墨の知識 墨の歴史と種類




漢字用墨KANJI

漢字用墨KANJI

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書道半紙


o漢字向き
oかな向き
o漢字向き(ポリ入)メール便
oかな向き(ポリ入)メール便
"画仙紙(半切)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
o漢字向き(パック入)メール便
oかな向き(パック入)メール便
"画仙紙(全紙)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
"画仙紙(1.75尺×7.5尺)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
"画仙紙(2尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
"画仙紙(2.3尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(2.3尺×8尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(3尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(3尺×8尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(3.2尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(4尺×4尺)
o漢字向き(素紙)
"書初用紙

画仙紙
(パフォーマンス用特大紙)
"紅星牌
o四尺単宣
o四尺重単宣
o四尺夾宣
o四尺他
o六尺
o尺八屏単宣
o尺八屏夾宣
o尺八屏他
o特寸
"汪六吉
"中国画仙紙
"画仙紙(壁紙)

特殊加工紙(半切)
o染め(無地・金振)
o紋
o柄・ボカシ等
o楮紙(箱入)
o鳥の子(箱入)
o雁皮(箱入)
oその他(箱入)
o写経用紙
o楮紙(箱入を1枚売り)
o鳥の子(箱入を1枚売り)
o雁皮(箱入を1枚売り)
oその他(箱入を1枚売り)

特殊加工紙(全紙)
o染め(無地・金振)
o紋
o柄・ボカシ等
o楮紙
o鳥の子
o雁皮
o染め(無地・金振)(1枚売り)
o紋(1枚売り)
o柄・ボカシ等(1枚売り)
o楮紙(1枚売り)
o鳥の子(1枚売り)
o雁皮(1枚売り)

特殊加工紙(2尺×6尺)
o染め
o柄・ボカシ等
o楮紙
o鳥の子
o雁皮
o染め(1枚売り)
o柄・ボカシ等(1枚売り)
o楮紙(1枚売り)
o鳥の子(1枚売り)
o雁皮(1枚売り)

特殊加工紙(1.75尺×7.5尺)
o染め(無地・金振)
o紋
o柄・ボカシ等
o染め(無地・金振)(1枚売り)
o紋(1枚売り)
o柄・ボカシ等(1枚売り)

特殊加工紙(2.3尺×6尺)
o染め(無地・金振)
o紋・柄・ボカシ等
o染め(無地・金振)(1枚売り)
o紋・柄・ボカシ等(1枚売り)
"特殊加工紙(3尺×6尺)
o染め(無地・金振)
特殊加工紙(1尺×6尺)
o楮紙(箱入)
o鳥の子(箱入)
o雁皮(箱入)
oその他(箱入)

特殊加工紙(1尺×3尺)
o楮紙(箱入)
o鳥の子(箱入)
o雁皮(箱入)
oその他(箱入)

"かな料紙
o半紙判
o半懐紙
o半懐紙(清書用)
o全懐紙(練習用)
o全懐紙(清書用)

"古筆臨書用紙
o練習用
o清書用


"固形墨(呉竹)
o漢字用
oかな用
o青墨
o茶墨
o画墨
o朱墨
o写経

"固形墨(墨運堂)
o漢字用
oかな用
o青墨
o茶墨
o写経
o彩墨
o記念墨

"固形墨(その他)

"墨液(呉竹)
o漢字用
oかな用等
o朱液
o生墨
oメタリック書道液
o布書き用書道液
oパール書道液
"墨液(墨運堂)
o漢字用
oかな用等

"筆(博文堂)
o小筆
o写経
oかな細字
oかな条幅
o漢字細字
o漢字半紙
o漢字条幅
o羊毛
o鼬毛
o書初

"筆(一休園)
o小筆
o写経
oかな細字
oかな中字
oかな条幅
o漢字細字
o漢字中字
o漢字半紙
o漢字条幅
o記念筆

"筆(当店オリジナル)
o小筆
oかな
o漢字半紙
o漢字条幅
"筆(中国)
o定番現行生産筆
o古筆他
o無地(ノーブランド)


"筆(その他)
o小筆
oかな
o漢字細字
o漢字半紙
o漢字条幅
o特殊筆
o羊毛

"筆ぺん
o本体
oカートリッジ
o替穂首

"色紙
o大色紙(白無地)
o大色紙
o大色紙(多当紙)
o大色紙箋(練習帳)
o小色紙
o小色紙(多当紙)
o寸松庵色紙
o寸松庵色紙(多当紙)
o姫色紙

"短冊
o並巾
o広巾
o短冊箋
o多当紙

"はがき
o白紙
o柄入紙
"硯
o端渓石硯
o羅紋硯(中国)
o宋坑硯(中国)
o麻子坑硯(中国)
o若田硯(長崎県)
o赤間石硯
o松花江緑石(吉林省)
o澄泥硯(山西省)
oとう河緑石(甘粛省)
oとう河緑石(陝西省)
o紅絲石(山東省)
o紫金石(山東省)
o歙州石(安徽省)
o澄泥硯(江蘇省)
o玉山羅紋石(江西省)
o黎渓石(湖南省)
o興化石(福建省)
o建州石
o墨池
o一点もの

"書道用品
o折手本
o写経用紙
o水墨画用紙
o和紙
o扇面
o集印帳
o文鎮


o下敷
o筆巻
o水滴
o扇子・うちわ
oカルタ
o巻紙
o一筆箋
o便箋(料紙箋)
o封筒
o料紙箋セット

o収納用品
o表装
oゆび筆
oストラップ
oその他小物

"篆刻用品
o印材
o印泥
oその他


"額・軸類
o軸
o仮巻(半切)
o仮巻(八ツ切)
o額
o半紙・半懐紙額
o色紙額
o短冊額
o大色紙掛
o寸松庵掛
oはがき掛
o姫色紙掛
oうちわ掛
o半紙掛

