(4)100人-明から現代中国

古代から現代までの中国歴史上気にかかる100人について

        明から中華人民共和国まで 1368年〜現代19人













ID 人   物
1
婦好
2
周公
3
よそ者の妻
4
孔子
5
墨子
6
商鞅
7
孫擯
8
荘子
9
趙の武霊王
10
呂不
11
秦の始皇帝
12
項羽
13
漢の武帝
14
張騫
15
司馬遷
16
王莽
17
班氏
18
王充
19
張陵
20
張角
21
曹操
22
蔡エン



23
諸葛亮
24
石崇
25
王衍
26
石勒
27
王義之
28
鳩摩羅什
29
陶淵明
30
拓践珪(道武帝)
31
崔浩
32
武帝
33
煬帝
34
太宗
35
玄奘
36
則武天
37
高仙芝
38
玄宗
39
安禄山
40
李白
41
杜甫
42
楊責妃
43
韓愈
44
白居易
45
魚玄機
46
薛濤
47
李商隠
48
李徳裕
49
黄巣





ID
人   物
49 耶律阿保機
50 李存勗
51 趙匡胤
52 柳宗元
53 王安石
54 沈括
55 蘇軾(蘇東坡)
56 方臘
57 徽宗
58 李清照
59 岳飛
60 張擇端
61 朱薫(朱子)
62 馬遠
63 丘処機(丘長春)
64 元好問
65 クビライ・カアン
66 関漢卿
67 パスパ
68 トクト



● 明から中華人民共和国まで
     1368年〜現代

ID
人   物
69 洪武帝
70 鄭和
71 王陽明
72 海瑞
73 李時珍
74 張居正
75 ヌルハチ
76 徐霞客
77 魏忠賢
78 馮夢龍
79 張献忠
80 呉三桂
81 顧炎武
82 朱トウ
83 蒲松齢
84 康照帝
85 曾静
86 曹雪芹
87 乾隆帝
88 へシェン
89 林則徐
90 汪端
91 僧格林泌
92 洪秀全
93 西太后
94 秋瑾
95 孫文
96 魯迅
97 蒋介石
98 胡適
99 毛沢東
100 ケ小平










1580年明国の領域。羈縻地域烏斯蔵(チベット)・奴児干(満州)はない。






70鄭和――東アフリカまで航海した提督

66.  鄭和(1371−1433)
束アフリカまで航海した提督

鄭和 (本姓は 「馬」) は中国南西部の雲南省でイスラム教徒の家庭に生まれた。怪官となって明の皇帝に仕え、東南アジアを通ってアフリカまで大船団を率いて航海した提督である。イスラム教の始祖、預言者ムハンマドの子孫であるといわれ、父と祖父はどちらもイスラム教の聖地メッカへ巡礼に訪れている。一方、明の正史に記録された鄭和の伝記では、彼の名は 「三宝」となっている。これは仏教の 「三宝」、すなわち仏・法・僧 (僧団)をさすサンスクリット語の中国語訳であり、鄭和は敬慶な仏教徒として、彼が率いる航海には 「三宝」 の加護があると言って乗員を鼓舞した。
雲南省は中国本土で最後に残ったモンゴル族の拠点で、明の遠征軍による激しい攻撃を受けた後、ついに1382年に征服された。鄭和の父もふくめて、多数の元の忠臣がモンゴルのために戦って死んだ。一一歳の少年だった鄭和は捕虜となり、去勢された。中国ではそれが反逆者の一族の未成年の子弟に対する標準的な処分だったのだ。

この少年がそれからどのように成長したのかはよくわかっていない。次に歴史に登場したとき、彼は明の三代皇帝永楽帝の信頼厚い任官になっていた。永楽帝は明を創始した初代皇帝の四番目の息子だが、若くして二代皇帝となった甥〔洪武帝の孫〕から帝位を奪って即位した経緯をもつ。鄭和は1399年にはじまった帝位簑奪のクーデターとその後の内乱で重要な役割を果たしたといわれている。この混乱は永楽帝が1402年に明の首都南京を陥落させて終結した。
鄭和は1405年から1433年にかけて、大艦隊を率いて南海遠征に出たことで知られている。永楽帝がこの大航海を命じた理由ははっきりしない。帝位を奪われた甥が生きのびて東南アジアにのがれたらしいという噂があって、不安に駆られて大艦隊を派遣して探させたという説がある。あるいは中央アジアやインドの支配者となったイスラム教徒のティムールに、明の威光を示すためだったのかもしれない。
皇帝の意図はどうあれ、鄭和は中国史上初といえる大海洋事業の責任者となった。数百隻の船に三万人近い乗組員が乗船する大艦隊で、鄭和はその建造と修理を監督し、合計七回の遠征を指揮した。

最初の三回の遠征では、東南アジア、インド、現在のスリランカを訪れた。四回目の遠征で大艦隊はベルシア湾に到達した。その後の遠征ではアラビア半島に上陸しただけでなく、アフリカ東海岸まで達した。しかし、鄭和の船がアメリカ大陸に到着したというのはただの夢物語である。
航海のたびに鄭和は絹や磁器など中国の物産を各地に贈った。そしてスパイスや宝石などのめずらしい品々を返礼として受けとった。鄭和がもち帰ったもののなかでもっとも興味深いのは、おそらくアフリカのキリンだろう。このキリンは明の都で大評判になった。

鄭和の遠征は大体において平和的で外交的なものだった。しかし遠征に随行した大軍は、何度か戦闘や小規模な衝突を起こした。1411年にはスリランカの国王を捕らえて退位させ、中国へ連行した。また、明の皇帝に入貢させるため、大小さまざまな国の使節を中国につれ帰った。
鄭和がイスラム教徒の家系の出身であることが、相手国との交渉に役立った可能性はある。鄭和は仏陀、アラー、そしてヒンズー教の神ヴィシユヌをたたえる碑をスリランカに建立した。彼は熱心な仏教徒だったようだが、天妃という女神も信仰していた。天妃は中国の船員の守護神で、大勢の信者を集めていた。鄭和はアラビア半島まで達し、メッカにもおもむいたといわれるが、聖地への正式な巡礼は一度も実施していない。

鄭和の遠征はきわめて壮大な事業だったが、長期的な視野と明確な目的に欠けていた。明政府は海外植民地や貿易による利益を欲したわけではなく、明の国威を発揚したかっただけのように思える。1424年に永楽帝が崩御すると、莫大な費用がかかる遠征は行なわれなくなった。宣徳帝の治世1426−1435) になって、鄭和は七回目の、そして最後となる遠征に出発する。1433年の春、鄭和はインド洋のカルカッタ付近の船上で亡くなり、海に葬られた。鄭和の遠征記録の多くは失われて残っていない。一説には、費用がかかるわりに国民にはなんの利益ももたらさないむだな大航海がこれ以上行なわれないように、ある役人が記録を処分してしまったのだという。














71王陽明―陽明学の創始者

王陽明(1472一1529)陽明学の創始者

王陽明は一四七二年に、漸江省のきわめて知的な家庭に生まれた。彼が生まれた九年後、父の王華が科挙に首席で合格している。王華は子どもの頃、金貨が入った袋が落ちているのを見つけて、それを酔っぱらった落とし主に返したというエピソードをもつ、清廉潔白な人物であった。王陽明は父とともに北京で暮らし、兵法に早熟な関心を示した。明代に完成された万里の長城の外側に馬に乗って出かけ、何日も辺境地帯をかけめぐるのを楽しむこともあった。

王陽明は一四九九年に科挙に合格して進士となり、官僚の道に進む。一五〇五年に、儒教的な道徳心に駆られて皇帝が寵愛する任官の劉理の不正に立ち向かうが、返りうちにあい、厳しい処分を受けた。さんざんむち打たれて瀕死の重傷を負い、命だけは助かったが、中国南西部の貴州省にある僻地の駅の役人に左遷された。王陽明は任地でつらい生活に耐えながら思索を続け、ある日悟りにいたる。王陽明は知行合一の思想を形成し、それを説きはじめた。
この思想は主として、朱熹が唱えた新儒学(朱子学)の形骸化に反発する形で誕生したものだ。朱子学は道徳の学という意味で一般に道学とよばれるが、道学は民衆の実情からかけ離れていると批判され、偽善と同じ意味で使われるようになっていた。
劉種の失脚後、王陽明は復権し、一五一七年に江西省南部の地方長官に任じられ、その後は地方や中央の重要なポストを歴任した。王陽明の卓越した政治力は、おもにすぐれた軍事指導力から生じている。文官であり科挙出身の官僚でありながら、王陽明は三度の重要な軍事遠征を成功させるというずば抜けた業績を残した。まず一五一七年、江西省南部の農民反乱を平定する。続いて二年後には野心的な明の皇子が帝位を奪うために起こした反乱を、わずか一か月で鎮圧。そして一五二七−二八年、自身の死の直前に、現在の広西チワン族自治区で起きた異民族の反乱を、寛大な恩赦と奇襲をとり混ぜて討伐した。これらの軍功によって王陽明は伯に叙せられた。

王陽明は、朱嘉の新儒学から発展させた新しい儒教哲学と思想を精力的に説いた。心学(儒学のうち心の探究を重視する学問)の代表的思想家として、王陽明は外的な事物や現象が心を形成するのではなく、心の内にだれもが本来もっている道徳知を十分に発揮すれば、この世界を変える力になると唱えた。この思想は仏教的存在論の流れをくむだけでなく、観察する行為そのものが物理現象に影響をあたえるという近代物理学の考え方によく似た面がある。

王陽明は仏教の一派である禅宗から大きな影響を受け、人の心から我欲をとりさるために瞑想を勧めたが、この点で王陽明は隠れ仏教徒だと批判されている。しかし王陽明は、行動より知識を重視した末代の新儒学に反対し、自身の遺徳原理にもとづいて世俗的な問題に率先してかかわるように主張した。知識と実践は不可分であるという思想の根源は、古代の儒学者、孟子にある。人間には本来善悪を判断する力がそなわっているという考えが王陽明の思想の核心である。
新儒学の先達である来貢と同様に、王陽明は精力的に弟子を教えた。朱子学と同じように陽明学は国境を越えて広がり、とくに前近代の日本に受け入れられた。

王陽明は旧来の儒教の頑迷な信奉者から憎まれた。そうした批判者のひとりが、あるとき王陽明の理論を科挙の問題に選んだ。科挙の受験生に王陽明を批判する解答を書かせて、この鼻もちならない哲学者を笑いものにするつもりだったのである。ところがこれは逆効果になって、王陽明の名声はいっそう高まった。
王陽明の軍事的業績も妬みを受ける原因になった。ある任官が、王陽明には軍を指揮する資格はないと言った。そして彼に恥をかかせようとして、兵土の見ている前で矢を射てみよと命じた。王陽明は少しも動じず、三本の矢をすべて的に命中させて、見守る兵士からやんやの喝采を受けたという。

宮廷で浴びるこうした敵意に嫌気がさして、王陽明は官職をしりぞいて故郷で教育に専念することにした。しかし南部で反乱が起きると、王陽明は重い病にかかっていたにもかかわらず、宮廷は彼をよぴもどし、反乱の鎮圧を命じた。王陽明は忠実に軍務を果たしたが、一五二九年一月九日、政府の船に乗って帰還する途中の江西省で船上にて亡くなっている。弟子に遺言を問われ、王陽明は 「此の心光明、亦復た何をか言わん」 (光明はわたしの心の内にあり、もはや何も言うことはない)と言って息を引きとった。














73李時珍―医師・博物学者
李時珍(1518―1593年)医師・博物学者

李時珍は一五二八年に現在の湖北省新春県で医者の家庭に生まれた。祖父も父も医者である。前近代の中国では医者は教養ある知識人であり、人々の尊敬を受けていたが、社会的、政治的な地位は高くなかった。出世栄達は科挙に合格した官僚だけが手に入れられる特権だったのである。李時珍の父は科挙を受けて出世の階段を登ろうとしたが、三段階に分かれた試験の最初のレベルに合格して秀才の資格を得るのが精いっぱいだった。そこで父は頭のいい若い息子に夢を託すことにした。李時珍は一三歳で楽々と試験に受かって秀才の資格を得たが、第2段階の試験には三回落第した。
前近代の中国では、知的エネルギーや創造性の大半が時代遅れの科挙についやされていた。三回目に試験に失敗した後、李時珍は父と同じ医学の道に進む決意を固め、それから何年も猛勉強と治療に明けくれた。李時珍は名医として知られるようになり、貧しい農民から金持ちの貴族まで、どんな病人でも診察した。ついには湖北の領主である明の皇族の侍医となり、1558年頃に推薦されて北京にある国立の最高医療機関「太医院」につとめるようになる。そこで李時珍は院内図書館所蔵の膨大な数の医学書や、多数の貴重な薬にふれる機会を得た。
中国の伝統医学では、薬やその処方にかんするさまざまな論文や解説をおさめた書物が医学書としてもっとも重視されてきた。1000年以上にわたって書き継がれてきたこれらの論文をおさめた書物には、たくさんの誤
りや矛盾などの欠陥があった。たとえば、2種類の異なる薬草が同じ名前で記載されていたり、ひとつの種にふたつの名前がついていたりした。一般に使われている薬をもれなくとりあげた医学書は1冊もなかった。医者として何年も経験を積んでいくと、医学書のこうした欠点に悩まされることがますます増えた。そこで李時珍は患者と医者のため、中国医学で用いられるあらゆる薬とその使い方を網羅した、完全で正確かつ最新の百科事典を編纂する必要があるという思いを強くした。彼はこの記念すべき著作を『本草綱目』と名づけた。
執筆をはじめたのは1552年頃である。初稿を完成させるまでに27年の歳月を要し、そのあいだに大幅な書きなおしを3回行なっている。参照した文献は合計993種類に上る。そのなかには41冊の古い薬の目録や、361冊の医学書がふくまれている。『本草綱目』には1,892種の中国の薬種(1,094種の植物、および動物や鉱物など)と11,096種の処方が詳しく記載された。はじめて文献におさめられた薬種は数百種に達する。李時珍は薬種をさまざまな区分と下位区分に分類するために、非常に系統的な分類法を確立した。『本草綱目』は209点の図版を掲載し、およそ200万字におよぶ大著として完成した。
この著作が過去の書物の内容の集大成以上の価値をもつのは、掲載された薬種の大半が、李時珍みずから産地に出かけて採集した標本にもとづいているからである。彼はそのために何年間も野山や森をさまよい、聞き取り調査もした。こうした現地調査と自分自身の体験から、李時珍は長いあいだ放置されてきた数多くの誤りや誤解を訂正した。現代科学から見れば、彼自身の著作にも事実無根の理論が散見されるのは確かだが、李時珍は古い医学書に残る多数の迷信や超自然的な説を一掃している。
李時珍が長い年月をかけ、息子や孫、そして弟子たちの力を借りて完成させたこの途方もない労作は、初めのうち出版を引き受けようとする者がいなかった。1590年に名のある士大夫が熱のこもった序文を書いてくれたおかげで、ようやく南京の出版業者が出版を引き受けることになった。残念なことに、偉大な医者で博物学者の李時珍は、彼の大作が印刷されるのを見ることなく1593年に世を去った。


















75ヌルハチ満州族の国家の創始者

ヌルハチ(1559―1626)満州族の国家の創始者

ヌルハチ(努爾哈赤、満州語:)は、後金の創始者。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは?奴兒哈赤、朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。


明はタングート族や女真族、契丹族、モンゴル族など、過去何世紀にもわたって中国を脅かしてきた北方の「蛮族」の危険性を十分警戒していた。明が採用したのは、部族間の力の均衡を油断なく監視し、金銭と武力を用いて国境周辺の部族を互いに反目させる「分割統治」政策である。中国東北部は二世紀にわたって支配しやすい状態が続いたようだ。この地域に居住していた女真族は三つの集団に分かれてお互いに交流せず、女真族が建てた金王朝が数世紀前にモンゴルに滅ぼされてからは、主導権をにざる部族がなかったからである。女真族の数百名の首長は明からあたえられる官職を受け入れ、相互に争っていた。
この状態をくつがえしたのがヌルハチである。ヌルハチは1559年に女真族の平凡な部族良の家に生まれた。
何世代も明から官職をあたえられてきた家系である。
1582年、女真族のなかで当時最大の勢力を誇っていた部族の長アタイを討伐するため、明が遠征軍をさしむけた。ヌルハチの祖父と父はこのときアタイを救援に行って明軍に殺されてしまう。ヌルハチは明軍の総司令官李成梁 (朝鮮人の子孫) のもとへ行き、償いを要求した。そして部族長の地位と、祖先が残した「13組の甲冒」を受け継ぐ権利を得た。ヌルハチは李成梁と信頼関係を築き、明の宮廷で権勢をふるう李成梁の庇護のもと、明の忠実な臣下をよそおいながら勢力を拡大した。ヌルハチは中国語を習い覚え、『三国志』 の熱烈な愛読者でもあった。1583年、1590年、1598年の3回にわたって北京に部族長として朝貢におもむいている。こうして中国への理解を深めたことによって、ヌルハチは女真族の部族長のなかで一頭地を抜く存在となった。

明の国内情勢は乱れ、宮廷の派閥争いは激化した。そして豊臣秀吉が朝鮮に送った侵略軍を撃退するため、明は援軍を派遣して疲弊した。この機に乗じて、ヌルハチはほかの女真族の部族を婚姻と武力の両面作戦で支配下に入れた。ヌルハチは初めのうち、祖父と父の死の原因を作った部族だけを標的にし、明に対してはあくまでも恭順な態度をくずさなかったので、明はヌルハチを高位の官職につけた。ヌルハチは自分が所属する建州女直(女直は女真族のこと)を統一すると、ほかの集団にも手を伸ばした。まず「海西女直」を平定し、続いて樺太(サハリン)島まで勢力を広げていた「野人女直」をも支配下におさめる。また、何世紀にもわたる女真族とモンゴル族の血みどろの確執に終止符を打ち、急速に拡大するヌルハチの国家に多数のモンゴル諸部族が吸収された。1599年、ヌルハチは女真族の新しい文字の制作を命じ、ソグド文字に起源をもつ古いモンゴル文字を改良して満州文字が作られた。
モンゴルは1606年にヌルハチにハンの称号を授けたが、ヌルハチは明に猫疑心を起こさせないために、1616年になってようやく新王朝のハンとして即位し、後金を建国した。それから二年後、ヌルハチは明に対し、父や祖父を殺害されたことなど七か条の恨みを書きつらねた「七大恨」を掲げ、一万の兵を率いて明に攻めこんだ。ヌルハチは降伏した者に寛大な処置をとったので、戦場となった地域の漢人は、武力以外の面でヌルハチを支える大きな力になった。

明国内の混乱はもはや手のほどこしょうがなかった。1620年に即位した力のない皇帝のもと、私利私欲に臼のくらんだ昏官(魂忠賢、)が権力をほしいままにしているすきに、ヌルハチは征服地を広げ、軍事組織と行政組織を融合させた革新的で効率的な「八旗制」を整備し、新都として盛京〔満州語でムクデン・ホトン(現在の藩陽)を建設した。「八旗制」は300人の成年男子をひとつの軍団に組織し、各軍団を四色の旗で区別した(各色に縁どりのある旗とない旗があったので、旗は計八種類あった)。旗には成年男子とその家族が所属し、世襲の首長の統治を受けた。そして男も女も平時は農耕や手t業に従事し、戦争になれば効率的な軍団として機能した。
ヌルハチには四人の弟と、多数の妃や愛妾とのあいだに生まれた16人の息子がいた。彼らの多くは女真族の復興と明に対する反乱の際には大きな力となったが、北方の遊牧民には親族内の競争によって後継者を決定する伝統があったため、ヌルハチの後継者をめぐってはいくつかの兄弟殺し、子殺しが発生した。ヌルハチと母を同じくする弟のシェルガチも1611年に殺されている。
1626年、ヌルハチは明の城塞都市が置かれた中国東北部の潮海湾に面した寧遠を攻めた。明の指揮官哀 崇喚は、イエズス会士から伝えられた新型の西洋式大砲でヌルハチ軍をよせつけなかった。ヌルハチにとってはじめての敗北である。ヌルハチは砲弾によって負傷したといわれ、七か月後、後継者を指名しないまま亡くなった。息子のホンタイジが後継者となり、民族名を「女真族」から「満州族」に変更した。ホンタイジは明への怒涛の攻撃を続け、国号を清(後金から改称) とあらためて帝位についた。ホンタイジが亡くなるとその息子が順治帝となり、1644年に北京を占領して中国全土を支配する清王朝が成立した。










77魏忠賢―明の宦官
ウェイヂョンシィェン    (1568―1627)



1568年2月27日(隆慶2年1月30日) - 1627年12月11日(天啓7年11月4日))は、中国、明朝の宦官。皇帝を傀儡にして実権を握り恐怖政治を敷いた最も悪辣な宦官の権力者であり、すでに危機的状況にあった明の滅亡を加速させた。

