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    書道半切 純手漉 画仙紙 ZX46/100枚入り







書道半紙


o漢字向き
oかな向き
o漢字向き(ポリ入)メール便
oかな向き(ポリ入)メール便
"画仙紙(半切)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
o漢字向き(パック入)メール便
oかな向き(パック入)メール便
"画仙紙(全紙)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
"画仙紙(1.75尺×7.5尺)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
"画仙紙(2尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
oかな向き(加工紙)
"画仙紙(2.3尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(2.3尺×8尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(3尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(3尺×8尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(3.2尺×6尺)
o漢字向き(素紙)
"画仙紙(4尺×4尺)
o漢字向き(素紙)
"書初用紙

画仙紙
(パフォーマンス用特大紙)
"紅星牌
o四尺単宣
o四尺重単宣
o四尺夾宣
o四尺他
o六尺
o尺八屏単宣
o尺八屏夾宣
o尺八屏他
o特寸
"汪六吉
"中国画仙紙
"画仙紙(壁紙)

特殊加工紙(半切)
o染め(無地・金振)
o紋
o柄・ボカシ等
o楮紙(箱入)
o鳥の子(箱入)
o雁皮(箱入)
oその他(箱入)
o写経用紙
o楮紙(箱入を1枚売り)
o鳥の子(箱入を1枚売り)
o雁皮(箱入を1枚売り)
oその他(箱入を1枚売り)

特殊加工紙(全紙)
o染め(無地・金振)
o紋
o柄・ボカシ等
o楮紙
o鳥の子
o雁皮
o染め(無地・金振)(1枚売り)
o紋(1枚売り)
o柄・ボカシ等(1枚売り)
o楮紙(1枚売り)
o鳥の子(1枚売り)
o雁皮(1枚売り)

特殊加工紙(2尺×6尺)
o染め
o柄・ボカシ等
o楮紙
o鳥の子
o雁皮
o染め(1枚売り)
o柄・ボカシ等(1枚売り)
o楮紙(1枚売り)
o鳥の子(1枚売り)
o雁皮(1枚売り)

特殊加工紙(1.75尺×7.5尺)
o染め(無地・金振)
o紋
o柄・ボカシ等
o染め(無地・金振)(1枚売り)
o紋(1枚売り)
o柄・ボカシ等(1枚売り)

特殊加工紙(2.3尺×6尺)
o染め(無地・金振)
o紋・柄・ボカシ等
o染め(無地・金振)(1枚売り)
o紋・柄・ボカシ等(1枚売り)
"特殊加工紙(3尺×6尺)
o染め(無地・金振)
特殊加工紙(1尺×6尺)
o楮紙(箱入)
o鳥の子(箱入)
o雁皮(箱入)
oその他(箱入)

特殊加工紙(1尺×3尺)
o楮紙(箱入)
o鳥の子(箱入)
o雁皮(箱入)
oその他(箱入)

"かな料紙
o半紙判
o半懐紙
o半懐紙(清書用)
o全懐紙(練習用)
o全懐紙(清書用)

"古筆臨書用紙
o練習用
o清書用


"固形墨(呉竹)
o漢字用
oかな用
o青墨
o茶墨
o画墨
o朱墨
o写経

"固形墨(墨運堂)
o漢字用
oかな用
o青墨
o茶墨
o写経
o彩墨
o記念墨

"固形墨(その他)

"墨液(呉竹)
o漢字用
oかな用等
o朱液
o生墨
oメタリック書道液
o布書き用書道液
oパール書道液
"墨液(墨運堂)
o漢字用
oかな用等

"筆(博文堂)
o小筆
o写経
oかな細字
oかな条幅
o漢字細字
o漢字半紙
o漢字条幅
o羊毛
o鼬毛
o書初

"筆(一休園)
o小筆
o写経
oかな細字
oかな中字
oかな条幅
o漢字細字
o漢字中字
o漢字半紙
o漢字条幅
o記念筆

"筆(当店オリジナル)
o小筆
oかな
o漢字半紙
o漢字条幅
"筆(中国)
o定番現行生産筆
o古筆他
o無地(ノーブランド)


"筆(その他)
o小筆
oかな
o漢字細字
o漢字半紙
o漢字条幅
o特殊筆
o羊毛

"筆ぺん
o本体
oカートリッジ
o替穂首

"色紙
o大色紙(白無地)
o大色紙
o大色紙(多当紙)
o大色紙箋(練習帳)
o小色紙
o小色紙(多当紙)
o寸松庵色紙
o寸松庵色紙(多当紙)
o姫色紙

"短冊
o並巾
o広巾
o短冊箋
o多当紙

"はがき
o白紙
o柄入紙
"硯
o端渓石硯
o羅紋硯(中国)
o宋坑硯(中国)
o麻子坑硯(中国)
o若田硯(長崎県)
o赤間石硯
o松花江緑石(吉林省)
o澄泥硯(山西省)
oとう河緑石(甘粛省)
oとう河緑石(陝西省)
o紅絲石(山東省)
o紫金石(山東省)
o歙州石(安徽省)
o澄泥硯(江蘇省)
o玉山羅紋石(江西省)
o黎渓石(湖南省)
o興化石(福建省)
o建州石
o墨池
o一点もの

"書道用品
o折手本
o写経用紙
o水墨画用紙
o和紙
o扇面
o集印帳
o文鎮


o下敷
o筆巻
o水滴
o扇子・うちわ
oカルタ
o巻紙
o一筆箋
o便箋(料紙箋)
o封筒
o料紙箋セット

o収納用品
o表装
oゆび筆
oストラップ
oその他小物

"篆刻用品
o印材
o印泥
oその他


"額・軸類
o軸
o仮巻(半切)
o仮巻(八ツ切)
o額
o半紙・半懐紙額
o色紙額
o短冊額
o大色紙掛
o寸松庵掛
oはがき掛
o姫色紙掛
oうちわ掛
o半紙掛

"書籍
o本

o競書雑誌(バックナンバー)

"日本教育書道研究会用紙
o硬筆用紙

oペン字用紙
"訳あり処分品



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日本の産地 @〜


@奥州白石紙 宮城県
宮城県南西部、刈田郡に属していた町。現在の白石市中央部、東北本線白石駅周辺、白石川中流右岸にあたる。

起り  平安の昔、陸奥紙のことは清少納言や紫式部が枕草子や源氏物語の中で記しています。それによれば、陸奥紙は、ふくよかに、清く、うるわしく、気品のある格調高い紙でありました。宮中の儀式の時に使われる最高礼装の際たとう紙として懐中されたり、香を焚き込め、手巾代わりに用いました。水に濡れても丈夫で、物を書くだけではなく多分に実用性も備えています。
 陸奥紙の伝統は梶の木楮(かじのきこうぞ)を原料とする白石和紙に受け継がれ、江戸時代に伊達政宗公の殖産奨励保護の下に、その臣白石城主片倉小十郎の生産奨励により急速に発展しました。書画用としてだけでなく、紙子(かみこ)、紙布織(しふおり)の二種の紙衣料も産しています。丈夫で夏は涼しく、冬は暖かいという特性を生かして、紙子は江戸時代の庶民大衆の防寒衣服として愛用されました。また、紙の織物として有名な白石紙布織は、公卿将軍家諸大名衆などに夏の礼服として着用されました。
現状 古格を保持して漉き続けられる白石和紙は、国宝修理用紙に指定され、書画用、賞状やカードに、衣装、装幀などに広く愛用されています。また古い紙子型染のために使用された模様を彫刻した板を利用して作られる拓紙は、札入、印鑑入、ブックカバーなどに仕立てられています。
 伊達政宗公以来、継承されてきた白石和紙を『伊達之都』ブランドの商品として、改めて次の世代に送り出します。



2小出紙(小国和紙)    新潟県
新潟県長岡市小国町小栗山
起り  奈良時代には,すでに越後・佐渡から奈良へ紙が納められてい
た。「図書寮解」(正倉院文書)に,「越後から1000枚,佐渡
から800枚の紙が,未納である」という記録がある。また,正倉
院に残る「佐渡国税帳」が雁皮を使った紙であることが報告され
ている。
 平安時代には,地方特産物である紙を納める42国の中に越
後が入っている。紙の名前は,ひとくくりに「越後紙」となっている
が,各地で紙漉が行われいたものと推測される。
 中世には,越後紙に関して二つの記事がある。
 一つは,紙屋荘の存在である。「吾妻鏡」に1186年の越後2
5荘園の一つとして名前が記載されている。紙屋荘は,現在の村
松町,加茂市と考えられており,近世に一大紙産地を形成した
場所である。
 もう一つは,乙宝寺猿伝説である。「中条町の乙宝寺で,猿が
集めた楮を原料に紙を漉き,それに写経した」ことが,「古今著聞
集」に書かれている。中条町は奥山荘に属し,紙屋荘と同様「殿
下渡領」であり,共通する点も多い。
 古代・中世
近世 越後の近世は,小さい藩が分かれて政治を行う体制をとっ
ていた。そのため,和紙づくりも,それぞれの小さい藩領内で行わ
れていた。
現在の村松町と加茂市は,はじめ村上藩,後に村松藩領とな
り,中世期「紙屋荘」と呼ばれた。近世において越後で最も盛ん
な和紙生産地である。村松町では高松,戸倉,大蒲原,川内
が,加茂市では七谷,西山が,下田村では北五百川,大谷地
が,主要産地である。川内紙,大谷地紙,七谷紙などと呼ばれ
たが,ほとんどが加茂の紙問屋に集められたため,加茂紙とも呼
ばれた。
 鹿瀬町と上川村は,それぞれ会津藩領鹿瀬組と上条組に属し
ていた。天正18(1590)年には,両組に紙役が税金としてかけ
られていた。特に,上川村小出を中心とした両郷,大尾,豊実な
どが紙主要生産地であり,小出紙と呼ばれた。
 小国町や栃尾市,見附市は,長岡藩領であった。特に小国町
の小国紙は,加茂紙と並ぶ隆盛を誇った。天和2年(1682)山
野田村庄屋牧野長右衛門の記録に30軒が農間余業として紙
を漉いていたとある。
 高柳町門出,岡田は,近世を通じて領主の交代が多かった
が,幕府領の期間が長かった。門出の場合,宝暦期に頸城郡
伊沢郷から紙漉が伝わったと言われている。
 水田単作地帯の越後において,各藩の領主は,新田開発の
奨励により,藩財政を豊かにすることに一生懸命になっていた。事
実,他県の藩に比べて,越後の多くの藩では,商品作物・特産
物の奨励はあまり行われなかった。したがって,和紙づくりも米穀
生産のじゃまにならない程度に育成すべき産業として,各藩から
認識されていた。その結果,それぞれの藩に育った紙産業もそれ
ぞれの藩の広さに相応した小規模なものとなった。また,藩領域を
越えた大規模な紙産地も形成されなかった。
 村松町* 近代・現代

