(3)100人-五代十国から元

古代から現代までの中国歴史上気にかかる100人について

           五代十国時代から元まで  907年〜1368









● 殷から漢まで

ID 人   物
1
婦好
2
周公
3
よそ者の妻
4
孔子
5
墨子
6
商鞅
7
孫擯
8
荘子
9
趙の武霊王
10
呂不
11
秦の始皇帝
12
項羽
13
漢の武帝
14
張騫
15
司馬遷
16
王莽
17
班氏
18
王充
19
張陵
20
張角
21
曹操
22
蔡エン



23
諸葛亮
24
石崇
25
王衍
26
石勒
27
王義之
28
鳩摩羅什
29
陶淵明
30
拓践珪(道武帝)
31
崔浩
32
武帝
33
煬帝
34
太宗
35
玄奘
36
則武天
37
高仙芝
38
玄宗
39
安禄山
40
李白
41
杜甫
42
楊責妃
43
韓愈
44
白居易
45
魚玄機
46
薛濤
47
李商隠
48
李徳裕
49
黄巣



● 五代十国時代から元まで
         907年〜1368

ID
人   物
49 耶律阿保機
50 李存勗
51 趙匡胤
52 柳宗元
53 王安石
54 沈括
55 蘇軾(蘇東坡)
56 方臘
57 徽宗
58 李清照
59 岳飛
60 張擇端
61 朱薫(朱子)
62 馬遠
63 丘処機(丘長春)
64 元好問
65 クビライ・カアン
66 関漢卿
67 パスパ
68 トクト





ID
人   物
69 洪武帝
70 鄭和
71 王陽明
72 海瑞
73 李時珍
74 張居正
75 ヌルハチ
76 徐霞客
77 魏忠賢
78 馮夢龍
79 張献忠
80 呉三桂
81 顧炎武
82 朱トウ
83 蒲松齢
84 康照帝
85 曾静
86 曹雪芹
87 乾隆帝
88 へシェン
89 林則徐
90 汪端
91 僧格林泌
92 洪秀全
93 西太后
94 秋瑾
95 孫文
96 魯迅
97 蒋介石
98 胡適
99 毛沢東
100 ケ小平







    











51李存勗
―突厥系の晉王・後唐皇帝  (885−926)

突厥系沙陀族の出身。沙陀族の長・李克用の長男として生まれ、開平2年(908年)、父が病没した後を受けて太原で晋王に即位した。臨終に際して李克用は李存勗に対して3本の矢を与え、「わしが没した後に、3本の矢のうち最初の1本は幽州(河北省東部)に割拠して燕王と自称した劉仁恭、もう1本は契丹の太祖耶律阿保機、最後の1本は後梁の太祖朱晃らをそれぞれ倒すのに使うべきである」と遺言したと言う。

亡父の言葉に従い、乾化3年(913年)には劉仁恭の権力を奪った劉守光を滅ぼして幽州を制圧し、契丹とは修好で臨み、その後はもっぱら後梁に対して激しい攻撃をかけた。

即位
後梁では年老いた朱晃の暗愚な政治に対する失望感が強まり、さらに継承権を巡っての抗争から、朱晃は次男の郢王朱友珪に暗殺された。この内紛に乗じ、李存勗は次々と弱体化した後梁の領土を奪い、923年にこれを滅ぼした。

同年に唐の副都であった洛陽で皇帝に即位した李存勗は、国号を「唐」と定めた。李存勗らの李姓(本姓は朱邪氏族)は唐からの賜姓であったので、その継承者との名目から唐を国号としたのである。後世の史家は唐と区分するため、一般に後唐と呼び習わしている。

同光2年(924年)には陝西に割拠して岐王となっていた李茂貞を降伏させ、同光3年(925年)には四川の前蜀を滅ぼし、蜀を統治する西川節度使に武将の孟知祥を任じた。やがて後唐は華北と四川を合わせた五代王朝の最大版図を実現した。

治世
武力により版図を拡大した荘宗は、武将としては父以上の名将と讃えられたが、政治家としての素質は乏しく、内政面(行政面)では腹心の孔謙に任せきりにし、人民からの過酷な搾取などの悪政が多かった。また、唐の玄宗と同様に演劇に戯れて、自らも李天下と称して芝居を演じたという。

このように荘宗は、国号に唐を選ぶだけあって、唐の文化に対して強い憧れを持っていた。前述の通り洛陽に遷都し、晩唐の特徴であった宦官を重用した側近政治に偏っていった。特に軍人の監察として宦官を用いたことは、軍人たちの強い不満を買うことになった。その中で荘宗は、酒と奢侈に溺れて政務を顧みなくなった。

有能な武将である枢密使の郭崇韜は、太子でもある魏王李継岌の四川討伐に従軍した。しかし、郭崇韜を快く思わない宦官が総大将の李継岌に讒言した。李継岌は父の荘宗にこのことを報告し、讒言を信じた荘宗は宦官馬彦珪を派遣し郭崇韜を逮捕しようとしたが、皇后劉氏が密に郭崇韜とその家族の誅殺を命じた。さらに、仮子の李継麟も孔謙の讒言で誅殺された。同時に各地で不満が爆発し、謀反が相次いで起こった。

各地での反乱が大規模に発展し、同光4年(926年)には李克用の仮子であった李嗣源に軍を預けてその鎮圧に向かわせたが、逆に軍閥の軍人たちによって李嗣源が皇帝に擁立されるに至った。補給路を断たれた洛陽は孤立して食料にも困るようになった。最終的に荘宗は、禁軍によって殺害された。その後、遺体は李嗣源によって雍陵に埋葬されたという。


李存勗は八八五年に現在の山西省で突蕨沙陀部の首長、李克用の長男として生まれた。父の李克用は黄巣の乱(伝記45参照)を鎮圧した功績を認められて晋王となった。突欧沙陀部は西突欧に属する部族で、中央アジアや中国北西部に勢力を拡大した吐蕃によって、安禄山の乱(伝記3 8)後に征服されたと一般に考えられている。沙陀部は八世紀が終わる前に現在の新彊ウイグル自治区から甘粛省に移動した。その後、八〇七−八〇八年頃に三万戸の入日の三分の二を吐香の襲撃によって失い、華北に移住した。彼らは唐が内外の敵と戦う際に重要な役割を果たし、黄巣率いる農民兵の制圧にも沙陀部の騎兵隊が力を発揮した。唐は沙陀部の功績に報いるため、首長に唐の皇族の姓である李を名のることを許した。
沙陀部の李氏と朱全忠は黄巣の乱で反目しあい、しだいに不倶戴天の敵となった。朱全忠は黄巣政権の軍人だったが、九〇七年にとうとう唐を滅ぼして後梁を建てた。
李存勗は九〇八年に父を亡くしてまもなく、六月三日に三重岡の戦いで後梁軍に挑み、大勝利をあげた。さらに一五年間かけて経済的にまさる後梁を徐々に征服し、ついに九一三年、後梁を現在の北京周辺から追いはらった。九一七年に李存勗の軍は契丹の大軍を破った。
九二三年に李存勗は唐の後継者を名のって後唐を建て、皇帝として即位した。同じ年に後梁の首都開封を攻略し、翌春、唐の東都だった洛陽に宮廷を移した。
昔の唐の皇帝と同様に、李存尻は歌舞音曲をことのほか好んだ。ひいきの役者を数多く重要な政治的地位につけただけでなく、みずから舞台に立つこともあった。しかし、効率的な行政制度を整えることができず、国内情勢は急速に悪化した。はじめは統一がとれていた沙陀部のなかでも、いくつかの内紛が生じた。九二六年の初めには武将があいついで反乱を起こした。五月五目′ 近衛軍が反乱を起こし、宮殿を襲った。李存勗(後唐の荘宗)は矢を射られてまもなく死亡。宮廷音楽家は皇帝の亡骸の上に楽器を積み重ね、火をつけて荼毘に付したという。







53 王安石
     ―改革を断行した官僚
王 安石(おう あんせき、?音: Wang ?nshi、天禧5年11月12日(1021年12月18日) - 元祐元年4月6日(1086年5月21日))は、北宋の政治家・詩人・文章家。字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党の領袖。神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。文章家としても有名で、仁宗に上奏した「万言書」は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。また詩人としても有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。

王安石は一〇二一年に、華南の江西省で地方官の家庭に生まれた。当時、中国の経済の中心はかなり前から長江流域に移っていたが、学問と政治の分野ではまだ華北出身者の力が圧倒的に強かった。しかし、末代に科挙が重視されるようになり、さらに教育制度や地方経済が発達したおかげで、華南は急速に華北の水準に近づいていた。王安石は青年期のほとんどを長江流域の現在の南京ですごした。一〇四二年に科挙を受験し、第四位で合格して進士となる。それから二五年間は地方の官僚や知事として働き、地方経済を肌で知る機会を得た。
当時の深刻な財政赤字は、官僚を買収して税金を減らしたり、揺役?無償の労働提供?をのがれたりする多数の大地主によってさらに悪化し、小地主の負担をいっそう増やしていた。末は主として契丹(遼)や西夏(タングート族による帝国)が北部に侵入するのを防ぐため、一〇〇万を超える兵を常備軍としてかかえ、それが政府の深刻な赤字の原因になっていた。一〇五八年、王安石は「万言の書」とよばれる長文の上奏文を皇帝に提出した。それはとくに機能不全におちいった官僚制度についての疑問点をあげ、改革の必要性を訴えたものだ。
一〇六七年、先見の明に富む皇帝神宗が即位する。末に昔日の勢いをとりもどす強い意気込みをもって、神宗は一〇六九年に王安石を首都に招いて副宰相の要職につけ、まもなく首席宰相に昇進させた。王安石は経済、軍事、官僚制度にかんしてやつぎぼやに「新法」を実施していく。
土安石が提唱した経済政策には、政府による農民への融資、揺役に代えて税金を徴収し、人を雇って雑役にあたらせる募投法、検地のやりなおしによる税の平等化、投機を防止し、独占を禁止する商法の制定などがあった。
軍事面では、各地方で一〇戸を一単位として郷村制度を再編し、常備軍の兵の一部に代わるものとして在郷軍を創設した。これらの急進的な改革は、蘇拭(伝記5 1)や司馬光(歴史書の執筆のため政界をしりぞいた)らの既得権層や旧法党から猛烈な反対にあった。
一〇七四年、華北を襲った激しい干ばつによって政府は苦境に立たされ、王安石は一時的に辞任し、新法も中断せざるをえなかった。神宗は翌年王安石を宮廷によびもどしたが、改革に対する反発があまりに強く、王安石は一〇七六年に政治から完全にしりぞき、一〇八六年に亡くなった。
王安石は倹約家で、頑固な性格で知られていた。彼は科挙で重視される優美な文章作法より幅広い実践的な知
識を奨励するため、科挙制度を改革しようと試みた。また、読書家でもあり、植物にかんする書物をはじめとしてあらゆる本を読み、「農学書や刺繍の本に没頭したが、たいへん役に立った」と述べている。王安石は力強い随筆や印象的な詩をいくつも残した。

夜直
金爐香盡漏聲殘,翦翦輕風陣陣寒。
春色惱人眠不得,月移花影上欄干。
金爐 香 盡て漏聲 殘すたれ,剪剪たる輕風 陣陣として 寒し。
春色人を惱まして眠り得ず,月 移花影 欄干に上る。
(金の香炉の香りは燃えつきて、時を知らせる太鼓の音が消えていく。そよ風が吹いては止み、そのたびに寒さがおしよせる。春の気配は悩ましくて眠りにつけない。月が傾いて花の影が欄干に上ってきた。)

鐘山即事
澗水無聲遶竹流、竹西花草弄春柔。
茅簷相對坐終日、一鳥不啼山更幽。
澗水聲無く竹を繞って流る、竹西の花草春柔を露す。
茅簷相對して坐すること終日、一鳥啼かず 山更に幽なり。
(谷川の水は音もなく竹をめぐって流れ、竹林の西には草花がやわらかな春の日差しとたわむれている。茅葺の庵で山と向かいあって日がな一日座っていると、一羽の鳥さえ鳴かず、山はいっそう静まり返っている。


地方官時代
王安石の父・王益は地方官止まりの官僚で、王安石の家は家族が多く、豊かでなかった。1042年(慶暦2年)、22歳の時に4位で進士となる。その後は家族を養うため、中央官僚より給料がよかった地方官を歴任する。

1058年(嘉祐3年)、王安石は政治改革を訴える上奏文を出して、大きく注目された。後に王安石と激しい論戦を繰り広げる事になる司馬光らもこの時期には王安石を賞賛する声を送っていた。この声を受けて1067年(熙寧2年)、神宗に一地方官から皇帝の側近たる翰林学士に抜擢され、更に1069年には副宰相となり、政治改革にあたることになる。

新法
王安石は若手の官僚を集めて制置三司条例司という組織を作り、改革を推し進めた。1070年(熙寧5年)には首席宰相となり、本格的に改革を始める。新法の具体的な内容に関しては新法・旧法の争いを参照のこと。王安石の新法の特徴は大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるというところにある。

失脚
まず1074年(熙寧7年)に河北で大旱魃が起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」と上奏され、これに乗った皇太后高氏・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へと左遷された。新法派には王安石以外には人材を欠いており、王安石の後を継いで新法を推し進めていた呂恵卿などは権力欲が強く、新法派内部での分裂を招いた。翌年に王安石は復職するが、息子の王?(おうほう)(中国語版)(1044年 - 1076年)の死もあり王安石の気力は尽きて1076年(熙寧9年)に辞職し、翌年に致仕(引退)して隠棲した。

1085年(元豊8年)に神宗が死去し、翌年には王安石も死去する。神宗が死ぬと新法に大反対であった皇太后により司馬光が宰相となり、一気に新法を廃止するが、間もなく司馬光も死去する。王安石・司馬光の両巨頭亡き後の新法と旧法の争いは醜い党争に堕し、どちらかの派閥が勝利するたびに法律も一新されることが繰り返され、大きな政治的混乱を生むことになる。この混乱が北宋滅亡の大きな原因とされる。

文学
王安石は文学者としても優れており、その作品は『臨川集』にまとめられている。散文家としては「唐宋八大家」の一人に数えられ、代表作としては前述の「万言書」や「孟嘗君伝を読む」などがあげられる。

詩人としては用語・構成ともに入念に考え抜かれ、典故を巧みに用いた知的で精緻な作風が特徴である。特に七言絶句は北宋第一とされ、欧陽脩や蘇軾のような旧法党の人々からも高い評価を得ていた。また先人の詩句を集め、そのイメージを受け継いだり変化させたりすることによって新しい詩を作るという手法(集句)に強い関心を示したが、これは黄庭堅に代表される江西詩派の主張する「換骨奪胎法」にと受け継がれることになった。

なお、「紅一点」の由来として王安石の作とされる詩が挙げられる。すなわち、 「石榴」の「万緑叢中一点紅 、人を動かす春色は須く多かるべからず」という句である。もっとも、現行本の『臨川集』には確認できず、一説には唐人の作ともされる[1]。