魏忠賢  明の官官

前近代の中国において、任官は独特の位置を占めている。彼らは王朝の正史を執筆する士大夫(儒教を学び科挙に合格して官僚となった人々)から軽蔑されていたので、史書に描かれた任官にはつねに悪評がつきまとっている。しかし任官は宮中になくてはならない存在だった。妃や身のまわりの世話をする下女を除けば、しばしば皇帝のもっとも近くにいるのが任官である。そうした立場を利用して、彼らはときに途方もない権力や影響力をたくわえた。しかし特権をあたえられた百官のなかでも、魂忠賢の権勢の大きさはとびぬけており、ならぶ者のないありさまだった。
明代には、宮廷の任官にあたえられる生活の保証や政治権力がほしさに、貧しい家庭では息子を去勢して任官ィ 表馨凝薄暮徽瞥葦敬服葉風蔓、等叢詑薯 琵妻瀬音嵐繁等 正風鰍にする者が後を絶たなかった。宮廷は自発的な去勢を禁止する布告をたびたび出したが、中国各地で貧困は深刻な状態にあったので、禁止令の効果はなかった。任官の需要もますます増え、宮廷に一〇万人もの昏官がいた時期もある。
華北の貧農出身の魂忠賢は、読み書きもできず、賭博場に入りぴたりのごろつきになった。結婚し、娘が生まれたが、おそらく賭博で作った借金の取り立てから逃げるために、1589年に自分で去勢(成人の去勢は死の危険がある)し、北京に出た。そしてまんまと任官として宮廷に入りこんだ。一〇数年以上も最下層の百官として働いた後、彼は皇太子の宮殿につとめるようになり、皇太子の長男の乳母と親密な関係になった。
皇帝はこの皇太子に冷たかった。また、皇太子の長男もかえりみられないまま成長したので、まともな教育を受けられず、大工仕事にこるようになった。幼い頃に生母を失ったため、この大工好きな皇子は乳母にべったり懐いていた。不運な皇太子は1620年に即位後、一か月たらずのうちに急逝し、長らく無視されつづけた皇子が明の一五代皇帝として即位する。廷臣が党派に分裂して内輪もめをくりひろげるなかで、ほとんど字が読めず、大工仕事にうつつを抜かす若い皇帝が誕生したのである。魏忠賢は去勢した宦官であったにもかかわらず、皇帝の乳母が頼りにする「夫」となった。
 知識人官僚のあいだで党派の争いがたえまなく続き、若い日高は完全に政治に無関心で乳母の言いなりというで 状況のなか、魂忠賢は明政府の構造的な弱点を味方につけた。とくに正式な宰相が廃止されていたこと、そして昭職員も長官も昏官で成り立っているふたつの秘密警察の存在が大いに役立った。
ふたつの秘密警察は法の支配を受けず、貌忠賢に反対する士大夫層を容赦なく弾圧した。犠牲になった者のなかでもっとも名高いのは、1625年の 「六君子」と、1626年の 「七君子」 である。自殺したひとりを除いて、全員が投獄されて殺された。1626年の事件は華南の都市蘇州で大規模な民衆反乱に発展した。
魂忠賢の専横はとどまるところを知らなかった。たとえば魂忠賢は、「九千歳」とおだてられるのを好んだ。 
「万歳」は皇帝にしか許されないから、1000年減らしたのである。帝国で起こったあらゆる吉事(多くは捏造である)は魂忠賢の「賢明な」政治によるものとされ、宮廷の文書はすべて魂忠賢をほめたたえる言葉で書きはじめなければならなかった。
漸江省の長官は魂忠賢の機嫌をとるために、魂忠賢を生き神であり中国の救世主として祭る神社をいくつも作った。そして同じような神社が国中に建てられた。この神社の建設がピークに達した1627年、大工仕事の好きな皇帝が崩御した。その後に即位した新しい皇帝は毒殺をおそれ、自分がもちこんだ食べ物以外、宮廷では何も口にしなかった。
新しく「万歳」と唱えられるようになった皇帝は、はじめは慎重に「九千歳」とたたえられる独裁者への敬意を示していたが、しだいに魂忠賢を追い落としにかかった。三か月後に魂忠賢は宮廷から追放され、処罰をおそれて首をつって自殺した。
数年後、魂忠賢の故郷では地元に残る彼の痕跡を抹消しようとした。しかし魂忠賢について書かれた数百の戯曲、劇、小説が出版され、演じられていたために、その汚名は永遠にきざまれることになった。










79張献忠―反乱軍指導者
張献忠  (1606―1646)

反乱軍指導者
四川住民の大虐殺の首謀者として悪名高い張献忠は、1606年に陳西省延安で裕福な家庭に生まれた。十分な教育を受けるまもなく明軍に徴兵され、罪状はわからないが、軍法会議によって死刑を宣告された。その後恩赦を受けて行方をくらましている。
1630年、陳西省を末曽有の干ばつが襲い、民衆が深刻な飢饉に苦しむなかで、張献忠は反乱軍を旗揚げした。華北には同様の農民反乱軍がいくつも割拠していた。黄色みをおびた顔色から黄虎とよばれた張献忠は、軍務経験を生かし、有力な反乱軍指導者のなかでもひときわ目立つ存在だった。
1635年、明政府は農民反乱を鎮圧するため、中国東北部の南側から数千隊の精鋭軍を派遣した。戟慣れした前線部隊はほぼすべての反乱軍を鎮圧し、1638年に張献忠をはじめとする反乱軍指導者を降伏に追いこんだ。しかし高まる満州族の脅威(ヌルハチ参照)を迎え撃つために明軍が主力を中国東北部に移すと、張献忠らはふたたび蜂起した。1641年、湖北に入った張献忠の軍団は、反乱軍のなかではじめて明の皇子を殺害した。
張献忠と李日成は不倶戴天の敵となった。李日成は強いカリスマ性をもつ反乱軍指導者で、支持者の数はふくれあがっていた。張献忠は李日成を避けて軍を西に向け、1644年の春に四川に入った。
一方李日成の軍は明の首都北京の攻略に向かった。数か月後、張献忠は明軍を四川で破り、この地を征服した。
1644年12月、満州族は李日成の農民軍から北京を奪い、さらに華北へ侵入した。張献忠は四川に大西国を建てて帝位につき、成都を首都とした。張献忠の国家は四川の外から流入する反乱者によって支えられていたが、地元民の支持はほとんどなかった。さらに悪いことに、李日成が兵に厳しく規律を守らせたのに対し、張献忠の軍は乱暴狼籍がはなはだしく、大西国は殺我と恐怖によって維持されていた。
建国からまもなく、張献忠は反抗する四川住民に対し、見せしめのように大量虐殺を開始した。張献忠に従わない者がひとりでもいれば、最初はその家族全員を、次には近隣の人々を、そして最後には町中の人間を虐殺した。たとえば陳西省に使いに出されたひとりの住民が、張献忠の恐怖政治から逃げ出してそのまま帰ってこなかった。すると張献忠はその都市の住民全員を殺しつくした。

 
張献忠が建国した大西国で発行された貨幣

明の遺臣も李日成の支持者も張献忠の敵だった。成都でひとりの学生が李日成とひそかに通じているのが発覚すると、張献忠はにせの科挙を計画し、受験生をおびきよせた。二万人と伝えられる受験者全員が殺害され、
山をなす試験用紙が残された。
張献忠はしばしば犠牲者の皮を生きながらはぐように命じた。犠牲者が途中で息絶えると、今度は処刑人が殺された。三年後、成都で張献忠が任命した役人600人のうち、くりかえされた血の粛清を生きのびた者は二〇人たらずだった。1645年、張献忠は四川省との省境に近い陳西省漢中市の町を陥落させられなかったという理由で、地元で徴集した14万人の兵を殺害した。
気に入りの処刑人が病死したときは、その治療をした医者を殺した。そして死んだ処刑人に捧げるために、さらに100人の医者を殺した。張献忠は女も子どもも容赦しなかった。妊婦がいれば、胎児の性別を確かめるために殺して楽しんだ。女たちはたいてい、殺される前に手荒く凌辱された。マラリアから回復した後、張献忠は感謝を捧げるために、纏足した足を切断するという方法で大勢の女を殺した。自分の寵姫さえ例外ではなかった。
1646年、張献忠は清の皇子ホオゲの率いる清軍を討つために陳西省に進軍中、矢に射られたか、捕らえられて活の兵にすぐさま処刑され、ついに命を落とした。満州族による中国征服を最後まで見とどけたイタリア 人のイエズス会土マルティーノ・マルティーニは、張献忠は「大勢の人々が暮らしていた四川を広大な荒野に変えた」と書いている。明代末期におよそ500万人いた四川の人口は、一割弱しか残らなかったという。清初期の政府は、南部の諸省、とくに現在の湖南、湖北、そして広東省から四川に大量の移民を導入しなければならなかった。この住民の大移動は「湖広、四川を填たす」という言葉で知られ、その痕跡として四川省の僻地では広東省の古い方言がいまだに話されている。
張献忠による大虐殺があった地域には、あまりに多くの死体が町中にころがっていたので、野良犬でさえ死体に見向きもしなかったという話が伝わっている。イエズス会のふたりの宣教師、イタリア人のルドウィクス・ブーリオとポルトガル人のガブリエル・デ・マガリヤンイスは張献忠の虐殺からあやういところでのがれた。イエズス会宣教師が直接見聞きした四川の惨状は、マルティーノ・マルティーニによる著書『鞋型戦記(BeEumTartaricum)』 に報告されている。この本は四川で起きた血なまぐさい事件から10年後の1654年に、アントウエルペンとロンドンで出版された。また、ほかのカトリックの資料にも同様の報告がある。
張献忠の残虐行為の記念として、成都近郊の広漠市にはいまもいまわしい「七殺碑」が残されている。張献忠白身が書いたものかどうかは別として、消えかけた碑文には簡潔で非情な「殺殺殺殺殺殺殺」の七文字が残っている。












81顧炎武―明の遺臣・学者・社会思想家
顧炎武 (1613−1683)
明の遺臣・学者・社会思想家

顧炎武 (1613−1683)・明の遺臣・学者・社会思想家

顧炎武は一六二二年七月一五日、上海の北に位置する昆山で、有力な郷紳地主(郷紳の特権を利用して土地所有を拡大した者)の家庭に生まれた。しかし顧炎武が生まれた頃にはこの一家の勢いはおとろえ、科挙に合格して政府に出仕している者はひとりもいなかった。

顧炎武の大叔父のひとり息子は結婚前に死亡した。その許嫁の女性は、女の貞節を説く儒教の道徳規範を守り、「寡婦」として独身をつらぬいた。顧炎武の両親にはもうひとり息子がいたので、顧炎武は大叔父の養子となり、この寡婦の女性が養母となった。顧炎武は二歳のとき天然痘にかかり、片目の視力を失っている。
顧炎武は明末期に結成された最大の政治・文学団体である復社で積極的に活動した。彼は科挙に何度も落第し、第二段階の地方試験である郷試にも合格しなかったが、没落したとはいえ一家には資産があったので、金を払って一六四三年に国立大学である国子監の学生となった。
一六四四年に明が滅ぶと、顧炎武の故郷の江蘇省の住民は満州族の侵入に激しく抵抗し、顧氏の一族は全員これにくわわった。顧炎武の生母は殺され、兄弟のひとりは一六四五年に戦死した。顧炎武自身も抵抗運動にくわわり、明政府の残党が集まる南京の宮廷に迎えられ、満州族による大虐殺をかろうじてまぬがれた。養母は食を断ち、決して満州族に仕えてはならないと言い残して死んだ。
それから数年間、顧炎武は郷里で世捨て人のような暮らしをしたが、その土地にいる明の遺臣との連絡を絶やさなかった。故郷で清政府に協力していた有力者が顧家の土地をほしがっていた。彼は顧炎武が明の遺臣の軍人那ノ町/恥(国姓爺、一六二四−六二)と通じていると、顧家の召使にむりやり告発させたC一六五五年、顧炎武は厳しい追及をのがれるために裏切り者の召使を殺害したが、殺人罪で処刑されるのはまぬがれた。
一六五七年、顧炎武は南京で明王朝の創始者、洪武帝の陵墓に礼拝し、故郷に別れを告げて華北に移り、その後はずっと華北で暮らした。あちこちへ旅をし、新しい王朝に仕えるのを拒否した明の遺臣のなかに多くの友人を作った。ふだんはもっぱら中国の歴史や地理の研究、そして執筆に没頭した。生活のために農耕や商業に従事したが、旅をするのはやめなかった。
二ハ六八年、彼は反活思想の文集を編纂したという濡れ衣を着せられ、告発される。山東省で投獄されるが、疑いが晴れて釈放された。
著作の出版とともに、顧炎武の学者としての名声は国中に広まった。彼の三人の甥たちは清の科挙に第一位で合格し、清政府の上層部に昇っている。甥や清政府はたびたび顧炎武に仕官を勧めたが、顧炎武は養母の遺言に従い、いかなる地位であろうと政府に仕えるのを拒否した。
明の滅亡を直接経験して、顧炎武は陽明学の徹底した批判者となった。国家の危機になんら実際的な対処ができず、明の滅亡後はさっさと新しい君主に鞍替えするような知識階級を育てたのは陽明学だと考えたからだ。儒教遺徳や抽象的な概念に代わって、顧炎武は経済や地理といった実際に役立つ学問を奨励した。孔子が言うように、「君子は自分の身を修め、万民を救うために学ぶ」 からである。
顧炎武の 『音楽五書』 は、中国古代の音韻研究における画期的な成果とみなされ、彼は清代考証学(四書・五経などの解釈の根拠を古典に求める学問)の祖と考えられている。顧炎武は、言語の乱れはかならず道徳の乱れに通じると信じていた。そして道徳を高めるためには、人々が話す言語を合理化し、修正する必要があると考えた。
顧炎武にとって、知的探求のうちもっとも重要なのは、知識を実際に応用することである。
一六八二年初め、顧炎武は山西省へ行く途中で数日間雪に足止めされた。帰郷したいと願うあまり、雪のなかで馬を走らせ、落馬して大けがを負った。翌日の二月二五日、顧炎武は亡くなった。










83蒲松齢―幽霊譚の作家
蒲松齢 (1640−1715)幽霊讃の作家

蒲 松齢(ほ しょうれい、Pu Songling、崇禎13年4月16日(1640年6月5日) ‐ 康熙54年1月22日(1715年2月25日))は清代の作家、モンゴル貴族の末裔。字は留仙または剣臣、号は柳泉居士。聊斎先生と呼ばれた。

 
   蒲松齢 (1640−1715)

蒲松齢は中国が深刻な飢饉にみまわれた1640年に、小規模な郷紳地主で商人の家庭に生まれた。18歳で科挙の第一段階の試験に合格して秀才の資格を得る。明代以降、科挙はしだいに形式的で固定的になっていた。とくに、四書を解釈するために定められた 「八股文」という特殊な文体は、形式重視で真の思考力が生かせないという点で評判が悪い。蒲松齢は何年も科挙を受けつづけたが、どうしても第二段階の郷試に合格できず、ついに1690年にそれ以上受験するのをあきらめた。

17歳で結婚し、その数年後に両親の資産を四兄弟のあいだで分割すると、蒲松齢はひどく貧しい暮らしになった。彼はつねに教師の仕事で家を離れているか、科挙の受験準備をしているかのどちらかだったので、家庭内のことは妻まかせだった。
行政官としておよそ一年間働いた後、1679年から1709年に引退するまで、生涯のほとんどを故郷の名士である華氏の家塾で教師をしてすごした。蒲松齢は華氏の親しい友人となったばかりでなく、家族の相談相手としても信頼された。
教師としてすごしたこの時期に、蒲松齢は代表作 『柳斎志異』 を執筆した。これはおよそ500編の巧みに構成された物語をおさめた短編集で、人間ドラマを中心にキッネの精や幽霊などの怪異が措かれている。物語の多くはさまざまな資料から取材して書かれている。蒲松齢は1707年頃までこの短編集に物語を追加しつづけた。
この本は彼の死後50年たってようやく出版されたが、蒲松齢の生前に、まだ本が完成しないうちから、筆写した原稿が出まわりはじめた。

1880年に出版された『御者志巽』の挿絵。「地震」と題されたこの物語には、蒲松齢が実際に体験した地震のようすが描かれている。建物のなかにいる男性のひとりが蒲松齢かもしれない。

蒲松齢は口語体の戯曲も書いている。そのひとつで 『壁』と題する作品は、ほぼ同時代に活躍したイギリスの劇作家ウィリアム・シェークスピアによる 『リア王』と驚くほどよく似ている。蒲松齢の戯曲は、死後300年近くたった二〇世紀末にようやく刊行された。
1713年に五六年間つれそった妻に先立たれ、蒲松齢は1715五年の初めに亡くなった。











85曾静―反清的知識人
曾静  (1679―1736)  
反清的知識人

曾静(そうせいZeng Jing; Ts?ng Ching)
中国,清初の学者。湖南省永興の人。朱子や呂留良 (りょりゅうりょう) の思想に傾いて反清の念を強め,雍正6 (1728) 年に四川,陝西総督の岳鍾きに謀反をすすめ,捕えられた。この取調べから,彼らの転向の経過などを集め,曾静の「帰仁説」 (転向書) を付したものが『大義覚迷録』である。呂留良は死後もその墓をあばかれ一族は厳刑を受けたが,雍正帝は寛大を示すために曾静の罪を許した。しかし乾隆帝の即位とともに処刑された。


       曾静  反清的知識人

清政府は反満州感情に過剰に神経をとがらせ、書物のなかに清を批判する記載があれば、著者を厳しく処罰した。しかし疑心暗鬼のあまり、無実の者が処刑されることもあった。曾静はそのような筆禍事件の数えきれない犠牲者のひとりである。曾静は1679年に華南の湖南省で生まれた。科挙に何度も落第し、同じ立場の何千人という知識人と同様に、教師をして生計を立てた。曾静は評判のよい科挙の参考書で勉強し、その著者で明の遺臣の即断裏に心酔していた。呂留良は曾静と同じ華南の人で、1683年に亡くなっている。薙正帝(在位1722−1735)の治世の初期に、曾静は学生を使いに出して呂留良のほかの著書を集めた。それらの書物は反満州的な記述やあてこすりに満ちていた。

曾静は薙正帝を皇位纂奪者とみなし、打倒清の好機をうかがって、四川省と陳西省の総督という有力な地位にある岳錘供と連絡をとった。岳錘瑛はおよそ六世紀前に女真族と戦った南末の英雄岳飛の子孫(ツングース語を話す女真族は清の建国とともに民族名を満州族とあらためた)と考えられていたので、曾静は岳錘瑛が祖先にならって征服者の王朝を倒してくれると期待したのである。

1728年の秋、曾静は西安に駐屯していた岳錘瑛に匿名の手紙を書いた。その手紙は確正帝の父親殺し、兄弟殺し、そして母に対する冷遇など、10か条の悪徳を批判したものだ。しかし、岳錘供は祖先の英雄的行為をくりかえすつもりはさらさらなかったので、手紙の内容を皇帝に密告した。

曾静は逮捕されて拷問にかけられ、たちまち耐えきれなくなって自白した。そして同じ志をもつ友人の名前を明かしたので、彼らはすぐに全員逮捕された。「書物によって反逆をくわだてた」罪で、数十年前に亡くなった呂留良と死んだ息子や門人たちは墓を暴かれて首を斬られた。呂留良と関係の深かった者は処刑され、その一族の成年男子も連座させられた。女と子どもは奴隷として流刑にされた。呂氏の生き残りは全員新注省から中国東北部に追放された。

不思議なことに、曾静は薙正帝によって罪を赦されている。薙正帝は活王朝の正統性を主張する理論と、曾静がみずからの思想的誤りを認めた「告白」を本にまとめ、1730年に出版した。これが『大義覚迷録』で、曾静の事件によって表面化した反満州思想にひとつひとつ反証する形をとっている。

曾静は釈放されて故郷の湖南省に帰ったが、幸運は長続きしなかった。五年後に薙正帝が亡くなると、その息子が乾隆帝として即位し、『大義覚迷録』を悪書として回収し、廃棄させている。曾静はふたたび逮捕され、1736年に処刑された。乾隆帝は書物の検閲と反活思想の弾圧をかつてない厳しさで続行した。












87乾隆帝―清王朝の最盛期を築いた皇帝

乾隆帝 (1785―1850)
清王朝の最盛期を築いた皇帝


乾隆帝は一七二年に生まれた。名前を弘暦といい、薙正帝の四男である。また、薙正帝は康熙帝の四男にあたる。一七二二年の確正帝の即位には疑惑が多く、現在まで謎は解明されていない。

皇子だった弘暦は祖父の康配州帝に気に入られていたといわれ、幼い頃は宮廷に入りぴたってすごした。二歳のとき祖父とともに狩りに出て、手負いの熊に立ち向かってまれにみる勇気を見せた。狩りは乗馬と狩猟の腕前が試される満州族の重要な伝統のひとつである。
満州族の皇子のひとりとして、弘暦は厳しい教育を受けた。当時の記録によれば、学習は夜明け前からはじまり、中国語、満州語、モンゴル語の勉強にくわえ、武術の訓練もあったという。薙正帝は即位後すぐひそかに弘暦を皇太子に指名していたので、弘暦の教育はいっそう厳しさを増した。
薙正帝は一七三五年の夏に急逝したが、それまでの帝王教育のおかげで、皇位継承にはなんの問題もなかった。
帝位についた乾隆帝は父の政策の数々をあらため、その長い治世はまぎれもなく清王朝の最盛期となった。乾隆帝の治世は継続的な領土拡大の時代である。長年の激しい軍事遠征の結果、清はモンゴル西部のジュンガルを破り、その最後のカリスマ的指導者アムルサナをロシアに追いやった。そしてイリ川渓谷の古くからの拠点にいたジュンガル部族をほとんど全滅させた。また、イスラム教徒のテエルク系民族を支配下に入れ、帝国の版図をパルハシ湖とフエルガナ盆地まで広げた。南西部ではチベットの支配を強化したばかりでなく、ネパールのグルカ王朝を討伐するために遠征軍を派遣し、グルカをカトマンズの外に撃退した。そして一七九二年にネパールの求めに応じて和議を結んだ。また、ビルマ (現ミャンマー) とベトナムにも遠征軍を送った。

●乾隆帝の文化事業は、領土拡大にまさるともおとらない重要性をもっている。もっとも卓越した業績は 『四庫全書』 の編纂で、中国史上最大の書籍編纂事業である。一七七三年に編纂が開始され、九年かけて完了した。
三六〇人を超える学者からなる編纂委員会が宮廷図書館などから一万点を超える写本を集め、そのうち『四庫全書』 におさめる三四六一種の書籍を選んだ。完成した『四庫全書』 は、七万九〇〇〇巻以上の書物を三万六三八一冊に編纂してある。およそ二三〇万ページ、推定八億字の大事業である。四〇〇〇人近い筆写師によって合計七セットの 『四庫全書』 が作成され、宮殿や離宮に配られた。そのうち二セットがいまも残っている。

乾隆帝がこの野心的な事業に取り組んだ理由は、ただ文化のためだけではなかった。根強く残る漢人知識人の反満州感情への警戒心があったのである。『四庫全書』 に収録する作品を選別する過程で、「反政府的」書物が発見されれば焼きすてるか、どれほど古い本であろうと、反満州的表現があればその部分を削除した。
乾隆帝は文学や芸術に対するすぐれた感性をもつ学識豊かな君主だった。満州族の若い皇子が全員学ばなければならない三言語にくわえて、チベット語とテエルク諸語に属するウイグル語を読むことができた。また、ヨーロッパから涯来したイエズス会士の画家や手工業者を雇って宮殿で働かせ、円明園(北京に作られた離宮・庭園)に「西洋楼」(洋風建築が立ちならぶ場所。現在は廃墟になっている)とよばれる小さな区域を増設した。さらに図書館や仏教寺院のほか、引退後の住まいとして紫禁城に複合庭園を造営し、北京の北東の承徳にあった狩猟園を拡充した。乾隆帝は四万二〇〇〇編もの古典的な詩を作ったといわれているが、さすがにすべてが自作ではないかもしれない。彼は書画もたしなみ、宮廷に所蔵されている絵や美術品のコレクションを大幅に拡大した。
どこに滞在していようと、乾隆帝は毎朝六時に起床して午前中は政務をとり、大臣と話しあい、新しく任官された官僚や高官を謁見した。一七四八年に亡くなった最初の皇后と乾隆帝は非常に仲睦まじかったという。数十名の妃と寵姫を後宮に置き、一七人の息子と一〇人の娘をもうけたが、成人になるまで生きていたのは一〇人の息子と五人の娘だけだった。