 明治期は,越後紙の生産が大きく伸びた時期である。大正4
年(1915)の県内の楮収穫高と和紙生産者数が會田隆昭氏
によって次のように報告されている。
 
 大正4年における新潟県の楮生産と紙漉業者
 郡  名楮生産高(貫)和紙業者軒数(軒)  備   考  
 
 岩船郡  7,000     12 
 中蒲原郡   4,000    242加茂紙
 東蒲原郡  4,000     38小出紙
 南蒲原郡  5,000     98大谷地紙
 刈羽郡 17,000    271門出紙,小国紙
 北魚沼郡      ?     31大沢紙
 中魚沼郡      ?    143
 南魚沼郡      ?     69
 東頸城郡 34,000    192松之山紙
 西頸城郡  3,000     19
  県合計 74,000  1,115
 越後の近世領主が米作に大きな期待をしており,和紙業にさ
ほど興味を抱かなかったように,近代の新潟県の産業を担当した
行政もまた,他県に比べて和紙業に重点を置かなかった。隣の富
山県や石川県の県立工業試験場には製紙部門が設けられた
が,新潟県の工業試験場は,一貫して和紙業とのかかわりを持
たなかった。 
 そのような行政の政策的支援のない中でも,越後の山里には
小さいながらも紙を漉く水音が絶えることはなかった。
 現在,新潟県に残る和紙は上川村の小出和紙,湯之谷村の
大沢和紙,小国町の小国和紙,高柳町の越後門出和紙の四
つである。それぞれに個性的な紙を漉く。それぞれに新しい試みに
挑戦している。
 越後和紙の未来は確かに厳しい。しかし,中には若き後継者
が,自らの人生をかけようと,勢いのよい水音を響かせている紙場
もあると聞く。
現状  小国和紙(おぐにわし)は、新潟県長岡市小国地域(旧刈羽
郡小国町)で伝統的に生産されている和紙。農耕地域である小
国地域では、積雪があり農業の行えない冬季の収入源としての
目的を持ち、農業の副業として営まれてきた。
小国和紙は雪を使用するのが最大の特徴である。まず漂白の工
程では雪による漂白力を利用し、乾燥までの工程では春まで雪
の下に埋めておき、雪の重さで水分を減らし、春に近づいた頃に
日光で乾燥させる。雪に埋める工程を「かんぐれ」と呼び、各家で
作られていた頃は家族総出で行う大規模なものであった。
小国和紙は江戸時代かそれ以前から製造されており、明治時
代の初頭には最盛期を迎え毎年800万枚以上が生産されたも
のの、産業の近代化に押され、以降減少の一途を辿る。



B 西の内紙茨城県 茨城県那珂郡山万町

起り  起り歴史は古く、正倉院文書の常麻紙が常陸産の麻紙と推
測されており、古くからこの地に紙漉きが活発に行われていたこと
がわかる。
山万町西野内の細見八郎右衛門が始めたともいい、その名は
水戸光園から地名に因んで賜ったとも伝えられている。
藩政時代は、水戸藩の重要な財源であり、藩は他産地と同じ
く、保護・奨励したが、ここでもまた専売制がしかれ、農民の苦し
みは大変なものであった。
西の内紙の名が知られるようになったのは、藩の御用紙であったこ
とと、江戸商人の大福帳の紙を漉いたからである。この大消費地
の需要を満たすため、盛んになったことは武州の細川紙と共通し
ている。また、ご存じのように江戸は火事とけんかが華とさえいわれ
たが、火事の時、商人たちは大福帳を井戸に投げ入れ、あとで
引きあげて乾かし、また、使用したというほど強敵であり、同じ話が
武州にも伝わっている。
宝永年間に一、六六三戸あった紙漉き戸数は、明治三十一年
には八六三戸となった。これを憂え、復興しようとした人が小室精
作で、明治二十八年、岐阜に行って技術を学び、同年三十年
に大滝善次郎と東雲堂製紙場をつくり、製紙とその技術を教えた
という。この中に先代菊地五介がいたという。小室精作は今日で
も硯産地の大子町(昔の下小川村) の出である。大正二年、
菊地五介は私立製紙改良伝習所を設けるなどし、以後適の内
紙の振興に尽くしたという。
現状 現在、西の内紙の伝統を守っているのは三戸だけであるが、山
万町文化財保存研究会が結成され、和紙の生き残る道を求め
て日夜努力している。
菊地五介、菊地一男、小野瀬角次氏は、昭和四十六年に、県
の無形文化財「西の内紙」 の技術保持者となっており、現在で
もこの三人が日本の美、西の内紙を漉き続けている。



4 細川紙   埼玉県  埼玉県比企郡小川町・同東秩父村
 コウゾを原料とした強靭(きょうじん)な厚い手すき和紙。〈ほそかわし〉とも呼ばれる。和歌山県高野町細川でかつて生産されていた和紙。その後,生産の拠点は埼玉県に移り,比企郡小川町で生産される〈小川和紙〉のひとつとなった。小川和紙は,埼玉県比企郡小川町および,秩父郡東秩父村で生産される和紙である。小川での和紙製造の起源は奈良時代に遡るとされるが,江戸時代に小川を中心とした比企・秩父・男衾(おぶすま)の三郡が和紙の一大産地に発展するのは,江戸が経済の中心地として飛躍してからのことである。各種の紙が漉かれたが代表的な紙は細川紙であった。和歌山県高野町細川で漉かれていた〈細川奉書〉と同質の紙(細川紙)を小川で漉かせるようになったことから有名となる。その後和歌山での生産は途絶し,〈細川紙〉の技術は埼玉のみで引き継がれることとなった。1978年,国の重要無形文化財に指定。石州半紙(島根県)及び本美濃紙(ほんみのし)(岐阜県)と併せて,〈和紙:日本の手漉和紙技術〉として,2014年ユネスコ無形文化遺産に登録された。
起り  細川紙は、埼玉県のほぼ中央部、秩父郡東秩父村及び比企
郡小川町で伝承されている楮(こうぞ)を原料とした伝統的な手
漉き和紙で、その製作技術は昭和53年(1978年)国の重要無
形文化財に指定されています。
当地域の手漉き和紙の歴史は、宝亀5年(744年)の正倉院文
書に武蔵紙の記録が見られることから、1300年以上の歴史があ
るものと考えられています。
その後、中世における状況は明らかでなく、和紙に関する資料が
見られるのは江戸時代になってからのことです。
当時は「大河原紙」あるいは「小川紙」と呼ばれており、「細川
紙」の名称が登場するのは江戸中期のことです。
しかし、「細川」という地名は地元にはありません。
当時、紀州・高野山麓の細川村(現在の和歌山県野町)で
漉かれていた丈夫な和紙がありました。これを受け入れ、細川と
いう名で大消費地江戸向けに生産を始めたことで、この地域は
和紙の一大産地として発展したものです。
現状現在、細川紙の漉き家数は二三戸である。これら漉き家
は、この伝統ある細川紙の製作技術を永久に伝承保有するた
め、昭和四十二二九六七)年七月二十日、「細川紙技術保存
会」を組織し、昭和四十四(一九六九)年六月二十六日には、
小川町教育委員会から「細川紙」が小川町の無形文化財の指
定を受け、同時に、久保田梅吉氏ほか二十二名の万々が技術
保持者として認定された。
また、昭和四十四年八月四日には、東秩父村教育委員会から
「細川紙」が東秩父村の無形文化財として指定され、同時に鷹
野吉造氏ほか六名の万々が技術保持者として認定されて現在
に至っている。また、東秩父村教育委員会では、「細川紙」の製
作に使用された器具などにより、細川紙の製作農家の生活の推
移を知り、この業に対する理解を深めるため、これらの一切の器
具類を収集し、民俗資料として永久に保有する計画を進めてき
たが、昭和四十四(一九六九)年十一月二十八日、細川紙の
工芸技術(無形) と細川紙に関する民俗資料(有形) とを同
時に保護する事業の促進を図ることになり、左記の新機構を発
足させた。
なお、東秩父村教育委員会では、昭和四十五 (一九七〇)
年七月に、これらの民俗資料保存のため、「細川紙手漉用具」
なる印刷物を発刊し、次いで昭和四十六(一九七一)年三月
三十一日に、「細川紙」は埼玉県教育委員会から県の無形文
化財として指定され、久保昌太郎氏ほか二十名の万々が技術
保持者として認定された。
同年三月三十一日にはまた、細川紙民俗資料協会によって収
集された東秩父村教育委員会の所有となった和紙生産用具一
六五点が県民俗資料の指定を受けた。
 昭和五十(一九七五)年七月十五日には、転廃業の万万の
認定解除とともに新たな認定が行われ、現在、県の認定を受け
た技術保持者は計二十名である。
また、この年の九月三日には、その後収集が続けられ五八五点
に達した和紙生産用具および製「肘等が、重要民俗資料として
国の指定を受けるに至った。
さらに、昭和五十三(一九七八)年四月二十六日に、「細川
紙」が重要無形文化財として県から指定され、細川紙技術者協
会が保持団体として認定された。
現状 現在、細川紙の漉き家数は二三戸である。これら漉き家は、こ
の伝統ある細川紙の製作技術を永久に伝承保有するため、昭
和四十二二九六七)年七月二十日、「細川紙技術保存会」を
組織し、昭和四十四(一九六九)年六月二十六日には、小川
町教育委員会から「細川紙」が小川町の無形文化財の指定を
受け、同時に、久保田梅吉氏ほか二十二名の万々が技術保持
者として認定された。
また、昭和四十四年八月四日には、東秩父村教育委員会から
「細川紙」が東秩父村の無形文化財として指定され、同時に鷹
野吉造氏ほか六名の万々が技術保持者として認定されて現在
に至っている。
また、東秩父村教育委員会では、「細川紙」の製作に使用され
た器具などにより、細川紙の製作農家の生活の推移を知り、この
業に対する理解を深めるため、これらの一切の器具類を収集し、
民俗資料として永久に保有する計画を進めてきたが、昭和四十
四(一九六九)年十一月二十八日、細川紙の工芸技術(無
形) と細川紙に関する民俗資料(有形) とを同時に保護する
事業の促進を図ることになり、左記の新機構を発足させた。
なお、東秩父村教育委員会では、昭和四十五 (一九七〇)
年七月に、これらの民俗資料保存のため、「細川紙手漉用具」
なる印刷物を発刊し、次いで昭和四十六(一九七一)年三月
三十一日に、「細川紙」は埼玉県教育委員会から県の無形文
化財として指定され、久保昌太郎氏ほか二十名の万々が技術
保持者として認定された。
同年三月三十一日にはまた、細川紙民俗資料協会によって収
集された東秩父村教育委員会の所有となった和紙生産用具一
六五点が県民俗資料の指定を受けた。
ノ、だって、昭和五十(一九七五)年七月十五日には、転廃業
の万万の認定解除とともに新たな認定が行われ、現在、県の認
定を受けた技術保持者は計二十名である。
また、この年の九月三日には、その後収集が続けられ五八五点
に達した和紙生産用具および製「肘等が、重要民俗資料として
国の指定を受けるに至った。
さらに、昭和五十三(一九七八)年四月二十六日に、「細川
紙」が重要無形文化財として県から指定され、細川紙技術者協
会が保持団体として認定された。





