墨(2) 墨の歴史と種類 墨の歴史
中國の墨の歴史
●殷周時代
墨は、研磨されることによって、生命を発揮するものである。したがって、初期のものを確認することはきわめてむずかしく、墨で書かれたものによって、その実在を探るということになる。
「墨」という文字は、漠時代の許懐という人の 『説文解字』という書物によれば「墨は書する墨なり」と書かれ黒の字は「火の燻ずるところの色なり」と続けられています。「黒」 の字の四点は火を示している。
今日において文字として最古のものとされるものに甲骨文字というのがある。これは、その名の示す通り獣骨や亀の甲に穴をあけ、深い切りこみを入れ、穴の部分に熱を加え表面に亀裂が入ると、それによって吉凶を判断するというならわしがある。その占った内容、結果をそばに割りつけたのですが、この甲骨片の中に朱や墨で書かれたものが見える。これは恐らく割るまえに、下書きをしたものでないかと推定されている。
また殷墟といって、当時の帝王の墓より墨で書かれたと思われる陶器に、墨書きのものとみえるものが発見されているが、それらがどのようなものであったかは、今日では、明らかではない。
発掘による考古学が盛んになり、一九五一年以後中国のあちらこちらで、様々なものが発見されたが、この中に戦国時代のものと推定される竹簡・帛書などがあるが、記録の主体は、竹簡であったであろう。したがって、竹簡用の墨が発掘されることであろう。しかし、出土の書画は、いずれも墨や彩色で見事なもので「墨」が確認されている。しかしながら、その墨がどのようなものであったかということは、幻の状態である。
●漢時代
墨がどういう原料で作られ、どのような型のものであったか。これは一番興味のあるところであるが、中国で1975年に発行された『文物』に江陵鳳凰山168漢墓より出土したものとしての円石硯・磨石・墨片が掲載されていますが、貴重なものであり、これが発見された時には、そばから墨書さされていない木棚があったと報告されている。
漢時代は、木簡・竹筒などにすでに墨書さされたものが多数発見されていて、墨があったことは間違いない。
この当時の墨がどのような形のものであったかは、発掘の硯を照査すればわかることである。
大正五年(1916)、朝鮮の楽浪郡址の古墳発掘が行われた時に熊脚三個の円形の石硯(直径一三・二センチ)や墨を磨るのに用いられたと思われるものが発見され、昭和六年には、同じところから硯箱をともなう硯が発見されている。これによって、第一には、小硯というのが特徴で、きわめて少さなものであったということである。
この『文物』掲載の墨を見てもその様子はうなずける。
この当時の硯は、墨池のない平面なものであったが、大きさは小硯という点で共通している。硯があって、墨が小さかったということで磨る時に、補助用具を用いたことが推定される。
漢時代の『東宮故事』には、「皇太子が初拝する時には、香墨四九を給する」と書かれ、宋時代の『宋稗類紗』には、「魏晉の時に至りて始めて墨丸あり。すなわち漆烟松煤を爽和してこれを造る。晋人の凹心硯を用いるわけなり。墨を磨し藩墨汁を貯うるのみ。これより螺子墨あり。また墨丸の遺製なり」とみえる。
この記録で"丸"というのは、小さくまるめた球状をあらわし、湖南省長河から筆とともに発見された小竹筒は、墨を入れたものとの報告されている。竹簡が主体であった時代には、筆も墨も大きなものは必要でなく、竹簡に携帯して持ち歩いたと蒼う蔵される。
漢時代には、筆も発見されている、小硯・小墨・小筆の時代であったとされている。
では、その原料は、どのようなものであったか。宋時代の晁貫之の著した『墨経』に、「古は松烟・石墨の二種を用う。石墨は魏晉より以後聞くことなし。松烟の製はひさし。漢は扶風・?糜・終南山の松を貴ぶ。蔡質漢官儀に曰く、尚書令の僕、丞、朗月に?糜の大墨一枚、小墨一枚を賜う」とある。ここには原料が松煙であったとされている。江陵鳳凰漢墓出土の墨も松煙だったと報告されているので合致する。
漢時代になると紙が普及するようになり、必然的に文字も大きく書かれるようになり、墨丸では間にあわなくなり、硯を用いて磨すようになったと考えられる。それによって墨の型も球状から把手に向いた長方状になっていった。しかし、その形で出土されていないので、推量の範囲のものである。