●乾隆帝はしだいに著修にふけり、権力を誇示するようになった。江南への六回の巡幸は、名目的には江南の住民に皇帝の姿を見る機会をあたえ、彼らの関心事を探る目的があったが、実際には莫大な費用のかかる物見遊山であった。不正や汚職を許さなかった若い頃の厳格な態度は老いるにしたがって影をひそめ、とりわけ打算的な大臣のヘシュンの専横を許した。
一七九三年の夏、乾隆帝はイギリスの大便マカートニーの訪問を受けたが、貿易港の増加を求めるイギリス側の要求を拒絶した。活は広大な土地と豊かな物資に恵まれ、外国貿易を必要としない「神聖な帝国」であるという態度を決して変えることはなかった。しかし、この方針が半世紀たってから中国に大きな打撃をあたえるのである。
乾隆帝は祖父である康配州帝の六一年の治世を超えるのをはばかって、一七九五年の中国暦の新年に正式に退位した。かねてから指名していた皇太子が嘉慶帝として即位する。しかし乾隆帝は「太上皇」となっても実権を手離さなかった。乾隆帝は一七九九年二月七日に崩御し、中国史を通じてもっとも長い治世がようやく終わった。




雍正帝と側妃の熹貴妃ニオフル氏(孝聖憲皇后、満州正黄旗出身)との間の子(第4子)として生まれる。祖父康熙帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、太子密建を経て即位した。

祖父、父とは違い派手好みの性格であった。父の死去後、25歳で即位すると父雍正帝の時代に助命された曾静(中国語版)を張熙とともに逮捕し凌遅刑に処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。


●乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「十全武功」と呼ばれる10回の外征である。ジュンガル(1755年、1757年 - 1759年、清・ジュンガル戦争)、四川の金川(1747年 - 1749年、1771年 - 1776年、大小金川の戦い(中国語版))、グルカ(1788年 - 1789年、1791年 - 1792年、清・ネパール戦争、戦闘はチベット、ネパールで行なわれた)に2回ずつ、回部(ウイグル)およびバダフシャーン(1757年 - 1759年大小和卓の乱(中国語版))、台湾(林爽文事件(ロシア語版、中国語版))、緬甸(1765年 - 1769年、清緬戦争)、越南(1789年、ドンダーの戦い)に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自身を十全老人と呼んだ。これにより清の版図は最大規模にまで広がり、また、緬甸、越南、ラオス、タイまで朝貢するようになった。十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南、緬甸など実質的には負けの遠征もあった。また、苗族の反乱(1735年 - 1736年(英語版)、1795年 - 1806年(英語版))や白蓮教徒の乱などが起こった。さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことで、のちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。1793年、イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の代であるが、三跪九叩頭の礼は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。

乾隆帝の南巡(1765年)

●国内政治においては、雍正帝の時代に置かれた軍機処が恒常的な政務機関となっていった。康熙・雍正期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作った。乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクションを収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。

晩年の乾隆帝
●その一方で退廃の芽生えもあった。乾隆帝は奸臣のヘシェン(和?)を重用し続けた。ヘシェンは嘉慶帝と他の臣たち全てに憎まれていた。文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。

●1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永?(嘉慶帝)に譲位し太上皇となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷いた。いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆上皇は王朝に老害を撒き散らした。
1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位への布石にもなった。














90汪端―清代の女性詩人


汪 端  (1793―1839)清代の女性詩人

江端は一七九三年に杭州の知識層の家庭に生まれた。活代にはとくに江南地方で才能と教養に恵まれた女性が数多くいたが、男性至上主義の当時の中国では、この女性たちの能力が認められ、活用されることはほとんどなかった。江端もそうした女性たちのひとりである。祖父は進士となり清政府で司法を担当する部に勤務した。父の江稔は妻を亡くしてから、ふたりの息子とふたりの娘を教育しながら故郷で静かな学究生活を送ろうと決心末娘の江端は幼少期から特別な才能を示した。六歳で「春雪」という詩を書き、大人顔負けのできばえを称賛された。父は「掌中の珠」である娘のために家庭教師を雇った。汪端がわずか一〇歳のときの詩を紹介しよう。

「農夫一家」
梨の花を一夜の雨が濡らし、水田に澄んだ水が満ちる。
隣人はやせた子牛に餌をやろうと、鍬をかついで生け垣を抜けていく。
若い妻は朝食の支度に忙しく、こどもらは空が晴れてくるのを待っている。
竹林を吹きぬける風のなか、カッコウが田を耕せとまた鳴いている。
〔カッコウを音床する中国語の「布谷」が、「種をまく」という意味の「母猪」の語呂合わせになっている。〕

当時の結婚は家同士が決めるのがあたりまえだった。江端の父は、芸術的な才能のある娘にふさわしい配偶者を見つけたいと考えた。そして有名な士大夫の陳文述に会うために蘇州におもむいた。陳文述は杭州の出身で、その息子の陳襲之は詩人である。注端は一四歳で陳蓑之の許嫁となった。それからまもなく江端の父と兄が亡くなり、江端は母方のおばに引きとられた。このおばは有力な士大夫の妻で、彼女自身も文学的な名声を誇り、江端が教養を身につけるのを奨励した。おばの夫は江端と中国史について議論を戦わせ、しばしば言い負かされたので、この博識な姪に「虎端」というあだ名をつけた。
江端は一八一〇年に陳装之に嫁いだ。舅の陳文述は有名な清の詩人象枚(一七一六−九八)の愛読者だった。
哀枚は才能ある女流詩人を教え育てた人で、陳文述も嫁となった江端の文学と歴史にかんする幅広い知識に感じいった。
詩を作るだけでなく、江端は自分が選んだ明代の詩に注釈をそえた詩選集を二冊出版した。夫は官僚としては不遇で、夫婦はふたりの息子に恵まれたが、長男は幼いうちに亡くなり、次男は体も知能も弱かった。儒教的な家族の習慣にしたがって、江端は男の子を得るために夫に妾をもつよう勧めたが、若い妾は二年後に死んでしまった。
一八二六年、注端の夫は他省に赴任中、任地で亡くなった。続いて江端のひとり残った息子が思い精神病を発症する。注端は道教の信仰に打ちこみ、数か月も部屋にこもって瞑想するようになった。
男性中心の文学の世界はほとんど女性を受け入れなかったので、江端は歴史の知識を詩にそそぎこむしかなかった。しかし汗端は『元明移行期秘話』という小説も執筆している。全八〇章からなるこの物語は、正史とはかなり異なる観点から出来事や人物を描いたものだ。しかし江端は道教の信仰に溺れていき、この小説の原稿を燃やしてしまった。
一八三九年二月一日、江端は四六歳の誕生日を目前にして、二〇〇編を超える詩を残して亡くなった。江端は親族のなかでただひとりの女流作家というわけではない。夫の遠縁の女性は陳端生という作家で、長編の物語詩『再生縁』を書いた。これは才能豊かな女性が男といつわって生き、宰相にまで上りつめるという物語で、清代の女性解放宣言ともいうべき内容である。さらに江端のふたりのいとこの女性は、『紅楼夢』 の続編の作者で、満州族の女流詩人としてもっとも名高い顧太清二七九九−一八七七) と親しい間柄だった。
1801年発行《明三十家詩選》江端編纂














92洪秀全―太平天国の乱の指導者
洪秀全(1814―1864)
太平天国の乱の指導者

「天下」を自称した洪秀全の肖像
洪秀全は1814年1月1日に広東省の客家の農民家庭で生まれた。客家はおもに中国南部に居住する漢民族の一派で、中国北部や中原の地から南方に移住した人々の子孫であり、独自の方言や数多くの文化的特徴を何世紀も維持しっづけている。たとえば、客家の女性は纏足をしなかった。近代中国には客家出身(孫文、都小平、李登輝)や客家と縁続き(蒋介石の妻は客家出身であり、毛沢東の母は客家だったと考えられている)の指導者が大勢いる。

洪秀全は儒教の経典を学び、学問の才能を現したので、彼の一族は洪氏から初の科挙合格者が出るのを期待した。1827年から1843年にかけて、洪秀全は科挙の受験資格を得るための地方試験を広州で受験する。しかし三段階の試験の第二段階に四回落第し、科挙が受験できる「秀才」 の資格を得ることができなかった。
1837年に試験に落ちた後、洪秀全は失意のあまり体を壊して死にかけたという。
1836年、洪秀全は広州でキリスト教の教えを説く中国人と外国人のふたりづれに偶然出会った。そのとき配られたのが、プロテスタントに改宗した中国人が書いた 『勧世良言』 という九冊セットの布教用パンフレットである。それから七年後、いとこのひとりがそれを読み、洪秀全にも読むように勧めた。
赤が太平天国の主要支配地域

洪秀全はたちまちその内容に引きつけられた。六年前に重い病に伏していたとき、彼は夢を見たという。それは天に昇って父なる神と神の長子イエスに迎えられるというお告げのような夢だ。洪秀全は自分が神の次男(イエスの弟)であり、この世の妖魔を退治する使命をあたえられていると確信した。
洪秀全は、キリスト教の教義を自分なりに解釈し、それをまず自分の家族に説きはじめた。そして拝上帝会という新しい宗教団体を立ち上げる。親戚で最初の入信者のひとりである鳩雲山は懸命に布教につとめ、カリスマ性もあったので、隣接する広西省の山岳地帯に住む客家社会で信者を獲得した。

この地域にはほかの少数民族も居住し、儒教があまり浸透していなかったことが幸いしたのである。一万広州にいた洪秀全は、若いアメリカ人のプロテスタント伝道師、アイザッチャー・ジエイコックス・ロバーツの協力で教義を練り上げた。
洪秀全が一八四七年に広西省で布教していた鳩雲山に合流したとき、拝上帝会は数万人の信者を集める団体にふくれあがっていた。鳩雲山は政府に逮捕され、洪秀全は一時的に広西省を離れた。


1850年の夏、拝上帝会は広西省の金田村に公然と教団の本部を設置し、洪秀全は皇帝しか身につけることを許されない龍の文様の黄色い長衣を着るようになった。信者は軍事的単位で組織され、私有財産はすべて差し出して「聖庫」におさめ、共同で使用することにした。男女は分かれて暮らした。
その年の終わりに、拝上帝会の動きを警戒した政府は平定軍を派遣したが、あっというまに返り討ちにあった。1851年1月11日、清軍に対する戦勝を祝って、広西省永安で太平天国の建国が宣言された。まもなく洪秀全は天王と称した。
軍備を整える必要から、洪秀全は軍を率いて北上することにした。1853年1月12日、太平天国軍は湖北省の省都を陥落させ、はじめて清の知事を殺害するにいたった。貧民や住む場所を失った流民がくわわって兵の数は膨張し、農民軍は長江を下って南京に到達した。3月19日、太平天国軍はかつて明の首都だった南京に入城した。その10日後、洪秀全が到着し、都の名を天京とあらため、太平天国の首都とした。
それから数年かけて、太平天国は長江中流域と下流域の支配を強化し、北京攻撃のために北伐軍を送った。しかし北伐軍は初めこそ勝利をあげたものの、1855年に僧格林沌によって全滅させられた。一方、太平天国の首脳部では深刻な権力闘争が生じ、1856年にクーデターとその報復という血みどろの惨事をひき起こした。王号をもつふたりの幹部が殺害され、それぞれの支持者が数万人も虐殺された。同じく王号をもつもうひとりのカリスマ的副官は太平天国を離れた。洪秀全は友愛にもとづく平等主義的な支配体制をすてて独裁権をにぎり、多くの犠牲を出しながら政変に勝利した。しかし太平天国は目に見えて弱体化したのである。

科挙に落第した男が、いまや独自の科挙を実施するようになった。しかし洪秀全は華南で儒教の伝統を守る郷紳の支持を得ることはできなかった。郷紳層は太平天国討伐のために優秀な軍を組織した。洪秀全の「キリスト教」的な運動に味方する西洋人は多かったが、西洋の列強は貿易の停止をおそれて、自国民に太平天国打倒の傭兵になることを認め、奨励さえするありさまだった。太平天国を攻撃した西洋人のなかでひときわ力があったのは、イギリス人チャールズジヨージ・ゴードン(のちにエジプトの支配下にあったスーダンで反乱が起きた際に、首都ハルツーム防衛にあたって戦死した英雄)とアメリカ人のフレデリック・タウンゼント・ウォードである。
清軍が太平天国の首都の包囲を固めるにつれて、反儒教を掲げる「キリスト教徒」の天王は、信徒を鼓舞するために「天の言葉」と「夢のお告げ」からなる布告を次々に出した。それらのメッセージは天の父と兄のイエスから送られてきたもので、なにもかもうまくいノ\という知らせだと洪秀全は主張した。
天王は病に倒れ、1864年6月1日に亡くなった。その七週間後、清軍はついに南京を奪取した。太平天国は天王の家族もろとも完全に滅ぼされ、反乱は終わりを告げた。この乱によって2000万人近い死者が出たといわれている。














94秋瑾―革命に殉じた女性解放運動のヒロイン
90 秋瑾(一八七五頃−五〇七)革命に殉じた女性解放運動のヒロイン


杭州・西湖畔にある秋瑾像

秋瑾の家族は浙江省紹興市の出身だが、秋瑾は1875年頃に福建省で生まれた。父も祖父も科挙合格者であり、秋理も教育を受けて育った。秋瑾は詩を書き、中国古来の国民的英雄に憧れた。少女時代を海に面した福建省ですごし、西洋の列強が沿岸を侵食するのを見聞きして愛国思想をつのらせたのかもしれない。15歳をすぎてから両親とともに郷里の浙江省に戻った。その時代の中国女性の大半がそうだったように、秋理も纏足をさせられた。しかしめずらしいことに、秋理は母方のおじやいとこといっしょに武術や乗馬を学んだ。
1896年5月、秋瑾は親の決めた王廷鈎という湖南の男性と結婚させられた。相手は秋瑾より四歳年下で、教養もおとり、文学をともに楽しめるような人ではなかった。この結婚に気のりしない秋理の心情は、結婚から数か月後に書かれた詩に表れている。数年のうちに秋瑾は息子と娘を生んだ。
1899年に夫が多額の「寄付」によって北京で下級の官職を買いとったのを機に、一家は北京に移り住む。
結婚生活では心が満たされず、北京で改革や近代化の思想を温める若い知識人と出会ったことで、秋理は外国で学びたいと思うようになった。夫は猛反対し、秋理が家を出られないように、嫁いだときに持参金としてもってきた宝石類をとりあげた。それでも秋壇は1904年になんとか日本への留学を決行した。秋埋はまず東京の語学学校で日本語を学び、実践女学校(現在の「実践女子学園」付設師範班に入学した。秋壇は日本で、のちに中国で重要な役割を果たす黄輿(孫文の革命を補佐)や国民党(1919九年結党の中国国民党とは別)の指導者である宋教仁、そしてのちに大作家となる魯迅らと親交をもった。
1905年の初め、秋理は母と会うため、そして勉強を続ける資金を作るため、いったん中国に帰国する。秋瑾は「光復会」という革命的秘密結社にくわわり、ふたたび日本に戻って、東京で孫文(伝記91)が組織した「革命同盟会」の初期メンバーのひとりになった。
秋珪自身は古典の中国語に通じていたが、中国初の口語体で書かれた二種類の雑誌のひとつを創刊するために助力し、「二億の女性同胞の解放」を訴える女性組織を復活させた。秋理の姿は、男物の洋服を着て撮影した写真でよく知られている。

中国に帰国すると、秋壇は女性解放運動を進めるために『中国女報』という雑誌を創刊する。漸江省で反満州活動家の代表的存在になり、秘密結社を動員し、活の「近代的軍隊」の内情をスパイし、革命家のグループに軍事訓練をほどこした。一九〇七年二月、両親の故郷の紹興市で 「光復会」 のリーダーが創設した大通学堂の校長を引き受けた。これは革命家を訓練するための秘密の拠点である。秋壇は別の省にいる仲間と同時に二か所で軍事蜂起する計画を立てた。しかし、この計画が政府に露見し、大通学堂は政府軍に囲まれてしまい、大勢の学生を避難させてから、秋理は武器を隠し、さまざまな文書を焼きすてて、そのまま大通学堂に残った。女だから怪しまれにくいと思ったのかもしれない。しかし、秋理はすでに革命に殉じて死ぬ覚悟を決めていたのだろうと、のちに魯迅などは推測している。
漸江省の省都杭州から派遣された政府軍は、一九〇七年七月一三日に学堂を攻撃し、秋珪らを逮捕した。供述書を書くように命じられて、秋珪はただ、自分の姓の「秋」をくりかえし使った有名な辞世の句を残した。
絶命詞「秋風秋雨愁?人!」(秋風秋雨、人を愁殺す)である。死刑を宣告されて、秋理は最後の願いを述べた。家族に手紙を書きたい。
男性の死刑囚は普通処刑の前に服を脱がされるが、自分はそうしないでほしい。斬首された後、頭部を公衆にさらさないでほしい。最後のふたつの希望は認められ、秋理は七月一五日の夜明け前に斬首された。秋理の死によって清政府は非難の嵐にさらされた。中国全土、とくに上海の租界で発行される新聞は、教養ある女性の処刑を批判し、彼女の処刑にかかわった役人は異動を願い出て、刑の執行者はのちに自殺するという騒ぎになった。革命が成就した後、秋理はようやく杭州の西湖のほとり、国民的英雄岳飛(伝記哲 の墓のそばに、最大限の栄誉をあたえられて葬られた。皮肉なことに、半世紀たってから彼女は「ブルジョワ革命家」のレッテルを貼られ、文化大革命の直前に遺体は掘り返されて無銘の墓に移され、跡形もなくなってしまった。この革命のヒロインの墓は、一九八一年にようやく再建された。
秋瑾という人物をまとめてみると
・少女時代、種々の武術を習い、
・結婚後、纏足をやめ、女性の因習からの解放を目指し、
・自ら競雄と号して、男と雄を競い、
・男装して過ごし、
・日本に游学しては、満洲民族王朝覆滅、漢民族復興を目指す革命組織に参加し、
・自分の名から閨字をとって女と訣別し、日本刀を愛し、
・帰国後、革命活動をし、爆薬製造、武装蜂起を支援し、
・共に光復軍を作り、武装蜂起を進め、
・紹興の軒亭口に刑死する。
この生きてきた時代を全て、百数十首の詩歌、数多くの書信や雑文にまとめている。


寶刀歌
漢家宮闕斜陽裏,五千餘年古國死。
一睡沈沈數百年,大家不識做奴恥。
憶昔我祖名軒轅,發根據在崑崙。
闢地黄河及長江,大刀霍霍定中原。
痛哭梅山可奈何?帝城荊棘埋銅駝。
幾番囘首京華望,亡國悲歌涙涕多。
北上聯軍八國衆,把我江山又贈送。
白鬼西來做警鐘,漢人驚破奴才夢。
主人贈我金錯刀,我今得此心英豪。
赤鐵主義當今日,百萬頭顱等一毛。
沐日浴月百寶光,輕生七尺何昂藏?
誓將死裏求生路,世界和平ョ武裝。
不觀荊軻作秦客,圖窮匕首見盈尺。
殿前一撃雖不中,已奪專制魔王魄。
我欲隻手援祖國,奴種流傳遍禹域。
心死人人奈爾何?援筆作此《寶刀歌》,寶刀之歌壯肝膽。
死國靈魂喚起多,寶刀侠骨孰與儔?
平生了了舊恩仇,莫嫌尺鐵非英物。
救國奇功ョ爾收,願從茲以天地爲鑪、
陰陽爲炭兮,鐵聚六洲。
鑄造出千柄萬柄刀兮,澄C~州。
上繼我祖黄帝赫赫之成名兮,一洗數千數百年國史之奇羞!

漢家の宮闕 斜陽の裏,五千餘年の古國 死す。
一睡沈沈として 數百年,大家は識らず奴と做るの恥。
憶へ昔 我が祖 名は軒轅,發祥の根據は崑崙に在り。
地を闢く黄河及び長江,大刀 霍霍として中原を定む。
梅山を痛哭するを奈何にすべき?帝城の荊棘 銅駝を埋めたり。
幾番か首を回らして 京華を望めば,亡国の悲歌 涙涕 多し。
北上せる聯軍 八國の衆に,我が江山を 又も贈送す。
白鬼 西より來りて 警鐘を做し,漢人 驚破す 奴才の夢。
主人 我に贈る 金錯刀,我 今 此を得て 心 英豪し。
赤鐵主義にて 今日に當れば,百萬の頭顱も 一毛に等し。
日に沐し 月に浴せば 百寳 光き,生を輕んずるの七尺 何ぞ昂藏ん?
誓って 死裏に 生路を求め,世界の和平は 武裝にョる。
觀ずや荊軻を 秦客と作り,圖 窮って匕首 盈尺に見る。
殿前の一撃 中らずと雖も,已に奪ふ 專制 魔王の魄。
我 隻手にて 祖國を援けんと欲すれど,奴種流れ傳はり 禹域に遍し。
心 死せる人人 爾を奈何せん?筆を援り 此を作る 《寳刀歌》,寳刀の歌 肝膽に 壯たり。
死國の靈魂 喚起 多く,寶刀侠骨 孰與(いづれ)ぞ儔なる?
平生 了了たり 舊き恩仇を,嫌ふ莫れ 尺鐵の英物に非ざると。
救國の奇功 爾にョって收めんとせば,願はくは茲從り 天地を以って鑪と爲し、
陰陽は 炭と爲し,鐵は 六洲より聚む。
鑄造り 出す 千柄・萬柄の刀にて,~州を澄清めん。
上より 我が祖 黄帝 赫赫の成名をうけ繼ぎ,一洗ぎす 數千數百年 國史の奇羞を!
















