中国歴史上の女性たち

中国歴史上の女性たち

清  西太后

清朝 西太后




 


 


X 政権を握った女性たち

第三節 清朝の西太后


  1.  離宮に逃避した咸豊帝


    2.  二人の太后による垂簾政治


    3.  西太后政権の誕生と狂乱怒涛期


    4.  近代化運動―戊戊の変法・自強運動


    5.  義和団運動


    6.  西太后政権下の立憲運動


    7.  辛亥革命と清朝の滅亡


    8.  執政者としての西太后の評価










秦を強国にした譱八子


 譱八子(mibazi)は、譱(miあるいはmie)は楚の王族の姓である。発音は羊の鳴く声から来ているから、「み」と読むよりは「めええええ」と呼んだ方がより適切なかもしれない。八子(bazi)は秦王の夫人の位の一つで(実は八種類もある。皇(王?)后、夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使)上から五番目、下から四番目と、決して身分的には高くない側室である。

 彼女は楚から秦の後宮に入ったが、その時の秦は恵文王である。太子時代に商鞅が法治思想を秦に導入しようとした時、「何が法治じゃ。なら太子のわしを罰することができるか」と、わざわざ商鞅が決めた法を破ってみせたのである。

 商鞅は、秦を強国にしようと始めた法治が、これで壊れるのが残念で、太子は罰することができないが、太子の罪は教育係の罪と、太傅を鼻削ぎの刑に処して解決した。しかし、太子一党の恨みを買い、恵文王が即位した後に、謀反の罪に問われて車裂きの刑に処せられた。初期の法家たちは、それ以前の勢力、守旧派とは凄惨な争いとなったのである。そうした中で、秦は社会的実績を一定以上の成果ということを得ることになる。

 恵文王は、商鞅は殺したけれど、商鞅が行おうとしていた改革は続け普及葉を押さえつけることに成功した。古代において、この守旧派を圧倒するという事は、まず無理なことと考えられていた。秦以外の六国は、守旧派によって逐次衰退していくことになるのである。戦国六国に比して、秦には名君が続出している。それに比べて、他の戦国の六雄には、暗愚な王が続出する。これが後に秦の天下統一のための大きな原因になっている。

 さて恵文王の太子は即位して武王となりますが、なかなかの偉丈夫で、大力の豪傑を召し抱えるのが好きで、自らも武芸を好み、また力比べを好んだという。王は部下を戦わせて、勝ったものを徴用し、イエスマンを直下に据えたのである。
武王もなかなかの人物だったようですが、二度ほど失敗をしており、一度目は武芸を競っていて大けがをし、秦の医者では治せず、なんと医学の天才扁鵲に診てもらって、ようやく治ったことがある。天才医扁鵲は、秦の医者たちに嫉妬され、武王を治療した帰途、暗殺される。この人は「起死回生」という言葉を生み出した人で、お産で死ぬ母子が多かったのを、この扁鵲さんが激減させたという記録もある。扁鵲の診療は、現代医学の土台となったとされ、大変な医者だった。

 武王の力自慢は尽きず、洛陽を落とした時にあまりに嬉しく、鼎を持ち上げてみようと挑戦し、『史記』では鼎を持ち上げた人は二人しかいないというものを持ち上げようと、失敗して體の上に落とし、それがもとで死んでしまう。享年23歳。若すぎる死であった。
 譱八子は側室としての身分は決して高くはなかったが、恵文王との間に3人の子供をもうけていた。最初の男児が?稷で、恵文王の子供としては、武王の次、二番目に生まれた男児であった。

 嫡長子には国を継ぐ大切な役割があり、その他の子供には他国との同盟関係を結ぶ役がある。?稷も実は秦武王が事故死した時、惠皇后の策略で、燕国に?八子とともに人質として出されていた。武王の崩御により、次子が継ぐのは当然と、異母弟魏冉と図って反対勢力を押さえつけ、遠路はるばる燕国から?稷を秦・咸陽に戻ったのである。

 こうして?稷は?八子と魏冉の見事な働きで、秦王に即位し、昭襄王となり、時に20歳であった。ところが秦では21歳で成人とみなされ、22歳で嫁を娶り、一人前となる。それまでは母親がまつりごとを代行することになっており、そこで昭襄王の母親である譱八子、宣太后が、異母弟魏冉やら、楚で罪を犯して逃れていた?戎やらを呼び、さらには恵文王との間にできたもう二人の弟までをも侯とし、政権を牛耳ってしまう。ところが、譱八子の施政は、国が傾くどころか、見事に隆盛に向かい、恵文王の時代を凌駕させるのである。これには魏冉(穣侯)や譱戎(華陽君)や白起の活躍が大きく貢献したものである。

 譱八子は、外戚であっても、実績を残し、勢力も強大になる。魏冉、譱戎それに宣太后のもう二人の子供を合わせて四貴と呼ばれるようになったのである。

 その頃、韓国から一人の使者が秦を訪れ、「楚に攻められているから、援軍を送ってほしい」とうったえる。楚は宣太后にとっては母国であるが、すぐには返事をしない。当然、昭襄王は、母親に答えを求めた。そこで宣太后は韓からの使者を召し出し、有名な言葉を吐く。
「昔、妾がこの後宮に入ったばかりのころ、先王は妾の太ももを枕に寝てしまわれた。妾はこれをとても重とう感じて疲れ果てたものじゃ。ところが後に妾の身の上に全身をお預けになられた。この時は全然重いなどとは感じなかった。それどころか、妾には快く感じられたのじゃ。なぜじゃと思う?」
 太ももに頭を乗せただけでは、彼女には何も得るものがなかったから疲れを感じるだけであり、男女の営みを行えば、子供ができる。後宮に入って王の子を身ごもれば、これは彼女の人生を一変させる可能性が出てくる。生んだ子供が王にでもなれば、自分は太后である。疲れるどころか、嬉しいばかりだ。
といったのである。
ということは、韓救援に秦軍を派遣して何かいいことがあるのか? いいことがあるのなら救援するが、相当な見返りがなければ救援はしないと言うのを、使者を軽蔑して下賤な言い方をしたのである。
 これほどに、秦の実力が他国を圧倒していたという事である。

 さらに後には、義渠という遊牧民族が当時の秦を脅かしていたが、この国の騎馬軍団のノウハウを秦の軍隊に完全訓練させ強大な騎馬軍団を作り上げた。秦の軍団は、他国の戦車隊、歩兵隊を凌駕した。

 この頃、魏国より、濡れぎぬを着せられて出奔した范雎が秦に至っており、暗躍した後、そろそろ実権を握りたくなった昭襄王を煽って、クーデターに成功し、四貴および宣太后から権力を奪い取る。こうして宣太后は失権するが、この昭襄王の太子も魏で若くして死に、次男の安国君には?戎の孫娘(華陽夫人)が嫁ぎ、安国君に愛されなかった子供、?異は人質に出された趙国で呂不韋の妾を娶って妻とし、その子に?政(後の秦始皇帝)が生まれる。

 秦には名君が多いが、天下を取る直接のきっかけは?八子によって強国となった秦昭襄王が、六国と大戦争を繰り広げ、六国の勢力を激減させたことが大きい、秦王政は天下統一に10年しか要していないということでわかる。昭襄王のお母さんである宣太后(?八子)の果たした役割は、非常に大きいということができるのである。