなった。その前には太子をふくむ玄宗の三人の息子の処刑につながる宮廷内の陰謀事件があった。玄宗は気の晴れない日々を送っていた。
七四〇年頃、おそらく信頼していた任官の高力士にそそのかされて、玄宗は楊貴妃を見初めた。息子の妃をすぐさま愛妾にするのはさすがにはばかられたか、外聞をとりつくろってから、玄宗はかつて息子の嫁だった楊貴妃を後宮に入れ、片時も離さないほど寵愛した。これは李白 (伝記39) が首都の長安で短い宮仕えをしているあいだのことで、李白は楊貴妃の美しきをたたえる三篇の詩を書いている。それらの詩はその場で当代随一の歌手によって音楽に合わせて詠唱され、皇帝とその寵姫を喜ばせた。
玄宗と楊貴妃はどちらも中央アジアの音楽と、サマルカンドから伝わった 「胡旋舞」を好んだ。ゆったりした服装と舞踊、そして音楽もふくめて、この当時の中央アジア文化の人気がうかがえる。一説には、楊貴妃は豊満安禄山の乱のさなか、反乱軍からのがれるために馬に乗る楊貴妃。
な女性だったので、袖も身頃も細身に仕立てた中国服より、ゆるやかな中央アジアの衣服を好んだようだ。当時はふくよかな女性とゆるやかな衣服に流行が移っていたことは、この時代の陵墓に副葬品として納められた陶器の人形に表れている。
七四五年の春、楊貴妃は正式に貴妃 (皇后に次ぐ最高位の妃) に立てられた。玄宗は首都長安に近い鷹山の温泉に作った離宮を楊貴妃のために拡張し、帝国の輸送制度を駆使して中国南部の熱帯気候でとれるライチを長安まで数日で届けさせている。
野心に燃える突蕨系の安禄山 (伝記38) は子どものいない楊貴妃にとりいり、せがんで楊貴妃の養子となった。安禄山は七五五年、ついに反乱を起こし、半年で華北の大半を制圧した。七五六年七月一四日、玄宗は長安を脱出し、翌日馬鬼という駅(通信や輸送のために馬や宿をそなえた場所)に到着した。国が乱れる原因になった楊貴妃を恨む兵士たちは、楊氏の一族をこの場所で殺害し、楊貴妃の処刑も要求した。
玄宗は泣く泣く楊貴妃を絞殺することに同意した。
まもなく太子が帝位につくことを宣言。一年半後、太上皇 (退位した皇帝に贈られる称号)となった玄宗は四川から長安に帰還した。老いて心は傷つき、しかもわが子である皇帝によってすぐさま幽閉状態に置かれた。四川亡命中も宮廷で幽閉された最後の数年間も、玄宗は失った寵姫を思い嘆かない目はなかった。
馬鬼での別れから半世紀後、詩人の自居易(伝記撃がこの悲劇をもとに、叙事詩「長恨歌」を作った。中国文学史上、悲恋を歌った作品としてもっとも有名なものだ。この詩には、道教の道土が仙人の住む山で楊黄妃の魂を探し出し、玄宗への伝言を頼まれるという場面がある。当時、楊貫妃は殺されたのではなく、どこか遠い島につれていかれて生きているという噂が民衆のあいだでささやかれていた。白屠易はその伝説をもとにして空想をふくらませたのだろう。今日でも楊貴妃は日本に亡命したという説が伝えられ、口本には楊貴妃の墓さえ残っている。
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42 白居易  (772ー846)
大衆的詩人
白居易は七七二年に現代の河南省の新鄭で生まれた。おそらく数世紀前に中央アジアから来た「儒家」の一族の末裔であろうと自称している。
七九九年、科挙の地方試験に合格し、八〇〇年に最終試験にも合格して進士となり、官僚の道を歩きはじめる。
八〇七年に翰林院に入り、八〇八年にはむ断獣に就任。これは日高に直接意見できる側近の職である。八二年に母親が亡くなると、白居易は当時の慣習にしたがって官を辞し、三年間の喪に服した。喪が明けると東宮官として復帰するが、その直後の八一五年に深刻な政治的問題にまきこまれてしまう。はじめは母にかかわる家族の
不祥事にかんして、白居易が儒教倫理に反したかどうかが問われただけだったが、それがエスカレートして白居易の家族の恥が公にされかねない事態になった。
白居易は地方官に左遷された。中国南東部でいくつかの職を転々としたのち、八三五年にようやく東都洛陽で太子を教える教師という、格式は高いが名ばかりの名誉職につき、候に叙せられた。
白居易は生涯を通じて多作な詩人であり、同時代の詩人のなかでもっとも多い三〇〇〇編を超える詩を残した。詩風は簡潔で、詩というものは洗濯女が聞いて理解できないようでは完璧とはいえないと考えていたといわれる。彼はまた音楽にも関心を示し、琵琶の演奏を詳しく描写した「琵琶行」という詩を作っている。また、革新的な新しい詩のジャンルである「新楽府」 の代表的作品も作った。民間歌謡にもとづく詩歌を古楽府とよぶのに対して、新楽府は政治批判や風刺を目的とした詩である。白居易の詩をひとつあげておこう。ここに歌われた「貴妃」とは楊貴妃のことである。