"書籍
o本

o競書雑誌(バックナンバー)

"日本教育書道研究会用紙
o硬筆用紙

oペン字用紙
"訳あり処分品








日本の墨

日本の墨についての記録は、『日本書記』巻二十二に、「推古天皇の十八年春三月、高麗王、僧堂徴を貢上す。曇徴よく紙墨をつくる」というのが最も古いものとされています。今日では最古の墨として正倉院に中国と朝鮮の墨が保有されていますが、この文章からすると、この墨は、当然のことながら朝鮮を経てきたものだということがいえます。今日、正倉院に伝えられる墨は、中国と朝鮮のもので次のようなものです。

しかしながら古墳時代の壁画などには、墨、朱、縁、黄などがみえるところから、もっと早い時期から外国より伝わっていたという説もあります。
推古天皇の時代は、中国の熱心な仏教文化の影響を受け、日本でも写経なども盛んに行われるようになり、輸入だけでは需要に追いつかず、製造をするようになったと考えられます。
文武天皇の大宝元年(七〇一年)に制定された大宝令によれば、中務省の図書寮に造墨手四人を置いたとあり、延書式(九二七年)にも図書寮の項に「凡そ年料に造るところの墨四百挺(…中略)長上一人・遣手四人」とあり、神紙官に墨一挺、斎宮寮に三艇というように配分の記録があります。また、この項には墨店、筆店の名が見え、いわば官製のほか民間でも製造販売してあります。
正倉院の文書の中には、価格が表示されている記録もあります。
昭和三十六年、平城京の中心であ「た平城宮が国立文財研究所の手によって発掘調査が行われましたが、その出土品の中に、墨を用いたと思われる遺品があります。大別すると次のようになっています。
一、木片に墨書したもの (木簡)約二万点以上。
二、土器類に墨書したもの多数。
三、硯(獣脚硯、円面硯、風字硯、烏型、亀型硯、宝珠硯、桂蓋研(谷
器の蓋を硯に利用、主として下級役人用n‥約一五〇点。
門、水滴(型種々あり)
五、小刀(木片に墨書して誤字訂正のため木片を削って書き直したも
のと思われる、それに使用した小刀と、削層に墨の着いたもの多
数出土)
これらの出土品は、全国各地から平城宮に届けられたものです。
平安朝図書寮工房(延書式造墨法)………年料 四〇〇丁
播 磨 回……年料 三五〇丁 掃墨(松煙)二石
地方別科貢物 丹 波 国…… 〃 二五〇丁  〃    一石
九州大事府…… 〃 四五〇丁

この記録は、墨が年貢として扱われていたもので、墨造りが地方でも行われていたことを示しています。
出土品の木簡の内容も出土した場所によって異なり、その一例を大膳職(今日で云う炊事場の様なもの) の古井戸から発見せられたものについてみてみます。
全国各地から平城宮に届けられた貢物(地方特産物)の付札(送り状)
が、〓疋の書式(品名、数量、住所、戸籍筆頭書、氏名、年月日)で書かれています。これなどは出先の役人(国衛−県庁、郡家−郡役所) の肉筆と思われます。最近、出先の国衛(県庁)、郡家(郡役所)、九州太宰府(九州の一部を除き大部を管領する)、多賀城(東北地方全域を管領する)などの各遺跡の発掘調査の進むにつれて、現地でも、この時代に対応する木簡が出土し、両者いずれも千二百五十有余年前に、出先の役人でも、これだけの字が書けたのかと、今更ながら驚かされます。
今日まで、正倉院御物で保有されているのは、天皇を始めとして上層階級の肉筆だけで、奈良写経の字は写経師(職業人)の肉筆である事は、正倉院文書で察知する事が出来ます。これらの文字は経典として拝観するために、下位の人の肉筆と云う実感が伴わなかったが、平城宮が出土した木簡によって、当時の下級役人の事務上の肉筆を見れば、おそらく日本人である限り、無関心ではいられないと思います。
平城京の造営や、東大寺大仏鋳造、造営、官寺の移築、更に貴族や氏族の寺の創建などが相次いでおこり、そのため平城京に集まった人口が、二十万余人にも達したといわれています。その中で墨を使ったと思われる人は約一万人(平城宮内五千人、平城宮外五千人位)余と言われています。また寺の創建とともに経典の充実をはかるため、当時印刷が無かったので写書、写経を行なったから、写経事業と化し、その上、五千巻の一切経を二十数回、その他各種の経典、経疏(経典の解釈)も写しましたので写経所が数多く設置されました。
東大寺写経所などに用いられた和墨は、中墨(価格三〇文で、平城宮の下級役人は下墨(価格一〇文)を杯蓋研(フタシキスズリ)で磨って、木片に墨書し、日常の事務用に使っていた事が、歴然と察知する事が出来ます。前述の通り、誤字の訂正に、木片を小刀で削り、その別府に墨のついたものが沢山出土しております。
墨の原料となる掃墨(松煙)や膠は、漆や絵具と共に、絵師や仏像の仕上師などによって使われていたことは、正倉院文書で所々見受けられるし、また孝謙天皇の代に百万塔陀羅尼経の印刷にも使われたものであることから、すでに奈良時代には墨が造られていたと思われます。
平城京の時代(八世紀) に書が普及したのは、大宝の律令が西紀七〇〇年に完成され、西紀七〇二年に施行された事によって、初めて墨が造墨生四人により遺墨されたことから、墨の生産が急激に増えて来たためであると思います。それは当時、大宝律令の施行に当って、相当数の使いを出して造墨の事を説明し、またそれが実施の成否を確認していることから遺墨された事が察しられます。
中世紀に入ると紀伊国の藤代、近江国の武佐、丹波国の柏原、淡路島などで製墨が行われました。これは松煙墨であります。
鎌倉時代の藤原伊行の 『夜鶴庭訓抄』 に「墨は唐墨よし、唐墨もわるさはほくろきほおほくあり。唐墨のよさはおそくつひ、え、めでたさもの也。また、墨よけれども、きらめかぬ料紙あり、原紙、檀紙、唐紙などの墨のつかぬあり。されどそれもそれもよき墨にて書きたるが、墨つきはよく見ゆる也。」と書いています。これは、唐墨が遣唐使廃止後きわめて貴重になっていることを示しています。
この時代には、臨済宗の始祖の明庵栄西が東大寺造営のために寄進した自筆書状があり、唐墨八十五挺が記録されています。
油煙墨は、鎌倉時代には造られていたのではないかと推定されています。『薙州府志』巻七の土産墨の項に「近江の武佐、丹波の貝原ならびに洛下の太平墨の製造は、古よりこれあり。然れども、その色は淡墨にして租薄なり。中世南部の興福寺二諦坊は、持仏堂の灯火煙の屋字に薫滞せるものを探り、牛膠に和してこれを製す。これ南都の油煙墨の始めなり。今まれに存す。その後南部の土人これに伐って油煙を探りてこれを造る。洛陽(京都)にて墨所と称するもの、またその製造は精密にして、中華の造るところに悦ざるなり」とあり、奈良時代に油煙墨が興ったことを書いています。
江戸時代になると徳川幕府は、中国文化を尊び、唯一の門戸の長崎を通じて大名や豪商などが文房具に装飾としての興味を持ち、外国文化への憧憬から唐様書道を初め、文房四宝にも高い関心を示すようになりました。
当時の代表的吾人の市川米庵などは、墨にも高い関心を示し、『米庵墨談』を刊行しています。製品としては、今日でいう江戸古墨といわれるものですが、中国の唐墨には及びません。
江戸時代は、奈良が墨の中心的産地であったが、この他に紀州藩(藤白の墨)尾張藩(東秀園)の墨が知られていました。
明治時代に入ると日本でも奈良を中心に、様々な墨造りが出るようになります。
しかし、江戸、明治とも中国のものに比べると、品質的に劣り、大半は中国の伐墨だったといえるでしょう。二十世紀に入ると鉱物油煙(カーボンブラック)が原料として使われるようになりました。