また、漢字の由来を述べた大著『字説』を著した。














55 蘇軾 (蘇東坡)蘇拭1037年1月8日―1101年8月24日
                     ―天才文学者

蘇 軾は、中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡とも呼ばれる。字は子瞻。蘇洵の長子、弟は蘇轍であり、この3人に韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石を加えた8人を「古文」の唐宋八大家という。子に蘇邁、蘇?、蘇過、蘇遯ら。曾孫は蘇公弼、玄孫娘に耶律楚材の夫人がいる。


  天才文学者  蘇軾(蘇東坡)

蘇拭は一〇三七年一月八日に四川省の小村で生まれた。蘇東城の名でも 知られており、中国でもっとも有名な詩人・文筆家である。蘇拭と彼の父、そして弟の蘇轍は 「唐宋八大家」―唐代と末代を代表する八人の名文家―に数えられている。
 一〇五六年、父は兄弟をともない、黄河沿いにある末の首都、汗京 (現在の開封) に上った。蘇拭と蘇轍は数段階にわたる科挙の試験をやすやすと突破し、翌春、最終試験にも合格して進士となった。ところが合格の朗報を聞く前に母が亡くなったので、兄弟は慣習にしたがって三年間の喪に服すために故郷に帰った。晴れて官僚として歩みだしたのは一〇六〇年のことだ。数年後、父と蘇拭の妻が亡くなった。蘇拭は再婚し、一〇六八年の終わり頃に四川を後にして、二度と戻ることはなかった。
 父の喪が明けて政界に復帰したとき、末の宮廷は新しい皇帝と改革に燃える宰相王安石 (伝記49) によって大きく変わっていた。蘇兄弟は新法には批判的で、改革派が権力の中枢にいる間は中央政界から離れようと、地方への任官を願い出た。詩人・散文家としての蘇拭の名声が広まると、一〇七九年に宮廷の改革派は蘇拭が詩のなかで皇帝を批判したと告発した。蘇拭は逮捕され、都に護送されて投獄された。

 厳しい取り調べを受けて蘇拭は死を覚悟したが、蘇拭の詩才をおしんだ神宗によって長江中流の黄州?現在の湖北省? への流罪に減刑された。家族を養い、糊口をしのぐため、蘇拭は町の東の山腹に小さな畑を開墾し、そこに家を建て、「東坂居士」 (東被は「東の坂」という意味) と称した。蘇蝶が蘇束吸の名でも知られるのはこのためである。蘇拭は流罪の身ですごしたこの四年間に、最高傑作とされるいくつかの作品を書いた。彼のかたわらには若く聡明な側室の 「朝雲」がよりそっていた。
 ある夜、蘇拭が酒を飲んで夜更けに帰宅すると、召使はもう戸締りをしてぐっすり寝こんでいた。蘇拭はままならない人生を嘆く抒情的な詩を作って歌い、「いっそ小舟に乗って、広い海で余生をすごしたいものだ」としめくくつた。翌朝、この詩が町で評判になっているのを知事が聞きつけ、この有名な流刑人の逃亡をおそれてかけつけてみると、当人は布団のなかで高いびきだったという。

 一〇八五年に神宗が崩御すると、皇太后の宣仁太后が摂政となった。旧法党が政界に返り咲き、代表格の司馬光(一〇一九−八六) が宰相に昇った。蘇拭は中央によぴもどされ、名誉ある翰林学士に任命される。しかし、旧法党のなかでも穏健な立場をとっていた蘇拭は、まもなくふたたび地方に出ざるをえなくなった。一〇八九年、蘇拭は杭州知事に任命され、この地で西湖の漢深工事に腕をふるった。


西湖にかかる蘇拭の堤道

 このとき、掘削した土砂を利用して湖を横断する堤通が築かれ、現在も「蘇堤」とよばれる名所として残っている。
蘇拭の名声は、主としてそのユーモアのセンスと飾らない人柄から生まれたものだ。彼は皇帝であろうが物乞いの少年であろうが、だれとでも楽しく語りあえると自慢していた。
 一〇九三年に宣仁太后が亡くなると、年若い皇帝のもとでふたたび新法党が息を吹き返した。翌年、老境にさしかかった蘇拭は南の僻地に流された。忠実な側室の朝雲はここにもつれそったが、まもなく三三歳で亡くなった。
 現在の広東省に位置する恵州に追放されているあいだも、蘇拭は詩作を続けた。その時期の作品のひとつに、「報道す 先生 春睦の美なるを 道人 軽く打つ 五更の鐘」 ―先生は眠っておられると知らせたのか、春の心地よい眠りをさまたげないために、僧が夜明けの鐘をそっと打ってくれているようだ― という句で終わる詩がある。新法党の宰相はこれを見て、蘇蛾が恵州で安楽な暮らしをしていると思ったのだろう。彼はさらに南の果ての海南島に追放された。
 一一〇〇年に皇帝が若くして亡くなり、異母弟が徽宗(伝記5 3)として即位した。新帝即位にともなう大赦によって、蘇拭はふたたび内地に戻ることを許される。しかしその道中、現在の江蘇省常州市に滞在中に重い病に伏し、一一〇一年八月二四日に息を引きとった。

 蘇拭は散文にも詩にもすぐれた作品を残した。書や絵画にもひいで、料理の腕前も一流だった。彼が考案したといわれる豚肉料理の東城肉はいまでも名物料理として残っている。

臨江仙 蘇軾
  夜飲東坡醒復醉、歸來彷彿已三更。
  家童鼻息已雷鳴、敲門都不應。
  倚帳聽江聲、長恨此身非我有。
  何時忘卻營營、夜闌風靜穀紋平。
  小舟從此逝、江海寄餘生。
夜東坡に飲んで 醒めては復た醉ふ、歸り來れば彷彿として已に三更。
家童の鼻息已に雷鳴、門を敲けども都て應へず。
帳に倚って江聲を聽く、長に恨む此の身我が有に非ざるを。
何れの時にか營營たるを忘卻せん、夜闌けて風靜かに穀紋平らかなり。
小舟此より逝きて、江海に餘生を寄せん。
(今夜は東城で飲み、醒めてはまた酔った。家に戻ればもう真夜中だ。召使は高いびきで眠っており、門をたたいても一向に出てこないので、杖にすがって川の流れに耳を澄ませた。
恨めしいのは、この身が自分のものではないということ。いつになったらこんなあくせくした暮らしから抜け出せるのだろうか。夜は更けて風も静まり、川面にはさざなみが広がっている。いっそここから小舟に乗って、余生を大海原ですごしたいものだ。)


備考
中華料理のポピュラーな品目である「東坡肉」(トンポーロー、ブタの角煮)は、彼が黄州へ左遷させられた際に豚肉料理について詠じた詩からつけられたという。
蘇軾の死後、蔡京が握ると旧法党の弾圧が再び行われて遺族は困窮に悩まされていたが、かつて蘇軾の部下であった高?(物語『水滸伝』では最大の悪役とされている)は蘇軾から受けた恩義に報いるために秘かに遺族を支援していたという。




生涯
 眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身である。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた。
 その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された。

 最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受け、彼自身も一旦死を覚悟したが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた。平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる。

 元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法党が復権すると、蘇軾も名誉が回復され、50歳で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争したことから旧法派の内部でも孤立する。更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった。

詩人として
蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』に纏められている。

題西林壁(西林壁に題す)
横看成嶺側成峰、遠近高低各不同。
不識廬山真面目、只縁身在此山中。
横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる、遠近・高低いつも同じきは無し。
廬山の真面目を知らざるは、ただ身のこの山中にあるによる。

書家として
書家としても著名で、米?・黄庭堅・蔡襄とともに宋の四大家と称される。蘇軾ははじめ二王(王羲之と王献之)を学び、後に顔真卿・楊凝式・李?を学んだ。代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊5年(1082年)47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節(清明節の前日)を迎えたときの詩である。縦33cmの澄心堂紙に行書で17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化を出している。落款はないが、黄庭堅の傑作といわれる跋(『黄州寒食詩巻跋』)があり、両大家の代表作をあわせ見ることができる貴重な作品である。

題西林壁
看成嶺側成峰,遠近高低各不同。
不識廬山真面目,只縁身在此山中。
(西林の壁に題す)
ざまに看れば嶺れいと成り側よりは 峰と成る,遠近高低 各おのおの同じからず。
廬山の真面目を 識しらざるは,只身の此の山中に在るに縁よる。
(廬山の麓にある西林寺の壁にこの詩を題す)
(廬山は)横から見ると山脈状に連なった嶺々になり、わきから見ると一つだけ空に抜きん出た峰になり。(嶺々の)遠近や高低といったものは、それぞれの(嶺)によって異なる。
廬山の本来の姿が分からないのは。 それはただ、自身が(廬山の)山の中にいることに因るのだ。

和陶飮酒
我不如陶生,世事纏綿之。
云何得一適,亦有如生時。
寸田無荊棘,佳處正在茲。
縱心與事往,所遇無復疑。
偶得酒中趣,空杯亦常持。
(陶の『飮酒』に和す)
我は陶生に如かず、世事 之に 纏綿す。
云何ぞ 一適を得るに,亦た 生の時の如有らん。
寸田 荊棘 無く,佳處  正に 茲に在り。
心を縱に 事と 往かしめ,遇ふ所 復た疑ふこと 無からん。
偶ま 酒中の趣を得たれば,空杯 亦た常に持す。
(『飮酒二十首』に和す)
わたしは陶淵明氏に及ばない。(陶淵明は意にそぐわない官職をあっさり投げ棄てたが、わたし・蘇軾は官職などの)俗事にまとわり続けているからだ。
どのようにすれば、同じような叶うたのしみを手に入れられるのか。(どのようにすれば、)あなたの時のような(たのしみを手に入れられるのか)。
心にいばらが無くなるとき。すばらしさとは、ちょうどそこにあるのだ。
(人生も後そう多くはないので)心の趨くままに、事柄の推移(天命のまま、時運の赴くところ)にゆだね、往くようにしよう。であうことがらには遅疑逡巡しないでおこう。
たまたま、酒に因るたのしみ手に入れれば。盃が(飲み乾して空っぽになっていて)も、まだ持ち続け(酒の醸し出す、憂いを解く雰囲気に浸(ひた)り続け)るのだ。














58 李清照  (1084年 - 1153年)
       ―宋の女性詩人


李清照(りせいしょう、1084年 - 1153年)は、北宋末期・南宋初期の詩人。斉州章丘(現在の山東省済南市章丘区)の人。夫は政治家の趙明誠。中国史上を代表する女流詞人として知られている。

詩人の李活照は1084年に現在の山東省で生まれた。宋代の典型的な知識人の娘である。父は一〇七六年に科挙に合格して進士となり、南末の批評家から「散文においては司馬遷以来最高の名文家」と評価されている。母は李清照がまだ幼いうちに亡くなったが、名高い宰相の長女だった。継母もまた有名な廷臣の孫娘にあたり、その廷臣は1030年に一八歳で科挙を一位で合格して進士になった逸材だった。李清照は末の最高学府である太学の学生、趨明誠と結婚する。夫もまた、父が宰相という家柄である。まだ結婚前の一七歳のとき、李清照の詩はすでに都で評判になっていた。彼女の手にかかると、日常的なありふれた表現が思いがけないほど美しい詩になった。

武陵春
風住塵香花已盡,日晩倦梳頭。
物是人非事事休,欲語涙先流。
聞説雙溪春尚好,也擬泛輕舟。
只恐雙溪サクモウ舟,載不動,許多愁。
(武陵の春)
風住【や】み塵香しく花已に盡き,日晩【おそ】くして頭を梳【くしけず】くに倦む。
物は 是にして人は 非 事事休せり,語らんと欲して 涙先ず流る。
聞説【きくなら】く雙溪の春 尚お好しと,也【ま】た輕舟を泛ばんと擬す。
只だ 恐る雙溪の??【さくもう】舟,載せて動かせず,許多【あまた】の愁い。
(世俗を棄てて移り住んだ桃源郷と言うべき武陵にも春となった)
(風が止んで花はすでに散ってしまい、土に花のほのかな香りが残っている。日が高くなってから髪をとかして身づくろいをするのは物憂いことだ。景色はそのまま変わらないのに、大切な人はもういない。すべてはすぎさってしまった。思い出を語ろうとすれば、言葉より先に涙が流れる。双渓の春は美しいと聞く。小舟を浮かべて舟遊びでもしてみたいが、わたしのこの愁いの重さで船は動かないのではないだろうか。)

結婚後の数年間は李清照にとって幸福な日々だった。夫の趨明誠は古器物や石碑の銘を研究する学者であり、李清照もまた夫の研究に関心をよせ、力添えした。彼女の父は蘇拭(伝記5 1)の親しい文学仲間で「旧法党」の一員であり、「旧法党」が権力を失うと都から追放された。一方、夫の父は蘇珠の仇敵で、「新法党」のなかで権力を強めた。若い夫婦は政争にまきこまれて長期周の別居を余儀なくされ、さらに夫の趨明誠が「妓女」―歌や舞で客を楽しませる遊女―のもとへ足しげく通ったため、ふたりの生活をとりもどすことはなかなかできなかった。
1107年に夫の父が旧法党の内紛に敗れ、宰相職を失って亡くなった。皮肉なことに、これをきっかけに夫婦はふたたびよりそい、趨明誠の故郷の町で一〇年以上もふつうの市民として穏やかに暮らした。李清照はふたりの生活を次のように語っている。
わたしは物覚えがよかった。ときにはタ食の後で帰来堂―部屋の名前―にくつろいでお茶を滝れ、書棚を埋める本をさしては、ある文章がどの本の何ぺージの何行目に出ているかをあてる遊びをした。正しく言いあてたほうから先にお茶を飲めるのだ。うまくあてられると、わたしたちは茶碗を掲げてどっと笑ったものだ。笑いすぎてお茶が着物にこぼれ、ちっとも飲めないこともあった。わたしたちはこうして暮らし、年老いていくのに満足していた。
この平穏な時期は夫の趨明誠が故郷のふたつの地区の行政官に任命されるまで続いた。その後、女真族の華北侵略がはじまり、夫婦は南にのがれなければならなかった。混乱のなかで、彼らは貴重な銘や青銅器、希書、絵画など、これまで集めたものをほとんどすべて失った。続いて趨明誠が死亡。二二九年の夏のことである。
李清照はまもなく再婚する。ところが新しい夫が仕官のために提出した経歴がでたらめであることがわかり、李清照はそれを表ざたにした。そして離婚を求めたが、その代償は大きく、逆に懲役二年を宣告されてしまう。
妻が夫を告発するのを禁じる儒教倫理にそむいたからだ。李活照は投獄されたが、九日後に釈放された。最初の夫のいとこで地位の高い人物の口添えがあったからだ。
離婚後、李清照は二〇年以上も孤独に耐えながら生きた。


李清照紀念堂(済南市)


18歳の時、当時太学の生徒であった3歳年上の夫と結婚する。本や古器物をこよなく愛した二人は衣類を質に入れては気に入った本などを購入したと言われるほどの蔵書家であった。後に清照は夫の『金石録』編纂を手伝う事になる。

ところが、母の葬儀のために夫婦揃って帰郷の途中、靖康の変が発生して夫の任地も金軍の攻撃を受けて蔵十数個に分散されていた蔵書類は悉く焼かれてしまう。更に1129年に臨安の宮廷に召されていた夫が48歳で急死、清照とともに残された車十数台分の蔵書の残りも金軍の兵火と流民の略奪によって悉く失われた。更に再婚した夫に虐待された末に離別して流浪の生涯を送る中で優れた詞を多く生み出したと言う。