白居易の肖像  「胡猿の女」より
貴妃 胡放して 君が死して馬?に捨つるも
心を惑わし
念い更に深し
荻れ従り 地軸天維転じ
五十年来制するも禁まらず
胡枚の 女
空しく舞う莫かれ
臥しば此の歌を唱いて明主を悟らしめよ (『白楽天詩選(上)』、河合廉三訳、岩波書店)
(楊貴妃の胡族は君主の心をまどわし、死んで馬鬼に葬られても思いはつのるばかり。それ以来世の中は大きく変わったが、五〇年というもの胡旋の舞を禁じることができない。胡旋の女よ、むなしく舞うのはやめて、いく度もこの歌を唱って賢明な君主の目を開かせるように。)
白屠易は晩婚だったが、数名の美しい「妓女」とのつきあいがあった。生まれた子どものうち、成人したのは娘ひとりだけである。自居易の弟の自行簡もまた、科挙に合格して進士となった人で、大衆的な伝奇小説をはじめて発表した作家のひとりである。また、敦塩の仏教遺跡、莫高窟に隠されていた敦怪文書のなかから近年になって発見された性愛の指南書も、自行筒の作品だといわれている。
唐が中央アジアの覇権を吐春に奪われたとき、白居易は激しく嘆いた。おそらく自分の祖先の故郷への愛着をずっともちつづけていたのだろう。八四二年、自居易は法務大臣に相当する名誉あるポストを最後に引退する。
ときの皇帝は白居易を宰相にしたかったが、有力な軍事長官の李徳裕に反対される。李徳裕は由緒ある儒家の貴族の最後の目付け役をもって任じていたので、儒者として信用ならない自居易のような成りあがり者を嫌っていたのである。しかし、白居易の遠い親戚の自敵中は、のちに宰相の地位に昇っている。
白屠易は八四六年九月八日に洛陽で世を去った。玄宗(在位八四六−八五九)が作ったとみられる挽歌が、白居易の功績を端的に表現している。
チビもらでさえ 「長恨歌」をそらんじ「蛮族」のやからも「琵琶行」を歌える
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44 薛濤 (七ヒ〇年代−八三二)
詩人・芸妓
醇癌が誕生した年ははっきりしないが、おそらく四川で生まれたとみられる。この頃華北は安禄山の乱(伝記
謂こ で荒廃していたが、遠く離れた四川は平穏で、父は身分の低い地方役人として勤めていた。醇岳は早くに父
を亡くし、四川の節度使毒皐に 「公式接待者」、すなわち妓女として仕えた。醇藩は賄賂を受けとった罪をとがめられ、章皐も彼女をかばいきれず、四川の西の境に追放された。その後、ようやく許されて四川の省都、成都に戻った。辟漆は花に囲まれた風光明媚な浣花渓に住み、毒草の後任の一〇人の節度使のうち、すくなくとも五人から保護を受けた。
醇活の文才をよく表したエピソードがある。八〇七年に節度使として着任した武元衡は宰相の位もかねており、醇漆の文才を認めて校吾郎(宮中における図書一般の管理を担当する官)に任じた。唐の宮廷がこの抜擢を認めたかどうかはわからないが、女性が官職につくことはありえなかった時代に、醇涼はしばしば女校書とよびならわされた。
自居易 (伝記42) の親友で、のちに宰相に昇る高名な詩人の元積は、
八〇九年に宮廷から監察御史(地方行政を監視する官)として四川に派遣されて、辞溝を見初めた。醇藩もその気持ちを受け入れたようだが、元積は政略結婚によって地位と縁故を手に入れたいと望んでおり、蒔岳の経歴ではとうてい結婚はできなかった。
辞涼はおもに短詩を作った。赤が好きだったので、地元の紙漉き業者に美しい深紅の小さな短冊を作らせ、それに短詩を書いて贈った。この深紅の短冊は辟藩箋とよばれて評判になった。
教養ある唐の女性は、夫となる人を見つけて結婚できなければ、多くが道教の尼僧になった (仏教を選ぶ女性もわずかにいた)。辟藩は道教の尼僧になり、情感にあふれた詩を残して八二二年の夏に亡くなった。