三、 戦前の墨
戦前の墨は主として、学校習字教育用墨、事務用墨であります。それも戦争に入り、統制経済に入ってからは、墨の原材料が絶対数不足となり、なお統制価格による技術低下でこの期間には見るべきものはありません。当時はただ墨を間に合わすだけが精一杯で、良質の墨を造るということは考えるひまもありませんでした。むしろ、膠の代用品を探し求めていたありさまです。墨の原料は軽油、重油、菜種油から探る煤煙と、牛皮から取る膠ですので、戟争ともなりますと、一番先に軍需物資として押さえられてしまったわけです。ちょうど大正十年頃までは、松の木から探る松煙と菜種油から製造する油煙との二本建ての原料でしたが、大正十年以後は、アメリカからカーボンブラックが輸入され、墨業界で私の父が初めて手を付け、その前後に鉱物油の採煙法がおこり、原料の煤煙も四本建てになりました。そして昭和に入っては、原料の松煙は主として重油、軽油から製する工業煙が主となり、戦争に入って油類が軍
需物質になり、早々と統制になってしまいました。
私が父母、先輩、職人から教わりました良い墨としての条件は、@軟
らかく硯に当り早くおりる墨、A手に軽く成掌る墨、香の良い墨、C摺
ると油の出てくる墨、以上のようなことでした。もちろんこれは昭和八
・九年頃、製墨を受継いだ当時に教え聞かされた事柄で、明治以後かあ
るいは、明治以前の頃か判別し難いのですが、以上のようなことが墨造りの要点として業者の中に培われてきていたことはたしかだと思います。私が墨を受継いだ当時は、墨の良否の鑑別は墨を磨って書いて見るのではなく、磨り口の黒さ、光沢で判別していたのであります。
戦後の墨造りから考えますと戦前は粗雑ともいえますが、当時の社会事情が、墨の需要は主として学校習字、事務用、一般の手習い用でしたので、これで良かったのかも知れません。ですから当時は唐墨が珍重された事と思います。なお、一般に墨は枯らした方が良い、枯れる程良くなると言う事を常に聞きますし、それは私も古墨にした万が良いと思います。この古墨にした万が良いという事は、炭素並びに蛋白質の年月にょる変化により、墨色が重厚さを増すことは充分判っております。ところが今日残っております日本の古墨(五十年から百年前後のもので)を普通の濃度、また濃墨にして見ると、これは立派だと言う物はあまり見当りません。ただ薄墨にして使えば、枯淡の味が出て使えると言う程度でして、仮名方面で使って戴く程度かと思います。この原因はといえば、日本の伝統的墨造りは、厚い和紙の繊維の硬い紙に使用するように造られていますのと、当時の社会事情とで、実際、墨の流れが悪いので筆が続かない、筆が重い、墨の磨った液がドロッキ気味だと言う使用上の欠点から、墨は二、三年枯らした万が良いという言葉が自然経験の上で出来上ってきたのでないかと考えます。この枯らすのも二、三年から十年、二十年と古墨に近づけていくにしたがい、俗に言う「墨が腐った」と言ぅ墨の内部分解が起こります。粗雑に造った墨はどこの内部分解が早いのです。日本の墨は以上記載してまいりました原因のために、古墨として見るべき物が少ないのだと考えております。
これなどはみな製造の要点が良い墨の条件四点に絞られてきた結果だと考えます。私も昭和八年頃から終戦まで、右の条件を解明する事ができずに伝統の墨造りをしてきましたが、昭和十六年から右の条件を解明しょぅと考え、従来の墨造りに抵抗を試みて今日に至ったのです。