 

5 西島和紙  山梨県南巨摩郡中富町
 
 漢字用、ニジミが強く墨色が美しい。筆に適度な抵抗があり、作者が望む渇筆やニジミが思いのままに表現できる。それは、地元西島で収穫される原料の稲わらを独自の製法で和紙の原料に加工強いるからです。そして故紙を利用して、徹底的に樹脂分が取り除かれた紙と墨の相性は想像以上である。
起り 伝わるところによると、元亀二(一五七二年、望月活兵衛という
人が、伊豆国田方郡立野村(現静岡県田方郡修善寺町) へ
行き、修善寺紙の技を学んできて、今日の西島和紙の礎を築い
たといい、当地には活兵衛の頒徳碑があり、紙祖的存在であると
いう。
活兵衛は、奉書紙、檀紙の類を漉き、当時の固守であった武田
信玄に献上し、これを喜んだ信玄から紙改役を命じられ、西島の
西と元亀二年が末の年だったので、「西末」の紙改印を捺すこと
を許されたといわれている。この判の複製は、現在山梨県の民俗
資料になっている。
天正十(一五八二)年、信玄が滅ぶと、この地は徳川氏の直轄
領となり、製紙業は徳川幕府の保護のもとにますます発展した。
この江戸の中ごろ、従来の楢に代わり、三柾を原料にするように
なった。明治、大正、昭和と他産地同様の変遷をたどりながら、
障子紙、事務用紙を盛んに生産し、第二次大戦後は、三位や
製品の不要になった故紙と稲ワラを主原料とする製紙法によっ
て、「書道半紙」「画仙紙」を製造するようになった。 
現状 手漉き業者は、現在二一で、専従者数一〇〇人、家族労働
者数六〇人、機械漉きは五業者である。ここではまだまだ手漉き
が圧倒的に多い。山々に囲まれ、水にも恵まれ、紙漉き人たちは
誇りをもって紙漉きに精出している。



6 内山紙 長野県   長野県飯山市


起り  内山紙は江戸時代の寛文元年(1661年)に信濃国高井郡内
山村(現在の長野県下高井郡木島平村内山)の萩原喜右ヱ
門が美濃の国で製法を習得して帰郷し、自家で漉いたのが始ま
りと伝えられています。
 また一説には狩りをしながら山を移動して暮らすマタギたちが、
移動中に会得した技術で山野に自生する楮から紙を漉き、飯山
市大字瑞穂小菅の内山地積にあった小菅山修験場(神仏混
淆)に紙を納めて生活の糧としたところから始まったとも伝えられま
す。確かな資料が乏しく起源は不明ですが、名前は地名から名
付けられたもののようです。信濃国高井郡水内郡郷村高帳
 原料となる楮は自生していて容易に手に入ったことから、江戸時
代には広く奥信濃一帯で紙漉が行われていたようで、宝永三年
(1706年)の「信濃国高井郡水内郡郷村高帳」に「紙漉運上
銀二十五匁七分一原」という記載があることから江戸中期には
紙製造が徴税対象の産業だったことがうかがえます。
 奥信濃で紙の製造が普及したのは、豪雪地帯として知られる
奥信濃一帯の農家の冬季の副業として適していたこと、強靱な
障子紙の需要が地元や隣接する越後の国で高く現金収入に結
びついたこと、そして内山紙の特徴である楮を雪にさらすために雪
が役立ったことが挙げられます。
 明治時代に入ると製造方法に改良が加えられ、製造工程での
動力の導入などが行われます。明治42年には製造1130戸、販
売175戸、原料供給1354戸で長野製紙同業組合が設立され
ました。しかし大量生産の洋紙が普及する中で多大な労力がか
かる手漉き製造は生産効率が悪く転業が相次ぎ同組合は昭和
24年に解散します。
 残った生産者が北信内山紙工業協同組合を設立し、350年
余続く伝統を守っています。
現状 飯山の豪雪を生かした内山紙独特の技法『雪晒し』により、雪と
陽光がゆっくりと時間をかけ、楮の繊維を痛めることなく自然な白
さへ変えていくことから、丈夫で日焼けしにくく長持ちする和紙が
生れる。楮100%の手漉き和紙は強靱で通気性・通光性・保温
力に優れ、上質な障子紙として有名だ。
飯山で3代に渡り内山紙を製造している『阿部製紙』では、紙漉
きを体験を行っている。
紙漉きとは、原料となる溶液が入った漉き舟の中で簀桁(すけた)
の上に楮の繊維を流し込み、紙状にする作業。サイズが大きいほ
ど難しくなるが、ハガキなら簡単だという。
内山紙協同組合:飯山市、下高井郡野沢温泉村、下水内郡
栄村で製作





7 越中和紙八尾和紙(やつおわし))富山県 山県八尾町源川原

越中和紙は、五箇山和紙、八尾和紙、蛭谷紙 (びるだんがみ)の三産地を総称である。

起り  天平九(七三八)年の正倉院文書に「越経紙」 の名があり、
これは越前、越中、越後の紙であろうとされており、さらに、宝亀
五(七七五)年の同文書には「越中国紙四百枚」とあって、当時
のわが国の紙産地十四か国があげられている。しかし、最初誰が
漉いたかはっきりしない。
延書年間(九一〇?九二二)には「延書式」に、当時紙を漉いて
いた二十九か国の記録があり、その中に越中紙の名がある。くだ
って天正年間には、八尾の野積、仁歩、室枚、大長谷の四か村
は、京都禁裡御料地であったが、紙や蝮などを租税として納め
た。
元禄年間(一六八八?一七〇四)には、富山に越中反魂丹の
配置業が興り、薬袋紙の需要が増し、八尾山村千軒、紙を
漉かぎる家なし″とまでいわれたという。この需要関係は昭和三
十年ごろまで続く。
現状 楢の白皮はふつう川晒しが多いが、ここでは昔から雪が降ると幾
日も雪で晒す。この厳しい作業の中から自然児のような健康な
紙が漉き出されている。とくに植物染料や顔料、化学染料などを
用いて染めた染紙、工芸品などの八尾民芸紙がつくられているほ
か、型染めによる模様紙の生産も盛んで、箱や袋ものなど、デザ
イン、色、丈夫さ、入念な制作などで注目されている。冨山の薬
袋紙から染紙と和紙工芸品への転換を成し遂げた人が吉田桂
介氏である。現在は二業者があり、十三バイある。





8 越前和紙  福井県   福井県今立町

越前和紙(えちぜんわし)は、福井県、越前市今立地区(旧今立町)で製造される和紙である。 品質、種類、量ともに全国一位の和紙産地として生産が続けられている。 越前奉書と越前鳥の子紙が国の重要無形文化財に指定。

起り  越前和紙の歴史は1500年前に遡り、越前市岡太(おかもと)
地区を流れる川の上流に現れた女神が、村人に紙漉きの技術
を教えたことが始まりとされている。この女神は川上御前として崇
められ、岡太神社の祭神となった。
紙の神様を祀っているのは全国でもここだけという珍しい場所であ
る。
そして、越前和紙は歴史が長いというだけでなく、歴史的に見ても
とても重要な存在といえる。
また、継体天皇(四五〇?五三一)は母と共にこの地にいたが、
武烈天皇没後即位した人で、在位中は百済から五経博士が来
朝し、漢学・仏教が普及し始めた時代である。五三八年に百済
の聖明王が経巻と仏像を送ってきており、この経巻の中に紙のも
のがあるところから、それ以前にすでに製紙法が伝わっていたとも
考えられている。ただ従来より、わが国に製紙法が伝わったのは、
従来、推古天皇の十八年(六一〇)とされ、それは紙に関する
記録として最も古い 『日本書紀』に依っているけれども、それより
さかのぼること百余年前、すでに越前においては紙漉きがなされて
いたと考えられるわけである。
越前和紙は、室町時代から江戸時代にかけて公家や武士階級
の公用紙として使われ、一気に全国に広まっていった。特に「越前
奉書」や「越前鳥の子紙」といった上質な和紙が重用され、越前
奉書には「御上天下一」の印を使用することが許可され、江戸幕
府の御用紙として使われたのである。
越前鳥の子紙は「紙の王にふさわしい紙」と評されたり、桂離宮
のふすま等の紙にも越前和紙が使われるなど、様々な点から越
前和紙の格式の高さが伺える。
『宣胤(のぶたね)卿記』の長享2年(1488年)の条に「越前打
陰」(鳥の子紙の上下に雲の紋様を漉き込んだもので、打雲紙と
もいう)、文亀2年(1502年)の条に「越前鳥子」の文字が記され
ている。「越前鳥子」の文字は他の史料にも多くあり、室町中期
には越前の鳥の子が良質なものとして、持てはやされるようになっ
ている。
元来、公式の文書は奉書紙などの楮(こうぞ)紙が用いられ、鳥
の子紙が公式文書に使用されることはまれであった。
『雍州府志(ようしゅうふし)』には、「およそ 加賀奉書 越前鳥
の子、是を以て紙の最となす」とあり、『和漢三才図絵』には、越
前府中の鳥の子は、「紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久
しきに耐え、紙王というべきか」とある。
出典:wikipedia
また、江戸時代には福井藩が越前和紙の産地を支配していて、
藩の専売として利益をあげ、技術の保護、生産の指導も行って
いた。江戸時代の五箇の塵紙は、『経済要録』 (佐藤信渕) 
に、
檀紙、大鷹、中鷹、小檀、檀縮、五色縮、奉書の大広、御前
広、
大奉書、中奉書、小奉書、五色奉書、紋奉書、黒流、杉原
紙、
鳥子、間似合、尺永、厚物、小杉、小半紙、半切等
と記録されている。そして、福井藩札は日本最初の藩札とされて
いて、これはもちろん越前和紙で製造されており、のちに丸岡藩
札(現在の福井県坂井市周辺)も越前和紙で製造されるように
なった。
さらに、明治維新後初めてのお札の「太政官札」に使われたのも
越前和紙。その後、一旦はドイツ製の紙に変更されたが、明治8
年に大蔵省抄紙局が用紙の独自製造を再開すると、越前和紙
の職人が用紙を漉き、技術指導を行っている。また、現在では当
たり前になっている透かし技法を開発したのも越前和紙で、これに
よって日本の紙幣製造技術が飛躍的に進化した。
昭和15年には大蔵省印刷局抄紙部の出張所が越前和紙の生
産が盛んな今立町(現在の越前市)岩本に設置され、百円紙
幣、千円紙幣もこの地で製造された。
このように、越前和紙には奉書紙や紙幣としての歴史と格式があ
るため、証券や卒業証書などの証書に正式の用紙として使われ
ている。
現状 昭和五十一年、通産大臣の伝統的工芸品指定産地になり、
現在では、手漉き戸数は五十五、うち五戸が兼業である。県無
形文化財の岩野平三郎(三代目)、山崎吉左門の両氏はじ
め、伝統工芸士十九人が中心になって、古来の伝統技法を護
り、その発展に努力している。また、人間国宝だった岩野市兵衛
もここの出であり、長男の市郎さんは最近墨絵用の紙に取り組ん
でいるという。
現在、今立町の「和紙の里会館」には、越前和紙の古文書、古
紙文献、紙漉き道具や現在生産中の和紙製品が展示されてい
る。例えば、現存する越前美術紙の最古稀品「非羽翠漉掛模
様鳥の子紙」(延享年間)や平安時代に漉き始められたという代
表的な模様紙の一つ 「上下打雲鳥の子紙」(地祇に雁皮繊維
を漉きかけて前方に打ち出してつくる)もある。
また、ここには、紙漉き実習設備があり、低廉料金で実地体験が
できる。ただし、十人以上は一週間前に予約する必要がある。
越前手漉き和紙には、次のようなものがある。
●奉書檀紙  木版画用紙  小判烏の子紙類
  クリスマスカード類  証券用紙類  壁紙頬
  日本画用紙  画仙紙
●はがき用紙類  模様小間紙類  免状用紙類
  鳥の子襖紙類  印刷用紙類  装帳用紙ほか





