中國歴史上の100人

古代から現代までの中国歴史上気にかかる100人について






ID 人   物
1
婦好
2
周公
3
よそ者の妻
4
孔子
5
墨子
6
商鞅
7
孫擯
8
荘子
9
趙の武霊王
10
呂不
11
秦の始皇帝
12
項羽
13
漢の武帝
14
張騫
15
司馬遷
16
王莽
17
班氏
18
王充
19
張陵
20
張角
21
曹操
22
蔡エン



23
諸葛亮
24
石崇
25
王衍
26
石勒
27
王義之
28
鳩摩羅什
29
陶淵明
30
拓践珪(道武帝)
31
崔浩
32
武帝
33
煬帝
34
太宗
35
玄奘
36
則武天
37
高仙芝
38
玄宗
39
安禄山
40
李白
41
杜甫
42
楊責妃
43
韓愈
44
白居易
45
魚玄機
46
薛濤
47
李商隠
48
李徳裕
49
黄巣





ID
人   物
49 耶律阿保機
50 李存勗
51 趙匡胤
52 柳宗元
53 王安石
54 沈括
55 蘇軾(蘇東坡)
56 方臘
57 徽宗
58 李清照
59 岳飛
60 張擇端
61 朱薫(朱子)
62 馬遠
63 丘処機(丘長春)
64 元好問
65 クビライ・カアン
66 関漢卿
67 パスパ
68 トクト




ID
人   物
69 洪武帝
70 鄭和
71 王陽明
72 海瑞
73 李時珍
74 張居正
75 ヌルハチ
76 徐霞客
77 魏忠賢
78 馮夢龍
79 張献忠
80 呉三桂
81 顧炎武
82 朱トウ
83 蒲松齢
84 康照帝
85 曾静
86 曹雪芹
87 乾隆帝
88 へシェン
89 林則徐
90 汪端
91 僧格林泌
92 洪秀全
93 西太后
94 秋瑾
95 孫文
96 魯迅
97 蒋介石
98 胡適
99 毛沢東
100 ケ小平




          〜前1766 
夏           前2205〜前1766
殷〔商〕     前1766〜前1122 【詩】『詩經』雅・頌等
西 周        前1020〜前 770
―東周春秋戦国―
■ 東周春秋戦国 前770〜前221
ID詩人名  / 事項よみかな作品名

【詩】『詩經』雅・頌等
管仲・鮑叔  「詩経」

  01孔子 (前551〜479)
 本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔梁?、母は顔氏。魯に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦で周の都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。論語

  02孟子
前372年 -前289

 本名は孟軻。字は子輿、または子車、子居ともいう。鄒の人。子思の門人に学び、孔子の学問をきわめた。 

  03屈原(くつげん)前340頃〜前278
中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、汨羅(べきら)に身を投じたという。「楚辞」に約20編
の詩がある。「離騒」「九歌」「天問」「九章」

  04伯夷(はくい)  未詳
伯夷・叔斉  孤竹国の王子。伯夷は父の意を察して弟の叔斉に譲位して出奔した。民衆の存在を無視した行為はあったが、孔子・孟子・司馬遷らからは至徳の賢人として絶賛された。采薇歌

  05宋玉(そうぎょく)  未詳
中国、戦国時代、楚(そ)の文人。楚王に仕え、のち落魄の生涯を送ったといわれるが、生没年・伝記ともに未詳。屈原の弟子とされる。「九弁」(「楚辞章句」所収)「高唐賦」「神女賦」「対楚王問」

  06荊軻(けいか)(  未詳-前227)
中国、戦国時代の刺客。衛の人。燕(えん)の太子丹の命で、秦の亡命将軍樊於期(はんおき)の首と燕の地図を携えて秦の都咸陽に赴き、秦始皇帝の暗殺をはかったが失敗して殺された。易水歌  呉越の戦い    西施ものがたり



― 秦  前漢 ―

■  秦 前漢  
秦    前221〜前206   始皇帝   万里の長城増築
鴻門の会: 前206年
 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。

10 項籍(項羽) (こうそく・こうう)前232〜前202
中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。垓下歌
11虞美人(ぐびじん)未詳〜前202
秦末から楚漢戦争期の女性。項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。虞美人歌 (漢兵
已略地)
前漢  前202〜 8   前154 呉蘇七国の乱
12王昭君 生没年未詳
中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴との和親政策のため呼韓邪単于に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などや、人物画「明妃出塞図」の題材となった。    王昭君ものがたり昭君怨 王昭君
13高祖(劉邦) (こうそ・りゅうほう)前247〜前195
前漢の初代皇帝。在位、前206〜前195。字(あざな)は季。廟号(びょうごう)は高祖。沛(はい)県(江蘇省)の人。始皇帝没後の前209年、陳勝・呉広の乱を機に挙兵。前202年、項羽を垓下の戦いに破って天下を統一、長安を都として漢朝を創始大風歌
14枚乘( ばいじよう ). 220-前140
枚乘 ( ばいじよう ). 枚乗(?-前140)。漢の時代、淮陰(わいいん=現在の江蘇省淮陰県東南)の人。字(あざな)は叔。初め呉王劉助Aに仕え、上書して諌めたが納れられず、 去って孝王劉武に仕えた 
15東方朔 (とうほう さく)前154- 前92年
東方 朔(とうほう さく、紀元前154年 -紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。詩仙として有名な李白は彼のことを「世人不識東方朔、大?金門是謫仙」といって彼を褒め称えた。 
16漢-武帝(劉徹) りゅうてつ前156〜前87
前漢第7代の皇帝。在位、前141〜前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曾孫。儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。秋風辭
17劉細君 (りゅうさいくん )生没年不明:
字:前漢・武帝の時の江都王・劉建の娘。前105年、公主として西域の烏孫国(天山山脈の北)の王に嫁がされ、「悲愁歌」を作って身の悲しさを述べた。烏孫公主とも言う。王昭君の事と共に有名。悲愁歌
18李 陵 (りりょう)未詳- 前74年
中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。與蘇武詩 別歌 
與蘇武詩其二 ;詠
懷詩 其十
19蘇武 (そぶ)前140〜前60
中国、前漢の武将。杜陵(とりょう)(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子卿(しけい)。匈奴(きょうど)に使節として行き、19年間抑留されたが、節を守りとおして帰国した。詩(留別妻一首) 
  留別妻一首  
別詩
春秋戦国 秦・前漢 新 後漢 三国前 建安文学 三国鼎立 晉 南北朝 隋


― 新 ―
新 ;   8〜23
新(8年 - 23年)…外戚の王莽が前漢皇帝から帝位を簒奪し建国。
ID詩人名  / 事項よみかな作品名
21卓文君(たくぶんくん)未詳
前漢の蜀(しよく)の富豪の娘。文人の司馬相如(しようじよ)と知り合い、成都に駆け落ちして辛苦をともにした。のち相如が心変わりした際、「白頭吟」を作って決別の意を示した。後世、戯曲などの題材とされる。白頭吟(皚如山上
雪)
22楊雄(ようゆう)前53〜 18年
 蜀郡成都の出身。字は子雲。40余歳で上京して大司馬王音に文才を認められ、成帝に招されて黄門侍郎とされた。司馬相如の賦を尊崇して自身も名手と謳われたが、やがて文学を捨てて修学して多くの著作を行ない、『楊子法言』は『論語』に、『太玄経』は『易経』に倣って作られた。好学博識だが吃音で論・議を好まず、言説に対する批判には著述で応じた。王莽の簒奪後、門弟が符命の禁を破ったために自殺を図って果たせず、不問とされて大夫に直された。 
23班彪(はんひょう) A3〜54
 扶風郡安陵(陝西省咸陽市区)の出身。字は叔皮。名儒として知られ、王莽の敗死で長安が混乱すると安定に移ったが、隗囂に失望して竇融の幕下に加わると師友の礼を執られ、その章奏は光武帝からも嘉された。『史記』の欠を補うと称して『史記後伝』数十篇を著し、未完に終わったこの書は、後の『漢書』の基礎となった。班彪(はん ひょう、3年 -54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班况は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭がいる。
班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。『後漢書』に列伝が掲載されている。 
春秋戦国 秦・前漢 新 後漢 三国前 建安文学 三国鼎立 晉 南北朝 隋


― 後  漢 ―
■ 後漢
 後漢(ごかん、25年 - 220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は?陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
ID詩人名  / 事項よみかな作品名
 後漢  25〜220
31李延年(りえんねん) (生没年不詳)
前漢の人。漢の武帝に仕えた楽人。妹は武帝の寵姫李夫人だが彼女の死後李延年への寵愛も衰え、武帝は李延年や兄弟、宗族を誅殺した。歌(北方有佳
人)
 黄巾の乱 184 〜 185頃
  三国志の歴史が幕開けしたきっかけは、中平元年(184)に突如勃発した黄巾の乱でした。約四百年あまりもの長きにわたり中国の大地を支配してきた漢王朝、しかしこの時代には、宦官による専制政治、民衆に課せられる重税、加えて旱魃(かんばつ)・疫病・凶作といった天変地異が重なって、民衆は苦しみのどん底をさまよっていました。

 太平道の教祖・張角は、ここに目を付け、各地の流民を呼び集めて黄巾賊を結成しました。「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」、後漢王朝の時代は終わり今こそ我ら民衆が立ち上がる時だ、張角はこう主張したのです。このスローガンは苦悩の日々を過ごしてきた民衆の間で爆発的なヒットとなり、中国各地で黄巾の乱が勃発。瞬く間に巨大な勢力になっていきました。

  後漢打倒のために立ち上がった黄巾賊、しかしながら、彼等の当初の目的はいつの間にか消え失せていったのです。気が付けば、彼等は各地の町村を襲って強盗略奪を繰り返す暴徒となっていました。人々は更なる事態の悪化に混乱をきたし、中国の大地に大いなる暗雲が垂れ込んだのです。

32張角(ちょうかく) 〜184
中国、後漢末の道士。鉅鹿(きょろく)(河北省)の人。太平道の教祖で冀州鉅鹿(現在の河北省平郷県)の人。黄老の道を説いて太平道を創始。184年、数十万の信徒を従えて黄巾(こうきん)の乱を起こしたが、病没。張角らの一党は「黄天」すなわち黄色をイメージカラーとし、黄色い布を頭に巻きつけた為「黄巾賊」と呼ばれた。張角が起こした反乱を「黄巾の乱」と呼ぶのはこれが由縁である。蒼天已死

33蔡邑(さいよう) (132 -192)
後漢代の政治家、儒者、書家。清廉潔白な人物で、宦官に嫌われて官職を追われたこともある。董卓が後漢王朝の実権を掌握したとき、董卓に気に入られ侍御史治中、尚書、侍中、左中郎将と異例の昇進をした。彼は歴史家でもあり、後世に評価される史書をいくつも書き残している。王允が董卓を誅殺したとき、その死を惜しんだため、それを怒った王允によって殺害されたという。・翠鳥 諸葛亮・梁甫の吟 馬良・白眉

34趙壹(ちょういち) 卒年不詳
趙壹(生卒年不詳)字元叔,主要事迹見於漢靈帝年間(168年一189年),東漢漢陽郡西縣人(今山西省禮縣大堡子山東)。中國辭賦家、書法評論家。其代表作《刺世疾邪賦》直抒胸臆,對後世賦體的風格有很大影響 
35禰衡(でい こう、;ねい こう) 173−199年
禰 衡(でい こう、あるいは「ねいこう」とも、173年−199年)は、中国後漢末期の人。字は正平。平原の人。 



トピックス  竹林の七賢   230年頃

建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思う。建安の思想的背景は道教にあると考えている。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。
詠懐詩 白眼視 阮籍 幽憤詩 ケイ康



三国時代への道

1.(200) 曹操と袁紹の、華北支配を巡っての決戦。曹操による青州黄巾軍の接収と、199年の袁術の病死と公孫?の敗死、遼東公孫氏の袁紹への服属などによって、華北では4州を領する袁紹と、天子を擁して2州を支配する曹操の対決が不可避となった。袁紹は全軍を動員して官渡に南下し、十倍近い兵力で曹操を圧倒したが、内訌の放置と糧道の軽視で対峙数ヶ月の後に糧秣をことごとく焼かれて惨敗した。袁紹はついに再起できず、曹操はこの勝利によって華北に覇権を確立した。


2赤壁の戦い(208)   天下統一を図る曹操と、江東を死守する孫権の戦い。劉表の死亡直後に曹操に無条件降伏した荊州では、新野の劉備が降伏反対派と共に江夏に逃れ、柴桑(江西省九江市区)に拠る孫権と同盟して曹操に対抗した。
 曹操は荊州水軍を接収すると孫権に帰順を迫って赤壁(湖北省嘉魚)に布陣したが、軍中に疫病が流行して後退を図るところに火攻され、水軍の殆どを喪って撤退した。この一戦で曹操の天下統一は頓挫し、孫権の江東支配が確定し、劉備も荊州南部を獲得して三国鼎立の形勢がほぼ定まった。 一般に、赤壁の役は曹操軍の惨敗とされているが、主だった将官に戦死者はなく、帰還後ただちに銅雀台造営に着手しながらも増税もなかったことから、被害は荊州水軍に集中したものと思われる。

ID詩人名  / 事項よみかな作品名

36関羽(かんう)(?〜219)
中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。河東(山西省)の人。字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。無  題

37班u、 (はんしょうよ)生没年不詳
中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。怨歌行   怨詩(新裂齊?素)

38梁鴻 りょうこう生没年不明:
後漢の人。生没年は不詳。字は伯鸞。扶風平陵(現・陝西咸陽県西北)の人。この詩のために姓名を改め、姓を運期とし、名を燿、字を侯光とする。貧しい家庭の出身である五噫歌





3.建安文学の文学者
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応よう・劉驕E阮?ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応きょ・蔡えん・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。 

ID詩人名  / 事項よみかな

391)孔 融 (こう ゆう)153年 - 208年
後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。 

402)陳 琳(ちん りん)  - 217年
後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。飲馬長城窟行 易公孫?與子書

413)王 粲(おう さん)177年 - 217年
、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王?の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王?、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。登樓賦
公讌詩  詠史詩  七哀詩三首  從軍詩五首

424)徐幹 (とかん)  - 217年
 北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。

435)応楊 (おうよう)  〜217
  字は徳l。汝南郡南頓の人。応cの子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。 

446) (りゅうてい)  - 217年
  後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)贈従弟三首

457)阮禹 (げんう)   〜212
 陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。 

46王炙(おうえん)177〜217
後漢から魏(ぎ)にかけての文人。高平(山東省)の人。字(あざな)は仲宣。博覧多識で知られる。詩賦に長じ、建安七子の一人。「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」など。
従軍詩 七哀詩 登楼賦」

4.桃園の誓い
 豕県(たくけん)・楼桑村。この小さな村に、草鞋を売って生計を立てている一人の男がいた。彼の名前は劉備玄徳。漢の中山靖王・劉勝の末裔、景帝の血を引く由緒正しい人物です。彼は黄巾賊の暴挙に強い反感を抱きながらも、自分の力のなさに嘆いていた。そこに幽州の太守・劉焉(りゅうえん)が義軍募集の高札を掲げた。それは官軍(後漢王朝の軍隊)の力では、もはや黄巾賊の暴挙を抑えることができないということを意味していた。この高札を前に劉備が義軍入隊について躊躇していると、後ろから張飛と名乗る巨漢の人物が劉備の自信のなさに大喝。劉備は何かから目覚めたように、義軍への参加を決意したのです。張飛の兄貴分であった関羽と共に、劉備は彼の桃園で義兄弟の契りを結んだ。劉備が長兄、関羽が次兄、そして張飛が末弟。劉・関・張三兄弟がここで固い意志と野望で結ばれた。 

5.黄巾の乱の終焉
 劉備は義兵を結成すると、直ちに劉焉のもとに駆け付けました。同じ劉一族と知った劉焉は、劉備の来訪を歓迎、義理の甥として扱いました。そうこうしている内に劉備の仕事がすぐ舞い込んできました。最初の任務は大興山に陣取る黄巾賊の退治でした。ここで劉備は関羽・張飛とともに一斉攻撃を仕掛け、敵将・程遠志を討ち取ります。その後も青州城の救援や河南の決戦などで獅子奮迅の活躍を見せ、遂には黄巾賊の副頭領である張宝を倒し、官軍を勝利に導きました。もう一人の副頭領・張梁も官軍の皇甫嵩ならびに曹操の攻撃を受けて戦死。病を患っていた張角も大いなる失望に倒れ、ここに黄巾の乱は幕を閉じました。劉備玄徳は二十三歳の若さでその名を天下に轟かせた。 

6.劉備の苦悩
 黄巾の乱を平定した官軍の将たちは、続々と都・洛陽へ凱旋し、武勲を挙げた皇甫嵩・曹操らは霊帝より高位高官を授かりました。義軍の劉備たちには何の沙汰もありませんでした。十常侍は義軍上がりの劉備たちに官位を与えるのを躊躇いましたが、とりあえず中山府安喜県の県尉という小さな役職を与え、劉備はそれでも不平不満を言わずにその職を拝命し、任地へ赴きましたが、賄賂をせがまれましたが、劉備は民が苦労して納めた税金を賄賂になど使えないと拒否、これで帝に反することになってしまった劉備は、やむなく任地を去り、流浪の旅に出かけることになった。劉備らが旅中、突然官軍の一隊に出くわした。その軍を率いていたのは公孫贊(こうそんさん・北平の太守)でした。劉備とは旧知の仲で、劉備も彼を兄貴分として慕っていた。公孫贊は劉備の不遇を哀れみ、旅先で劉備たちが倒したという盗賊が手配中のものであったのを上手く利用し、督郵への非礼を赦免させ、平原県の県令という官職を推挙させました。劉備は彼に深く感謝して別れ、直ちに任地へ赴いた。 