●三国・南北朝時代
三国時代の魏には韋誕(179−253)があって、文も書も上手だったといわれているが、この人に「もし張芝の筆、左伯の紙と臣の墨を用い、この三具を兼ね、また臣の手を得て、しかる後に径丈の勢いも方寸の千言も得るべし」と書き残した上奉文がある。自分の書が優れているということと同時に、自分で作った墨の良さを付け加えているのである。
韋誕は、製墨家としても当時名があったので『墨経』という書物の中に、製墨のことについて述べているのである。この製墨法については、北魏時代の賈思懿の著した 『斉民要術』にもみえる。
三国時代には優れた書があり、ことに敦煌石窟から発見された写経に見られる墨色からは、首都となっていた洛陽を中心に大量の製墨工場があったとみられるのである。
●唐・五代時代
唐時代に日本に伝わった墨は、中国と朝鮮製でどちらも似た形で正倉院に保有されている。正倉院には、この時代のものが十五挺ばかり保有されていて、このうち十二挺は船形で、三挺は円筒形である。
これらは聖武天皇御用品で、この時代は松煙で主に易州・歙州で、中でも易州は唐時代の製墨の中心地で、ここの墨を「上谷墨」といっている。このことは、「墨経」にも記録されている。
この墨は、三〇センチあまりもある墨で、このまま使ったのでなく切って用いたのだろうと推定さる。墨を数えるのに丸といい、漢時代の形も球状でないかと思われる墨丸の名残りとも考えられる。
中国の詩人の李白(701−762)の詩句に大獵賦(卷一(一)六一)に「蘭麝凝珍墨,精光乃堪?。」とか、《酬張司馬贈墨》前半首云:. 「上黨碧松煙,夷陵丹砂末;. 蘭麝凝珍墨,精光乃堪?。」とあるが、前者は、名墨には麝香を入れて固め、上党は産地で山西省の東南部にあり、今日の長治市である。
六朝期、王羲之により書家の評価、地位も飛躍的に上がり、多くの名士が出現する。そして、それは、唐時代になると墨匠という墨造りの名士を産むのである。
代表的な人としては、祖敏・奚?・奚超・奚起・張遇・陳贇・李陽冰・李慥・王君得・奚廷珪などがいる。李陽冰は唐時代の代表的な書家で蒙書の名手として知られている。『城陛廟記』などの名作があり、優れた書家は、墨造りに並々ならぬ関心と意欲を持っていたことを示すものなのである。墨匠のほとんどが易水に居住している。しかしながら、唐時代の製墨の中心地であった易水地域は乱世となり、墨匠たちは南唐の欽州に移り住むようになった。ここは、もともと墨の名産地として知られているところだったのである。奚超という人がもっとも進化させた人といわれ、さらに奚廷珪が進化発展させたのである。
歙州という地は、?山の松、羅山の松、黄山のしっかりした松などあり、硯の産地である歙州県は、宋の宣和三年(1121)徽州と改称し、以後"徽墨"の名をもって呼ばれるようになるのである。
南唐の李後主は奚廷珪に李の姓を与え墨務官に任命したのであるが、これが安徽省の墨業を盛んにし、今日にまででんしょうされているのである。李氏のほかに耿・盛氏などの墨匠を排出した。
●宋時代
北末時代に入ると、蔡嚢・蘇軾・黄庭堅・米?・秦少游などの人々が文墨趣味を盛んにし、名墨を競って愛好するようになる。そして、蘇軾に代表される墨づくりについて、使う立場から色々と注文を出し指導するようになる。この頃から使う人の好みというものをとり入れ、更によくなってゆくのである。そして、墨の需要が増大し、生産地も拡大してゆく。
墨は、安徽省ばかりでなく北宋の主都である河南省の?京(今の開封市)にも十数家を数える名墨家がでる。その代表が播谷である。
蘇軾(蘇東坡)は、彼を墨造りの名人だとほめたたえている。北宋時代は、この他に多くの墨匠が出ているが、河南・河北・山西・山東などの華北に散在するようになった。この地方は、金王朝の領土になり、首都が臨安(浙江州杭州)に移ったので生産地も華中地帯で主なる産地は、徽州である。
南宋時代の墨匠の戴彦衡は、陶磁の官窯を臨安に設けたように官墨を造ろうという試みを宮廷の命で進めたが、原料の松の産地が黄山でなければ良煤は造れないといって断ったという。そして、彼は北宋の米帯と交流があり、その下絵を墨に用いたともいわれています。
それまで墨は松煙が中心であったのですが、南宋時代には、油煙墨が普及するようになり、その第一人者が胡景純で、「桐華墨」を造ったといわれている。