9美濃和紙岐阜県  阜県美濃市蕨生

美濃和紙(みのわし)とは岐阜県で製造される和紙である。
1985年(昭和60年)5月22日、通商産業省(現・経済産業省)により伝統的工芸品の認定を受けた。また、本美濃紙の技法は1969年(昭和44年)4月15日に重要無形文化財に指定されている[1]。2014年11月26日(日本時間27日)には、「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」として、「石州半紙」(島根県浜田市)「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)とともに、本美濃紙がユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産登録として認定された[2]。なお日本工業規格における紙の規格であるJIS B列は江戸時代の公用紙だった美濃紙を元に定めた美濃判に由来している為に国際標準化機構の定めるISO B列とは異なる寸法である(2014年(平成26年)現在の日本ではJIS B列が標準)。
奈良時代、美濃国の国府の所在地(不破郡垂井町)周辺で美濃和紙が作られ始める。
寺尾(現在の岐阜県関市寺尾)で生産される和紙が特に有名で、『和漢三才図会』では障子用の書院紙、包み紙、灯籠用として使用していたと記し、『新撰紙鑑』では徳川幕府御用の製紙職人として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の名を挙げている。
また、寺尾の他にも牧谷、洞戸、岩佐、谷口で生産される物も良品である。当然ながら、産地毎に製紙に使用する水が異なるため、生産された和紙の風格もそれぞれ異なるほか、得意とする種類も産地によって異なった。

起り  美濃の和紙は和紙の総称のように全国に知られているが、その
歴史を美濃市通商振興会の冊子によってみてみよう。
正倉院文書によると、天平九 (七三七)年ごろ、すでに美濃に
は製紙業が相当普及していたと思われ、大宝元 (七〇二年の
美濃国の戸籍用紙は、繊維が均等にからまり、漉きにむらがな
く、優れた溜漉きの楢紙であり、当時の他産地用紙より製紙術
がすぐれていると記されており、製紙の起源は大宝元年より以前
という。
本美濃紙の用途は、京都の書院用紙が中心であり、距僚郡掛
裏村板取川の川晒し(現美濃市蕨生)の洞および島が書院紙
を漉いていたことが、寛政年間以後の年貢の古文書等で明らか
にされている。
単に「美濃紙」と呼ばれるようになったのは、鎌倉時代からであり、
美濃紙の普及は、文明年間(一四六九?八七)ともいわれる。
〈養女奴隷〉
養女奴隷とは、製紙のために少女を幼少時に養子にして、製紙
作業をさせる制度である。戦前の製紙は朝の4時から夜の10時
まで作業する厳しいものであり、しかも製紙業は家族だけの零細
経営が多く、働き手が足りないためにこの制度が生まれたのであ
る。なお、奴隷と言っても、実の娘と区別することはない。もちろん
現在はこの制度はなく、そのために後継者難に陥っている。
現状 明治時代は、美濃紙を代表する紙は書院紙と評価が定まってお
り、明治六年、ウィーンで開かれた万国博覧会に書院紙が出品
され、賞を得ている。明治三十四年ごろから大正十二年が最盛
期で、製造戸数は四、七〇〇戸に達した。それが昭和十五年に
は二、九四一戸となり、うち重要無形文化財の本美濃紙を漉く
家は六〇戸、昭和四十四年には総数二三八戸、うち本美濃紙
を漉く家は二戸となり、同四十九年には五戸となり、昭和五十七
年には二戸となったが、現在は総数四〇戸前後、本美濃紙は、
五戸である。
昭和三十三年ごろから機械製紙工業の興隆に伴い、転廃業が
進み、昭和二十七年に一、一〇〇戸あった手漉き和紙は、昭
和五十七年には五〇余戸となり、現在、四〇前後になってしまっ
た。
減少をくいとめる対策として、昭和三十五年、本美濃紙在来書
院保存会(昭和四十四年、本美濃紙保存会と改称された)が
結成された。また、同四十四年には、本美濃紙の抄造技術が国
の重要無形文化財の指定を受けた。現在、国の重要無形文化
財の古田行三氏がいる。しかし、他紙邪と同様、後継者問題が
重要な課題であり、昭和五十八年四月、「美濃手すき和紙協
同組合」が設立され、手漉き生産者の減少をくいとめる施策がと
られた。
美濃市の中央を流れる長良川の支流板取川の流域に美濃紙
の郷はあり、板取川は公害とは無縁の清流で、山地では雁皮も
豊富にとれる。
良質な和紙「美濃和紙」を得た岐阜では、岐阜の工芸品である
岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜うちわが生まれた。美濃和紙は岐
阜の伝統工芸には欠くことのできない物である。この問屋町は奇
跡的に戦中の岐阜空襲を逃れることができたため現在川原町界
隈として整備され、鵜飼観光などで訪れた人々で賑わっている。







10 黒谷和紙  京都府  京都府綾部市黒谷町

黒谷和紙は京都府綾部市黒谷町・八代町と、その周辺地域でつくられた紙で、良質な楮を原材料として、職人により「手漉き」で、1枚1枚が丁寧につくられる。黒谷和紙は丈夫で強く、長持ちするのが特長である。

起り  平家の落武者が隠れ住み、紙漉きを始めたと伝えられている。
ここには原料となる良質の楢が栽培され、また、昔から風光明媚
で水も清く豊かで、和紙の産地として適している。
十倉治右衛門という人が父子二代にわたり紙漉きを奨励したとい
われ、文助という人が安政二(一八五五)年に京都の越後屋と
契約して、技術を導入したのが、発展への契機となったとされてい
る。
また、明治には堀江徳兵衛、石角活右衛門の両人らが艶付紙
という手拭き絞りの紙を考案するなどしていっそう発展に尽くした。
現状 黒谷は十年ほど前から良紙の産地として知られるようになったが、
現在でも村中が古い抄紙村の形をとどめている。つまり、縁者親
戚でつながっていて結束も固い。こうした条件が純粋な紙を正しく
受けつがせ、わが国でも貴重な存在となった。それゆえ、多くの人
たちは、黒谷の素朴さ、誠実さ、古きに魅せられ、和紙工芸品な
どは受注がさばききれないほどだという。
組合長の中村元氏は、「昔のままの紙がいちばん良い」 という
信念をもち、昔ながらの手のかかる製法で、その伝統をかたくなに
守り、黒谷和紙を導いている。現在、三六軒ばかりで漉いてい
る。
黒谷和紙は、紙衣(紙を主に衣料として用いた名称)てもよく知ら
れるが、その製法は柿しぶやコンニャクのりを用いて柔らかく操んで
強くしてから陣羽織、帯、座ぶとんにする。
        
























起り  
現状





























紙 文房四寳 kami






   The KAMI
 紙の歴史

(1) 紙の発明
従来、中国の後漢の代に整倫という人が紙を発明したとされているが、これは『後漢書』という書に、樹の皮、麻の繊維、古布、魚綱などから紙を作り、察侯紙″とたたえられたことが記録されているのに依っている。
しかし、近年になって、中国では古代遺跡の発掘が盛んに行われ、それよりはるか以前の紙片と推測されるものが多く発見されて、この説も確定的でなくなった。
古代人は、例えばエジプト人のように水草(パピルス)の葉を加工して紙の代わりにしたり、また、アルタミラの洞窟のように洞窟の石壁に絵を描いたり、占いのため甲骨に文字を刻んだりしたであろうことは、今日残っているものから容易にうかがえる。それがやがて陶片、木片、布、獣皮などへ移行していくわけで、中国でいえば周代にいたって畠(絹の布)や木簡、竹筒を使用したことがはっ今日でも経木に商品名や値段などを書いたり、表札に木札を使用しているし、職などには白い布を使用しているわけであるが、その歴史はこんなにも古いところにある。
また、現在でも歴史書のことを「青史」というが、これもこのころの竹筒にその因がある。
当時、上の写真のように、竹筒、木簡は、筒を横に並べて紐で綴っており、これを冊と呼んでいた。この冊という字の形は、まさにこの編綴筒からきているのである。そして今日、書籍を一冊二冊と数、夏のもここからきており、これを巻鮨に使う貨の子のように巻いて使用したところから、菩籍を一巻二巻と数えるようになった。
したがって、私たちが何気なく使っている言葉がこんなにも占い歴史を秘めていることに気づいて驚かれる方も多かろうと思う。
いずれにしても、整倫が紙の製法において大きな功績を残したことは疑いないところであり、中国においては、紙の発明者として左掲のように切手にも描かれている(パピルスや整愉の切手の実物は王子にある紙の博物館にも展示されている)。
しかし、紙の発明以後も、整倫の改良したという紙は、ポロ層の繊維を再製したようなもので、まだまだ一般には普及しなかったらしく、木簡が使われ、わが国でも平城京跡から多くの木簡が出土しており、正倉院には訂正箇所を削るための小刀が多く残っているという。
日本に紙が渡来したのは、推古天皇以前と考えられているが、現在、正倉院に多く残っているのは隔・唐代の紙で、次のようなものがある。
麻紙、黄麻紙、白麻紙、縁麻紙、常麻紙、短麻紙、白短麻紙、
穀紙、標紙、加地紙、加遅紙、梶紙、檀紙、真弓紙、長檀紙、
斐紙、肥紙、荒肥紙、竹幕紙、桧紙、朽布紙、布紙、白布紙、
本古紙、葉藁紙、波和良、波和羅、杜中紙、松紙
これらは、原料に楢、麻、雁皮、ワラ、竹、ニレ、マユミなどが使われていたこともわかっているが、中国のものか、日本のものかはっきりしないものが多いといわれる。
隋・唐代に中国から渡来したと思われる紙として、正倉院宝物書
蹟の調査をされた町田誠之博士は次のようなものをあげておられる
(『和紙文化』思文閣出版)。
茶毘紙、縦簾紙、白麻紀、色麻紙、絵紙・吹絵紙、隋経・唐経、長麻紙、謝公の十色
さらに末・元以降の紙として、次の紙をあげられている。澄心堂紙、蔵経紙、筍箋、側理紙、竹紙、宣紙、雅仙紙、王版箋、煮睡箋、棉紙、白紙、唐紙
隋(五八一?六一八) の紙が正倉院の中にあることから、日本に製紙法が伝わったのは、従来いわれている、高麗の憎曇徴による六一〇年より以前であるというのが通説となっている。
現在でも、中国紙は多く輸入されている。例えば、宣紙。これには藁、竹、桑などから作られる宣紙があり、単量、爽宣、三層紙、煮睡箋、圭版箋、羅紋宣紙、亀甲宣紙、虎皮宣紙、冷金宣紙、蝉衣桟、豆腐桟、雲母桟、傍古箋、壁紙、蝮箋、唐紙、詩箋などの呼び名がつけられている。