7.何進の優勢、十常侍の劣勢
 一方、都・洛陽ではある異変が起ころうとしていました。霊帝が危篤状態に陥ったのです。霊帝には二人の妃がいて、名を何太后と王美人といいました。そして、その二人ともが霊帝との間に子供を持っていました。しかし、自分の息子である弁皇子を次の帝に即位させたい何太后は、王美人を毒殺。その子・協皇子を霊帝の生母に預けさせたのです。これにより宮中では、何太后の兄である何進(かしん)の権力が一気に増し、洛陽の取締役である大将軍に抜擢されることになったのです。それはさておき、霊帝の余命はもはやいくばくもありません。その霊帝の最後の願いが、協皇子を次の帝にすることでした。ところで十常侍は、最近の何進の勢いが面白くありませんでした。さらに、もしも弁皇子が次期皇帝に即位すれば、何進の権力は増大するばかりです。これを危惧した十常侍は、何としてでも何進の権威を失墜させたかったのです。そんな最中に霊帝の危篤。十常侍はここぞとばかりに霊帝に進言しました。「協皇子を次の帝に即位させるためには、後顧の憂いを絶つために何進の暗殺が必要です」と。霊帝には、もはやそれを画策する気力は残されていませんでした。よって、十常侍は極秘裏に何進暗殺計画を企んだのです。しかし、この情報はいとも容易く何進の密偵に知られ、激怒した何進は霊帝崩御と同時に十常侍および宦官誅滅を掲げて宮廷に乗り込みました。こうして、蹇碩(けんせき)ら何進暗殺を企てた者は全員殺されました。しかし、十常侍の一人である張譲は必死で何太后に命拾いを嘆願。何太后はこれを了承し、これ以上の殺生は無益だと何進に忠告しました。何進はこれを承諾し、張譲は命拾いをしたのです。こうして、弁皇子を少帝として即位させた何進は宮中の全ての権力を手に入れた。

曹操の台頭
 しばらくするとまたもや張譲らが何進の権威失墜を目論んで動き始めたのです。怒った何進は今度こそ全員抹殺をしようと試みましたが、何太后に十常侍にはこれ以上手をかけないと約束してしまったため、各地の豪族に使者を送り、宮廷に乗り込んで残りの十常侍を殺害するように命じたのです。しかし、その最中に何太后が何進に話があると使者をよこしました。曹操ら配下の将は、これは十常侍の策略に違いないと進言しましたが、何進は十常侍をなめてかかって聞かず、結局、曹操・袁紹率いる精鋭を引き連れて、何進一人宮廷の中に入っていきました。当然、これは十常侍の策略でした。何進は張譲らによって謀殺され、首は曹操らのもとに送られました。張譲は曹操らに万事終わったので、軍を撤退させるよう命令しました。しかし、曹操はこうなることを見越して精鋭を引き連れてきたのです。曹操は張譲の命令を無視して、十常侍と宦官の撲滅を今度こそ果たすよう全軍に伝え、宮廷に攻めかかりました。老若男女二千人あまりが殺され、十常侍もことごとく討たれました。張譲は少帝と陳留王(協皇子)を連れて宮廷から逃走しましたが、追手の攻撃を受け入水自殺。少帝と陳留王は、何進の使者から事情を聞いて西涼から上洛してきた董卓の軍勢に警護されて、無事宮廷に帰還しました。こうして、十常侍と何進をめぐる争いに終止符が打たれた。 

50武帝(曹操)(ぶてい・そうそう)155年 - 220
後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿・蒿里行 ・薤露
やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。




三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:?巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。

ID詩人名  / 事項よみかな作品名

51曹丕・文帝(そうひ・ぶんてい)187〜226
三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220〜26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。寡婦 ・典論
・画餅 ・燕歌行・善哉行 ・王は驢鳴を好めり

52曹植(そうしょく)[192〜232]
中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。→建安体→七歩(しちほ)の才七歩詩 ・怨詩行  ・野田黄雀行  ・贈白馬王彪  ・左顧右眄   七哀詩

53繁欽(はんきん) (?〜建安23年(218年)。
字は休伯。潁川(許昌)の人。曹操の主簿となる。詩賦に優れる。繁欽は建安16年正月8日に曹丕に『與魏文帝箋』を送っている。曹丕がそれを建安17年正月に手紙を受け取った後、『答繁欽書』で返事を書いている。  

54蔡えん(さいえん)177年- 239年
後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡?。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られる。
 河東の衛仲道の妻となるが死別。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれることになった。そこで左賢王との間に二子をもうけた。12年後の207年、蔡?の後継者が居ないことを惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払うことによって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書のうち蔡?の暗記していたものを復元した。陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓があり、付近には記念館が建っている。
 現存する詩として、自らの波乱の人生をつづった『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の二首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。
蔡?の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。悲憤詩
胡笳十八拍

55繆襲(きょうしゅう)186年〜245年
字は熙伯。漢魏の文学者。186年(中平三年)〜245年(正始六年)。東海の人。才学があり、著述がある。※挽歌詩:死者の柩(ひつぎ)を挽(ひ)いてゆくときの歌。死者の立場で歌う。

230頃 竹林の七賢  3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した
1)阮籍(げんせき) 2)けい康(けいこう) 山濤(さんとう) 4)劉伶(りゅうれい) 5)阮咸(げんかん) 6) 向秀(しょうしゅう) 7)王戎(おうじゅう)

56応きょ(おうきょ)190〜252
  字は休l。汝南郡南頓の人。楊の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。 

611)阮籍(げんせき)210〜263
三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字(あざな)は嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、俗人を白眼視した故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。詠懷詩  
・白眼視

622)けい康(けいこう)(223〜262)
字は叔夜。?郡の人。?昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。 ・幽憤詩・贈秀才入軍五首 ・呉謡 ・呂安題鳳

633)山濤(さんとう)(205〜283)
字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・?康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。 『山濤集』

644)劉伶(りゅうれい)(211〜300)
  またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・?康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。 酒徳頌 ・劉伶戒酒  ・屋室を[巾軍]衣と為す

655)阮咸(げんかん)(210〜263)
字は嗣宗。陳留郡尉氏の人。阮?の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。詠懐詩

666) 向秀(しょうしゅう)(227〜272)
字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。?康・呂安と交友した。?康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って?康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。 思旧賦

677)王戎(おうじゅう)234〜305
字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。此必苦李





(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。

 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、氏)であったことからこの名がある。

晋  265〜420
西晋 265年 - 316年
東晋 316〜420
五胡十六国
 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。

ID詩人名  / 事項よみかな作品名

68孫楚(そんそ )不詳 - 293年
中国・魏および西晋の政治家、武将。字は子荊。男性。本籍は太原郡中都県。祖父は孫資、父は孫宏。子に孫衆、洵(恂とも)、纂。孫に孫盛(洵の子)、孫綽(纂の子)など。若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、周囲の評判はよくなかった。名門の王済と親しく、王済は大中正(九品官人法に基づき官職を決める)に孫楚の人物評を求められると「天才にして知識が広く、群を抜いて優れています」と推薦している。40歳を過ぎてようやく魏に仕え、鎮東参軍事となる。司馬昭の命で呉への使者となった。その後も西晋で石苞の参軍として対呉の最前線にあったが、孫楚は石苞を見下していたので、両者は対立し、石苞は呉の計略もあって謀反の疑いで後方へ召還された。その後、旧知の扶風王司馬駿の参軍となった。
恵帝の初年に馮翊太守となり、293年(元康3年)死去した。 

69張華232年- 300年
張華(ちょうか、)は、三国時代から西晋の政治家。魏、晋に仕えた。字は茂先。范陽方城(今河北省固安県)の人。晋書に伝がある。妻は劉放の娘壯士篇(天地相震蕩)

70張協(?〜307?)
 安平郡武邑の出身。字は景陽。夙に俊才として知られ、兄の張載・弟の張亢とは“三張”と並称され、詩名は陸機・潘岳と並称された。秘書郎・中書侍郎を経て河間内史まで進んだが、権臣とは親しまず、八王の乱を避けて隠棲し、叙任を拒んで在野のまま天寿を全うした。
 西晋を代表する詩人として、『詩品』では阮籍・左思・陸機・潘岳と共に上品に位し、その評には「王粲の風あり。潘岳より雄にして左思より靡」とある。『苦雨』が代表作とされる。 

71潘岳(はんがく)247年- 300年
西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。
潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。 

74左思 250頃〜305頃
中国西晋の文学者。臨(りんし)(山東省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。構想10年で書きあげた「三都賦」の人気が洛陽の紙価を高めた故事で知られる。詩では詠史詩にすぐれる。詠史詩
75陸機(りく き)261年- 303年
永安4年(261年) -太安2年(303年))は、呉・西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三国志演義の登場人物としても有名な陸遜・陸抗。本籍は呉郡呉(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都であった建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。七尺もの身の丈を持ち、その声は鐘のように響きわたったという。儒学の教養を身につけ、礼に外れることは行なわなかった。同じく著名な弟の陸雲と合わせて「二陸」とも呼ばれる。文弱で親しみやすい弟に比して、陸機は郷党から畏れられていたが、洛陽に出て西晋に仕えてからは、兄弟ともに呉出身の人士のリーダー的存在であった。西晋のみならず、六朝時代を代表する文学者の一人であり、同時代に活躍した潘岳と共に、「潘陸」と並び称されている。特に「文賦(文の賦)」は、中国文学理論の代表的著作として名高い。また書家としては、彼の「平復帖」(北京故宮博物院所蔵)が現存する最古の有名書家による真跡とされる。 

76陸雲(りく うん)262年- 303年
陸雲(りく うん、262年 -303年)は、呉・西晋時代の中国の政治家・文学者である。字は士龍。祖父・父がそれぞれ呉の重臣陸遜・陸抗で、陸機の弟である。兄機と共に「ニ陸」と称されるほどの西晋時代きっての文学者であった。6歳で文を能くし生涯に著した文章は349編に及んだという。16歳で呉に出官するも3年後に呉が晋に降服すると、兄と共に郷里に蟄居してしまう。以後10年間は学問に励む生活を送ったのち、兄陸機と共に上洛、晋に出仕する。
温和な性格で、出身地の呉方言をからかわれその度にいきまく負けん気な陸機をなだめている。晋皇族の司馬晏の郎中令、尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎、清河内史などを歴任した。その後八王の乱に巻き込まれ、陸機共々成都王・司馬穎に殺された。 

77潘尼(はんに)約250〜約311
 字は正叔。潘岳の弟。太康年間(280〜289)に秀才に挙げられ、太子舎人・尚書郎・著作郎などを歴任した。趙王の簒奪で致仕帰郷したが、斉王が挙兵するとその参軍となり、乱後に安昌公とされた。後に中書令まで進んだが、八王の乱の中ではまったくの無力であり、永嘉の洛陽陥落で郷里に逃げる途中に病死した。潘尼(約250〜約311),西晉文學家。字正叔。?陽中牟(今屬河南)人。潘岳?。少有才,與潘岳?以文章知名。性格恬淡,不喜交遊,專心著述。太康年間,舉秀才。?任尚書郎、著作郎、中書令。永嘉年間任太常卿。洛陽被劉聰攻破之前,潘尼攜家還?,中途病卒。《隋書・經籍志》載有“晉太常卿《潘尼集》十卷”,今不存。明人張溥輯有《潘太常集》1卷,見《漢魏六朝百三家集》。 











盛唐の詩人たち

● 盛唐期の詩人たち
  唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがいる。

ID詩人名よみかな作品名

201C 張若虚()ちょうじゃくきょ未詳〜715
初唐の詩人。  賀知章、張旭、包融とともに「呉中の四士」と称された。張若虚(?〜711?)
  揚州の人。官は?州兵曹に上った。中宗の神龍年間、賀知章・賀朝・万斉融・?巨・包融らとともに詩文の才で知られた。「春江花月夜」の一首によって不朽の名を残した。
春江花月夜
202B 包融ほうゆう生没年未詳
  
203王翰 おうかん687 - 726年
盛唐の詩人。酒をこよなく愛し、酒を題材にした作品が多く見られる。王翰(687?〜726?)
  字は子羽。晋陽の人。景雲二年(711)、進士に及第した。豪放な性格で任侠の士と交わり、酒宴と狩猟に日を送った。張説に認められて、駕部員外郎に任ぜられた。張説が失脚すると仙州別駕に左遷されたが、やはり任侠の士を集めて酒宴にふけったため、さらに道州司馬に流されて、配所で没した。
涼州詞  古長城吟(飮馬長城窟行)

204蘇廷(そてい) 670- 727年
  字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)、進士に及第した。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任した。また玄宗の信任もあつく、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜられて玄宗を補佐した。
汾上驚秋

233僧一行(そう いちぎょう) (683〜727)
  俗姓は張、名は遂。号は大慧禅師。魏州昌楽の人。若いころは経史を学び、また陰陽五行に通じた。荊州五泉山の恒景に従って仏門に入り天台を学んだ。禅を崇山の普寂に、律を当陽山の悟真に教授を受けた。金剛智・善無畏に師事して密教を学んだ。新暦の作成を玄宗に命じられて、天体観測のために黄道游儀や渾天儀を作ったという。密教の第六祖とされる。『大日経疏』、『大衍暦』。

205張説 (ちょうえつ) 667- 730年
唐代の政治家。字は道済、または説之。洛陽の人。永昌元年(689)、進士に及第した。太子校書から鳳閣舎人に進んだが、張易之兄弟に逆らい、欽州に流された。易之が殺され中宗が復位すると、呼び戻されて工部侍郎・兵部侍郎を歴任。睿宗のとき、中書侍郎・雍州長史となった。また皇太子・李隆基(のちの玄宗)の侍読をつとめ、同中書門下平章事(宰相)に上った。玄宗の即位後、太平公主が蕭致忠らを登用したため解任された。太平公主が誅されると、中書令に上り、宰相に復した。燕国公に封ぜられた。のち姚崇・宇文融と対立して失脚した。左遷されて相州・岳州刺史を歴任した。姚崇の死後、ふたたび中書令となった。晩年、玄宗の信任を恃んで専断の行為があり、弾劾を受けて罷免されたが、また右丞相に返り咲いた。のち左丞相に遷った。文筆は蘇?とともに「燕許大手筆」とうたわれた。『張説之文集』。
蜀道後期
(客心爭日月)  幽州新歳作(去歳荊南梅似雪)

206張九齢 (ちょうきゅうれい) 678- 740年
陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
照鏡見白髪

207@ 賀知章がしちょう659- 744年
唐代の詩人、書家。詩人として有名であるが、狂草で有名な張旭と交わり、草書も得意としていた。酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている。李白とも交友があった。
回ク偶書

208A 張旭ちょうぎょく生没年未詳
蘇州呉県の出身。字は伯高。唐文宗期の書家で、李白の詩・裴旻の剣舞とともに,三絶たることを勅認された。狂草の創始者でもあって楷書にも優れ、神筆と自称した。桃花谿

209孟浩然もうこうねん689- 740年
盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
春暁  送朱大入秦  留別王侍御維  望洞庭湖贈張丞相   宿桐廬江寄廣陵舊遊  過故人莊

210王之渙おうしかん688-742年
残る詩は少なく、『全唐詩』にわずか6首を残すのみであるが、王翰(おうかん)と並んで、当時の流行歌の歌詞作者として知られていた。彼が一首詩を作ると、楽工たちが争ってそれに曲をつけたという。登鸛雀樓(白日依山盡) 涼州詞

211李祈(りき)690〜751年
東川(現・四川省)の人で穎陽に家がある。開元年間の進士で、新ク尉に任じられる。古従軍行(白日登山望烽火)
212崔さいこう704- 754年
盛唐の詩人。若い頃は軽薄で浮艶な詩を詠んだが、晩年は気骨に富む作風へ変わった。代表作の「黄鶴楼」は唐代七言律詩の最高峰として評価され、後に李白が黄鶴楼に登ったとき、楼壁に書かれたこの詩を読み、「これ以上の詩は作れない」と言ったと伝えられている。「水卞」洲(べんしゅう)《河南省開封府》の人。開元11(723)年の進士、秀才であったが酒と遊びに溺れ軽薄の評をうけた。晩年は格調の高い詩風を出す。天宝13年に没す。年50。
黄鶴樓(昔人已乘白雲去) 長干曲(君家何處住) 長干曲(家臨九江水)  雁門胡人歌(高山代郡東接燕)

安史の乱   -安禄山の叛乱  -その背景
 唐の中期755年―763年,安禄山とそれを受け継いだ史思明らによる反乱。唐の玄宗は晩年楊貴妃を愛し,宮廷が腐敗し,均田制・府兵制などの諸制度もくずれ,農民の流民化が著しくなってきていたが,この乱を機に門閥貴族が没落し,税制が改革され,節度使が中国内地に置かれ軍閥化するなど中国社会が大きく変化する契機となった。 