96魯迅―二〇世紀最大の中国人作家
魯迅(1881〜1936)
二〇世紀最大の中国人作家

(1881〜1936) 中国の文学者。浙江省出身。本名は周樹人、字あざなは予才。初め日本に留学して医学を志したが、のち文学に転じた。「狂人日記」「阿 Q 正伝」など数々の小説・詩・散文を発表して社会悪の根源をえぐりだした。中国左翼作家連盟の中心として各派と激しく論争を展開。著作集「吶喊とつかん」「彷徨」「野草」など。ルーシュン。

魯迅は1881年9月に浙江省紹興市で生まれた。本名は周樹人だが、100以上のペンネームや偽名を使い分け、魯迅という名でもっとも知られている。
祖父の周介字は首都北京の高官だったが、1893年に知人の依頼で科挙の試験官に賄賂を贈ったのが発覚して逮捕された。祖父は死刑を宣告され、七年近く投獄されたのち、1900年にようやく釈放された。周家は刑の執行を遅らせるため、毎年秋になると役人に賄賂を贈ったので、その頃には家財のほとんどを失っていた。
魯迅の父は科挙を受けたが、合格したのは第一段階の秀才の資格止まりだった。祖父の逮捕によって父は出世栄達の望みをすべて断たれ、酒とアヘンに溺れたあげく、一八九七年に死亡する。父が体を壊していた数年間、魯迅はしばしば質屋へ使いに出された。自分の背丈より高いカウンター越しに店主と交渉してお金を受けとり、父のために薬を買ったのだった。
1898年の春、一七歳になった魯迅は伝統を重んじる母の反対を押しきって、新しく開校した近代的な学校に入学するために南京に行った。最初は江南水師学童という海軍士官学校で学び、それから江南陸師学童付属の鉄道・鉱山学校に移った。1902年に卒業すると、日本の仙台で学ぶための奨学金を獲得した。
1906年、魯迅の現代的な思想に反して、母は彼に親の決めた相手と結婚させた。妻となったのは魯迅より二歳年上の文盲で纏足をした女性で、向上心も社会改革の意欲ももちあわせなかった。魯迅は結婚式の数日後には妻を置いて東京に戻ったが、生涯母と妻を扶養しつづけた。
魯迅はおよそ7年にわたる日本留学で最初は医学を学んだが、途中から文学に打ちこんだ。ひとりの患者を治療するよりも、多数の精神を改革するほうが世の中の役に立つと感じたからだ。中華民国(孫文を参照)が樹立された1912年の春、魯迅は教育総長の察元培に招かれて南京政府の教育部の役人になった。
まもなく教育部は北京に移転するが、北京はふたりの軍閥の権力争いと、清王朝復活を狙って起こされた二度の事件などで大混乱を口王していた。魯迅は1918年に、新文化運動の担い手としてもっとも影響力があった雑誌『新青年』に記念すべき処女作『狂人日記』を発表した。口語体で書かれたこの小説では、伝統的な中国社会の性質が、人肉食にたとえられている。主人公は自分が知らないうちに人の肉を食べ、いつかは自分も食べられるのではないかという恐怖に追いつめられていく。人々を束縛する中国古来の儒教倫理への鋭い批判がこめられた作品だ。
魯迅はよくロシアの文豪ゴーゴリ(社会風刺的な作風で知られる小説家・劇作家。1809−1852)と比較される。魯迅は現代的な口語体の中国語で短編小説を書きつづけ、さまざまな形式の文学を試した。『薬』という作品では、主人公は夏稔という革命家だが、物語には直接登場しない。夏稔(あきらかに清末期の女性革命家の秋理?伝記讐をモデルにしている)は処刑され、生き血は肺病をわずらった少年の薬として使われる。ここには魯迅の父のために処方された怪しげな薬の記憶が反映しているといえるだろう。魯迅の代表作である小説『阿Q正伝』は、哀れな日雇い農夫の物語だ。主人公の阿Qは自分のみじめな境遇を直視せず、言い訳しながらなんとか自尊心を保っている人物で、中国の現状そのものを象徴している。魯迅にはほかにも秀作がいくつもある。『離婚』と『祝福』はそれぞれ封建主義と迷信のおそろしさを訴えている。『石鹸』は魯迅が好んで標的にした儒教に対する気のきいた風刺だ。『故事新編』は、中国の伝説を題材にした傑作短編集である。
魯迅は有名な短編の大半を北京にいるあいだに執筆した。1919年に魯迅は北京で大きな庭のある大邸宅を購入し、弟の周作人と周傑人とその妻子をいっしょに住まわせた。
魯迅は北京大学と北京女子師範大学で講師をつとめ、エスペラント語の普及に尽力した。北京女子師範大学で起きた学園紛争や、軍閥の段祓瑞の腐敗した政治に抗議するデモでは学生を支持している。政府の逮捕者リストに名前がのったと知った魯迅は、1926年9月に北京を出て庭門大学に赴任する。慶門に招いてくれたのは、ユーモアのある随筆や評論で有名な文学者・言語学者の林語堂であった。このとき北京女子師範大学時代の教え子で一八歳年下の許広平も魯迅とともに北京を脱出している。許広平は広州へ行き、広東女子師範大学の講師となった。
魯迅は1927年1月に広東省に移り、許広平を助手として広州の中山大学で教鞭をとった。1927年9月にふたりは広東省を出て上海に移り、そこで実質的な夫婦として暮らしはじめる(魯迅は妻と離婚していなかったので、止式な結婚はできなかった)。ふたりの生活は、1936年に魯迅が結核で死亡するまで続いた。1929年9月にはひとり息子の海嬰が生まれている。
魯迅は上海で大勢の共産党員の友人ができたが、彼らの多くは国民党政府に弾圧され、殺害された。その体験や、ロシアで何年も前に起きた十月革命は魯迅の心に深い影響をあたえ、魯迅は政治的左派に傾いていった。
1930年に魯迅は左翼作家連盟を共同で創立し、機関誌の編集を手伝った。
魯迅は汚職や女性解放、児童福祉といった問題をとりあげ、社会正義や人間性に対する考え方を表明するために多数の雑文(論敵を攻撃し、論争するための文章)を書いたが、その大半は上海にいたときのものである。また、知識人、文学者、政治家などとおびただしい数の手紙をやりとりしている。魯迅はさまざまな対象を批判の槍玉にあげたが、検閲や国民党による白色テロル(共産党狩り)をとりわけ厳しく攻撃した。また、口語による文章表現を促進し、漢字を廃止して音標文字を採用するといった主張を唱えた。魯迅はみずから「匕首」とも「投げ槍」ともよんだ舌鋒鋭い数々の短文によって、毛沢東から「もっとも偉大で的確な思想家であり革命家、そして文筆家」と絶賛された。しかし台湾では1980年代に戒厳令が解除されるまで、魯迅の作品の出版は禁止されていた。
















98胡適―文学革命のリーダー
胡適  (1891〜1962)

文学革命のリーダー

中国の文学革命運動の一人。『新青年』で白話文学を提唱。20世紀初頭の中国革命期の文学者、哲学者。アメリカに留学して、デューイのプラグマティズム哲学を学ぶ。また、ノルウェーの作家イプセンに傾倒して、帰国後、口語体による文学、いわゆる白話文学の提唱し、文学革命を指導した。雑誌『新青年』はその運動の主な舞台となった。
 しかし、1920年代に入って陳独秀の主催する『新青年』がマルクス主義色を強めると、アメリカに倣った近代化を考えていた胡適はその運動から離れ、五・四運動後は反共産主義の立場を明確にした。1938年には中華民国の駐米大使となり、アメリカの対日政策に影響を与えた。戦後は一時中国に帰ったが、49年にアメリカに亡命、58年以降は台湾で中央研究院院長を務めた。62年に死去した。

胡適は1891年に上海で生まれた。家族は安徽省南部の績渓県出身の茶商人である。父は1865年に科挙の受験資格である秀才の資格を得た。そして1882年に仕官し、中国東北部の北部国境地帯から中国最南端の海南島まで任地を転々とした。最後の赴任地は、1895年に日本に割譲される前の台湾だった。
父が亡くなる少し前に、母はまだ幼かった胡適をつれて台湾から郷里の安徽省に戻った。伝統的な基礎教育を受けた後、胡適は「近代的」教育を受けるため、一九〇四年に兄のいる上海に出た。秋瑾が設立にたずさわった学校もふくめていくつかの学校で学んだあと、義和団の乱の賠償金をもとに設立されたアメリカの奨学金を獲得した。この奨学金制度は、1900年の義和団による外国公使館襲撃(西太后参照)に対して清から支払われた賠償金を基金として設立されたものだ。
1910年8月、胡適はコーネル大学に留学する。中国には近代科学と技術の導入が必要だと感じて農学部を選んだ。しかし日本留学中の魯迅が、中国には医学より精神改革が必要だとある日突然悟ったように、胡適は学びはじめて一年後に哲学と文学に方向転軌する。それが自分のため、そして中国のためだと信じたからだ。彼は大学生徒会にも積極的に参加し、1913年には国際学生会議第八回世界大会への代表者として、ワシントンDCでウッドロー・ウィルソン大統領に面会している。
コーネル大学で学士号を取得し、大学院課程の授業をいくつか受講した後、胡適はコロンビア大学に転学した。胡適はそこで出会ったジョン・デューイの実験主義と 「道具主義」 に強い影響を受け、デューイを生涯の師と仰いだ。胡適は1917年5月にデューイを議長とする試問会で博士論文「古代中国における論理学の発達」を発表した (理由は明らかでないが、博士号は1927年まで正式に授与されなかった)。
胡適は中国に帰国して北京大学教授に就任する。着任前から、すでに胡適の名は『新青年』 に寄稿した一連の記事で知れわたっていた。『新青年』は当時の中国の近代的知識人のあいだでもっとも支持されていた雑誌だ。
とくに1917年1月に発表した 「文学改良審議」は、1000年の伝統がある古典的な文語体に代えて、話し言葉に近い口語体による文学を提唱し、中国の文学革命の端緒を闘いたといわれる。胡適が残した知的功績ははかりしれない。彼は中国文学だけでなく、この国の思考様式をも根本的に変える改革の第一人者であった。文学革命は1919年の五・四運動の主要なテーマとなった。
しかし私生活では、胡適は古い伝統にしぼられたままだった。彼の母が息子の嫁に選んだのは、地元出身で教育程度が低く、纏足をしている古いタイプの女性だった。胡適は何年も拒否しつづけたが、とうとう1917年にこの女性と結婚した。妻の親戚(結婚式で花嫁のつきそいをつとめた)と情熱的な恋愛関係に落ちながらも、胡適はついにこの決められた結婚を破棄することはできなかった。胡適の愛人となった曹誠英はのちにコーネル大学で遺伝学の修士号をとり、文化大革命の渦にまきこまれて死亡した。また、胡適はアメリカ人女性のエディス・クリフォード・ウィリアムズと長いあいだ親しい交友を続けたが、ふたりの関係はプラトニックなものだったようだ。
アメリカのアイビーリーグとよばれる名門大学の二校の学位をもち、北京大学の教授に就任した胡適は、20代にして全国的な名士になった。親しみやすく気さくな胡適は、社会のさまざまな階層の人々と顔を合わせた。北京大学の図書館に司書補として勤めていた毛沢東と交友があり、まだ少年だったラストエンペラー愛新党羅薄儀とも対面している。彼は終生デューイの実験主義を信奉していた。有名な「問題と主義」論争では、明通は中国の多種多様な問題を解決するには急進的イデオロギー(「主義」)に訴えるのではなく、「問題」を研究して現実的な解決法を見出すべきだと主張した。
胡適は寛容性こそが大切だと考え、多数の共産党員や左翼の友人、同僚と友好的な関係を保ち、支援もしたが、反マルクス主義の立場は決してくずさなかった。
民党政府は反共産主義の立場をつらぬく一方で、1920年代と30年代は中国の知的ルネサンス期である。国教育には力を入れた。学校や大学、そして近代的な研究所が次々と設立され、人文科学や中国文学が花開いた。しかし日本の侵略が勢いを増すにつれて、急進的な民族主義が高まり、開通の地位や影響力はおとろえた。
胡適は1938年にアメリカ大使に任命された日本による中国侵略が続くなかで、胡適はアメリカ政府に中国への支持を訴え、世論を味方につけるために努力したが、コロンビア大学の歴史学者はこの胡適の努力が日本を追いつめ、真珠湾攻撃にふみきらせたと批判している。胡適は駐米大使の任期終了後もなかば公的な立場でアメリカにとどまり、1946年に北京大学学長に任命されて中国に帰国した。1948年には全国で選挙が行なわれ、胡適は中華民国国民大会代表に選出された。共産党はこの選挙への参加を拒否している。急進派は胡適を「中国人の体にアメリカ人の頭脳を宿した男」と椰捻した。北京が中国共産党の人民解放軍に降伏する直前の1948年、胡適は蒋介石が手配した飛行機に乗り、北京を脱出した。
それから10年間、胡適は政治的難民としてニューヨークで生活した。1957年に国連大使をつとめた後、1958年にようやく台湾に移住した。子どもの頃に暮らした台湾で、胡適は中央研究院院長に就任する。胡適は台湾の科学教育向上のために尽力するが、1962年2月24日に心臓発作で突然世を去った。財産のすべてを妻とふたりの息子にゆずるという遺言書を残したが、アメリカで教育を受けた次男の胡思杜が父親とたもとを分かって大陸に残った後、共産党政府に「右派」の烙印を押されて1957年に自殺したことは最後まで知らされていなかった。















100ケ小平―毛沢東後の中国を改革した指導者
ケ小平(1904〜1997)

毛沢東後の中国を改革した指導者
ケ小平(1904〜1997) 中国の政治家。長征・抗日戦に参加。1956年政治局常務委員・総書記。文革と76年の天安門事件で二度失脚するが、77年復活。83年国家中央軍事委員会主席。以後、中国の事実上の最高指導者として、開放政策をすすめた。トン=シアオピン。

中国共産党の国家中央軍事委員会主席、国務院常務副総理、そして毛沢東後の経済改革(毛沢東参照)の立役者である郡小平は、1904年に四川省東部の農村で、客家の家系の裕福な地主の家庭に生まれた。成長して小平を名のるが、幼少期は複数の違う名前を使っていた。留学準備のための短い学習期間をへて、1920年の夏に郡小平は働きながら学ぶための留学プログラムに参加してフランスに渡った。
郡小平はフランス滞在中のほとんどをパリ郊外のルノー工場などで働いてすごした。留学後まもなくマルクス主義に魅了され、1922年頃に中国少年共産党にくわわり、その二年後には中国共産党(CCP)ヨーロッパ支部に入った。フランス留学時代の仲間である周恩来とともに、都小平は生涯を革命に捧げる決心をした。共産主義者であるためにフランス警察に尋問されそうになり、1926年1月にモスクワにのがれた。都小平はヨーロッパでの生活をクロワッサンの味とともに終生懐かしんだという。
モスクワ中山大学で学んだのち、郡小平は1926年の終わりに中国に帰国し、中国共産党の活動に参加した。1934年の長征から中国共産党の最終勝利まで、共産党軍の政治委員をつとめている。1947年の終わりに郡小平は劉伯承とともに黄河流域から国民党の本拠地まで大胆な侵攻を行ない、蒋介石を脅かした。
また、都小平は1948年11月から翌年1月までの重要な涯海戦役で前線司令官として共産党軍を指揮し、淮河流域に残った国民党軍を一掃した。
1949年に中華人民共和国が建国された後、都小平は1952年に政務院副総理に任命され、1956年に党中央政治局常務委員に選出される。都小平は、とくに中国共産党がソ連と対立して独自路線をとった際に、毛沢東の政治思想の実現のために忠実につくした。しかし毛沢東の経済政策や社会政策が悲惨な結果をひき起こすと、都小平はしだいに失望を深めた。1960年代の初めに毛沢東の大躍進政策によって深刻な飢饉が発生し、劉少奇が対策を命じられると、郡小平は彼と緊密に協力して農業生産の向上に努めた。郡小平が「白い猫でも黒い猫でもネズミを獲る猫がよい猫である」という有名な発言をしたのはこの時期1962年)で、政治理念より実利を重んじる都小平の功利主義的な面がよく表れている。
劉少奇と同様に、郡小平は1966年にはじまった文化大革命中に迫害された。彼はすべての役職を解任され、北京から離れたトラクター工場で労働させられた。都小平の長男は紅衛兵(文化大革命中に台頭した過激な学生組織)によってビルの上から飛び降りるように強いられたか、あるいはつき落とされて、体が不自由になった。
1973年に郡小平は党の活動に復帰し、ふたたび党中央委員会にくわわった。パリ留学時代の縁で、周恩来が郡小平の復権に尽力したおかげだと一般に考えられている。しかし林彪の死後、中国共産党の古い体制のなかで不安定なナンバー2の座を占めていた周恩来に対して、対抗できる唯一の人物として郡小平がかつぎ出された
という理由も一部にはあるかもしれない。郡小平はすぐに党中央委員会副主席に昇進する。その立場で1974年にニューヨークに飛び、国連会議に出席した。都小平にとって初の渡米である。
周恩来と部小平の大きな違いは、部小平のほうが周恩来よりも一貫した態度で根本的な問題に対処したという点だ。郡小平は毛沢東の文化大革命がもたらした負の遺産を解消するために、短い任期のあいだに数々の政策を実施した。これらの政策によって郡小平は党内の支持を拡大しただけでなく、毛の政治運動や経済政策の失敗に疲れはてた人々から幅広い支持を獲得した。

1976年1月に周恩来が亡くなると、毛沢東はもはや都小平を必要としなくなり、都小平はふたたび粛清される。1976年9月に毛沢東が死去すると、10月には毛沢東の側近に対するクーデターが発生し、都小平の復帰の道が開かれた。1978年に都小平は党の事実上の支配権を手に入れ、抜本的な経済改革に着手した。中国は四半世紀のうちに世界有数の経済大国の仲間入りを果たした。
外交面では、都小平は毛沢東の事実上の親米・反ソ路線をいっそうおしすすめた。1979年に突然アメリカに歴史的訪問を果たすと、両国のあいだに正式な国交を結ぶ。一方中国は東南アジアにおけるソ連の衛星国ベトナムに「懲罰的」侵攻(ベトナムがカンボジアのポル・ポト政権に侵攻したことへの懲罰と称した攻撃)を開始する。ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、アメリカと中国は緊密に協力し、中国西部の国境地帯にアメリカの軍事的聴音哨(敵の動向を音で探知するための部署)を広範囲に設置した。

都小平が残した最大の功績は、市場経済への不可逆的な転換である。それに先立って、郡小平は1992年に中国南部各省への視察中に、広範囲な経済自由化を推奨する講和を発表した。中国の現在の経済体制は、どんな種類の社会主義よりもアメリカの経済体制に近い。部小平にも権威主義的な面がなかったわけではない。
1979年には「民主の壁」運動(北京の掲示板に民主化を求める意見が多数書きこまれ、青年らが民主化を要求した)を弾圧し、1989年には民主化運動を弾圧して天安門事件が起こった。
同じく重要なのは、毛沢東が作り上げた政治的な出身血統主義を郡小平が打破したことだ。毛沢東時代には、個人の能力よりも出自(革命家の家族や貧農・労働者の地位が高く、旧富裕層や右派は差別された)によって就職や昇進など、人生のすべてが左右された。また、共産党内部では、都小平は役職者の任期に制限を設け、指導者が穏健に交代する制度を独力で実現した。どちらも中国にとって歴史的に重要な変化である。
ケ小平は1997年2月19日に世を去った。  





















(4)100人-明から現代中国


明から中華人民共和国まで 1368年〜現代


モンゴル族が建てた元王朝は、あいつぐ農民反乱によって中国の支配権を失い、ついに極貧の農民家族に生まれたカリスマ的な反乱指導者が明を建国し、初代皇帝となった。明は意識して 「漢人」王朝たらんとした。モンゴル族による支配の痕跡をすべてぬぐいさるために、唐の栄光に立ち戻ろうとしたのである。しかし、北方諸民族はあいかわらず脅威でありつづけたし、明もまた、政治に関心をもたない皇帝のもとで徐々に衰退し、政権の腐敗を正すことができないまま、農民反乱によって終焉を迎える。明は漢人の農民反乱によって滅ぼされるが、この反乱は力においてまさる満州族の軍隊に鎮圧された。満州族は一六四四年に北京に侵攻し、最後の帝国、活を建国した。

 明から中華人民共和国まで 1368年〜現代19人

清は建国当初こそ繁栄したが、一九世紀になると、自然災害と農民反乱というおなじみの悪循環におちいり、さらにそこへ砲艦をひきつれた西洋人が侵攻し、混乱に拍車をかけた。活が滅ぶと、中華民国が成立した。しかし、国土はふたたび軍閥によって分割され、中央政府は有名無実になった。国民党と中国共産党が支配権をめぐって争っているあいだに、日本は一九三七年に中国に侵入した。一九四九年、国民党は台湾に逃亡し、北京で中華人民共和国の建国が宣言された。
ID
人   物 記 事 ・ 備 考
69 洪武帝 ―明の太祖
70 鄭和 ―東アフリカまで航海した提督
71 王陽明 ―陽明学の創始者
72 海瑞 ―清廉な官僚
73 李時珍 ―医師・博物学者
74 張居正 ―明の宰相・経済改革者
75 ヌルハチ ―満州族の国家の創始者
76 徐霞客 ―旅行家・地理学者
77 魏忠賢 ―明の宦官
78 馮夢龍 ―人気作家
79 張献忠 ―反乱軍指導者
80 呉三桂 ―清にねがえった将軍
81 顧炎武 ―明の遺臣・学者・社会思想家
82 朱トウ ―烏と魚を描いた風狂画家
83 蒲松齢 ―幽霊譚の作家
84 康照帝 ―清の最盛期を作った皇帝
85 曾静 ―反清的知識人
86 曹雪芹 ―中国最高の小説家
87 乾隆帝 ―清王朝の最盛期を築いた皇帝
88 へシェン ―腐敗した清の官僚
89 林則徐 ―英國のアへン密貿易を禁止した官僚
90 汪端 ―清代の女性詩人
91 僧格林泌 ―モンゴル族最後の猛将
92 洪秀全 ―太平天国の乱の指導者
93 西太后 ―清王朝の最期を彩る女帝
94 秋瑾 ―革命に殉じた女性解放運動のヒロイン
95 孫文 ―理想主義の革命家・中華民国創立者
96 魯迅 ―二〇世紀最大の中国人作家
97 蒋介石 ―国民党の指導者
98 胡適 ―文学革命のリーダー
99 毛沢東 ー共産主義革命家
100 ケ小平 ―毛沢東後の中国を改革した指導者
明から中華人民共和国まで 1368年〜現代




