(4)100人-明から現代中国
明から中華人民共和国まで 1368年〜現代
モンゴル族が建てた元王朝は、あいつぐ農民反乱によって中国の支配権を失い、ついに極貧の農民家族に生まれたカリスマ的な反乱指導者が明を建国し、初代皇帝となった。明は意識して 「漢人」王朝たらんとした。モンゴル族による支配の痕跡をすべてぬぐいさるために、唐の栄光に立ち戻ろうとしたのである。しかし、北方諸民族はあいかわらず脅威でありつづけたし、明もまた、政治に関心をもたない皇帝のもとで徐々に衰退し、政権の腐敗を正すことができないまま、農民反乱によって終焉を迎える。明は漢人の農民反乱によって滅ぼされるが、この反乱は力においてまさる満州族の軍隊に鎮圧された。満州族は一六四四年に北京に侵攻し、最後の帝国、活を建国した。
清は建国当初こそ繁栄したが、一九世紀になると、自然災害と農民反乱というおなじみの悪循環におちいり、さらにそこへ砲艦をひきつれた西洋人が侵攻し、混乱に拍車をかけた。活が滅ぶと、中華民国が成立した。しかし、国土はふたたび軍閥によって分割され、中央政府は有名無実になった。国民党と中国共産党が支配権をめぐって争っているあいだに、日本は一九三七年に中国に侵入した。一九四九年、国民党は台湾に逃亡し、北京で中華人民共和国の建国が宣言された。
ID |
人 物 |
記 事 ・ 備 考 |
69 |
洪武帝 |
―明の太祖 |
70 |
鄭和 |
―東アフリカまで航海した提督 |
71 |
王陽明 |
―陽明学の創始者 |
72 |
海瑞 |
―清廉な官僚 |
73 |
李時珍 |
―医師・博物学者 |
74 |
張居正 |
―明の宰相・経済改革者 |
75 |
ヌルハチ |
―満州族の国家の創始者 |
76 |
徐霞客 |
―旅行家・地理学者 |
77 |
魏忠賢 |
―明の宦官 |
78 |
馮夢龍 |
―人気作家 |
79 |
張献忠 |
―反乱軍指導者 |
80 |
呉三桂 |
―清にねがえった将軍 |
81 |
顧炎武 |
―明の遺臣・学者・社会思想家 |
82 |
朱トウ |
―烏と魚を描いた風狂画家 |
83 |
蒲松齢 |
―幽霊譚の作家 |
84 |
康照帝 |
―清の最盛期を作った皇帝 |
85 |
曾静 |
―反清的知識人 |
86 |
曹雪芹 |
―中国最高の小説家 |
87 |
乾隆帝 |
―清王朝の最盛期を築いた皇帝 |
88 |
へシェン |
―腐敗した清の官僚 |
89 |
林則徐 |
―英國のアへン密貿易を禁止した官僚 |
90 |
汪端 |
―清代の女性詩人 |
91 |
僧格林泌 |
―モンゴル族最後の猛将 |
92 |
洪秀全 |
―太平天国の乱の指導者 |
93 |
西太后 |
―清王朝の最期を彩る女帝 |
94 |
秋瑾 |
―革命に殉じた女性解放運動のヒロイン |
95 |
孫文 |
―理想主義の革命家・中華民国創立者 |
96 |
魯迅 |
―二〇世紀最大の中国人作家 |
97 |
蒋介石 |
―国民党の指導者 |
98 |
胡適 |
―文学革命のリーダー |
99 |
毛沢東 |
ー共産主義革命家 |
100 |
ケ小平 |
―毛沢東後の中国を改革した指導者 |
明から中華人民共和国まで 1368年〜現代 |
69 洪武帝―明の太祖

洪武帝 (1328−1398)明の太祖
朱 元璋(1328年10月21日―1398年6月24日)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八といい、後に朱興宗と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞とした。
朱元埠は1328年に長江流域の安徽省で、貧しい小作農の家に生まれた。末っ子で、小さい頃から地主の家畜の世話をして育った。1344年、華北が大洪水にみまわれる一方、華南はかつてないほどの干ばつに襲われた。疫病が蔓延し、一か月のあいだに両親と長兄をたてつづけに伝染病で亡くした。棺を買うことができず、残された兄弟は死者を埋葬するためのわずかな土地を得るために頭を下げるしかなかった。
朱元埠は生きのびるために地元の仏教寺院で少年僧となった。しかし僧ですら飢えているありさまで、朱元埠は二か月後には托鉢に出ることになった。それから三年間ひとりでさまよい歩いた年月は、おそらく彼の生涯でもっともつらい時期だっただろう。しかし、そのおかげで彼は各地の現状を肌で知ることができた。白蓮教に接触したのもこの時期である。白蓮教はマニ教の影響を強く受けた異端の仏教の教団で、弥勘仏による救済を説いて、困窮する民衆から多数の信徒を獲得した。