作品について
李清照は数々の詞、詩、文章を書き残している。中国の人民文学出版社から出版された『李清照集校注』(王学初)には彼女が残した詞、詩、文のほとんどを網羅している[2]。

宋代を代表する儒学者・朱熹は、李清照の詞作について「本朝の婦人の文を能くするは、只李易安[3]と魏夫人有るのみ」と称えている。また宋代の文人・王灼は「才力華瞻にして、前輩に逼り近づき、士大夫の中に在りても已に多くを得ず。若し本朝の婦人ならば、当に文采第一と推すべし」と記している。

清代には李清照は婉約派という宋詞の流派の宗匠であるとされ詞壇における地位は生前以上に確かなものとなっていった。

現代にあっては中国現代を代表する文学者・鄭振鐸をして「李清照は宋代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女流詩人である」と言わしめるほどである。

ただし、動乱の真っただ中を生きたことなどもあって、作品の大部分は散逸し、資料は少ないという。

日本においても、李清照への評価は高く、漢文学の女性翻訳家として著名な花崎采?(子は作家花崎皋平)は述べている。

「李清照は宋代が生んだ女詞人の至宝である。彼女の才能は全く男女の別を思はせない完璧のものであって、南宋十傑中に指折られる大家である。男では李後主、女では李清照、と対照されてゐる。李白を加へて詞家の三李と認められてゐる」

中田勇次郎は花崎采?の編・訳による詞集の序文で「詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、李清照の詞はさらにそのうえに理智のかがやきがそえられて、清新な感覚のうちに、宋詞のもっともよい特質であるさびしさとほそみが、本格的なすがたをよそおってつつまれている點では宋詞のもっともよい例であるといっても過言ではない」と称賛している。















60 張擇端
      ―宋代の画家

張擇端 (十二世紀初期)

宋代の画家
張擇端は(活動於十二世紀初期),字は正道(《味水軒日記》に文友と作字す),東武の人。幼にして讀書を好み,早年 遊學し並びに長期に居を?京に住いし,考中翰林,徽宗朝で翰林圖書院に任職した。

張揮端の生涯について上に示した以外なく、知られていることはほとんどない。わかっているのは、この画家が山東省の生まれで、きわめて重要な一点の絵画、「清明上河図」を残したということだけだ。そこに描かれているのは12世紀初頭の宋の都開封である。この絵はおもに模写によって後世に伝えられた。その多くは、おそらく明代に作成されたものだろう。「清明上河図」のスタイルはほかの絵画と比べてかなり個性的だ。正確で精密な描写は、ほかの一般的な水墨画に描かれる抽象的な風景とは一線を画している。また、花や鳥を色彩豊かに描いた宮廷画とも異なる。
1126年に金の侵略を受けて宋は開封を放棄し、宮廷は南の杭州に移った。張擇端が描いた単色の絵巻には、迫りくる悲劇の影はみじんも感じられない。この絵は見る者を川に沿って農村から都の巨大な城門へ、そして大勢の人でにぎわう都の中心の大通りへといざなう。




   張擇端の「清明上河図」の有名なふたつの場面

通りには数々の店、露天商、飲食店がならび、買物客や旅行者、運搬人や家畜を引く人などがあふれている。
張擇端が描いた活発な商業活動は、宋代の経済発展の大きな特徴である。病気に強い新種の早稲の米がインドシナ半島から伝わったおかげもあって、11世紀に農業生産性が向上した。その結果、農民のなかから農業を離れて織物業や窯業、出版業などに進出する者が出て、手工業が発展したのである。
宋代には都市の形態にも変化があった。唐の都、長安(現在の西安)は、ひとつひとつの区画が壁に囲まれ、夜間の外出制限や市場の統制を容易にしていた。ところが宋の主要都市には内壁や夜間外出制限がなく、結果的に市場が繁栄した。宋代には商業経済の発展により、航行可能な水路が国の広範囲に張りめぐらされ、川や運河を通じて国中に商品が輸送されるようになった。拡大する都市の住民には、国産も輸入品もふくめて、あらゆるぜいたく品が届けられた。宋代には国内市場の急成長により、はじめて紙幣が作られ、切手や約束手形、為替手形といった譲渡可能な有価証券も使われるようになった。


張擇端の絵には、開封の道の両脇に立ちならぶさまざまな店や露店商が描かれている。三階建ての飲食店や、正面の壁がないこじんまりした建物にテーブルと椅子を置いた店もある。屋根のかわりにむしろを日よけにし、簡易テーブルの上に皿をならべた小さな露店もある。



むしろの日よけをかけた別の露店では、路上に敷物を広げ、そこにハサミや包丁をならべて客に見せている。川に停泊した船から運搬人が荷物を投げ下ろしている。ブタの群れをつれて田舎の道を行く人がいる。大きな荷物を背負ったラバや、二頭がくびきにつながれて荷車を引くラバがいる。水牛や背の高いラクダは荷物を山と積んだ大きな荷車を引いて、巨大な城門の下をゆっくりくぐろうとしている。

天秤棒にぶら下げたかごに農産物を入れて売り歩く商人、かついだ棒の先に売り物の帽子を何十個もぶら下げた小物売り、雑踏をかき分けて中国式の手押し車(荷台の中央に車輪がついている一輪車)を押すふたりづれ。駕籠かきが肩に棒を乗せ、箱型の駕寵をかついでいる。役人が長衣をひるがえし、つばの広い黒いシルクハットをかぶって、馬に乗って城門を通りぬけていく。
この絵巻のハイライトのひとつは、川にかかる大きな橋の周辺のにぎわいだ。さまざまな種類の船と同様、この橋の構造はきわめて精緻に描かれている。橋の欄干から身をのりだす通行人がいる。視線の先には流れにもまれて橋に近づく船がある。橋の下をぶじに通りぬけようと、船員が必死にマストをたたもうとしている。



船尾では数名が流れに逆らって懸命に船をこぎ、水夫が総出で橋の側面を棒で押し、橋から船を離そうとしている。その向こうでは、この船にぶつかられそうになって、岸につないだ船から人があわてて逃げ出そうとしている。


張擇端の絵は活気にあふれていると同時に、静謡感もただよう。茶店の客はすぐ側の橋で起きている騒ぎにも気づかず、お茶を飲み、会話を続けている。この驚くべき絵画は、宋代の都市の発展と商業の拡大をみごとに写し出している。



















62 馬遠 (活躍期1190年頃−1225年)
      ―宮廷画家



馬遠(ば えん、生没年不詳)は、南宋の画家。字は遙父。号は欽山。当時において夏珪と並ぶ院体画の代表的な画家。


馬遠(字は欽山)は南宋時代に銭塘(現在の漸江省杭州)で生まれた。中国の古典絵画を代表するもっともよく知られた画家のひとりである。五世代にわたる宮廷画家の一族で、その歴史は曽祖父の馬貴にはじまり、馬遠の息子の馬麟まで続いた。全員が宮廷画家として末の皇帝に仕えている。馬遠は三人の皇帝に仕え、画院侍詔(画院は宮廷の絵画制作機関で、侍詔は最高位の画家)まで昇進した。最後には画家として望みうる最高の栄誉である金帯を賜っている。
馬一族は河中(現代の山西省永済市近く)出身だが、華北が女真族に侵略されたとき、宮廷とともに華南にのがれた。一二五年に女真族が華北で金を建国すると、末は南に首都を移して南末を建てた。そのため馬遠は洗練された文化をもつ杭州で生まれ育っている。それが馬遠の芸術に大きな影響をあたえているのはまちがいないが、馬遠の人生について、こうした数少ない事実のほかにはほとんど何も知られていない。
その生涯についてわかっていることは極端に少ないが、馬遠が宮廷で高く評価されたのは確かだ。とくに寧宗は馬遠のいくつかの作品によせる詩を書き、寧宗皇后楊氏も馬遠の多数の作品に践文(書物や書画の来歴や感想を記した短い文)を書いたという。馬遠の絵には「馬一角」とよばれる構図法が用いられている。これは画面の一角のみに主要な風景を描き、対角線上に余白を残して、別の一角に薄墨で二番目の風景を描く手法だ。この構図によって絵に劇的な非対称の遠近感と奥行きがかもし出され、中国絵画の主流の画法として定着した。馬遠の絵のもうひとつの特筆すべき特徴は、その精密さだ。その絵には 「厳格な精密さ」 があるといわれる。

さらに馬遠は斧努飯とよばれる画法を用いた。これは斧で削りとったような峻厳な岩肌の立体感を表現する手法で、筆を鋭く斜めに引くことによって得られる効果だ。こうした技法があいまって生まれるむだのない優美さこそ、馬遠が称賛されるゆえんである。
しかし、こうした特徴の多くは、李唐(1130年以降に死去) が最初に考案したものだ。李唐の画風は北朱の複雑で重厚な芸術から南宋画の夢想的な性質への過渡期に位置している。李唐は北宋最後の数年間に画院の上級の山水画家だった。馬遠は花鳥画や人物画を描かなかったわけではないが、得意としたのはやはり山水画である。大きな山水絵巻を数点作成したようだが、現存するものは一点もない。また、険しい山と流れ落ちる滝、逆巻く急流とそびえたつ松の木を描いた縦長の絵巻も描いている。ほとんど里三色で描かれた馬遠の山水画は、写実ではなく理想化した自然を描き、自然に対する哲学的な見方を反映している。


馬遠「寒江独釣図」には、東博に4件の模写が所蔵されています。三重の箱と美しい更紗につつまれ、室町時代以来の日本人が大切に守ってきたことも分かります。作られたのは"中国"(南宋)でも、それよりももっと長い600年近くを"日本"で過ごし 、作品は徐々に日本歴史の一部になっていったと言ってもよい。


馬遠はつねに画院のもうひとりの画家、夏珪とともに、山水画の大家として「馬夏」とならび称されている。
馬遠とその同時代の画家による暗示的な山水画に触発されて、非対称な構図と鋭く切りこむ筆使いが特徴の、似たような画風の絵が次々に描かれた。馬夏の山水画は、のちの批評家によって 「残山剰水」(そこなわれて残った山や川)しか描かれていないとけなされることもある。朱を代表する画家の画風を見くだしたこの評価は、国土全体をモンゴル族に奪われた宋王朝の弱体化に対する皮肉な見方が大いに影響している。明代になって漢人による帝国が復興すると、馬夏の山水画はふたたび評価され、その影響は5,6世紀の日本のすぐれた水墨画にまで広がった。



馬遠の代表作に、「楊柳山水図」と「山径春行図」がある。「楊柳山水図」は、画集の一枚として団扇 (丸い団扇の片面に絵画、片面に詩が書かれ、南末の画院の画家が好んで用いた)に描かれている。絵のなかにはさまざまなものが書きこまれているが、それらのほとんどは、ぼんやりとして形がはっきりしない。ただ二本の柳の木だけがくっきりと描かれ、その左側に川にかかる風雅な橋が見えるだけである。もう一点の絵は、自然のなかですごす喜びをあますところなく表現している。左瀾(「馬一角」)にはひとりの学者が立ち止まって、二羽のコウライウグイスが飛び交い、鳴きかわすのを眺める姿が描かれる。その後に学者の胡琴をもってつき従う侍童がいるが、非常に小さいのでほとんど目につかないほどだ。画面の左にうっすらと山の姿が示され、構図の右全体は、この風景を歌った二行詰が書かれている以外は、完全に余白である。
















63 丘処機(丘長春)
        ―全真教指導者

丘 長春(きゅう ちょうしゅん、繁体字: 丘 長春; 簡体字: 丘 ?春; ピン音: Qi? changch?n; ウェード式: Ch'iu Ch'ang-ch'un、1148年(皇統8年)-1227年(太祖22年))は、道教の一派、全真教の金末期から元初期の道士。

姓は丘[1]、諱は処機 (繁体字: 處機; 簡体字: ?机; ピン音: Chu J?; ウェード式: Ch’u-chi)、字は通密。道号は長春(ピン音: Chang Ch?n)、全真教における尊称として「長春真人」と呼ばれる。

道教の道士、丘処機は海に面した山東省の曲辰民の家庭に生まれた。子どもの頃に両親と死に別れ、1167年に全真数の開祖、王重陽に弟子として引きとられるまで、ほとんど教育を受けたことがなかった。このとき処機という名前と、長春という道号を授かった。
道教は北宋時代、とくに徽宗(伝記撃のもとで勢いをとりもどしたものの、女真族に征服された華北などでは数々の試練に襲われ、道教内に改革の機運が生まれた。そのなかでもっとも影響力が強かった教団が全異教である。全真数は、変わり者とみなされた王重陽という人物が創始した一派で、丘処機は王重陽の四番目の弟子にあたる。
全真数は前近代の中国において「三教」とされた儒教、仏教、道教を合一する立場に立っている。インド仏教の思想から輪廻や因果応報など多くの概念をとりいれた。般若心経を高く評価したほか、禁欲主義の伝統をもつ仏教やジャイナ教にも強い関心を示した。全真教の道士はあらゆる世俗的な所有物を放棄するよう求められるだけでなく、厳しい禁欲を続けなければならない。それが旧道教との違いで、旧道教では性的関係は 「生命力」を養う方法だとみなされていた。この点で、処機は重陽の教えを究極まで実践したといえるかもしれない。彼は宗教上の義務に専念し、肉欲を断つために、自分で去勢したと伝えられている。
創始者である重陽が270年に世を去ったとき、全真数は主として華北の庶民のあいだに広まっていた。重陽の七人の弟子は庶民への布教活動を続ける一方、社会の上層部にもこの新しい教団を拡大しはじめた。長年の孤独な修養と禁欲的瞑想をへて、処機は支配階級への布教に大きな役割を果たした。二八八年には金の皇帝世宗とすくなくとも二回会見し、教団の影響力をいちじるしく高めた。
1186年に処機は全真教の本山にあたる道場の住職となり、1203年には全真数の最高責任者となった。処機は貧民の救済などを通じて民衆のためにつくし、権力者との政治的結びつきを強めて、教団の拡大のために精力的な活動を続けた。
処機はさらに遠大な政治的野心をいだいていた。モンゴル族と直接の交流はなかったが、処機は彼らが将来大きな勢力になるだろうと鋭く見通していた。1216年以降、処機は金の君主からの謁見の招きをたびたび辞退している。金王朝がゆらぎはじめると、処機の故郷の山東省の各地で南末との同盟を求めるところが出はじめたが、処機は末の使節からの招待を断わった。
1219年末に処機との会見を求めるチンギス・カンの親書をたずさえた使者が中央アジアから訪れると、処機はこの招待を受けた。1220〇年2月23日、処機は一八人の弟子をつれて山東省を発ち、北ヒして一か月後に北京近郊にたどり着いた。そこでチンギス・カンがはるか西方のサマルカンドに遠征中であると知らされ、処機は彼が遠征から帰還するまで会見を延ばしてほしいと手紙を書いた。しかしチンギス・カンは、処機にそのまま旅を続けて会いに来るように命じた。
チンギス・カンからあたえられた保護と援助があっても、広大なアジア大陸を横断するのは想像を絶する旅だった。処機の若い弟子のひとりは道中で命を落とした。モンゴル高原とゴビ砂漠を抜け、処機の使節団は
1221年11月にようやくサマルカンドに到着した。
処機は一二二二年にチンギス・カンに三度面会した。不老不死の薬を探し求めていたチンギス・カンは、臣下から処機は三〇〇歳だと聞かされて、処機に向かってうやうやしく「神仙」とよびかけた。処機は、長寿は神秘的な薬などではなく健康的な生活から得られるのだと正直に答えた。そして平和主義と命の尊重という仏教的な性格のある全真教の教義を説いた。また、中国の国土がいかに豊かであるかを説き、華北にいる女真族を打倒するよう暗にうながした。
翌年、処機は帰国のため東に向かうモンゴル軍とともにサマルカンドを出発した。チンギス・カンと別れた後、彼は天山山脈を越えて中国に入り、1224年の春にようやく北京に帰り着いた。処機はチンギス・カンから贈られた世俗的な贈り物はすべて辞退したが、処機をモンゴル国家における道教の最高責任者と認めるという布告を手に入れた。「神仙」とよばれた処機自身は1227年の夏に北京で世を去ったが、チンギス・カンとの出会いによって得たまたとない有利な政治的立場を生かして、全真教は元王朝のもとで、もっとも大きく影響力のある道教の教団に成長するのである。
元につづく明王朝(1368年 - 1644年) では、処機は中国の百官(その多くは自分で去勢した人々) から「守護聖人」 に祭り上げられた。