現代に作られた薛濤の像

「春嘗風花 日に将に老いんとするに、佳期 猶お妙砂。
同心の人を 結ばず、空しく 同心の草を 結ぶ。(辛島焼『漢詩大系第15巻 魚玄機・辟痔』、集英社)
(春の花も春の風も、日ごとに終わろうとしている。また会える約束の日は、はるかに遠い。同じ心をもつ恋人とは結ばれないで、むなしく草を同心結び<草を結んで相愛の心を示すこと>にしている。)
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45 李徳裕(七八七−八五〇)
後唐の宰相
李徳裕は現在の河北省で遷都の名門貴族の家柄に生まれた。父は唐の宰相である。高い教育を受けたので、科挙を受けて官僚になることもできたが、彼は科挙出身の官僚を見くだし、「血筋のいいラバや馬は駅を通らないものだ」と言って恩蔭制度(高級官僚の子孫は自動的に官吏に登用される制度)を利用する道を選んだ。
李徳裕は官僚として四〇年以上、六代にわたる皇帝に仕えた。このあいだに唐の宮廷の派閥争いは激化した。おもに李党・牛党とよばれる派閥の争いである。李党は李徳裕に代表される華北の名門貴族出身の官僚グループで、牛党は長いあいだ宰相の地位にあった牛僧儒が率いる「庶人」(身分や官の低い家柄)の科挙出身官僚たち科挙を受験する学生。李徳裕は科挙を嫌って受けなかった。

であった。この午李の党争により、李徳裕の宰相としての一期目 (八三三−八三四) は二〇か月ももたなかった。
しかし、地方官として勤務していた期間にめざましい功績を上げて、八四〇年にふたたび宰相に返り咲いている。
李徳裕が宰相に就任した頃、モンゴルではウイグル人による国家がキルギスによって滅ぼされた。李徳裕は唐の国境周辺地域を荒らすウイグル人の道民に遠征軍を派遣して鎮圧。安禄山の乱 (伝記38) で反乱軍の本拠地と
なった河北省など、各地で中央集権体制を立てなおした。八四五年、宮廷はあらゆる「外来の」宗教を禁直した。
仏教は弱体化しながらも生き残ったが、ゾロアスター教やネストリウス派キリスト教 (景教) はこの迫害に耐えきれず、中国から姿を消した。
八四六年に武帝が崩御すると、自屠易(伝記42) のまたいとこにあたる自敵中に率いられ、牛党はふたたび勢力を盛り返した。李徳裕は左遷・追放の憂き目にあい、八四八年に海南島の地方財政官を最後に公職からしりぞいた。その地で二年後に亡くなっている。李徳裕は最後の華北漢人貴族の象徴だったが、皮肉なことに、李氏の末裔の一部は海南島に根を下ろし、そこでしだいに非漢人の現地少数民族に溶けこんで 「異民族化」 したという。



















フゥアンチャオ
49 黄 巣 (?−八八聖

群盗・反乱軍首領
黄巣は現在の山東省で生まれ、漢王朝以来政府の専売となっていた塩の密売で財をなした。科挙の試験に何度も落第したせいで、社会に対する不満をつのらせたといわれている。
八した年の春、黄巣は同じ塩の密売業者だった王仙芝が前年に起こした反乱に呼応して、群盗や密売業者、土地を失った農民らを率いて挙兵した。王仙芝は八七八年に殺され、黄巣はその残党をまとめて反乱軍の首領となり、「天補平均大将軍」というおおげさな称目すを自称した。首都長安の守りは固かったので、黄巣は反乱軍を率いて南下し、長江を渡って現在の新江省、江西省、福建省の大部分を制圧した。これらの地域で黄巣は平等な富の分配を唱え、唐の役人や体制側の人間を皆殺しにした。しかし彼は長期的な根拠地を作らず、略奪しながら移動をくりかえした。
南方への転戦は八七九年の広州攻撃でクライマックスを迎える。広州は南の港湾都市で、東アジアにおける国際貿易の中心地だった。黄巣軍はここで非中国人居住者を虐殺する。おもにイスラム教徒だったが、キリスト教徒やユダヤ人もふくまれていた。この虐殺はイスラム側の資料に記録があるが、中国の公式記録には記載されていない。広東省一帯で殺害された外国人の数は一二万から二〇万人と推定され、この時期の中国と中東の貿易がいかにさかんだったかを物語っている。しかし黄巣による略奪後、貿易が回復するには長い年月を要した。
八八〇年のなかばに黄巣は北上を開始し、長江を越えて北に卜つて一二月二二日に東都洛陽を攻略した。次いで首都長安を八八一年一月八日に陥落させている。皇帝の倍宗は四川に逃亡を余儀なくされた。一月一六日、黄巣は帝位につき、国号を斉とあらためた。
黄巣は身分の低い唐の官僚の多くを新政権にくわえたが、高級官僚を処刑し、長安から脱出しそこなった皇族全員を殺害することで、旧体制への憎悪を見せつけた。農民兵たちも宮廷や個人の財産を略奪した。ある若い詩人は自分が見た地獄絵図を「都の女の歌」という詩のなかでこう歌っている。















 鶴雲堂 おもしろページ    石崎康代