四、 戦後の墨
戟後、習字が米軍の指令により廃止になり、戦前の学校教育による実用的な文字を書くということから脱却し、芸術性を重点とし進歩発展してきたように、墨もまた芸術性にそうように、我々の祖父、父の時代の黒く紙上に書ければ良いという単純なことから墨の持つ内面的性格、個性ともいいましょうか、墨色の強さ、弱き、美しさ、汚なさ、清濁、色彩(茶系・青系・赤紫系)光沢の反射、吸収、墨の磨った液の暢び(濃淡、潤濁を出すため)不暢び、墨色の厚さ、薄さ等の特色の上に墨色の品位を要求されるようになりました。戦後の日本社会の変化、文化の発達につれて書風が変化してゆくのと同じく、墨も変化してゆくのが自然であります。
私は常に墨は、日本人の心の中にあって、それが書画に表現され、その芸術性の中に生き、その芸術性の引き立て役を買って出るべきものでなければならぬと考えております。戦前は、ただ墨の黒さを基準にして、その黒さの程度によって墨の品質規格を定めていました。私も墨は黒い
のが畢口同だと思いますが、その黒さにも色々あります。墨はその表面に持っている色彩、つまり青系か、茶系か、赤紫系とか内面の性格、個性が相伴って表現出来得る物が立派な墨だと考えるようになりました。したがって、黒さにおいて少し欠けていようとも墨色の力が、濃い時は力強く剛壮な黒を表現し、暢びが良くて薄めてゆくほど、茶系あるいは赤紫系、あるいは青系に濃淡、潤渇、筆圧により墨色の変化、昔からいわれる、「墨に五彩あり」の言葉、五彩の出るような墨は立派な墨だと考えます。たとえ、その墨が価格の上で最高の物でなくとも、その墨はその墨でしか持っていない個性と表現色を持っているということになり、その墨は最高の墨だと考えて良いと思うのです。
墨の規格は、ただ単に墨の黒さだけで評価されるのでなく、その墨の独自の性格、個性と表現色で特徴を持たした墨が、戦後の墨であると考えております。勿論このような墨を造り上げるには、原料も戟前のようにただ平凡に規格通りに遣らせるのではなく、原材料の持つ特色を充分発揮するよう造らねばなりません。なお墨を造る者も、戦前のように各自の請負制度の勝手気僅な遣り方でなく、墨色を考え、立案する者、現場の指揮する者、配合する者、製造の準備をする者、型に入れる者、乾燥する者、磨く者、彩色する者などみんな一段と組織的になり、指揮者の指導の下に各自の鍛えあげた技術を通して個性が墨に現れなければなりません。



五 奈 良 墨

○松煙墨
奈良の墨のはじめをたどれば、松煙墨にゆきあたります。奈良朝時代の後期、平城宮図書寮工房の出先き作業所のある和束で掃墨(粗製松煙)がはじめて製造されました。これを精製して写経用の松煙墨としたものが和束墨で、奈良朝時代を通じて、産地名が明示された墨のはじまりであり、我が国松煙墨のはじめかと思われます。以後、この墨を増産する
ために西播地方(針間国) でも造墨に着手するようになり、西紀七六七(神護景雲こ年に行われた称徳天皇勅願の一切経の写経には、和束墨と針間墨が用いられています(正倉院文書)。昭和五十一年に平城京の域内と域外から、二度にわたって出土した松煙墨は、この頃のものであります。また、東大寺の大仏造立にあたって、造寺、造仏、材木の集荷等のために品質の悪い墨 (凡墨・下墨、原料掃墨)が使用されたらしく、この墨を製造する造墨長上(頬集三代格) が任命されています。このことから、奈良朝時代の中期頃から遺墨が始まっていたことが推測されます。
西紀八二二 (弘仁一三)年、嵯峨天皇の代に、大政官符で全国それぞれに墨工を一人置き、紙と筆については各国の事情に応じて定員を定めて、それらの工人を置くよう布告され、瀬戸内沿岸の六か国と、丹波、近江の二か国、計八か国がこれを実施しています。
その後、都が長岡に遷り、さらに平安京遷都が行われ、南都仏教の粛正が行われると、造東大寺司も廃止となり、和束の遺墨も中止されることとなりました。桓武天皇の延暦二三年頃の松煙墨の産地は播磨国と太宰府(築紫)で、当時唐に渡った憎最澄は九州の産物を手土産に持参したがその中に築紫墨、筆、紙があり、台州の大守(群長)に贈って便宜を計ってもらっています。この頃の唐は九代徳宗の昭代で、墨は松煙墨が使われていました。最澄と共に唐に渡った空海は、長安の都、青竜寺で恵呆の指導を受け、真言の奥儀をきわめて帰国していますが、無い留学期間の空海が、墨の製法まで研究して帰ったとは考、えられないし、まして中国で油煙墨の製法が始まったのは空海の没後二百年余のことでもありますので、空海が興福寺二諦坊で油煙墨の製法を指導したという伝説は誤りであります。
西紀九二七(延長五)年に完成、西紀九六七(康保四)年に施行された延喜式によると、遺墨については、奈良朝時代末の和束墨の松煙墨の製法と大きさや形の規格が定められています。大きさは平城京出土のものの約一・五倍で、写経紙四百枚を書き写すことができ、形は凹味の船型(奈良朝時代と同型)となっています。この後、松煙墨の製法は改良されることもなく、室町時代の末頃、織豊時代に至るまでの約八百年余りの間、各地で製造されてきました。それは奈良の松煙墨製法の延長に過ぎず、墨質の進歩はなかったが、墨の規格については、時代の流れと共に小型となり、また形も産地によって変わってきました。
こうした中にも地方政治の変遷、老松の枯渇、墨工の四散等、原因は種々考えられますが、松煙墨は奈良の油煙墨に庄倒されて、消滅するに至ったと思われます。


