中国歴史上の女性たち

中国歴史上の女性たち

北魏  文明太后

北魏朝 文明太后


X 政権を握った女性たち

 第一節 北魏朝の文明太后


  1. 文明太后馮氏の出自


  2. 北魏建国期の政情


  3. 馮太后の簾政


  4. 官奉の制定


  5. 均田法について


  6. 計口受田制と隣保互助策


  7. 北魏均田制の評価


  8. 再編整備された隣保組織「三長制」


  9. 三長制の実施


  10. 三長制施行の時期


  11. 仏教の復興−文明太后の崇仏



第一節 北魏朝の文明太后

文明太后嬬氏の出自   
北貌王朝の盛世期を将来したのは、名目上は第六代孝文帝といわれているが、この帝の治世二十四年間は、実質上では、はじめの十五年間は、帝の義理の祖母にあたる文明太后鳩氏の簾政(摂政)期であって、帝の親政は、後期の九年間にすぎない。
そこで鳩氏の簾政期についてみると、それはスムーズには実現しなかったのである。
文明太后鳩氏は、第四代の高宗文成帝の皇后である。かの女の身上を洗ってみると、『北史』巻十五、「后妃伝」の文成文明皇后鳩氏と、この 『北史』を踏襲した『親書』巻十三、「后妃伝」とによれば、鳩后は河北の長楽郡信都(巽県) の人で、北燕王鳩氏に縁故をもつといわれる。
かの女の姑が、第三代世祖大武帝の左昭儀(妃の位)として入侍していた関係から、かの女は十四歳で、第四代高宗文成帝の貴人(妃の位)として仕え、やがて皇后に立てられた。文成帝が崩じたとき、人びとが号泣する中を、かの女は悲叫して火中に身を投じ、焼身自殺をはかったが、左右のものに助けられたという。事実とすれば、かの女は政治家的資質の反面、多分に芝居気もある女性であったことがわかる。
?






北親建国期の政情 
ひるが、えって、ここで簡単に北魂朝の政情についてみると、四世紀はじめ から百二十年余りにわたり、華北を舞台とした五胡十六回の混載時代をうけ、北魂朝は、太祖道武帝、太宗明元帝、世祖大武帝の三代五、六十年間をかけて、五胡の軍
閥諸政権をつぎつぎと打倒して、三九八年ごろには、いちおう華北を統一したものの、それで
も第三代目の世祖太武帝の治世には、太平真君六(四空ハ)年に蓋呉の反乱がおこり、それにと
もなって七年間にわたる仏教の大弾圧があり、つづいて同十一年には、崖浩の一党の謀殺事件
がおこるなど多事多難のなかで、翌々年には世祖太武帝が昏官の宗愛によって株せられ、一時は
北塊の国酢も危なかった。その中をきり抜けて、嫡孫の溶(早死した皇太子晃の長子) が十二歳
で即位して、ひとまず事なきをえた。第四代高宗文成帝である。
高宗の在位十四年間(四五二?四六五)は、『親書』末尾の史臣評語にも「養威布レ徳、懐二
紹中外一」というように、帝の温厚な人柄によって内外が和平であった。
ところが、帝は惜しくも二十六歳の若さで崩じたので、五代目に顕祖献文帝が幼弱の身で即
位したが、それに乗じて、山東に騒乱がおこり、内延では丞相乙澤が権勢をほしいままにして、
ついに逆謀を企てたという罪科で課せられるなど、献文帝の治世も決して平和ではなかった。

