書道用語辞典


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「中国の書家」

称号 書 家
書聖 ・王羲之
草聖 ・張芝(草書)
・張旭(狂草)
二王 ・王羲之(大王)
・王献之(小王)
二大宗師 ・王羲之・顔真卿
古今の
三筆
・王羲之・鍾鷂・張芝
初唐の
三大家
・欧陽詢・虞世南・緒遂良
唐の
四大家
・欧陽詢・虞世南
・緒遂良・顔真卿
宋の
四大家
・蘇軾・米沛
・黄庭堅・蔡襄
楷書の
四大家
・欧陽詢(欧体)
・顔真卿(顔体)
・柳公権(柳体)
・趙孟黼(趙体)
四賢 ・張芝・鍾鷂
・王羲之・王献之



















「日本の書家」
三筆 空海・嵯峨天皇・橘逸勢
三跡 ・小野道風(野跡)
・藤原佐理(佐跡)
・藤原行成(権跡)
書の三聖 ・空海・菅原道真
・小野道風
世尊寺流の三筆 ・藤原行成・世尊寺行能
・世尊寺行尹
寛永の三筆 ・本阿弥光悦・近衛信尹
・松花堂昭乗
黄檗の
三筆
・隠元隆g・木庵性滔・即非如一
幕末の
三筆
・巻菱湖・市河米庵・貫名菘翁
明治の三筆 ・中林梧竹・日下部鳴鶴・巌谷一六
昭和の三筆 ・日比野五鳳・手島右卿・西川寧
近代書道の父 日下部鳴鶴
現代書道の父 比田井天来
















 タ行


 語
読み
  説  明
大観帖 たいかんじょう 『大観帖』(たいかんじょう)10巻は、徽宗が大観3年(1109年)、竜大淵・蔡京らに命じて『淳化閣帖』を訂正、削除、補刻させたもの。毎巻末に蔡京が標題として、「大観三年正月一日奉聖旨模勒上石」と書いている。『淳化閣帖』の板がひび割れし、また王著の記述に誤りが多かったため訂正し、偽跡の明白なものを削除した。さらに内府所蔵の書跡を出して補刻させた。しかし、靖康元年(1126年)に靖康の変があったため、拓本の伝わるものが極めて少ない。全10巻で,巻一は歴代帝王法帖,巻二〜四は歴代名臣法帖,巻五は諸家古法帖,巻六〜八は王羲之,巻九〜十は王献之をおさめている。→集帖
大師流 たいしりゅう 書で名高い大師ということで、空海の書を祖とした書流を大師流と称し、多くの人が空海の書を尊重した。例えば、後宇多天皇は、空海の熱狂的な崇拝者であり、その皇子後醍醐天皇も父の感化で空海の書に関心を寄せている。またその書を求めようとする人々もたくさんおり、豊臣秀次が『風信帖』の1通を所望して切り取ったり、後水尾天皇も『狸毛筆奉献表』の3行(41字)を切り取り宮中に留め置いたことなどがある。
大師流について述べた『弘法大師書流系図』というものがあり、これによれば、空海が渡唐の際、韓方明から後漢の蔡?以来の書法を授かり、帰朝ののち、嵯峨天皇等にこれを伝え、そして賀茂県主藤木敦直(1582年(天正10年) - 1649年(慶安2年))からその子孫に伝来したのだという。
大篆 だいてん 中国古代の書体である篆書の一種。秦始皇帝による書体の統一がなされる前の書体で、統一後の「小篆」に対する語。起源は周代、太史籀(チュウ) が作ったと伝えられる籀文、籀書に求められるが、古代中国の戦国各国において独自に発展したため、多くの異体字が存在する。
題跋 だいばつ (跋尾(ばつび)とも)書画などの末尾につける文。欧陽脩が金石文の跋尾を書いてから、蘇軾や黄庭堅がこれにならったので盛行した。
拓本 たくほん 器物の形や刻銘,文様などを墨によって紙に写し取る方法。中国で始り,金石学の流行とともに盛んとなり,朝鮮,日本などに広がった東洋独特の手法である。乾拓と湿拓の2種の方法がある。
断簡 だんかん もと巻物や帖だったものが、切れ切れに分断されたものをいう。→古筆了佐・古筆切
端渓硯 たんけいけん 中国広東省広州の西方100kmほどのところに、肇慶という町がある。この町は西江という河に臨んでいて、東に斧柯山(ふかざん)がそびえる。この岩山の間を曲がりくねって流れ、西江に注ぐ谷川を端渓(たんけい)という。深山幽谷と形容される美しいこの場所で端渓硯の原石が掘り出される。端渓の石が硯に使われるようになったのは唐代からで、宋代に量産されるようになって一躍有名になった。このころ日本にも渡って来たといわれる[3]。紫色を基調にした美しい石で、石の中の淡緑色の斑点など丸みを帯び中に芯円を持つものを「眼」(がん)という。鳥の眼のような模様もあるこの紋は石蓮虫の化石といわれてきたが、石眼は一種の含鉄質結核体であることが実証された。つまり酸化鉄などの鉄の化合物が磁気を帯びて集まり形成されたものである。こうした含鉄質結核体が沈積し埋蔵されたあとも、岩石生成過程でたえず変化して鉄質成分を集め、暈の数が幾重もある石品を形成した。実用には関係ないものだが大変珍重される。端渓の石は細かい彫刻にも向き、様々な意匠の彫刻を施した硯が多く見られる。
端渓硯の価値の第一は≪磨墨液が持つ撥墨の範囲の広さ・佳さ≫であり、第二、第三と続く価値は硯としての本質に直接関係しないがその視覚的美しさであり「眼」等々の石紋の現れ方、そして彫刻の精巧さ、色合い、模様などによる。第一の価値を除けばいずれも美術・芸術面からの価値であり、そしてこれらの作硯時代により骨董的な価値が加わる。
端渓硯には採掘される坑によって以下のようなランクがある。
老坑:最高級の硯材。ここの一定の範囲から産出する硯材のみを「水巌」と称することが主である。
坑仔巌:老坑に次ぐとされている。
麻仔坑:かつては老坑に匹敵するという評価もされた。
宋坑:宋代に開発開始。比較的安価。
梅花坑:色合いに趣はあるが硯材としては下級とされている。
緑石坑:現代物はあまり良質ではない。
単鉤法 たんこうほう 執筆法の一種。一本がけともいう。親指と人差し指で筆の軸を持ち、残りの三本の指を軽く添えるように持つ。かな文字や細かい字を書くのに適している。→書法
タンポ たんぽ 拓本取りのための「たんぽ」と呼ばれる墨をつける道具をいう。いろいろな条件を想定し大中小そろえるとよい。
単包法
たんほうほう 薬指と小指の二本を掌に密着させるようにし、肘をあげて単鉤法で持つ方法である。篆書を書くのに適している。→書法
  チ・ち
竹簡 ちくかん 中国古代の書写材料の一つ。紙が発明される以前に用いられたもので,竹を細い短冊形に削り,火にあぶって油抜きし,文字を書いた。普通の形式は長さ 25cm,幅 3cmぐらいである
中国書道界の二大宗師 ちゅうごくしょどうかいのにだいそうし 東晋の王羲之と唐の顔真卿のことをいう。
籀文 ちゅうぶん 中国古代の書体である篆書の一種。起源は周代、太史籀(チュウ) が作ったと伝えられるもの、多くは大篆に一致するが、大篆は古代中国の戦国各国において独自に発展した多くの異体字を含む。
聴雨楼帖 ちょううろうじょう 『聴雨楼帖』(ちょううろうじょう)4巻は、清の周於礼(しゅう おれい、1692年 - 1750年)が作成した。?遂良・顔真卿、宋の四大家などの作品が刻入されている。刊行年は不詳。→集帖
鳥書 ちょうしょ (鳥蟲書・鳥蟲篆・蟲書・魚書とも)とは、春秋時代中期から戦国時代に南方で盛行した文字の一種。鳥・蟲・魚の形に似ているのでこの名がある。
長条幅 ちょうじょうふく 明の終わりから清代の初めにかけて起った、特に行草書における表現主義的な動きにたいし、明代に建築様式の変化があり、文人達の居室の天井が高くなり、3メートルにもなんなんとする長条幅を掛けることが可能になり、競ってこの時代には書家達がこの長条幅で新しい書の表現を試みた。明末清初という激動の時代をくぐりぬけた書家達は心の内なる激情を筆に託して既製のしきたりを打破り、心の赴くまま狂わんばかりに筆を走らせたのである。→王鐸
澄清堂帖 ちょうせいどうじょう 『澄清堂帖』(ちょうせいどうじょう)は、李後主が刻したものと伝えられるが、時代には種々の説がある。明の中ごろ世に現れた。王羲之の書が精刻されてあり、また『淳化閣帖』にない刻があるので尊ばれている。現在は、宋時代の拓本とされている残本数冊と、残本をもとにして『来禽館帖』・『戯鴻堂帖』・『玉煙堂帖』などで重刻されているものが伝わるのみである→集帖
澄泥硯 ちょうでいけん 澄泥硯については石を原料としたとする自然石説と、泥を焼成したとする焼成硯説が存在する。清代初期ごろまで作られていたとする焼成硯については、「当時の技術では焼成澄泥硯を作るための高温を出せる窯は作れなかった」として疑問が呈される場合もある。当時の製法ではこの高温が不可能であったため、焼成澄泥硯の製法書とするものにはあたかも魔術のような荒唐無稽な製造方法が述べられている。このように製法については現代でも解明されていない部分がある。 うるおいを含んだ素朴さを感じさせる硯で石硯の比ではないといわれている。澄泥硯の最上のものは?魚黄澄泥(せんぎょこうちょうでい、ベージュ・くすんだ黄色)で、その次は緑豆砂澄泥(りょくとうしゃちょうでい、緑色・黒または青まじり)である。  澄泥硯の代表種のひとつ「蝦頭紅」と呼ばれるものはその名の通り「海老を茹でるか焼いた時の海老頭の渋い赤色」である。それぞれに硯としての品質差があり、この品質差は見る者の感覚により変化する。→硯
直筆 ちょくひつ 用筆法の一つで、 紙に対して筆を真直ぐに立てて書くことで、 側筆<そくひつ> (筆の軸を傾けて書くこと) に対する語です。 直筆を用いると鋒先が画の中央を通り、 鋒から墨がまんべんなく点画にゆきわたって筆力が出、 深みのある線を書くことができる。 最も基本的な用筆法である。→書法
散らし書き ちらしがき 三色紙に共通する大きな特徴として一枚の紙に和歌一首が書かれているが、各行頭や行末が揃えて書かない散らし書きという→三色紙
頂相 ちんぞう 禅僧の肖像画。禅宗では,法の師資相承を重んじることから印可の証明として,師の肖像画と法語を弟子に与える。中国の北宋時代から盛大に行われ,日本にも伝来し鎌倉,室町時代に盛行した。
枕腕法
ちんわんほう 枕腕法ちんわんほうとは、筆を持つときの腕の構え方の一種。左手の手のひらを机の上に置き、左手の上に右手を乗せて書く方法。手を汚すことなく書くことができる。筆に余計な力をかけずに安定して書くことができる。小筆を用いて細かい字を書く時に特に適している。筆だけでなく、筆ペンで書く時にも有効な書き方。→書法
  テ・て