(2) 和紙の起源
わが国で、紙がいつごろ作り始められたかはっきりしない。先に述べたように、従来、推古十八(六一〇)年に高麗から憎曇徴が来て製紙法を伝えたといわれてきたが、それは『日本書紀』に、「推古天皇の一八の春三月、高麗王は憎曇徴を派遣した。曇徴は五経を知り、その上よく絵具や紙や墨などを作った」
とあるのに依っている。これがわが国の紙に関する記録としては最も古いとされるために、和紙の始まりを六一〇年としてきたわけである。しかし、この説には疑問がもたれており、和紙の起源はそれ以前だというのが大方の見方である。
越前五箇郷には継体天皇(四五〇?五三一)のころの「川上御前」の伝説があり、川上御前を紙の祖神として岡太神社に祀っているが、この継体天皇のころには、百済から五経博士が渡来し、漢字や仏教が普及し始めており(一般には欽明天皇の十三(五三八)年に仏教が渡来していることになっているが)、この五?六世紀は、写経が布教の一手段として流行したといわれ、その紙を漉く人たちがいたのではないかと推測されるからである。もちろん、写経用紙は、そのほとんどを輸入紙に頼っていたのであろうが。
推古天皇の五九二?五九三年、聖徳太子が摂政となり、名高い「憲法十七条」を紙に書いた。また太子は、勝竃、維摩、法華の注釈書を著したが、そのうち『法華義疏』 のみが現存しており、太子の自筆といわれている。
また、前述の町田誠之博士は、かの有名な王義之の『蘭亭序』が日本の繭紙に書かれていたと、中国の古い記録にあり、わが国の享保年間に撰された 『紙譜』 の序文にも同じ記録があるとされ、この繭紙は「みちのく紙」 (檀紙)であるかもしれないとされる。とすれば、この『蘭亭序』が書かれたのは二徳天皇の四十一(三五三)年であるから、曇徴が製紙法を伝えたとする六一〇年をさかのぼること二五〇年以上も昔に、わが国の檀紙が中国に輸出されていたといぅことになるといい、十分な検討をされた上で、その解釈として、「檀紙は奥羽地方つまり当時の都から遠く離れた地方でつくられたものであるが、多分その土地の豪族などは大陸と交際して、早くから製紙術などは学んでいたのではなかろうか。」(前掲書)とされ、曇徴はもっと優れた製紙術をもたらしたのだといわれる。この解釈が最も自然であろう。
六七〇年には庚午年籍として知られる、大がかりな戸籍作成事業が始められたが、正倉院に、大宝二(七〇二)年の御野(美濃)、筑前、豊前の戸籍の一部が残っており、これが現在わが国で漉かれたことの確かな最古の紙だとjれている。そして、これらの戸籍用紙は、産地によって紙質に差があることも知られている。
また、中央集権政治は、中央から地方への命令、地方から中央への報告等、全て紙をもってなされたと考えられ、紙の需要は莫大なものであったろうと推測されており、紙漉き業は、こうした時代背景のもとに各地方の重要産業として全国的に拡大していったであろうことは容易に肯ずけるところである。


(3)各産地の紙漉きの起こりと現状
それでは、わが国の各地方で、どのようにして紙漉き業が起こり今日に至ったかを、次にみてみよう。
紙漉き業はけっして楽な生業ではない。しかし、その昔に耐えて生み出される手漉き紙は、最も人間的な温かさ、優しさをもち、それゆえに人の心をとらえる不思議な力がある。












日本の産地 J〜




 奈良県
                      奈良県吉野郡吉野町 
国栖紙が一般に宇陀紙と呼ばれるのは、経済交流が活発であった宇陀の紙商人が売りさばいていたからとされている。
この宇陀紙は、掛け軸の総裏紙として使われている。
また、白土を入れて漉いてあるのでやわらかみがあり、虫がつきにくく、丸めても弾力で戻らず、静かにそっと納まるという特徴を持っている。

起り  吉野の紙の存在が一般的に知られるようになったのは、近世徳
川期に入ってからで、伝説によると、「壬申の乱で吉野で兵を挙
げた大海人皇子(後の天武天皇)が国栖(くず)の里人に紙漉き
と養蚕を教えたのが始まりである」と伝えられています。7世紀の初
め、寺院などへ納品するため水に恵まれた大和の国へ伝えたとの
こと。
良時代は、首都の図書寮で漉かれ始めたため、その技術も高か
ったと考えられる。また、平安遷都により京都という大消費地の需
要に応える紙を漉いたが、それは高度な技を必要とする薄紙であ
った。
京都の上流婦人たちはこの紙を「やはやは」と呼んで重宝したとい
われる。この紙は、柔軟で薄いのに強靭なのが特質であった。
もともと国栖紙(くずがみ)として古くから知られていましたが、江戸
時代に大和宇陀町の商人が全国的に売りさばいていたため、すっ
かり宇陀紙(うだがみ)と名づけられ、今なおその名のとおり、表装
裏打紙(うらうちがみ)として、重要な和紙として重宝がられていま
す。
現状 明治の末期までは230戸余りの紙漉く家々があったといいます。
日清、日露の大戦、日中事変、大東亜戦争と男手が取られ、
終戦後はわずか40戸余りとなり、その後、手漉き和紙の伸び悩
みに割箸への転業が多く出ました。こうした状況の中で、奈良県
和紙商工業共同組合を発足し、名声高い吉野の表装用宇陀
紙も本腰を入れて取り組み、現在12戸の紙漉く家がおのおの頑
張っています。後継者も 3戸にできて、張り切っています。
吉野には文化財指定を受けた紙が3種類あります。
・宇陀紙―コウゾを原料に、吉野でしか採取できない白土を混
入して漉いた紙は、表装に用いた時粘りがあり、狂いが生じない
のが特徴です。木灰煮宇陀紙は国宝修理用として使用されてい
ます。
・美栖紙(みすがみ)―同じくコウゾを使用し、漉いた紙をすぐ板に
張り付ける(簀伏せ)ため柔らかく、表装用中裏紙(なかうらがみ)
として欠かすことのできない和紙です。
・吉野紙―コウゾを使用し、美栖紙と同様簀伏せします。ウルシ
を濾すために使用します。
他に草木染め和紙は書道用として使用されています。またスギ皮
和紙も最近人気を呼んでいます。

木灰煮宇陀紙 古代物(文化財の修復に)使用される
宇陀紙 一般的に表装用裏打紙として使用される
草木染各種和紙 灯り工芸品や寿画にも使用。
杉皮和紙 壁紙・インテリアなどに使用
障子 紙障子
柿シブの紙 和紙のハガキ、名刺、便箋、封筒、草木染用箋など




12 名塩紙  兵庫県   兵庫県塩瀬町名塩

名塩紙は、西宮の北部、武庫川上流、名塩川に沿った名塩の里に、越前から抄紙技術が伝わったことから始まったといわれています。
 雁皮に名塩周辺から取れる泥土を混入して漉くという技法により、シミができにくく、変色しないという特長があり、江戸時代には日焼けせず長期保存に耐えることができるため、藩札の地紙、高級な襖や屏風の上張り、下張り用として需要が多く、名塩は「名塩千軒」と称されるほどの繁盛ぶりでした。
 現在では、箔打ち原紙、生漉間似合紙が主な製品であり、独自の技法を守り続けています。
起り  名塩雁皮紙(なじおがんぴし)は、兵庫県西宮市の塩瀬町名
塩地区で製造される和紙である。地元特産の岩石の微粉末を
添加することや、手作業による入念な原料処理、溜漉による抄
紙、板干しによる天日乾燥などの各工程に大きな特色がある。
虫食いや日焼けに強いため、薄手のものは箔打紙や屏風の下
貼り用に、厚手のものは藩札用として利用された。
本願寺八代目蓮如が宗教上の争いを避けて越前より名塩に移
り、数行寺(名塩御坊)を建立した折、紙漉きの技を伝えたとい
われている。
以後、江戸時代後期には、泥入鳥の子という独自の境地を開い
たこともあり、名塩千軒といわれるほどの繁栄ぶりだった。明治以
降は、箔打原紙とふすまの下張り用の間似合が主力製品とな
り、昭和初期ごろまでは二一〇軒余りの手漉き業者があった。