その上に帝自身が四七六年、鳩太后の手にかかって非命にたおれるなど、内外の相剋がつづい
た。
しかし、世祖大武帝の晩年から献文帝期にかけて、ライバルである江南の来朝でも、内乱が
つづいて末期的症状を呈していたので、南からの侵蓮を被ることもなかったのは、北貌朝に
とっては幸運であった。
侵窟どころか、南朝からは豪族の帰順者も少なくなく、なかには宗室・貴族の亡命者もかぞ
、えられ、かれら亡命貴族たちの北魂朝の国家体制や社会秩序の整備への貢献度は高かった。
以上みたような建国期七、八十年間の転変の世を承けて、四七一年十歳の幼年で高祖孝文帝
が立ったが、義理の祖母にあたる鳩太后は、なさぬ仲ながら孫の孝文を撫養した功で、この幼
帝を擁して簾政をしき、権力を一手に握ることになった。



 
馮太后の簾政
馮太后の簾政を援けたのは、宿老としては、族人の元丕(東陽王)、穆亮(趙郡王)、源賀(隴西王)万安國(安城王)をはじめ、肝心の高允、高閭らがあげられ、またブレーンとして活躍したのは、寵臣や富官である。なかでも李沖は、太后の信任がひとしお厚く、詔勅などの公文書は、中書令の高閣とともにその筆になるものが多かったといわれる。
ちなみに、北貌政界における北族系貴族と漢人官僚との力の比重の推移をみると、太祖・太宗時代は、漢人官僚は、その傑れた政治的技術や識見をかわれ、君主の顧問として政治・軍事などの諮問にあずかるにすぎなかった。
それが第三代世祖の統一時代になると、山佳浩が信任をえて一時権勢をふるい、北魂政界に漢人官僚の大挙進出を招来したが、たまたま、かれが国史編纂上の筆禍事件をおこしたのをきっかけに、タクバツ貴族の総反撃にあって族課されたため、その後、漢人官僚たちは逼塞して、北族系貴族の勢威下に隠忍自重せざるをえなかった。
かれらが再び勢力をもたげはじめたのは、鳩太后の簾政期からである。太后簾政期の十五年間は、その巧みな手綱さばきによる北族系貴族と漢人官僚の勢力均衡の時代であり、この意味で、鳩太后こそは、中国史上唐朝の則夫武后、清朝の西太后にも比べられる女性政治家といえるであろう。
さて、北魂朝は鳩太后による簾政がはじまった翌年に大和と改元したが、その名称からしても、世祖の統一以来約四十年、いまや、この王朝の恩威ようやく華北一円に浸透しはじめたことに対する、太后はじめ為政者たちの自信と願望とがうかがえる。
たとえば、大和元年正月の詔相には、漢人官僚の協力をよびかけて、次のように牧民官たちよ、朕とともに天下の民を治めよう。それには、民の揺役(納税・夫役)を簡にして
?