停雲館帖 ていうんかんじょう 中国,明の書画家文徴明がその子文嘉と共に刻した叢帖。晋・唐の名帖や,宋・元・明の法書を選んで刻し,23年を費やして1560年(嘉靖39)に完成した。名跡を得るたびに増刻したので,4巻本,10巻本,12巻本の3種がある上,章藻功の重刻本など,種類も多いといわれる。選択は極めてよく,真行草の各書体を備えて,明代の最もすぐれた法帖である。停雲は陶潜(淵明)の詩語にもとづく文徴明の書斎の名
提腕法 ていわんほう 提腕法とは、筆を持つときの腕の構え方の一種。筆を持つ手首から肘までを軽く机につけたまま書く方法。腕を固定することによって懸腕法に比べると自由に動かして書くことができないが、毛先が安定するためかな文字や小さい字を書くのに向いている。→書法
手鑑 てかがみ 古筆の断簡を貼り込んだ作品集をいう。歴史的名蹟として貴重な古筆手鑑の『瑞穂帖』などがある
手師 てし 日本で書法の教授を職業とする「書家」が現れたのは江戸時代中期以降とされているが、それまでの書家が存在しない時代、書の上手な人を手師・能書・手書きと称した。→書家
粘葉装 でっちょうそう 書籍の装丁の一種。胡蝶装(こちょうそう)ともいう。 粘葉装は二つ折りにした紙の山の部分に細く糊をつけ、それを綴じ代として重ね貼り合わせることにより本の形にし、その上にさらに表紙を糊でつけたものである。
点画 てんかく 点画てんかくとは、漢字を構成する点と画の総称のこと。筆を紙に下ろしてから書き始め、紙から離すことで書かれた線や点のことを指す。筆画ひっかくともいう。日本語の基本的な点画には、点、横画、縦画、曲がり、折れ、左払い、右払い、そりの八種類がある。中国ではここにかぎとはねを加え、曲がりとそりを二種類のそりと考えることで合計十種類の点画としている。ほとんどの漢字は複数の点画を組み合わせて構成されている。点画の画を画数といい、点画を並べていく順番を筆順という。一画の中に複数の点画が組み合わされているものもある。  書道では点画によって書き方や使う技法が異なってくる。そのため、どの漢字にどんな点画が使われているかを理解し、漢字から点画だけを抽出して書く練習が重要になる。→永字八法
篆額 てんがく 石碑上部の篆書の題字をいう。
篆刻 てんこく 印章を作成する行為である。中国を起源としており、主に篆書を印文に彫ることから篆刻というが、その他の書体や図章の場合もある。また金属(銅・金など)を鋳造して印章を作成する場合も篆刻という。その鋳型に彫刻を要するからである。
添削 てんさく 他人の詩歌・文章・答案などを、書き加えたり削ったりして、改め直すこと。「生徒の作文を添削する」 ... 斧正ふせい。添竄てんざん。 A 書道で、朱筆を加えて直すこと。
篆書 てんしょ 漢字の書体の一種。「 篆書」「篆文」ともいう。 広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。
伝称筆者 でんしょうひっしゃ (伝承筆者とも)今日まで残されている古筆には、後年、古筆鑑定家によってつけられた伝称筆者名が冠せられている。古筆(こひつ)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた和様の名筆をさしていう。時にはもっと範囲を狭くしてその名筆中でも特に「かな書」をさす。
転折 てんせつ 点画が直角またはそれに近い状態に折れ曲がることをいう
天来翁書話
てんらいおうしょわ 『天来翁書話』(1938年、比田井天来)は、比田井天来の書論・書話を集め田中成軒が編纂し、昭和13年(1938年)刊行されたもの。天来は書の表現において個性・芸術性という内的な美意識を求め、習気を徹底的に避けようとした。天来は、「此の習気を避くるには、如何にすれば避け得られるかといふに、無意味の点画を造らないように無意味の結体をなさないように筆を下すときには必ず或る意味をもたせるのである。」と記している。また、その「意味をもたせる」ためには練習に練習を重ね、熟達して習慣とし、筆意がほとんど無意識のうちに出てくるときが芸術として最も高潮した時であるが、と同時にその時が習気の始まりであるともした。天来においては書が完成することはなく、創造と破壊の繰り返しの中に自らの表現を求めた→日本の書論
  ト・と
トウ河緑石硯 とうがろくせきけん ・石硯の産地は甘粛省臨挑付近の挑河(黄河)の一支流で、良材は川底から採石されたという。・採石年代は宋以前からあったともいわれるが、主として北宋中期に採石されたようである。産地・年代とも不明で、現在残っているものもきわめて少なく、幻の硯として人々の注目を集めた。・石色は緑色。緑色の硯といえば松花江緑石硯とともに有名であるが、挑河は緑色を主体にして黄色、白色、碧色の淡い色である。・石紋はさざ波のような風波紋があり、挑硯を賛美する人は多い。・石眼はほとんどない。・石質は粘板岩。・鋒鋩はきわめて細かく、肌には光沢がある。・磨墨は発墨優れている。
東観余論 とうかんよろん 中国の書論(ちゅうごくのしょろん)では、中国における書論の概要と歴史を記す。金石学に造詣の深い阮元は、『南北書派論』・『北碑南帖論』を発表し、「法帖の書は翻刻が繰り返されて真意を失っている。これに対し、碑刻の書は碑刻の書は真跡に近い。東観余論. 『東観余論』(とうかんよろん)2巻は、黄伯思撰。初めに「法帖刊誤」(ほうじょうかんご)がある。これは『淳化閣帖』の標識の誤りや諸帖の真偽を史書などにより詳しく論考したもの。→中国の書論
東書堂帖 とうしょどうじょう 複数の書人の名跡を集めて石や木などに刻した法帖のこと。単帖(一つの作品を刻した法帖)や専帖(一人だけの筆跡を集めた法帖)に対していう。1416年に朱有燉が「東書堂帖(とうしょどうじょう)」全10巻を編した。  →集帖
搨模 とうも 双鉤?墨は紙に書かれた書蹟を複写する方法で、書の上に薄紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとり(籠字・籠写)、その中に裏から墨を塗って複製を作るものである。この方法による模写を「搨模」(とうも)と称する。
独草体 どくそうたい 一字一字を繋げずに切り離して書いた草書のこと。
禿筆 とくひつ 穂先のすりきれた使い古しの筆をいう。
鳥の子紙 とりのこがみ 和紙の一つ。単に鳥の子ともいい,紙面がなめらかで鶏卵のような淡黄色の光沢があるので,こう呼ばれる。雁皮(がんぴ)と楮(こうぞ)をまぜてすいた和紙。なめらかでつやがあり、淡黄色。
敦煌石窟 とんこうせっくつ 莫高窟は敦煌の街からは約25キロ、鳴沙山の東端の断崖に彫られた石窟群です。伝説によれば五胡十六国時代の366年に鳴沙山を訪れた僧が金色の千仏を見て石窟を作り始めたと言われています(近くの三危山に仏の姿を見て対岸の鳴沙山の断崖に彫ったんだという説もあるそうです)。 地球の歩き方などの日本で買った本によると「492の石窟」が確認されているとありましたが、現地ガイドさんによると、これは壁画や塑像のある石窟の数で、最近では僧が暮らした「僧院も合わせて735の石窟がある」と説明しているとのこと。 莫高窟の石窟の中で、一番古いものとされているのは5世紀前半の北涼期(五胡十六国時代)で、その後、北魏、隋・唐、五代十国、宋、西夏、元と延々1000年に渡って石窟の造営が続いたというから凄いですね。中国の各王朝の美術史が詰まっているような場所です。→莫高窟
敦煌文献 とんこうぶんけん 1900年に敦煌市の莫高窟から発見された文書群の総称である。長らく莫高窟の壁の中に封じられていたものが、道士・王円?(中国語版、英語版)(おう えんろく、?は竹冠に録)により偶然に発見された。唐代以前の貴重な資料が大量に保存されており、その学術的価値の高さより「敦煌学」と言う言葉まで生まれた。敦煌文書・敦煌写本などとも。
中国に於ける印刷術は五代十国時代から北宋代に飛躍的に進歩した。また、印刷時代に入った後も、正倉院の写経に代表されるような古い時代の文物を保存する意識を持ち続ける日本とは異なり、中国では刊本が普及すると、旧来の写本を保存しようという意識は生まれず、やがて忘れられてしまった。それゆえに唐代以前の写本は版本に取って代わられ、清代になるとほとんど存在しなくなっていた。敦煌文献の中にはこうやって遺失した書物・文書が大量に存在しており、敦煌の中から復活した書物は少なくない。



    書道用語辞典

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  は  ()  ()  ()  (
  ま  ()  (む)  ()  ()   
  ら  ()  (る)  ()  (
  や わ  ()  ()  ()    (
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書道用語辞典 さ行 た行







サ行

 語
読み
  説  明
才葉
さいよ
うしょう
平安時代末期に著された書論書。安元3年7月2日(1177年7月28日)、保元の乱で失脚して配流された後に高野山の庵室に入っていた藤原教長が、世尊寺家の藤原伊経に語った書の口伝の内容を後日伊経がまとめたもの。そのため、撰者を教長とするものと伊経とするものがある。現存本は、奥書によれば伊経の子である藤原行能が門人の千代丸という人物(行能の養子となった経朝を充てる説もある)に承元3年5月8日(1209年6月11日)に書き与えた写本が基になっているとされている。ただし、現存本の中には藤原教家が創始して後嵯峨院政の時代(13世紀中期)に流行した弘誓院流に対する批評の一節が含まれており、後世に加筆された部分があるとみられている。全48箇条から構成され、書法に関する実技的な解説を主としているが、当時世尊寺流と並んで行われた藤原忠通の法性寺流に対しては批判的な記述もみられる。これについて、法性寺流の名手とみられていた(『今鏡』第5)教長が同流を批判することについて矛盾とする見方があるが、同流と対抗関係にあった世尊寺流の継承者である伊経が筆記した影響によるものか、保元の乱で忠通と対立した(藤原頼長の側近であった)教長の立場に影響されたものなのかはハッキリとしない
作意 さくい 作品の制作意図。率意に対する語。@ 芸術作品において、作者の制作した意図。創作上の意向・工夫。趣向。A たくらみの心。「別に作意はない」B 茶事書道芸術で、その人独特の自然な工夫を凝らすこと。また、その工夫。作分(さくぶん)。