兵庫県西宮市の北端、名塩川に沿った山間の集落である。かつ
ては「名塩千軒」と呼ばれるほど紙漉(す)きの盛んな土地だったと
いうが、現在、残るのは2軒のみとなった。その1軒が谷徳製紙所
である。
現状  名塩に紙漉き技術が伝わったのは、1600年頃といわれる。米
作に向かない寒村、名塩村の東山弥右衛門という若者が越前
(現福井県)へ出向き、苦心の末、越前の紙漉き技術を持ち帰
り、さらに名塩でとれる泥土を混ぜて漉くという名塩特有の技法を
開発した。その良質の紙は大いに珍重され、名塩は紙漉きの村
として栄えた。名塩紙漉きの始まりについては、諸説あるが、当
時、紙漉きのような生産技術は門外不出であり、他所者がそれ
を習得することは至難の業であった。水上勉はこの話に想を得て
「名塩川」という小説を残している。
 和紙の三大原料は、楮(こうぞ)、三俣(みつまた)、雁皮(がん
ぴ)である。それぞれの特長について、民藝運動を起こした柳宋
悦は次のように表現している。
 『武士のように強壮な楮』、『官女のように典雅な三俣』、『王
妃のように気高い雁皮』

 「名塩紙」は王妃のように気高いといわれる雁皮紙である。近
辺の山中に自生する雁皮に、やはり周辺で採掘される凝灰岩か
ら取る泥土を混入して漉かれる紙は光沢があり、きめが細かく、
書画用紙の「鳥の子紙」として、水墨画や大和絵を描く襖紙「間
似合紙(まにあいがみ)」として大いに好まれた。泥入り間似合紙
は、虫がつかず、燃えにくく、湿度による紙の伸び縮みがなく色褪
せもしない、という特質を持つ。
●名塩紙の特長は、次のとおりである。
@ 原料に雁皮を使用し、それに泥(凝灰岩を水に溶き、その浮
遊する微粒子)を混入すること。したがって、日焼けせず、火
燦に強く、虫が食わず、長期保存に耐える。
A 男子が座って漉く座漉きであること。
B 流漉き的溜漉きであること。
種類としては、現在、間似合紙、名塩烏の子、箔打原紙の三
種。
間似合は、入れる土の種類、紙の大きさ、原料の違いによって、
さらに多種に分けられる。生漉間似合と断らない限り古紙を九
〇%以上入れて、漉き返している。
名塩烏の子は、入れる土の量がきわめて少ない生漉と呼ばれる
雁皮一〇〇%の極上質紙である。
箔打原紙は雁皮一〇〇%。土は東々保土と呼ばれる白土を間
似合よりやや少なめに混入する。これは一種のみで、石川県金
沢市に送られ、灰汁、卵白、柿渋などで加工され用いられる。
金箔圧延用には、名塩の紙以外は用をなさないという。






13 因州和紙  鳥取県    
          鳥取県東部(旧因幡国)特産の和紙である。

旧青谷町と旧佐治村(いずれも現在は鳥取市に編入)が生産地で、特に書道や書画・水墨画に用いる画仙紙(因州画仙紙)の生産量は日本全国の6 - 7割を占め、日本一である。ほかにも近年は建材や工芸材料など多用途に用いられている。
和紙としては日本で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されたほか、生産地の紙漉きの風景は日本の音風景100選(環境庁)に選ばれている。また、「因州佐治みつまた紙」と「因州青谷こうぞ紙」は鳥取県の無形文化財に指定されている。
起り  今からおよそ一〇五〇年前の「延書式」に、朝廷へ紙麻七〇
斤が献上された旨の記述があるところから、因州紙の起源は十
世紀の前半以前と推測されている。
因州、すなわち昔の因幡国であるが、ここの青谷町に山根という
地名があり、因州紙は別名「山根紙」ともいう。そして、現在でも
この地に山根和紙資料館がある。
ともあれ、この因州紙の起こりについては、次のような話がある。
寛永五二六二八)年、美濃国から全国を巡錫していた旅僧が
青谷町大因州製紙協業組合付属 山根和紙資料館
河原に至り病床に伏す身となった。河原村の鈴木弥平が手厚く
看護したところ、旅僧の病は回復した。旅僧はそのお礼にと、当
時、他国に教えることを固く禁じられていた御法度の新しい紙漉
き法を弥平に教えてまた旅へ発っていった。以後、鈴木家は「美
濃家」と呼ばれ、旅僧弥助の冥福を祈るため小さな碑を建ててい
たが、昭和十二年に村人たちによって立派な「因幡紙元祖碑」 
が建てられた。
いっぼう、八頭郡佐治村のほうは、用瀬町家奥は越前から、佐
治村加瀬木は播磨から技術を導入したとされている。家奥では
元禄(一六八八?一七〇三).の初めごろ、松尾弥左衛門が奉
書など越前系の技術を習得、さらに正徳五年(一七一五)年、
谷垣弥左衛門が越前から製法を導入したといわれている。また、
加瀬木は、享保十一(一七二六)年、西尾半右衛門が皆田紙
の技法を導入したといわれている。
藩政時代にはいると、因州紙は、ときの鳥取藩主亀井弦矩二五
八〇?一六一二) の殖産政策に取り上げられ、藩の御用紙とし
て年年盛んとなり、御朱印貿易として海外(ルソンやタイ)にまで
進出したといわれる。
ちなみに、寛永十四(一六三七)年の鳥取藩の在万御走に杉
原紙について次のように値段が記されている。
大はば広  米納四斗八升七合
奉  書  同三斗
明治二十(一八八七)年、高知県から吉井源太を招き、紙漉
き、原料栽培の指導を受けた。同四十二九〇七)年、因幡紙
同業組合が設置され、製品の統一、販売方法の改善が行われ
た。
大正になると、機械漉き模範工場の設置、三位の栽培などが行
われた。
昭和にはいり、洋紙の進出によって大きな打撃を受けたが、戦時
中はいずこも同じく物資不足のため盛んとなった。この混乱期を終
えた昭和二十五年五月一日、山根因州紙工業協同組合が設
置され、以後、国庫補助金などもあって、機械化、作業場、工
業用水導入を図り、ついに昭和三十九年には、鉄骨平屋建共
同仕上工場(五〇坪)が完成した。
以後、紙漉きの人たちの努力により、昭和五十年五月には伝統
的工芸品産業振興法により、国から伝統的工芸品として指定さ
れた。
純情で素朴な村人たちの真心を、一枚の薄い紙に漉く、それほと
りもなおきず、日本の美・魂を漉いていることでもある。昭和初期
の民芸運動をリードした柳宗悦も因州紙を高く評価し、昭和六
年の鳥取民芸会推薦の因幡紙頒布会の趣意書に、「よい紙に
は不思議な魅力がある。質が与へる喜びである」と書いている。
現状 昭和三十四年には、一、二七四戸であった手漉き業者は、昭和

十二年には五〇戸となり、うち専業は四七戸であった。現在、因

和紙青谷協同組合に属す業者は二七である。これらは、工場、
会社、
協業組合であり、うち会社名二協業組合名二、他は工場名とな
っている。また、山根和紙資料館には
紙 布
@生活用品   五四二点
A儀式宗教関係 一〇三点
B装飾展示具  一三点
C玩具類    二二八点
D室内用具   一〇三点
E文具     二六点
F印刷物    二一点
Gその他    三〇四点
の一、三四〇点と、書籍一、四〇〇冊が収蔵されている。






14 出雲民芸紙 島根県

出雲民芸紙 島根県那加貝郡三隅町・島根県松江市八雲町
起り  島根県大百科事典によると、出雲和紙の起こりははっきりしな
いが、天平9年(737)の正倉院文書『写経勘紙解』に出雲の紙
を指すと思われる記録があるから、天平(七二九?四九)年のこ
ろ、すでに出雲では紙が漉かれ、一定以上の技術水準にあったと
いう事であろう。
江戸にはいって、寛永一五(一六三八)年、松江松平藩祖の松
平直政が入封し、各種の産業奨励を行ったが、その中にこの紙
漉き業があった。そして、越前国から紙漉き人の中条善左衛門を
招き、松江郊外の野白に御紙屋を設けて紙漉場と居宅を与え、
紙を漉かせた。続いて直政の子、近栄が、広瀬町字祖父谷に松
江藩の工人を移住させ、御紙屋とした。 八雲村はこの祖父谷紙
の技術が江戸中期に伝えられたものである。
これ以後、松江藩では乃白をはじめ木次などにも御紙屋と呼ぶ
藩首の製紙場を設けて、振興につとめた。出雲には昔から良質の
雁皮、楮、三椏があり、また、水も清らかで豊かであったところから
よく知られる良い紙を産した。
現状 八束郡八雲村東岩戸に四戸、能義郡広瀬町に一戸、飯石郡
三刀屋町で一戸漉いている。主な製品は、封筒、半紙、画仙
紙などであるが、ここには「出雲民芸紙」(雁皮紙)で知られる人
間国宝故安部榮四郎氏がいた。国の重要無形文化財に指定
されているのは、個人では安部一人で、安部氏については多くの
書が出版されている。残念なことに
に亡くなってひさしい。
ここには安部榮四郎記念館があり、雁皮、三位、格、芭蕉、青
雁、皮紙、各種染紙、特許紙などの安部榮四郎抄造出雲民
芸紙が多数、そのほか、屏風、軸巻物、団扇、茶碗、陶板、皿
など安部榮四郎の作品が多数収蔵されている。その他、紙に関
するものが多く集められている。この記念館について氏は次のよう
に書いておられる。
各地に民芸館、工芸館、博物館、民芸美術館等の名称が多い
が、この記念館は、生活文化につながる紙?を中心に収めたも
ので、歴史的にも変遷の時代であった明治・大正・昭和の七十
余年の間に私が創作したもの、千五百種に及んでいる。在来の
紙から古文書のように純粋な質を生かしたものまで、いずれ
も時代の生活の向上にそってつくり出したものばかりである。
また、私のこれまでの人生に多大な影響を与えた柳宗悦、河井
寛次郎、浜田庄司、棟方志功、芹沢鎧介、バーナード・リーチ
各氏との深い交誼を通して集めることのできた数々の美術・工芸
品・資料等も合わせて収めた。
何年も前から、これらを永く保存することを各方面の人達から勧
奨されていたが、多くの意見も聞いたので、この度、記念館の建
設に踏み切った次第である。館の名称も、素直に 「安部榮四
郎記念館」とした。(記念館発行パンフより)





15 石州半紙  島根県  島根県浜田市三隅町

石州和紙(せきしゅうわし)は、島根県の西部、石見地方で製造される和紙である。重要無形文化財、伝統的工芸品、ユネスコ無形文化遺産(石州半紙)の指定を受けている。
紙質は強靱でありながら肌触りは柔らかく、その紙質から障子紙として多く用いられていた。しかし近年は家屋建築の構造の変化により障子紙が用いられることが少なくなったため、文化財修理、書道用紙、賞状の用紙をはじめ様々な用途に用いられるようになっている。
現在は島根県浜田市三隅町を中心に製造されている。
現在、事業所は4件あり、石州和紙協同組合にて管理・運営している。
起り  石州半紙とは、石州の浜田藩、津和野藩で漉かれた半紙の総
称であるが、いつごろ誰が始めたかは定かでないという。寛政十(一
七九八)年刊の 『紙漉重宝記』 に、
「慶雲和銅の頃、柿本人麻呂石見の国の守護たりしとき、
民をしてこの製を教え漉しむるよりこの職をこの地に伝う
る事久し、されば周防の山口大内氏代々相伝して和漢通路
の名家たり、よって本朝の紙上品なることを知って唐土よ
りこれを乞う。大内氏これを許諾し、石長防の三州にお
し、え、これを漉しめ、彼地へ渡すにより大に悦びこれを
質せし事書に伝えて詳なり」