官奉の制定
官俸の制定については、太祖八年六月に班禄制定の詔令が出され、ついで九月
に詔文が下され、内外百官が毎年十月を第一李として、年四度に分けて俸禄を
支給されることになったという。ただし、州郡県の地方官の俸禄が定まったのは、翌々十年十
一月であった。
この官俸の制定は、高閣の意見を納れたものといわれている。つまり、かれは俸禄の支給こ
そ、清簾の士・貧汚の官吏を問わず全ての官僚に対し、行政上必ず好い成果をもたらすであろ
ぅことを強調したのである。当時はこの意見に対し、中央でも地方でも官吏の間に強い抵抗が
あったが、反対の意見を押しきったのは鳩太后の英断であった。
ちなみに、これまで百官に俸禄が支給されなかったころには、かれら官吏は、その生活の費を民からの礼遺なり、あるいは自らの営みに頼っていた。岡崎文夫『魂晋南北朝通史』には、
模範的地方長官として、『北史』にみえる山佳寛の例をあげているので、つぎに引用してみよう。
崖寛が弘農地方を治めたとき、人民を撫納するに巧みであって、あるいは物を施し、ある
いは人びとの礼遇をうけ、人びともまた喜んで、かれに物を贈った。弘農地万には漆・
轍・竹木が多く、その路は南方に通じ、かれは、これらを往来販売して家産を積蓄したが、
而も百姓はみなこれを楽しんだ。
つまり崖寛は、地方官としての政治を行うとともに、かたわら土産を交易して私財を積ん
でいたが、地方官が、このような営為をするようでは、統一政治をめざす北現政権としては困
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るわけである。
かいっよく
さて官俸の制定によって、官吏の生活はいちおう安定し、これまでいくたびかの戒紡にもか
かわらず、内外官僚の間に横行してきた納賂・贈賄の弊風が、いくぶんは防がれるとともに、
漢人官僚の北現政権への忠誠心が向上することになった。しかしその反面、いざ官俸を支給す
るとなると、高閣の表文にもいうように、晋末の中原騒乱以来、俸禄の支給は長らく中絶して
いたので、その財源は当然民からの増税に求められねばならなかった。
『親書』 の「食貨志」、(『北史』の「高祖紀」) には
ここに至って(大和八年)、戸ごとに調は畠三匹、租は粟二石九斗を増徴して、宮司の俸
禄に充てた。後さらに調外として畠二匹を増したが、それらの綿・絹・絹・麻布などの貢
物は、それぞれ各地方で産するものを上納させた。
と伝える。こうして官吏俸禄の財源は、増税によって賄われることになったが、この大和八
年の増税は、かなり大はばなものであり、かつ戸ごとに同額であったようである。
ちなみに、俸禄制度のねらいは、高閣のいうように、貪欲な官僚が賄賂を受けて刑罰に手心を
加えたり、私情によって国法を桂げたり、あるいは私欲をほしいままにして私に税調を増徴し
たりするのを防ぐとともに、清簾な官僚に対しては、生活を保証することが主眼であったので、
政府としては、官俸制定ののちは、官吏の臓罪には厳罰でのぞみ、吊一匹以上を臓するものは、
死罪に処したという。
さて、すでにみたように、北魂朝の税制は、これまで九品を混通(おしなべて)して、戸ご
とに割りあてており、やがて世祖のときからは、貧富の差等を勘案した三級制を採用したとし
ても、それは小民に重く、公平を欠く税法であった。さらに大和八年には、官俸支給の財源を、
大はばな増税に求めたので、小民への税負担はますます不均衡になった。
そこで政府としては、早急にも徴税の均等化をはからねばならず、そのためには徴税のより
どころとなる土地所有の公正化・合理化をうち出す必要に迫られることになった。均田法の成
立である。


均田法について
おもうに、華北では、後漠末から三国・西晋・五胡と二百数十年の長い年
月にわたり、政治的社会的混乱がつづいたため、豪族・富強者による大規
ノβ2
模な土地・人民の兼併が顕著に進んで、北魂朝の大和ごろになると、もはや政府としても座視
できない、ありさまであった。このような現状を『親書』巻五三、「李沖伝」には
豪族や有力者たちは、多くの民を隠冒しており、たとえば、一戸で三十世帯や五十世帯も
かかえこんでいるものがある。
とて、富強者たちが二戸で数十世帯の小作戸を隠冒していることを伝えており、また『魂書』
の 「食貸志」には、豪強に蔭付した小作人について、農民が官役をのがれようとして豪族に蔭
付しても、その豪族の徴飯は、公賦に倍した、といえば、豪族勢力と国家権力との狭間にあっ
た農民の困窮は、想像にあまるものが、あったようである。
このような社会的現状の下で、鳩太后政権が、華北の統治を本格的に進めてゆくには、統制
ある土地政策を断行して、田租・賦課と課役の均等化による公賊の増収をはからねばならない。
そのためには、李安世・李沖らの意図する豪富者の人戸隠冒の摘出と土地兼併の抑制とをめざ
す均田法の実施こそ、この政権に課せられた国家的要請であって、その成否は、まさしく北魂
政権の鼎の軽重を問われるものであった。
こうして、大和九年十月 (丁末) に公布されたのが均田法であるが、『魂書』 の 「高祖紀」
にみえる孝文帝の詔文卜内実は鳩太后の意を承けた ー をつぎに要訳してみよう。
(前略)ちかごろ人心がすたれ、豪族や富裕者たちは山沢を兼併しているのに、貧弱者は
一厘の土地すら得る望みがない。地には遺利があっても、民には余財がない。〔そのた
め〕民は、あるいは畝畔の土地すらも、〔手に入れようと〕争って身をほろぼし、あるい
はまた、飢饉のため農業をすてている。これでは、天下の太平や百姓の生活安定をえよう
としても、どうしてできようか。
そこで、いま使者をつかわして州郡を循行させ、地方長官とはかり、全国の田土を民
に均しく給して、もし死者があれば返還させることにし、農桑を勧課して、富民の本を興
したい。
そもそも北魂朝が、太祖以来五胡の諸政権をつぎつぎと打倒して、華北の統一を成就したエ
ネルギーは、かれらの武力であることはいうまでもないが、ほかの五胡政権も武力の点ではさ
して劣らなかったにもかかわらず、北魂がそれらを打倒しえたのは、やはりその武力を支える
経済的基盤となった「計口受田制」による農業生産力の上昇が、あずかって力があったものと
考える。