さばき筆 さばきふで
()鋒がふ糊で固められておらず、鋒全体が散毛状態になっている筆のこと。
三希堂法帖 さんきどうほうじょう 『三希堂石渠宝笈法帖』32巻は、乾隆12年(1747年)に乾隆帝の勅命を奉じて梁詩正(りょう しせい、1697年 - 1763年)らが魏の鍾?から明の董其昌に至る歴代名人の筆跡を刻した。その原石は495石に上る。精刻であり、紙墨ともによい。続帖として、『墨妙軒帖』がある。 三希堂とは紫禁城・内廷西側の養心殿内にある建物の号で、乾隆帝が命名した。その由来は、乾隆帝が王羲之の『快雪時晴帖』、王献之の『中秋帖』、王cの『伯遠帖』の3帖を得て、これを希世の珍宝としてその室中に蔵したことによる。
残紙 ざんし 紙に書かれた文字資料をいう。
三色紙 さんしきし 平安時代屈指の「かな書」の名筆(古筆)である、『継色紙』、『寸松庵色紙』、『升色紙』の総称である。古来、三色紙は古筆中でも最高のものといわれ、色紙の三絶と称されている。ただし、「三色紙」の語が定着したのはかなり遅く、昭和初期頃と推測される。色紙と呼ばれるが、もとは冊子本で、それが分割されて色紙形になった。
三指法 さんしほう 親指と人差し指と中指の三本で筆管を挟んで持つ方法である。他の二本は使用しない。→書法
三跡 さんせき 書道の大御所三人のこと。三筆は各時代にいるが、この三跡ほどの影響を後世まで与えた人物はいない。字は三蹟とも表記する。また、入木道の三蹟(じゅぼくどうのさんせき)とも言う。
三絶 さんぜつ 詩・書・画の3つ揃って優れているものをいう。この他にも3つの優れた要素が揃っているときに使われる
三筆
さんぴつ 日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称であり、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を嚆矢とする。その他、三筆と尊称される能書は以下のとおりであるが、単に三筆では前述の3人を指す。
世尊寺流の三筆(藤原行成・世尊寺行能・世尊寺行尹)
寛永の三筆(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)
黄檗の三筆(隠元隆g・木庵性?・即非如一
幕末の三筆(市河米庵・貫名菘翁・巻菱湖)
明治の三筆(日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六)
  シ・し
自運 じうん 臨書に対し、他人の書を参考にしないで、自分で創意工夫して書くことを自運(じうん)という。
直筆 じきひつ 筆の毛が紙に対してほぼ垂直になるように筆を動かして書くこと。筆を立てて書くことで、穂先が常に線の中央を通るようになり、筆に加えた力が偏ることなく毛の全体に伝わる。そのため、墨が毛全体に均等に行きわたることで書かれた線の両側はまっすぐで綺麗な線になる。直筆で書いた線は細くなるものの、芯のある引き締まった線になる。(・ちょくひつ)
字号 じごう (道号・法号)禅宗において、師僧が修行僧に号を書き与えたもの。号を大書し、偈頌を書き添えて与えるのが一般的で、その偈頌は道号頌(どうごうのじゅ)などと称し、字号の由来や意義を詠んだ漢詩である。師僧が修行僧を一人前の禅僧として認めたときに与えるものであるため、印可状同様に重要とされる。宗峰妙超の『関山字号』、古林清茂の『月林道号』、清拙正澄の『平心字号』、徹翁義亨の『言外字号』・『虎林字号』などがある→禅林墨跡
四指斉頭法 ししせいとうほう 親指を筆管に当てて、残りの四本の指を反対側から当てて、筆管を挟んで持つ方法である。親指と人差し指の上を水平にし、指頭に力を集中する。(全鉤法とも)→書法
字書 じしょ 漢字を分類した辞典のこと。字典(じてん)ともいう。狭義としては部首を設け、字形により漢字を分類したものを指すが、広義としては作詩の押韻のために韻により漢字を分類した韻書を含み、さらには語を集めて意味により分類した訓詁書を含む。(字典とも)
字体 じたい 図形を一定の文字体系の一字と視覚的に認識する概念、すなわち文字の骨格となる「抽象的な」概念のことである。文字は、言語と直接結び付いて意味を表すものであり、その結び付いた意味によって字種に分類される。そして異なる字種は、原則としてそれぞれ異なる字体を有する。例として「かたな」という意味を持つ字(刀)であり、「やいば」という意味を持つ字(刃)である。このとき刃は刀と比較して一画多い、異なる字体を有している。
四体書勢 したいしょせい 漢代の奇字,鳥虫書と呼称された書体の内容をかなり伝え,由来のあるものと考えられ,まったく荒唐無稽な偽造物ではないと思われる。西晋の衛恒《四体書勢》によると,秦の始皇帝がそれまで各地で通行していた書体を小篆に統一した後に,焚書から免がれて世に出た書物があり,それらは古文(おたまじゃくしの形をしているため科斗書と呼ばれる)や策書と呼ばれるもので,その書体は自然現象のように生動する形勢をもっていたという。これと,魏の正始石経(三体石経)の古文・篆書・隷書の三体併記にみられるように,すでにいったんは滅びた古文がこの時期に体系的に復活し流行したことを考え合わせると,魏晋朝・北朝のころには自然の山川草木鳥獣虫魚などの多岐多様なすがたによって,書の美しさをとらえ表現しようとした思想があった。→中国の書論
実画 じっかく 筆によって紙に描き出された点画をいう。空画に対する語。
湿拓 しったく 紙を湿らせて対象物に張り、その後墨をつけてとる拓本。本来の拓本は湿拓のみであったが、乾拓ができたため、その対比として生まれた名称である。間接拓と直接拓という言葉もかつては存在せず、間接的に採るのを拓本と称し、直接採るものは印刷、もしくは版画、押印と呼んだ。魚拓は本来は魚版とか魚印と呼ばれるところ、間違って魚拓と呼ばれるようになった。中国では湿拓は紙を湿らせて対象物の石や金属に貼り付けるが、日本では紙を対象物に貼り付けてから、噴霧器やタオル、刷毛などで湿らせて密着させる。水をつけすぎると紙が破れるが、少ないと密着しない。適度な水をしわなく貼り付けることが重要である。また墨をつける段階である程度乾かさないと、墨が滲んだり、薄くなったりする。
執筆法 しっぴつほう 筆の持ち方である。大字や中字を書く場合は双鉤法にし、小字を書く場合は単鉤法を用いるのが適しているといわれているが、字の大きさに拘らず単鉤法のみや双鉤法のみを用いる人も少なくはない。筆を持つ位置は、楷書を書くときは筆管の下部を、行書を書くときは中程を、草書を書くときは上部を持つのがよいとされているが、これもかなり個人差がある。筆はペンや鉛筆などの硬筆のように斜めに寝かせないで、ほぼ垂直に立てて構え、手に力が入らないように心掛け、上体で調子をとりながら、指と手首を固定して、肘から腕全体を大きく旋回させて肩で書く。また手首の形は「へ」の形にならないようにし、手首を曲げて蛇が頭をあげたような形にする。→書法
字粒 じつぶ 書かれた文字の大きさのこと。
紙背文書 しはいもんじょ 和紙の使用済みの面を反故(ほご)として、その裏面を利用して別の文書(古文書)が書かれた場合に、先に書かれた面の文書のことをいう。 後で書かれた文書が主体となるので、先に書かれた文書が紙背(裏)となる。 裏文書(うらもんじょ)ともいう。
斜画 しゃかく 斜めに書く線で、左はらい、右はらい、左はね、右はねのことをいう。→筆画
写経 しゃきょう 仏教において経典を書写すること、またはその書写された経典のことを指す。写経は、印刷技術が発展していなかった時代には仏法を広めるため、またはひとつの寺院でも複数の僧侶で修行・講義・研究するために必要なことであった。
縦画 じゅうかく 筆画は、横画・縦画・斜画・点の4つに大きく分けられる。横画(おうかく)とは、水平方向(横)に書く線をいう。縦画(じゅうかく)とは、垂直方向(縦)に書く線をいう。斜画(しゃかく)とは、斜めに書く線で、左はらい、右はらい、左はね、右はねのことをいう。→筆画
習気 しゅうき 独創性がなく、左右前人の跡を追うのみの書をいう。
遒勁 しゅうけい 書画や文の筆力の強いことをいう。
柔毫(筆) じゅうごう(ひつ) 柔らかい毛でつくられた筆をいう。羊毛・リスなどがある。剛毫に対する語。
集古録跋尾 しゅうころくばつび 『集古録跋尾』10巻は、1063年、欧陽脩撰。秦から五代までの数百の金石資料を集録し、その考証結果を題跋に記したものである。これによって金石学という分野が研究されるようになった。
秀餐軒帖 しゅうさんけんじょう 『秀餐軒帖』(しゅうさんけんじょう)4巻は、陳息園(ちん そくえん)が万暦47年(1619年)頃に作成した。魏晋から南宋の張即之までを集めたもの。→集帖
集字 しゅうじ 作品を書くときに古典の筆跡から文字を集めて、参考にすること。あるいは、それを作品のように仕立て上げたものを指す。王羲之の集王聖教序と興福寺断碑が代表例。
集帖 しゅうじょう 複数の書人の名跡を集めて石や木などに刻した法帖のこと。単帖(一つの作品を刻した法帖)や専帖(一人だけの筆跡を集めた法帖)に対していう。集帖の起源については種々の説があるが、南唐の李後主の『昇元帖』・『澄清堂帖』が集帖の祖といわれている。以後、数多くの集帖が編されているが、その大部分は行書・草書の書簡である。宋の『淳化閣帖』、明の『停雲館帖』・『余清斎帖』、清の『三希堂法帖』などが著名である。集帖界の王者として君臨する『淳化閣帖』10巻には二王の書が半分の5巻を占めており、法帖の主流は王法であった。明代には多くの名跡が集刻され、顔真卿をはじめ、宋・元の書も刻されるようになった。そして、これらが清の『三希堂法帖』に集大成される。特に明から清にかけて法帖が全盛の時代であり、これを研究する帖学が興って法帖から学書する方法が一般化し、清代中期まで学書の主流になるなど、書道文化の発展に大いに寄与した。また、明の中期から経済的発展を遂げた江南で大収蔵家が出現し、家蔵の名品をもとに刻させた。
収筆 しゅうひつ 点画の終わり。送筆を終えた運筆の終わり。起筆に対する語。(終筆とも)→書法
秋碧堂帖 しゅうへきどうじょう 『秋碧堂帖』(しゅうへきどうじょう、『秋碧堂法書』とも)8巻は、収蔵家の梁清標(りょう せいひょう、1620年 - 1691年)が自身の蔵する陸機『平復帖』から趙孟?『洛神賦』までの真跡から模入した。刻手は尤永福である。内容の良さと精刻をもって著名であり、特に『平復帖』と『張金界奴本蘭亭序』があるので名高い。刊行年は不詳(1660年頃)→集帖