64 元好問
    ―詩人・歴史家・金の歴史の保存者


元好問(1190−1257年)詩人・歴史家・金の歴史の保存者


元好間は1190年、現在の山西省折州市(唐の大詩人、伝記42日居易の故郷太源市の近く) の知識人の家庭に生まれた。そのころ華北は金王朝の支配下にあった。元好間は華北を四世紀から六世紀なかばにかけて支配したかつての遊牧民、拓践部の末裔で、成長後は金の忠実な臣下となった。
モンゴル族が侵略を開始すると、金は何度も手痛い敗北を喫し、1214年にはモンゴル兵が元好間の故郷の県の中心部を制圧した。このとき元好間の兄もふくめて、住民はひとり残らず虐殺された。その年の夏、金の宮廷はやむをえず北京から南に移動し、末の旧都開封に移った。こうして金は故郷である中国東北部と、そこに残っていた女真族とのつながりを断たれたのである。一方、南末は経済的に繁栄し、軍事力をたくわえて金の侵攻を防いだ。
南朱では強い民族意識が生まれ、モンゴ?族による侵略に数「年間もちこたえていた。そのあいだに華北住民の政治的な忠誠心には微妙な変化が生じていた。華北に暮らす人々は、漢人であれほかの民族であれ、一世紀以上も「蛮族」、すなわち遊牧民の支配を受けて生きてきた。北京周辺の地域にいたっては、蛮族の支配は数世紀にもおよぶのである。華北に民族的な摩擦は深く根を下ろしているとしても、彼ら「華北人」は南宋宮廷に少しの共感もいだいていなかった。彼らのなかの知識人階級は、元好間もそのひとりだが、自分たちこそ「中原」を受け継ぐ正当な中国人であると考えており、女真族の支配をなんの躊躇もなく受け入れていた。
こうした考えと自分の遊牧民のルーツに対する意識から、元好間は金へのゆるぎない忠誠心を育てた。
1221年に金の官吏採用試験に合格し、中央の官についていた1232年、金の都の開封がモンゴル軍に包囲される。元好間は、クーデターを起こして開封をモンゴル軍に明け渡した金の将軍に強要され、命とひきかえにこの将軍をたたえる碑文を起草した。それが彼の生涯ただひとつの「汚点」となった。(開封を開城したことで餓死寸前の民衆が救われたのは事実である。攻撃によって陥落していれば、虐殺はまぬがれなかっただろう。)モンゴルによる金の征服後、元好間は仕官せずに市井の人として生き、1257年に67歳で亡くなった。戦乱は続いたが、元好間はその文学的名声が幸いして、比較的快適で平穏な生活が送れたようだ。モンゴル宮廷の閣僚をつとめる有名な耶律楚材と手紙のやりとりもあった。耶律楚材は契丹王族の血を引く漢化した家系の出身で、金が滅んだのち、モンゴル政府に召し出されていた。1252年には当時のモンゴル皇帝モンケ・カアンの弟で、強い影響力をもつクビライの謁見も賜っている。元好問はクビライに儒教の振興を願い出た。
遊牧民の家系であることを考えれば、元好間はおそらくモンゴル宮廷に仕える意欲があっただろう。しかし、当時のモンゴルはすでに南宋征服に目標を切り替えており、支配者である彼らにとって元好間の使い道はほとんどなかった。元好間は金王朝の歴史と文化を後世に残すために残りの生涯を捧げた。彼は個人的に歴史論文『壬辰雑編』(壬辰は干支で、1232−1233年にあたる)を執筆した。100万字を超えるこの書は、のちに元の宮廷がまとめた金の公的な歴史書(『金史』)のおもな下敷きになったと広く認められている。彼の『中州集』は金の作家・詩人による作品を多数集めたもので、この選集がなければ金の文学者は南末の作家の影に隠れて忘れられていただろう。彼が残した記録のなかでもっとも衝撃をあたえるのは、モンゴル族による猛攻撃で大混乱におちいった華北で、漢人農民が女真族への大規模な民族虐殺をくりひろげるのを見たという、元好間独自の証言である。「蛮族」と称された遊牧民の漢化された末裔である元好間は、金への忠誠心を最後まで失わなかった。
元好間の証言がなければ、この重要な歴史の一部分は完全に忘却の彼方に追いやられていただろう。

山居雜詩  金・元好問        
鷺影兼秋靜,?聲帶晩涼。
陂長留積水,川闊盡斜陽。
(山居雜詩)              
鷺影 秋靜に兼へ,?聲 晩涼を帶ぶ。
陂ひ 長くして 積水を留め,川 闊くして 斜陽 盡く。


















66 関漢卿  (活躍期1240頃―1300年)
   ―中国演劇の創始者

     関漢卿   中国演劇の創始者

劇作家の関漠卿は一二二〇年代に生まれたと考えられている。ときおり南部に旅をしながら、一三〇〇年以降まで生涯の大半を首都大都?現在の北京? ですごした。
元王朝では、政府の官職につけるかどうか、そしてそこで出世できるかどうかは、ほぼ民族や世襲の条件で決められていた。科挙は実施されなかったか、あっても大体は有名無実だった。そのため、前近代の中国社会を伝統的に支えてきた教養ある漢人知識人には出世栄達のチャンスがほとんどなかった。儒学を学んだ漢人知識人の元での社会的地位を表す言葉に、「九儒十弓」がある。弓は乞食のことで、儒学を学んだ知識人は娼婦と乞食のあいだの九番目の階層という意味だ。政治的に出世する希望をもてなかったので、漢人知識人は官吏として成功するという伝統的な人生以外の道を求める必要があった。演劇の分野で活躍した関漠卿もそのひとりである。関漢卿は才能豊かで多作な戯曲家で、六〇を超える劇(雑劇とよばれる)を制作した。そのうち現存しているのは一八作品で、そのほかに多数の散曲?メロディに合わせて歌われる歌曲?も残した。自分が舞台に立って演じることもあった。
関漢卿の戯曲は大半が口語体で書かれ、大人気を博した。テーマはさまざまで、歴史上の事件や裁判劇、恋愛、家族や社会的な出来事などを描いている。当時の漢人のあいだでは、戯曲作家、関漠卿の名が知れわたっていたので、関漠卿の名前はほかの人気戯曲家を表す代名詞としても通用したほどだ。彼は元曲?元代の戯曲? の創始者であり、中国文学史上初の本格的演劇を代表する卓越した戯曲家と考えられている。
関漠卿の戯曲と演劇は、異民族の支配下で漢人知識人が独自の文化路線をたどったことを象徴している。モンパ適温摘押黙.、元代の俳優の像ゴル族の征服者も中央アジアや酉アジア出身の 「征服協力者」も、漢人とは異なる文化のなかで暮らし、彼らの国家のほぼ末期まで、大半が中国語を理解しなかった。
関漢卿の戯曲は反モンゴル感情を代弁していた。劇中では賢明な漢人の廷臣が悪役をこらしめ、皇帝が中国語を理解できないことがほのめかされ、モンゴル貴族が中国人に乱暴を働いても罰せられない実状が描かれた。代表作 『賓蛾冤』 は、腐敗しきった政府を告発する物語だ。関漢卿は女性の登場人物への共感に満ちた物語を数多く書いていることから、女性解放論者の先駆けとみなされている。そして彼の知識人層に対する称賛の念は、「才人佳人」(才知ある知識人と美貌の女性) のありきたりな恋愛物語をはるかに凌駕する関漠卿独特の戯曲として結実した。
関漢卿の反政府的で漢人びいきの演劇はさかんに上演され、戯曲としても読まれたが、元政府からの反発はほとんどなく、ましてや禁止されることはなかった。元の滅亡後に誕生した中国政府は反乱に結びつく可能性のある文学作品の取り締まりに熱心だったが、元が唯一警戒していたのは、漢人(および高麗人と漢化した契丹族や女真族)を武装させないことだけだったのである。













67 パスパ


   ―チベット仏教の指導者・パスパ文字の制作者
パスパ(バクパ)は本名をロテ・ギヤンツエンといい、一二三五年に現在のチベット自治区シガツエ市で、チベット仏教サキヤ派の有力氏族コン氏に生まれた。
サキヤ (「白い土地」または「灰色の大地」)は地名だが、チベット仏教の宗派の名前であり、コン氏にゆかりの深い寺院の名称でもある。パスパの曽曽祖父にあたるコンテョク・ギエルポが1073年にこの宗派を創始した。幼い頃両親に死に別れたパスパは、おじのサキヤ・パンディタに養育された。サキヤ・パンディタはサキヤ派の五先師とよばれる五人の傑出した指導者のうち、四番目に数えられる学識豊かな高僧である。パスパは幼少期からとびぬけて聡明で、仏典をよく習い覚えたので、「聖者」を意味するパスパの名でよばれるようになった。
当時はモンゴル族による征服がもっともさかんな時期で、サキヤ派とつながりのあった仏教国の西夏は、チンギス・カンが死亡する直前の1227年に征服された。チベット仏教の各派はモンゴル族の侵攻を脅威であると同時にチャンスともとらえた。先見の明のあるサキヤ・パンディタは、チベット仏教の座主としてはじめてステップ地帯の遊牧民だった征服者モンゴル族に接触した。彼は1244年末にパスパをともない、滅亡した西夏の領土だった涼州(現在の甘粛省卦掛)におもむいた。一行は1246年夏に到着し、一二四七年の初めにモンゴルの皇子コデンに拝謁した。こうしてチベットはほぼ平和的にモンゴル帝国に統合され、モンゴルの支配者はチベット仏教の信徒となった。
涼州でおじとともに仏教研究を続けているうちに、パスパは中国人、ウイグル人、そしてモンゴル族の文化に
対する理解を深めた。サキヤ・パンディタは1251年に亡くなり、サキヤ派の座主は一六歳のパスパに引き継がれ、パスパは五先師の五番目に数えられるようになった。翌
年の夏、モンゴルの若き皇子クビライが雲南地方の独立国である大理へ遠征する途上でパスパを野営地に招いた。
パスパの学識の高さに感銘を受けたクビライは、パスパから潅頂(頭頂に水をそそぐ仏教の儀式)を授けられ、パスパを上師としてうやまった。パスパはクビライとともに華北に入った。
1255年、成人に達したパスパは、正式に僧侶となった。
クビライが1260年に大力アンとして即位してまもなく、パスパは国師の称号をあたえられ、帝国内の仏教界全体の統率者として認められた。1264年には封建領主としてチベットの行政権もあたえられる。その年、パスパは自分の封士となったチベットに帰国し、行政と壮大なサキヤ南寺の建設を監督する。サキヤ南寺はサキヤ派が新たに獲得した権威の象徴となった。サキヤ派の座主はその後もモンゴル族支配者の家系から妻をめとり、元王朝の末期までこの領主権を維持した。
パスパは1268−1269年の冬に北京に戻った。彼はクビライの皇太子テンキムを先頭に、高官からも庶民からも、あたかも「仏陀の生まれ変わりであるかのような」前例のない歓迎を受けた。
クビライの命令により、パスパは新しい文字の作成に取り組んだ。これまでモンゴル語はウイグル文字によって書き表されていたが、その表記は完全とはいえなかった。新しい文字はウイグル文字だけでなく、帝国内で使用されるすべての言語を表記する統一文字として作られた。チベット文字をもとに作られた縦書きのパスパ文字は 「国字」 に制定された。元王朝の滅亡後は使われなくなったが、パスパ文字で表記された多くの文書 (モンゴル語や他言語で書かれたもの)が現存し、言語学の価値ある資料となっている。また、パスパ文字は中国語を表音文字で表記しようとした初の試みでもあった。さらに、一五世紀に作られた非常によくできた朝鮮のハングル文字も、すくなくとも部分的にパスパ文字の影響を受けていると一般に考えられている。
パスパは1270年に国師から帝師に格上げされ、帝師となったパスパはクビライ・カアンの南宋征服を手伝った。1271年にパスパは北京を出て臨挑 (甘粛省内の県)に行き、そこからクビライの皇子テンキムの軍隊とともに故郷サキヤへの帰途につき、1276年に帰還した。パスパはサキヤ寺に広大な仏教図書館を建設するために残りの生涯を捧げた。1278年、パスパは元の皇太子チンキムの求めに応じて仏教の研究書 『彰所知論』 を完成させた。この書は漢訳され、中国の重要な三蔵(仏教の典籍の総称)のひとつになった。
一二七九年頃にサキヤ派内の内部抗争が起こり、パスパの敵を討伐するために元から遠征軍が送られた。パスパは1280年11月22日に亡くなった。(ダライ・ラマ五世によれば、殺害されたという。) クビライ・カアンはパスパの死を深く悼み、彼の遺灰をおさめるために大都に立派な仏舎利の建設を決めた。40年後、元の皇帝アユルパルワダはパスパを祀る寺院を中国全土に建設し、「孔子廟にまさるともおとらない典礼によって」毎年礼拝するよう命じた。
    
