計口受田制と隣保互助策  
北魂の「計口受田制」とは、被征服民を仔虜として、集団的に領内に徒民し、
隣保互助策 かれらに頭わりに、〓疋の土地を均給した上で、国家が農具や耕牛などを貸
し与えて、農業生産に従事させるしくみである。それはあながち、多くの学者がいうような
「周礼」の井田制を承けたものと考えなくとも、このような単純なしくみは、北族が中国農民
を集団的に徒民するにあたり、当然発想しうるものと考える方が歴史的現実であろう。
北魂朝は、はじめこの計口受田策を、代国(山西省) において実施し、世祖のころから、これ
らの地域を対象に、隣保(隣組み) ごとの互助耕作によって、耕牛や耕具の不足を補いつつ、
農業生産力の向上増進をはかろうとする試みを励行してきた。世祖の延和元 (些二二)年に、
監国の恭宗(世祖の長子) が発布した制令によると、その隣保互助耕作のしくみがよくわかる。
畿内の民は耕作にあたっては、牛のないものは耕牛をもっているものから借りて耕種せよ。
そのさい、借り方は、報償として二十二畝を耕作するごとに、耕牛を貸与したものに七畝
分の田の草をとって (芸里 あげねばならない。
なお、丁男のいない小(小供)・老の家で耕牛のないものは、七畝を種田するごとに、二
畝分を耕牛の貸与者のために芸田(除草)しなければならない云々。(『親書』、「世祖紀」下)
これをみると、恭宗の制令の精神は、はじめ従民されて一律に頭わりに土地を支給されて開拓
を強制された人びとも、年月の経過につれて、各戸の間に、しだいに富強貧弱の差が生じてきた
ノβイ
ので、いささかでも、この差別を補いつつ、農業生産力を高めようとするにあった、と考、芸。
いうなれば、この隣保互助策は、計口受田策のもつ、頭わり的土地配分策の欠陥を、それな
りに補完しょうとした、しくみであるといえる。
こうして、畿内(代国)を中心に実施されてきた計口受田的土地政策、またその補完策とし
ての隣保互助政策、および、すでに杢示以来歴代政府が努力をかさねてきた地方政治刷新のた
めの河北・山東・河南各地への査察便派遣などによって、世祖の中・末年ごろからは、農村の
秩序も徐々に回復のきざしをみせはじめている。太延元(望五)年十二月(甲申)、世祖の詔
(前略)これまで他郷に避難したり、亡匿・流寓している人びとは、今日以後、本籍地に
帰還させよ。部落内の殺傷事件は、牧守が公平に裁決して、私報することは許さない。一
族隣伍が、私報するものを助ければ課罰を加えよ。
また州・郡・県は、みだりに葦を遣わして、民を煩擾してはならない。もし徴税・徴
発があれば、知県は那邑の三老を集めて、民の財富に応じて賦課を適正に定め、富強者に
軽く、貧弱者に重くするようなことがあってはならない。(『親書』、「世祖紀」上)
とみ、芸が、これによっても、世祖の中・末年ごろから、華北農村の秩序もしだいに回復し、捕
隣保の組織も整いはじめたことをうかがわせる。
そして農村社会の秩序回復に応じ、はじめ代国内で実験してきた協同体的互助耕作による農
業振興策も、しだいに全国的規模に推し進められたようで、そのことは献文帝が院政中の延輿
三 (四七三) 年二月 (発丑) に発せられた詔に
牧・守・令・長は、勤めて百姓を率い、農時を失わしめてはならない。同じ郡内の貧富は
相通じ、家に二匹以上の牛が有れば、無い者に倍すように。(『親書』、「高祖紀」上)
とみえる一文などからも、推知されるであろう。