宿墨 しゅくぼく 磨墨によって得た墨汁の古くなったものをいう。
入木口伝抄 じゅぼくくでんしょう 『入木口伝抄』1巻、1352年、尊円法親王著は、尊円法親王が、師である世尊寺行房・行尹兄弟からの学書の口伝をまとめたもの。『入木抄』より少し早く成立したもので、『入木抄』のもとになったと考えられている。年月日入りで記録されているものがあり、それによると、元亨2年(1322年)3月25日(尊円25歳)から正慶元年(1332年)2月10日(尊円35歳)までの記録ということになる。本書の内題に、「世尊寺行房行尹説尊円親王御聞書 入木口伝抄 於青蓮院殿称奥儀抄」とあり、青蓮院においては、別に『奥儀抄』と名づけている。また、奥書には、本書が文和元年(1352年)11月14日(尊円55歳)、行房・行尹兄弟から受けた秘説を元として聞書きを集めたものとあり、続いて尊円と世尊寺家との関係を語っている→日本の書論
入木抄 じゅぼくしょう 『入木抄』1352年、尊円法親王著は、後光厳院のために書いた習字指導書。執筆・手本の選択・手習いの順序など20項目にわたって心得が述べられている。尊円法親王は書流について、「一条院御代よりこのかた、白川・鳥羽の時代まで、能書非能書も皆行成が風躰也、法性寺関白出現之後、天下一向此様に成て」と、世尊寺流から法性寺流への流れを記している
入木道 じゅぼくどう 書道のことをいう。王羲之の筆力が強いため、木に書いた文字が滲み込むこと三分(七分とも)にも及んだという伝説による。
入木道 じゅぼくどう 書道のことをいう。王羲之の筆力が強いため、木に書いた文字が滲み込むこと三分(七分とも)にも及んだという伝説による
淳化閣帖 じゅんかかくじょう 『淳化閣帖』(じゅんかかくじょう、『閣帖』とも)10巻は、太宗の勅命によって淳化3年(992年)に完成した。翰林侍書の王著が勅命を奉じて、内府所蔵の書跡を編したものと伝承されている。王著は完成前に亡くなっているので編者への疑問もある。拓本としては極少数下賜されただけで、初版の原版が焼失したらしいので、多数の再版が後世まで制作された。有名な再版としては明時代に制作された顧氏本、潘氏本、粛府本、清時代の陝西本、乾隆帝による欽定重刻淳化閣帖などがある。
10巻の内容は次のとおりである。
歴代帝王の書(後漢の章帝以下21人)
歴代名臣の書(漢から晋までの19人)
歴代名臣の書(晋・宋・斉の31人)
歴代名臣の書(梁・陳・唐の17人)
諸家の書(古代から唐までの17家)
王羲之の書
王羲之の書
王羲之の書
王献之の書
王献之の書
この集帖の所収は、漢・魏・六朝・唐までの広範囲に及ぶ。ただし、真偽の疑わしいものも含まれているという
潤渇 じゅんかつ 滲みとかすれのこと
順筆 じゅんぴつ 筆の軸を先行させて書く方法。字を書く時に筆の軸を進行方向へ傾けて書くこと。基本的な筆の使い方であり、余程筆を寝かせて書かない限り通常は順筆になる.
潤筆 じゅんぴつ 筆で書画などを書くこと。または渇筆に対する語として、滲みのことにも使われる
じょう もと、木簡・竹簡に対して、布に書いたものの意。料紙を折りたたんで作った折本のこと。法帖の略称。
帖学 じょうがく 中国書道で、法帖(佳書を集めて拓本により仕立てた複製本)で学ぶことの意で、碑学(碑の拓本で学ぶこと)に対しての名称。これを実践する人々を帖学派という。帖学の本旨は王羲之(おうぎし)や米(べいふつ)、趙子昂(ちょうすごう)らの伝統的書法を受け継ぐことにあり、古くから行われたが、ことに清(しん)代に入って碑学と並び盛行を極めた。劉(りゅうよう)、梁(りょう)同書、王文治、成親王らの名家が輩出、巧みな筆に豊かな情感を盛り込んで帖学の花を咲かせた。しかし清代後期になると、金石学の影響で北碑の新鮮な感覚が尊ばれ、帖学はしだいに衰微していった。ちなみに碑学派には篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、楷書(かいしょ)、帖学派には行書、草書の作品が多い。→法帖
帖学派 じょうがくは 日本でも名高い呉昌碩(ごしようせき),斉?(せいこう)(白石)はこの海上派の末流とみなされる。
[書]
 清代前半期,乾隆ころまでは,明代中期以来流行した法帖をよりどころとする帖学派が盛行し,後半期嘉慶(1796‐1820)以後は主として北朝の石刻文字を学ぶ碑学派の活躍が注目される。まず順治・康熙・雍正年間を帖学前期とし,王鐸と傅山2人をその代表とする。
象形文字 しょうけいもじ ものの形をかたどって描かれた文字からなる文字体系で、絵文字からの発展によって生まれたと考えられている。絵文字と象形文字との最大の違いは、文字が単語に結びつくか否かにある。絵文字が文字と語の結びつきを欲せず、その物を必要としたものであるのに対し、象形文字は文が語に分析され、その語と文字とが一対の対応をなす表語文字の一種のことをいう。
象形文字では、文字はもっぱらそのかたどったものの意味を担うが、一般に表語文字では、それぞれの文字が具体的な事物にとどまらず語や形態素を表すことが多い(詳細は表語文字の項を参照)。しかし、漢字における仮借、ヒエログリフなどでの表音的使用など必ずしも象形文字の特徴と一致するわけではないものもまとめて象形文字と呼ぶことが多い。
このような意味での象形文字としては、漢字、ヒエログリフ、楔形文字、インダス文字、トンパ文字などがある。
昇元帖 しょうげんじょう 『昇元帖』(しょうげんじょう)は、集帖の祖といわれるものであるが、早くに亡失している。南唐李後主が徐メに命じて刻させたものである。発行年次は、不詳である。→集帖
章草 しょうそう 漢字の書体の一。隷書から草書への過渡的な性格をもつ書体。前漢の元帝のとき史游(しゆう)が書いた字書「急就章」の書体から出たものとも、後漢の章帝のとき杜度(とど)が章奏(奏上文)に用いたのが始まりともいう。
正倉院文書 しょうそういんもんじょ 奈良県の東大寺正倉院宝庫(中倉)に保管されてきた文書群である。文書の数は1万数千点とされる。正倉院中倉には東大寺写経所が作成した文書群が保管されていた。この写経所文書を狭義の正倉院文書と呼ぶ[1]。今日に残る奈良時代の古文書のほとんどを占めている。紙背文書に戸籍など当時の社会を知る史料を含み、古代史の研究に欠かせない史料群として重要視されている。正倉院には中倉の写経所文書の他に、北倉文書などがあり、これらを含めて(広義の)正倉院文書と呼ぶことがある。ただ、長い間、写経所文書の存在は知られずにいたが、江戸時代後期、1833年-1836年(天保4年-7年)に中倉が開封されたとき、穂井田忠友(平田篤胤に学んだ国学者)によって、まず紙背にある律令公文が注目された。穂井田は、元の戸籍・正税帳などの状態を復元すべく一部の文書を抜出して整理し、45巻(「正集」)にまとめた。正集は、閉封後も曝涼できるように手向山八幡宮前の校倉に収納されることになった。また、正集は写本として流布した。穂井田の整理により文書の存在が世に知られるようになった一方、写経所文書としては断片化されてしまう端緒ともなった。明治時代以降も宮内省などによって文書の整理が続けられ、1904年までに、正集45巻、続修50巻、続修後集43巻、続修別集50巻、続々集440巻2冊、塵芥文書39巻3冊に編集された
消息 しょうそく 手紙のこと。ただし、古文書学では仮名を主として書かれたものをいう。 たよりのこと。 何かに関する情報。 安否情報。 手紙。 ようすのこと。 時が移り変わること。・かなを主とする手紙。尺牘 (せきとく) 書状などの漢文体,またはそれに近い書簡に対する語。
上代特殊仮名遣 じょうだいとくしゅかなづかい 7、8世紀の日本語文献には、後世にない仮名の使い分けがあり、それは発音の違いに基づくというもの。キケコソトノヒヘミメモヨロおよびその濁音ギゲゴゾドビベの万葉仮名は、それぞれ二つのグループ(橋本進吉の命名により甲類、乙類とよんでいる)に分類でき、グループ間で混用されることがない。たとえば、美、弥などはミ(三)、ミル(見)、カミ(上、髪)などのミを表すのに用い、未、微、尾などはミ(身)、ミル(廻)、カミ(神)などのミを表すのに用いている(前者をミの甲類、後者をミの乙類という)。
 このような2類の区別は、漢字音の研究などにより、当時の日本語の音韻組織が後世とは異なっていた事実の反映と認められる。発音上どのような差異があったのかという点では諸説があり、母音体系の解釈についても定説がない。『古事記』には他の文献にはないモの2類の区別があり、ホとボにも区別した痕跡(こんせき)がうかがわれることから、オ段に関してはほぼ各行に2類の区別が認められることとなり、現在の音に近い[o]と、中舌母音の[〓]のような2種の母音が存在したと推定する説が有力である。イ段、エ段ではカガハバマという偏った行にしか2類の使い分けがないことから、オ段と同様に2種の母音の存在を想定する説(甲類は現在の音に近い単母音、乙類は二重母音または中舌母音とする説が多い)には、やや説得力に欠ける点があり、子音の口蓋(こうがい)化と非口蓋化による差異とする説も唱えられている。このような万葉仮名の使い分けは、畿内(きない)では8世紀後半以降しだいにあいまいになり、9世紀にはほとんど失われてしまった。『万葉集』の東歌(あずまうた)、防人歌(さきもりうた)の伝える東国方言では、かなり多く2類の混同がみえる。
上代様 じょうだいよう 書における和様の様式の一つ。平安時代中期に文化が国風化するのに伴い,書も唐様から次第に和様化した。年代的には紀貫之の時代から伏見天皇の時代までの書。漢字,かなともに対象とする。
鐘鼎文 しょうていぶん 鐘・鼎などの古銅器に刻んだ文字。金文。古代、「金」とは黄金色に輝く銅のことも指していたため、銅器に鋳刻されている銘文は「金文」とも呼ばれています。また、銅の礼楽器は鐘と鼎が中心となるため、「鐘鼎文」とも言います。銅器に鋳刻された銘文は、功績や徳行を述べて宗廟に示し、祖先の名を上げるとともに子孫に代々伝えるものであり、史料・実録として確かなものであるだけでなく、漢字の発展史においても極めて貴重な根源とされています。→金文