213楊貴妃(楊玉環ようきひ719- 756年
 幼名は玉環。蜀州の司戸参軍楊玄?の娘。幼時に父を喪って叔父の養女となり、玄宗の第18皇子/寿王瑁の妃とされた。歌舞音律に通暁して才知にも長け、武恵妃死後の玄宗の寵妃を探していた高力士に認められ、勅命で道観に入ってのち745年に後宮に納れられ、貴妃の位が新設された。朝政に容喙する事は少なかったが、3人の姉は国夫人とされ、従祖兄の楊国忠が宰相となるなど一族は無原則に高位高官とされ、各地で驕奢暴虐を行なって朝野から唾棄された。安禄山の乱で蜀への退避に同行したが、軍部の要求で馬嵬駅(陝西省興平県馬嵬鎮)の仏寺の庭で殺された。
 楊家の車馬が玄宗の娘の広平公主と道を争い、落馬した公主を庇った夫の程昌裔が罷免されて朝見を禁じられた事があり、楊氏の横暴と玄宗の老耄を伝える格好の事例とされる。
阿那曲

214樓穎 ろうえい 760頃
樓穎:〔ろうえい〕盛唐の詩人。唐・天寶年間の進士。西施石(西施昔日浣紗津)

215王維おうい699-761
唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。同時代の詩人李白が「詩仙」、杜甫が「詩聖」と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から「詩仏」と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。 太原祁県(山西)の出身。字は摩詰。731年の進士。右拾遺・監察御史・庫部郎中をへて750年に給事中とされた。安禄山に捕らえられて仕官を余儀なくされたため、一時は処罰の対象とされたが、平定後は粛宗に仕えて給事中に復し、尚書右丞に進められた。五言詩に長じ、陶淵明・謝霊運を継ぐ山水詩人として孟浩然と、書画では呉道玄・李思訓と並称され、山水画では後の南宗画の祖と目された。仏教に強く影響され、諱と字を合せると仏典中の居士として著名な維摩詰となることは著名で、李白が[詩仙];、杜甫が[詩聖]と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から[詩仏]と呼ばれる。
王維ものがたり
王維 罔川集 20首   送祕書晁監還日本國
田園楽七首

216李白りはく701- 762年
中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。
李白詩

杜甫を詠う2首と1首
李白ものがたり

217儲光羲  しょこうぎ 706〜763年
盛唐の詩人。袁州(現・山東省袁州)の人。開元十四年(726年)の進士。監察御史となったが、安禄山が長安を陥とした時に強要されて官に就いたたため、乱後は嶺南(現・広東省)に流され、その地で没する。
長安道(鳴鞭過酒肆)   田家雑興   洛陽道

218王昌齢おうしょうれい698- 765年
当時は「詩家の天子」とも呼ばれた。辺塞詩に佳作が多いとされる。閨怨詩・送別詩にも詩才を発揮した。 江寧(江蘇)出身。字は少伯。727年の進士。水県尉・竜標県尉を歴任し、安史の乱を機に帰郷したが、刺史の閭丘暁と反目して暗殺された。詩人として著名で、七言絶句においては李白と並称された。
萬歳樓  梁苑  雜興   芙蓉樓送辛漸(寒雨連江夜入呉)  答武陵田太守(仗劍行千里)出塞(従軍行)   塞下曲   閨怨   從軍行(琵琶起舞換新聲)  出塞行(白草原頭望京師) 

219高適こうせき702頃〜765
渤海(ぼっかい)(山東省)の人。字(あざな)は達夫(たっぷ)。辺境の風物を歌った詩にすぐれた作が多い。こうてき。
辺塞の離情を多くよむ。50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。『高常侍集』8巻がある。
塞上聞吹笛 除夜作  田家春望 邯鄲少年行 燕歌行

220嚴武  げんぶ 不詳〜765
唐の武将。字は季鷹。華州の人。肅宗の時、剣南節度使となり、吐蕃(今のチベット)を破り、礼部尚書となり、後、鄭国公に封じられた。広徳二年 765年四月になると厳武が四十歳の若さで急死してしまいました。杜甫のよい理解者であった。軍城早秋(昨夜秋風入漢關)
221杜甫とほ712- 770
鞏(きょう)県(河南省)の人。字(あざな)は子美(しび)。少陵と号し、杜工部、老杜とも呼ばれる。青年時代から各地を放浪。湖南省の湘江付近で不遇の一生を終えた。現実の社会と人間を直視し、誠実・雄渾な詩を作り、律詩の完成者で詩聖と称され、詩仙と呼ばれる李白と並ぶ唐代の代表的詩人とされる。「兵車行」「春望」などは有名。
杜甫詩

杜甫 李白を詠う15首(12首)

222崔國輔  さいこくほ708〜不詳
盛唐の詩人。708年〜不詳。開元十五年進士となる。字は休文。長樂少年行(遺卻珊瑚鞭) 

223裴迪 (はいてき) 生没年不詳
盛唐の詩人。五代後梁の武将。王維と?川で詩を倡和した。関中(現・陝西省)の人。蜀州の刺史、尚書省郎となる。安史の乱の際、捕らえられた王維を訪ね、情報を交換する。これが後、王維の反乱軍協力疑惑を晴らす一助になる。
送崔九(歸山深淺去)

224荊叔  けいしゅく 生没年未詳
唐代の詩人。おそらく杜甫よりも先になる。題慈恩塔(漢國山河在)

225常建  じょうけん 708〜不詳
盛唐の詩人。字は休文。開元年間の人。開元十五年進士となる。進士となるも、致仕。放浪の後鄂渚に寓居す。この鄂渚とは、地名なのか、場所を表す言葉(湖北省の水郷地帯の意)なのか、目下不明。
塞下曲(玉帛朝回望帝ク)送宇文六(花映垂楊漢水清)   送宇文    塞下曲(北海陰風動地來)   

226張敬忠  ちょうけいちゅう生没年不詳
盛唐の人。官は、監察御史として張仁愿将軍に従い朔方の攻防に与(あずか)って力があり、開元中に平盧節度使となった。邊詞(五原春色舊來遲)

227薛業(せつぎょう) 生没年不詳
盛唐の詩人。天寶間の處士。
洪州客舍寄柳博士芳(去年燕巣主人屋)

228皎然 こうぜん 生没年不詳
皎然:盛唐の詩僧。湖州の人。本姓は謝。字はC晝。塞下曲(寒塞無因見落梅)

229崔敏童さいびんどう生没年不詳
崔惠童:玄宗の皇女の夫。
宴城東莊:長安の東郊にある庵の玉山草堂で宴(うたげ)をした。 ・城東莊:玉山草堂のことを指す。崔敏童に『宴城東莊』「一年始有一年春,百歳曾無百歳人。能向花前幾回醉,十千沽酒莫辭貧。」がある。後世、白居易は『對酒』第五首の第四首に「百歳無多時壯健,一春能幾日晴明。相逢且莫推辭醉,聽唱陽關第四聲。」とうたう。
宴城東莊(一年始有一年春)

230岑參しんじん715- 770年
江陵(湖北省)の人。西域の節度使の幕僚として辺境に滞在した体験から、辺境の風物を多くうたう。辺塞(へんさい)詩人として高適と並び称される。  
岑参ものがたり
 韋員外家花樹歌 與高適薛據同登慈恩寺浮圖(塔勢如湧出) 玉關寄長安李主簿(東去長安萬里餘)  逢入京使(故園東望路漫漫)    山房春事(梁園日暮亂飛鴉) 碩中作(走馬西來欲到天) 西過渭州見渭水思秦川(渭水東流去)  雨夜憶元九      

231賈至かし718〜772年
盛唐の詩人。718年(開元六年)〜772年(大暦七年)。字は幼幾。洛陽の人。安史の乱には、玄宗に従って、蜀に避れる。

 岳陽樓重宴別王八員外貶長沙(江路東連千里潮)長門怨(獨坐思千里)   春思(草色青青柳色黄) 

232崔惠童  さいけいどう720〜780頃
玄宗の皇女の夫。玄宗(げんそう、685年9月8日 -762年5月3日)は、唐の第6代皇帝(在位:712年 - 756 年)。諱は隆基。 治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作っている。宴城東莊(一月人生笑幾回)

233顔真卿がんしんけい698- 785年
顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。今顔真卿の書の見直しが始まり、注目を集めている。
顔真卿
737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に左遷。

 安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、平原郡(山東省徳県)の太守に降格されていた顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿と呼応して、安禄山軍侵攻をとどめた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。
しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相により、前線に送られ、そこで捕えられた。叛乱軍の李希烈は真卿を自らの部下にしようと再三説得したが顔真卿は拒み続けた。757唐国軍長安奪回に伴い李希烈は自殺刑された。後世、顔真卿の忠臣はその典型例として、靖献遺言に取り上げられている。顔真卿は尚書次官クラスでおわる。    安史の乱











中唐の詩人たち
● 中唐期の詩人たち
  766〜826 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元?(?は禾偏に眞)らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。



ID詩人名よみかな作品名
301張謂  いちょう721〜780年
張謂:中唐の詩人。721年(開元九年)〜780年(建中元年?)。字は正言。河内(現・河南省沁陽
県)の人。天宝年間の進士。若い頃は嵩山にこもって勉学に励んだ。権勢にこびず、自ら気骨のあることを
誇っていたという。進士に及第し、節度使の幕僚となって北方に従軍した。いくつかの官を経て、「礼部侍郎」
(文部次官)、「知貢挙」(科挙の試験の総裁)になった。酒の好きな淡白な性格の人で、湖や山を訪れる
のを楽しみにしていた。詩を作るのが巧みであった。早梅(一樹寒梅白玉條) 題長安主人壁(世人結交須
黄金)
302錢起  せんき722〜780年
中唐の詩人。字は仲文。呉興(現・浙江省)の人。722年(開元十年)〜780年(建中元年)。天宝十年(751年)の進士。大暦中に翰林学士となった。大暦十才子の一人。江行無題(咫尺愁風雨) 
303靈一  れいいち未詳
中唐の詩僧。俗姓は呉氏。廣陵(現・江蘇省揚州)の人。若耶渓(現・浙江省紹興)の雲門寺、餘杭(現・浙江省)の宜豐寺に居し、劉長卿、皇甫冉、朱放らと交わる。題僧院(虎溪闌肢相過)
304朱放(しつほう) 未詳
唐の詩人。字は長通。襄州の人。越の溪に隠棲する。江西節度參謀となる。後、貞元の初めに、拾遺に召されたが就かなかった。題竹林寺(歳月人間促)
305劉長卿  りゅうちょうけい709〜785
字は文房。河間の人。若い頃は嵩山にこもって読書し、のちにハ陽に移住した。開元二十一年(733)、進士に及第した。至徳年間に監察御史から検校祠部員外郎・転運使判官を歴任し、知淮西岳鄂転運留後となった。のち無実の罪で投獄され、南巴の尉に左遷された。ある人が弁明してくれたので、睦州司馬に移り、随州刺史にいたった。五言詩にすぐれ、「五言の長城」と自称した。『劉随州集』。 

重送裴カ中貶吉州(猿啼客散暮江頭)  尋盛禪師蘭若(秋草黄花覆古阡) 細聽彈琴(??七弦上)送李判官之潤州行營(萬里辭家事鼓?) 逢雪宿芙蓉山主人(日暮蒼山遠)  送靈K(蒼蒼竹林寺) 送舍弟之?陽居(?陽寄家處)  
306顔眞卿  がんしんけい709- 785年
 死没年からは中唐に分類すべきであるが、盛唐での活躍が大きいので盛唐で掲載している  顔真卿戲答諸少年
307戴叔倫(たいしゅくりん)732〜789年
中唐の詩人。字は幼公。(現・江蘇省)潤州金壇の人。道教に帰依した。(732〜789)字は幼公。金壇の人。永泰元年(765)、進士に及第した。翌年、戸部尚書劉晏の幕下で仕えた三閭廟   夏日登鶴巖偶成(天風吹我上層岡)   關山月(月出照關山)   
308司空曙(しくうしょ) 未詳〜790
中唐の詩人。司空が姓。複姓の一。字は文明。広平の人。虞部郎中に至る。大暦の十才子の一。江村即事(釣罷歸來不繋船)
309楊巨源(ようきょげん)770−未詳
中唐の詩人だが生没年不詳。長く宮中や地方の役人を勤めながら優れた作品を世に出した折楊柳(水邊楊柳
麹塵絲)
310洪耿こうい763〜未詳
中唐の詩人。字は洪源。河東の人。秋日(返照入閭
巷)
311陸羽 (りくう)未詳〜804

 
312顧況(こ きょう)725- 814年
唐の詩人。蘇州(江蘇省)の出身。字は逋翁(ほおう)。号を華陽山人、また悲翁という。粛宗の至徳2戴(757年)の進士。徳宗のときに秘書郎となり、権官の李泌に師事していたが、李泌が宰相となったとき、自分も昇進すると期待したが、かなり遅れて著作郎に転任したにとどまった。
李泌の死後、弔いもせずに嘲笑的な詩を作ったため、饒州(江西省波陽?陽)司戸参軍に左遷され、やがて家族を引き連れて茅山(江蘇省句容県の東南)に籠もり、最後は消息不明となったので、仙人の術を得たと伝わる。今日では『華陽真逸詩』二巻などが残っている。聽角思歸(故園黄葉滿苔)
313盧綸  ろりん748〜800年
中唐の詩人。748年(天寶七年)〜800年?(貞元十六年?)。字は允言。河中蒲(現・山西省)人。大暦十才子の一。大暦の初め,屡々進士の試験を受けるが及第しなかったが後に、監察御史となった。長らく不遇であり、後に檢校戸部郎中となる。和張僕射塞下曲(鷲?金僕姑)
314孟郊(もうこう)751- 814年
唐代の詩人。字は東野、諡は貞曜先生という。
湖州武康(浙江省)の出身。狷介不羈で人嫌いのために、若い頃は河南省嵩山に隠れた。798年、50歳の時に三度目で進士に及第し、江蘇省?陽の尉となった。一生不遇で、憲宗の時代に没する。
詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾は賈島とならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。

(1)登科後  (2)游子吟 (3)古別離 (4)帰信吟  (5)渭上思帰   (6)京山行
315武元衡  ぶげんこう758〜815
 字は伯蒼。河南の人。建中四年(783)、進士に及第した。徳宗に才能を認められ、華原の令から比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。順宗のときに、王叔文に従わなかったため降職されて太子右庶子となった。憲宗の時代になって御史中丞・戸部侍郎を歴任し、元和二年(807)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。淮西節度使・呉元済が叛乱を起こしたとき、憲宗から委任されて討伐を準備したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。 題嘉陵驛(悠悠風旆繞山川)
316崔護(さいご) 未詳
唐代の人。貞元十二年(796年)の進士。字は殷功。博陵(現・河北省定県)の人。『太平廣記・卷第二百七十四・情感』に録されている
「人面桃花」の人題キ城南莊(去年今日此門中)
317李賀  りが790〜816
 福昌昌谷(河南宜陽)の出身。字は長吉。宗室の一員で、早くから才能を称揚されたが、皇族の故に父の諱(晋叔)を避けるために進士の称号を断念せざるを得ず、官人としては不遇だった。一説では、元?との面会を断ったことを恨まれて父の諱の事を指摘され、韓愈の仲介も聴かれなかったという。幼時にすでに韓愈に詩才を認められて[鬼才]と評され、その詩は華麗にして陰鬱と評される。雁門太守行  金銅仙人辭漢歌(茂陵劉カ秋風客)  蘇小小墓(幽蘭露,如啼眼)  雁門太守行(K雲壓城城欲摧)
318權コ輿 こんとくこう(759-818)
中唐の詩人。字は載之。天水略陽(現・甘肅省秦安)の人。四歳で詩をよくしたという。太常博士、吏部侍郎等に任じられた。徳輿(759-818)は、中唐貞元、元和時期の文壇に君臨した著名な文学者であり、その文章は「弘博雅正、温潤周祥」、詩歌は「中正渾厚、頗多佳什」と評価されている。 蘇小小墓(萬古荒墳在)
319柳宗元   A  りゅうそうげん773〜819
 河東(山西)出身。字は子厚。793年に進士に及第し、校書郎をへて監察御史に進んだ。太子近侍の王叔文・韋執誼らに与して順宗即位と共に礼部員外郎とされ、賦役削減の諸改革にも参与したが、憲宗が即位して叔文らが失脚すると永州司馬に左遷された。815年に柳州刺史に転じて弊風改正に注力し、在任中に歿した。
 文人として著名で、韓愈と同じく戦国〜西漢の散文復帰を主張して復古運動を展開したが、六朝以来の形式的な駢文打倒には至らなかった。学術的議論文に優れた韓愈の古文に対して叙景文に優れ、韓愈とともに唐宋八大家の一人とされる。
1江雪 2漁翁 3渓居 4捕蛇者説 5汨羅遇風 6再上湘江 7登柳州峨山 
320李益  りえつ748- 827年
中唐の詩人。李益(り えつ、748年 -827年?)は、中国・唐の詩人。隴西姑蔵(甘粛省武威)の出身。字は君虞(くんぐ)。中唐の鬼才といわれた詩人・李賀の同族。大暦4年(769年)の進士で、鄭県(陝西省華県)の尉となったが、昇進の遅いのに不満を抱いて辞職し、河北の地方を遊歴、幽州(北京)・?寧(甘粛省東部)節度使の幕僚となった。その文名が憲宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられ、傲慢な態度のために一時降職されたが、侍御史・太子賓客・右散騎常侍を歴任、礼部尚書に至った。疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰を撒いて不義を防いだりしたため、「妬癡(とち)尚書李十郎」と呼ばれたという。大歴十才子の一人に数えられ、『李君虞詩集』二巻が残っている。幽州(征戍在桑乾)   夜上受降城聞笛(囘樂峯前沙似雪)  題軍北征(天山雪後海風寒)  喜見外弟又言別(十年離亂後)  ?河曲(?水東流無限春)
321元槇(げんしん)779〜831
 字は微之。河南河内の人。元和元年(806)、進士に及第した。左拾遺となった。しばしば皇帝に上書したため権臣に憎まれ、河南の尉に左遷された。のちに監察御史となったが、宦官の劉士元と争って江陵府士曹参軍に左遷された。通州司馬・?州長史を歴任した。元和の末年(820ごろ)、都に呼び戻されて膳部員外郎となった。さらに中書舎人・工部侍郎を経て、長慶二年(822)には同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、わずか四カ月で罷免されて越州刺史・浙東観察使に転出した。武昌節度使に遷って没した。白居易の親友で、楽府にすぐれ、「元白」と併称された。『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。遣悲懷 聞白樂天左降江州司馬 歳日 離思 ;『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。
322白居易/白楽天  はくらくてん772〜846 
 下弁(陝西)出身。字は楽天、号は香山居士。徳宗の貞元年間の進士で、翰林学士から左拾遺に進んだが、淮西鎮対策の上書が貴顕に憎まれて江州司馬に降格され、このときに香炉峯下に草堂を建てた。821年に中央に復帰したものの自ら求めて杭州・蘇州刺史を歴任し、827年に召されて刑部侍郎などを歴任し、刑部尚書をもって842年に致仕した。
 当初は経世済民を志して諫官を自任したが、江州に出されてより地方行政に尽くして善政を讃えられ、西湖の治水・干拓は代表的なもので、“白堤”は現代に至るまで西湖名勝の1つに数えられる。江州時代より詩風も一変し、簡適系と呼ばれる平易・写実的なものが多くなって元?と並称され、玄宗と楊貴妃を題材とした『長恨歌』などは生存中から人口に膾炙し、日本に伝えられた文集は平安文学に多大な影響を与えた。
 弟の白行簡も文人として知られ、官人としては不遇だったが、『李娃伝』は秀作として後世まで広く知られた。 