68 トクト  (1312−1356)
         ―元王朝最後の名宰相

64. トクト  元王朝最後の名宰相
トクトはモンゴル高原の遊牧民メルキト族の貴族の家柄に生まれた。モンゴル貴族の多くがそうだったように、トクトはケシクとよばれる元の近衛軍団に一四歳でくわわった。一三三一年、トクトは一九歳で早くも近衛軍団の長官に就任している。三年後には軍政副長官に、そして一三三八年には御史大夫?官吏の監察・弾劾をつかさどる官? になった。
トクトがこれほど短期間に昇進したのは、彼の伯父バヤンが右丞相として中央政府で独裁権をにぎっていたからである。しかし甥のトクトはバヤンの専横を嫌って、一三四〇年、伯父が都の大都を離れて狩猟に出たすきにバヤンを追放した。
漢人の伝統とは対照的に、モンゴルの官僚制度では右丞相が左丞相より上の地位にあったので、右丞相は当時の宰相に相当する地位だった。トクトの父がごく短期間その地位についた後、一三四〇年一一月に二八歳のトクトが右丞相を引き継いだ。
トクトはひとりの南部出身の漢人官僚を信頼し、この人物を師とも相談役とも仰ぎながら、伯父のバヤンが敷いた数々の差別的政策を廃止した。たとえば科挙を再開し、非モンゴル族が馬を育てるのを許可した。トクトはたちまち漢人のあいだで 「有徳の宰相」という評判を得た。
トクトの名を中国史に永遠に名をきざむことになったもうひとつの業績は、元に先立つ三代の王朝、末、遮、金の正史を編纂したことだ。同時にならび立った王朝のうち、どれを唐の正当な後継者とするかという点で意見がまとまらなかったため、正史編纂事業は長いあいだ棚ヒげになっていた。漢人の知識人官僚は末を正統とみなしたが、モンゴル族は強く反対した。それもむりからぬことで、南末が長期的に女真族の金に臣下の礼をとっていたという理由も少なからずあったのである。トクトは三王朝すべてを対等に扱うことで、この難題を解決した。
トクトは元の最後の皇帝トゴン・テムルとその高麗人の妃と親密な関係を保つことによって権力をふるった。
トクトがいかに皇帝に信頼されていたかは、のちに皇太子となる皇帝の息子のアユルシリダラが幼少の頃から五歳までトクトの家庭で育ち、この右丞相を父親がわりとよんでいたことからもよくわかる。
宮廷の陰謀があいつぎ、トクトは一三四四年に丞相を辞任せざるをえなくなった。しかし宮廷との深いつながりが功を奏して、二二四九年にトクトは右丞相に返り咲く。元の政権は深刻な危機におちいっていた。貧困と自然災害が引き金となって農民反乱がひっきりなしに発生し、とくに一三四四年の洪水は数か所で黄河の堤防を決壊させた。政府が歳入赤字を解消するために紙幣を乱発したせいで、状況はますます悪化した。トクトは一三五一年に大規模な治水事業を実施した。黄河を漢深し、堤防の切れたところをふさぐために一七万人の農民
や兵士が徴発された。工事は完成したが、そのために課せられた負担は、困窮した農民をいっそう略奪行為に走らせる原因になったといっても過言ではない。
有能で不屈の宰相トクトは、モンゴル族の皇帝にあくまでも忠実であり、傾きかけた王朝を立てなおすために奔走した。たとえば華北で実験的に米の栽培に着手したが、それは南部からの米の輸送が反乱によって減少し、都周辺が穀物不足におちいったのを解消するためだった。しかし、トクトもまた、敵に対する報復心の強さという元の宮廷の性質と決して無縁ではなかった。漢人による農民反乱が激化すると、トクトは漢人官僚を元の軍事問題にかんする審議に参加させなくなった。
一三五四年、トクトは反乱軍のなかでも最強のリーダー張士誠を討伐するために、元の大軍を率いて南下した。ところが、トクトが反乱軍の最後の砦を破ろうとしていたまさにそのとき、宮廷にいた政敵が皇帝をそそのかし、トクトを解任させたのである。トクトはただちに指揮権を返したが、百万ともいわれる元の大軍はばらばらになってしまった。この事件は元の末期におけるターニングポイントだったと一般に考えられている。一四年後、元は農民反乱によって滅亡した。
一三五六年一月一〇日、追放されたトクトは政敵に毒を盛られて亡くなった。

 

(3)100人-五代十国から元


五代十国時代から元まで  907年〜1368

907年−1368年
人口増加と自然災害(さらにそれらの問題に対処する官僚の能力の低下) にくわえて、節度使(地方軍司令官)の力の増大によって反乱があいつぎ、唐は滅亡した。中国はふたたび分裂し、多数の王国が興亡した。九六〇年に末がふたたび中国を統一すると、宋王朝のもとで都市が発達し、飲食店や売店や本屋が道沿いにならぶ、現在の都市生活と変わらない光景が現れた。しかし末は華北を失い、宮廷は南の杭州にのがれた。華北には非漢民族の帝国が次々と興隆し、とうとうモンゴル族が中国全体を征服して一二七九年に国号を元とあらためた。過去の分裂期と同様に、この時期に学問や芸術が勢いよく花開いた。末代の文化のもっとも輝かしい功績は、新儒学思想の誕生である。この思想は儒教に仏教を融合させた革新的な学問だったが、明と活の時代には形骸化し、国家の定める正統な学問となって、融通性を失った。


 五代十国時代から元まで  907年〜1368
ID
人   物 記 事 ・ 備 考
49 耶律阿保機 ―契丹族首領・遼の建国者
50 李存勗 ―突厥系の晉王・後唐皇帝
51 趙匡胤 ―宋の太祖
52 柳宗元 ー詩人
53 王安石 ―改革を断行した官僚
54 沈括 ―科学史家
55 蘇軾(蘇東坡) ―天才文学者
56 方臘 ―マニ教徒の反乱指導者
57 徽宗 ―宋の文化人皇帝
58 李清照 ―宋の女性詩人
59 岳飛 ―愛国の英雄
60 張擇端 ―宋代の画家
61 朱薫(朱子) ―朱子学の創始者
62 馬遠 ―宮廷画家
63 丘処機(丘長春) ―全真教指導者
64 元好問 ―詩人・歴史家・金の歴史の保存者
65 クビライ・カアン ―中国皇帝となった遊牧民の君主
66 関漢卿 ―中国演劇の創始者
67 パスパ―チベット ―チベット仏教の指導者・パスパ文字の制作者
68 トクト― ―元王朝最後の名宰相
         



49. 耶律阿保機(872−962)
契丹族首領・遼の建国者


耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yel? Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。
契丹(キタイ)族・耶律氏(ヤルート)の迭剌(てつら)部出身で、耶律撒剌的と宣簡皇后蕭氏との間の長子として872年に生まれた。耶律氏は発音によっては移剌(イラ)とも呼ばれる。また天皇帝、天皇王の称号も持っていた。

伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。

初めは遙輦氏の痕徳菫可汗に仕えていたが、906年に痕徳菫可汗が没すると、907年2月27日に可汗に即位(第1次即位)、室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。北宰相の蕭轄剌、南宰相の耶律欧里思が群臣と共に天皇帝号を奉じて皇帝となる。911年から諸弟の反乱が続発するが、剌葛、迭剌、寅底石、安端などを征伐してその与党を処刑した。

契丹の建国
916年3月17日の第2次即位において国号をキタイ=契丹とし、元号を神冊と定め、キタイ人の王朝を建国した。太祖は北宰相に蕭実魯、北院夷離菫に斜涅赤、南府宰相に耶律蘇、南院夷離菫に耶律迭里を任じ、国家運営を進めていく事になる。

西の突厥・吐渾・小蕃・阻卜・タングート・ウイグル・沙陀諸部、北の女真、南の中国10余州、東の渤海を討って服属・占領、長子突欲(劉倍)を封じて東丹国を作った。渤海との戦役からの帰路の途中で病没した。

遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制、遊牧所領内にも多くの都市を建設するなど、遊牧国家に農耕国家の機構を取り入れ、匈奴以来の遊牧国家機構をより強固なものとした。また、920年には大小2種の契丹文字を制定した。


耶律阿保機は八七二年に契丹族迭刺部の耶律氏に生まれた。契丹は遊牧民で、おそらくモンゴル祖語を話す人々だったと考えられている。阿保機の台頭は北魂の初代皇帝、拓践珪 (伝記30) やチンギス・カンの場合と似ていなくもない。当時の迭刺部は徐々に勢力を増してはいたが、契丹のなかでもっとも有力というわけではなかった。いくつかの部がゆるやかな連盟を結んで構成された連合国家、契丹のなかで、阿保機はまず味方を増やし、反対勢力を倒して、三〇歳になる前に可汗の近衛隊長に出世した。
九〇一年、阿保機は迭刺部の首長に選ばれた。それからまもなく可汗の副司令官となる。九〇七年に契丹各部の首長や重臣らが出席する三年に一度の議会 (モンゴルの最高決定機関であるクリルタイに類似) で、阿保機は契丹の新しい可汗に選出された。
しみついた伝統はなかなか消えないものだ。阿保機は叔父や弟もふくめて、契丹の有力者による抵抗にたびたび直面した。とくに吋汗を選びなおす時期が危なかった。阿保機は暴力的な手段や謀略、外部勢力の利用、しりぞくと見せかけて油断させるなど、あの手この手で彼らの攻撃をことごとく跳ね返した。すでに中国語を巧みにあやつれるようになっていた阿保機は、権力の安定と可汗の世襲制を確立するため、中国式の政治制度をとりいれた。
阿保機はおそらく九一六年に皇帝として即位し、中国の先例にならって(達の) 太祖となった。また、中国の長子相続制を踏襲して長男を太子に立て、契丹のほかの有力な氏族が可汗の継承権を主張できなくした。阿保機は契丹に初の儒教寺院を建立し、九一八年に現在の内モンゴルに恒久的な首都の建設を命じた。
阿保機は 「契丹大字」とよばれる表意文字の制定を命じ、九二〇年に公布した。漢字に似たこの文字は使い勝手がよくなかったので、阿保機の弟が「契丹小字」を考案した。こちらは表音文字で、テユルク系遊牧民のウイグル人が使うアルファベットを参考に作られている。阿保機は国内の遊牧民は従来の部族制、増加する漢民族は中国式の制度で統治する二元的統治体制をとった。
阿保機は華北各地の軍事指導者と大小の衝突をくりかえしながら、緊張をはらんだ共存を維持した。国内の支配を万全に固めると、領土の拡大に着手し、おもに北や西の遊牧民を征服して版図を広げた。しかし、阿保機は九六二年九月六日に亡くなり、侵略軍を華北に向かって南下させることはついにできなかった。
帝位は阿保機が定めた太子ではなく、より戦闘的な次男にゆずられた。
この二代皇帝は契丹国の版図を華北の内にまで広げ、国号を達とあらためて北京を首都のひとつとした。西洋ではキタイまたはキャセイという言葉で中国を表す場合があるが、これは古い民族名の契丹―キッタンはキタイの複数形― に由来している。









52 趙匡胤
     ―宋の太祖


趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。

生涯
河北省固安県の人。父は後唐の禁軍将校であった趙弘殷(後周の武清軍節度使・太尉を追贈され、宋で宣祖の廟号を追贈された)。 母は杜氏。次男として洛陽に生まれる。後漢の初め頃には不遇の身であり各地を転々としていたが、襄陽のある寺の老僧に勧められ、後に後周の太祖となる後漢の枢密使郭威の軍に身を投じる。

後周の世宗が即位すると近衛軍の将校となる。北漢の軍を迎え撃った高平の戦いにおいては、左翼の軍勢が敗走して後周軍が危機に陥る中、趙匡胤は同僚を励まし、北漢軍の前衛を打ち破る活躍をして、後周に勝利をもたらした。

世宗の南唐征伐に従軍し、南唐の節度使であった皇甫暉・姚鳳らを自ら虜にする功も立てる。その後、揚州を攻めていた同僚の韓令坤が南唐の援軍を前に撤退を求めてくると、世宗より援軍として派遣され、「もしも逃げる者があれば、その足を斬る」と督戦し、韓令坤らの必死の防戦の末、南唐軍万余りの首級を挙げることに成功した。その後も趙匡胤は次々と南唐の城砦を抜いた。

趙匡胤の威名を恐れた南唐の李mは趙匡胤と世宗の間を裂こうと、趙匡胤に手紙と白金3千両を贈るが、趙匡胤はすべて世宗に献上して、君臣の間に亀裂は生じなかった。

世宗が崩御して、わずか7歳の恭帝が即位すると、これに付け込んだ北漢の軍勢が来寇する。その迎撃の軍を率いる最中、陳橋駅で幼主に不安をもった軍士により、皇帝の象徴である黄衣を着せられて皇帝に冊立される(陳橋の変)。趙匡胤は軍士たちに自分の命令に従うをことを確認させ、恭帝と皇太后の符氏、及び諸大夫に至るまで決して危害を加えないこと、そして官庫から士庶の家に至るまで決して侵掠しないことを固く約束させた上で、帝位に即くことに同意した。開封に戻った趙匡胤は恭帝から禅譲を受けて正式に皇帝となり、国号を宋と改めた。

その後、各地に割拠する諸国を次々に征服していったが、残るは呉越と北漢のみとなり天下統一が目前に迫った976年、50歳で急死した。その死因については古来、弟の太宗により殺害されたという説(千載不決の議)が根強い。

崩御の翌年である太平興国二年(977年)正月に太祖の廟号が贈られ、英武聖文神徳皇帝と諡された。

諡は大中祥符元年(1008年)八月に真宗によって啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝と改められた[2]。

趙氏の出自
趙匡胤自身は遠祖は?郡の人である前漢の名臣・趙広漢の末裔を自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢の劉備が中山靖王の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。

政策
戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は軍人の力を削ぐことに腐心した。唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。また、科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。ただ、趙匡胤の布いた文官支配体制はその後、代を経るごとに極端に強化され、そのことが軍事力の低下と官僚間の派閥争いを激化させる要因となり、北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となったことは否めない。

趙匡胤は、自身が軍人であったにも拘らず文治主義を進め、唐末以来の戦乱の時代に終止符を打った。中国の歴代王朝においては、夏王朝から西晋に至るまで、項羽の行いを例外として、前王朝の血統を尊重し滅ぼすことはなかった。しかし西晋滅亡以降においては、王朝交替のたびに、前王朝の君主と一族は皆殺しにされるか、殺されないまでも幽閉するのが通例となった。しかし趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として優遇したばかりか、降伏した国の君主たちをも生かして、その後も貴族としての地位を保たせている。 柴氏は300年にわたって家が保たれ、士大夫は朝廷において活発に議論をした(『水滸伝』に登場する侠客で後周皇室の子孫・柴進の設定はこの一事を踏まえたものと考えられている)。

趙匡胤は中国歴代皇帝の中でも評価が高く、清代に執筆された小説『飛竜全伝』の主人公としても知られる。

趙匡胤の評価
『宋史』は、堯・舜、殷の湯王、周の武王以降の、相次ぐ乱世で荒廃した社会を救う、四聖人に匹敵する才の持ち主として高く評価している。

建国してから藩鎮の兵権を奪い、贓吏(賄賂を貪る官吏)を処刑するなど綱紀を取り締まって乱世の再発を防ぎ、農業と学問を奨励、刑罰の軽減など行い、泰平の世を築いた偉大な創業の君主であり、趙匡胤の在位17年間が宋王朝300年の繁栄をもたらしたものとする。

趙匡胤はたびたび「父母が病にかかっても顧みないものは罰する」「父母と財産を異とするものは罰する」など、唐末五代の戦乱で荒廃した秩序を建て直しを図った詔を出しており、『宋史』は唐末五代の戦乱の時代に荒廃した道徳や文化を建て直した宋王朝は、漢・唐に比べても劣らないものとしている。