69 洪武帝―明の太祖

 洪武帝  (1328−1398)明の太祖

朱 元璋(1328年10月21日―1398年6月24日)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八といい、後に朱興宗と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞とした。

朱元埠は1328年に長江流域の安徽省で、貧しい小作農の家に生まれた。末っ子で、小さい頃から地主の家畜の世話をして育った。1344年、華北が大洪水にみまわれる一方、華南はかつてないほどの干ばつに襲われた。疫病が蔓延し、一か月のあいだに両親と長兄をたてつづけに伝染病で亡くした。棺を買うことができず、残された兄弟は死者を埋葬するためのわずかな土地を得るために頭を下げるしかなかった。
朱元埠は生きのびるために地元の仏教寺院で少年僧となった。しかし僧ですら飢えているありさまで、朱元埠は二か月後には托鉢に出ることになった。それから三年間ひとりでさまよい歩いた年月は、おそらく彼の生涯でもっともつらい時期だっただろう。しかし、そのおかげで彼は各地の現状を肌で知ることができた。白蓮教に接触したのもこの時期である。白蓮教はマニ教の影響を強く受けた異端の仏教の教団で、弥勘仏による救済を説いて、困窮する民衆から多数の信徒を獲得した。

若い托鉢僧の朱元埠は故郷の寺に戻って四年間そこですごし、そのあいだに教育を受けることができた。その頃白蓮教徒の指導者が率いる農民反乱が拡大し、その混乱のなかで1353年に朱元埠のいた古い寺が焼け落ちてしまった。朱元埠はやむなく地元で挙兵した白蓮教徒の反乱軍にくわわった。彼らは紅色の頭巾を目印にしていたので、紅巾賊や紅巾軍とよばれる。反乱軍は「蛮族」であるモンゴル族が建てた元を倒し、漢人王朝の朱を復興させることをめざした。勇猛果敢で知略にたけた朱元樺はたちまち頭角を現し、彼を見こんだ反乱軍の首領は自分の養女を朱元埠と結婚させた。
この首領が1355年に亡くなった後、宋元埠は長江下流域に勢力範囲を拡大し、1356年に南京を制圧した。元の大軍が華北で反乱の鎮圧にてまどっているあいだに、華南は反乱軍の首領同士が相争う戦場となった。

三宝七年、朱元樺はある儒学者から「城壁を高くし、食料をたくわえ、皇帝になる準備をするように」と助言された。朱元埠を大いに力づけたこの予言的な助言は、それから六世紀後、列強と戦う毛沢東によって引用された。
カリスマ性のある朱元埠は数々の反乱軍の首領のなかでも抜きんでた力をもっていたので、貧民出身の兵士や郷紳出身の戦略家が参集した。朱元樺は戦闘意欲が高く規律正しい軍隊を作ることに成功した。1363年には、もっとも手ごわい敵将のひとりが湖上での戦闘中に流れ矢にあたって戦死するなど、その勝利には運も味方した。
1364年、朱元埠は呉王 (呉は長江デルタ地域の古い地名)を称し、宮廷を開いた。一方、現在の安徽省にはすでに別の紅巾軍の武将が宋王朝の再建を意図して国を建て、国号を末と定めていた。朱元樺は昔の南末の領土に残る民族主義的な激しい反モンゴル感情を利用するために、この「宋皇帝」に従うそぶりを見せた。しかし朱元埠に保護されたこの皇帝は実質的に捕囚の身で、もはや名ばかりの存在だった。
覇権を争う紅巾諸軍の武将たちを倒し、末の塊偏皇帝を抹殺すると、宋元埠はようやく1367年の終わりに北へ遠征隊を送った。華北への遠征には抵抗らしい抵抗もなく、朱元埠は1368年初めに南京で明王朝を開き、皇帝の位についた(中国ではマニ教が明教とよばれたので、明王朝の名は明教に由来している)。一〇月には最後の元の皇帝が大都から退却し、モンゴル族の支配は終わった。
朱元嘩(洪武帝) は新しい王朝の体制を固めるために遇進した。中国史上初の華南発祥の国家となった明は、「蛮族」の文化や事物に対し、それまでのどの王朝よりもはるかに厳しい態度を示した。明が主として民族主義的な反「蛮族」革命によって成立した国家である以上、それはあたりまえといえるかもしれない。

洪武帝は言語、衣服、個人の名前、婚姻の習慣から葬儀の形式にいたるまで、あらゆる「蛮族」的要素を排除しようとした。口語体の中国語を公式の場で使用することはまもなく禁止され、父を亡くした息子が未亡人となった義理の母を妻とする遊牧民的慣習は死罪とされた。多音節の姓や名前は廃止された。仏教伝来以来一般的になっていた火葬の習慣は完全に姿を消した。右丞相を左丞相より上に置くモンゴルの習慣は逆転した。宮廷で官僚が皇帝の両脇に立つ場合、モンゴル族は皇帝の左側より右側のほうが位が高いと考えて好んだが、中国人は右側より左側を好むのである。
かつて支配者や特権階級だった異民族は、この「中国回帰」の矢面に立たされた。明の法律では異民族同上の結婚さえ禁じられたが、この禁令はあまり厳格に施行されなかった。こうした政策と儒教的な反商業主義は元代に増加したイスラム教徒への逆風となり、中国南東部で脱イスラム化が進んだ。明るい面を見れば、土地をもたない農民の帰農を促進し、農業生産性を上げるために税が数年間免除され、貧しい家庭の男子が官僚になる機会を得られるように、無料の学校が国中に作られた。

貧農の出身であることを恥じて、洪武帝は劣等感の裏返しの反エリート主義をつのらせたようだ。皇后の死後、彼は猫疑心の強い独裁者になっていく。士大夫(儒学を学び官僚になった人々)に対する粛清と殺害をくりかえし、かつてともに戦った仲間でさえ容赦しなかった。朱元埠の反乱軍の主力だった軍人たちはほとんど全員無残な死をとげた。
権力を独占するため、洪武帝は一〇〇〇年の歴史をもつ中書省(その長官が宰相となる)を廃止し、宰相に代えて皇帝に言いなりの秘書役として、殿閣大学士を置いた。また、役人や庶民を監視させるため、超法規的な権力をもつ諜報機関や警察を設置した。しかし、洪武帝が勤勉な皇帝であったことは否定できない。彼は日々何百件もの書類や文書を読んでは指示を出し、不正があれば処罰した。洪武帝が創始した明王朝はほぼ三世紀にわたって存続した。















72海瑞―清廉な官僚
海瑞(一五一四−八七)
清廉な官僚
(1514年―1587年))は中国明中期の政治家。時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行い投獄されたがのちに釈放された。清廉潔白な官僚として評価を得ている人物である。
海瑞が生まれた海南島は、ベトナムが中国の支配を脱した後は、中国最南端の領土である。海という姓は、イスラム教徒に多いハイダルという名前の一般的な漢字表記に由来している。ハイダル(アラビア語で「ライオン」)は、ムハンマドのいとこで義理の息子にあたるアリー・イブン・アピー・ターリブ(イスラム教の第四代カリフ)の通称であり、シーア派で人気の名前だ。海氏もイスラム教シーア派の末裔と考えてもおかしくない。
1368年に朱元嘩が明王朝を樹立したのち、中国南東部では脱イスラム化が進んだ。海瑞が生まれた頃には海氏にイスラム教の信仰の形跡はほとんどなくなり、中国古来の儒家の家庭に変わっていた。残念なことに、海瑞がまだ幼い頃に国立学校の給付生だった父が亡くなり、海瑞は残された母と貧しい暮らしに耐えながら育った。厳しい儒教道徳を海瑞に教えこんだのはこの母である。


海日市の廟に描かれた海瑞の肖像

1549年、三五歳という比較的遅い年齢で海瑞は郷試(科挙の地方試験)に合格し、挙人の資格を得た。しかし、翌年北京で受けた会試には落第した。海瑞は会試不合格のまま官吏になろうと決意する。1553年に挙人という低い資格で得た最初の官職は、福建省の国立儒教学校の校長職だった。
1558年、海瑞は漸江省の貧しい山岳地帯の知事に任命された。清廉で妥協を許さない官吏として海瑞の名を最初に知らしめたのがこの場所である。有力な総督がこの地域を通ったとき、その好色な息子を逮捕したのを手はじめとして、絶大な権力をもつぜいたくな監察官が華南の八省を巡視のために訪れたときは、徹底的に倹約したもてなしで迎えた。海瑞のこうしたふるまいは、上の人間にこびへつらうのがあたりまえの中国社会に驚きをあたえた。

1564年、海瑞は首都北京で戸部主事(税務事務官)に任命された。嘉靖帝は明中期から後期までの何代かの皇帝と同様に、日々の政務にはほとんど興味を示さず、20年以上も宮廷で政務をとらなかった。帝国の繁栄には陰りが見え、民衆の税負担が増加し、役人の腐敗が横行した。海瑞は皇帝の怠慢と悪行を諌める書面を提出する決心をした。
皇帝の怒りを予想して、海瑞は年老いた母を友人に託し、使用人を解雇し、自分のために棺桶を買った。激怒した皇帝は海瑞の逮捕を命じたが、どういうわけか処刑の執行令状には署名しなかった。1567年一月に嘉靖帝が崩御すると、海瑞は放免された。海瑞はその高潔さによって国民的英雄になった。

しかし妥協を許さない海瑞の態度を快く思わない同僚の官吏は多かった。江南の豊かな江蘇省で副監察官として勤務していた1571年、海瑞は退職に追いこまれる。1585年に七一歳でよびもどされ、南京で位は高いが名ばかりの名誉職についた。その二年後に海瑞は世を去った。後を託す息子はなく、財産もほとんど残さなかった。海瑞の葬儀費用は寄付をつのって支払うありさまだったが、葬儀には一〇〇万人を超える民衆がつき従い、長江に沿って数百里(およそ一六〇キロメートル)の行列ができたという。

海瑞の名は、皇帝を批判した勇気ある高潔な官吏として四世紀後によみがえる。1961年、明史の代表的な研究者で北京市副市長でもある呉恰(1909−1969)は、『海瑞罷官』と題する戯曲を出版した。1965年11月、毛沢東の妻江青の同志だった挑文元(四人組のひとり)は、呉晴の戯曲を激しく批判する評論を発表した。中国をその後一〇年間にわたって大混乱におとしいれる文化大革命のはじまりである。この戯曲は、三〇〇〇万人を超える農民の餓死者を出した大躍進政策(1958−1961にかけて施行された農工業の大増産政策)の爪痕がまだ生々しい時期に発表された。そのため、挑文元が示唆したように、その災厄の原因を作った現代の「皇帝」(毛沢東)に対する批判と受けとられたのである。海瑞は明の皇帝に命を救われたが、呉略は忠実な共産党員だったにもかかわらず、文化大革命の最中に迫害されて獄死し、妻と十代の養女も命を落とした。


















74張居正―明の宰相・経済改革者

張居正(1525一1582)明の宰相・経済改革者

張屠正は1525年生まれで、中国史上もっとも成功した宰相のひとりだ。正式な官名は内閣大学士という。
政治権力の集中と独占をはかる洪武帝は、千年の歴史がある宰相職を1380年に廃止した。その後、皇帝の補佐役として複数の大学士が起用されるようになり、彼らはまもなく内閣大学士と称されて、事実上の内閣となった。内閣大学士は大体二名から六名で、過去の王朝の宰相の役割を担うようになった。張屠止は身分の低い家の出身だが、神童のほまれ高かった。15歳で科挙の地方試験に、22歳で首都の試験に合格し、翰林院庶吉士(進士のうちとくに優秀な者に知識を学ばせるための短期の職)という名誉ある職を得て官僚となった。このポストについた者は将来の宰相のよび声が高かった。張屠正は着実に出世し、彼が教育係をつとめていた皇太子が1566年に隆慶帝として即位すると、すぐに大学士のなかで上位から二番目の「次輔」に任命される。

1572年に隆慶帝が崩御すると、有力な任官との結びつきを利用して「首輔」(首席大学土)の地位を獲得し、10年後に亡くなるまで内閣の長として実権をふるいつづけた。張居正は、わずか九歳の万暦帝の指導者および補佐役となり、数々の改革を実施して、二世紀の歴史をもつ衰退した明帝国の活性化をはかった。そのひとつが厳格な成果主義にもとづく官吏と官僚的政治の見なおしであり、もうひとつは検地である。張居正が全国的な耕地調査を実施すると、有力な地主が広大な土地を隠匿して税金のがれをしていたことが発覚した。第三の経済改革は、新たな税制(有名な一条鞭法)の施行による国税の整備で、篠役(労働)を土地税に転換して徴収するようになった。同時に、張居正は政府の歳出を抑え、むだを排した。これらの政治改革によって明の財政は大幅
に改善され、彼が亡くなったときは国庫に余剰金があふれていたという。
張居正は実力のある将軍を昇進させて軍備の強化をはかり、モンゴルの君主アルタン・ハーンと和議を結んだ。
1578年、ゲールグ派ラマ教(チベット仏教)の実質的な創始者で、はじめてダライ・ラマの称号を用いたソナム・ギヤムツォ(名目上はダライ・ラマ三世とよばれる) は、甘州(現在の甘粛省内) にある明の城塞都市を訪れて張屠正に手紙と贈り物を送った。ダライ・ラマ、ひいてはモンゴルとの良好な関係がもつ政治的重要性を十分認識していた張屠正は、ダライエフマに名誉ある称号を授け、仏教寺院の建造を援助する約束をした。
張屠正の絶大な権力は、当然ながら多くの敵も生んだ。張居正の父が1577年に亡くなったとき、政敵にとって長いあいだ待ち望んだ反撃のチャンスが訪れる。親が亡くなった場合は官職を辞して3年間(実際には27か月)喪に服すのが決まりだったが、張屠正は幼い万暦帝が「子としての情をすてよ」とくりかえし命じたという理由で、職務を離れなかった。これが儒教倫理を臆面もなく軽視した行為だと批判され、張居正を糾弾する文書があいついで出された。張居正は権力を失う危機をなんとかのりきったが、面目はつぶれ、政治的な支持をかなり失った。
未熟な皇帝の実質的な摂政をつとめていた張居正が1582年に亡くなると、成人を間近にひかえた皇帝はみずから政治を行なうようになった。その二年後、張居正は死後に政敵からさまざまな罪で告発され、皇帝もその告発を認めた。張屠正の遺族は重い代償をはらわされた。家財はほとんどすべて没収され、長男はそれ以上の処罰をおそれて自殺した。張屠正の改革は大半がくつがえされ、明はまっしぐらに衰退に向かうのである。
















76徐霞客―旅行家・地理学者
徐霞客(1587―1641)

旅行家・地理学者
この非凡な旅行家は本名を徐弘祖という。霞雪は友人がつけたあだ名で、広大な中国を生涯かけてほぼ休みなく旅してまわったこの人物にふさわしい名前といえるだろう。
徐霞客は1587年に江蘇省の江陰に生まれた。江陰という地名は「長江南岸」を意味し、上海からほど遠からぬ場所にある。当時、長江下流域のデルタ地帯は、経済・文化ともに明でもっとも進んだ地域だった。
徐霞客がこれほど長期の旅に出ることができたのは、いくつかの幸運が重なったためだ。まず実家が裕福な地主で、利益の多い織物業に進出し、数軒の織布工場を経営していた。次に、この家族はきわめて教養豊かだったが、多くの知識人がたどる官僚の道を選ばず、徐霞客も父も科挙を受けるつもりがなかった。(明代中期に徐家の祖先が科挙のカンニング事件で逮捕され、死亡したためである)。なにより重要なのは、母の王濡人の強い励ましがあったことだ。『論語』には「父母が健在なうちは旅に出てはならない」という古代の賢人の言葉がはっきりと書かれているが、徐霞客の母はこの儒教的な孝行の義務から解放してくれたのだ。
1504年に父が亡くなると、その3年後に徐霞客は広大な明のさまざまな地方への旅行を開始した。かぶっていた「遠距離旅行帽」は母の手作りである。まず近隣の省からはじめ、続いてどんどん遠くへ足を延ばした。
母のぶじを確かめるために一時的に家に戻ると、またすぐに旅立っていった。徐霞客の興味の的は都市や町ではなく、大河や高山などの自然の驚異だった。旅にはひとりの召使が同行した。
徐霞客は30年以上かけて、ほとんど徒歩で明のほぼすべての省を踏破した。もっとも好んだのは、同時代の人間がめったに訪れない僻地への旅だ。前近代の中国では、そうした場所に個人で行くのは非常に危険だった。
盗賊やごろつきに襲われる危険はもちろん、原始的な道具で深い渓谷や急峻な峰を越えなければならない。足を滑らせたり、ふみだす方向を一歩まちがえたりすれば、いつ命を落としても不思議はなかったと徐霞客は回想している。
荒野ではほとんどなにも食べずに何日も歩かねばならず、料理された食事をとれずに一週間歩きつづけることなどしょっちゅうだった。夜はどこででも眠った。豚小屋のこともあれば、星の下で横になることもあった。迫刺に襲われることにも慣れて、そういうときは友人を頼ったり、仏教寺院にかけこんだりして助けを求めた。彼の業績が後世に伝わったのは、毎日かならず日記をつける習慣があったからだ。


17世紀の中国の地図

どんなに人里離れた森のなかにいても、たき火の明かりを頼りにその日の行程と見聞を記録した。彼の日記は客観的で詳細かつ正確である。古代中国の科学を専門に研究する二〇世紀のイギリス人ジョーゼフ・ニーダムは、彼の日記を許して、一七世紀初期の旅行者の手記というより、現地調査におもむいた現代の研究者の記録のようだと賞賛している。
徐霞客は旅行中に地理学や博物学上の発見をいくつもしている。たとえばメコン川とサルウィン川は別々の川であることを発見した。また、カルスト地形の地質学的な構造を世界ではじめて体系的に観察したのも彼である。
訪れた地方の気候、鉱物、植物、動物の詳細な記録がもつ科学的価値は大きい。
1625五年に最愛の母を亡くした後、徐霞客は一段と遠くまで長期間旅をするようになった。1628八年には中国最南端の広東省まで旅し、翌年は北に向かって北京を訪れている。1636年にはもっとも長い、そして最後となる旅行に出かけ、多民族が居住する雲南省南西部と現ミャンマーとの国境まで旅した。チベットや西域(現在の新涯ウイグル自治区) も訪れるつもりでいた。長いあいだ徐霞客に仕えた召使は、この野心的な計画におそれをなし、とうとう主人のもとを去った。徐霞客は雲南で病に倒れ、友人の手を借りて帰郷した。彼を手助けしたのは徐霞客が現地で作った友人で、漢人もいれば、ほかの民族もいた。徐霞客は1641年3月8目に亡くなった。
それから三年後、徐霞客の故郷は満州軍の侵略に激しく抵抗した。彼の多くの友人や長男が戦死し、徐霞客の未編集の旅日記はばらばらになった。散逸した貴重な旅の記録の大半がもとどおりに集められ、出版されて後世に残ったのは、徐霞客の残された息子の辛抱強い努力のおかげである。

















78馮夢龍―人気作家
馮夢龍 (1574―1646年)
人気作家

馮 夢竜(ふう むりゅう、ふうぼうりょう、1574- 1646年)は、中国明末期の小説家、著作家、陽明学者である。字を猶竜(ゆうりゅう)、号は墨?斎(ぼくかんさい)といい、また竜子猶(りゅうしゆう)とも号した。弟である画家の夢桂(むけい)、大学生の夢熊(むゆう)と共に「呉下三馮」と呼ばれた。

馮夢龍 (1574―1646年)

礪夢龍は蘇州の生まれで、多作な人気作家である。蘇州は長江下流域の繁栄した都市で、高い文化的な生活が営まれていた。鳩夢龍の家庭は豊かで知的だった。鳩夢龍と、画家である見、そして詩人の弟は、文人のあいだで 「呉下三鳩」(呉は現在の蘇州)として名をはせていた。
鳩夢龍は科挙に失敗し、第一段階の試験に合格すれば得られる秀才の資格ももっていなかった。にもかかわらず彼が執筆した科挙の受験参考書はよく売れた。鳩夢龍は大衆的な口語文学の発展に人生のほとんどをささげ、知的エネルギーの大半をそそぎこんだ。彼は「中国大衆文学の権化」と称されている。
大衆的なじ語文学にはじめて知識人が目を向けたのは前王朝の元のときだ。元では儒学を学んだ知識人の地位は娼婦と乞食のあいだに置かれるほど低かった (伝記62関漢卿参照)。そのため官僚として出世が望めない知識人の熱意は大衆文学に向かったのである。明代には長江下流域の経済的発展により、文字を読める人々が増加(かなり多くの女流作家や女流詩人が出現したことからも明らかだ) し、都市生活がいっそう豊かになって、口語文学はますます発展した。
鳩夢龍が大衆に受け入れられる作品を書けたのは、大衆文学の生まれる環境に実際に身を置いていたせいでもある。大人になったばかりの頃、鳩夢龍は美しく教養の高い候慧卿という妓女に思いをよせた。ふたりは文学を話題にし、ときには議論を闘わせながらロマンスをはぐくんだが、この関係は候慧卿が別の男性と結婚したために終わりを告げた。この失恋の痛手にこりて、鳩夢龍は二度と「赤線地帯」 に足をふみいれなかったといわれている。しかし、善良で一途な妓女が登場する感動的な物語は、悲劇もあればハッピーエンドもあるが、鳩夢龍の作品の大きな部分を占めている。
鳩夢龍の作品は、大衆文学のほとんどあらゆるジャンルにわたっている。科挙の受験参考書も書けば、短編集、歴史小説、民謡集、逸話集、歌曲、歌劇、笑話集、そして人気のあったカードゲームの規則集なども書いたり編纂したりした。鳩夢龍の代表作とされるのは、なんといっても大評判となった三冊の短編集である。当時流布していた通俗小説のなかからおよそ120編を選んでおさめた短編選集で、まとめて「三言」とよばれる。ここに
収録された小説の大部分は末や元の時代に生まれたものだが、鵜夢龍はそれらに大幅に手をくわえて話をふくら ませている。なかには創作小説もあり、そのなかのすくなくともひとつは明の当時の政治問題に憩を得たものだ。
鵜夢龍の読者は主として都市で暮らす庶民で、彼の著作の多くは飛ぶように売れた。大衆の要望にこたえるように、その作品はしばしば煽情的で、性描写も多くふくまれている。あまりの人気ぶりに、鳩夢龍は若者を堕落させるという批判も多かった。
彼の短編小説や歴史小説は、仏教的な因果応報の思想にもとづいた報復の物語を中心にして、道徳的教訓を説いている。しかし地元に伝わる民謡を集めた民謡集はほとんど恋歌ばかりで、それらは儒教や新儒学の道徳とは
まるで無縁だ。