戲答ゥ少年  讀道コ經 三月三十日題慈恩寺  三月三十日作  春夜宿直  禁中夜作書與元九  雨夜憶元九  夢亡友劉太白同遊彰敬寺  春風  賦得古原草送別  大林寺桃花  問劉  長恨歌   琵琶行・序 琵琶行・一   琵琶行・二  琵琶行・三  琵琶行・終尾   花非花  初貶官過望秦嶺  臨水坐  訪陶公舊宅序  訪陶公舊宅 二首 遊趙村杏花  對酒  想歸田園  太平樂詞  見元九悼亡詩因以此寄  送春  燕詩示劉叟  靈巖寺  新豐折臂翁  楊柳枝 其一〜其八  舟中讀元九詩  村夜  商山路有感  效陶潛體詩  病中哭金鑾子  勤政樓西老柳  新秋  賣炭翁  杪秋獨夜  商山路有感  觀幻  暮江吟  自詠  洛陽春  魏王堤  逢舊  代鄰叟言懷  長安道  感月悲逝者  晩起  勸酒  勸夢得酒  聞哭者  池西樓  杏園花落時招錢員外同醉
324劉禹錫  りゅうしゃくう772〜842年
劉禹錫:中唐の詩人。772年(大暦七年)〜842年(會昌二年)。白居易や柳宗元との詩の応酬も多い。白居易とともに『竹枝詞』や『楊柳枝』を作る等、前衛的、実験的なことに取り組む。字は夢得。監察御史、太子賓客。

烏衣巷(朱雀橋邊野草花)/與歌者何戡(二十餘年別帝京)/秋詞(自古逢秋悲寂寥) 同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/元和十一年自朗州召至京戲贈看花ゥ君子(紫陌紅塵拂面來)/杏園花下酬樂天見贈(二十餘年作逐臣)/詠紅柿子(曉連星影出)/逢舊/憶江南
秋風引(何處秋風至)/浪淘沙(八月濤聲吼地來)/楊柳枝詞(煬帝行宮?水濱)/石頭城(山圍故國週遭在)/浪淘沙(九曲黄河萬里沙)/再遊玄キ觀(百畝庭中半是苔)
325韓愈   @  かんゆ768〜824年
韓愈:中唐の文人、政治家。768年(大暦三年)〜824年(長慶四年)。洛陽の西北西100キロメートルの河陽(現・河南省孟県)の人。諡は文公。四六駢儷文を批判し、古文復興を倡えた。仏舎利が宮中に迎えられることに対して韓愈は、『論仏骨表』を帝(憲宗)に奉ったが、却って帝の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。その時の詩が多い。唐宋八大家の一人。
醉留東野(昔年因讀李白杜甫詩)   山石(山石犖?行徑微)   忽忽(忽忽乎余未知生之爲樂也  左遷至藍關示姪孫湘
326張継  ちょうけい生没年不詳
 中唐の詩人。字は懿孫(いそん)、湖北省襄州(じょうしゅう)に生まれた。天宝12年(753)の進士。地方官より中央の検校(けんこう)祠部(しぶ)郎中(ろうちゅう)に至る。張祠部(ちょうしぶ)詩集一巻あり。『楓橋夜泊』の詩は内外に愛誦される。清の学者兪越(ゆえつ)の書いた石碑が寒山寺にある。
楓橋夜泊(月落烏啼霜滿天)  杪秋獨夜
327張籍  ちょうせき768〜830年
中唐の詩人。字は文昌。和州(かしゅう)烏江(安徽省和県)の人。師友の韓愈に目をかけられ、その推薦によって、国子博士となった。楽府に長じている。

 節婦吟寄東平李司空師道 蜀道後期(客心爭日月) 幽州新歳作(去歳荊南梅似雪)
(1)哭孟寂   (2)秋思秋思(洛陽城裏見秋風) 董逃行(洛陽城頭火??) 征婦怨(九月匈奴殺邊將)
328韋應物  いおうぶつ735〜835
 京兆長安の出身。若い頃は任侠を好んで玄宗に仕えたが、帝の死後は改めた。洛陽丞・徐州刺史・蘇
州刺史を歴任し、蘇州刺史の時代には善政を行なって韋蘇州と尊称された。五言詩に優れ、詩風は陶淵
明に似て韋陶と並称されるほどで、白居易とも交際があった。

與村老對飮(鬢眉雪色猶嗜酒)   調笑令寄李?元錫(去年花裏逢君別)  ?州西澗(獨憐幽草澗邊
生)  秋夜寄丘二十二員外(懷君屬秋夜) 
329賈島(かとう) 779〜843年
賈島:中唐の詩人。779年(大暦十四年)〜843年(會昌三年)。字は浪仙。范陽の人。初め、僧侶で無本と号し、後、韓愈に認められて(「推敲」)還俗、仕官した。五言律詩にすぐれる 范陽出身。字は浪仙、号は無本。科挙に失敗を重ねて青龍寺に居し、元?・白楽天の平易な詩風に反対し、苦吟推敲を重ねて作詩することを提唱した。“推敲”の語の由来者であり、823年、詩作に没頭して京兆尹韓愈の車列を乱してより韓愈に詩才を認められ、還俗して進士科にも及第したが、微行中の宣宗に無礼があって罷免され、困窮の裡に歿した。渡桑乾(客舍并州已十霜)   尋隱者不遇(松下問童子)   題李凝幽居   三月晦日贈劉評事   對酒
330李紳  りしん780〜846年
李紳:建中元年(780年)〜會昌六年(846年)。中唐の詩人。字は公垂。無錫の人。 潤州無錫の出身。字は公垂。徳宗の元和年間の進士。穆宗に召されて右拾遺とされ、ついで翰林学士に進められて李徳裕・元?とともに“三俊”と称され、累進して戸部侍郎まで進んだが、824年に宰相の李逢吉と対立して端州司馬に遷された。地方官を歴任し、842年に李徳裕に反対されながらも同平章事に進められたが、翌年には退けられて淮南節度使で終った。念金鑾子
331李渉・李渤  りしょう773〜831
中晩唐の詩人。初め、弟の李渤とともに廬山に隠棲して白鹿を飼っていたが、憲宗の時代に太子通事舍人となった。清谿子と号した。洛陽(現・河南省洛陽)の人。題鶴林寺(終日昏昏醉夢間)  重登滕王閣(滕王閣上唱伊州)
332薛瑩(せつえい)未詳
中唐の詩人。文宗時代の人。秋日湖上(落日五湖遊)
333薛濤(せつとう)768- 831年
伎女・詩人。魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。長安の出身(一説では成都とも)。父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。蜀の長官・韋皐の屋敷に召されて酒宴に侍し、詩を賦して女校書と称せられた。浣花渓にいて、白居易・元?・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫などと唱和し、名妓として知られた。春望詞一首  送友人 海棠渓









中唐の詩人たち




● 中唐期の詩人たち
  766〜826 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元?(?は禾偏に眞)らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。



ID詩人名よみかな作品名

301張謂  いちょう721〜780年
張謂:中唐の詩人。721年(開元九年)〜780年(建中元年?)。字は正言。河内(現・河南省沁陽
県)の人。天宝年間の進士。若い頃は嵩山にこもって勉学に励んだ。権勢にこびず、自ら気骨のあることを
誇っていたという。進士に及第し、節度使の幕僚となって北方に従軍した。いくつかの官を経て、「礼部侍郎」
(文部次官)、「知貢挙」(科挙の試験の総裁)になった。酒の好きな淡白な性格の人で、湖や山を訪れる
のを楽しみにしていた。詩を作るのが巧みであった。早梅(一樹寒梅白玉條) 題長安主人壁(世人結交須
黄金)

302錢起  せんき722〜780年
中唐の詩人。字は仲文。呉興(現・浙江省)の人。722年(開元十年)〜780年(建中元年)。天宝十年(751年)の進士。大暦中に翰林学士となった。大暦十才子の一人。江行無題(咫尺愁風雨) 

303靈一  れいいち未詳
中唐の詩僧。俗姓は呉氏。廣陵(現・江蘇省揚州)の人。若耶渓(現・浙江省紹興)の雲門寺、餘杭(現・浙江省)の宜豐寺に居し、劉長卿、皇甫冉、朱放らと交わる。題僧院(虎溪闌肢相過)

304朱放(しつほう) 未詳
唐の詩人。字は長通。襄州の人。越の溪に隠棲する。江西節度參謀となる。後、貞元の初めに、拾遺に召されたが就かなかった。題竹林寺(歳月人間促)
3
05劉長卿  りゅうちょうけい709〜785
字は文房。河間の人。若い頃は嵩山にこもって読書し、のちにハ陽に移住した。開元二十一年(733)、進士に及第した。至徳年間に監察御史から検校祠部員外郎・転運使判官を歴任し、知淮西岳鄂転運留後となった。のち無実の罪で投獄され、南巴の尉に左遷された。ある人が弁明してくれたので、睦州司馬に移り、随州刺史にいたった。五言詩にすぐれ、「五言の長城」と自称した。『劉随州集』。 

重送裴カ中貶吉州(猿啼客散暮江頭)  尋盛禪師蘭若(秋草黄花覆古阡) 細聽彈琴(??七弦上)送李判官之潤州行營(萬里辭家事鼓?) 逢雪宿芙蓉山主人(日暮蒼山遠)  送靈K(蒼蒼竹林寺) 送舍弟之?陽居(?陽寄家處)  

306顔眞卿  がんしんけい709- 785年
 死没年からは中唐に分類すべきであるが、盛唐での活躍が大きいので盛唐で掲載している  顔真卿戲答諸少年

307戴叔倫(たいしゅくりん)732〜789年
中唐の詩人。字は幼公。(現・江蘇省)潤州金壇の人。道教に帰依した。(732〜789)字は幼公。金壇の人。永泰元年(765)、進士に及第した。翌年、戸部尚書劉晏の幕下で仕えた三閭廟   夏日登鶴巖偶成(天風吹我上層岡)   關山月(月出照關山)   

308司空曙(しくうしょ) 未詳〜790
中唐の詩人。司空が姓。複姓の一。字は文明。広平の人。虞部郎中に至る。大暦の十才子の一。江村即事(釣罷歸來不繋船)

309楊巨源(ようきょげん)770−未詳
中唐の詩人だが生没年不詳。長く宮中や地方の役人を勤めながら優れた作品を世に出した折楊柳(水邊楊柳
麹塵絲)

310耿こうい763〜未詳
中唐の詩人。字は洪源。河東の人。秋日(返照入閭
巷)

311陸羽 (りくう)未詳〜804

 
312顧況(こ きょう)725- 814年
唐の詩人。蘇州(江蘇省)の出身。字は逋翁(ほおう)。号を華陽山人、また悲翁という。粛宗の至徳2戴(757年)の進士。徳宗のときに秘書郎となり、権官の李泌に師事していたが、李泌が宰相となったとき、自分も昇進すると期待したが、かなり遅れて著作郎に転任したにとどまった。
李泌の死後、弔いもせずに嘲笑的な詩を作ったため、饒州(江西省波陽?陽)司戸参軍に左遷され、やがて家族を引き連れて茅山(江蘇省句容県の東南)に籠もり、最後は消息不明となったので、仙人の術を得たと伝わる。今日では『華陽真逸詩』二巻などが残っている。聽角思歸(故園黄葉滿苔)
313盧綸  ろりん748〜800年
中唐の詩人。748年(天寶七年)〜800年?(貞元十六年?)。字は允言。河中蒲(現・山西省)人。大暦十才子の一。大暦の初め,屡々進士の試験を受けるが及第しなかったが後に、監察御史となった。長らく不遇であり、後に檢校戸部郎中となる。和張僕射塞下曲(鷲?金僕姑)

314孟郊(もうこう)751- 814年
唐代の詩人。字は東野、諡は貞曜先生という。
湖州武康(浙江省)の出身。狷介不羈で人嫌いのために、若い頃は河南省嵩山に隠れた。798年、50歳の時に三度目で進士に及第し、江蘇省?陽の尉となった。一生不遇で、憲宗の時代に没する。
詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾は賈島とならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。

(1)登科後  (2)游子吟 (3)古別離 (4)帰信吟  (5)渭上思帰   (6)京山行
315武元衡  ぶげんこう758〜815
 字は伯蒼。河南の人。建中四年(783)、進士に及第した。徳宗に才能を認められ、華原の令から比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。順宗のときに、王叔文に従わなかったため降職されて太子右庶子となった。憲宗の時代になって御史中丞・戸部侍郎を歴任し、元和二年(807)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。淮西節度使・呉元済が叛乱を起こしたとき、憲宗から委任されて討伐を準備したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。 題嘉陵驛(悠悠風旆繞山川)

316崔護(さいご) 未詳
唐代の人。貞元十二年(796年)の進士。字は殷功。博陵(現・河北省定県)の人。『太平廣記・卷第二百七十四・情感』に録されている
「人面桃花」の人題キ城南莊(去年今日此門中)

317李賀  りが790〜816
 福昌昌谷(河南宜陽)の出身。字は長吉。宗室の一員で、早くから才能を称揚されたが、皇族の故に父の諱(晋叔)を避けるために進士の称号を断念せざるを得ず、官人としては不遇だった。一説では、元?との面会を断ったことを恨まれて父の諱の事を指摘され、韓愈の仲介も聴かれなかったという。幼時にすでに韓愈に詩才を認められて[鬼才]と評され、その詩は華麗にして陰鬱と評される。雁門太守行  金銅仙人辭漢歌(茂陵劉カ秋風客)  蘇小小墓(幽蘭露,如啼眼)  雁門太守行(K雲壓城城欲摧)

318權コ輿 こんとくこう(759-818)
中唐の詩人。字は載之。天水略陽(現・甘肅省秦安)の人。四歳で詩をよくしたという。太常博士、吏部侍郎等に任じられた。徳輿(759-818)は、中唐貞元、元和時期の文壇に君臨した著名な文学者であり、その文章は「弘博雅正、温潤周祥」、詩歌は「中正渾厚、頗多佳什」と評価されている。 蘇小小墓(萬古荒墳在)

319柳宗元   A  りゅうそうげん773〜819
 河東(山西)出身。字は子厚。793年に進士に及第し、校書郎をへて監察御史に進んだ。太子近侍の王叔文・韋執誼らに与して順宗即位と共に礼部員外郎とされ、賦役削減の諸改革にも参与したが、憲宗が即位して叔文らが失脚すると永州司馬に左遷された。815年に柳州刺史に転じて弊風改正に注力し、在任中に歿した。
 文人として著名で、韓愈と同じく戦国〜西漢の散文復帰を主張して復古運動を展開したが、六朝以来の形式的な駢文打倒には至らなかった。学術的議論文に優れた韓愈の古文に対して叙景文に優れ、韓愈とともに唐宋八大家の一人とされる。
1江雪 2漁翁 3渓居 4捕蛇者説 5汨羅遇風 6再上湘江 7登柳州峨山 

320李益  りえつ748- 827年
中唐の詩人。李益(り えつ、748年 -827年?)は、中国・唐の詩人。隴西姑蔵(甘粛省武威)の出身。字は君虞(くんぐ)。中唐の鬼才といわれた詩人・李賀の同族。大暦4年(769年)の進士で、鄭県(陝西省華県)の尉となったが、昇進の遅いのに不満を抱いて辞職し、河北の地方を遊歴、幽州(北京)・?寧(甘粛省東部)節度使の幕僚となった。その文名が憲宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられ、傲慢な態度のために一時降職されたが、侍御史・太子賓客・右散騎常侍を歴任、礼部尚書に至った。疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰を撒いて不義を防いだりしたため、「妬癡(とち)尚書李十郎」と呼ばれたという。大歴十才子の一人に数えられ、『李君虞詩集』二巻が残っている。幽州(征戍在桑乾)   夜上受降城聞笛(囘樂峯前沙似雪)  題軍北征(天山雪後海風寒)  喜見外弟又言別(十年離亂後)  ?河曲(?水東流無限春)