小篆 しょうてん 中国の秦の始皇帝の時に定められた漢字の統一書体。 しょうてん。秦の始皇帝が、宰相李斯に命じて定めたという、漢字の統一書体。その簡略体が隷書で、漢代に用いられるようになり、さらに楷書体、行書体がつくられ、現在の漢字になる。
条幅 じょうふく 画仙紙の半切にかかれた書画を軸物にしたもの。→堂幅(どうふく)
章法 しょうほう 行の構成のしかた、中心のとり方のこと。また、変化の妙をきわめ、かつ、全体の統一調和をはかることでもある。→書法
青蓮院流 しょうれんいんりゅう 青蓮院流の名の由来は、尊円法親王が、青蓮院門跡であったため。基本、尊円流のことで、尊円法親王が興した書の流派(書流)である。青蓮院流、御家流、粟田流とも呼ばれる。
書家 しょか (書人とも)書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。平安時代、空海・橘逸勢・嵯峨天皇の三筆をはじめ、名家が輩出し、名筆が遺存した。また、"かな"が出現し、"かな"と漢字との調和が日本書道の大きな課題として提示され、これに応じて和様書道が完成された。その完成者は、小野道風である。道風の後、藤原佐理・藤原行成と、いわゆる三跡が相継ぎ、黄金時代を現出した。
書議 しょぎ (書儀とも)758年、張懐?撰。崔?、張芝、張昶、鍾?、鍾会、韋誕、皇象、?康、衛?、衛夫人、索靖、謝安、王導、王敦、王洽、王?、王a、王羲之、王献之の19人を真書・行書・章草・草書の4体に分けて、それぞれに書人を序列した書品論。「1000年間、その妙を得た者は、この19人を越えず、その声聞を万里の遠くに飛ばし、栄誉は百代に擢んでている。ただ、王羲之は筆跡が遒潤で、ひとり一家の美を恣にしている。」という。しかし、王羲之にも長短があるとして、「王羲之は真行は優れているが、草では諸家に劣る。」と言っている。これは『書断』で神品の草書3人の中に王羲之を入れているのと一致しないが、本書は『書断』より30年ほど後に書かれた晩年のもので、見解に変化が見られる。また、本書には六朝における「天然と工夫」の説とほぼ同様な考え方を「天性と習学」という語を用いて表現している→中国の書論 書議
職思堂帖 しょくしどうじょう 清のはじめ、1672(康熙十一)年に江?により發刊された仏道経典の書を編纂. 唐鍾紹京轉輪五經閻立本題名であり、?道夫觀款、韓逢喜跋. 唐歐陽詢臨?庭經?雲、瞿式耜跋、?廷輝鑑定(第三冊)など全8巻である。→集帖 職思堂帖
書契 しょけい 記号としての文字という意。
書後品 しょこうひん 書の品格をランク付けしたもの。『書後品』(『後書品』・『書品後』とも)1巻は、李嗣真撰。『書品』を受け、さらに秦から初唐に至る82人を品第している(書人ランク一覧)。本書中、「古の学ぶ者には、みな師法があった。今の学ぶものは、ただ胸懐に任せて自然の逸気がなく、師心の独往がある。」とある。これはその当時の書風に、伝統的な書風を守らないで勝手気儘な書をかく新しい動きがあり、古人の備えていた自然の逸気がなくなっていることを述べたものである。また、四賢[5]の中でも特に王羲之を丁寧に形容し、書の聖といい、草の聖といい、飛白の仙というなど、最上の賛辞をささげている。王羲之が尊ばれる理由は、一種の偏った書体をよくするのではなく、三体・飛白みな優れているところにある。この調和した円満な書人を高く評価する書論は唐代になってから明確な考え方としてあらわれている→中国の書論 書後品
書写 しょしゃ 文字を書き取ること。学校教育における教科や単元の呼称としても用いられる
女真文字 じょしんもじ 中国の東北部の森林地帯で狩猟生活を送っていたツングース系の女真が建国した金で使用された、独自の文字。金の太祖(完顔阿骨打)が、1119年にまず大字を制定し、20年後の1138年、三代熙宗の時に小字がつくられたという。字形は漢字を模倣し、文字システムは契丹文字を参考にしてつくられたもので、女真大字は表意文字、女真小字は表音文字であり、その両者は併用された。女真文字は、10世紀の契丹文字、11世紀の西夏文字と並んで、漢文化の周辺にいた北方民族が、漢文化の影響を受けながら、独自の文化を持つようになった例として共通してる。 『金史』の中に次のような記載があるという。「金人初め文字無し。国勢日に強く、隣国と好(よしみ)を交わすに、すなわち契丹文字を用う。太祖(完顔阿骨打)、希尹に命じて本国の字を撰し、制度を備えしむ。希尹すなわち漢人の楷字に依り倣い、契丹字の制度に因りて、本国の語に合せ、女真字を製る。天輔三年(1119)8月字書成る。太祖大いに悦び、命じて之を頒行せしめ、希尹に馬一匹、衣一襲を賜う。その後、熙宗また女真字を製り、希尹の製る所の字と倶に行い用う。希尹の撰する所之を女真大字と謂い、熙宗の撰する所之を小字と謂う」。 女真文字も金がモンゴルに滅ぼされたために、使用されなくなり、忘れ去られた。
書聖 しょせい 能書をほめていう言葉で、書道の優れた人をいう。東晋の王羲之と梁の王志は何れも書聖と呼ばれた。
書体 しょたい 一定の文字体系のもとにある文字について、それぞれの字体が一貫した特徴と独自の様式を備えた字形として、表現されているものをいう。基礎となる字体の特徴、およびその字形の様式から導かれる、形態の差異によって分類される。例えば、漢字という文字体系のもとにある書体として、篆書・隷書・楷書・行書・草書の五体に加え、印刷用の書体(明朝体やゴシック体など)がある。これらはいずれも共通の文字集合から生まれながら、時代・地域・目的などにより、その形態を変化させていったものである。
書壇 しょだん 書道界(しょどうかい)とは、書を専門とする者(書家)とそれに関係する者の社会のこと。日本では書壇ともいう。中国語では書法界(繁体字)という。日本では昭和時代から安定した大きな書道団体が創立されたが、それ以降の書家だけによって造られた純粋な書道界を書壇という場合が多い。
書断 しょだん 『書断』(しょだん、『十体書断』とも)3巻は、727年、張懐?撰。上・中・下の3巻で構成され、書体論・書品論・書評論を記述しており、特に書品論は最も完備したものとして定評がある。その書品では、神(最上)・妙・能の3品にランク付けし、書体別に書人のランクを一覧にしている。3巻の内容は以下のとおり。
上巻…十体論(古文・大篆・籀文・小篆・八分・隷書(今の楷書を指す)・行書・章草・飛白・草書の10体の源流を説く)
中巻…書人ランク一覧と書評論(神品・妙品の書人)
下巻…能品の書人の評論
本書のおわりに、全文の「評」があり、神品12人から5人(四賢[5]と杜度)を取り上げて称賛している。「真書が古雅で、道が神明に合してりうのは、鍾?が第一である。真行が妍美で、粉黛を施すことがないのは、王羲之が第一である。章草が古逸で、極致の高深なのは、杜度が第一である。章は勁骨天縦、草は変化無方なのは、張芝が第一である。諸体を精しくすることができるのは、唯ひとり王羲之だけであり、次いで王献之に至っている。」といい、中でも王羲之が諸体を精しくすることができるとして、その最上においている。→中国の書論 書断
書道界 しょどうかい 書を専門とする者(書家)とそれに関係する者の社会のこと。日本では書壇ともいう。中国語では書法界(繁体字)という。日本では昭和時代から安定した大きな書道団体が創立されたが、それ以降の書家だけによって造られた純粋な書道界を書壇という場合が多い。
書道展 しょどうてん 書の展覧会のこと。書展、書作展ともいう。書道団体による公募展や企画展などがある。美術館で開催されることが多いが、2000年ごろからインターネット上での書道展も開催されるようになった。個展や遺墨展も含まれる。
初唐の三大家 しょとうのさんたいか 初唐に書道の名人・大家が多数輩出されたことは古今にその例を見ない。中でも欧陽詢・虞世南・?遂良の3人の大家を初唐の三大家と称し、この三大家に至って楷書は最高の完成域に到達する。三大家はともに江南(長江南岸地帯)の出身で、欧陽詢と虞世南はほとんど同年輩で、どちらも80歳を過ぎてから亡くなっている。?遂良は彼らより一世代若く、父の?亮が欧陽詢の友人で、欧陽詢は?遂良を高く評価していた。虞世南が亡くなったとき、書法の後継者として魏徴が太宗に?遂良を推薦した。三大家は単に書法に優れていただけでなく、学者であり、官僚であった。唐朝の任官の資格には、身(容姿)・言(言語)・判(判断能力)の他に、書(書法)が必須とされており、三大家は政治と文化の交わりの中で高い地位にいた。太宗が即位してから弘文館が置かれ、天下賢良の士を選び、欧陽詢・虞世南・?亮らが選ばれて弘文館学士の称号を与えられた。この職務を授けられることは臣下として大変名誉なことであり、彼らは政府の官僚でありながら、学士を兼ねたのである。弘文館では、書を好んで学ぶ者、書の素質のある者を集め、欧陽詢と虞世南は書法を教授し、ここから多くの能書が輩出した
初唐の四大家 しょとうのしたいか 初唐の三大家に薛稷を加えて初唐の四大家と称す。また欧陽詢は楷書の四大家の一人でもある(他に顔真卿・柳公権・趙孟?)。→初唐の三大家初唐の四大家を参照
書の三聖 しょのさんせい 書道で、最もすぐれた三人、空海・菅原道真・小野道風というが、一般用語ではない。
書品 しょひん 中国,南朝梁の?肩吾(ゆけんご)の著した書論。1巻。後漢から梁に至るまでの書家128人(総序による。実数は123人)を上の上から下の下に至る九品に分けて格づけし,各品ごとに論評を加えたもの。初めに総序,終りに後序を付す。上の上に張芝,鍾?(しようよう),王羲之の3人を取り上げ,〈天然〉と〈工夫〉の両面から比較論評している。その後,唐の李嗣真が《書後品》を著し,張懐?の《書断》も古今の書人を神品,妙品,能品に分けて品等している。書人の優劣上下を品第(ランク付け)すること。→中国の書論 書品論
?肩吾の書論『書品』のこと。→中国の書論書品 (?肩吾)を参照
書風 しょふう 文字の書きぶり、書の趣や傾向をいう。
書法 しょほう 漢字・仮名などの文字の書き方。筆法。ただ北朝末期には一時篆隷の筆法を加味した独特の楷書が流行し,一つの特色を発揮した。南朝の陳から隋にかけて,王羲之7世の孫と伝えられる智永が現れ,王羲之の書法をうけついで多くの《千字文》を書いた。なかでも日本に伝わる真跡本の《真草千字文》が名高い。