北魏均田制の評価
さて、大和九年十月公布の均田法は、これまで概観したような、華北農
村社会の現実をふまえて勘案し、公布されたものであろうが、このとき
北魂朝の為政者、なかでも均田法令発布の推進者であったと伝えられる李沖・李安世らの発想
の現実的よりどころとなったのは、建国期以来長年にわたり、代国において実施し大きな成果
をおさめてきた計口受田的土地政策であった。であればこそ、太后や北族高官たちをも説得で
きたものと思う。
しかし、この計口受田策が、代国で成果をあげたからといっても、さきにみたように、当時
広大な土地・山沢を私有して、多くの奴婦や小作人をかか、そ」んでいる望族や大姓の政底する
河北・山東・河南などの地に、この土地公有政策を、そのまま導入することは、いたずらに豪
族・大姓の反発・抵抗を招くばかりでなく、自作・小作農民までも巻きこんで、社会的混乱と
人心の不安を招来するおそれがある。
いま、『魂書』 の「食貸志」にみえる大和均田法の内容を検討すると、これらの点に関し、
北魂朝の為政者たちも、憤重な配慮を払っていることがわかる。それは大要つぎの三つにしぼ
られるであろう。
?一般農民への配慮 
男夫に霜田四十畝、婦人に二十畝のほか、世襲的私有地として桑田二
十畝を世襲田として公認−諸桑田皆為二世業一、身終ルモ不レ還、恒徒二見口一−したのは、
自・小作農民への配慮である。

?大土地所有者への配慮 @奴埠・耕牛に対する給田1良民と同じく奴は露田四十畝、婦
は二十畝、丁牛は四牛まで一頭につき四十畝を受ける − は多くの奴埠をかかえる大土地所有者への配慮であるが、しかしそのうちには、寛やかにせよ大土地の所有制限と、公瓶の増収
への意図が蔵されていることを兄のがしてはならない。
刺史・太守以下の宰民官に対しては、俸禄のほか、前代の西晋朝の官吏給田(阪田)法を
掛酌した上で、多くは貴族・望族(名家) に出自するかれらの土地所有を、その職階に応じ
て、上は刺史の十五頃 −一頃は百畝1から、下は郡丞の六頃にいたるまで容認している。
豪族・大姓に出身して、大土地所有者でもあった大方の官僚にとっては、この職田の制は、
所有田の最高額を定めた限田法にはかならなかったであろうが、しかし職田のほか、私有の奴
稗・耕牛への給田を考慮すれば、かれらの土地所有の大半は保有しえたであろう。
こうして北貌朝としては、大土地所有者ならびに官僚に対し、できうるかぎり配慮すること
によって、その支持・協力を得て、華北の経済的安定と社会秩序とを回復しへ 統治の完遂をめ
ざしたのであろう。