との記述があり、人麿を石州の製紙の始祖とする人もいる。しか
し、それ以前に石州紙があったことは知られており、人麿は製紙の
発展・振興に尺くしたというのが真相に近いとされている。
また、石見地方は朝鮮半島に近いのでもっと古い時代(4,5世紀)
に朝鮮から直接伝わったのではないかという有力な説もある。
歴史的に石州半紙がその基礎を築いたのは現地の資料によると、
江戸時代にはいってからである。津和野・浜田の両藩は、藩財源
の重要な産物として保護奨励したが、津和野藩では坂崎出羽守
の入国後のころいちはやく肥後、豊後から良質の楢苗を取り寄せ、
品質改良を進め、浜田藩では長州首が適すると判断し、これを取
り寄せ、資金のない者には貸付、植付をした者には褒美を出すなど
して増産に努めた。
全国の他産地同様、ここでも紙は専売制の下におかれ、その厳し
い統制のため逃散した話も伝、えられているが、そうした歴史を中に
蔵しながら、元禄十二六九七)年に大阪に出された両港の紙は合
計二〇〇〇貫で、大阪市場の一七%を占めたという。
明治にはいり、さらに紙漉き業は盛んとなり、同二十七年には紙漉
き戸数は六、三七七戸にもなった。
現状 洋紙の生産が増大するにつれ、各産地同様、手漉き和紙は衰退
の一途をたどり、昭和十五年には六四四戸、同二十三年で二七
九戸、同四十年には六〇戸となり、これを憂えた人たちが昭和三
十四年四月、石州半紙保存会を結成した。同四十二年に名称
を石州半紙技術者会に改め、組織の充実強化を図った。その結
果、同四十四年四月十五日、石州半紙は国の重要無形文化財
に指定された。

現存、伝統を誇る石州半紙を守るため、石州半紙技術者会七人
 (会
長 久保田保一) が日夜研讃を重ねている。
石州半紙の製造は、
  @ 楮を原料とすること
  A 流漉きであること
  B 「ネリ」にトロロアオイを用いること
である。原料の楢は石州椿を使用する。

石州半紙の伝統的寸法は、たて二五センチメートル、よこ三五セ
ンチメートル。
昭和五十五年の生産状況は、事業者数八、従業者数二六人、
製造品出荷額五、〇七〇万円で、事業所数および従業者数で
県全体の五〇%、出荷額で四二%を占めている。また、五十六
年の生産額は四、九二八万円であった。
石州半紙の特質は、微細で強敵、鮮麗で品格があり長期保存に
も耐えるところにあり、その色彩はほのかな萌黄、茶色を帯びた半
透明な色をしており、幽玄な趣がある。
その昔、大阪町人はこれを帳簿に使い、火事のときは井戸に投げ
入れて難を逃れたといい、同じことが武州の細川紙の里でもいわれ
ているが、それほど強敬であったということである。

石州半紙技術者会の会員によってつくられる製品には、次のよう
なものがある。
◎石州半紙
 石州産の椿のみを原料として、伝統的な製法によって漉かれた
 和紙である。
 銘柄には稀(上級品)、鶴(普通) があり、稀は主として記録
 紙、版画紙、書道紙、写真紙などに、鶴は、書道紙、障子紙、
 梁紙、
 張紙(神楽面)、ちょうちん紙、傘紙などに用いられている。

◎加工 紙
 石州産の椿を主原料とするが、光沢、書きやすさ等、製品の
 用途に応じた特徴を出す」め、雁皮や三位を入れ漉いた紙で
 ある。
 封筒、葉書、色紙、梁紙、画仙紙、和紙人形などの加工品
 に用いられる。

◎そ の 他
 枝の部分等、品質的に劣る楢を原料として、作業も簡単に漉
 きあげたもの。
 ふすまの裏打紙、神楽の蛇胴に用いられる。

現在、七人の会員中、六人が専業である。出荷先は県内で、地
元問屋四人、松江一人、浜田二人、県外では、京都三人、大
阪一人、福岡一人である。会員の老齢化に伴い農閑期等を利用
した操業なども模索し、後継者づくりにも努めている。努力が実るこ
とを期待したい。




16 阿波和紙  徳島県

徳島県吉野川市、那賀郡那賀町、三好市池田町

起り  徳島県の手漉和紙の歴史は古く、奈良時代に忌部氏が作っ
た紙が朝廷に献上されたという記録があります。 平安時代、京
都に図書寮が置かれ官製紙が漉かれているが、この頃、紙を上
納する国は40数ヶ国もあり、もちろんこの中に徳島も含まれてい
ました。 天正13年(1585年)蜂須賀家政が入国し、産業振興
に努め、産業の4木として楮(こうぞ)、桑、茶、漆を定め、特に楮
(製紙業)を保護奨励しました。この奨励策により、川田の製紙
業は益々盛んになり、尺長紙、中川紙、伊賀紙、仙貨紙、七九
寸紙、黄煎紙など阿波手漉和紙の声価を広く天下にとどろかせ
ました。 紙漉き 明治維新以後は消費生活の変化にともない紙
の需要は激増し、明治中期には製造戸数は250戸を数え、最盛
期に入っています。明治18年にはじめて製紙同業組合を設立
し、経営の合理化をはかりました。また、販路開拓として、シカゴや
パリの万国博覧会、内国博覧会などへ典具帳紙や骨皮紙(コピ
ー紙)などを出品し、賞状や進歩賞などを授与されています。

阿波和紙       しかし、大正時代に入り大量生産の機械製紙に
対抗できず、ついには市場からしめ出され、明治44年の222戸の
製造戸数が大正10年には159戸となり、昭和3年には40戸に減
じ、今日では専業は1社となっています。 この1社は昔ながらの技
法を継承し、阿波手漉和紙の伝統を守りつづけ、昭和45年には
徳島県無形文化財に指定されました。 昭和51年、阿波和紙は
経済産業大臣が指定する伝統工芸品に指定されました。
現状 阿波手漉和紙商工業協同組合として主に三者が継承して業務
を行っているようである。
伝統を唯一継承する山川町に、(財)阿波和紙伝統産業会館
が平成元年5月に誕生しました。阿波和紙の啓蒙と継承を目的
とした運営は、地道な活動にもかかわらず多くの方に愛され評価
されています。 特に、内外からのアーティストを受け入れての作品
制作の援助事業、毎年夏に行なわれる阿波和紙の技法を伝え
る手漉き和紙の研修事業や徳島県内の小中学生を対象にした
「デザインはがき展」などの展示事業は多くの称賛と熱い感動を
生み出しています。

いろいろな和紙
手漉き和紙、加工紙、透かし入り、漉き込み、藍染和紙、染紙
などがあります。 手漉き和紙手漉き和紙 昔ながらの「流し漉き」
と「溜め漉き」の技法を使って、職人が1枚1枚丁寧に漉いてい
る。「耳」と呼ばれる、手漉きならではのランダムな四方を生かして
さまざまな製品に用いられる。

加工紙加工紙 後染めした和紙に、にじみ止めのコーティング剤を
施す「ドーサ引き」や耐水性を持たせる「こんにゃく引き」、和紙を
2枚に貼り合わせて強度を持たせる「貼り合わせ」をして制作す
る。

藍染和紙藍染和紙 藍染めは人工的な染料と違って、藍一色で
その濃度を変えることによって柄を作り出していく。藍液に浸す時
間や回数によって色が微妙に変化することから、熟練した職人の
技を要する。

染紙染紙 出来上がった和紙を後から染める「後染め」の技法の
中に「揉み染め」や「板締め染め」「雪花染め」「藍染め」などがあ
り、それぞれの染めに豊かな表情を持つ。

透かし入り透かし入り 道具に型紙を貼るとその部分だけ薄くな
り、透かし模様となる技法を用いて、ロゴやトレードマークなどをは
がき・便箋に入れたり、校章を卒業証書に入れたりして使用され
る。

漉き込み漉き込み 和紙の主な原料以外に麻や木材パルプなど
を混ぜたり、透かし模様を入れたりして、違った風合いを持つ紙
は、阿波和紙の特徴の1つとしてさまざまな試みが行われている。