321元槇(げんしん)779〜831
 字は微之。河南河内の人。元和元年(806)、進士に及第した。左拾遺となった。しばしば皇帝に上書したため権臣に憎まれ、河南の尉に左遷された。のちに監察御史となったが、宦官の劉士元と争って江陵府士曹参軍に左遷された。通州司馬・?州長史を歴任した。元和の末年(820ごろ)、都に呼び戻されて膳部員外郎となった。さらに中書舎人・工部侍郎を経て、長慶二年(822)には同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、わずか四カ月で罷免されて越州刺史・浙東観察使に転出した。武昌節度使に遷って没した。白居易の親友で、楽府にすぐれ、「元白」と併称された。『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。遣悲懷 聞白樂天左降江州司馬 歳日 離思 ;『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。

322白居易/白楽天  はくらくてん772〜846 
 下弁(陝西)出身。字は楽天、号は香山居士。徳宗の貞元年間の進士で、翰林学士から左拾遺に進んだが、淮西鎮対策の上書が貴顕に憎まれて江州司馬に降格され、このときに香炉峯下に草堂を建てた。821年に中央に復帰したものの自ら求めて杭州・蘇州刺史を歴任し、827年に召されて刑部侍郎などを歴任し、刑部尚書をもって842年に致仕した。
 当初は経世済民を志して諫官を自任したが、江州に出されてより地方行政に尽くして善政を讃えられ、西湖の治水・干拓は代表的なもので、“白堤”は現代に至るまで西湖名勝の1つに数えられる。江州時代より詩風も一変し、簡適系と呼ばれる平易・写実的なものが多くなって元?と並称され、玄宗と楊貴妃を題材とした『長恨歌』などは生存中から人口に膾炙し、日本に伝えられた文集は平安文学に多大な影響を与えた。
 弟の白行簡も文人として知られ、官人としては不遇だったが、『李娃伝』は秀作として後世まで広く知られた。 

戲答ゥ少年  讀道コ經 三月三十日題慈恩寺  三月三十日作  春夜宿直  禁中夜作書與元九  雨夜憶元九  夢亡友劉太白同遊彰敬寺  春風  賦得古原草送別  大林寺桃花  問劉  長恨歌   琵琶行・序 琵琶行・一   琵琶行・二  琵琶行・三  琵琶行・終尾   花非花  初貶官過望秦嶺  臨水坐  訪陶公舊宅序  訪陶公舊宅 二首 遊趙村杏花  對酒  想歸田園  太平樂詞  見元九悼亡詩因以此寄  送春  燕詩示劉叟  靈巖寺  新豐折臂翁  楊柳枝 其一〜其八  舟中讀元九詩  村夜  商山路有感  效陶潛體詩  病中哭金鑾子  勤政樓西老柳  新秋  賣炭翁  杪秋獨夜  商山路有感  觀幻  暮江吟  自詠  洛陽春  魏王堤  逢舊  代鄰叟言懷  長安道  感月悲逝者  晩起  勸酒  勸夢得酒  聞哭者  池西樓  杏園花落時招錢員外同醉

324劉禹錫  りゅうしゃくう772〜842年
劉禹錫:中唐の詩人。772年(大暦七年)〜842年(會昌二年)。白居易や柳宗元との詩の応酬も多い。白居易とともに『竹枝詞』や『楊柳枝』を作る等、前衛的、実験的なことに取り組む。字は夢得。監察御史、太子賓客。

烏衣巷(朱雀橋邊野草花)/與歌者何戡(二十餘年別帝京)/秋詞(自古逢秋悲寂寥) 同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/元和十一年自朗州召至京戲贈看花ゥ君子(紫陌紅塵拂面來)/杏園花下酬樂天見贈(二十餘年作逐臣)/詠紅柿子(曉連星影出)/逢舊/憶江南
秋風引(何處秋風至)/浪淘沙(八月濤聲吼地來)/楊柳枝詞(煬帝行宮?水濱)/石頭城(山圍故國週遭在)/浪淘沙(九曲黄河萬里沙)/再遊玄キ觀(百畝庭中半是苔)

325韓愈   @  かんゆ768〜824年
韓愈:中唐の文人、政治家。768年(大暦三年)〜824年(長慶四年)。洛陽の西北西100キロメートルの河陽(現・河南省孟県)の人。諡は文公。四六駢儷文を批判し、古文復興を倡えた。仏舎利が宮中に迎えられることに対して韓愈は、『論仏骨表』を帝(憲宗)に奉ったが、却って帝の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。その時の詩が多い。唐宋八大家の一人。
醉留東野(昔年因讀李白杜甫詩)   山石(山石犖?行徑微)   忽忽(忽忽乎余未知生之爲樂也  左遷至藍關示姪孫湘

326張継  ちょうけい生没年不詳
 中唐の詩人。字は懿孫(いそん)、湖北省襄州(じょうしゅう)に生まれた。天宝12年(753)の進士。地方官より中央の検校(けんこう)祠部(しぶ)郎中(ろうちゅう)に至る。張祠部(ちょうしぶ)詩集一巻あり。『楓橋夜泊』の詩は内外に愛誦される。清の学者兪越(ゆえつ)の書いた石碑が寒山寺にある。
楓橋夜泊(月落烏啼霜滿天)  杪秋獨夜

327張籍  ちょうせき768〜830年
中唐の詩人。字は文昌。和州(かしゅう)烏江(安徽省和県)の人。師友の韓愈に目をかけられ、その推薦によって、国子博士となった。楽府に長じている。

 節婦吟寄東平李司空師道 蜀道後期(客心爭日月) 幽州新歳作(去歳荊南梅似雪)
(1)哭孟寂   (2)秋思秋思(洛陽城裏見秋風) 董逃行(洛陽城頭火??) 征婦怨(九月匈奴殺邊將)

328韋應物  いおうぶつ735〜835
 京兆長安の出身。若い頃は任侠を好んで玄宗に仕えたが、帝の死後は改めた。洛陽丞・徐州刺史・蘇
州刺史を歴任し、蘇州刺史の時代には善政を行なって韋蘇州と尊称された。五言詩に優れ、詩風は陶淵
明に似て韋陶と並称されるほどで、白居易とも交際があった。

與村老對飮(鬢眉雪色猶嗜酒)   調笑令寄李?元錫(去年花裏逢君別)  ?州西澗(獨憐幽草澗邊
生)  秋夜寄丘二十二員外(懷君屬秋夜) 

329賈島(かとう) 779〜843年
賈島:中唐の詩人。779年(大暦十四年)〜843年(會昌三年)。字は浪仙。范陽の人。初め、僧侶で無本と号し、後、韓愈に認められて(「推敲」)還俗、仕官した。五言律詩にすぐれる 范陽出身。字は浪仙、号は無本。科挙に失敗を重ねて青龍寺に居し、元?・白楽天の平易な詩風に反対し、苦吟推敲を重ねて作詩することを提唱した。“推敲”の語の由来者であり、823年、詩作に没頭して京兆尹韓愈の車列を乱してより韓愈に詩才を認められ、還俗して進士科にも及第したが、微行中の宣宗に無礼があって罷免され、困窮の裡に歿した。渡桑乾(客舍并州已十霜)   尋隱者不遇(松下問童子)   題李凝幽居   三月晦日贈劉評事   對酒

330李紳  りしん780〜846年
李紳:建中元年(780年)〜會昌六年(846年)。中唐の詩人。字は公垂。無錫の人。 潤州無錫の出身。字は公垂。徳宗の元和年間の進士。穆宗に召されて右拾遺とされ、ついで翰林学士に進められて李徳裕・元?とともに“三俊”と称され、累進して戸部侍郎まで進んだが、824年に宰相の李逢吉と対立して端州司馬に遷された。地方官を歴任し、842年に李徳裕に反対されながらも同平章事に進められたが、翌年には退けられて淮南節度使で終った。念金鑾子

331李渉・李渤  りしょう773〜831
中晩唐の詩人。初め、弟の李渤とともに廬山に隠棲して白鹿を飼っていたが、憲宗の時代に太子通事舍人となった。清谿子と号した。洛陽(現・河南省洛陽)の人。題鶴林寺(終日昏昏醉夢間)  重登滕王閣(滕王閣上唱伊州)

332薛瑩(せつえい)未詳
中唐の詩人。文宗時代の人。秋日湖上(落日五湖遊)
333薛濤(せつとう)768- 831年
伎女・詩人。魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。長安の出身(一説では成都とも)。父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。蜀の長官・韋皐の屋敷に召されて酒宴に侍し、詩を賦して女校書と称せられた。浣花渓にいて、白居易・元?・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫などと唱和し、名妓として知られた。春望詞一首  送友人 海棠渓






中國歴史上の100人


殷から漢まで  前一六世紀頃−後二二〇

中国では歴史上の時代区分は文字で書かれた記録にもとづいている。支配者の名前や出来事の目付を正確な記録に残した最初の王朝は股 (前一六世紀頃−前一〇四五頃) だ。股の支配領域は長江流域のごく狭い範囲で、今日の中国に相当する広大な土地には多数の異なる都市や文化が点在していた。股は西方から攻め入った周に滅ぼされた。周の末期に中国は 「戦国の七雄」 が互いに争う戟国時代になったが、最後に秦が統一を果たした。

 殷から漢まで 前16世紀頃から220年頃
ID 人   物 記 事 ・ 備 考
1
婦好 殷の女将軍
2
周公 理想的官僚
3
よそ者の妻 すてられた妻の物語
4
孔子 思想家
5
墨子 思想家
6
商鞅 官僚・改革者
7
孫擯 兵法理論家
8
荘子 荘子−道家の思想家
9
趙の武霊王 中国にズボンをとりいれた人物
10
呂不 韋宰相
11
秦の始皇帝 中国最初の皇帝
12
項羽 秦に対抗した反乱軍指導者
13
漢の武帝 領土を拡大した中国の皇帝
14
張騫 中央アジア以西への探検家
15
司馬遷 歴史家
16
王莽 帝位を纂奪した皇帝
17
班氏 歴史家
18
王充 懐疑主義の思想家
19
張陵 道教の開祖
20
張角 道教の開祖
21
曹操 軍師・物語の英雄
22
蔡エン (蔡文姫)悲運の女性詩人


秦の王は、北はモンゴル、南は広東省、西は四川省まで、現代の 「中国」 のほぼ全土を支配し、始皇帝と称した。始皇帝は帝国を統一すると、国ごとにばらばらだったさまざまな制度を共通化し、厳格な法律や規則にもとづく中央集権制を敷いた。しかし、この帝国は彼の死後まもなく滅亡する。漢王朝は秦を滅ぼしたが、秦の官僚制度を多くの点でそのまま引き継いだ。漢代には中国の影響力が西は中央アジアまで広がり、現在の甘粛省にあたる地域に守備隊が駐屯して、万里の長城の西の端や、防衛線として配置した砦の警護にあたった。




 三国時代から隋・唐まで 220年−907年
ID
人   物 記 事 ・ 備 考
23
諸葛亮 ―伝説的な軍師・名宰相
24
石崇 ―退廃的貴族
25
王衍 ―清談に明けくれた廷臣
26
石勒 ―後趙の皇帝―奴隷から身を起こして後趙を建てた皇帝
27
王義之 ―中国最高の書家
28
鳩摩羅什 ―訳経僧
29
陶淵明 ―田園詩人
30
拓践珪(道武帝) ―北魏皇帝になった遊牧民の部族長
31
崔浩 ―可汗に仕えた漢人官僚
32
武帝 ―梁王朝の創始者
33
煬帝 ―隋の二代皇帝
34
太宗 ―唐王朝の基礎を築いた名君
35
玄奘 ―西域を巡礼した訳経僧
36
則武天 ―中国史上唯一の女帝
37
高仙芝 ―唐で活躍した高句麗の武将
38
玄宗 ―開元の治 後半の頽廃
39
安禄山 ―安史の乱、反乱軍首領
40
李白 ―中国を代表する詩人謫仙人
41
杜甫 ―中国を代表する詩人詩聖
42
楊責妃  ―皇帝の寵姫
43
韓愈 ―文芸復興、散文詩
44
白居易 ―大衆的詩人
45
魚玄機 ―民妓で幼い頃から詩を書き、温庭?多くの詩人も評価
46
薛濤 ―詩人・官妓、高級官僚と付き合う
47
李商隠 ―一般官僚、秀逸の詩
48
李徳裕 ―後唐の宰相
49
黄巣 ―群盗・反乱軍首領
         



907年−1368年
人口増加と自然災害(さらにそれらの問題に対処する官僚の能力の低下) にくわえて、節度使(地方軍司令官)の力の増大によって反乱があいつぎ、唐は滅亡した。中国はふたたび分裂し、多数の王国が興亡した。九六〇年に末がふたたび中国を統一すると、宋王朝のもとで都市が発達し、飲食店や売店や本屋が道沿いにならぶ、現在の都市生活と変わらない光景が現れた。しかし末は華北を失い、宮廷は南の杭州にのがれた。華北には非漢民族の帝国が次々と興隆し、とうとうモンゴル族が中国全体を征服して一二七九年に国号を元とあらためた。過去の分裂期と同様に、この時期に学問や芸術が勢いよく花開いた。末代の文化のもっとも輝かしい功績は、新儒学思想の誕生である。この思想は儒教に仏教を融合させた革新的な学問だったが、明と活の時代には形骸化し、国家の定める正統な学問となって、融通性を失った。



 五代十国時代から元まで  907年〜1368
ID
人   物 記 事 ・ 備 考
49 耶律阿保機 ―契丹族首領・遼の建国者
50 李存勗 ―突厥系の晉王・後唐皇帝
51 趙匡胤 ―宋の太祖
52 柳宗元 ー中唐詩人
53 王安石 ―改革を断行した官僚
54 沈括 ―科学史家
55 蘇軾(蘇東坡) ―天才文学者
56 方臘 ―マニ教徒の反乱指導者
57 徽宗 ―宋の文化人皇帝
58 李清照 ―宋の女性詩人
59 岳飛 ―愛国の英雄
60 張擇端 ―宋代の画家
61 朱薫(朱子) ―朱子学の創始者
62 馬遠 ―宮廷画家
63 丘処機(丘長春) ―全真教指導者
64 元好問 ―詩人・歴史家・金の歴史の保存者
65 クビライ・カアン ―中国皇帝となった遊牧民の君主
66 関漢卿 ―中国演劇の創始者
67 パスパ ―チベット仏教の指導者・パスパ文字の制作者
68 トクト ―元王朝最後の名宰相
         




モンゴル族が建てた元王朝は、あいつぐ農民反乱によって中国の支配権を失い、ついに極貧の農民家族に生まれたカリスマ的な反乱指導者が明を建国し、初代皇帝となった。明は意識して 「漢人」王朝たらんとした。モンゴル族による支配の痕跡をすべてぬぐいさるために、唐の栄光に立ち戻ろうとしたのである。しかし、北方諸民族はあいかわらず脅威でありつづけたし、明もまた、政治に関心をもたない皇帝のもとで徐々に衰退し、政権の腐敗を正すことができないまま、農民反乱によって終焉を迎える。明は漢人の農民反乱によって滅ぼされるが、この反乱は力においてまさる満州族の軍隊に鎮圧された。満州族は一六四四年に北京に侵攻し、最後の帝国、活を建国した。


 明から中華人民共和国まで 1368年〜現代19人


清は建国当初こそ繁栄したが、一九世紀になると、自然災害と農民反乱というおなじみの悪循環におちいり、さらにそこへ砲艦をひきつれた西洋人が侵攻し、混乱に拍車をかけた。活が滅ぶと、中華民国が成立した。しかし、国土はふたたび軍閥によって分割され、中央政府は有名無実になった。国民党と中国共産党が支配権をめぐって争っているあいだに、日本は一九三七年に中国に侵入した。一九四九年、国民党は台湾に逃亡し、北京で中華人民共和国の建国が宣言された。


ID
人   物 記 事 ・ 備 考
69 洪武帝 ―明の太祖
70 鄭和 ―東アフリカまで航海した提督
71 王陽明 ―陽明学の創始者
72 海瑞 ―清廉な官僚
73 李時珍 ―医師・博物学者
74 張居正 ―明の宰相・経済改革者
75 ヌルハチ ―満州族の国家の創始者
76 徐霞客 ―旅行家・地理学者
77 魏忠賢 ―明の宦官
78 馮夢龍 ―人気作家
79 張献忠 ―反乱軍指導者
80 呉三桂 ―清にねがえった将軍
81 顧炎武 ―明の遺臣・学者・社会思想家
82 朱トウ ―烏と魚を描いた風狂画家
83 蒲松齢 ―幽霊譚の作家
84 康照帝 ―清の最盛期を作った皇帝
85 曾静 ―反清的知識人
86 曹雪芹 ―中国最高の小説家
87 乾隆帝 ―清王朝の最盛期を築いた皇帝
88 へシェン ―腐敗した清の官僚
89 林則徐 ―英國のアへン密貿易を禁止した官僚
90 汪端 ―清代の女性詩人
91 僧格林泌 ―モンゴル族最後の猛将
92 洪秀全 ―太平天国の乱の指導者
93 西太后 ―清王朝の最期を彩る女帝
94 秋瑾 ―革命に殉じた女性解放運動のヒロイン
95 孫文 ―理想主義の革命家・中華民国創立者
96 魯迅 ―二〇世紀最大の中国人作家
97 蒋介石 ―国民党の指導者
98 胡適 ―文学革命のリーダー
99 毛沢東 ー共産主義革命家
100 ケ小平 ―毛沢東後の中国を改革した指導者
明から中華人民共和国まで 1368年〜現代






















4.五胡十六国


晉(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。


 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、氏)であったことからこの名がある。


晋   265〜420

西晋 265年 - 316年

東晋 316〜420


五胡十六国

 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。



ID詩人名  / 事項よみかな作品名


78元帝(東晋)276年 〜322年

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。別詩(別罷花枝不共攀) 

79王羲之      おうぎし303年 - 361年

東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」


80陶淵明(陶潜)      とうえんめい365〜427

六朝時代の東晋の詩人。江西の人。名は潜。淵明は字(あざな)。一説に名は淵明、字は元亮(げんりょう)。官職に就いたが、束縛を嫌い、彭沢(ほうたく)県の県令を最後に「帰去来辞(ききょらいのじ)」を作って官を辞し、故郷へ戻った。自然を愛する田園生活を送り、すぐれた詩を残した。詩では「飲酒」、文では「桃花源記」が有名。五柳先生。

「飲酒」  「桃花源記」  五柳先生。51.責子 陶淵明


81僧肇(そうじょう)(374/384―414)

魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 






南北朝時代 439〜589

 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。


南北朝


北魏



西魏

東魏


北周

北斉



隋(ずい、581年 - 618年)

この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。


 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。


ID詩人名  / 事項よみかな作品名  永明体


91謝霊運     しゃれいうん385〜433

南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 東陽谿中贈答 


92顔 延之(がん えんし)384年- 456年

、)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。 


93鮑照    ほうしょう412頃-466

六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。擬行路難, 代出自薊北門行



竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝?・C王融・D蕭?・E范雲・F任ム・G陸?)