?福祉政策的配慮 
老中廃残者へ天田の半分を給し、また寡婦への授田、それに対する免課
などの特典は、今日の福祉政策である。なお、この福祉については、同じ『親書』 の「食貸
志」 の 「三長制」 の条には、
民の年八十己上のものは、その一子は役に従わずともよい。孤独・橿老・貧窮にして自ら
生活することのできないものは、三長内にて迭之を菱食せしむ。
といい添えているが、当時としては、かなりゆきとどいた孤独老人や篤疾・貧窮者への配慮と
いえる。
以下のようにみてくると、均田法は、北魂朝が太祖・太宗以来、代国内(畿内) で実施して
きた土地公有にもとづく計口受田的土地配分法をふまえた上、当時の華北における土地私有の
実態をも勘案しながら、かなりの弾力性をもって立案された土地政策である。
さらにいうなれば、大和の均田法は、当時華北の現実であった大土地所有の趨勢に、公権力
をもって歯止めをかけ、代わって土地公有を建てまえとする計口受田的土地政策を、強力に推し進めようとした土地革命であり、また農業の生産革新でもあったといえる。




再編整備された隣保組織「三長制」
均田法と表裏の関係にあるのが、三長の制である。
隣保組織「三長制」 北魂朝が、太和九年に均田法を公布したのは、ただ土地を一般農民の男
夫・婦人に均配分するとか、大土地所有者には奴蝉・耕牛にまで給田することによって、制限
つきで大土地私有を容認するとか、あるいは宰民官 − その多くは望族・大姓の出身者であろ
うが − には、職階に応じて、多額の土地の所有を認めるとか、だけではなかった。
むしろ大和九年十月の詔文にもあるように、「民に余力なく、地に遺利なからしめん」とし
て、できるだけ生産を高め、公賦の増収をはかるのが目的であったから、生産性を高めるため、
当時放置されていた多くの空閑地や無主田を、土地なき民に均等にわりつけて開墾させたり、
また豪強の大土地所有者にかか、えこまれた小作人や奴・埠や隠冒の民にも給田することによっ
て、かれらを戸籍面にのぼして、税・役賦課の対象にしたのであった。
ところが、均田法が所期の成果をあげ、賦税制を確立するためには、そのうらづけとして、
旧来の隣保組織1たとえば『親書』、「世祖紀」にみえる三老郷邑制のような ー を再編・整
備して、公権力をそこまで浸透さす必要がある。この再編・整備された隣保組織を、「三長の
制」 とか 「党里の制」 とか称したのである。
三長制の制定は、「高祖本紀」に「大和十年二月甲成、初立二党・里・隣三長二疋二民戸籍一」
というように、大和十年二月のことであり、この三長制の詳しいしくみについては、『親書』
の 「食貸志」 につぎのようにいう。
十年、給事中李沖上言すらく、宜しく古に準い、五家ごとに一隣長を立て、五隣ごとに一
里長を立て、五里ごとに一党長を立つべし。その長には、郷人の強謹なる者を取れ。〔課
役は担い消長は、一夫分をのぞ日。里長は、二夫分を、覚長は、三夫分をのぞく。のぞくも
のは征戊ものぞく。余は民の若し。云云。
これによると、三長制は、後述するように、古い周代の制(『周礼』(周代)の制)に準じて、各
部落・村落を隣(五家)・里(五隣)・党(五里)の三段階にわけ、それぞれ組長(隣長・里長・
覚長)を設けて組内を統制させた。そのため各組長には郷邑の謹直な有力者をあて、それらを
優遇する意味で、課役は、隣長には一夫分の征戒を免除し、里長には二天分を、覚長には三夫
分をそれぞれ免じた。そして組長たること三年間無過失であれば、一等級のぼすという。
ちなみに、李沖の上言に「宜シク準レ古」とは『周礼』にいう「六郷・六速の制」をさしたも
ので、こういうことによって、李沖は『周礼』にヒントをえたみずからの考えを権威づけようとし
たのであろう。いいかえれば、国家は、これを通じて土地・人民を豪強の兼併・隠冒からとり
ノ錮
返すことが、できるのである。このことを、もっとも明快に述べているのは、李沖の上言を嘉
納した鳩太后の、つぎのような言であろう。
三長の制が行われれば、賦課に常準が立つとともに、これまで富強の家に蔭付した人戸
も、明るみに出てくるし、はたらかないで富をえようとする連中も、いなくなるだろうか
ら、どうして悪かろうぞ。(『親書』巻四一、「李沖伝」)
とあるように、一つには、賦税制度を確立して、これまで国の賦課を富強者は巧みにのがれ、
貧弱者に重いしわよせがかかって、ややもすれば、民に怨念をおこさせがちであるのを適正化
できる。二つには、豪戸・大姓にかかえこまれた小作人や隠戸を、国家の手にとり返すことも
できる。
こうして北魂朝は、三長制の実施によって、農民の流亡・逃散や豪戸・大姓への蔭付をくい
とめることができ、税・役の負担も、いちおう適正化できて、その統治力をより深く村落共同
体内部にまで浸透させてゆくようになった。