金時代には、当時画人として名をなした楊邦基が、劉法という墨匠のために墨史図を描いたと伝えられ、それは、今日でいう製造行程表で、@入山、A起竃、B探松、C発火、D取煤、E烹膠、F和剤、G造丸、H入灰治刷、R磨墨の十図であったといい、墨に対する製造方法がこの時代までに確立されていて、この期に集大成されたものである。
●明時代
明時代は、文化において豪華絢欄を示し、書の上でも文徴明・祝允明・薫其昌などが輩出し、蘇州・杭州を中心に浙江文化が栄えます。明末には、さらに倪元瑞・黄道周・張瑞図・王鐸・傅山などが華を咲かせる。ことに万暦時代は、明末期にもかかわらず、文化の勢はすさまじく、最高頂で、文房四寶の需要が飛躍手に延び、これを受けて墨も名品を生み出すようになったのである。
この時代の大きな特徴は、宋時代までは松煙墨が中心であったが、油煙墨となり、中でも程君房・方干魯が代表格で、このほか葉氏・呉氏・孫氏などがあり、歙州を中心にして一大製墨地帯が生まれるようになる。
需要が増大すれば、墨造りも企業的となり、個人の名が後退し、家名・店舗名が主力となる。
程君房と方干魯は、その代表格で、墨譜といって墨の原型を図写したものが刊行され、程氏は『程氏墨苑』十二巻、万氏は『方氏墨譜』六巻である。『程氏墨苑』には、墨型の版画500図を精刻し、『方氏墨譜』は358図あります。方干魯はもとは、程君房の支配人であって独立した人である。また新安には、方端生があり、『墨海』十巻を刊行している。
明時代末期(1573一1644) になると、製墨は社会経済の発展にともない一段と大規模となる。名匠・名墨工が組織化され、企画家の管理のもとに生産をあげ需要にこたえようとする動きとなったのである。
製墨業は、安徽省黄山市歙州県・江西省上饒市?源県・安徽省休寧県(浙江省隣接)に発展した。
明末の「墨志」には、歙州の墨匠として120名をあげている。この時代の墨は、製法はもとより用途から、さらに鑑賞墨にも幅広い展開をみせるようになり、古墨といえば明墨というように、代表的な意匠を確立するようになったのである。
●清時代
この時代は、清時代の流れを受け康脛年代としては、朱一滴、庄美中・呉叔大・呉鴻漸・程鳳池・葉柏里などが、『雪堂墨品』に記録されています。明墨を代表する曹氏は康肥…末から薙正にかけて名を出すようになります。曹素功は、明末の名墨士の呉叔大の遺業を継承して∃紫玉光」などの代表墨を作ったことで知られている。
乾隆時代になると、乾隆帝の文化政策から製墨業は一段と盛んとなり、中でも乾隆御墨は、明墨とは別趣の味わいを持って人気の的となり、その中心をなしたのが注近聖である。
乾隆帝は、文墨趣味が高く製墨業を手温かく保護した。
この時代の代表的墨匠としては、曹素功・注近聖・庄節庵・胡開文・唐氏などがあげられる。
二、墨の種類
(1) 墨の原料
墨に使われる主な原料は煤烟(油煙・松煙・工業煙)膠・香料を配合して墨に形造られる。
●油烟墨
・油煙は菜種油・胡麻油・大豆油・綿実油などの植物性の油を用い燈油皿に入れて燈芯に点火する。
↓この燈火を皿で掩い、皿についた「すす」を採取する。
↓品質の良否は燈芯の太い細いによる。
・太いものは阻煙で、細いものは炭素粒が微細で良質である。
●松烟墨
・生き松(生きている松)
・落松(伐採叉は倒されたまま放置されて樹脂(やに)だけ残っている松)
・根松(伐採後10?15年を経過して埋っている松の根)
これらを材料として採煙する。小割りした松を、寵の中に仕切られた障子紙張の枠の中で、燃焼させて障子紙についた煤を探るものである。
松材約375kgで松煙が約12kg程度の採煙量が基本数値である。
●工業煙墨
・軽油・重油・クレオソート油などの液体油・粗製ナフタリン、アンソラミン、ピッチ、コールタール等の固型物を燃焼させて採煙する。カーボンブラックは石油産地近くに湧き出ている地中の天然ガスを原料として採燈する。
これらをもとにして、香料を加え膠で固める。墨は、固形墨が伝統的なものであるが、今日では、これに練り墨・液体墨がある。
戦前は、墨と墨汁の二種類で、色も黒だけで、それが濃いか薄いかということであったが、今日では、墨に対する概念が広がり、一つの文化としてとらえられるようになり、同じ墨でも赤紫・赤茶・紫紺・青・黒というものを、松、油煙の特性を引き出すことで多彩に出来るようになった。