阿波和紙の製品と加工品
画仙紙、工芸紙、包装紙、障子紙 はがき、名刺、色紙掛、コ
ースター等





17 伊予和紙 愛媛県川之江市・伊予三島市
起り  愛媛県社会経済研究財団編の 「産業文化振興計画−伊
予三島・川之江地域−」 (昭和五十七年三月)によって、伊
予紙の歴史をたどってみよう。
伊予紙の発祥地は、大洲・宇和島地方であり(この地域は次項
に「光湘和紙」として取り上げる)、その歴史は古いが、同じ伊予
でも宇摩地方の川之江市・伊予三島市の製紙の歴史は新し
く、確かな資料は残っていない。
森実善四郎の 『紙と伊予』 に、
「宇摩地方の製紙は宝暦年間(一七五一?六三) に嶺南の奥
地泉貨紙を開発した泉仕居士の頒功碑と墓石
にかくれて、豊富な水と、自生する格を伐って、誰かが紙を漉き始
めたという伝承があるが、どこで、誰が漉いていたかということは、
今のところわかっていない。あるいは、松山付近から伝わったとも、
また土佐から伝わったともいわれているが、それとて裏づける資料
は何もない。」
との記述がある。当時の社会状況はどうだったか。
@ 宝暦年間、すでに宇和島・大洲各藩では、製紙は藩財政
の重
要財源として、藩の保護・奨励のもとにあった。
A しかしその反面、非常に厳しい統制下にあった。
B 農家の副業として紙が漉かれていた。
C 当時、宇摩地方は、天領、今治藩領、西条藩領が複雑に
混じ
っていた。
D 伊予の国でも数多くの天災・飢饉が発生し、それと相前後し
て、百姓一揆・逃散など、の農民騒動が起こった。
右のような状況にあり、この時代、伊予・土佐の各藩では、例え
製紙の技術があっても、大びらに紙が漉けず、また、利潤の大半
を藩に吸収される紙の専売制が強力に行われていた時期であ
り、いっぽう農民の生活といえば、相次ぐ天災、飢饉と、藩の厳し
い統制に疲弊していた時期であった。ゆえに、天領である当時人
跡未踏の嶺南の奥地にこもって、自生する格を伐り細々と紙を漉
いていたというこのような伝承があったとしても、納得できるのでは
ないだろうかという。また、土佐藩から伝わったとする伝承について
は、土佐藩は当時、すでに日本有数の紙の産地であり、その土
佐藩の参勤交代の通路であった宇摩地方は、土佐との人々の
往来が多かったことが考えられ、土佐からも厳しい専売制から逃
れてきた人々がいたのではないかと思われる、としている。
宝暦の中ごろに、村松村大師付近で、高橋家、川之江村井で
篠原家、川滝村長持で川井家などが、それぞれ紙屋を始めた。
これが宇摩地方の製紙の元祖といえる人たちであるといわれる。
そのころ、製紙戸数は五戸で、これが安政年間には一〇戸、明
治元年には二〇戸と増えていった。
慶応三二八六七)年十月の徳川慶喜の大政奉還により、時代
は急転換し、宇摩の製紙も、わが国の代表的な紙産地としての
第一歩を踏み出した。宇摩地域において、慶応から明治にかけ
て製紙に活躍した人に、和紙製造に宇摩郡上分村(現川之江
市上分町)出身の薦田篤辛、原料の移入供給に三島の石川
高雄、製品の販売に三島の住治平がいる。この三者の協力が
宇摩地域の製紙の隆盛の一因であった。
しかし、業者の増加に伴い、この協調体制も難しくなり、明治三
十四年、この三人に川之江の谷井久太郎らが加わって業者を勧
誘し同業組合を組織した。さらに同三十九年、重要物産同業
組合法によ(日三角乾燥機械つけ風景(下)蒸煮用平釜
る組織に変更し、同四十年「伊予紙同業組合」を組織した。初
代会長には薦田篤平が就任した。
以来、同組合は、施設の建設、製品の検査による粗製の防止
などに努め、新しい宇摩地域の製紙を県下第一の生産地とする
ことに大きな役割を果たした。その後、宇和産紙同業組合、大洲
産紙改良同業組合が生まれ、つづいて愛媛県紙同業組合連
合会が組織され、昭和十四年には、愛媛県立工業試験場製
紙部が川之江市へ移転し、翌昭和十五年、県立製紙試験場
が完成し、製紙の技術・製品開発の研究が行われることとなっ
た。
現状








18大洲和紙    愛媛県
愛媛県喜多郡五十崎町・東宇和郡野村町



起り  平安時代、京都に紙屋院が置かれ、四十カ国から公用紙上
納があった記録が 「延書式」 にあり、その中に大洲和紙も含ま
れており、また、正倉院文書にもあるところからその歴史は相当古
い。
国東治兵衛の 『紙漉重宝記』 (寛政十年刊) には、
「万葉の歌人 柿本人麿岩見の国の守護として紙渡の技を起し
その技たちまちにして伊予の大洲に伝われり」
とも書かれている。
史実としては、五十崎町の杏林寺にある過去帳に、無心に紙を
漉く高田ナミヱさん
「善之進なる憎、生国は越前の福井城下近在、大洲領平岡村
にて死す。大洲領紙漉の元祖なり。自然とよき紙のできることぞ
妙なり」
と書かれており、その墓標に
「宗昌禅定門 大洲領紙漉師越前国人 元祓十五二七〇
二)壬午五月十八日」の彫書があるところから、この人が大洲和
紙の元祖とされている。
しかしこれとて、元禄より前の寛永年間、五十崎町の上村に住ん
でいた土佐の浪人岡崎治郎左衛門(上村に墓がある)を、大洲
藩主加藤泰輿が召し抱え、御用紙を漉かせていたと伝えられ、
寛永三 二六二六)年には、庄屋や豪商が利益を余り、百姓一
揆が起きており、宗昌禅定門が来る以前に紙漉き業が存在した
ことは明らかである。
大洲藩では製紙を藩の財源とするため、宝暦十二七六〇)年に
紙役所を内子におき、楢役所を五十崎においてこれを統制し、
難波の地に移出し、大いに藩財政に役立った。しかし、農民への
統制は厳しく、それに反発する農民の抵抗は激しかった。
大洲藩では明和八二七七一)年に専売制をしいたが、中止、実
施を繰り返さざるをえなかった。
ことに、北宇和郡の北半地域を占める吉田藩では、宇和島藩と
同じく専売制をしいたが、紙商の法華屋に独占販売を認めてい
たことや紙方役人の不正により、ついに農民の怒りは爆発し、寛
政五二七九二)年、九、六〇〇人に及ぶ暴動が起こり、家老安
藤儀太郎は農民たちの前で自殺をとげ、専売制は崩壊した。

現状 明治末期に業者四三〇名だったが、洋紙・機械漉きに押され、
終戦時には七四名となり、現在町内業者はわずか五名となって
いる。
しかし、ここには日本一の手漉き工場である天神産紙工場があ
る。大正初期に井口重衛氏が創業したが、当時、二十五糟で
あったという。現在は十五糟である。戦時中は軍の命令により気
球用の爆弾紙を漉いたが、現従業員のうち十名はその経験者と
いう。
機械文明に抗いながら和紙を愛し手漉きの技を護る人たち。ここ
の従業員四十名中二十三名が五十崎町指定無形文化財であ
り、うち七名は国および県指定の伝統工芸士の認定を受けてい
る (昭和五十九年一月現在)。それぞれ三十年以上の経験を
もつ熟練者である。
製品は、書道用紙、障子紙、表装用紙、色和紙、美術紙など
であるが、なかでも書道用紙は優れているといわれている。
また、この天神産紙工場の沼井淳弘社長は、大洲和紙会館を
建設天神産紙工場した。
大洲和紙の歴史を知るための資料展示、全国の和紙展示即
売、紙漉き体験室などの設備も整っており、昭和五十八年十二
月十日オープンした。「大洲和紙のすぼらしさを体で感じとってもら
えたら」というのが、沼井社長の会館建設の趣旨である。
同会館の人気は手漉き体験コーナーで、通産大臣指定の伝統
工芸士らが紙漉きを指導してくれ、自分で漉いた紙は乾燥機に
かけて持ち帰ることもできる。
体験料は一人五〇〇円。また、小学生らチビッコでも漉ける小
型の紙漉き道具もあり、便箋大の和紙を漉くことができ、人気を
集めている。
国指定伝統工芸士には、平野ヨシさん、上田フサ子さん、五十
崎町指定無形文化財・大洲和紙技術保持者には、高田ナミヱ
さん、沼井久子さんら、六十歳前後の万々がおられる。
昭和五十二年十月この大洲和紙は、その品質と技術を認めら
れ、「通産大臣指定伝統的工芸品」 となったが、ここまでくるに
は、こうした万たちの紙漉きへのたゆまぬ努力があったことを忘れて
はならない。










19土佐和紙高知県
吾川郡伊野町・土佐市高岡町・ほか全県内で行われている。


起り  醍醐天皇(八八五?九三〇) のころ、「奉書紙」「杉原紙」を
献上した記録が 「延書式」 にあり、また、紀貫之 (八六八こ
ろ?九四六)が、延長八年に土佐の国司として入国し、製紙業を
奨励したと伝えられている。そのほか、一条教房による中村地方
への伝来説、さらに、伊予の土井太郎左衛門による幡多郡北部
への伝来説などもある。
江戸時代に至り、天正年間(一五七三?九一) の末期、安芸
三郎左衛門家友が伊予の新之承▲から製紙の技術を学び、土
佐七色紙を創作し、幕府への献上品として藩の保護・奨励を受
け、土佐の主要な特産物として発展させたという。こうして家友
は、土佐紙業発展の最初の基礎を築いた。
また、ここでも専売統制と紙漉き農民の措抗がつづき、ついに平
紙自由販売の権利を農民たちが勝ち取ることになり、それがさら
に増産へとつながっていく。そして、吉井源太が典具帖紙・三柾
改良半紙などを創出し、製紙用具の改良にも力を注ぎ、土佐紙
業発展の確固たる基礎を築くことになる。それを支えたのは、水の
豊富さ、良質の石灰、格など原料の豊かさという天然の立地条
件であったろう。
現状 優れた先達に恵まれた土佐紙業は、今日紙業王国として発展し
ているが、全国各産地同様、時代の変化により手漉き和紙の需
要は漸減した。しかし、一〇〇〇年も昔から漉かれてきた、この
優美な手造りの白い紙は、見るだけで人の心をなごませるものが
あり、ふたたび他産地同様人気をとり戻している。
和紙王国といわれるだけあって、県庁には全国唯一の紙業課が
あり、県紙業試験場、伊野町立製紙研究所、若い紙漉きたち
の土佐和紙研究会などもあり、和紙を守る体制がてきている。

現在、地図に見るように、手漉き工場は土佐市に二十九、吾川
郡伊野町に十五で、計四十六で中心を占め、ほかの十四工場
を入れて五十九工場あり、和紙生産柚は全国トップである。ま
た、原料の楢、三位を栽培しているところが、九カ所あり、全国の
和紙産地へ移出している。
ここで漉かれている紙の種類は次のとおりである。
@障子紙・楕紙・表具用紙
障子紙・襖裏打紙・横紙・泉貨紙・須崎半紙・活帳紙・奉書
紙・
エブ紙・タコ紙二千陀紙・三栖紙・四ソ判紙・大唐紙・提灯紙・
典具帖紙
A書道紙・絵画用紙
画仙紙・書道半紙・毛筆用巻紙・改良半紙・かな用半紙・木版
画用紙・銅版画用紙・石版画用紙・日本画用紙・水墨画用
紙・
写経用紙・文化財修復用紙
B染紙・美術紙・その他
染紙・草木染紙・板〆紙・雲竜紙・楢皮入紙・雲芸紙・八幡
紙・
春木紙・色典具帖紙・鳥の子紙・青土佐紙・図引紙・三種紙・
雁皮紙・謄写版原紙用紙・金和紙・銀和紙
C加工品
はがき・封筒・便箋・色紙・短冊・和綴帖・ブックカバー・財
布・名刺・巻紙・大福帖・レターセット・もみ紙
現在、土佐典具帖紙や土佐活帳紙は国の無形文化財(記録
選択)
に指定されており、昭和五十一年十二月には「土佐和紙」の名
称で、
土佐の手漉き和紙全体が国の伝統的工芸品として指定され
た。
また、製紙用具を製作する全国手漉和紙用具製作技術保存
会(会
長古田要三) が選定保存技術の保存団体に選定されている。
こうして、高知県の手漉き和紙は製紙原料、製紙用具、手漉き

紙業者が一体となって、和紙の振興発展に努め、伝統を守って
いる。







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