三長制の実施
もともと北貌時代のように、土地に余分があり、荒蕪・未墾の地が多いばあ
三長制の実施 いには、国家としては、当然土地よりもむしろ農民を、しっかりつかむこと
に努力がそそがれたはずであるから、北現政権としては、富強者・大姓者の手から、蔭付の人
戸をとり返すのが緊要であったと思う。その意味で、三長制のような隣保のしくみの組織化
こそ急務であった。
しかし、三長制が実施されるにいたるまでの、いきさつをみると、決してスムーズには、は
こぼなかった。『親書』の「食貨志」にも、「豪富併兼者、尤弗レ願也」とみえるきっに、利害の
相反する豪戸・官僚がわからは、強い抵抗がでた。
具体的にいえば、太后の前で、李沖の上言が論議されたとき、寵臣である秘書令高祐や中書
令郡義や著作郎博思益らは、強く反対しているが (『親書』、李沖伝や『資治通鑑』巻二二六参照)、
かれらは、地主層を代弁する人たちであった。
さきに引用した三長制に関する李沖の上言にも、「旧無二二長∴惟立一幸王・督護一云々」と
いうように、三長制施行以前には、旧来の隣保の制はあったにしても、宗主が郷曲に武断し、
かれらが官僚層と結びついていたわけであるから、三長制の施行は、かれらにとって、もっと
も願わしからざるものであった。ともかく、曲折はへたものの、三長の制は、鳩太后が李沖の
上言を嘉納したことによって、大和十年二月に、孝文帝の詔が発布され実施のはこびになった
のである。
三長制の実施によって、隣保の組織が再編・強化されると、『親書』 の 「高租本紀」 の大和
十一年十月甲戊の詔文に
ノタ2
郷鉄の礼がすたれれば、則ち長幼の順序が乱れる。孟冬十月は、民はひまな時である。宜
しくこの時に、徳義を以て民を導くように、諸州に下知するがよい。覚里の内、賢にして
長なる者を推し、その里人に、父は慈、子は孝、兄は友、弟は順、夫は和、妻は柔である
ように教えよ。長の教えに率わない者は、名を具して聞せよ。
とみえるように、政府は早くも、この党里の組織を通じて、農村社会の秩序回復や教化に努め
ているのがわかる。