書流 しょりゅう 日本の書流(にほんのしょりゅう)とは、和様書の流派の総称である。平安時代中期の世尊寺流から分派した和様の流派が、江戸時代中期、御家流一系に収束するまでを本項の範囲とし、それ以外の著名な書流はその他の書流に記す。唐様は含めない。尊円親王を祖とする中・近世における日本書道の代表的書流。尊円は初め藤原行成を始祖とする世尊寺流を学んだが,さらに小野道風や宋の書風を加えて,流麗豊肥で親しみやすい一流を完成させた。→日本の書流
書論 しょろん 中国の書論〉書論の範囲はかなり広く、書について論じたものすべてを含むが、書体論・書法論・書学論・書品論の4つが主たる部門とされる。また、文字論・書評論・書人伝・書史などの部門も唐代までに出現し、宋代になると、収蔵と鑑賞・法帖・金石文などが加わって書論の部門はほぼ出揃う。これらの部門を単独に、または幾つかの部門を複合して著したのが中国の歴代の書論である。また書論を集成したものとして、張彦遠の『法書要録』、朱長文の『墨池編』、陳思の『書苑菁華』、韋続の『墨藪』などが唐代・宋代に編纂され、書の研究の貴重な情報源となっている。中でも『法書要録』の功績は大きく、古い時代の書論を得るには本書をおいて他にない
日本の書論〉日本最初の書論は平安時代末期の藤原伊行の『夜鶴庭訓抄』とされることが多いが、これは和様の書論としての初で、それ以前に唐様の書論として空海の『遍照発揮性霊集』が存在しており、日本における書論の先駆をなした。『夜鶴庭訓抄』以後、これにならって多くの書論がつくられるようになり、ほぼ同時期に藤原教長の口伝を藤原伊経がまとめた『才葉抄』がある。鎌倉時代には、世尊寺経朝の『心底抄』、世尊寺行房の『右筆条々』などがあり、いずれも世尊寺流の書法・故実を基盤にしたものである。そして、南北朝の尊円法親王の『入木抄』、江戸時代の細井広沢の『観鵞百譚』、幕末の市河米庵の『米庵墨談』、明治時代の中林梧竹の『梧竹堂書話』、訳本だが大正時代に発刊された『六朝書道論』、昭和には比田井天来の『天来翁書話』など多様な書論がある。
心画 しんかく 書の別称。書は個人の精神の表現であり、心の画であるという。楊子雲は『法言』の中で、「書は心画である」といっている。
宸翰 しんかん 天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。
真書 しんしょ 漢字を楷書で書くこと。また、その書体。真字(しんじ)とも言う。 真実を記した文書・書物。 真書/真書き(しんかき)と読む場合は、楷書の細書きに用いる筆のこと。真書き筆。→楷書
真賞斎帖 しんしょうさいじょう 『真賞斎帖』3巻は、大収蔵家の華夏(か か、字は中甫)が嘉靖元年(1522年)に家蔵の『万歳通天進帖』などの優品を刻して刊行したもの。最初木に刻したが火災で焼失し、石に刻しなおした。文徴明が鉤?し、章簡父が刻し、紙墨も精良で、明代第一の法帖との評価もある。上中下3巻の内容は次のとおりである。
上巻…鍾?の『薦季直表』
中巻…王羲之の『袁生帖』
下巻…『万歳通天進帖』
→集帖 真賞斎帖
真跡 しんせき その人が書いたものであると確実に認められる筆跡。真筆。
進道語 しんどうご 師から弟子に、禅の肝要を説いて修行の助けとする言葉、禅の法語、偈頌などの言葉。それは、書かれた文句の心、および筆者の徳に対して、尊敬されたところにある。多くは、茶席の掛物の第一に置かれてきた墨跡の語のことをいう。・師友の間で後進の修行僧に禅の肝要を書き与え、激励したもの。了庵清欲の『進道語』、一山一寧の『進道語』などがある→禅林墨跡 進道語
晋唐の書(風) しんとうのしょ(ふう) 東晋の王羲之や初唐の三大家を中心とした書風を指す。
神道碑
しんどうひ 墓所の墓道に建てる頌徳碑であり、『大久保公神道碑』などがある。大久保公神道碑:日下部鳴鶴73歳のとき、加賀山中温泉で150日を費やして書した。1字の大きさは5cm角で、総字数2919字は我が国最大の楷書碑であり、鳴鶴の最高傑作といわれる。青山霊園にあるが、ここには1万5000の墓碑が立ち、書的に貴重なものも多い。→日本の書道史 神道碑
 〈す〉
隋唐
書風
ずいとう
しょふう
飛鳥時代の書風は、当時、百済で流行していた六朝書風(南朝)に始まり、やがて遣隋使・遣唐使の派遣により直接中国大陸の書が流入し、隋唐の行書草書、いわゆる隋唐書風へと変化していくことをいう。隋唐時代(581−907)も重要な時期の一つにあたります。政治上の統一によって南北各地の書風が合流し、筆法が完成され、楷書が歴代を通じて使用される書体となりました。
垂露 すいろ 筆法の一。縦の画(かく)の下端を筆をおさえて止めるもの。→書法 垂露
墨磨り
すみす
りき
自動的に墨を磨る機械であり、書家などが書作品の製作のために用いる。墨磨機、墨すり機と綴られることも多い。
墨継ぎ すみつ

文の途中で筆に墨を付けること。
 〈せ〉
西夏文字 せいかもじ 西夏王朝(1032年〜1227年)初代皇帝李元昊の時代に制定された、タングート人の言語である西夏語を表記するための文字。長らく未解読であったが、ロシアのニコライ・ネフスキーや日本の西田龍雄[1]によって、1960年代にほぼ解読がなされた。
漢字と、それを作った漢族を強く意識して作成されており、中国人を意味する「漢人」に当たる文字は「小偏に虫」という差別的な構成で表記される。漢字とは異なり象形文字起源ではないため、750余りある[3]各構成要素がどのような起源で作られたのかは未だに定かではなく、要素のあらわす意味が全て解明されている訳ではない。漢字の楷書と同じく、毛筆による筆記に適した、直線と曲げの多い筆画を用いている。毛筆で記す場合には、とめ、はらいなどの筆法も使用される。
正字 せいじ (正字体とも)正規かつ正統な字体で書かれた文字を指す。現在の日本では、基本的に『康煕字典』に載録された字体が正字の基準とされ、日本の新字体や中国大陸の簡体字は、通常正字とはみなされない。 正字の反対概念として、非正規の字体で書かれた文字は、略字・俗字・通用字などと呼ばれる。唐代の字体の規範を記述した字典(字様書)に『干禄字書』があり、異体字を並べそれぞれに「正」「俗」「通」を記述している。「干禄」とは「禄を干(もと)む」の意であり、科挙の試験の基準を示したものとされる。日本の字書にもこれは反映されており、『類聚名義抄』をはじめ多くの漢字・漢語辞書に「正」「俗」「通」あるいは「古」等の字体注記が見られる。清朝に編纂された『康煕字典』に採用された字体は漢字文化圏全体に広まり、字体の標準となっていった。明治以降の日本で活字の標準となった字体(爲、圖、遙など)は、基本的に『康煕字典』の字体を基にしているが、完全に一致するわけではない[1]。そのためこうした日本の字体のことを「いわゆる康煕字典体」と呼ぶことがある。こうして日本では「いわゆる康煕字典体」のことを「正字」ないし「正字体」と言う場合が少なくない。
正書 せいしょ 楷書 (かいしょ) のこと。せいしょほう【正書法】単語の正しい表記のしかた。また、一言語の正しい表記のしかたの体系。正字法。→楷書
清書 せいしょ、せいじょ 1 原稿などを、きれいに書き直すこと。また、そのもの。浄書。きよめがき。きよがき。「レポートを清書する」2 習字で、先生の指導を受けるためにきちんと書くこと。また、その書いたもの。
正体 せいたい (正書体・標準体とも)各時代の正式書体のことである。周代は籀文、秦代は小篆、漢代は隷書、そして六朝時代は楷書が正体に昇格する。金石などに文字を刻するのは永久に遺こすことを目的にしているため、使用される書体はその時代の正体である。行書・草書は正体を速書きするための俗体(補助体とも)として位置づけられ、正体に昇格することはなかったが、隷書の俗体として成立した草書は、逆にそのもとになった隷書に影響を及ぼして行書の発生を促し、行書もまた草書とともに隷書に影響を与えて楷書発生の要因となった。→中国の書道史
尺牘 せきとく 手紙,書翰のこと。牘は幅の広い木簡。中国で,古く書翰は,1尺の長さの木牘,きぬ(帛),紙などに書かれたので,尺牘,尺素,尺楮(せきちよ)などの名があるという。書翰が文学ジャンルの一つとして位置を占めたことは,たとえば《文選》に〈書〉という部類が立てられ,そこに司馬遷〈任少卿(じんしようけい)に報ずる書〉や?康〈絶交書〉などの作品が収められていることからも知られよう。明・清の文人や学者たちについて,それぞれの文集とは別に尺牘集が編まれているのは,書翰の模範文例集としての意味をももった。
石碑 せきひ 人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌の歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。中国では、方形板状の物を「碑」、円形の物を「碣」といい、合わせて「碑碣」という[1]。起源としては、犠牲(いけにえ)を繋ぐための柱、棺を墓穴に降ろすための柱、などの説がある。碑は後漢の中頃から始まり、当初は、碑身の上部に「穿」という穴があり、碑首には「暈」という三筋ほどの虹形の溝があった。後には、穿も暈もなくなり、「亀趺」という亀の形をした台座と、「?首」という竜のような想像上の動物を碑の頭部に浮き彫りにする事が、定型となった。中国の影響を受けた朝鮮でも同じような石碑が建てられた。
世尊寺家 せそんじけ 藤原北家から出た公家。九条流の嫡流であった摂政藤原伊尹の孫行成を祖とする。「三跡」「四納言」として知られた初代・行成以降、代々入木道(書道)の家系として知られ、その流派は世尊寺流として受け継がれた。
世尊寺流 せそんじりゅう 平安時代、藤原行成を祖とする和様書道の流派の一つ。小野道風、藤原佐理のあとをうけて上代様の書風を完成したとされる。書風は、世尊寺様とも呼ばれ、宮廷や貴族などでは最も権威ある書法として用いられた。 藤原行成が晩年、母の里方の代明親王の邸宅に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立し、またその子孫が世尊寺家を名乗り、代々そこを住居としたためこの名で呼ばれた。初代藤原行成から17代を数えるが、1529年(享禄2年)、17代目世尊寺行季没をもって、世尊寺家は断絶し、それにより世尊寺流は断絶した。