○油煙墨
平安時代の末頃になると、松煙墨を製造して都に供給していたのは丹波回だけで、地方まで供給することは望み得ませんでした。そこで、古くから手近に製造されていた荏胡麻の油を使って墨を造ることが行われるようになりました。ことに南和地万では大般若経六〇〇巻、法隆寺一切経写経が行われたため、各寺の僧侶の下に田堵名主層が集まり、写経用の墨が造り出されています。また、これと前後して興福寺春日版の開板(木版印刷)が行われ、油煙墨が使用されました。その後、治承の乱で南都社寺は灰塩に帰したが、五年後には復元され、興福寺別当信円時代に春日版再興経典の充実が計られました。鎌倉時代の初めは油煙墨製法の進歩もあったが、文永、弘安の役や南北朝の内乱では興福寺の上層部も二派に分かれ、これに従って庶民もまた南和と北和に分裂するといぅ事態に立ち至りました。しかし、南北朝が統一され、政局も安定するに従って、興福寺二諦坊の支援によって「日本奈良墨始」と刻印した油煙墨が造られるようになりました。この刻印の墨は決して油煙墨の最初のものではなく、すでに南和(巻旬地方) で造られていたものが奈良に移り、室町時代の初め頃から奈良で製造されるようになったと考えられます。
応仁、文明の乱によって、長く栄えた都は廃虚と化し、幕府、公家の権勢は裏、え、各地の守護大名が地方に割拠し、戦国時代の幕開けとなりました。都の公卿、五山叢林の禅僧たちは地方に流浪し、中央の文化が地方に流れ出る契機となりました。関白一条兼良も奈良興福寺大乗院尋尊を頼って一族と共に禅定院に身を寄せました。一乗院には公家の人々も身を寄せていたし、連歌師宗紙や、その他の文化人も兼良等を訪ねてくるようになりました。茶人の村田珠光や林浄二 (鰻頭屋)も奈良で文化活動を行い、大和武士達も部下を連れて奈良に駐在するようになりました。奈良の町は人口も増え、京都と奈良が我が国の政治・経済・文化の中心となり、庶民もこれに呼応したから、奈良の町は大いに栄えました。次に列記する日記類によって、この時代を中心に奈良の油煙墨の概要を知ることができます。
大乗院尋尊寺社雑事記、蕉軒日録、実隆公記、多門院日記、鹿苑日記等、特に多門院日記(多門院英峻)によると、油煙墨の製法がすでに今日の製法の城に達していることも知ることができます。また、油煙師(墨工)が今辻子郷に一人だけでなく数人住んでいたこと、それらの墨工が大阪へ移住(石山本願寺寺内町に墨屋ができる)、また薬屋宗芳が墨の取次店やっていたり、荏摘麻の油売商人(箸尾の油商人)が多門院に出入りするなどの活躍ぶりが興味をひきます。
天文一挨(天文一年)は一向宗徒の奈良、今井への進出を意味するものだが、奈良の一向衆徒の蜂起中、市郷の商人達が興福寺六万衆の左制に反発して、この一揆に参加しました。一揆は興福寺と春日杜の一部を焼き、越智氏、筒井氏(大和武士、地侍)の加勢によって鎮圧されたが、中市は廃止となり、天文二年頃からは高天で高天市が学侶達によって開かれるようになりました。筈尾の油商人が奈良に進出するようになるのは、この頃からであります。これは、興福寺勢力が後退して油座の統制も乱れ、矢木仲買唾、摂津木村油座等も次々と解体、符坂油座の独占権も弱まって、箸尾の油商人の奈良への進出を排除することが出来なくなったことを物語っています。
一万、今辻子の墨工達は、興福寺以外の需要にも応じ、木津加茂付近まで、すなわち加茂の海住山寺、岩船寺等に油煙墨を売り歩くようになりました。こうして江戸時代の初期には、今辻子から出て奈良の町に店を構えた墨工達によって、南都油煙墨が宣伝され、荏胡麻油にかわって菜種油も入手しやすくなったので墨屋の数はさらに増え、三八軒から四〇軒の墨屋が出来ました。こうなると南部油煙墨として特産物ともなって、八代将軍吉宗の時代から、紀州でも藤代墨が造られ、丹波では「にぎり墨」を造り、四国丸亀にも墨屋が一軒出来るなど、奈良の油煙墨の市場は狭められることになります。この苦境を脱却するため、松煙製法の改良や、和歌山から紀州灰、また他の国からも土佐灰、讃岐灰、日向灰、三州(三河)灰、越後灰等々、各地の松煙を買入れるなどの工夫と努力で、油煙墨と松煙墨の二本立ての奈良の墨が、全国に特産物として知られるようになったのであります。さらに明治・大正時代になると、墨工は酒屋の杜氏と同じで、伊勢、但馬等の各地から農閑期を利用して出稼人として奈良にくるようになりました。
第二次世界大戦を境いに、世の中の姿が変わり、奈良の墨屋も、その消長は激しく、墨工も減るなど、墨の世界も下り坂になりつつあるのが現状であります。ところが、墨とは単なる事務用品ではない。たとえば米国ニューヨーク市のバッファロー大学のムロゾスキー博士(世界的に有名な炭素学者)が、古墨の青墨を見て「垂口同の墨色」と指摘されたことや、万国博のとき、デンマークのクリステン博士が平城京から出土した木簡を見て墨に興味を持ち、「ヨーロッパで見られない文化遺産である」と賞讃されたこと、最近では長谷川潔氏が十八世紀銅版画の印刷に墨を用いて、フランスの畢口同の芸術賞を獲得されているなど、引例すれば限りないほどの讃辞が寄せられています。
奈良の墨は衰退していく地場産業の産物の一つではなく、東洋文化の粋として、書画には不可欠のものとして、世界の関心を集めています。根強い沿革に支えられ、古都奈良を守る風物として是非とも存続させなければならないものであります。このことについて、業者は勿論、為政者も目を向け、助長育成に一層の力を傾けていただきたいと切に望むものであります。