とかした髪は漆塗りのお椀のように艶めいて、
娘は人前できれいな足を見せて男をたぶらかす。
昔は男が娘を誘ったもんだが、
今じゃあ男を誘惑するのは娘のほうだ。
許されない恋だからって、そんなに‥心配しないで。
見つかったら、みんなあたしが悪いのって言うわ。
判事さんの前で、ひざまずいて告白するわ。
顔を上げて、はっきりとね。誘惑したのはあたし、女のほうよ。
あたしがあなたを誘ったの。
もっと色っぽい詞もある。
男‥心をそそる、若い娘の白い胸。
恋人にその胸をなでさせてやりなよ。それだけでいいのなら。
馬が石橋を走ったって、蹄の跡なんか残りゃしない。
短剣が水を切ったって、傷のひとつもできゃしない。

1630年、56歳になった鳩夢龍はようやく科挙の第一段階の試験に合格し、一六三四年に都から遠く離れた福建省の知事に任命された。任地での業績として、女の子が生まれると間引きする風習をやめさせようとしたことが伝えられている。
鵜夢龍が故郷の蘇州に戻ってまもなく農民反乱が起こり、満州族が明を倒した。短命に終わったとはいえ、清に抵抗して南明が建国されると、鳩夢龍は南明の宮廷にくわわった。彼の大衆小説は決して儒教的な内容ではなかったが、礪夢龍自身は儒者であり、民族主義者だったのだ。清が正式に建国を宣言してから二年後の1646年、鳩夢龍は明の忠実な臣下として傷心のまま亡くなった (おそらく殺害されたものと思われる)。
             














80呉三桂―清にねがえった将軍
―清にねがえった将軍呉三桂 (1612−1678)

呉三桂 (1612−1678)清にねがえった将軍
呉 三桂は、明末清初の軍人、周の初代皇帝。遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。


呉 三桂  清にねがえった将軍

呉三桂は1612二年に遼東で明の軍人の家に生まれた。父は1631年に地方司令官の地位にあり、2年後には副長官に任命されている。
具三桂の死後の評判がかんばしくないのは、彼が満州族の中国侵略に手をかし、かつての明の君主を裏切ったからだ。しかもその理由は、愛妾をライバルの武将、李白成の部下に奪われたせいだという。激怒した呉三桂の姿は、「冠を衝く一怒は紅顔のためなり」(怒髪天を衝くほどの怒りは美女のためであるという意味)と言いはやされた。具三桂が怒りにまかせて清にねがえった結果、中国はとうとう満州族に征服されたのである。

呉三桂の父が遼東で軍務についたのは、満州族がヌルハチとその息子のもとで急激に勢力を拡大した時期である。満州族は明が東北地方南部にかまえる軍事拠点を突破するために、集中的な攻撃をしかけた。明はその頃、干ばつをきっかけに激化した国内の農民反乱の鎮圧に精いっぱいだった。1630年、父が数千人の満州兵に包囲されると、呉三桂はおよそ20名の呉家の護衛とともに救援にかけつけた。1638年、具三桂は最年少で東北地方の最高司令官に就任する。1641年に呉三桂は大敗を喫して不名誉な撤退を強いられたが、明への忠誠心は失わなかった。

1643年、宮廷で皇帝に拝謁するために北京に滞在中、呉三桂は華南出身の陣門円という美しい妓女を見初めた。彼はこの妓女の所有者に大金を払ってゆずり受け、自分の愛妾にした。翌年、最後の明の皇帝が具三桂を北京に招き、首都に迫る李白成率いる農民軍から北京を防衛するように命じた。しかし呉三桂の軍が到着するより先に、農民軍は4月24日に北京を制圧、最後の明帝は王宮の北側にある煤山に昇り、古樹で首をつって自殺した。

はじめのうち、呉三瞳は新たに支配者となった李白成に投降するつもりだった。しかし反乱軍の首領たちは金銭を奪うために多数の明の官僚を拷問した。引退して北京にいた具三桂の父も同じ目にあわされ、さらに李白成の副官のひとりが具三桂の愛妾を奪ったのである。この屈辱は耐えきれるものではなかった。「女ひとり守れなくて、どうして国を守れよう」と呉三桂は嘆き、満州族に和議を願い出た。活の太宗ホンタイジの急逝後、摂政王となったドルゴン(活の六歳の幼帝を補佐した)は、いまこそ中国全土を攻略する好機と見て軍を万里の長城の最東端に向けた。それはこれまで満州族が破ろうとしても破れなかった山海関とよばれる明の軍事要塞で、呉三桂の軍が守りぬいていた。

1644年の初め、呉三桂とドルゴンの連合軍はすみやかに李日成の農民軍を打ち破った。以後、呉三桂は清が中国全土の征服を進めるあいだ、30年近く清の軍人として働いた。ついでに愛妾の陳円円との再会も果たしたということだ。

呉三桂は中国西部と南西部の平定のために遠征し、ビルマにのがれていた南明最後の皇帝(永暦帝)を捕らえて処刑した。呉三桂はこの武功によって親王の爵位をあたえられ、南西の雲南と貴州の二省の藩王に任じられ、この地の軍事・行政権をにぎった。呉三桂の息子は満州族の皇女と結婚した。
呉三桂の勢力は清にとって無視できないほど大きくなった。ついに1673年、清の康黙帝は中国南西部の呉三桂と、同じく活の中国征服に協力した明のふたりの武将にあたえた三藩の廃止を決意する。呉三桂はそれまでたくわえた財力と軍事力を背景に、今度は明の再興を掲げて挙兵した。そして国号を周と定め、「天下都招討兵馬大元帥」と称した。

呉三桂の軍は勝利を重ね、たちまち長江に迫ったが、活軍の勢いがしだいに上まわりはじめた。呉三桂は1678年3月に周の皇帝となるが、半年たらずのうちに病死した。南部の支配権をとりもどしたい康欧州帝の断固とした決意を見誤ったこと、そして明を裏切った過去のせいで漢人知識人の支持を得られなかったことが災いして、呉三桂の支配体制はもろくもくずれた。呉氏は清によって根絶やしにされた。陳円円の運命はいまもわからないままだ。


















82朱トウ―烏と魚を描いた風狂画家
朱トウ(1626年頃−1705年頃)

鳥と魚を描いた風狂画家

八大山人(はちだいさんじん、B?d? Sh?nr?n(1626年? - 1705年?)、本名:朱統??(しゅ とうかん)、幼名または通称は朱トウ(しゅ とう、Zhu Da)(?は明時代に驢馬の意味で使われた)。明代末期から清代初期の画家、書家、詩人。石濤(朱若極)は遠縁の親族に当たる。僧号は、傳綮、刃菴、雪个、また个山。款には「驢」「八大山人」なども使っている。

朱トウは八大山人という号でも知られ、中国を代表する「風狂」画家のひとりである。卵を抱く鳥や臼をむく魚などの絵がよく知られている。江西省南昌に生まれた末寺は、明王朝の太祖洪武帝の16番目の息子の子孫である。科挙の受験準備をしていた1645年、清が南呂を制圧した。明の皇族の末裔ということは知れわたっていたので、朱奇は侵入する活軍を避けて山岳地帯の仏教寺院に逃げこまなければならなかった。寺院にこもるのは身を隠して命を守るためだったが、憎い満州族に抵抗する手段でもあった。清は後頭部以外の髪を剃り、残した髪を長く伸ばして編む癖髪という髪形を漢人にも強制したが、僧侶になって頭をまるめれば新髪をせずにすむからだ。1680年、なんらかの悩みに耐えかねたか、おそらく禁欲生活をすてて結婚したいと思ったか、末寺は僧服を焼きすてた。世俗の生活を送り、息子が生まれたが、その後は道教寺院に入って、そこで一生を送った。道教を信奉する道士は明代と同じく髪を伸ばして頭頂部に髭を結うので、朱?はふたたび癖髪をしないことで、清への抵抗を示したのである。
朱トウは明の皇族の血筋だったために、社会の片すみで身を隠して生きるしかなく、ただ生きるために書画を作った。彼は自分の書は王義之やその息子の王献之(344−386)、顔真卿(709―785)や蘇軾に学んだと言ったが、その書風は自由奔放で独特であり、あえて穂先のすり切れた筆を使って仕上げられたものが多い。

末寺の画はたいてい鳥や動物、あるいは魚を描いた水墨画で、筆と墨の大胆な使い方を特徴とし、平明さにおいては群を抜いている。描線の簡潔さは驚くほど近代的で、禅の思想を思わせ、二〇世紀のミニマリズムの萌芽さえ見える。彼の描く鳥の羽はたいてい逆立ち、苦痛を秘めたまなざしはおそれや怒りを表現している。枯れ枝にとまる鳥の下にはしばしばただよう魚が描かれ、見上げる魚の目は、鳥か、姿の見えない釣り人からあたえられる苦難や危害をおそれているように見える。宋音の水墨画は日本で非常に高く評価された。牧硲(一二〇〇−七〇頃)など、日本で愛好者の多い独創的なミニマリストの画家と通じるものがあるのだろう。中国では活が末期に向かうにつれて宋奇の人気は高まった。活王朝が衰退し、民族主義的熱狂が盛り上がるなかで、満州族に抵抗した彼の生き方が見なおされたのだろう。












84康照帝―清の最盛期を作った皇帝
康煕帝(1654−1722) 清の最盛期を作った皇帝
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄Y(げんよう、Yは火偏に華)。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。

 
 康煕帝(1654−1722) 清の最盛期を作った皇帝

康熙帝は名前を玄煙といい、即位して康興と改元したので康熙帝とよばれる。1654年に清の三代皇帝である順治帝の三男として生まれた。順治帝は清ではじめて北京に宮廷を開いた皇帝である。康黙帝の母はかなり前に漢化した家族の出身で、中国初のキリスト教改宗者である。父である順治帝が1661年に天然痘で急逝すると、康熙帝の祖母にあたる孝荘文皇后が、すでに天然痘にかかったことのある康配…帝を後継者に推した。孝荘文皇后にはドイツ人のイエズス会士で欽天監監正(天文台長)のアダム・シャールがうしろだてについていた。

1663年に母が亡くなった後は、玄煙はおもにモンゴル族の祖母に養育された。即位したとき、康熙帝はまだ幼かったので、満州族の貴族オポイを筆頭に、四人の摂政による集団統治が行なわれた。1667年からはオポイが専権をふるうようになった。
二年後の1669年、祖母の協力のもと、若い皇帝はオポイを投獄し、権勢を誇ったオポイ一族を滅ぼした。

1673年、康熙帝は有力な廷臣の反対を押しきって華南にある半独立王国化した三藩の廃止を決定し、呉三桂の反乱に立ち向かった。1681年にこの内乱を平定すると、康熙帝は明の遺臣の最後の砦となった台湾の征服を命じた。
一方、康熙帝は漢人のあいだに根強く残る反満州感情の緩和に力を入れた。とくに反感が強かった華南では、華南出身の人材を登用したり、科挙では華北より華南の受験生を優遇し、皇帝みずから科挙に臨席したりした。康熙帝は西洋人や西洋科学に対してきわめて好意的で、自分がマラリアにかかったときは、イエズス会士にキニーネを使って(何人もの廷臣で人体実験をさせてから)治療させた。また、天体現象を計算で予測する西洋の天文学の優秀さに感心し、宮廷にいるイエズス会士から幾何学や三角法などの西洋の数学を学んだ。さらに西洋の楽器や絵画にも興味を示し、専門知識をもつイエズス会士の協力によって、世界地図と中国の地図の作成を命じた。康熙帝は書をたしなみ、さまざまな文学作品を出版した。皇帝みずから作った稲作と養蚕の詩によせて、数多くの宮廷画家のひとりである焦乗頁が措いた「耕織図」はよく知られている。康熙帝の命令で編纂された書物に、唐代の詩の全集である『全唐詩』や語彙を韻ごとに分類した辞書、そして『康配刷字典』1710年に着手、1716年に出版)などがあり、この皇帝の古典中国語への関心を物語っている。『康熙州字典』は現在も古典学者の基本的な参考書として利用されている。

ロシアはシベリアに勢力を拡大し、満州族の故郷である黒竜江(アムール川)一帯に進出した。東北部に侵入したロシア軍をなんとか追いはらったのち、1689年に康熙州帝はイエズス会士をふくむ使者を派遣して、ロシアと和平条約(ネルテンスク条約)を結んだ。
その頃、モンゴル高原西部でオイラト族が勢力を拡大し、清とのあいだにモンゴル高原の支配権をめぐる争いが生じていたため、清はロシアとの和議を急ぐ必要があった。オイラト族はもともと現在の新彊ウイグル自治区を流れるイリ川流域にいた部族である。康熙帝は1696年にみずから軍を率いてオイラト族を敗走させ、外モンゴルのハルハ部に清への忠誠と服従を誓わせた。また1720年にはチベットも正式に併合した。
康熙帝は中国の領土を拡大しただけでなく、国民生活にも多大な影響をあたえた。各地の天候と穀物価格を報告させ、南へ六回も巡幸して華南の知識階級を懐柔するとともに、華南に残る大規模な貯水工事の跡やその設備をしげしげと観察した。1721年には人口が急激に増加しているにもかかわらず、全国の人頭税を廃止した。
長い治世のあいだ、康熙州帝はつねに上奏書に自分で目をとおし、メモをとり、思いついたことを書きこんだ。右手をけがしているときは、左手で書いたという。

漢人と満州族の相続の習慣の違いは、後継者問題をひき起こした。漢人の原則にしたがって、康熙帝は1626年に、皇后が生んだ長男(康熙帝の二〇人の息子のうちの二番目)がまだ幼いうちに皇太子に指名した。
しかし後継者を親族間で競いあって決定する満州族の伝統により、康熙帝の一五人の年かさの息子たちのあいだで後継者争いが起こった。決められていた皇太子は廃太子となり、ふたたび皇太子として復活し、また廃太子とされた。結局、康熙帝の四男が1722年に帝位を継ぎ、薙正帝として即位した。その直後から康熙州帝の死と後継者争いをめぐる疑惑が浮上した。父親殺しの疑いもふくめて、今日まで真相は明らかになっていない。









86曹雪芹―中国最高の小説家
曹 雪芹は清朝・乾隆時代の中国の作家。生まれは江寧、現在の南京市。名は霑、雪芹は字。清朝の八旗軍に属する旗人の家柄で、北宋の名将曹彬の子孫と称する。中国を代表する古典小説『紅楼夢』の作者とされる。『紅楼夢』の出版を援助し評論を付した脂硯斎は雪芹の一族という説が有力である。
 
曹雪芹(1715―1763頃)  中国最高の小説家

曹雪芹は昔から中国最高の小説家として知られ、その文学的価値はシェークスピアやホメロスにも匹敵するとうたわれてきた。過去100年のあいだにこの作家について徹底した研究がなされたが、これほど有名でわずか二世紀半前に亡くなったばかりの人物であるにもかかわらず、周到な調査をしても、その生涯は謎に包まれたままだ。誕生した年や父親の素性、本人の職業、そして北京郊外のどこで晩年をすごしたのかさえ、まったく知られていない。
曹氏はもともと中国東北部に居住する明の臣下だった。満州族は曹氏を捕虜にし、活の皇族の世襲の奴隷にした。したがって曹氏は漢人ではあるけれども、法的にも文化的にも、満州族で構成された「八旗制」の一員であった。「八旗制」には、それぞれ満州族とモンゴル族の八旗満州や八旗蒙古があり、これらのなかではたとえば漢人の習俗である女性の纏足は行なわれない。若くして帝位についた康煕帝の乳母を曹雪芹の曾祖母がつとめていたことから、曹氏は政治的に優遇された。この曾祖母の夫にはじまって、曹氏は三代およそ60年間、華南の大都市南京で利益の多い織造局(宮廷で使用する織物を生産する機関)の長官の地位につき、その他のポストも兼任した。
活の皇帝一族は、中国史上もっとも高い教育を受けた皇族である。教育を重視 する皇族の方針はやがて支配層全体に広がった。こうして、人口比では少数派の「旗人」(八旗に所属する人。活の人口は満州族に対し漢人が圧倒的多数だった)のあいだに、満州族、モンゴル族、漢人にかかわらず、多数のすぐれた文学者が現れた。曹雪芹の祖父の瞥寅(1658−1712)もそのひとりだ。傑出した詩人、書籍収集家、出版者として知られ、儒教道徳にあまりしぼられない観点から演劇の批評も行なった。

康煕帝は華南に六回巡幸し、曹一家はそのうち四回南京で皇帝の接待役をつとめた。
皇帝の曹家に対する寵愛ぶりがここにも表れている。気前のいい康配…帝は曹家にたっぷりとほうびをあたえ、曹寅の長女が満州族の爵位をもつ家に嫁ぐためのうしろだてとなり、この娘の生んだ息子はその爵位を受け継いだ。曹一族はぜいたくで豊かな生活を送った。そんななか、1715年頃に曹雪芹は生まれた。本名を雷という。
恵まれた時代は1722年に終わりを告げた。この年、康熙帝が没して薙正帝が帝位を継ぐことになるのだが、後継者が決定するまでに激しい争いがあり、曹家は敗者の側についてしまったのだ。数十年間のぜいたくな暮らしと康黙帝へのたびたびの接待がたたって、曹家は政府に莫大な借金があった。曹家はたちまち宮廷内で失墜し、長いあいだ占めていた織造局長官の地位とその他のポストをすべて失った。1728年に宮廷はついに曹家の全財産の没収を命じた。家族は困窮し、全員で南京を出て北京に移り住んだ。1735年に乾隆帝(伝記撃が即位すると、失脚した官僚が借金を払えない場合は返済を免除するという恩赦が発表されたが、曹家がかつての栄光と富をとりもどすことは二度となかった。
曹雪芹は早々と官僚になる夢をすてた。昔から仕官は貧困から這い上がる唯一の方法だったが、彼は儒教道徳にしぼられない酉晋時代の自然な生き方にあこがれた。八旗制の構成員は旗人とよばれ、政府の基本的な配給を受けとる資格があったが、曹雪芹はときには食べ物にもこと欠く苦しい生活をした。彼は家族が住む都会の家を出て北京西郊の田舎の村に移り、水墨画を売って暮らしをたてたようだ。
1750年代のなかば、曹雪芹は彼の名を不朽のものにする小説を書きはじめた。最終的に『紅楼夢』と題されたこの作品は、有力な資産家一家がしだいに没落し、最後に破滅するまでを描いている。自伝的内容だと一般に考えられており、過去100年の曹家の栄枯盛衰が映し出されている。同性愛や近親相姦、そして官吏の腐敗まで、当時の貴族の生活を生き生きと描いているのが特徴だ。数十人の主要登場人物のなかには、下女もいれば一家の家長の女性もいる。それぞれの描写が個性と生気にあふれているので、実在のモデルがいるにちがいないと考えられていた。
この小説はいくつもの脇筋が並行して進んでいくが、中心となるストーリーでは、若き日の曹雪芹と思われる主人公の票宝玉と、そのいとこで病身の美女の林黛玉との悲恋が無邪気な子ども時代から語られていく。涙を誘うこの物語は何世紀にもわたって数百万人の読者に愛されつづけ、登場するふたりの恋人たちの名前はあまねく知れわたった。曹雪芹は古典的な詩にも才能を見せたが、この小説は主として当時の北京方言にもとづく口語体の中国語で書かれている。
『紅楼夢』の魅力は、未完成のもどかしさによっていっそう高められている。著者は最初の八〇回を書いたところで亡くなってしまい、物語は一家が没落しはじめる直前で終わっている。物語を完結させるさまざまな試みがなされたが、旗人の高顎(1738頃−1815頃)が最後の40回分を書きくわえて完結させた120回本がもっとも普及している。高顎によって追加された部分が曹雪芹の考えた筋書きと同じかどうかはだれにもわからない。曹雪芹は物語を完結させていたのかもしれないが、後半部分の原稿がのちに失われてしまったという可能性も考えられる。
曹雪芹は中国暦の大晦日(1763年2月12日)に亡くなったと伝えられている。その数か月前に幼い息子を亡くし、貧困のうちに世を去った。













88へシェン―腐敗した清の官僚
へシェン(1750−1799九九)
腐敗した清の官僚


ヘシュンは一七五〇年に生まれた。満州族ニオフル氏の出身で、清の統治制度である八旗制では正紅旗に所属していた。眉目秀麗な才人で、満州族の貴族の子弟が学ぶ宮廷学校でみっちり教育を受け、有力な満州族の貴族で法務大臣をつとめる人物の孫と結婚した。
ヘシュンは一七七二年に下級の衛士としてはじめて仕官した。あるとき、乾隆帝(伝記8 3)が上奏文を検討しながら『論語』の一説を引用した。居あわせたほかの満州族の衛士はだれも皇帝の言葉の意味がわからなかったが、ヘシュンは同じ『論語』のなかから適切な言葉を引用して返答することができた。皇帝はこの下級官僚が示した博識に大いに喜び、これをきっかけにヘシュンは官僚の世界で出世の階段をかけ上がっていくのである。
ヘシュンは四年たらずで財務副大臣、軍機大臣(皇帝の補佐として政治の中枢を担う)、内務府大臣(皇帝の生活と事務を管理)、領侍衛内大臣(首都北京の防衛を統括)などの要職を兼任するようになった。一七八〇年に乾隆帝は末娘とへシュンの息子を婚約させている。一七八二年、ヘシュンは活の正式な宰相職と人事担当大臣に昇り、人事、財務、朝貢を統括する部の長官もかねた。以後、へシュンは一七九九年に死ぬまで、中国史上もっとも強宰相として権勢を誇った。
 