94B謝眺    (しゃちょう)464年- 499

南北朝時代、南斉の詩人。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり

謝眺詩 @玉階怨 A王孫遊 B金谷聚 C同王主薄有所思 D遊東田


95鮑令暉    ほうれいこん生卒年不詳。

南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。  


96F任 ム     (じん ぼう)460年- 508年

中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。著作に『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。 


97A沈約      (しんやく)441年- 513年

南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。二十一史・宋書


98C王融      おうゆう467年- 493年

南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。三月三日曲水詩序


99蘇小小       そしょうしょう未詳

錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。歌一首


100孔稚珪       こうちけい447〜501

 会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 


101刑邵        (けいしょう)496〜561

北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。思公子(綺羅日減帶)


102斛律金(こくりつきん)488年- 567年

中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近を知ったと言われる。

?勒歌 五噫歌


103鍾エ         (しょうえい) 469〜518

  字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 『詩品』


104@蕭衍(しょうえん)梁武帝

464〜502〜549

南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。

河中之水歌   遊女曲(氛?蘭麝體芳滑)   子夜歌(朝日照綺錢)


105E范雲     はんうん 451年- 503

南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。

別詩  「贈張徐州稷」    「古意贈王中書」



106何遜       (かそん)未詳〜518

中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。 


107王籍        おうせき 502〜519

南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対句はあまりに有名です。

入若耶渓


108G陸垂        (りくすい) 

  

109D蕭鎮        (しょうちん) 

  

110萸信           (ゆしん) 513年-581年

は、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。?肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。

寄王琳 秋夜望単飛雁


111王褒          (おうほう) 513〜576

琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。 


112徐 陵          (じょりょう) 507年- 583年

中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。『玉台新詠』





隋 隋(ずい、581年 - 618年)中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した(西晋の実質的な統一期間は30年間もないため、黄巾の乱によって中国が分裂時代に入ってから数えれば400年ぶりとなる)。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。


ID詩人名  / 事項よみかな作品名


113陰鏗          (いんけん)

(?〜?)

  字は子堅。武威郡姑臧の人。はじめ梁の湘東王の法曹参軍となった。陳の天嘉年間に、始興王の中録事参軍となり、のちに晋陵太守・員外散騎常侍に上った。詩人として何遜と並び称された。『陰常侍詩集』。  


114楊 素         (よう そ ? - 606年)

 中国の隋の政治家・軍人。隋の上柱国、司徒、楚景武公に上った。字は処道(正字は處道)。弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身である。隋の帝室である楊氏(鮮卑普六茹部)とは別系統にあたる。

楊素は、楊敷の子として生まれた。楊敷は、北周の天和年間に汾州刺史となり、北斉の将軍の段韶の攻撃を受けて捕らえられた。北斉は楊敷を任用しようとしたが、楊敷は屈することなく?で没した。 

115薛道衡       (せつどうこう) 540年- 609年

南北朝時代および隋の文学者。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。0

     科挙を施行


116観徳王・楊雄(ようゆう) 542年- 612年

楊雄(よう ゆう、)は、中国の隋の皇族。観徳王。もとの名は恵。文帝楊堅の族子にあたる。 



―初唐・盛唐・中唐・晩唐―


Toho 杜甫とほについて たとえば、杜甫について、研究していますが、その詩が好きかと聞かれれば「素晴らしいけど好きではない」。李白も同様で、王維が一番好きです。その次は孟浩然、という具合です。


 杜甫の詩人としての矜持は尊敬しかありません。また、詩を読んでいくのに、番号を振り当てて、順に読み、それを何度も繰り返しましたが、杜甫の800首ぐらいを10回読むと10回とも違った感動を覚えます。また途中途中前回と違った感覚を感じます。こういった読むたび感動の喜びを常に与えてくれる詩人は杜甫だけです。


Oui 王維おういについて

 王維の詩は心安らぎます。詩が頭の中で絵として残ってくれます。書を書きたくならせてくれる詩人です。詩の紹介のサンプルページでは王維晩年の「終南別業」を取り上げています。

 今までの紹介文献とは少し違うかもしれませんが、王維が好きになる人が多くなってくれると嬉しいのですが。李白は感覚で瞬時に詩を書き、王維は感覚で出来上がったものを理詰めで直し書き上げる。杜甫は、最初から詩理論が直感的にでて、幾何学の公式で解き、自己の矜持に照らして完璧に仕上げる。


● 三詩人の詩について■ この三詩人、全く違う人生観、何から、何まで全て異なっています。ほぼ同時期に生まれ、安史の乱を前後してほぼ同時期にこの世を去った、見事なまでのこの事象、。偶然なのか、必然なのか、地球に生物が誕生したのと同様の驚くべきことなのです。


■その作品の残し方伝わり方も、彼らの人生とまったく同様に違っていて面白い。杜甫は臨終でも詩を残し、きちんと整理しますが、死後50年近く経過したのちにやっと認められます。李白の詩は生前から有名で、臨終で地方長官に詩を託したので、かなり正確に残りました。王維は弟を可愛がり、王維自身も人物的に好かれるタイプといえます。死後早い時期に詩集にまとめ朝廷に献上されています。


Rihaku 李白りはくについて■李白は、若い時から任侠に足を染めたり、道教のお坊さんの資格を取ったり、役人登用試験に推薦されても断って、山に入って、小鳥を飼いならしたりしています。晩年近くになる、李白は皇帝の妹の推薦で新しく作られた文書長官の部所員となります。あれほど嫌がってあれほどなりたがっていた役人になりますが、2年足らずで首になります。その理由も李白らしい。

 朝廷の裏方の執事、中国では昔から男性で去勢を施したものたちを、宦官といい、当時その中の一番偉かった人物「高力士」を皇帝の前で辱めたのです。この高力士は陰険な人物で、それまでも数々の優秀な官僚、宰相を陥れています。そういう人物を新人の李白が辱めたというのは痛快ですが、俗人にほど遠い「仙人」のような存在感、首になるのも仕方のないことです。

 でもこのうわさを聞きつけた杜甫は李白との出会いに成功します。杜甫はこの天才詩人李白の詩にカルチャーショックを受けます。一緒に旅をし、尊敬し、結局李白の詩の良いところをすべて吸収します。杜甫の詩の作法は、格段に進歩します。杜甫は王維も尊敬しており、やっとかなった官僚を左遷され、悩んだときに王維に相談し、その後を行動を決定づけます。





● 初唐期の詩人たち

 前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。

 代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、@王勃・A楊炯・B盧照鄰・C駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈栓期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。



ID 詩人名よみかな  /  作品名


151魏徴ぎちょう580年 - 643年

唐初の政治家・学者。癇癪を起こした太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、魏徴死亡時太宗は非常に哀しんだという。曲城(山東省)の人。字(あざな)は玄成。太宗に召し出され、節を曲げぬ直言で知られる。「隋書(ずいしょ)」「群書治要」などの編纂(へんさん)にも功があった。述懐


152上官儀じょうかんぎ608?年- 665年

文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。皇后であった則天武后を廃そうと高宗に建議したことにより、則天武后(武則天)の怨みを買い、後に梁王・李忠の「謀反」事件に関連させられ、獄死した。入朝洛堤歩月


153王勃  @ おうぼつ650年- 676年

王勃の作品には、南朝の遺風を残しながら、盛唐の詩を予感させる新鮮自由な発想が見られる。「初唐の四傑」の一人。幼くして神童の誉れ高く、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。?州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。

 この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。滕王閣, 送杜少府之任蜀州唐


154盧照鄰  Bろしょうりん生没年未詳。

 范陽(河北省)の出身。幼少より曹憲・王義方に従って経史と小学を学び、詩文に巧みであった。初めはケ王府の文書の処理係である典籤となり、王(唐高祖の子・元裕)に重用された。 のち新都(四川省)の尉となったが病のために職を辞し、河南省具茨の山麓に移住した。病が重くなって、ついに頴水に身を投じて死んだ。 その詩は厭世的で悲しみいたむ作が多い。長安の繁栄のさまを詠じた「長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧昇之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。長安古意


155駱賓王   Cらくひんおう640?- 684?

「初唐の四傑」の一人。7歳からよく詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。特にその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句を作るので「算博士」の俗称がある。(浙江省)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。

 出世の望みを失い、官職を棄てて去った。684年に李敬業が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。易水送別, 霊隠寺 , 詠鵞


156劉廷芝/劉希夷りゅうていし・りゅうきい651年-679年

劉 希夷(りゅう きい、651年(永徽2年) -679年(調露元年))は中国唐代の詩人。字は庭芝、廷芝。一説に名が庭芝で字が希夷ともいわれる。汝州(河南省汝州市)の出身。幼くして父を失い、母と共に外祖父のもとに身を寄せ20歳頃まで過ごした。容姿はすぐれており、物事にこだわらない性格なので素行が悪かった。酒と音楽を好み、琵琶の名手であった。675年(上元2年)進士となるが仕官せずに各地を遊覧した。「年年歳歳花相似歳歳年年人不同」で有名な詩「代悲白頭翁」が代表作。代悲白頭翁   秋風引  楊柳枝詞  石頭城  公子行


157楊炯  Aようけい生年不詳−692

(ようけい、生年不詳−692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる.華陰(陝西省)の出身。幼時から慧敏でよく文章を作り、661年に神童に挙げられ校書郎を授けられた。681年、崇文館学士になった。則天武后の時代に梓州司法参軍に左遷されて、のち盈川の令となった。

著に『盈川集』がある従軍行 ; 夜送趙縦


158陳子昴ちんすこう661- 702

六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。登幽州臺歌


159上官婉兒じょうかんえんじ664- 710

上官儀の孫で才媛。後に、政変のため殺された。綵書怨


160宋之問そうしもん652〜712

宋 之問(そうしもん、656年?−712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。?州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈?期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。

 汾州出身。字は延清。科挙進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗復辟で瀧州(広東羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之の武三思暗殺を密告して赦免・登用された。太平公主に与し、横暴・驕慢として越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、玄宗に自殺を命じられた。 娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の“年年歳歳花相似たり”の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させたという。下嵩山歌(下山歌)


161沈栓期しんせんき656?- 716?

宋之問とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。

  字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少・事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。 ?山  臨高臺












・ 755年11月初から763年にかけて、范陽・北方の辺境地域(現北京周辺)の三つの節度使を兼任する安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱である。


 反乱した安禄山の軍に対する唐の国軍の大部分はほとんどが経験の少ない傭兵で、全く刃が立たず、安禄山率いる反乱軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の東都(中国の中心と考えられていた)洛陽を陥落させた。


 安禄山は皇帝(聖武)を名乗り、さらに長安へと侵攻を開始し6月長安の手前最後の砦である潼関が破られる。玄宗は蜀(現在の四川省)へと逃れる。その途上の馬嵬で、楊国忠、息子の楊暄・楊出・楊曉・楊晞兄弟、楊貴妃も絞殺された。


 玄宗は退位し、皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位した。

安反乱軍は常に内紛を起こし、安禄山は息子慶緒に殺され、さらに史思明に殺害され権力は変わっていく。この反乱勢力の分裂は各地の叛乱を呼び起こす。しかし、一つの力にまとまらないものはやがて他国に援軍を求めた唐の国軍に制圧されることになる。




 ■ 安禄山の叛乱        755年 11月〜  755年、11月、「逆賊・楊国忠を討て」と勅命を受けたと偽り、息子の安慶緒、高尚、厳荘、孫孝哲、阿史那承慶らと范陽で反乱を起こす。15万人の大軍を率いて夜半に洛陽への進軍する。太原、河北の諸郡は全て降伏させた。


12月、安禄山の軍は黄河を渡り、霊昌郡、陳留郡、螢陽郡を落として、洛陽を陥落させた。


叛乱軍の侵攻

 唐軍を率いて東進してきた高仙芝は封常清とともに潼関に退却した。玄宗はこれを退却罪とし処刑し、哥舒翰が潼関の守りに赴任させた。また、河北において、常山太守の顔杲卿と平原太守顔真卿が唐のために決起したため、叛乱軍は潼関攻撃を止め、河北へと引き返すところへ追いつめられた。そんな中で、安禄山は至徳元載(756年)正月、洛陽で雄武皇帝に即位し国号を燕とした。

 史思明と蔡希徳が常山を陥落させ、河北の奪還に成功した。しかし、唐側の郭子儀と李光弼によって、史思明が敗北し、さらに顔真卿が激しい抵抗を重ね、再び河北の情勢は危うくなる。再度、史思明が郭子儀と李光弼に敗北したことにより、河北の十数郡が唐に奪回される。南方も唐側の張巡らの活躍によって、配下の尹士奇や令狐潮の進軍を止められてしまう。

 苦境に立たされた安禄山であったが、唐側に内部抗争がおこる。

 潼関を守る哥舒翰と楊国忠が不仲となり、哥舒翰を無理に潼関から出撃させる。しかし、叛乱軍に全滅させられるのである。哥舒翰も降伏、監禁されることになる。


 潼関が落ちると、玄宗は長安を捨てて蜀の地へ逃亡し、途中で楊国忠は唐の兵士に殺される。孫孝哲、張通儒、安守忠、田乾真に長安、関中を治めさせた。陳希烈、張均、張汨らは叛乱軍に降伏し、王維は捕らえられ、洛陽に連行された。長安、洛陽は、大虐殺を行ったので長安洛陽での反抗反撃がなくなり略奪の限りを尽くし、悲惨な状況になる。潼関の勝利に甘んじて唐国軍をそれ以上追わなかった。


 唐側は態勢を立て直すのに成功した。関中の豪族たちが唐側についた。また、河北では顔真卿が抵抗を続け、南では張巡の守る雍丘を陥落できない状況が続いていた。

 唐の皇太子李亨が粛宗として、霊武で即位、郭子儀が軍を率いて加わったた。唐軍が勢力回復するかと思われたが、房官が敗れ、郭子儀と李光弼が山西に退き、史思明が河北で勝利し、顔真卿も平原を放棄し河南に逃げる。


 至徳2年(757年)正月、安慶緒は安禄山殺害しこの乱は安慶緒によって続けられる。さらに、安慶緒は史思明に殺され、引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり、史思明の子・史朝義が殺される763年まで続いていくことになった。この後も、安禄山の旧領はその配下であった3人が節度使として任命され、「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。


 ■ 叛乱の背景       

 

1.府兵制の崩壊

 府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはかなりの重い負担であった。

 1)玄宗期には均田制自体が行き詰まり、農民が納税できなくなってきたこと。

 2)唐の領土があまりにも大きくなってしまって、土着農民の感覚からいうと、あまりにも遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたことなどから逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなる。

 3)府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。

 4)辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下には募兵による行軍で構成された。儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場することになる。

 5)そして辺境の兵士たちは府兵制に於ける3年間のような短い期間ではなく、6年あるいはそれ以上の時を辺境で過ごすようになる。

 6)更に737年に辺境の軍鎮に半永住する長征健児制が出来る。これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。

 7)ここに至り、府兵制は完全に消滅した。


 2.藩鎮の台頭

 藩鎮(はんちん)は中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方軍と地方財政を担い統治した。節度使そのものを指すことも多い。

 府兵制が行き詰まった背景としては、元になった北魏の兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民で

あったのに対して、唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月の軍事訓練が与える農業へ

の負担が大きく、また郷里と家族から離れて任務に就いたため戦闘に弱かった点が挙げられる。また、辺境への赴任は

白居易の『新豊折臂翁』[1]に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地を離れた土地で貴族

に囲われ奴婢となる良民もいた。節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の

雇用に使う制度で、初めは異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられた。

710年の河西節度使の設置を初めとして十の節度使が設置された。駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められるのではなく、募兵制である長征健児制によった。兵士は辺境で屯田を行い、国家から給料として絹と銅銭を支給された。