趙匡胤にまつわるエピソード
騎射が得意で、悪馬を馴らそうと勒を付けずに乗馬しようとしたが、城門に頭をぶつけて落馬したことがあった。目撃者達は首が折れて死んでしまったかと思っていると、趙匡胤はすぐさま起き上がり馬を追っていったが、一つも傷がなかったという。(『宋史』 本紀第一 太祖一)
世宗の後唐征伐の最中、父の趙弘殷が夜中に趙匡胤に城の開門を求めたが、「親子の関係といえども城門の開閉は公務である」と言い、城門を開けなかった。そして趙弘殷は朝になってようやく入城することができた。
以下のことなどから、無駄な殺生を嫌っていたことがわかる。
かつて自分の君主であった恭帝を禅譲後も鄭王として遇し、恭帝が死ぬと喪服を着けて10日間政務をとりやめ、皇帝として葬を執り行った。
亡国の君主である孟昶・李U・劉eらを処刑せずに侯として遇した。
南唐征服の際には曹彬らに「落城の際には決して殺戮を行なうな」と訓令した。
陳橋の変の際、王彦昇が禅譲を妨げようとした副都指揮使の韓通を勝手に殺したことを責め、助命したものの、節鉞(征伐の将軍に与える割符)を決して与えることはなく、さらに韓通に中書令を追贈し、厚く葬った。
王全斌が後蜀を滅ぼした際に降兵2万7千を虐殺し、蜀の財貨を奪うなどを行ったことを咎め、蜀征伐の功にもかかわらず降格処分にした。
呉越の銭俶(趙弘殷を避諱し、銭弘俶から改名)が自ら来朝した時、宰相以下の百官はみな、銭俶を捕らえ、その国土を奪うことを請うたが、趙匡胤は取り合わなかった。銭俶が帰国する際、群臣の銭俶を捕らえるように求めた上表文を持たせ、帰国の途中これを見た銭俶は感動し、後に国土を献じたという。
南漢の最後の君主劉eは、好んで毒酒をもって臣下を毒殺していたことがあった。降伏後、趙匡胤の巡幸に従った時、趙匡胤より酒杯を勧められると、自身を毒殺しようとしてるのではないかと疑い、泣いて「臣(私)の罪は許されるものでありませんが、陛下は私を殺さないでいてくれました。どうか開封の庶民として泰平の世を過ごさせてください。どうかこの酒杯を飲ませないでください」と言った。これに対し、趙匡胤は笑って「自分は人を厚く信頼している。どうして汝だけ信じないことがあろうか」と言い、その酒杯を飲み、新しく酒を酌み劉eに飲ませたという。
建国当初、しばしばお忍びで出かけたことをある臣下に諫められたことがあったが、「自分は天命が下ったので天子になったのであり、世宗が部将の中で顔が広く耳が大きい者を次々に殺していたが、自分は(そのような容貌であるのに)世宗の側にずっと侍していたが、殺されることはなかった」と言い、ますますお忍びで出かけることが増えた。さらに諌める者がいると、「自分は天子なのだから、自分の好きなようにさせろ。お前に指図されるいわれはない。」といったという(『宋史』本紀第三 太祖三)
ある日、政務をやめて不快そうに座っていたので、側近がその理由を尋ねると、「天子であることは簡単なことだといえるだろうか? ある事案を早合点して誤って決してしまったから、不快なのである」と答えたという。
節約を旨としており、娘の魏国長公主が肌着にカワセミの羽を装飾に使っているのを見て、戒めて二度とさせなかった上、「お前は富貴な身分として育った。そのことの有難味を思いなさい」と説教したという。また、後蜀の最後の君主であった孟昶が杯に宝飾を凝らしているのを見て、これを取りあげて砕き、「お前は杯を七宝で飾っているが、何の器で飲食する気なのだ。そのようなことをしているから国を亡ぼしたのだ」と叱咤したという。
晩年は読書を好み、『書経』を読んで嘆いて「古の帝王の堯・舜の世の中は4人の悪人を追放するだけであったが、今の世の中は法が網のように密である」と言った。
弟の趙匡義(後の太宗)が病気にかかると自ら薬を煎じて飲ませ、近臣に「弟は龍虎のように堂々としており、生まれた時に異兆があった。後日必ず泰平の世の天子となるだろう。ただ福徳の点では私に及ばない。」と語ったという
石刻遺訓
石刻遺訓は、趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言で、宋朝の皇帝が即位する際、必ずこれを拝み見ることが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、宰相ですら知らなかったという。金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出た(陳 1992)。

そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である(『宋稗類鈔』「君範」[3][4]、陶宗儀『説郛』によれば、正確には3つあり、第3条は上の2条を子孫代々守れという内容であった)。

趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。
言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。
この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚が処刑されず、政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していること(例:新法旧法の争いでの司馬光や対金講和派の秦檜など)が証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている(陳 1992)。

趙匡胤を主人公にした文芸作品
小前亮著『飛竜伝:宋の太祖 趙匡胤』(講談社、2006年) ISBN 4-06-213785-2 後、「宋の太祖 趙匡胤」と改題した。『飛龍全伝』の翻案小説。











54 沈括 (1032−1096頃)
        科学史家

 沈括は一〇三二年に現在の杭州に生まれる。この時代に増えつつあった教育程度の高い華南の郷紳階級―官僚有資格者で庶民より上の身分―の典型のような家庭で、父方と母方の家系はともに多数の優秀な科挙合格者を輩出していた。
沈括は両親が年とってから授かった子どもで、中級官吏だった父が五四歳、母が四六歳のときに生まれている。
小さい頃は母に学問を学び、赴任する父につれられておもに華南のさまざまな土地で暮らした。そのため、沈括は幼少期から多種多様な環境や習慣にふれる機会があった。
一〇五一年、沈括が蘇州の母方の親族のもとに滞在して勉学にいそしんでいたとき、七〇歳を超える父が杭州で亡くなった。父の葬儀をすませた翌年、沈括と兄の沈技は王安石(伝記空 に父の墓碑銘を依頼した。王安石は彼らの遠縁にあたり、すぐれた文人、政治家として華南屈指の名士であった。


現代に制作された沈括の胸像。北京古観象台所蔵。

沈括は父が官職にあったおかげであたえられる恩蔭―世襲の特権―を利用して役人になった。まもなく頭角を現して知事代理をつとめるまでになり、潅漑事業で実績を上げた。しかし恩蔭出身の官吏の昇進には限界があった。そこで沈括は辞任し、科挙を受験するために猛勉強した。安徽省の知事をしている兄の家に間借りしているあいだ、沈括は大規模な水利事業を観察し、記録をとった。
一〇六三年、沈括は科挙に合格し、エリート中のエリートである進士になった。有力な州知事の張舞はすぐに沈括の才能を見抜き、沈括が最初の妻を亡くした後、おそらく一〇六八年に三女を沈括に嫁がせた。この嫁はとんでもなく身勝手で口やかましい暴君だった。
沈括のひげを引っこ抜いたこともあり、引き抜かれたひげには皮膚と血がついていたという。また、先妻の生んだ息子を家から追い出しもした。しかし舅との政治的なつながりは大いに役立った。沈括はまず、宮中図書館の校吾郎?文書をつかさどる官? に任命され二一〇六五年)、翰林院で書物の校訂にたずさわった (一〇六八年)。
沈活はこれらの仕事を通じて宮中の膨大な量の書物に目をとおすことができ、将来大臣に任命される足がかりもつかんだ。
王安石の改革がはじまると、沈括は熱心に協力した。宮廷の仕事にくわえて天文をつかさどる部局の長に任命され、天才的数学者の衛朴を採用し、より正確な暦の制作にあた
らせた。
一〇七五年、沈括は領土問題を解決する使命をおびて、使節団を率いて契丹 (遼) の宮廷におもむいた。一説には、沈括が豊富な歴史や地理の知識を生かして末の主張を認めさせ、外交上の重要な勝利を手にしたといわれるが、実をいえば末はかなり達に譲歩している。この年、彼は国家財政の最高責任者である三司使―大蔵大臣―に任じられた。
今日でこそ沈括は先見の明のある科学者とみなされているが、あらゆる分野にまたがる彼の知識は、当時の特権階級からはあまり評価されなかった。この時代には、文学こそもっとも尊い学問とみなされていたからだ。文学面では、沈括は王安石や蘇拭 (伝記51) に比べてたしかに見おとりがする。沈括は、蘇拭の詩には皇帝に対す
る批判がこめられているものが多いと皇帝に告げ口した。そのため、とくに華北の保守層を中心に、沈括はかなり敵を作った。
しかし、神宗の沈括に対する信頼はゆるがなかった。一〇八〇年、皇帝は末の北西に揺するタングート系のとり西夏に対する防衛を沈括にゆだねた。沈括はタングート族の内紛に乗じて緒戦でいくつかの勝利をあげ、この功績によって竜図聞直学士?皇帝の秘書官のような役職?という権威ある名誉職をあたえられ、延州 (硯陳西省延安)知事となった。しかし、宮廷が別の指揮官を前線に派遣すると、戦況は一気に暗転した。一〇八二年一〇月一四日、酉夏軍は新たに建設した末の防衛拠点に襲いかかり、一万二〇〇〇人を超える宋兵が戦死、末の前線は崩壊した。
この大敗の責任を問われ、沈括の政治生命は終わった。彼は罷免されて地方に蟄居を命じられ、一〇九〇年頃、中国全土の地図を作製する重要な仕事を終えて、ようやく自由の身になった。沈括は長江に面する現在の鎮江市に隠棲し、夢渓と名づけた川のほとりに居をかまえた。そこで余生のすべてをかけて、もっとも重要な著作である 『夢渓筆談』 を完成させた。
この本は天文学、数学、地質学、医学、そして神話から未確認飛行物体まで、さまざまなテーマを網羅している。沈括は磁石をコンパスとして使用する方法を世界に先駆けて述べ、コンパスが真の北をさすわけではないとはじめて発見した人物でもある。「石油」という中国語をあみだし、それは 「地球の内部で無尽蔵に産出する」と述べた。英語で石油を表すpetrO−eumはラテン語のpetra(石)と○−eum(抽) が語源で、奇しくも沈括が作った 「石油」という言葉もそれと同じ組みあわせになっている。沈括は高山で発見される貝の化石や、華北で発掘される亜熱帯植物の化石を観察し、地形や気候の変動について認識していた。また、世界初の活字印刷についても記録を残している。イギリスの有名な学者のジョーゼフ・ニーダム―中国科学史の権威。一九〇〇−一九九五―は沈括によるこれらの発見や観察の記録に感銘を受け、沈括を「中国史上もっともすぐれた科学精神の持ち主」とたたえた。一九六四年に発見された小惑星は沈括にちなんで命名されている。
   
















56 方臘
          ―マニ教徒の反乱指導者

52方臘(?―1121)
マニ教徒の反乱指導者
方臘は宋末期のマニ教(ベルシアで誕生し、シルクロードを通じて中国に広まったグノーシス主義的宗教)の教団指導者である。方臓が反乱者として登場する前近代の中国の小説『水滸伝』は、大半が華北出身の一〇八人の「好漢」―英雄―がさまざまないきさつで無法者となるが、末の宮廷の恩赦を受けて華南の大規模な反乱を平定するために集結する物語だ。無法者が転じて皇帝につくす英雄となるこの物語はフィクションだが、マニ教徒に率いられた華南の反乱は、宋王朝を根幹からゆるがせた現実の出来事である。
シルクロードを経由して中国に伝わった多くの宗教のなかで、マニ教は特別な位置を占めている。マニ教は誕生した西アジアから遠く離れた中国南東部の広大な二倍で、形を変え、変貌をとげながら、何世紀ものあいだ生きのびてきた。政府、儒学者、そして「正統派」 の仏教がよってたかってマニ教を根絶やしにしようと画策するなかで、あらゆる困難をのりこえ、元から明への移行後に完全に消滅するまで、この国に存在しつづけたのである。
マニ教はおもに中国の知識層や政治的主流派以外の人々に伝わった。その信仰は地方の民衆のあいだに、強い杵で結ばれたきわめて結束力の高い秘密結社を作り上げた。マ二という名称と中国語で「悪魔」を表す「魔」をかけて、儒学者は人目をしのぶこれらの信者を「喫菜事魔」―菜食して魔に仕えるという意味―とよんだ。中国のマニ教は、強い平等主義や祖先崇拝もふくむ偶像崇拝の禁止、そしてキリスト教から受け継いだ家父長的な一神教を特徴としている。
書画骨董を愛好した徽宗のもとで、宋の宮廷は民衆に重税を課した。もっとも民衆の怒りをかったのは、「花石綱」とよばれた献納品の特別輸送である。庭園や離宮の造営をことのほか好んだ徽宗の趣味を満足させるために、めずらしい花や奇岩を地方から都に輸送させることだ。奇岩の多くは南方の湖や南西の山岳地帯から運ばれ、南部の亜熱帯地方は貴重な植物の供給源となった。唐代中期以降、中国の経済の中心は華北から華
南に移動していたが、政権の中枢はいまだに華北出身者に占められ、江南地方は王朝を支えるためにますます重い税金をしぼりとられていた。
方臘は、浪費を続ける末の宮廷に対する江南地方の民衆の怒りをあおった。宋の宮廷は北方のふたつの異民族国家、契丹(遼)と西夏を懐柔するために、中国南東部の人民の「血と脂」を気前のいい「歳幣」―毎年の貢ぎ物―にしているとさえ非難した。

一一二〇年の冬、江南地方のマニ教徒はついに行動を起こすことにした。弾圧の危険は覚悟の上である。方臘は一一月一一日を蜂起の臼と定め、わずか数千人のマニ教徒とともに反乱ののろしを上げた。政府軍の一部隊を撃破したのをきっかけに、方臘の勢力範囲はたちまち拡大した。反乱軍はまず一二月二一日に郡をひとつ制圧すると、次にははじめて県を落とし、さらに次の県を落とすという勢いだった。一一二一年一月一九日、方臘軍は杭州を手中に入れた。
農民軍の拡大に宋の宮廷はあわてふためいた。方臘の反乱軍が拡大を続けるばかりでなく、それに便乗して、宋のおもな税収源である中国南東部の各地で数えきれないほどの武装蜂起が起きた。徽宗はやむなく腐敗した徴税担当大臣を罷免し、人々の恨みをかった。

『水済伝』の一場面を描いた15世紀の木版画

また、南部の反乱を平定するため、政府は達との軍事的衝突を一時棚上げにして江南に大軍を派遣した。
その間にも方臘の反乱軍は仏教寺院や仏像を破壊し、儒教学校を焼き討ちにし、多数の儒学者を殺害した。こうした乱暴狼籍を見て、江南の郷神や多くの人々の心は離れた。


一二二年の初め、末の大軍が江南におしよせ、方臘が樹立したマニ教徒の支配地域をはさみ撃ちにした。軍事経験も民衆の幅広い支持も欠けていた方臓の弱点がたちまちあらわになった。わずか数か月後に方臘は人里離れた谷間に隠れた本拠地に撤退した。方臘に殺された地方地主の息子がこの隠れ家の場所を政府軍に密告したため、五月二一日、この谷間を政府軍が襲った。
最後まで抵抗した信徒七万人を虐殺し、政府軍はようやく方臘とその家族、そして側近の身柄を拘束した。こうして捕らえられたマニ教徒の指導者たちは末の都開封で一〇月七日に公開処刑された。非公式の資料によれば、反乱を鎮圧するために送りこまれた政府の大軍によって、二〇〇万人を超える江南の人々が殺害されたという。