墨(2) 墨の歴史と種類 墨の歴史



中國の墨の歴史

●殷周時代
墨は、研磨されることによって、生命を発揮するものである。したがって、初期のものを確認することはきわめてむずかしく、墨で書かれたものによって、その実在を探るということになる。
「墨」という文字は、漠時代の許懐という人の 『説文解字』という書物によれば「墨は書する墨なり」と書かれ黒の字は「火の燻ずるところの色なり」と続けられています。「黒」 の字の四点は火を示している。
今日において文字として最古のものとされるものに甲骨文字というのがある。これは、その名の示す通り獣骨や亀の甲に穴をあけ、深い切りこみを入れ、穴の部分に熱を加え表面に亀裂が入ると、それによって吉凶を判断するというならわしがある。その占った内容、結果をそばに割りつけたのですが、この甲骨片の中に朱や墨で書かれたものが見える。これは恐らく割るまえに、下書きをしたものでないかと推定されている。
また殷墟といって、当時の帝王の墓より墨で書かれたと思われる陶器に、墨書きのものとみえるものが発見されているが、それらがどのようなものであったかは、今日では、明らかではない。
発掘による考古学が盛んになり、一九五一年以後中国のあちらこちらで、様々なものが発見されたが、この中に戦国時代のものと推定される竹簡・帛書などがあるが、記録の主体は、竹簡であったであろう。したがって、竹簡用の墨が発掘されることであろう。しかし、出土の書画は、いずれも墨や彩色で見事なもので「墨」が確認されている。しかしながら、その墨がどのようなものであったかということは、幻の状態である。


●漢時代
墨がどういう原料で作られ、どのような型のものであったか。これは一番興味のあるところであるが、中国で1975年に発行された『文物』に江陵鳳凰山168漢墓より出土したものとしての円石硯・磨石・墨片が掲載されていますが、貴重なものであり、これが発見された時には、そばから墨書さされていない木棚があったと報告されている。
漢時代は、木簡・竹筒などにすでに墨書さされたものが多数発見されていて、墨があったことは間違いない。
この当時の墨がどのような形のものであったかは、発掘の硯を照査すればわかることである。
大正五年(1916)、朝鮮の楽浪郡址の古墳発掘が行われた時に熊脚三個の円形の石硯(直径一三・二センチ)や墨を磨るのに用いられたと思われるものが発見され、昭和六年には、同じところから硯箱をともなう硯が発見されている。これによって、第一には、小硯というのが特徴で、きわめて少さなものであったということである。
この『文物』掲載の墨を見てもその様子はうなずける。
この当時の硯は、墨池のない平面なものであったが、大きさは小硯という点で共通している。硯があって、墨が小さかったということで磨る時に、補助用具を用いたことが推定される。
漢時代の『東宮故事』には、「皇太子が初拝する時には、香墨四九を給する」と書かれ、宋時代の『宋稗類紗』には、「魏晉の時に至りて始めて墨丸あり。すなわち漆烟松煤を爽和してこれを造る。晋人の凹心硯を用いるわけなり。墨を磨し藩墨汁を貯うるのみ。これより螺子墨あり。また墨丸の遺製なり」とみえる。
この記録で"丸"というのは、小さくまるめた球状をあらわし、湖南省長河から筆とともに発見された小竹筒は、墨を入れたものとの報告されている。竹簡が主体であった時代には、筆も墨も大きなものは必要でなく、竹簡に携帯して持ち歩いたと蒼う蔵される。
漢時代には、筆も発見されている、小硯・小墨・小筆の時代であったとされている。
では、その原料は、どのようなものであったか。宋時代の晁貫之の著した『墨経』に、「古は松烟・石墨の二種を用う。石墨は魏晉より以後聞くことなし。松烟の製はひさし。漢は扶風・?糜・終南山の松を貴ぶ。蔡質漢官儀に曰く、尚書令の僕、丞、朗月に?糜の大墨一枚、小墨一枚を賜う」とある。ここには原料が松煙であったとされている。江陵鳳凰漢墓出土の墨も松煙だったと報告されているので合致する。
漢時代になると紙が普及するようになり、必然的に文字も大きく書かれるようになり、墨丸では間にあわなくなり、硯を用いて磨すようになったと考えられる。それによって墨の型も球状から把手に向いた長方状になっていった。しかし、その形で出土されていないので、推量の範囲のものである。


●三国・南北朝時代
三国時代の魏には韋誕(179−253)があって、文も書も上手だったといわれているが、この人に「もし張芝の筆、左伯の紙と臣の墨を用い、この三具を兼ね、また臣の手を得て、しかる後に径丈の勢いも方寸の千言も得るべし」と書き残した上奉文がある。自分の書が優れているということと同時に、自分で作った墨の良さを付け加えているのである。
韋誕は、製墨家としても当時名があったので『墨経』という書物の中に、製墨のことについて述べているのである。この製墨法については、北魏時代の賈思懿の著した 『斉民要術』にもみえる。
三国時代には優れた書があり、ことに敦煌石窟から発見された写経に見られる墨色からは、首都となっていた洛陽を中心に大量の製墨工場があったとみられるのである。