一般的な製品を例にとると、次のようになる。そしてこれらの墨の他に、朱墨・彩墨・釣鐘墨がある。
釣鐘墨は、書写用としてではなく、拓本を取る時(乾拓法で用いる)などに使用する墨であります。墨質は、ちょうど消し炭のように軟らかく、日本では「石花墨」とも呼んでいる。
■墨の種類、特徴と用途による分類表
墨 |
固型墨 |
漢字用 |
超濃墨向 |
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濃墨向 |
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中程度の濃度向 |
|
淡墨向 |
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超淡墨向 |
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仮名用 |
濃墨向 |
料紙 |
素紙 |
淡墨向 |
加工紙 |
素紙 |
画墨用 |
黒系 |
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青系 |
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液体墨 |
練 墨 |
濃墨向 |
|
中程度の濃度向 |
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淡墨向 |
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墨液 |
作品向 |
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濃墨向 |
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学童習字用 |
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墨汁 |
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(2) 油煙墨と松煙墨の違い
油煙墨と松煙墨はともに原料の「すす」は植物性の炭素であるが、その「すす」の生い立ちは、油煙の方は油を、松煙の方は松の木片を燃焼して採取するので、墨の質も自ら異なる。
従来、和墨では、油煙墨が最高で松煙墨はその次であると言う事が、いつ頃からか定説となっていた。これは恐らく昔油煙の方が高く、松煙の方が安かったので、高い油煙で造った墨の万が良いとされたものなのである。
実際、書作上から見て墨色を考えると、寧ろ松煙墨の方が重厚さがあり、年代の古くなるにつれて墨色も変化し、濃淡潤渇による墨色の変化もあって、かえって油煙墨より優れているのである。今ではこれが一般的な評価となっている。
油煙墨と松煙墨の夫々の特色を比較して見ると、次の通りである。
墨材 |
油煙墨 |
松煙墨 |
製造上の特徴 |
油煙は油を燃焼して「すす」を採取するた
め、不純物が少なく、炭素の粒子が松煙
に比べて非常に小さいので、墨色に純度
がある。 |
松煙は松の木片を燃焼して「すす」を採取するため不純物がまじり、炭素粒子は油煙よりは大きく、墨色に不純度がある。 |
書作状況 |
純度が良いため、松煙墨より、墨色の厚
味が少ない。 |
多少の不純物があるので、墨色に厚味が出る。 |
初期状況 |
赤茶味のある紺色の墨色で、見たところ
松煙より厚味が薄く感じ、墨色が強く感じ
る。 |
赤味の勝った紺色で、厚く目に感じるとともにやわらかい感じがする。 |
発墨性 |
墨色の反射が良い。 |
墨色の反射が少なく光を吸収する形となり黒さがよく目立つ。 |
経年変化 |
純度が高いので、年代による墨色の変化
の幅が少ない。 |
多少の不純物が混入するため、年代により墨色の変化の巾が大きい。 |
黒色の変化 |
枯れて古くなると、多少の厚味は出るが、
黒の色は不変でこれが特長である。 |
枯れて古くなると青墨化する。これが自然の青墨にみえる。 |