@安西 (亀茲): 天山南路の防衛、西突厥   A北庭(庭州): 天山北路   B河西 (涼州): 吐蕃と突厥の連携阻止 C朔方 (霊州) :突厥 C河東 (太原): 突厥 D范陽 (幽州): 奚・契丹  E平盧 (営州): 室韋・靺鞨  F隴右 (鄭州): 吐蕃  G剣南 (成都): 吐蕃・吐谷渾  H嶺南五府経略使 (広州) 夷猿  I節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。

 長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。


 3.宰相と宦官 朝廷の問題

  (1)国軍ある南衙禁軍(府兵制による軍)に対して、北衙禁軍は皇帝の親衛軍であった。府兵制の崩壊に伴う南衙禁軍の縮小に対して、北衙禁軍が拡充の一途を辿った事は、律令体制の崩壊過程に、禁裏による政治への影響が問題点となる。

 (2)宦官が勢力を握ったのは、単に事務処理の範囲に限られていたものが宰相と結託し、高級官僚になった。則天武后の700年前後に数人であったが50年の間、つまり、玄宗になって1000人を超えるものになっていた。科挙試験を経ないでのし上がれる陰湿な人間関係が蔓延した。高力氏に至っては皇帝に上がる書類はすべて下見をした。

 (3)宰相、将軍もこれを最大限利用している。

 (4)李林甫、楊国忠らによる長期腐敗政治

 (5)玄宗の奢侈、偏見政治

 王朝・君主制の成立要件は二つあり、ルール・秩序があること、政治的・軍事的に、経済的に均衡が保たれいることの上に君臨できるものである。玄宗の712年から40年は唐王朝の前100年の蓄積の上に成り立っていたのであり、これがすべてに崩壊しているのを是正することができなかった事が、安禄山の乱は起こした要因である。


  220厳武   222崔國輔     224荊叔   225常建





 218 王昌齢   698〜763    こうせき 218


天宝14年(755年)、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺史の閭丘暁に憎まれて殺された。後に閭丘暁は、安禄山軍の侵攻に対し、唐側の張巡を救援しなかった罪で、唐の張鎬に杖殺された。この時、閭丘暁は「親がいるので、命を助けて欲しい」と言ったが、張鎬は、「王昌齢の親は誰に養ってもらえばいいのか?」と反論し、閭丘暁は押し黙ったと伝えられる。

当時は「詩家の天子」とも呼ばれ、高適・王之渙と交遊があった。七言絶句に特に優れ、辺塞詩に佳作が多いとされる。



 219 高適   702頃〜765    こうせき 219

高適

蜀に乱を避けた玄宗に随行し、永王の軍を討伐平定したが、蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の時に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。

50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された



 223 裴迪   生没年不詳     はいてき

裴迪

関中の出身。もう川において、王維と特に交友があった。「もう川集」には、王維の詩に続けて、彼の詩も載せている。また、杜甫とも交友があったことは杜甫の成都の詩にあるように蜀州刺史、もしくは尚書郎に任じられた。安史の乱期に、粛宗もとに駆けつけた事で官職をえた王維の影響を受けた詩人のひとりである。




 233 顔真卿   709〜785     がんしんけい

顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に山東省左遷。


 安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた11月半ば、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、平原郡(山東省徳県)の太守に降格されていた顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿と呼応して、安禄山軍侵攻をとどめた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。

しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相により、前線に送られ、そこで捕えられた。叛乱軍の李希烈は真卿を自らの部下にしようと再三説得したが顔真卿は拒み続けた。757唐国軍長安奪回に伴い李希烈は自殺刑された。後世、顔真卿の忠臣はその典型例として、靖献遺言に取り上げられている。顔真卿は尚書次官クラスでおわる。


 301 張謂   711 〜 780年頃     ちょうい

301張謂

張謂(ちょう い、711年? - ?)は、中国・唐の詩人。河内(河南省沁陽市)の出身。字は正言。初めは嵩山にこもって読書し、大志を抱いていた。天宝2年(743年)、進士に及第、節度使の幕下に加わって西域に従軍した。大暦初年(770年頃)には潭州(湖南省長沙市)刺史となり、大暦7年(772年)には礼部侍郎に至って、科挙の試験を司った。



 230 岑参   715 〜 770頃     しんじん

岑参(しん しん、715年 - 770年)は中国唐代の詩人。岑嘉州とも称する。詩人・高適と並び称される。

河南省南陽の出身。744年の進士。

 長く節度使の幕僚として西域にあったが、安禄山の乱があった756年に粛宗がいた鳳翔にはせ参じて、杜甫らの推挙により右補闕となり、その10月には粛宗に従って長安に赴く。759年に醵州の刺史となり、762年に太子中充・殿中侍御史となり関西節度判官を兼ね、765年に嘉州の刺史となった。768年、官を辞して故郷に帰ろうとしたが途中で反乱軍に阻まれて成都にとどまり、その地で没する。享年56。




 217 儲光義   707 〜 760年頃     ちょこうぎ

(ちょ こうぎ、707年 - 760年?)は中国唐代の詩人。

山東省・?州の出身。726年に進士となり、756年に監察御史となる。安禄山の乱の時に賊軍に官を授けられたため、乱後は嶺南に流され、その地で没する。

その詩は陶淵明を模範とし、質朴・古雅の趣をふくみ、田園詩に長じ王維・孟浩然・韋応物と肩を並べた。著に『儲光羲詩集』5巻の他、『正論・九経分義疎』があり、『唐詩選』に洛陽道などの絶句4首を収めている。




 231 賈 至   718 〜 772年       かし

(か し、718年 - 772年)は、中国・唐の詩人。洛陽(河南省)の出身。字は幼幾(ようき)。一説には幼隣(ようりん)。賈曾の子。

開元23年(735年)に進士に及第、さらに天宝10戴(751年)、明経(めいけい)に及第、起居舎人・知制誥に至った。安禄山の乱のときには、玄宗に従って蜀へ避難し、帝位を皇太子に譲る勅語を起草した。その後、一時罪によって岳州(湖南省岳陽)に流され、そこで李白に会い、酒宴に日を送ったこともある。その落ち、都に召還され、大暦5年(770年)には京兆尹兼御史大夫となり、右散騎常侍に至った。





 ■ タラス河畔の戦い    751年 7月-8月 タラス河畔の戦い

 唐の高仙之が大敗を喫したのであるが、この大敗前、タラス城に凱旋入場まで、高仙之は吐蕃を破り、この地にあった小国約30国をすべて破り、連戦勝利していた。(安史の乱前のアジアの勢力図参照))しかし、それを維持していく部隊編成はなく伸びきった軍隊は逆に孤立していくことになる。その背景には、吐蕃、キルギス、アッバース王朝の連合が成立していた。この連合を成立させたのは唐王朝の連戦連勝による略奪、横暴にある。侵略者に対する反逆は侵略者の地元に対する政策で違ってくる。高仙芝、率いる唐の3万人の軍は局地戦で、全面対決でも敗れた。命からがら逃げかえった兵は数千人まで減っていた。完全敗北である。

この戦いは単にイスラムとの戦いに敗れたということだけではない。唐の財政に貢献していた@西方からの税、Aシルクロード交易、が絶たれることを意味する。B唐の権威は地に落ち外敵からの侵略は漢の国土に及ぶようにある。


751年7月-8月

 中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で行われた戦闘。

 安西節度使として西域(東トルキスタン)に駐屯していた唐の将軍高仙芝が西のソグディアナ(西トルキスタン)に圧力をかけたため、シャーシュ(石国、現在のタシュケント)の王子は、シル川以西を支配するイスラム勢力に支援を要請。これに応じて747年にウマイヤ朝勢力をメルヴから追ってアッバース朝のホラーサーン総督となっていたアブー・ムスリムは、部下のズィヤード・イブン=サーリフを派遣。漢人・土着からなる3万の唐軍は、高仙芝に率いられタラス城に入る。

 ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。

 戦いの最中に唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し数千人を残すところとなり、高仙芝は配下の李嗣業がフェルガーナの軍を斬り破ったため、逃げ延びたものの、二万人を超える多くの兵士が捕虜となった。

 この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。唐の勢力はタリム盆地に限定されることとなり、まもなく起こった安史の乱により、唐の中央アジア支配後退は決定的になった。

 中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。

 そして、この戦いの大敗は豊かなように見えた唐経済を弱体化させることになり、安禄山の叛乱の引き金になるものである。李林逋の絶頂期であった。(この翌年病死)



 ■ 高仙之        生年不詳〜755年 こうせんし

 高仙芝(こう せんし ? - 天宝14載(755年))は、高句麗系の唐の軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。

 高仙士の「その時」]であるが、755年安禄山が反乱を起こし、栄王・李椀ら(玄宗の皇子)が討伐軍の元帥に、高仙芝が副元帥に任じられている。高仙芝は飛騎、礦騎などの軍に募兵を加えた、総勢数十万といわれる天武軍を率い、すでに討伐軍の将に任じられていた封常清に続くことになった。

 陜郡まで来たところで、安禄山側に洛陽を奪われて敗走してきた封常清と会う。そこで、封常清の進言に従い、潼関まで退くことを決める。太原倉を開いて全て兵士に渡し、残りを焼いて退却した。潼関への退却はひとまず成功し、安禄山軍は撤退した。その時、勢いづいている安禄山軍の猛攻で、唐軍は多くの兵が離散し、大虐殺、大量の武器、鎧、兵糧が放棄され、代償は大きかった。。


 しかし、再び監軍となっていた辺令誠が口出しするのを無視したため、封常清とともに、玄宗に対する讒言を受けてしまったと言われる。玄宗は両名に対する処刑命令を辺令誠に下した。

 洛陽の敗北により、封常清が処刑され、高仙芝も戻ってきたところを捕らえられた。高仙芝は「退却したのが罪なら、死も辞さないが、資財、兵糧を盗んだというならば冤罪だ」と言い、配下に向かって「私に罪があるなら、うち明けるがよい。そうでなければ『枉』(冤罪)と叫べ」と呼びかけると、軍中からの「枉!」という叫びが大地を揺るがした。封常清の死体に「君は私が抜擢し、私に代わって節度となった。今度は君と同じ所で死ぬ。天命なのだな!」と語り、処刑された。


将軍・李承光が代わりに指揮したが、新たに副元帥に任じられた哥舒翰は潼関の守備に失敗し、玄宗は長安を出奔する結果となった。









    張 均     生没年不詳       ちょうきん



張均(ちょう・きん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝に仕えた政治家。名宰相とされる張説の長子であるが、安史の乱の際、安禄山に仕え、宰相に取り立てられたため、配流された。弟に張?、張?がいる。

文章詩句に長けていた。太子通事舍人から郎中、中書舍人にまで昇進した。開元17年(729年)には、左丞相である父の張説から京官(長安にいる官僚)の査定評価で「上の下」の評価をもらった。しかし、当時の人々は不公平とは考えなかったと伝えられる。

開元18年(730年)の父の死後、燕国公を襲名する。戸部侍郎、兵部侍郎を歴任するが、連座の罪により、饒州、蘇州の刺史に左遷される。長年かかって、また兵部侍郎に復帰した。自らを宰相の才と自負していたが、李林甫によって妨害されていたと伝えられる。天宝9載(750年)、刑部尚書となる。

天宝11載(752年)、李林甫の死後、陳希烈を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、楊国忠によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張?の罪に連座し、建安太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、至徳元載(756年)、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された。[1]

至徳2載(757年)、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈、張?、達奚cとともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房?が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し苗晋卿に会い、取りなしを依頼した。粛宗は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ、合浦に配流した。

建中初年に、太子少傅が贈られ、息子の張濛は徳宗に仕え、中書舍人に任じられた。



    達奚c  生年不詳 〜 757年    たつけいじゅん x達奚c


達奚c(たつけい・じゅん、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の官僚。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、降伏して安禄山に仕え、宰相に任じられた。唐の洛陽奪還の際、唐に降伏したが、処刑された。

河南の出身。開元年間の初期に、河南河北宣撫使の陸餘慶によって推薦され、名士として知られた。後に、天宝11載 752年)頃、礼部侍郎として、宰相の楊国忠の子である楊暄の科挙明経の不合格を息子の達奚撫を通じて伝えたところ、楊国忠の怒りを買い、楊暄を上位で合格させたことが「新唐書」に記されている。なお、楊暄はすぐに達奚cと同列となった。

天宝14載(755年)、河南尹として洛陽に赴任しており、安禄山が馬三千匹を六千の兵に持たせ、献上すると上奏した時、変事が起こることを心配し、止めることを上奏し、玄宗に採用された。同年、安史の乱が勃発し、封常清の配下として、李?、盧奕とともに洛陽の防御にあたった。しかし、攻めてきた安禄山軍によって、洛陽は陥落。封常清は敗走し、李?、盧奕、蒋清は処刑されたが、達奚cは安禄山に降伏した。

至徳元載(756年)、洛陽にて、大燕皇帝を自称した安禄山によって、侍中に任命される。至徳2載(757年)、安禄山の死後、引き続き、その子・安慶緒に、陳希烈、張均、張?らとともに仕えた。唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が洛陽から逃亡した時に、粛宗に降伏した。罪は斬刑にあたり、韋恆ら10名とともに腰斬された。



    陳希烈     生年不詳〜757年   ちんきれつ 

陳希烈(ちん・きれつ、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の政治家。宰相にまで任じられたが、安史の乱において安禄山側に降伏し、粛宗に自殺を命じられた。


宋州の出身。玄学(道教の学問)に詳しく、書は読んだこともなかった。開元年間に玄宗に玄学を講義し、秘書少監となった。開元19年(731年)には、張九齢に代って集賢院学士となり、工部侍郎まで昇進した。玄宗が撰述した書物は全て陳希烈によるものであった。天宝元年(742年)、符応にかこつけて玄宗に取り入り、崇玄館大学士となった。

天宝5載(746年)、李林甫は彼が玄宗の信任が厚く、柔和で御しやすいので宰相に引き立てた。陳希烈は李林甫の政策や謀略にただ同調し、署名するだけであったという。兵部尚書と左相を兼ねた。

天宝11載(752年)には楊国忠に同調し、王ヘの排除や李林甫との対立に協力する。李林甫の死後、天宝12載(753年)、楊国忠とともに李林甫への誣告を行い、許国公に任じられた。しかし、楊国忠が韋見素を引き立てて陳希烈を宰相から外し、太子太師にしたために恨みに思っていた。

そのため、天宝14載(755年)の安史の乱が勃発後、至徳元載(756年)の長安陥落時に、張均、張?、達奚cらとともに安禄山に降伏し、宰相に任じられた。

至徳2載(757年)、広平王・李俶や郭子儀ら唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が逃亡した時に、洛陽にいた燕(安禄山の王朝)側の百官を率いて素服で降伏し罪を請うた。罪は斬刑にあたったが、玄宗から寵愛されていたことにより自殺を命じられた。





楊国忠

唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。


宿敵・安禄山 [編集]この頃から安禄山との対立を強め、哥舒翰と手を組み、叛意ありとして排撃を強めはじめた。天宝13載(754年は、安禄山は楊国忠の意に反して上京し、玄宗に釈明をし、玄宗は安禄山を宰相に任命しようとしたが楊国忠の反対により沙汰止みとなった。さらに、吉温が安禄山につき、対立は深まり、安禄山は長安を脱出するように范楊へと帰った。


剣南留後・李?が南詔に大敗し、瘴癘(しょうれい)の地あったことも加わって、全滅し、李?も捕らえられた。楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を出し、死者は鮮于仲通の時と合わせて、20万人近くに及んだ。


天宝14載(755年)楊国忠は、吉温を合蒲に流すなど、敵対行動を止めなかった。安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、ついに、謀反の意志を固め、安史の乱が勃発し、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起した。楊国忠は得意げに、「安禄山の首は十日以内に届けられるでしょう」と語ったという。


しかし、洛陽が陥落し、討伐軍の指揮官である高仙芝と封常清は潼関まで退却したために処刑され、哥舒翰が潼関の唐軍を指揮することとなった。


至徳元載(756年)、哥舒翰は、戸部尚書で安禄山のいとこでもある安思順と楊国忠の腹心・杜乾運を謀殺した。また、謀反の責任は楊国忠にあるという世論の高まりもあり、両者は対立し、楊国忠は玄宗をたきつけ哥舒翰に出撃を強いた。哥舒翰は安禄山の軍に大敗し捕らえられ、潼関は陥落した。


栄光の末 [編集]楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子・李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。


馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。楊国忠への誅殺を決意した、龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子・李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶? 若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ!」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、殺され、首は槍先に刺された。


御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺され、楊国忠の子・楊暄、韓国夫人(?国夫人・楊貴妃の姉)も殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺されている。




 ■ 安慶緒     生年不詳〜759年   あんけいしょ

安慶緒 生年不詳〜759 あんけいしょ

中国唐の軍人で、のち燕の第2代皇帝となった。


安禄山(聖武皇帝)の皇太子であったが、父帝が洛陽で病を患い、視力を失って人間不信に陥り、奢侈にもふけるようになってから孝を失った。父帝が慶緒の廃嫡にまで言及し始めたので、757年1月、唐軍とのにらみ合いが続く中で側近とともに父帝を殺害し、帝位を簒奪。しかし人望のない慶緒に、家臣の忠誠を繋ぎとめる事はもはや出来なかった。


757年10月、唐の粛宗に派遣された郭子儀らと回鶻の連合軍に長安と燕の都城・洛陽を奪われ、黄河を渡り業城(現在の河南省安陽市)に逃亡する。759年3月、有力部将・史思明の援軍によって唐の大軍勢を撃退したが、間もなく自身も彼に殺害された。