●唐・五代時代
唐時代に日本に伝わった墨は、中国と朝鮮製でどちらも似た形で正倉院に保有されている。正倉院には、この時代のものが十五挺ばかり保有されていて、このうち十二挺は船形で、三挺は円筒形である。
これらは聖武天皇御用品で、この時代は松煙で主に易州・歙州で、中でも易州は唐時代の製墨の中心地で、ここの墨を「上谷墨」といっている。このことは、「墨経」にも記録されている。
この墨は、三〇センチあまりもある墨で、このまま使ったのでなく切って用いたのだろうと推定さる。墨を数えるのに丸といい、漢時代の形も球状でないかと思われる墨丸の名残りとも考えられる。
中国の詩人の李白(701−762)の詩句に大獵賦(卷一(一)六一)に「蘭麝凝珍墨,精光乃堪?。」とか、《酬張司馬贈墨》前半首云:. 「上黨碧松煙,夷陵丹砂末;. 蘭麝凝珍墨,精光乃堪?。」とあるが、前者は、名墨には麝香を入れて固め、上党は産地で山西省の東南部にあり、今日の長治市である。

六朝期、王羲之により書家の評価、地位も飛躍的に上がり、多くの名士が出現する。そして、それは、唐時代になると墨匠という墨造りの名士を産むのである。
代表的な人としては、祖敏・奚?・奚超・奚起・張遇・陳贇・李陽冰・李慥・王君得・奚廷珪などがいる。李陽冰は唐時代の代表的な書家で蒙書の名手として知られている。『城陛廟記』などの名作があり、優れた書家は、墨造りに並々ならぬ関心と意欲を持っていたことを示すものなのである。墨匠のほとんどが易水に居住している。しかしながら、唐時代の製墨の中心地であった易水地域は乱世となり、墨匠たちは南唐の欽州に移り住むようになった。ここは、もともと墨の名産地として知られているところだったのである。奚超という人がもっとも進化させた人といわれ、さらに奚廷珪が進化発展させたのである。
歙州という地は、?山の松、羅山の松、黄山のしっかりした松などあり、硯の産地である歙州県は、宋の宣和三年(1121)徽州と改称し、以後"徽墨"の名をもって呼ばれるようになるのである。
南唐の李後主は奚廷珪に李の姓を与え墨務官に任命したのであるが、これが安徽省の墨業を盛んにし、今日にまででんしょうされているのである。李氏のほかに耿・盛氏などの墨匠を排出した。



●宋時代
北末時代に入ると、蔡嚢・蘇軾・黄庭堅・米?・秦少游などの人々が文墨趣味を盛んにし、名墨を競って愛好するようになる。そして、蘇軾に代表される墨づくりについて、使う立場から色々と注文を出し指導するようになる。この頃から使う人の好みというものをとり入れ、更によくなってゆくのである。そして、墨の需要が増大し、生産地も拡大してゆく。
墨は、安徽省ばかりでなく北宋の主都である河南省の?京(今の開封市)にも十数家を数える名墨家がでる。その代表が播谷である。
蘇軾(蘇東坡)は、彼を墨造りの名人だとほめたたえている。北宋時代は、この他に多くの墨匠が出ているが、河南・河北・山西・山東などの華北に散在するようになった。この地方は、金王朝の領土になり、首都が臨安(浙江州杭州)に移ったので生産地も華中地帯で主なる産地は、徽州である。
南宋時代の墨匠の戴彦衡は、陶磁の官窯を臨安に設けたように官墨を造ろうという試みを宮廷の命で進めたが、原料の松の産地が黄山でなければ良煤は造れないといって断ったという。そして、彼は北宋の米帯と交流があり、その下絵を墨に用いたともいわれています。
それまで墨は松煙が中心であったのですが、南宋時代には、油煙墨が普及するようになり、その第一人者が胡景純で、「桐華墨」を造ったといわれている。
金時代には、当時画人として名をなした楊邦基が、劉法という墨匠のために墨史図を描いたと伝えられ、それは、今日でいう製造行程表で、@入山、A起竃、B探松、C発火、D取煤、E烹膠、F和剤、G造丸、H入灰治刷、R磨墨の十図であったといい、墨に対する製造方法がこの時代までに確立されていて、この期に集大成されたものである。



●明時代
明時代は、文化において豪華絢欄を示し、書の上でも文徴明・祝允明・薫其昌などが輩出し、蘇州・杭州を中心に浙江文化が栄えます。明末には、さらに倪元瑞・黄道周・張瑞図・王鐸・傅山などが華を咲かせる。ことに万暦時代は、明末期にもかかわらず、文化の勢はすさまじく、最高頂で、文房四寶の需要が飛躍手に延び、これを受けて墨も名品を生み出すようになったのである。
この時代の大きな特徴は、宋時代までは松煙墨が中心であったが、油煙墨となり、中でも程君房・方干魯が代表格で、このほか葉氏・呉氏・孫氏などがあり、歙州を中心にして一大製墨地帯が生まれるようになる。

需要が増大すれば、墨造りも企業的となり、個人の名が後退し、家名・店舗名が主力となる。
程君房と方干魯は、その代表格で、墨譜といって墨の原型を図写したものが刊行され、程氏は『程氏墨苑』十二巻、万氏は『方氏墨譜』六巻である。『程氏墨苑』には、墨型の版画500図を精刻し、『方氏墨譜』は358図あります。方干魯はもとは、程君房の支配人であって独立した人である。また新安には、方端生があり、『墨海』十巻を刊行している。
明時代末期(1573一1644) になると、製墨は社会経済の発展にともない一段と大規模となる。名匠・名墨工が組織化され、企画家の管理のもとに生産をあげ需要にこたえようとする動きとなったのである。
製墨業は、安徽省黄山市歙州県・江西省上饒市?源県・安徽省休寧県(浙江省隣接)に発展した。
明末の「墨志」には、歙州の墨匠として120名をあげている。この時代の墨は、製法はもとより用途から、さらに鑑賞墨にも幅広い展開をみせるようになり、古墨といえば明墨というように、代表的な意匠を確立するようになったのである。