汚職にまみれた寵臣へシェン

ヘシュンはさまざまな悪どい汚職の手口を駆使して莫大な富をたくわえた。財務と軍事を担当する部を掌握しているおかげで、政府資金を自由にできたのである。人事担当大臣という地位にあったので、とくに地方の知事からの賄賂が絶えなかった。陝西省の知事は銀二〇万両(清代の一両は六二四〇キログラム)をヘシュンに渡そうとしたが、ヘシュンの私用の納戸に賄賂を置くためには、まずへシュンの部屋の前に立つ番人に銀五〇〇〇両を贈る必要があった。
乾隆帝の寵愛のおかげで、ヘシュンは汚職の摘発をすり抜けることができた。また、汚職がばれるのを防ぐへシュン独特の手口があった。たとえば政務の監察をするポストが空席になったときは、かならず六〇歳以上の者で埋めるように命じた。その年になれば汚職を摘発するよりも、快適な老後を手に入れることで頭がいっぱいだからだ。
一七九三年にへシュンは皇帝の代理として、イギリス初の訪中使節ジョージ・マカートニーを北京郊外の別荘(現在は北京大学キャンパスの一部になっている)に迎えた。ヘシュンはそこでイギリス大使に随行した医師に脱腸帯をあつらえさせている。
乾隆帝は一七九五年に名ばかりの退位をした後も実権をゆずらなかったので、帝位を継いだ嘉慶帝はヘシュンの不正を知りながらどうすることもできなかった。「太上皇」が亡くなると、へシュンはただちに逮捕され、私有財産は差し押さえられて監査された。ヘシュンの全財産は銀八億両という天文学的な数字(現在の金額にして一四四億ドル)で、当時の政府の年間歳入額(およそ七〇〇〇万両) の一〇倍を超えていた。一七九九年二月二一日、ヘシュンは自害を命じられた。乾隆帝の死から一四日後のことである。


清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三人の皇帝により、全盛期を迎え、この時代は三世の春と呼ばれる。しかしその一見華やかな時代の陰で徐々に社会矛盾・官僚の腐敗・地方農民の没落などが進行していた。

乾隆年間には、それまで勢力を弱めていた白蓮教が次々と新教団を作るようになる。1774年、山東省で八卦の新教団が結成され、首領の王倫(中国語版)が反乱を起こした。また、四川省でも厳しい取り立てに抗議する反乱が起こり、鎮圧された後、信徒は白蓮教に吸収された。


清朝は白蓮教の教主である劉松を捕らえて、流刑に処し、劉松の高弟である劉之協の逮捕令を出した。1794年に劉之協は捕らえられるが、護送中に脱走した。

勃発
乾隆帝が劉之協の捕縛を命じてヘシェン(和?)の兄弟のヘリェン(和琳)を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で過酷な取調べが行われ、無関係の民衆多数が犠牲になり、加えてこれを良いことに官吏たちは捜査の名目で金銭の収奪などを行った。

1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、ヘシェンが地位を利用して専横を開始した。

これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で王聡児・姚之富率いる白蓮教団の指導の元に反乱を起こした。これを契機として陝西省・四川省でも反乱が起こり、更に河南省・甘粛省にも飛び火した。

白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万といわれる。

それを鎮圧するべき清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった。

白蓮教徒たちも組織的な行動が無く、各地でバラバラな行動を取っていたために次第に各個撃破され、1798年に王聡児・姚之富が自害。

1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永?(嘉慶帝)に譲位し太上皇となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷いた。いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆上皇は王朝に老害を撒き散らした。
1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位への布石にもなった。















89林則徐―英國のアへン密貿易を禁止した官僚
林則徐 (1785―1850)

イギリスのアへン密貿易を禁止した官僚

林 則徐は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。 字は少穆。諡は文忠。イギリスによる阿片密輸の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは阿片戦争を引き起こした。

林則徐は1785五年に貧しい教師の家に生まれた。生地の福建省は中国南東岸に位置し、もっとも小さく山がちな省のひとつである。19歳のときに競争率の高い科挙の地方試験に合格するが、最終段階の試験には二回落第し、福建省の知事に要請されて職員として働きはじめた。1811年にようやく最終段階の試験に合格し、名誉ある翰林院のポストに任命された。

1821年以降、林則徐は重要な地方官の地位を歴任し、公正さと実務能力をかねそなえた官僚として認められる。道光帝は林則徐を問題解決能力にすぐれた官吏として信頼していた。不正を許さず、人民の幸福を第一に考える人として、庶民からは尊敬をこめて「林青天」とよばれた。

 
アヘン窟を処分している絵。1842年。

1824年に母が亡くなると、林則徐は儒教の定めにしたがって喪に服すために長く職を離れた。すると皇帝からよびだされ、江蘇省の供沢湖の堤防が決壊し、北京への穀物の出荷が止まっているため、服喪期間を切り上げて堤防の修繕を監督してほしいと要請された。こうした緊急事態が起きるたびに頼りにされるのが林則徐だった。
林則徐は1832年に江蘇省巡撫(長官)に任命され、農業改革に実績を上げた。1837年には湖北と湖南を合わせた地域の総督に就任する。ここで取り組んだのはアへン密貿易の廃止とアへン中毒の根絶である。
1780年代以降、イギリス東インド会社はインドにおけるアヘン生産を独占し、アヘンは密輸業者によって中国に輸出された。中国のイギリスに対する大幅な貿易黒字(主として茶の販売による) は、中国へのイギリスのアヘン輸出によって巨大な赤字に転じ、さらにアヘン中毒は深刻な社会問題をひき起こした。数千万人という中国人庶民がアヘン中毒になり、宮廷や政府、軍隊など、支配層にもアヘンが広まった。一八三〇年代にはイギリスは年間推定一八二〇トンのアヘンを中国に輸出していた。すでに一七二九年に清政府はアヘンの生産、販売、使用を禁止す る厳しい法律を公布していたが、ほとんど効果は見られなかった。アヘンの公然の密売は社会と政府の激しい堕  落をまねいた。
林則徐はアヘンの密貿易を禁止するため、断固たる緊急措置を求めて皇帝に上奏文を次々に提出し、欽差大臣(特定の問題について皇帝から全権を委任されて対処する臨時の官)に任命されて、アヘンの禁輸を断行するため広東に派遣された。一八三九年三月一〇日、林則徐は広州条約港?外国との条約によって開港された貿易港? に到着するやいなやイギリス商人に通商停止を申しわたし、アへンの在庫を差し出すように命じた。当時の活の役人は情けないほど世界情勢にうとかったが、林則徐はヨーロッパの国際法の手引書から、外国商人を取り締まる行為の根拠となる部分を翻訳させて読んでいた。
広州に派遣されていたイギリスの貿易監察官チャールズ・エりオットは、林則徐の要求にしたがってすべてのイギリス商人にアヘンを引き渡すように命じた。しかし、このときエリオットはイギリス王室が商人の損害を賠償すると約束している。つまりイギリス政府がアヘン貿易に関与しているのを認めたも同然であり、積み荷を奪われた報復としてイギリス軍が中国政府に軍事行動をしかけるお膳立てがここで作られたのである。
林則徐が没収したアヘンは二万箱に上った。一箱の重さはおよそ六三キログラムである。彼はそれを広州に近い海岸で処分した。塩と石灰を混ぜて麻薬成分を中和してから、海に廃棄したのである。一方で林則徐はヴィクトリア女王宛に公開状を送り、イギリス政府がアヘンの密貿易を継続する倫理的な根拠を問いただした。その公開状はアメリカのイエール大学の卒業生によって、中国語からあまりうまくない英語に翻訳された。女王からの返事はとどかなかった。
返信のかわりに、イギリスは一八四〇年六月に小砲艦を派遣した。イギリス軍の優勢は火を見るより明らかだった。林則徐がアヘンを処分した広州はおそらく中国側の守りが固かったせいだろう、イギリス艦隊は広州より北の杭州湾をめざし、湾内の島を制圧してから、首都北京の港である天津港に向かった。
道光帝はたちまちイギリス軍に降参し、林則徐をロシアとの北西の国境にあたるイリ地方に追放した。しかしイギリスの攻撃は止まず、沿岸の都市が次々に占領された。イギリス軍が長江の奥深くまで侵入すると、皇帝は和議を申し入れ、香港を割譲し、廃棄したアへンに対する莫大な賠償金とイギリス軍の遠征費用を支払った。中国が西洋の強国に躁潤される屈辱の世紀がこうしてはじまったのである。
一八四六年に林則徐は追放を解かれてよびもど芋れ、以後、いくつかの地方長官のポストについた。一八四九年に体調をくずして引退するが、翌年、ふたたびよぴもどされて、今度は広西省の反清的な宗教団体「拝上帝会」 の平定を目的として欽差大臣に任命された。林則徐は一八五〇年一一月二二日、任地に向かう途中に広東で亡くなった。外国商人に毒殺されたという噂もある。中国史上もっとも公正で有能な官吏の死の真相は謎のままだ。
      
林則徐の書












91僧格林泌―モンゴル族最後の猛将
僧格林泌(1811―1865)


モンゴル族最後の猛将

僧格林泌は1811年生まれで、内モンゴルのホルチン部ボルジギット氏の出身である。チンギス・カンの弟のジョチ・カサルの子孫だといわれている。
僧格林泌の家族は貧しく、彼は父とともに放牧をして暮らしを立てた。しかし僧格林泌の一族はモンゴル族のなかでいちばん先に満州族に服属したので、その功により永続的な王位(ホルチン郡王)をあたえられていた。当時の王は活の道光帝の義理の兄(道光帝の姉の夫)にあたる人物だったが、一八二五年に後継者がいないまま亡くなった。僧格林泌はまれにみる武術の腕前を評価されて 「バートル」 (モンゴル語で 「英雄」) とよばれていたので、選ばれて王位を継ぎ、北京に出て宮廷に仕えることになった。
僧格林泌はまたたくまに頭角を現した。1834年にはすでに、皇帝のもっとも近くで身辺警護にあたる四人の近衛兵のひとりである御前大臣に任じられた。僧格林泌はモンゴル旗(行政・軍事の単位)のひとつを統括し、続いて満州旗のひとつを統括した。
キリスト教の影響を受けた太平天国の乱(洪秀全を参照)遠征中の僧格林滝を描いた19世紀の絵が勃発すると、僧格林沌は1853年に欽差大臣として首都北京二倍の防衛をまかされた。彼は1855年に太平天国の北伐軍を全滅させ、ふたりの指揮官を捕虜にした。太平天国軍は二度と黄河以北に攻めこまなかった。

1859年6月、僧格林沌は英仏連合艦隊を破って天津を防衛する。しかし、翌年英仏軍が戦備を増強してふたたび侵入すると、僧格林滝の勇猛果敢な騎兵は、最新式の西洋の武器の前になすすべもなく虐殺された。英仏連合は北京を占領し、円明園を徹底的に破壊して火を放ち、洋館が立ちならぶ西洋楼は廃櫨になった。僧格林沌は厳しく責任を問われ、降格されたうえに爵位を剥奪された。
1861年、清政府はさらに深刻な危機に直面した。華北の捻軍とよばれる農民反乱の拡大である。捻軍はときには南京の太平天国と連携しながら清に対抗した。僧格林沌はもとの地位に戻され、捻軍の平定を命じられた。
彼は五年にわたって全力で戦いつづけ、宮廷から厚い信頼を得た。同じ1861年に威豊帝が死去すると、僧格林滝はクーデターによって実権を掌握した西太后(伝記89) の味方についた。そのため彼の地位と権力はますます高まり、王位にくわえてふたつの爵位をあたえられた。
その後の捻軍との戦いで僧格林沌は多数の有能な部下を失い、厳しい戦いを続けながら華北各地を転戦した。
1865年5月、ついに山東省で待ち伏せしていた反乱軍に包囲される。護衛する兵の半数を失い、空腹と疲労に苦しめられながら夜を徹して戦い、ついに戦死した。
宮廷は僧格林滝の死に衝撃を受け、皇帝が祖先の祭祀を行なう紫禁城内の太廟に彼を祀り、その功をたたえた。
死後にこうした名誉をあたえられたモンゴル族は、僧格林沌をふくめてふたりしかいない。













93西太后―清王朝の最期を彩る女帝
西太后(1835―1908)清王朝の最期を彩る女帝


西太后は1835年に満州族エホナラ氏の中堅官僚の家に生まれた。エホナラ氏はヌルハチが所属した氏族と通婚関係にあったが、このふたつの氏族の同盟は決裂し、両者に深い確執が残った。エホナラ氏の呪いによって、清王朝はいずれエホナラ氏の子孫に滅ぼされるだろうという言い伝えが残ったほどである。西太后は1851年に16歳で身分の低い寵姫として後宮に入った。その翌年、西太后の父は、侵攻する太平天国軍(洪秀全参照)から逃げるために職場を放棄したという理由で、中国南部の安徽省の官吏の職を解かれ、その後まもなく亡くなっている。
1856年に西太后は威豊帝の息子を生んだ。これが彼女の歴史上の運命を決定したといっていい。その頃には満州族皇室の初期の生命力はすっかりおとろえてしまったようだ。その証拠に、活王朝はこの先まだ55年は続いたというのに、夫折したもうひとりの皇子を除けば、西太后が生んだ息子はときの皇帝に生まれた最後の子どもとなってしまったからだ。

第二次アへン戦争のさなかに英仏連合軍が北京に迫ると、威豊帝は熱河省(現在の河北省承徳市)の狩猟園に避難し、一八六一年の夏にそこで急逝してしまう。同治帝として即位した五歳の息子をつれて、西太后は成豊帝の皇后だった東太后とともに北京に戻った。
ふたりの皇太后は、亡くなった威豊帝が摂政として指名した八人の重臣を罷免し、そのうち三人を処刑した。
野心満々で冷酷な西太后が、生きるか死ぬかのクーデターに決定的な役割を果たしたのは想像にかたくない。西太后と東太后は共同で皇帝を補佐し、「垂簾政治」(幼い皇帝に代わって皇太后が行なう摂政政治。皇太后は御簾の陰に座っていたのでこうよばれる)を行なったという。ときには実際に玉座の陰に隠れて座っていたらしい。ふたりの皇太后が西太后と東太后とよばれるのは、それぞれが紫禁城の西と束の宮殿に暮らしたからである。東大后は西太后に比べて政治への関心が薄かったので、中国語に堪能な西太后の力がしだいにまきっていくのを気にとめなかった。

1873年に同治帝が成人すると、表向き垂簾政治は終わったはずだが、西太后は政治にも皇帝の私生活にも目出しを続けた。まだ若い皇帝はどちらかというとひかえめな東太后に愛着を感じており、1872年に妃を選ぶにあたって東大后の勧める相手を選んだので、西太后の逆鱗にふれたといわれている。同治帝は1875年1月12日に亡くなった。北京の売春宿をおしのびで足繁く訪れていたため、梅毒に感染したという説があるが、公式には天然痘で死んだとされている。
西太后は三歳の自分の甥を後継者に選んだ。束太后とふたりで摂政政治を続けるつもりだったのである。残された同治帝の妃は身ごもっていると噂されたが、自害して果てた。1881年、束太后はなんの前ぶれもなく急に亡くなった。これで西太后の邪魔をするものはひとりもいなくなった。
西太后の長い摂政政治のあいだに、中国の国際的な立場は悪化の一途をたどったが、国内情勢はかなり改善された。途方もない数の犠牲者を出しながら、太平天国の乱はついに平定された。その他の反乱も同様に鎮圧された。国内がふたたび安定すると、大半の国民の日常生活は改善された。とりわけ太平天国が荒らしまわった地域では、人々の暮らしはようやく落ちついた。そのため、西太后の摂政時代は清の復興期ととらえられている。もっとも、この時期の繁栄と平和は、太平大同の乱のせいで中国の人口が減少したためだという説もある。

西太后は自分の60歳(数え年)の誕生日を祝うためにけたはずれの出費をした。北京の北西郊外にある願和園を大々的に改修したのもそのひとつだ。宮廷は日清戦争開戦直前の1894年に、海軍予算を流用して西太后の生誕祝賀会の費用を捻出しなければならなかった。これでは活の海軍が日本に海戦で大敗したのはむりもない。
西太后が瞳和園に大理石の船を建造させたのも皮肉な話である。
甥の光緒帝が1889年に成人すると、西太后は形ばかりは表舞台からしりぞいた。しかし決して政治の実権を手放すつもりはなかったのである。若い皇帝は外国勢力に中国がくりかえし躁潤され、領土を奪われたことに衝撃を受けた。とくに1894四年の日活戦争後に台湾を日本に割譲したことは大きな屈辱だった。皇帝は瀕死の清王朝をよみがえらせるため、抜本的な制度改革の必要を切実に感じた。西太后の支持を受けた保守派は、この皇帝の前に断固として立ちふさがったのである。

改革派は新進の漢人武将衰世凱を招き、西太后に権力の放棄を迫るよう要請した。しかし保身に長けた衰世凱はすぐさまこの計画を西太后の側近で直隷総督(北京一帯の軍事・行政を統括)の永禄に密告したといわれる。西太后は1898年9月に改革派に対抗するクーデターを決行し、光緒帝を幽閉、改革派を代表する六名を処刑し、重要な改革政策をことごとく廃止した。
西太后は西洋の侵略に嫌悪感をつのらせるあまり、1900年に義和団(排外的秘密結社) や活国軍による外国大使館への攻撃を容認した。これに対して八か国からなる連合軍は北京を攻撃して占領し、外国公使館の包囲を解いた。西太后は北京を脱出せざるをえなかった。
有能な廷臣李鴻章の粘り強い交渉のおかげで、清はなんとかこの危機をおきめたが、四億五〇〇〇万両という巨額の賠償金の支払いを飲まなければならなかった。もっとも、賠償金の大半はのちに免除されるか、海外の中国人学生の教育のために使われている。西太后はかすり傷ひとつ負わずに北京に戻り、それからは外国文化に対してやや寛容な態度を示すようになった。
抜け目ない政治家であった西太后は、宮廷に外国婦人を招くようになった。外交官や宣教師の妻たちは、自分たちを寝台に座らせてイギリスのロイヤルウースター製の茶器で紅茶を勧める一見気さくな老女に魅せられた。

西太后は自分の思いどおりの印象をあたえられるように応接間の装飾に気を配り、仏像を一時的にかたづけて、そのかわりに西洋の時計を置いた。また、アメリカ人の女流画家キャサリン・カールを宮廷に迎え、一般に公開するための肖像画を描かせた。これはまさしく伝統破りの行為である。中国では、皇族の場合はとくに、肖像画は死んでから祖先を祀る祭壇に掲げられる場合がほとんどだったからだ。
時すでに遅しとはいえ、西太后は近代化のために数々の改革を容認した。たとえば近代的産業の導入や、科挙の廃止、纏足の禁止である。しかし、それぞれの改革は意味のあるものではあったけれども、もはや手遅れでしかなかった。知識層は次々に立憲君主制に見切りをつけ、共和主義革命にくわわった。
1908年11月15日、ほぼ半世紀にわたって中国を支配しつづけた西太后が世を去った。1898年以降、実質的に幽閉の身に置かれた光緒帝の死の翌日である。エホナラ氏の昔の呪いを思い出させるように、清王朝はわずか三年後に滅亡する。



宮中の西太后
西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは危害を加えられることなく後宮で生活している。前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生んだ後、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕?の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。また、「四春」と称された4人の寵姫(禧貴人、慶貴人、吉貴人、?貴人)は、同治、光緒朝に嬪、妃に加封され、平穏な生活を送る。

一方で西太后は権力への執着が強く、同治帝が西太后の推す慧妃ではなく東太后の推した阿?特氏を皇后とした事を忘れず同治帝の崩御後に阿?特氏を死亡させ、また光緒帝に親政を促した寵姫の珍妃を殺害させるなど、自分を脅かす可能性のある人物を排除している。

















95孫文―理想主義の革命家・中華民国創立者
孫文(1866―1925)

理想主義の革命家・中華民国創立者
 孫文(1866〜1925、孫逸仙、孫中山とも号した)は広東の農民出身の華僑の一家に生まれたクリスチャンであり、14才で兄を頼ってハワイに渡りカレッジに学んだ。アメリカの民主主義社会の空気を体験して19才で広東に戻り、香港で医学を学び、医師を開業したが、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医とるほうが大切だとして、改革運動に加わった。清朝の改革を目指して1894年、ハワイで興中会を結成、1895年日本との講和に反対して広東で武装蜂起したが失敗し、日本に亡命した。亡命中は横浜に居住し、宮崎滔天の紹介で犬養毅などと知り合った。