57 徽宗
     ―宋の文化人皇帝


徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。
書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、水滸伝のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。



北宋の第8代皇帝 徽宗

一〇八二年生まれの趨倍は、神宗(在位一〇六七−八五)の一一番目の息子である。本来なら帝位を継ぐ可能性はかぎりなく低かったが、兄の哲宗が一一〇〇年に二四歳の若さで跡継ぎを残さずに世を去り、ただひとりの存命の兄は片目が見えなかった。趨倍の兄弟が派手で豪華な品物を好んだのに対し、彼は書物や絵画を楽しみ、上質な筆や紙、塁など、学問のための小道具を蒐集した。強い影響力をもつ向皇太后(神宗皇后)によって超倍が次の皇帝に選ばれ、即位して徽宗となった。
それからわずか数年後の一一〇〇年に向皇太后が亡くなると、若い徽宗はやりたい放題の行動をとるようになった。徽宗は地方に蟄居していた落京(一〇四七−一一二六)を中央によびもどした。察京は、いまは亡き「新法党の賢者」王安石(伝記4 9)の娘婿の兄にあたるが、政治家としては無節操きわまりない人物だった。
二六年にわたる徽宗の治世のあいだに、察京は中断をはさみながら二四年間宰相の座に居座った。徽宗が登用したほかの廷臣もまた、私利私欲にしか関心がないという点では似たりよったりだった。
徽宗は都で数々の大規模な建築計画を実施した。彼は豪壮な宮殿よりも、優雅で自然の景観をそのまま再現した離宮や庭園、公園を好んだ。入念に作られた庭園を飾るため、めずらしい植物や奇妙な形の岩が江南から徴発
され、民衆に大きな負担をあたえた(伝記5 2万臓参照)。
徽宗は絵画の才能に恵まれていたといわれ、とくに花鳥画を得意としたが、徽宗の作と伝えられるものすべてが本人の作品とは考えにくい。徴宗は革新的な書家でもあった。徽宗があみだした「痩金体」とよばれる書体は、当時の末で発達しっつあった出版事業において、標準的な活字として用いられた。
徽宗はまた、あくことを知らない美術品蒐集家でもあって、有名な書画骨董の数々を集めた。蒐集した一万点以上の青銅器を陳列するために七五の部屋がある宮殿を建て、貴重な書物をおさめた広い私的な図書館を所有していた。
後宮にはたくさんの美女が集められていたが、徽宗は都で芸術的な才能のある女をこっそり愛妾にしていた。
この人目をしのぶ親密な関係は、皇帝に深い満足をあたえたようだ。
徽宗は熱心な道教の信徒だった。彼が国中に道教寺院を建設させたため、末の財政はますます悪化し、国民の税負担は耐えがたいほどになった。その結果、民衆のなかから反逆者や「山賊」が現れて英雄視され、その風潮が大衆小説『水瀦伝』を生む土壌となった。江南地方で起きた中国のマニ教徒による有名な反乱は宮廷を震撼させ、さすがの徽宗もほんの一時期だけは浪費をひかえた。
北西部の西夏との争いで部分的な勝利をおさめたのに気をよくして、徽宗は末の皇族の故郷である現在の北京周辺地域の回復を夢見るようになる。この地域は契丹族の遼王朝の支配下に入ってすでに長い年月がたっていた。
徽宗は東北部で勢力を増す女真族と同盟を結び、一世紀以上にわたって末と平和的に共存していた遼を今こそ討っべきだと考えた。しかしこの同盟は末の軍事力のもろさを女真族に露呈する結果となり、女真族は遼を滅ぼすやいなや、ただちに末に向かって兵を進めた。徽宗は太子に位をゆずって南へのがれたが、侵略軍が一時的に撤退したすきにうかうかと都の開封によびもどされ、新帝とともに女真族の捕虜となって連行された。敵地までの長く屈辱的な旅のあいだに、徴宗の若い息子のひとりは餓死した。譲位して「太上皇」となった徽宗と新帝は、中国最北の省である里篭江省の僻地に送られ、あたえられた小さな畑を耕して自力で生きるはかなかった。徽宗がわが身を嘆いた詩が残っている。
昔の宮殿はいまどうなっているのだろうか。
今ではときおり見る夢でしか訪れることはできない。
よるべないこの身には、そんな夢さえも遠ざかっていく。

徽宗のもうひとりの息子の構は江南にのがれ、南末を建てて高宗(在位1127−1162)として即位した。高宗はしぶしぶながら徽宗の解放のために努力したが、徽宗はついに帰還の夢を果たせないまま、1315年に亡くなった。


元符3年(1100年)、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である趙佶が皇帝に即位した。宰相章惇ら重臣は趙佶の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王趙似など)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により趙佶に決まったとされている。

治世当初は向氏が垂簾聴政を行ったとされ、章惇・蔡卞ら哲宗時代の急進的な新法派を退け、旧法派の韓忠彦と穏健新法派の曾布を起用、彼らは新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた(通説ではこれらの政策は向氏の策とされているが、徽宗自身の構想とする異説もある[1])。また、徽宗自身も芸術家の魂ともいえる絵筆を折って政治への意欲を示し、成人している皇帝がいるのに垂簾聴政が行われるのはおかしいと批判された向太后が7月に政務の一線を退くと、自ら政務に関わるようになった。だが、曾布と李清臣の新法派同士の対立に旧法派も巻き込み政情は急速に不安定化していく。こうした状況に徽宗は現状のあり方に飽き足らなくなっていく。そんな時に登場したのは急進新法派の蔡京である。徽宗の即位後に向太后の信任を背景に中央に復帰した彼は一旦は徽宗や韓忠彦・曾布の警戒を受けて再び左遷される。だが、中央の情勢の変化に乗じて策動を行い、韓忠彦・曾布を失脚させて政権を掌握するに至る。

蔡京が政権を握ると、旧法派はもちろんのこと、曾布や実弟の蔡卞ら自分を批判した新法派の人々にも激しい弾圧が加えられた。これには徽宗も後悔し、遼との外交政策の対立などを理由に蔡京を何度か追放している。だが、宮廷の主要な官職はほとんどが蔡京の手下で占められていたこと、何よりも徽宗と蔡京の芸術的な嗜好が近いことによる親近感から、すぐに蔡京を復帰させた。

文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の一人とされる。痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称された。現在、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝に指定されている。また、『周礼』に基づいた古代の礼制復活を図るべく『政和五礼新儀』を編纂し、自らも執筆に加わっている。

皇帝としての徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)。また芸術活動の資金作りのために、明代の小説『水滸伝』における悪役として著名な蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税を課した。神宗、哲宗期の新法はあくまで国家財政の健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢侈のために用いるに至ったのである。この悪政の一環としては、土地を測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器の測定に用いる楽尺といわれる尺を用い、発生した余剰田地を強制的に国庫に編入したり、売買契約書が曖昧な土地を収用するなどの強引な手段もとっている。

さらに徽宗は芸術に没頭する一方で、自らの権力強化に努めた。特徴的であったのは御筆手詔(御筆)の発行である。御筆手詔の制度の萌芽は神宗期に遡るが、徽宗は事あるごとに自ら詔を書いて各役所などに直接命令し、三省や枢密院が異議を挟むことを認めず、その実施の遅滞は厳罰をもって処したのである。蔡京は徽宗の側近であった息子の蔡攸などを介して御筆手詔の掌握に努めようとしたが、かえって詔を記す徽宗の意向に振り回されることになり、結果的には徽宗の行動を抑止できない彼の政治的影響力の減退を招くこととなり、政和6年(1116年)の封禅中止問題を機に、蔡京の宰相としての立場は名目的なものと化していった。反対に宣和年間以降は、徽宗とそれを取り巻く近臣(宦官や蔡攸に代表される側近)による専制が成立することになり、宰相や執政の力は失われることになった。

このような悪政によって民衆の恨みは高まり、方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発した。こうした反乱指導者の中に山東で活動した宋江という者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが『水滸伝』である。

北宋の滅亡
当時、宋の北方の脅威であった遼は、皇帝や側近の頽廃により国勢が衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族が完顔阿骨打を中心として急激に台頭し、金を建てていた。金と協力して遼を挟撃すれば、建国以来の悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋の朝廷は、金に対して使者を送り、盟約を結んだ(海上の盟)。


徽宗筆『芙蓉錦鶏図』(北京故宮博物院所蔵)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている。


宣和3年(1121年)、金は盟約に従い遼を攻撃したが、北宋は方臘の乱の鎮定のために江南に出兵中であり、徽宗自身の決断力の欠如もあって、遼への出兵が遅れた。翌年、ようやく北宋は北方へ出兵し、遼の天祚帝のいる燕京を攻撃した。宋軍の攻撃は失敗を重ね、成果を上げられないことを理由に誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は、金に援軍を要請した。海上の盟では金は長城以南に出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請に応え、たちまち燕京を陥落させた。この結果、盟約通りに燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民も移住させられていたため、この地からの税収は当分見込めない状態であった。さらに金は燕京攻撃の代償として銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。


            徽宗直筆の崇寧通宝
宣和7年(1125年)、このように燕雲十六州の一部奪還に成功した宋朝は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗が宋に対して出兵する事態を招く。12月23日(西暦で1126年1月25日)、慌てた徽宗は蔡攸や李綱・呉敏らと図って「己を罪する詔」を出すと退位[2]し、長男の趙桓(欽宗)に譲位して太上皇となった。徽宗はさらに金軍から逃れるべく、蔡攸やわずかな宦官だけを引き連れて開封を脱出した。ところが、鎮江に落ち着いた徽宗は、金軍が一時撤退した後も帰国の気配も見せず、自立の動きすらあった。そのため、欽宗・呉敏らの画策で開封に連れ戻されて幽閉され、蔡京父子・童貫らは配流され、後に蔡京ら病死者を除いて処刑された。

靖康元年(1126年)、金軍は開封を陥落させ、徽宗は欽宗らと共に金に連行された(靖康の変)。紹興5年(1135年)、徽宗は五国城(現在の黒竜江省依蘭県)にて54歳で死去した。またこの時、共に徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、天会5年(1128年)6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた[3]。南宋を建てた高宗の生母であった韋妃は老齢に達するまでこの境遇を耐え忍び、南宋で高宗に迎えられて長寿を全うしたが、朱皇后はその境遇に耐えかねて投身自殺している[4][5]。

道教との関係
徽宗は道教を信仰し、道士の林霊素を重用した。林霊素は「先生」の号を授けられ、道学が設置された。徽宗自身は「道君皇帝」と称し、『老子』や『荘子』に注釈を行った。その矛先は仏教に対する抑圧政策にも現れ、仏(如来)を「大覚金仙」、僧侶を「徳士」などと改名させて、僧侶には道服の着用を強制した。ただし、これは1年間で撤回された。
















59 岳飛  (1103−1142)
       ― 愛国の英雄


岳 飛(がく ひ、?音: Yu? F?i、崇寧2年2月15日(1103年3月24日) - 紹興11年12月29日(1142年1月27日))は、中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。



岳飛は1103年3月24日に生まれ、武術の訓練と基礎教育を受けた。政府軍に歩兵としてくわわり、契丹(遼)の「南都」(現在の北京)を奪還するための軍事遠征(失敗に終わった)に参加したようだ。北末が、女真族が建てた金と同盟という名の戦略的愚行を犯していた時期のことである。
1125年にはじまった金の総攻撃は、華北で宋を破壊しつくした。しかし、これは岳飛のような傑出した才能の持ち主が、南宋(金の侵攻によって都を南の杭州に移した) の初代皇帝のもとで軍事的にのし上がるチャンスでもあった。1130年のなかばに岳飛は軍司令官となり、同時に文官として長江下流域デルタ地帯の長官に任命された。1133年以降、岳飛は長江中流域の防衛を指揮し、南末を代表する四人の軍事指導者のひとりに数えられた。
岳飛は兵士に厳しい軍規を守らせたので、岳飛の兵は民衆の受けがよかった。彼の軍隊が「岳家軍」の名で知れわたるにつれて、岳飛の人気も大いに高まった。
将軍岳飛(左から二人目の緑衣)の肖像。末代の絵巻。
南宋の画家劉松年(中国語版)が宋の英雄を描いた「中興四将」。劉光世、韓世忠、張俊、岳飛の全身像が描かれており、岳飛は左から2番目である。

岳飛は黄河流域に生まれて育ち、奪われた末の領土をとりもどさんとする愛国者だった。金とその塊偏で、女真族と漢民族の緩衝材の役割を果たしていた斉国を打倒するために、1134年、1136年、1140年を中心に、何度も華北に遠征し、古都洛陽まで侵入した。勝利はことごとく一時的なものに終わった。しかし岳飛によせる宮廷の信頼は大きく、二三六年に岳飛の母が亡くなったとき、岳飛は 「子としての情」をすてるように命じられ、儒教で定められた長期間の喪に服す余裕もなかった。岳飛の母は息子に恥じぬ愛国者で、彼の背中に「忠義をつくし、国の恩に報いる」という意味の「尽忠報国」という四文字の入れ墨をきざませたといわれている。徽宗が金に拉致されたとき、ともに捕虜となって連行された秦櫓という男がいた。彼は1130年に解放されて末に戻ってきたのだが、彼だけが帰還できた背景にはかなり疑わしい点がある。1138年の春、秦槍は宰相と枢密使−軍政最高機関の長― を兼務するよう命じられる。高宗から万全の信頼を得て、秦櫓はただちに金と和平交渉に入り、末は屈辱的な譲歩を強いられた。この講和の内容を知った岳飛は失望をあらわにし、そのせいで1141年に軍権を剥奪された。続いて岳飛は謀反の疑いありとして拘留され、1142年1月28日に処刑されてしまう。岳飛の謀反は実際にあったのかと問われて、秦槍は 「有るべきこと莫らんや(莫須有)」―あったかもしれないーと答えている。以来、中国では根拠なく提遺された罪を「莫須有」と言うようになった。
岳飛は1162年に南末の新帝によって名誉回復され、中国の国民的英雄となった。杭州に岳飛の墓である岳王廟が建立され、多くの観光客が訪れる名所になっている。訪れた人々は岳飛に礼拝し、鎖につながれた秦櫓の像に向かって唾を吐きかける風習が、つい最近まで残っていた。



岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。やがて21歳の時、北宋末期の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、1134年には節度使に任命された。

しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。

1140年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、『金史』にこの会戦の記録はない。

その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛の養子岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)の「尽(精)忠報国」の4文字があったという。

後に(秦檜の死後)冤罪が晴れると、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王に追封された。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。

岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。



















61 朱薫(朱子) (1130−1200年)
            ―朱子学の創始者



朱熹(朱子) 朱子学の創始者

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。朱子(しゅし)と尊称される。祖籍は徽州?源県(現在の江西省)。
南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。