三長制施行の時期
さて、つぎに三長制施行の時期については、『親書』 の「食貸志」は大和十年
の 時 期 といい、より詳しくは、「高祖本紀」に「大和十年二月甲成、初立一兎・里・隣
三長∴定二民戸籍」というように、均田法が発布された翌年の二月のことで、うたがいの余
地がないようであるが、『親書』、巻五三、「李孝伯伝」 に収められた李安世の孝文帝 (鳩太
后) への上疏をみると、つぎのような一文がある。
つらつら州郡の民をみますと、かつて饉飢のために、土地をはなれて流移し、田宅を棄売
して異郷にさまようこと数世にわたるものがいます。すでに三長の制が立ったので、かれ
らは、始めて旧居に返ってみますと、家屋敷は荒れはて、周りに植えた桑や喩木も改植さ
れている。云々。
於此一夫」との二句である。
これによるかぎりでは、三長の制は、大和九年十月の均田法公布にさきだって実施されてい
たように解される。このような均田法公布と三長制施行の年時上のずれに関しては、これまで
にも学者の間に種々の論説がかわされてきた。
これらの論説については、煩雑にわたるので、三一つ列記することは省くが、いずれの所
論も、三長制の施行が、均田法の公布に先行すべきであるとの見解に立って、両者の年時的矛
盾を解決しようとしている。しかし均田法の公布が『親書』の「高祖本紀」にいうように、三
長制の実施に先行したとしても、許されない矛盾だとも考、えられない。いわんや、前者の公布
が大和九年十月、後者の実施が十年二月であるため、両者の年時上のずれは、四カ月にすぎな
いから、さして問題とするには当たらないように思われる。
というのは、ただに年時的に前後接近しているというばかりではない。三長制を施行するた
めには、なによりも農村における秩序の回復、田土の整備が必要であり、それには、流民や逃
散者を本貫に召還して定着させなければならない。流民・逃散者を本籍地にもどして定着さす
には、かれらにまず土地を頒給してやらねばならない。この意味では、土地給付のための均田
法の公布こそ先行きすべきではなかろうか。かくしてのち、三長の制を布いて賦課の公平をは
問題になるのは、この上疏中にいう「三長既立」と、最後の「高祖採納之、後均田之制英一
                                                            
ノタ
かったのだと解してもよいであろう。
こうして、均田法にもとづいて土地を配給され、また三長制による隣・里・党の三段の組織
も成立し、粗・調の税額も定まり、それをふまえて、百官の俸禄も規定され、ここに北魂朝の
統治体制も整って、黄金期をむかえることになった。
以上、鳩太后の簾政期を通じてみると、いわゆる孝文帝三十年の治世のうち、この鳩太后時
代の十五年間こそ、もっとも実りの多い重要な時期であると思われる。


仏教の復興−文明太后の崇仏
後に、鳩太后の文化的功績としてあげなければならないのは、雲崗石窟
文明太后の菓仏 に象徴される仏教の復興隆昌である。
北魂朝第三代の世祖太武帝と崖浩とによって強行された廃仏毀釈運動の後をうけて、高宗文成帝が立つと、復仏の詔が発布されて、これまで民間に息をひそめていた仏教徒の熱烈な復仏
運動がおこった。
このときの復仏の詔文に「諸州県に命じ、衆の屠る所に一仏寺をそれぞれ建立することを許し、その費用は制限を加えない。云云」とある。わが国の国分寺のようなものとみればよい。
そして、これを仏教教団のセンターとして、これらの仏教教団を統督するものとして、中央に 肘遺人続きのちに沙門続を設けた。雲崗石窟は、第二代沙門続の獣噺の総指揮の下に、最初五 ノ大額が北魂朝の霊所として開窟されたものである。この沙門銃の曇曜を、強力に支えたのは文成帝であっただろうが、それとともに、皇后鳩氏の篤い帰依を兄のがすことはできない。
曇曜が、初代のカシュミール沙門師賢をついで第二代の沙門続となったのは、文成帝の和平
初(望ハ○)年であって、以来献文帝をへて、孝文帝の大和時代 − 大和のいつ追いたかは明らかでない − まで三代二十余年間にわたったといわれるが、北魂仏教の隆昌期は、曇曜の沙門統時代であり、雲崗石窟の造営も、この期に盛んに行われている。それは、この期二十余年間を通じて − 文成帝は曇曜が沙門続に任じられて六年目に崩じた − 蔭の権力者、実力者であった文明太后鳩氏の篤い庇護の賜物であることを、われわれは改めて知るのである。