その後、史思明は安慶緒の軍勢を引継ぎ、本拠地・范陽(現在の河北省保定市や北京市一帯)に戻し、大燕皇帝を称するようになる。




 ■ 史思明     703 〜 761年    ししめい

史 思明  703 〜 761年  し しめい

唐中期の大規模な反乱であった安史の乱の指導者。


安禄山と同郷だったため親しい仲にあったという。また、自身も6ヶ国語に通じた教養に通じる人物であったため、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、752年には安禄山の配下となった。


756年に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った。しかし、757年に安禄山が息子の安慶緒に殺されると安禄山の後を継いで燕王を称し、759年には安慶緒を殺害し、さらには長安に迫る勢いを見せたが、761年、養子を後継ぎにしようとしたために実子の史朝義によって殺された。


その後、史朝義も同年のうちに自殺したため、安史の乱は終息することとなった。





 ■ 高力士     684 〜 762年     こうせんし

中国唐代の宦官。唐の第6代皇帝玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった。


安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。


しかし、粛宗(李亨、元の名を李?)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。上元元年(760年)に、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時は、李輔国を叱りとばしてその危機を救ったが、陥れられて巫州に流された。宝応元年(762年)恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し死去した。


698年  少年時代に去勢しており、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名と少年とともに、嶺南討撃使の李千里により武則天に献上される。彼らはさとく、また容貌が整っていたので、武則天に喜ばれ、給事として左右に置かれた。


 武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となり、以降は高姓を名乗る。高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つこととなった。1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。身長は当時で6尺5寸あり、勤勉かつ綿密で、詔敕をうまく伝達し、宮韋丞に任命された。 その後、景龍年間に皇子時代の李隆基と結び、恩顧をもって接した。そのため、景龍4載(710年)の韋后討伐の政変の際は内部から協力し、朝散大夫、内給事に任じられた。玄宗の即位後も先天2年(713年)太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光祿大夫、行内侍同正員に任じられ、開元年間に入って右監門衛将軍、知内侍省事に昇進した。内外の様々なことを任され、高力士を含めた宦官の権勢は大きなものとなった。


 その後も玄宗の内廷の臣として、各地から来た上奏文は全て高力士が読んでから玄宗に進められ、小さいことは自分で決裁した。宮中から家に帰ることもほとんどなく、宮殿で睡眠をとっていた。玄宗は「高力士がいるからこそ、安心して眠れる」と語っていた。

玄宗の腹心として公事のみならず私事にも相談役として仕え、開元14年(726年)に張説が宇文融に弾劾されたときは、これがためにとりなした。

730年 、政敵であり、その傲慢さにより多くの問題を引き起こしていた王毛仲の排除を玄宗に進言した。開元19年(731年)に王毛仲は左遷され、その上で自殺を命じられている。なお、宇文融、李林甫、李適之、蓋嘉運、韋堅、楊慎矜、王ヘ、楊国忠、安禄山、安思順、高仙芝らは、高力士と結んだことにより才覚が認められ、高位に抜擢された。

738年  皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李?を勧め、李?が皇太子となった。天宝初期に冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となった。この頃、天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い、陳謝の上で自宅に帰ることとなった。天宝7載(748年)には驃騎大将軍に任命され、数え切れないほどの富を蓄えていたという。しかし温厚、勤勉で過失が少なく、驕ることもなかったので、玄宗から変わらず信任を受け、士大夫からも嫌われることはなかった。天宝11載(752年)、王ヘの弟・王?と刑縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、刑縡を斬っている。また、楊国忠の専横について、玄宗を諫めたこともあった。

安禄山が不穏な動きを始めた後も、朝廷と彼との調停役として活動している。



















晩唐の詩人たち




● 晩唐期の詩人たち

   晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭?・韋荘・韓?がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。


351牛橋  ぎゅうきょう生没年不詳

晩唐の詩人。字は松卿。隴西の人。乾符五年に進士となる楊柳枝(呉王宮裏色偏深)


352杜牧とぼく803〜852

 京兆万年の出身。字は牧之、号は樊川。828年の進士。剛直にして気節の人と評されるが、若い頃は遊興を好んでしばしば節度がなかったという。揚州の淮南節度使/牛僧儒の書記となり、密かに護衛が附される程に将来を嘱望され、中央に召されると監察御史・殿中御史などをつとめた。後に地方に出されて刺史職を歴任したが、上書した辺防策が認められて中央に召され、中書舎人まで進んだ。

 憲宗期に名臣と称された祖父の杜佑に対して「;小杜」と呼ばれ、美貌の風流才子として知られたが、当時の技巧・繊麗を尊ぶ詩風に反撥し、前期の平明の風を継承して「情致豪邁」と称された。

1.江南春絶句    2. 泊秦淮   3.山行   4.清明   5 赤壁   6 寄揚州韓綽判官   7. 遣懷     8 贈別 其一  9 贈別 其二  10金谷園   11 過華清宮絶句  12 南陵道中    13 贈漁父   14題烏江亭  15秋夕  16念昔游    22春日茶山病不飲酒因呈賓客    23九日齊山登高

泊秦淮   C明   張好好詩   自宣城赴官上京    


353張姑(ちょうこ)792〜852

晩唐の詩人。別名が胡渭州(こ いしゅう)です字は承吉。清河の人。長慶年間(822ごろ)、令孤楚が朝廷に推薦して官吏としようとしたが、元?に阻まれて官途につけなかった。高官の家に寄食したが、妥協を好まぬ性格のため、身を落ちつけなかった。題金陵渡(金陵津渡小山樓)  何滿子(故國三千里)

354許渾  きょこん791〜854年

晩唐の詩人。。字は仲晦。丹陽の人。現・江蘇省丹陽市。陶淵明の時代では曲阿といった。鎭江市のすぐ南になる。秋思(h樹西風枕簟秋)   咸陽城東樓(一上高城萬里愁)   塞下(夜戰桑乾北)


355李商隠りしょういん812〜858

 懐州河内(河南)の出身。字は義山、号は玉渓子。令孤楚に見出されて837年に進士科に及第したが、令の死後は李党の王茂元の娘を娶ったことで牛党に変節を憎悪され、小官の歴任と罷免に終始して官界では不遇だった。早くから詩人として知られ、自然に情緒を託した詩を好んだが、故事熟語を多用した技巧重視の難解なものが多く、晩唐の詩風の代表者と称される。作詩に際しては周囲に古典資料を並べたため、魚を並べるカワウソに喩えて 獺祭魚 と呼ばれた。

 『古今説海』収録の『雑纂』は日本文学に影響を与え、特に『枕草子』の文学的形式成立の重要な契機となった。

 李商隠の詩風は北宋前期に「西崑体」と称され、楊億・銭惟演・丁謂らによって『西崑酬唱集』が編まれるなど一世を風靡したが、多くは詩句の外形的な模倣にすぎず、華美晦渋な作品が多い。


1.夜雨寄北Yau-kihoku 2.嫦娥Joga 3.漢宮詞Kangushi 4.登樂遊原

Touranyugen 5.錦瑟Kinhitsu 6.瑤池Yochi 聞歌(斂笑凝眸意欲歌) 無題(相見時難別亦難)


356魚玄機ぎょげんき843〜868年

唐代末の女流詩人。長安の人。字(あざな)は尢(けいらん)・幼微。詩文の才能で有名になり、女道士となったが、召使いの女を殺して死刑になった。森鴎外の小説「魚玄機」の主人公。843〜868年。晩唐の詩人。長安の妓楼の娘。 中唐の薛濤(せっとう)と並び称される唐代を代表する女流詩人。 20歳の時、恋人の高級官僚・李億(りおく)と漢陽へ来たが、この地で李億に捨てられる。 道教の尼となった魚玄機は再び恋をするが、その恋人李近仁(りきんじん)をまたも使用人に奪われてしまう。 魚玄機は嫉妬のあまり、使用人を鞭で打ち殺してしまい、これが発覚して処刑された。数奇な運命をたどった情熱の女性。26年の短い生涯だった。


秋思  酬李学士寄箪  和新及第悼亡  江行  江行 (其の二)  聞李端公垂釣回寄贈  題隠霧亭  重陽阻雨  送別  迎李近仁員外  江陵愁望寄子安  戯贈  留別広陵故人  名月夜留別  得閻伯釣書   賦得江辺柳  寄国香

357温庭均おんていいん812〜872

 太原出身。旧諱は岐、字は飛卿。軽薄・放蕩無頼で科挙には及第しなかったが、詩の構想に卓絶して即興の詩余は芸術的にも優れ、詩余に芸術的洗練さを与えた。859年頃に詩名によって特に召されて登用されたが、叙任前に微行中の宣宗に無礼があって罷免された。艶体詩を好んで独特の心理描写を駆使し、詩人として李商隠と並称された。渭上題三首之三(煙水何曾息世機) 菩薩蠻 楊柳枝(娃宮外?城西)  楊柳枝(宜春苑外最長條)  楊柳枝(蘇小門前柳萬條)  贈少年(江海相逢客恨多)


黄巣の乱(こうそうのらん)(875〜84)

唐末期に起きた農民の反乱。王仙芝の起こした反乱に呼応して、山東の黄巣も蜂起・合流。四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は880年長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就いたが、唐軍の反撃を受けて泰山付近で敗死。 乱後、朝廷の権威は完全に失墜し、各地で軍閥の抗争が繰返され、経済都市の開封を得た朱温が華北の主導権を掌握することとなった。この乱は唐朝滅亡の契機となった。


358陸龜蒙 りくきもう  〜881

晩唐の詩人。字は魯望。号は江湖散人。姑蘇(現・江蘇省)の人。同年代の詩人である皮 日休 (ひじつきゅう )がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。呉宮懷古(香徑長洲盡棘叢)


359皮 日休ひじつきゅう830- 883年

唐代の詩人、革命的社会派の学者である。襄陽(現在の湖北省襄樊市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。生まれは貧しい家だったが、咸通8年(867年)に彼は進士に及第し、咸通10年869年に蘇州の治安判事になり、著作郎、太常博士などを歴任した。この頃は、故郷に近い鹿門山に籠居し、酒と詩を友とする生活を送っていた。しかし、黄巣軍が首都長安を占拠すると、その政府に入って翰林学士となったが、後に疑われて殺された。?河懷古   牡丹   


360鄭畋(ていでん)825〜883

唐末の政治家。?陽(河南省?陽市)の名族鄭氏の出身。字は台文。武宗期に進士となると李徳裕に引き立てられ、内外の官職を歴任して僖宗期には宰相となった。黄巣の広州節度使職要求に対し、ひとまず広州節度使を与え、生活安定によってその内部崩壊を待つべきだと主張し、高駢の武力を頼む盧?と対立した。広明元(880)年に鳳翔節度使に任じられ、黄巣が長安を占領すると諸藩鎮に呼びかけて反撃体勢を作り上げ、一度は長安回復に成功するも黄巣軍の逆襲に会って敗れた。行軍司馬の李昌言に節度使職を奪われて成都の行宮に遷り宰相に任じられたが、成都で実権を握っていた田令孜、陳敬?らと対立し、検校司戸、太子太保の閑職に左遷され、さらに龍州に流されて卒した。馬嵬坡(玄宗回馬楊妃死)


361黄巣こうそ?〜884

黄巣は科挙に落第した塩徒で、王仙芝とほぼ同時に挙兵し、王仙芝が朝廷の招撫に傾くまでは行動を与にした。当時の中国は宦官の専横・藩鎮の自立・対外戦争などによって塩の専売と各種雑税の増額が重く、これに天災による飢饉が加わって、流民の多くが匪賊となって塩徒と結託し、全国に普遍的に存在していた。当時の塩商の殆どが塩徒で、その反官憲的性格は武装と広範な組織力を擁し、流亡農民と結託すると大規模な叛乱に発展する可能性を常に孕んでいた。

 黄巣は各地を転戦しつつこれら草賊を吸収し、官軍に対して遊撃戦を展開しながら大勢力に発展し、878年に広州を占領し、880年には洛陽・長安を陥落させて僖宗を蜀に逐って斉帝と僭称した。これを境に急速に紊乱化し、略奪によって民心をも失い、有力部将の朱温が朝廷の招撫に応じ、沙陀族の李克用も参戦した為、883年に長安を逐われて華北・華中を流寇し、いちじ蔡州を陥して頽勢挽回を図ったものの成功せず、まもなく平定された。題菊花   詠菊


362劉綺莊  りゅうきそう生没年不詳

晩唐の詩人。毘陵(現・江蘇省武進県地方)の人。宣宗の時に官州の刺史となる。揚州送人(桂楫木蘭舟)


363唐彦謙  とうげんけん生没年不詳

晩唐、咸通〜中和時代の詩人。字は茂業。井州の人。金陵懷古(碧樹涼生宿雨收)


364趙瑕  ちょうか生没年不詳

晩唐の詩人。江樓書感(獨上江樓思渺然)


365陳陶  ちんとう812年〜885年頃

晩唐の詩人。字は嵩伯。その詩は平淡をもって知られる。長安に遊学するが志を得ず、後に南昌の西山に隠棲する。隴西行(誓掃匈奴不顧身)


366張喬(ちょうきょう)生没年不詳

懿宗の咸通年間の進士(?)。池州(現・安徽省貴池県)の人。黄巣の乱の時、九華山に隠れ棲んだ。生没年不詳。宴邊將(一曲涼州金石清)


367于武陵〔うぶりょう) 810-未詳

于武陵(う ぶりょう、810年 -?)は、中国・唐の詩人。杜曲(陝西省西安市の南郊)の出身。名は?(ぎょう)。武陵は字であるが、通常は字で呼ばれていた。宣宗の大中年間(835年頃)に進士となったが、官界の生活に望みを絶ち、書物と琴とを携えて天下を放浪し、時には易者となったこともある。洞庭湖付近の風物を愛し、定住したいと希望したが果たせず、嵩山(すうざん)の南に隠棲した。今、『于武陵集』一巻が残っている。勸酒(勸君金屈卮)


368高駢こうべん821〜887

 字は千里。幽州(現・河北省)の人。文武両道にすぐれた人物で渤海郡王にまでなりました。禁軍将校の家門の出で武芸を好み、儒学・文学にも造詣があった。党項討伐・南詔撃退に功があり、安南都護・成都尹・剣南西川節度使・天平節度使などを歴任した。877年に江淮塩鉄転運使として王仙芝を大破し、889年からは淮南節度使として黄巣討伐の全権を与えられたが、境内の保全に終始して黄巣の北上を黙認し、880年の潼関陥落と僖宗の四川蒙塵を招来した。後に自立を図るようになり、妖宗の狂信を不服とする部下に殺された。山亭夏日(克陰濃夏日長)


369聶夷中(じょういちゅう) 837〜884

唐末〜の詩人。字は坦之。河東の人。咸通十二年(871年)に、科挙に合格する。官は華陰尉。詠田家(二月賣新絲)

370曹松そうしょう830−901

唐の官吏。字・夢徴(ぼうちょう)。舒州(じょしゅう・現在の安徽省潜山)の人。早くより職を失い江湖(こうこ)に漂泊し、一生貧に苦しんだが、最晩年、ようやく進士に及第する己亥歳


371杜荀鶴(としゅんかく) 846〜904年

晩唐の詩人。杜牧の末子。大順二年(891年・昭宗)に進士に合格する。字は彦之。九華山人と号す。安徽省池州の人。杜荀鶴(と じゅんかく、846年 -904年(907年?))は、中国、晩唐の詩人。池州石台の人。字は彦之、九華山人と号す。京兆万年の杜氏、杜牧の末子ともされる。大順2年(891年)の進士。

朱全忠に気に入られ、翰林学士、主客員外郎、知制誥となる。琴詩に巧みな風流人であったが、権勢に驕り、他人には憎まれていた。人を殺そうとしていたところ、あるいは、殺されそうになっていたところ、その直前に病死したという。「安禅は必ずしも山水を須ゐず、心頭を滅却すれば火も亦た涼し」夏日題悟空上人院


372羅隱(らいん) 833〜909年

五代の詩人。字は昭諫。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠に諫議大夫として召されるが行かず。『舊唐書・列傳・羅弘信・子威』「錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號江東生。」或いは「江東人羅隱者,佐錢鏐軍幕」(『舊五代史・梁書』)ともする。自遣(得即高歌失即休) 江南行(江煙涅雨蛟?軟)  蜂(不論平地與山尖)


373韋荘いそう836〜910

 中国、晩唐の詩人。字(あざな)は端己(たんき)。杜陵(陝西省西安)の人。温庭?(おんていいん)とともに唐五代の詞を代表する。唐末の都の荒廃をうたった長編の七言古詩「秦婦吟」が有名。

長安の春  秦婦吟  金陵圖(江雨霏霏江草齊)   古別離(晴煙漠漠柳??)   題酒家(酒拷ヤ紅客愛詩)


374皇甫松こうほしょう生没年不詳

:皇甫が姓。睦州の人(現・浙江建徳)。皇甫Gの息子。生没年不詳。唐代の人。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕 しないで終わったか。  


375秦韜玉(しんたいぎょく)882〜未詳

唐末〜の詩人。字は仲明。京兆(現・西安)の人。中和二年(882年)に進士及第を賜った。貧女(蓬門未識綺羅香)


376汪遵(おうじゅん)生没年不詳

晩唐の詩人。生没年不詳 その作品は全唐詩にある。字は不?。長城(秦築長城比鉄牢)











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