世尊寺流の三筆 せそんじりゅうのさんぴつ 世尊寺家初代当主・藤原行成、第8代当主・世尊寺行能、第12代当主・世尊寺行尹の3人は、後世、世尊寺流の三筆と呼ばれた。始祖は行成で、平安時代中期、唐の衰頽にともない遣唐使が廃止され、国風文化の確立によって仮名が誕生した。そして、漢字は仮名に調和させるため、中国書法とは趣を異にした日本的な書法に変化、つまり和様化された。その和様書道の開祖は小野道風、完成者は藤原行成といわれる。中興の祖といわれる行能であり、書道は平安時代中期まで全盛を極めたが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて貴族階級の没落にともなって甚だしく衰微し、和様書は分派してさまざまな書流を形成した。特にこの時期から武士が台頭しはじめ、天下の気風は一時に変わり、惰弱・優美なものから、質実・剛健なものになった。その勇猛な気質は文化面にも及び、上代様(完成者は行成)の端正優美な書風に力強さを加えた関白・藤原忠通の書は法性寺流と呼ばれ、脚光を浴びるようになった。行能以後、世尊寺流は定型化、形式化の傾向が顕著となり、しばらく年とともに衰えてゆくが、そのような中、世尊寺流でも有数の能書である第11代・行房が出て後醍醐天皇の寵愛を受けた。しかし、若くして戦死(自刃)したため、弟の行尹が第12代として家を継いだ。この行房・行尹兄弟は、後に書論『入木抄』の著者として知られる尊円法親王に書法の指導を行い、やがて尊円法親王は御家流を創始するに至る。これについて『入木口伝抄』の奥書に、「応長元年(1311年)、伏見天皇は尊円法親王(当時14歳)に第10代・経尹(つねただ)から入木道秘伝を伝授させようとしたが、経尹は老齢(当時65歳)のため、行尹(当時26歳)に代行させた。(趣意)」とある→三筆
石経 せっけい、せっきょう 古代中国において石碑や断崖に刻まれた儒教や仏教、道教の経典。特に儒教の石経は国家プロジェクトとして作成され、五経の定本および漢字の標準字体を示す役割を果たした。また、仏教・道教の場合は、国家プロジェクトとしての事業ではなく、写経や私版の大蔵経と同様に、個人や一族、集団による修功徳事業として行なわれた。その中でも、房山石経は千年余にわたって継続して行なわれた。
説文 せつもん @ 漢字の成立とその原義とを説明すること。 A 「説文解字」の略。
説文解字 せつもんかいじ 最古の部首別漢字字典。略して説文(せつもん、?音: Shu?w?n)ともいう。後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立し、建光元年(121年)に許慎の子の許沖が安帝に奉った。本文14篇・叙(序)1篇の15篇からなり、叙によれば小篆の見出し字9353字、重文(古文・籀文および他の異体字)1163字を収録する(現行本ではこれより少し字数が多い)。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを解説し、字の本義を記す。現在から見ると俗説や五行説等に基づく牽強付会で解説している部分もあるが、新たな研究成果でその誤謬は修正されつつも、現在でもその価値は減じていない。
説文解字注 せつもんかいじちゅう 清の段玉裁が著した『説文解字注』30巻(段注、嘉慶20年(1815年)刊)は、説文解字に対する注釈の最高峰と言われ、清の訓詁学の到達した一つの頂点として知られている。しかしながら、多数の文献を出典を明記せずに引用し、また誤りもあるので、例えば誤りを校正した馮桂芬の『説文解字段注攷正』など、読解にあたっては副読本を手元に置いた方が良い。『大漢和辞典』の引く説文は段玉裁による変更が加わっている場合があるので注意が必要である。→説文解字
説文学 せつもんがく 字源を討究解説する学問のこと。『説文解字』を祖とする。
前衛書 ぜんえいしょ 前衛的に書かれる書道のこと。 第二次世界大戦後に新しい芸術観に基づいて起こった革命的な書道芸術運動によって開拓された新しい書道の分野。運動の先駆者には主に上田桑鳩や宇野雪村、比田井南谷が挙げられる。 その後、急速に発展し、現在では盛んに書かれている分野の一つになった。 墨象(ぼくしょう) とも呼ばれる。これまでの書道は技法を継承し、古典の再現を指向するものであった。 これに対し前衛は因習や桎梏を打破し人間を解放して生命体としての自己顕現を求めるもの。 文字とは言語性による意思伝達の手段であり、書が書である理由は造形によって訴える造形表象にある。 つまり前衛とは時間と空間との美的構造の上に新しい造形を打ち立てようとするものである。 前衛書道作品とは視覚平面芸術として純粋に造型・線・墨色・余白などの美しさを主張している。
千字文 せんじもん 子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている。南朝・梁 (502-549) の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣 (470-521) に文章を作らせたものである。周興嗣は、皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え、皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。王羲之の字ではなく、魏の鍾?の文字を使ったという異説もあるが、有力ではない。完成当初から非常に珍重され、以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した。
餞別語 せんべつご (餞別偈・送別語・送別偈とも)とは、日本から中国に渡航し、修行を終えて帰る禅僧に師友が餞別として書いて贈る法語、または偈頌のこと。月江正印の『与鉄舟徳済餞別語』、古林清茂の『与別源円旨送別偈』、南楚師説の『送別語』、竺田悟心の『餞別偈』などがある[3][4]。→禅林墨跡 餞別語
宣命 せんみょう 天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。この文体を宣命体(-たい)、その表記法を宣命書(-がき)、また宣命を読み上げる使者を宣命使(-し)、宣命を記す紙を宣命紙(-し)という。
宣命体 せんみょうたい 宣命・祝詞などの文体を宣命体といい、その表記法である宣命書とは、体言・用言の語幹を大きな字で書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは、一字一音の万葉仮名で小さく右に寄せて書く方法である。「を」には「乎」、「の」には「乃」、「は」には「波」などを一定して使っている。ただし、宣命体には2種類ある。助詞なども含めてすべて大字で書かれる宣命大書体と、上述のように助詞などを小字で書き分ける宣命小書体である。
宣命書 せんみょうしょ 「漢字万葉仮名交じり文」と言えるが、その万葉仮名を平仮名に変えると、「漢字仮名交じり文」とほぼ同じになり、これは日本語表記の展開史の上で注目すべき出来事であった。
蝉翼拓 せんよくたく 蝉の羽根のように薄くとられた拓本、もしくは拓本をとる技法。もともと中国では拓本の成り立ちからいって、拓本は濃く採られる傾向があった。それに対して蝉翼拓は、拓本そのものに美しさを見いだした、当時としては異色な拓本である。中国宋代には作られたといわれるが、実際の作品としては明時代中期以降のものが残っている。実際に本当に薄くとるのは難しい技法である。
禅林墨跡 ぜんりんぼくせき
(禅林墨蹟とも)禅林高僧の真跡のこと。印可状・字号・
法語・偈頌・遺偈・尺牘などがある。単に墨跡ともいい、
墨蹟・墨迹とも書く。墨跡という語は中国では真跡全般を
意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限っ
た範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するた
め、近年、後者を多くは禅林墨跡といい、その書風を禅宗
様という(本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す)。墨跡は武
士が台頭した鎌倉時代に中国から伝来した。当時の日本
の書道は、しばらく中国との国交が途絶えていたため和様
色一色であったが、この時期に再び日中の交流が禅僧に
よってはじまり、宋・元代の禅宗の伝来とともに、精神を重
視する自由で人間味に富んだ禅僧の書が流入した。これ
が武士階級の趣向と合致して多大な影響を及ぼし、墨跡
という新しい書の分野が生まれ、日本の書道史上、重要
な位置を占めるようになった。さらに室町時代に茶道が流
行すると、墨跡は古筆切とともに茶席の第一の掛軸として
欠くことのできない地位を獲得し、一国一城をかけても一
幅の墨跡に替えるといった狂言的な風潮も生まれた。特に
江戸時代の大徳寺の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が
遺され、今日ではそれが墨跡の主流となっている
 〈そ〉
草仮名 そうがな 文字数の減少と平行して字体の簡略化が進み、平安時代初期、借字を草書体で美しく表現した草仮名(そうがな)が使われた。草仮名の筆跡として、『秋萩帖』(あきはぎじょう)、『綾地歌切』(あやじうたぎれ)などがある。草仮名は草の手(そうのて)とも呼ばれた。「手」とは筆跡のことである。また、主として借字の一部を用いて片仮名が誕生した。片仮名は平安時代初期の頃より僧侶が経典を読むための訓点として、その行間や余白に記入したのが最初である。小さく書けること、速く書けることの必要性から当初から記号的な性質の強いものだった。平安時代の中ごろになって現在の片仮名に近くなったが、それまではもとの漢字の字形に近いものも多く、筆者による差異が小さくなかった。→日本の書道史 草仮名
草行 そうぎょう 行書の一種。比較的草書に近いものをいう。
痩金体 そうきんたい (痩金書とも)痩金体(そうきんたい)は、楷書の書風の一つ。北宋の徽宗が考案したもので、痩金書とも謂う。その名前のごとく、力強い硬い線でかかれ、金属的な印象(もっとも「金」は「筋」に通じることからの当て字)がある。当時、大いに人気を博し、徽宗も「痩金」と号した。金の章宗もこの書体に憧れ、模倣に努めた。