●清時代
この時代は、清時代の流れを受け康脛年代としては、朱一滴、庄美中・呉叔大・呉鴻漸・程鳳池・葉柏里などが、『雪堂墨品』に記録されています。明墨を代表する曹氏は康肥…末から薙正にかけて名を出すようになります。曹素功は、明末の名墨士の呉叔大の遺業を継承して∃紫玉光」などの代表墨を作ったことで知られている。
乾隆時代になると、乾隆帝の文化政策から製墨業は一段と盛んとなり、中でも乾隆御墨は、明墨とは別趣の味わいを持って人気の的となり、その中心をなしたのが注近聖である。
乾隆帝は、文墨趣味が高く製墨業を手温かく保護した。
この時代の代表的墨匠としては、曹素功・注近聖・庄節庵・胡開文・唐氏などがあげられる。
















二、墨の種類
(1) 墨の原料
墨に使われる主な原料は煤烟(油煙・松煙・工業煙)膠・香料を配合して墨に形造られる。

●油烟墨
・油煙は菜種油・胡麻油・大豆油・綿実油などの植物性の油を用い燈油皿に入れて燈芯に点火する。
↓この燈火を皿で掩い、皿についた「すす」を採取する。
↓品質の良否は燈芯の太い細いによる。
・太いものは阻煙で、細いものは炭素粒が微細で良質である。

●松烟墨
・生き松(生きている松) 
・落松(伐採叉は倒されたまま放置されて樹脂(やに)だけ残っている松) 
・根松(伐採後10?15年を経過して埋っている松の根)
これらを材料として採煙する。小割りした松を、寵の中に仕切られた障子紙張の枠の中で、燃焼させて障子紙についた煤を探るものである。
松材約375kgで松煙が約12kg程度の採煙量が基本数値である。

●工業煙墨
・軽油・重油・クレオソート油などの液体油・粗製ナフタリン、アンソラミン、ピッチ、コールタール等の固型物を燃焼させて採煙する。カーボンブラックは石油産地近くに湧き出ている地中の天然ガスを原料として採燈する。
これらをもとにして、香料を加え膠で固める。墨は、固形墨が伝統的なものであるが、今日では、これに練り墨・液体墨がある。
戦前は、墨と墨汁の二種類で、色も黒だけで、それが濃いか薄いかということであったが、今日では、墨に対する概念が広がり、一つの文化としてとらえられるようになり、同じ墨でも赤紫・赤茶・紫紺・青・黒というものを、松、油煙の特性を引き出すことで多彩に出来るようになった。
一般的な製品を例にとると、次のようになる。そしてこれらの墨の他に、朱墨・彩墨・釣鐘墨がある。
釣鐘墨は、書写用としてではなく、拓本を取る時(乾拓法で用いる)などに使用する墨であります。墨質は、ちょうど消し炭のように軟らかく、日本では「石花墨」とも呼んでいる。

■墨の種類、特徴と用途による分類表
固型墨 漢字用 超濃墨向
濃墨向
中程度の濃度向
淡墨向
超淡墨向
仮名用 濃墨向 料紙
素紙
淡墨向 加工紙
素紙
画墨用 黒系
青系
液体墨 練 墨 濃墨向
中程度の濃度向
淡墨向
墨液 作品向
濃墨向
学童習字用
墨汁



(2) 油煙墨と松煙墨の違い

油煙墨と松煙墨はともに原料の「すす」は植物性の炭素であるが、その「すす」の生い立ちは、油煙の方は油を、松煙の方は松の木片を燃焼して採取するので、墨の質も自ら異なる。
従来、和墨では、油煙墨が最高で松煙墨はその次であると言う事が、いつ頃からか定説となっていた。これは恐らく昔油煙の方が高く、松煙の方が安かったので、高い油煙で造った墨の万が良いとされたものなのである。
実際、書作上から見て墨色を考えると、寧ろ松煙墨の方が重厚さがあり、年代の古くなるにつれて墨色も変化し、濃淡潤渇による墨色の変化もあって、かえって油煙墨より優れているのである。今ではこれが一般的な評価となっている。
油煙墨と松煙墨の夫々の特色を比較して見ると、次の通りである。


墨材 油煙墨 松煙墨
製造上の特徴 油煙は油を燃焼して「すす」を採取するた
め、不純物が少なく、炭素の粒子が松煙
に比べて非常に小さいので、墨色に純度
がある。
松煙は松の木片を燃焼して「すす」を採取するため不純物がまじり、炭素粒子は油煙よりは大きく、墨色に不純度がある。
書作状況 純度が良いため、松煙墨より、墨色の厚
味が少ない。
多少の不純物があるので、墨色に厚味が出る。
初期状況 赤茶味のある紺色の墨色で、見たところ
松煙より厚味が薄く感じ、墨色が強く感じ
る。
赤味の勝った紺色で、厚く目に感じるとともにやわらかい感じがする。
発墨性 墨色の反射が良い。 墨色の反射が少なく光を吸収する形となり黒さがよく目立つ。
経年変化 純度が高いので、年代による墨色の変化
の幅が少ない。
多少の不純物が混入するため、年代により墨色の変化の巾が大きい。
黒色の変化 枯れて古くなると、多少の厚味は出るが、
黒の色は不変でこれが特長である。
枯れて古くなると青墨化する。これが自然の青墨にみえる。































 
漢詩・書道の基礎知識














漢文委員会