孫文は1866年11月12日に、広州からほど遠からぬ村で生まれた。孫家の祖先は客家だといわれている。
農民の子の孫文は、子どもの頃に標準的な儒教の初等教育を受けた。商人として成功していた年の離れた兄と暮らすために一三歳でホノルルに移住する。孫文はイオラ二・スクールに入学し、すぐに英語をマスターした。この頃アメリカによるハワイ併合が進められており、孫文はアメリカ市民権を獲得した。
孫文がキリスト教に傾倒したため、保守的な兄は心配して孫文を1883年に中国に送り返した。しかし孫文はアメリカ人宣教師によって香港で洗礼を受けている。1884年5月、孫文は田舎育ちの娘と親の決めた結婚をする。ふたりのあいだには一男二女が誕生した。1892年、孫文は香港にある中国人のための医科大学を卒業し、医者として開業した。
西洋教育を受けているあいだも、孫文は中国語と中国史を学ぶのを忘れなかった。外国や香港で目にする西洋文化と比べて、清のあまりの後進性に衝撃を受け、孫文は中国社会の改革と近代化の必要を強く感じた。
1894年の初め、重臣の李鴻章(西太后を参照)に改革案の提出を試みるが、返事はなかった。孫文はハワイに戻り、1894年2月24日に中国初の近代的革命組織である興中会を組織し、すぐさま香港にも組織を拡大した。
資金はとほしく支持者もわずかだったが、興中会は1895年5月に広州で地元の秘密結社のネットワークを利用し、反清軍事蜂起の計画に着手する。ところがこの計画は清政府にもれてしまった。孫文はかろうじて国外に脱出し、最終的にアメリカに向かった。孫文には政府の懸賞金1000ドルがかけられた。孫文はそれでも改革の必要を訴えつづけ、主として海外に暮らす中国人から資金を集めた。1896年、孫文はロンドンに到着するが、偽名で中国公使館を訪れたとき、身元がばれて拘束されてしまった。孫文はひそかに中国に送還されそうになるが、当時ロンドンで暮らしていた香港の医科大学時代の恩師になんとか急を知らせることができた。この恩師の働きかけで世論の批判が高まり、孫文は解放された。数週間たらずのうちに孫文の名は世界に知れわたり、孫文は多数の支持者を獲得した。1897年に訪れた日本では、反活思想をもつ大勢の中国人留学生から、まぎれもない指導者として大歓迎を受けた。
孫文が唱えた政治思想は三民主義(民族、民権、民生)とよばれる。孫文は不屈の指導者であったが、正義を求める情熱が先走り、理想を実現するための実務的な能力が追いついていない面があったようだ。
1900年から1901年の義和団の乱と、それに対する外国の軍事介入が起きているあいだに、孫文はまず李鴻章に、続いて広東省と広西省の総督によぴかけて、華南に非満州族の政府を設立しようとした。ふたたび武装蜂起に失敗すると、孫文は革命への支持をとりつけるためにアメリカやヨーロッパをまわった。東京ではいくつかの革命団体が連合して中国革命同盟会が結成され、孫文が総裁となった。
革命運動の流れが変わるのはここからである。武装蜂起はあいかわらず失敗続きだったが、革命運動のプロパガンダは中国の知識人層にかなり浸透し、近代化された清軍のなかにも秘密結社のネットワークがおよぶようになった。1911年に長江沿岸で革命が勃発したとき、孫文はアメリカにいて蜂起には直接かかわっていなかった。急きょ帰国した孫文は、広州での武装蜂起に失敗して国外に脱出して以来、16年ぶりに祖国の土をふんだのである。国際的名声と長年の革命遂行の努力によって、孫文は満場一致で新たな国家の指導者に推され、中華民国臨時政府が樹立されると、初代臨時大総統に就任した。
しかし、組織としての結束が弱く、ほとんど華南出身者ばかりの革命家の集まりは、旧清政府で独裁権をにぎっていた哀世凱にとうていたちうちできなかった。交渉のすえ、孫文は中華民国の正式な初代大総統を衰世凱にゆずらざるをえなかった。独裁化した哀世凱に対して孫文は1913年に「第二革命」を起こすが失敗し、日本に亡命しなければならなかった。
孫文は日本で中華革命党を結成。かつてハワイで組織した輿中会の流れをくむ政党で、この中華革命党がのちに改称して中国国民党となる。この頃、東京で宋慶齢と結婚した。孫文にとっては二度目の結婚で、相手は上海の客家の家系で有力なキリスト教徒の家庭に生まれ、孫文の息子よりも二歳年下の女性だった。
中国で軍閥が支配を強めた頃、孫文が帰国した。孫文は1921年に広州で広東軍政府を設立し、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の協力を受けて、中国共産党と積極的な連合政策を進めた。孫文は新設の革命軍の仕官を養成するために陸軍軍官学校を設立し、蒋介石を校長とした。そして中国国民党をレーニン主義的な政党国家体制を特徴とする政党に変えた。
国共合作は、孫文の三民主義がもつ平等主義や社会主義的な性質によって推進された面があった。しかし合作は中国国民党内に深いイデオロギー上の分裂を生んだ。その結果、孫文の息子は忠実な国民党員として一九七三年に台湾で亡くなり、孫文の二人目の妻宋慶齢は、1981年に北京で亡くなる直前に、「中華人民共和国名誉首席」の称号を贈られた。
中国の統一は軍事的手段でしか達成できないと確信しながらも、孫文は理想主義的な立場から、1924年末日、軍閥が支配する北京政府との協議におもむいた。一九二五年三月二一日、孫文は北京のロックフェラー病院で、肝臓ガンで死亡した。最後の言葉は 「平和、奮闘、中国を救え」だった。




辛亥革命の指導
 1905年、東京で中国同盟会を結成、三民主義を理念とする四大綱領を掲げた。1911年10月、武昌蜂起が起こると滞在先のロンドンから年末までに帰国し、辛亥革命(第一革命)を指導した。翌年1月1日に成立した中華民国の臨時大総統に就任したが、清朝の実力者袁世凱が清朝皇帝を退位させることを条件に臨時大総統就任を要求すると、3月に譲り渡した。

第二革命
 袁世凱の独裁が強まると、それに反対して第二革命が起こった。孫文は袁世凱の独裁に抵抗するため、1912年8月に中国同盟会などの政治結社を統合して国民党を結成した。袁世凱も妥協して暫定憲法として議会制度を採り入れた臨時約法が制定され、1913年に初めての選挙が実施されると国民党が第一党に躍り出た。しかし、この事態を恐れた袁世凱は実力で議会を解散させ、国民党の指導者宋教仁を暗殺した。国民党側では各地で武装蜂起して袁世凱政権と戦ったがいずれも弾圧されてしまった。この袁世凱独裁政権を倒す蜂起を第二革命と言っている。弾圧を逃れた孫文はやむなく1913年日本に亡命、東京で秘密結社として中華革命党を結成し、革命運動を継続した。


第三革命
 中華民国では袁世凱が正式に大総統となった。1914年の第一次世界大戦では中立を宣言したが、1915年日本が二十一カ条の要求を突きつけるとそれを受諾した。これに対して激しい反対運動が起こった。袁世凱は帝政宣言を発し自ら皇帝となってこの難局を乗り切ろうとしたが、帝政反対の第三革命が起こり、実現できないまま1916年に死亡した。1917年には孫文は広東軍政府を樹立し、大元帥となって北京の段祺瑞軍閥政府に対抗したが失敗し上海に逃れた。

中国国民党の結成
 1919年に二十一カ条要求を容認したヴェルサイユ条約反対の五・四運動がナショナリズムとして高揚すると、孫文はそれまでの革命政党としての政党活動ではなく、公然とした大衆政党としての運動へと指導方針を転換させ、中国国民党を結成しその総理となった。また世界大戦中に起こったロシア革命の影響を受けて、自らソ連に接近するようになった。そのころ中国でもマルクス主義をもとにした中国共産党も結成され、北京軍閥政府に対する二つの有力な政治勢力となっていく。

孫文の革命論
 孫文の三民主義は中国革命の指針としてその後も標榜されていくが、孫文自身は、中郷で直ちに西洋風の民主主義的な議会政治が可能であるとは考えていなかった。その革命論は、「三序」と言われる段階論であり、憲法に基づく民選政府と民選議会を有する民主体制は、君主制度が廃絶されるとすぐに実現されるのではなく、第一の段階として「軍法の治」、第二の段階として「約法の治」という二つの段階を経て「憲法の治」へ至ると考えた。「軍法の治」とは革命直後の革命党を中心とした軍事独裁体制であり、旧体制の打破と民主化の環境整備の段階とされる。「約法の治」の約法とは臨時的憲法の意味で、地方自治などの部分的な民主化の実現させ、中国国民が民主政治の訓練を受けて成長・自覚をとげた暁に、国民選挙で正式の憲法を制定し、「憲法の治」を実現させるという段階的革命論であった。その根底には、中国人はまだ十分に自覚していないという愚民観があった。その点は宋教仁ら、一挙に選挙による民主政治を実現すべきであると考えた若い革命派とは違っていた。

















97蒋介石―国民党の指導者
蒋介石(1887年10月31日-1975年4月5日)

国民党の指導者
蒋介石 1887年10月31日-1975年4月5日。中華民国第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。

蒋介石は1887年に斬江省の小さな港町、寧波市で塩商人の家庭に生まれ、標準的な儒教教育を受けた。1895年に父が亡くなると、一家の生活は苦しくなった。蒋介石の母はかつて仏教の尼僧だった女性である。息子を軍事教育のために日本に留学させるほど進歩的な面をもつ一方で、蒋介石が一四歳のときに四歳年上の地元の女性と結婚させるような古いところもあった(妻の毛福梅はたまたま毛沢東と同じ氏族の出身だった)。
蒋介石は日本で中国人留学生のための軍人養成学校で学んだのち、1909年に日本陸軍に入隊する。この頃、日本に亡命していた反活革命家と深い結びつきをもったことが蒋介石の人生に大きな影響をあたえている。蒋介石は孫文の創設した中国革命同盟会に1908年に入会し、その翌年孫文と対面している。
1911年に辛亥革命が起きると、蒋介石は秋瑾の同志だった人物とともに戦い、「決死隊」を組織して上海で蜂起した。そして革命派の新軍(西洋式軍隊)の団長に任命される。
しかし1912年に蒋介石は上海で孫文のライバルだった革命指導者の暗殺にかかわり、日本に亡命せざるをえなかった。また、国民党創設メンバーのひとりである彼は、中華民国の初代大総統に衷世凱が就任することに反対したため、哀世凱は蒋介石を逮捕するために3000銀ドルの懸賞金をかけた。蒋介石は上海に戻り、秘密結社「青封」(アヘンの密売など、犯罪的性質もあわせもつ)から資金その他の援助を受けた。そこで何人かのいかがわしい暗黒街のボスと「義兄弟」の契りをかわしたという。
蒋介石は孫文のために忠実に働き、とくに1922年6月に孫文と対立した軍人が広州で孫文を攻撃したとき、ともに広州を脱出するという経験をして以来、孫文から厚く信頼された。孫文は軍閥によって分断された中国を統一するためにソ連の支援を受け入れ、蒋介石をモスクワに派遣して共産党の政治・軍事制度を視察させた。蒋介石は当時国民党の本拠地となっていた広州に戻り、1924年に新式の陸軍士官学校である黄摘草官学校の校長に就任した。以来、黄輔軍官学校は蒋介石の勢力基盤となる。国民党の精鋭軍の中枢を占めたのは黄輔軍官学校の卒業生であり、彼らは国民党が1926年に軍閥を倒して中国を続一するため北伐を決行すると、主力となって働くのである。その結果、蒋介石は国民党の上層部を押しのけて権力をにぎり、ついには国民党の実質的な指導者に上りつめることになる。
蒋介石は長男(唯一の実子)蒋経国をソ連に留学させていたが、1927年に中国共産党とたもとを分かち、共産党員を弾圧して南京に国民政府を樹立した。同じ年、蒋介石は宋美齢と三度目の結婚をしている。最初の妻も二度目の妻も離婚してすて、愛人とも手を切り、キリスト教に改宗してまで手に入れたこの女性は、亡くなってまもない孫文の義理の妹(孫文の妻宋慶齢の妹)で、アメリカで教育を受けた才媛であった。蒋介石は新しい妻とともに、1934四年2月に新生活運動を提唱する。これは儒教道徳を基本にした規律正しい生活の教育を通じて、民族復興につなげようという運動だった。
それから10年間、蒋介石政府は近代中国の創生に力をつくした。実質的にはこの時期の中国統一は名目的なものであり、蒋介石は中国東南岸や長江中流域と下流域の数省を掌握したにすぎなかった。しかし軍事的ライバルや共産党による反乱を鎮圧しながら、南京政府はしだいに支配領域を拡大した。
近代教育制度が整えられ、科学研究を目的とした国立の中央研究院が設立された。南京政府ははじめて漢字の簡易化に公式に取り組み、「非科学的な」中国の伝統医療を禁止しようとさえした。スポーツの全国大会が三回にわたって開催され、この時期に南京と上海に建設された運動施設は1970年代まで最高水準のスタジアムとして利用されつづけた。
南京政府は初期にソ連から受けたレーニン主義体制の影響を色濃く残していた。独裁的傾向が強く、投獄や暗殺による弾圧が続いたが、この時期に中国はかつてない文化的復興をなしとげた。
蒋介石はドイツ人の軍事・経済顧問を継続して採用した。蒋介石の支配下で中国が発展した10年間のうち、最初はマックス・バウアーが1927年から29年まで蒋介石の初代軍事顧問をつとめ、続いてアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンが就任して、1934年に広西省の中華ソヴィエト共和国を敗走に追いやった。
中国の発展と安定化につくした蒋介石の努力は、日本軍の侵略によって危機にさらされた。蒋介石は「国外の敵を討つには、まず国内を安定させなければならない」と主張して、抗日より中国共産党の討伐を優先してきたが、1931年に日本が満州(中国東北部)を占領すると、この「安内壊外」政策への批判が高まった。
1936年12月12日に有名な西安事件が起こる。蒋介石が「中国共産党に対する最後の戦い」を進めるために西安におもむいたとき、軍司令官の張学良によって拉致監禁されたのである。張学良は蒋介石の「義兄弟」であり、蒋介石の妻宋美齢が姉妹のように信頼する女性の夫でもあった。身柄を解放する条件として、蒋介石は国民政府と中国共産党の協力による抗日民族統一戟線の実現に同意させられた。
1937年7月7日に起きた虚構橋事件の後、日本軍は中国全土に戦線を拡大し、蒋介石は8月13日に上海で徹底抗戦を開始せざるをえなかった。日中戦争が長引いているあいだに、中国共産党は「敵の陰に隠れて」成長・拡大のチャンスをものにし、国民党がおよびもつかない組織とプロパガンダ能力を育てた。戦争がもたらした想像を絶する破壊と貧困、そして中流階級を襲った経済的苦境によって、国民党の支持基盤は弱体化した。八年間の抗日戦争のあいだに国民党の党員にも深刻な堕落が生じていた。それでも連合軍がようやく第二次世界大戦に勝利をおさめたとき、中国は蒋介石によって国際連合の安全保障理事会常任理事国として五大国の仲間入りを果たし、すべての不平等条約の撤廃と、香港を除く中国内の租借地の返還を勝ちとった。
蒋介石は1945年秋に毛沢東と面会し、国民党と共産党のあいだに和平交渉が進められた。しかしまもなく和平協定は双方から被られた。日中戦争のあいだに100万の兵力を擁するまでに成長した中国共産党は、続いて起こった国共内戦でついに勝利を手にしたのである。蒋介石は1949年にやむなく国民政府を台湾に移した。
蒋介石は最後まで中華民国総統として一党独裁体制を維持したが、「本土主権回復」 の夢はついにかなわなかった。忠実な妻の宋美齢と大勢の孫に看とられて、蒋介石は1975年4月5日に亡くなった。その後を追うように、わずか一年後に毛沢東も世を去った。



















99毛沢東―共産主義革命家
毛沢東  (1893年12月26日-1976年9月9日)

共産主義革命家

1921年、中国共産党創設に参加。農民解放に携わりながら31年に瑞金に中華ソヴィエト共和国を樹立。国民政府軍の構成を受け長征を行う。その途次、主導権を握り、延安に根拠地を置く。国共合作成立後は、日本軍と戦い、45年に勝利を占める

長じて急進的な革命家になる毛沢東は、1893年に湖南省の農村に生まれた。家は豊かで、大多数の農民には望めない教育を息子にあたえることができた。毛沢東は省都の師範学校(高校に相当)を卒業している。
1918年に師範学校の校長の楊昌活につれられて北京に出た。楊昌済は権威ある北京大学で教授の地位をもつ人物だった。
楊教授の斡旋により、毛沢東は北京大学図書館で司書補の仕事につき、そこで西洋思想に刺激された学生たちがくりひろげる学生運動に強い感銘を受けた。毛沢東は胡適(伝記聖の講義をはじめとして多数の講義を聴講したが、正式な学生にはなれなかった。彼は郷里で一度親の決めた結婚をしている(妻は1910〇年に病死)が、楊の娘の開慧と二度目の結婚をした。毛沢東はマルクス主義に傾倒し、1921年に上海で開催された中国共産党第一回大会に出席して以来、党の創設メンバーの一員として活動する。
毛沢東はコミンテルンの仲立ちで成立した中国共産党と国民党の最初の短い連合(第一次国共合作)期間に頭角を現し、国民党の政治宣伝責任者となった。その後、国民党の農民運動講習所長となり、地方で農村の状況を熱心に視察した。1927年に国民党が共産党を弾圧したため、国共合作は崩壊。以来、毛沢東は農民による革命という、当時はまだ急進的とみなされた思想に傾いていくのである。共産党主流派は都市部のプロレタリアに比べて農民を遅れた階級とみなし、彼の考えを相手にしなかったが、毛沢東の思想は中国史に対する鋭い理解にもとづいていた。古来中国では、新しい王朝はしばしば農民反乱をきっかけに誕生してきたのである。
1927年に毛沢東は故郷の湖南省で初の農民の武装蜂起を組織するが、この反乱はあっけなく鎮圧されてしまった。この経験から、毛沢東は国民党軍の手がとどきにくい遠隔地に反乱の拠点を移すことにした。そこで江西省の那剛此に本拠地を置くと、それをしだいに発展させ、1931年に献釦に「中華ソヴィエト共和国」を樹立した。毛沢東は共和国政府の主席に選出された。毛沢東は井岡山にいた1928年5月に地元の女性と結婚している。二度目の妻の楊開慧が1930年の秋に湖南で国民党によって逮捕・殺害される二年前のことだった。
毛沢東の中華ソヴィエト共和国は二方向からの攻撃にさらされた。ひとつは蒋介石による国民政府軍の包囲攻撃であり、もうひとつは中国共産党中央からの批判である。共産党中央は上海の快適な環境をすてて、1932年に毛沢東のいる江西省南東部の瑞金へ移転を余儀なくされた。党中央は毛沢東から実権を奪い、軍指揮権は周恩来が引き継いだ。ドイツ人顧問の協力のもと、国民軍は1934年に第五次包囲討伐我を実行し、ついに中華ソヴィエト共和国を壊滅させた。瑞金を脱出した中国共産党の紅軍は、反撃の好機をうかがうために、のちに「長征」とよばれる大移動を開始した。
毛沢東と中国共産党指導部との不和は、長征を開始して紅軍がまず南西に下り、続いて北上するあいだも解消されなかった。1935年の初め、僻地の貴州に達したとき、毛沢東は党内クーデターを敢行した。党の特別会議をむりやり開催し、はじめて党全体の主導権をにぎって、ソ連で教育を受けたコミンテルン派を権力から遠ざけた。紅軍がようやく陳西省の延安にたどり着いたとき、脱出時の兵力の九割が失われていた。
毛沢東がのちに認めているとおり、日中戦争は共産党に「敵の陰に隠れて」成長・拡大する絶好のチャンスをあたえた。1945年に日本が降伏したとき、100万の兵力をもつ共産党軍は無敵の強さを誇り、1949年には台湾を除く中国全土を制圧した。中国共産党の勝利は、毛沢東率いる大規模な農民軍による「人民戦争」の勝利であると一般に考えられているが、中国共産党が唱えた平等主義的なイデオロギーが中国人知識層の支持を獲得したこともまた、勝利に大きく貢献したことを忘れてはならない。
100万人を超える地主や「反革命分子」の処刑を除けば、毛沢東が支配する「新生中国」の最初の数年間は、経済復興と政治的団結という点で大体において成功したといえよう。ロシアから派遣された顧問は、技術面や科学面で重要な援助を提供した。1960年代初期に毛沢東がソ連と決裂すると、彼らは即刻追放された。)毛沢東は覚上層部の多数の反対を押しきって農業の集団化を推進した。1957年には「百花斉放、百家争鳴」運動を開始し、党外の知識人からの建設的な批判をよぴかけた。しかし、毛沢東の支配体制が知識人から予想以上の痛烈な批判を浴びると、今度は突然「反右派闘争」が指示された。毛沢東の要請に応じて建設的な批判をよせた数百万人の「右派分子」は、そのほとんどが高い教育を受けた知識人だったが、党の内外を問わず親族もふくめて粛清された。
1958年に提唱された毛沢東の「大躍進」政策は、大規模な「人民公社」の設立と「急速な工業化」が特徴だが、実際には農家の庭に炉を作り、原始的な方法で鉄鋼を生産するというお粗末なものだった。むりな鉄鋼の増産によって農業生産にしわよせが行き、3000万人を超える餓死者を出す悲惨な事態となった。毛沢東は人生初の、そして一度きりの「自己批判」を行なって、1962年に政治の実権を劉少奇にゆずった。
1966年、毛沢東は共産党内での影響力を劉少奇などの現実派に奪われたと感じ、プロレタリア文化大革命にふみきって、「終わりなき階級闘争」と 「永続的革命」を推進した。劉少奇とその一派は徹底的に粛清された。
毛沢東はすべての中国人青年に学問をすてて農村で肉体労働をすることを奨励し、権威をまとったあらゆるものを攻撃し、「封建的、ブルジョア的、修正主義的」と名ざされたすべてのものを破壊した。こうした暴力的行為の矛先はおもに教育制度に向けられた。教授や専門家は殴打され、農村に送られて肉体労働に従事させられた。
毛沢東の文化大革命にはふたりの代表的な協力者がいた。毛沢東の新しい後継者、林彪元帥と、毛沢東の四人目の妾で元映画女優の江青である。毛沢東は党幹部の強硬な反対を押しきって、長征からまもなく江青と結婚している。林彪との協力関係はほどなく決裂した。林元帥は毛沢東に対するクーデターと暗殺計画を疑われ、1971年に逃亡をくわだてたが、乗っていた旅客機がモンゴルで謎の墜落事故を起こして死亡し「偉大なる舵取り」とよばれた孤独で年老いた毛沢東は、「永続的革命」の手をゆるめようとせず、さらなる政治運動を展開した。急進的な毛沢東に対抗できる穏健派とみなされた周恩来が亡くなった後、1976年の天安門事件で民衆の不満が噴出した。この年の7月、北京からそれほど離れていない地域で大地震が発生し、25万人近い人々が亡くなった。あたかも毛沢東の天命がつきた証のようだった。それからまもない1976年9月9日に、毛沢東は亡くなった。
一世紀にわたる外国との戦争や侵略で打ちのめされた中国を統一し、1950年代初期に経済を立てなおした毛沢東の業績は、平時としては過去に例のない大量の餓死者を出した大躍進政策と、晩年の冷酷無情な政治運動の推進によってかき消されてしまった。
毛沢東は詩人としても書家としてもかなりの腕前で、彼が執筆した政治的著述は中国の事情に合わせたマルクス・レーニン主義の彼なりの解釈を示している。しかし、文化大革命(1966−1976)に先だって『毛沢東語録』が編纂されているが、そこに引用された短い言葉の数々からは、毛沢東が駆使した文体の複雑さは見てとれない。数多くの儒教的伝統を修復不能なまでに破壊した毛沢東は、しばしば中国最初の皇帝(秦の始皇帝)にたとえられ、自分でもそう語っていた。毛沢東は中華帝国の歴史と、その未来を根本的に変えたのである。


















 鶴雲堂 おもしろページ    石崎康代




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