双鉤填墨 そうこうてんぼく 中国で行われた書の複製を作る技術の一つ。六朝時代から唐代にかけて広く行われたが、模刻の発達とともに衰退した。双鉤?墨は紙に書かれた書蹟を複写する方法で、書の上に薄紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとり(籠字・籠写)、その中に裏から墨を塗って複製を作るものである。この方法による模写を「搨模」(とうも)と称する。 書道では「文字の形」そのものが重視されるため、正確に模写するためには原本を書いた人間と同等の技術が求められる。 その点、双鉤?墨による搨模は特別な技術を要せず、輪郭をあらかじめ写し取るので、熟練すれば真筆と見まごう複製すら可能になる。
双鉤法 そうこうほう 執筆法の一種。二本がけともいう。親指、人差し指、中指の三本の指で上から筆の軸を持ち、下から薬指と小指で筆を支える。楷書のようにとめやはねといった点画がはっきりと表れている書体を書くのに適している。
→書法 双鉤法
像賛 ぞうさん 墨跡<掛軸<茶道の道具<茶道。茶道に関する基礎知識。榜(ぼう) は、木札・立札のことで、僧堂などに掲示する告知のための一種の張り紙のこと。→禅林墨跡 像賛
草書 そうしょ 漢字の書体の一つ。速く書くことができるように、同じく漢字の筆書体である行書とは異なり、字画の省略が大きく行われる。文字ごとに決まった独特の省略をするため、文字ごとの形を覚えなければ書くことも読むこともできないことが多い。実際は隷書の時代からあったが、一般に使われたのはそれから数百年の月日が過ぎてからである。また、書家による違いが大きい場合もあり、例えば「書」という字は楷書体では1通りの書き方であるのに対し、草書体は幾通りかの書き方がある。草書の「草」は草稿などの「草」である。また「草」には「下書き」という意味もある(例:起草)。「ぞんざい」という意味もある。
草聖 そうせい 優れた草書を書く能書をほめていう言葉で、古来より後漢の張芝のことをいう。
宋の三大家 そうのさんたいか 戦乱で荒廃した北宋初期の文化は、五代や十国の人たちによって移入された。第2代皇帝太宗の書道の師の王著と、宋初期第一の書家といわれた李建中は、ともに後蜀からきた人で、『説文解字』を校訂した徐鉉は南唐からきた人である。はじめは唐の模倣による保守的な書風から始まったが、第4代皇帝仁宗の頃から革新的な動きが起こり、顔真卿や楊凝式を基盤とした独創的な書家が生まれた。その代表が宋の三大家といわれる蘇軾・黄庭堅・米?であり、これに蔡襄を加えて、宋の四大家とも称す。
黄 庭堅の書法は、初め宋代の周越 を手本としたが、その後顔真卿 、懐素 、楊凝式 などの影響を受け、また江蘇省 鎮江 の焦山 の岸辺にある六朝時代 の碑文「?鶴銘 」の書体から啓発を受けて、丸みの有る文字が連綿と繋がる独自の草書体 を確立した。明らかに懐素の影響を受けていながら、筆跡の曲折は手厚く懐素のリズムと完全に異なっている。また行書 は洗練されてなお力強くて、独特の創造的書法をもつ。これらの書法は後世に対して大きい影響を与えた。そのため北宋の書道界 の傑出した存在となり、蘇軾と並び評価が高い。また黄庭堅は、詩・書の二つの方面で一流の作品を残した文人で、詩では古典からの数多くの引用や見慣れない用語を使ったりする独特の詩風で、「換骨奪胎(他人の作品の着想や表現を少し変えて自分のものとして作りかえること)」で知られる詩論を確立し、「江西詩派」の祖として後の世の詩人から仰がれる存在となった。
蘇軾 楷書は唐の顔真卿に学んで、雄雄とした筆致をみせ、行書には暢達な風格がある。『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊 5年(1082年)47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節(清明節 の前日)を迎えたときの詩である。縦33cmの澄心堂紙 に行書 で17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化を出している。楷行草をよくし、特に大字に筆力を見る。書の中に人間性を確立し、他人の書を模倣することを排し、技巧よりも独創性を尊んだ。この説は師の欧陽脩 から出て、さらにこれを徹底している。蘇軾は黄庭堅や米?より少し先輩であったため指導的な地位にあり、特に思想的に彼らに与えた影響は大きい。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。蘇軾は顔真卿の革新的な立場を理想とし、黄庭堅と米?はこの考えを発展させた蘇軾は表も裏も一致する人柄で、性格は気骨があり、古い観念に捉われなかった。こうした人格と心理は、中国の封建主義の後期における文人から非常に羨望されるようになり、いわゆる「東坡模範」は中国で800年余りも流行した。
米沛は、書画がうまかった上に鑑識に優れたため、第8代皇帝徽宗 の書画の研究およびコレクション の顧問となり、非常に重く用いられた。その鑑識眼は中国史上最高といわれる。顔真卿・欧陽詢 ・柳公権 ・?遂良 を学び、後に二王らの晋人を深く研究したが、彼ほど古典 を徹底的に研究した者は稀である。彼は名跡を臨模 し、鑑定をし、収集をし、そして鑑賞した書画についての多くの記述を残した。その著録はきわめて科学的であり、今日でも正確で信頼のおけるものである。今日でも王羲之や唐人の真跡を研究する上で最も重要な参考資料となる。三大家の中で彼の書は実力の点で最も優れている。このように彼の書は古法の探求を土台にしているため、品位と規模において南朝や初唐の大家に匹敵し、この後、彼以上の書家はついにあらわれなかった。その書は初め唐 の顔真卿 ・?遂良 を学び、のち東晋 の王羲之 、魏 ・晋 の諸名家に遡って研究をすすめた。「米?に正書 なし。」といわれるように、行書 ・草書 に多くの名品を遺した。→中国の書道史 宋の三大家
宋の四大家 そうのしたいか 戦乱で荒廃した北宋初期の文化は、五代や十国の人たちによって移入された。第2代皇帝太宗の書道の師の王著と、宋初期第一の書家といわれた李建中は、ともに後蜀からきた人で、『説文解字』を校訂した徐鉉は南唐からきた人である。はじめは唐の模倣による保守的な書風から始まったが、第4代皇帝仁宗の頃から革新的な動きが起こり、顔真卿や楊凝式を基盤とした独創的な書家が生まれた。その代表が宋の三大家といわれる蘇軾・黄庭堅・米?であり、これに蔡襄を加えて、宋の四大家とも称す。宋の四大家
蔡襄: 米?書蔡襄仁宗の頃、宋朝第一の書家と称せられ、その書は楷行草の各体をよくし、行書が最も優れ、小楷がこれに次いだ。概して伝統派の本格的な書を書いているが、大字は顔真卿の書風であり、宋の顔真卿とも称された。また、その中に宋代の豪放縦逸な書風の先駆をなすものを含んでおり、蔡襄の出現が後の革新的な宋の三大家を生む素地となった。なお、本来の四大家は蔡襄ではなく蔡京との説もある。
蔵鋒 ぞうほう 逆筆ぎみに起筆して穂先を穂の中に包み込むように送筆する筆遣い。重厚さを表現する。露鋒に対する語。→書法 蔵鋒
則天文字 そくてんもじ 武則天は中国史上ただ一人の女帝であり、今までの慣わしを何でも改めるのが好きな人物であった。彼女が変更しなかったのは服装ぐらいのもので、まず国号を唐から周に変えた。改元は頻繁であり、官職名も変えた。中でも有名なのは、新たに字を作ったことである。彼女は自らの思想と政治力によって、あたかも服を着替えるかのように簡単に文字を変更した。この文字は後世「則天文字」と呼ばれるようになった。例えば「天」の文字は??に改められた。これは「天」の字の篆書体である。もっとも、このように形を変えただけの文字は例外であり、ほとんどの文字は新たに作られたものである。則天文字が何文字あるかはよく分かっておらず、12,16,17,18,19,21個の各説があり、すべての説の文字をあわせると30字前後になる。もっとも、印刷や手書きの都合で異体字となっているものもあり、現在のところは17個説が有力である。則天文字が使われたのはわずか15年間であったが、従来の文字にも影響を与えた。文化財などに書かれた文字を見ていくと、武則天の前後の影響がよくわかる[4]。武則天が退位した705年3月3日[5]、復位した中宗は国号を唐に戻した。則天文字は公式には廃止され、私文書においてもだんだんと廃れていった。現在中国では全く使われていない。もっとも当時の武則天の威光は絶大だったようで、中国国外にまで伝わっている。また、昔からよく文字研究の対象になっている。
側筆 そくひつ 筆を傾け、穂の側面を用いて書くこと。→書法 側筆
送筆 そうひつ 起筆と収筆の間の筆の動きのこと。送筆の用法には直線、転折、曲がり、反りなどがある。→書法 送筆
率意 そつい (卒意とも)手紙や草稿など書作品としての制作意図を持たずに、自己の欲するまま自由に特色を発揮して書くことをいう。作意に対する語。
尊円流 そんえんりゅう 書道の流派の一つで書道の御家流。青蓮院流、粟田流とも言う。藤原行成が起こした世尊寺流から分化し、発展した流派。鎌倉時代の能書家である尊円法親王が立ち上げたため、尊円流という名が付けられた。江戸時代には世間に広まり、御家流と言われるようになった。尊円流から尊朝流や有栖川流といった様々な流派が派生した。
尊朝流 そんちょうりゅう 尊朝法親王が尊円流から、分化発展させた書流で、清原重吉、尊純法親王などにうけつがれ、松花堂昭乗もその影響を色濃く受けたとされる。この流儀の極盛(徳川将軍家の御用書流になるなど)をもって、いわゆる御家流の発生の近因とされる。




    書道用語辞典

  あ  (イ)  (ウ)  (エ)  (オ)
  か  (キ)  (ク)  (ケ)  (コ)
  さ  (し) (す) (せ) (そ)
  た   (ち)   (tsu)   (て)  (と)
  な  (に)  (ぬ)  ()  (
  は  ()  ()  ()  (
  ま  ()  (む)  ()  ()   
  ら  ()  (る)  ()  (
  や わ  ()  ()  ()    (
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漢詩・書道の基礎知識














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