朱子学の創始者である朱熹―朱子は尊称―の祖先は、江西省と安徽省の省境地域の出身といわれている。朱熹自身は1130年に、もっと南の沿岸部にある福建省で生まれた。父は中級の地方官で、南宋と金の争いでは金に対する屈辱的な講和に反対したひとりである。
朱熹は生まれつき探求心旺盛で鋭い知性の持ち主だった。三歳のとき、頭上にあるのは「天」だと父から教えられて、すかさず「それでは天の上には何があるのか」とたずねたという。父は朱熹が13歳のとき、今後は宋代に生まれた新儒学の思想家として名高い程寮と程鴨兄弟の三人の弟子に師事するようにと言い残して亡くなった。この三人の師は、道教や仏教も偏見のない態度でとりいれた。
1148年、朱熹は一八歳で科挙に合格し、進上になった。しかし朱熹は官僚の仕事にあまり熱意がなく、学問を深め、ほかの学者と意見を交換し、新儒学の理論や学説を発展させることに没頭した。科挙に合格してから亡くなるまでの半世紀のあいだ、朱熹が政府の役人として仕えたのは10年たらずで、宮廷につとめていたのはわずか46日しかない。
朱熹が重視したのは教育で、長いあいだ弟子に学問を教えた。1179年、朱熹は鹿山のふもとの私立学校、白魔洞書院を再建し、学校の標語や学則を定めている。この学校はそれから8世紀ものあいだ、中国でもっとも重要な学問の場のひとつでありつづけた。
朱熹は儒学の経典のなかから 『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』を教えの中核として選び、それ以来これらは「四書」とよばれるようになった。朱熹は口語に近いわかりやすい言葉を使って、これらの古典的書物に注釈をつけた。宋代以後は四書と朱熹の注釈が科挙の出題の基本となり、中国が中華民国となる直前に科挙が廃止されるまでそれは変わらなかった。朱熹の弟子たちは、朱熹の問答や発言を集めた語録を編纂したが、これはおそらく口語的な文体で注釈をつけた師のやり方にならったのだろう。また、禅宗の高僧の言行を記録した語録が、宋代にはかなり口語に近い文体で書かれていたので、それをモデルにしたとも考えられる。
朱熹の思想は万物をつらぬく「天理」(自然法則)に重きを置いた。朱熹は人間に内在する道徳的本性を天理のひとつと考え、我欲を悪や不道徳の根源とみなした。社会の悪を解決する方法は、「天理を存し人欲を去る」―天理に従い欲望に打ち勝つーことだと朱熹は説いた。道徳的厳格さを求めるあまり、寛容性や憐みの情に薄い面もあった。朱熹のそうした性質は、1194年の夏、宋の光宗が息子に帝位をゆずったときの行動に表れている。
朱熹は皇帝譲位の報を聞くと、新帝即位の慣例にしたがって恩赦が布告される前に、ただちに18人の死刑囚を処刑してしまったのである。
同様に1182年の夏、朱熹は漸江省東部の税務監督官在任中に、その地域の知事を弾劾する文書をくりかえし宮廷に送っている。朱熹は知事が妾と不道徳な関係にあると告発し、その女性を逮捕して拷問した。皇帝でさえこの論争を「学者同士の無益な争い」と評したといわれている。拷問された無力な遊女は何か月も牢に入れられて衰弱しきっていた。この女性の書いた詩を朱熹の後任が読んで、ようやく彼女は釈放された。

だれが好んで風塵に身をさらすでしょうか。
これは前世の宿命なのでしょう。
花が定めのときに咲いて散るように、
すべては夫の定めです。
だれもがいずれは旅立ちます。
どれほどとどまりたいと願おうと。
髪を飾る野花が少しあるだけでいいのです。
この卑しい身がどこへ帰るのかと、どうぞおたずねくださいますな。

朱熹は官吏としての手腕を評価され、宋の知識人のあいだでしだいに名声が高まった。しかし宋の皇帝や同時代の有力者には朱熹の教えや理論はあまり評価されなかった。朱熹の思想は「偽学」の熔印を押され、1196年に監察御史―官吏の行状を観察する官―が朱熹を10項目の罪で告発した。そのなかには彼の個人的な道徳性に対する悪意に満ちた攻撃の数々もふくまれていた。なんとふたりの尼僧を妾にしたという罪状もあったのである。
理由は明らかではないが、朱熹は簡単な文書一枚でその告発を認めてしまった。朱熹の思想が弾圧されると、官僚になった大勢の弟子たちも罰せられたが、朱熹はこれまでどおり弟子たちに教えつづけた。朱熹は1200年4月23日に亡くなった。名誉が回復されるのはそれから九年後である。朱熹が集大成した新儒学は朱子学とよばれ、中国だけでなく韓国や日本でも近年まで社会規範として尊ばれた。 








父・朱松
朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱?(しゅかい、?は懐のりっしんべんを王偏に変えたもの)で、?源(ぶげん、江西省?源県)の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。 その八世の子孫が朱熹の父・朱松(1097年 - 1143年)である。

朱松は周敦頤・程・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年(宣和5年)より任官して県尉(県の治安維持を司る)に任命されていた。1127年(建炎元年)に靖康の変が起き、北宋が滅んで南宋が成立した後の1128年(建炎2年)に南剣州尤渓県(なんけんしゅうゆうけいけん、現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。

1130年(建炎4年)、この尤渓県にて朱熹が生まれる。

その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されている。1140年(紹興10年)に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官[注釈 1]の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、1143年(紹興13年)に47歳で死去した。

師との出会い
父と同じく学問の道に入った朱熹は、9歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子?の三者に師事するようになる。

1148年(紹興18年)、19歳の時に科挙に合格。この時の席次は合格者330人中278番だった。この頃は高宗の信頼を受けた秦檜が権勢を振るっており、秦檜は金との講和に反対する者を弾圧していた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなった。朱熹が低い席次であるのにはそうした理由があると考えられている。

1151年(紹興21年)、朱熹は左迪功郎と言う階官(官職の上下を表すもの)を与えられ、泉州同安県(現在の福建省廈門市)の主簿(帳簿係)に任官された。この任官途中で父の同門であった李?(李延平)と出会い、その教えを受けている。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたのだが、李延平の禅宗批判を聞いてその考えに同調し、以後は禅宗を捨てて儒学だけを志すようになる。

1156年(紹興26年)には主簿の任期である3年を過ぎたが、後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞している。1160年(紹興30年)、朱熹は父親と同じように祠官に任命されることを希望し、それが認められると李延平の元で学問に励むようになった。李延平は朱熹に「道学」の真髄を伝授し、朱熹も李延平の教えを次々と吸収したので、やがて李延平に「自分の後継者は朱熹しかいない」と認められるまでになった。

政治家として
1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命じられるが、これを辞退して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。

1170年(乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年(淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。なお陸象山の死に際して朱熹は「惜しいことに告子を死なせた」と孟子の論敵になぞらえてその死を悼んでいる。

1179年(淳熙6年)からは南康軍(江西省。軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を辞退し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。

1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州の治所は現在の浙江省臨海市)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。

これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である[注釈 2]。 結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。

偽学の禁
1189年(淳熙16年)、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年(紹熙5年)の孝宗の死後、趙汝愚と韓?冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は長沙の知事から政治顧問(喚章閣待制兼侍講)に抜擢された。しかし功労者となった韓?冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。

その後の政界では韓?冑が独裁的な権限を握る。1196年(慶元2年)、権力をより強固にするため、韓?冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年(慶元6年)、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。

朱子の業績
経書の整理
『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は"四書一経"となり、四書が五経よりも重視されるようになった。


朱子学の概要
朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、"理"という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。

なお朱熹の言う"理"とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は"不離不雑"の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。

朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。

後世への影響
朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。元代に編纂された「宋史」には、朱子学者の伝を「道学伝」としてそれ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。

日本においても、中近世ことに江戸期に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。

著作
70余部、460余巻あるとされる。

著作の一部
『朱自家訓』
『四書章句集注』
『参同契考異』
『童蒙須知』
『資治通鑑綱目』
『楚辞集注』
『宋名臣言行録』
なお、弟子がまとめた問答録『朱子語類』が存在する。



朱子の書

朱子の書
朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』])と記している。

古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある。

韓gが欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓gの書は常に端厳であり、これは韓gの胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる。

朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米?の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる。

朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる。

劉子羽神道碑
『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は1179年(淳熙6年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張?の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張?は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。

劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉?(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉?(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。

劉?が1178年(淳熙5年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。

尺牘編輯文字帖
『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、1172年(乾道8年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている。

論語集注残稿
『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で1177年(淳熙4年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm。

有名な言葉
「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきていることについては「少年老いやすく学なりがたし」の記事を参照。
精神一到何事か成らざらん
















65 クビライ・カアン
  (1215年9月23日 - 1294年2月18日)

    クビライ―中国皇帝となった遊牧民の君主




クビライ(1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(薛禪皇帝)と号した。

大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では Хубилай хаан (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。

その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。
1215年にチンギス・カンの四男トルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。
雲南・大理遠征
1251年に兄モンケがカアンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征(→雲南・大理遠征)に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。
ドロン・ノールでの謹慎
雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(中国語版、英語版)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服(→ジャラルダイの第六次高麗侵攻、1253年 - 1258年)の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。
しかし、アラムダル(阿藍答児)によるクビライ派への調査を受けて、1256年にモンケは不満を持つクビライを南宋作戦の責任者から更迭し、南宋への戦線を東方三王家筆頭でテムゲ・オッチギンの孫タガチャルにまかせたがすぐに撤退してしまった為、モンケ自らの陣頭指揮により行うことを決した。南宋を早急に併合することを望むモンケは、1258年に自ら陝西に入って親征を開始し、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年の釣魚城(中国語版、英語版)(現重慶市合川)攻略中に、軍中で流行した疫病(赤痢)に罹って病死した。
カアン位をめぐる争い
詳細は「モンゴル帝国帝位継承戦争」を参照
モンケの急死により、その年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。一方のクビライは、モンケが死んだとき中軍が北帰して取り残されて長江の中流域で転戦していたウリヤンカダイを救出したことから、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。1260年、クビライの本拠地、金蓮川でクビライ支持派によるクリルタイが開かれ、クビライのカアン即位を一方的に宣言した。5月にはアリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。
三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦のシトム・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国農耕地帯の豊かな物資を背景にクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。
新国家の形成
1260年に即位したクビライは、モンゴル王朝で初めての中国風の元号(中統)を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。中書省には六部が置かれて旧来の尚書省の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政を司る枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備された。紙幣として諸路通行中統元宝交鈔を発行して、それまで他のモンゴルや漢人の諸侯も発行していた通貨を統一した。

アリクブケとの内紛の最中の中統3年(1262年)には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライは反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。これによりモンゴル皇帝であるカアンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた。

このような一連の改革から、クビライの改革はモンゴル王朝の中国王朝化であり、クビライとアリクブケの対立は、中国文化に理解を示し帝国の中心を中国に移そうとする派と、あくまでモンゴル高原を中心と考える守旧派の対立として説明されることが多い。しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。中書省の高官はクビライの夫人チャブイの甥にあたるアントンらモンゴル貴族の支配下にあり、州県の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。

また、クビライはチベット仏教の僧パクパ(パスパ)を国師として仏教を管理させ、モンゴル語を表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めた。パスパ文字によるモンゴル語文は特にモンゴル帝国の公的な性格を持たせていたため、制定以後、元朝ではパスパ文字自体を「国字」や「蒙古字」あるいは「蒙古新字」と称した。クビライは華北支配を進める中で姚枢等の漢人系の諸侯や知識人の登用にも積極的だったが、歴代中華王朝の伝統的なイデオロギーである儒教は特別には重視しなかったため、科挙の復活もクビライのもとでは行われなかった。これは13世紀に入りモンゴル帝国との戦乱が続いた華北では長らく科挙が断続的にしか行われなかったため、クビライが即位した時期には漢人知識人達の間で科挙の有効性を疑問視する者も出て来た事も関係していた。しかしながら、クビライは華北支配にあたって漢学の必要性は十分認知していたようで、即位後にモンゴルの王族子弟に漢学を学ぶように命じており、クビライ自身も「堯、舜、孔子以下の経典・史書に記載されている嘉言、善政」の記録(主に『尚書』『五経要語』)等をモンゴル語に抄訳、上奏させた。また「魏徴のような人物を求めよ。そのような人物がいなければ、魏初に似たような人物を求めよ」というような聖旨をさえ出している。クビライに限らず、歴代もモンゴル宮廷では「見るべき『前代の帝王が天下を治める』文書」の収集に熱心だったようで、漢籍についても後の武宗カイシャン等の皇帝たちは『貞観政要』『帝範』や『孝経』等の儒教系の漢籍類のモンゴル語訳もたびたび作らせてあるいは出版させており、近年発見されたカラホト文書のなかには漢文とウイグル文字モンゴル語で併記されたモンゴル語訳『孝経』の断片が発見されている。クビライによるモンゴル王侯への漢学奨励の結果、後のチンキム、英宗シデバラ、文宗トク・テムルら歴代の皇帝・皇族達の漢学愛好の気風が生じたといえる。

外征と内乱
クビライの狩猟図(劉貫道『元世祖出猟図軸』より、国立故宮博物院蔵)
軍事的には、アリクブケの乱以来、中央アジアのオゴデイ家とチャガタイ家がハーンの権威から離れ、本来はハーンの直轄領であった中央アジアのオアシス地帯を横領、さらにクビライに従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。
そこで、クビライは夫人チャブイとの間に設けた3人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。安西王マンガラはクビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、クビライは3子率いる3大軍団の上に君臨した。
至元13年(1276年)には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都臨安を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(モンゴル・南宋戦争)。この前後にクビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらした。これにともなって東西交通が盛んになり、クビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。

中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧した後、13世紀末には事実上滅亡させ、傀儡政権として王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させた王太子王ュの王統を立て朝鮮半島支配を確立した。また至元24年(1287年)にはビルマのパガン王朝を事実上滅亡させ(→モンゴルのビルマ侵攻)、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。しかし、日本への2度の侵攻(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国(→モンゴルのヴェトナム侵攻(英語版))、ジャワ島のマジャパヒト王国(→モンゴルのジャワ侵攻(英語版))などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。
モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、至元12年(1275年)にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、翌年モンケの遺児シリギをはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こした。司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの諸王家を統合して公然とクビライに対抗し始めた。

クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせたが、至元24年(1287年)には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛いた。老齢のクビライ自身がキプチャクやアス、カンクリ(中国語版、英語版)の諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。クビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えた。カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。カチウン家の王族カダアン(中国語版)(哈丹大王)がなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を劫掠したが、至元29年(1292年)に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した(ナヤン・カダアンの乱)。

晩年
クビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、至元10年(1273年)に皇太子に冊立された。一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。
対立が頂点に達した至元19年(1282年)、アフマドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。この事件の後アフマドの遺族も失脚し、政争はチンキム派が最終的な勝利を収めた。これにより皇太子チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、クビライに対してチンキムへの譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは至元22年(1285年)に病死してしまった。
一方、カイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねた。外征を支えるためにクビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。至元24年(1287年)に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚サンガ[要曖昧さ回避]も至元28年(1291年)には失脚させられ、クビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかった。

至元30年(1293年)、クビライは高原の総司令官バヤンを召還し、チンキムの子である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、それからまもなく翌至元31年(1294年)2月18日に大都宮城の紫檀殿で病没した。遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所であるモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テムルが上都で即位するが、その治下でカイドゥの乱は収まり、クビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになる。
テムルが即位した1294年6月3日には、聖徳神功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・カアン(薛禪皇帝)と追贈された。






















































 鶴雲堂 おもしろページ    石崎康代