若い托鉢僧の朱元埠は故郷の寺に戻って四年間そこですごし、そのあいだに教育を受けることができた。その頃白蓮教徒の指導者が率いる農民反乱が拡大し、その混乱のなかで1353年に朱元埠のいた古い寺が焼け落ちてしまった。朱元埠はやむなく地元で挙兵した白蓮教徒の反乱軍にくわわった。彼らは紅色の頭巾を目印にしていたので、紅巾賊や紅巾軍とよばれる。反乱軍は「蛮族」であるモンゴル族が建てた元を倒し、漢人王朝の朱を復興させることをめざした。勇猛果敢で知略にたけた朱元樺はたちまち頭角を現し、彼を見こんだ反乱軍の首領は自分の養女を朱元埠と結婚させた。
この首領が1355年に亡くなった後、宋元埠は長江下流域に勢力範囲を拡大し、1356年に南京を制圧した。元の大軍が華北で反乱の鎮圧にてまどっているあいだに、華南は反乱軍の首領同士が相争う戦場となった。
三宝七年、朱元樺はある儒学者から「城壁を高くし、食料をたくわえ、皇帝になる準備をするように」と助言された。朱元埠を大いに力づけたこの予言的な助言は、それから六世紀後、列強と戦う毛沢東によって引用された。
カリスマ性のある朱元埠は数々の反乱軍の首領のなかでも抜きんでた力をもっていたので、貧民出身の兵士や郷紳出身の戦略家が参集した。朱元樺は戦闘意欲が高く規律正しい軍隊を作ることに成功した。1363年には、もっとも手ごわい敵将のひとりが湖上での戦闘中に流れ矢にあたって戦死するなど、その勝利には運も味方した。
1364年、朱元埠は呉王 (呉は長江デルタ地域の古い地名)を称し、宮廷を開いた。一方、現在の安徽省にはすでに別の紅巾軍の武将が宋王朝の再建を意図して国を建て、国号を末と定めていた。朱元樺は昔の南末の領土に残る民族主義的な激しい反モンゴル感情を利用するために、この「宋皇帝」に従うそぶりを見せた。しかし朱元埠に保護されたこの皇帝は実質的に捕囚の身で、もはや名ばかりの存在だった。
覇権を争う紅巾諸軍の武将たちを倒し、末の塊偏皇帝を抹殺すると、宋元埠はようやく1367年の終わりに北へ遠征隊を送った。華北への遠征には抵抗らしい抵抗もなく、朱元埠は1368年初めに南京で明王朝を開き、皇帝の位についた(中国ではマニ教が明教とよばれたので、明王朝の名は明教に由来している)。一〇月には最後の元の皇帝が大都から退却し、モンゴル族の支配は終わった。
朱元嘩(洪武帝) は新しい王朝の体制を固めるために遇進した。中国史上初の華南発祥の国家となった明は、「蛮族」の文化や事物に対し、それまでのどの王朝よりもはるかに厳しい態度を示した。明が主として民族主義的な反「蛮族」革命によって成立した国家である以上、それはあたりまえといえるかもしれない。
洪武帝は言語、衣服、個人の名前、婚姻の習慣から葬儀の形式にいたるまで、あらゆる「蛮族」的要素を排除しようとした。口語体の中国語を公式の場で使用することはまもなく禁止され、父を亡くした息子が未亡人となった義理の母を妻とする遊牧民的慣習は死罪とされた。多音節の姓や名前は廃止された。仏教伝来以来一般的になっていた火葬の習慣は完全に姿を消した。右丞相を左丞相より上に置くモンゴルの習慣は逆転した。宮廷で官僚が皇帝の両脇に立つ場合、モンゴル族は皇帝の左側より右側のほうが位が高いと考えて好んだが、中国人は右側より左側を好むのである。
かつて支配者や特権階級だった異民族は、この「中国回帰」の矢面に立たされた。明の法律では異民族同上の結婚さえ禁じられたが、この禁令はあまり厳格に施行されなかった。こうした政策と儒教的な反商業主義は元代に増加したイスラム教徒への逆風となり、中国南東部で脱イスラム化が進んだ。明るい面を見れば、土地をもたない農民の帰農を促進し、農業生産性を上げるために税が数年間免除され、貧しい家庭の男子が官僚になる機会を得られるように、無料の学校が国中に作られた。
貧農の出身であることを恥じて、洪武帝は劣等感の裏返しの反エリート主義をつのらせたようだ。皇后の死後、彼は猫疑心の強い独裁者になっていく。士大夫(儒学を学び官僚になった人々)に対する粛清と殺害をくりかえし、かつてともに戦った仲間でさえ容赦しなかった。朱元埠の反乱軍の主力だった軍人たちはほとんど全員無残な死をとげた。
権力を独占するため、洪武帝は一〇〇〇年の歴史をもつ中書省(その長官が宰相となる)を廃止し、宰相に代えて皇帝に言いなりの秘書役として、殿閣大学士を置いた。また、役人や庶民を監視させるため、超法規的な権力をもつ諜報機関や警察を設置した。しかし、洪武帝が勤勉な皇帝であったことは否定できない。彼は日々何百件もの書類や文書を読んでは指示を出し、不正があれば処罰した。洪武帝が創始した明王朝はほぼ三世紀にわたって存続した。
72海瑞―清廉な官僚
海瑞(一五一四−八七)
清廉な官僚
(1514年―1587年))は中国明中期の政治家。時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行い投獄されたがのちに釈放された。清廉潔白な官僚として評価を得ている人物である。
海瑞が生まれた海南島は、ベトナムが中国の支配を脱した後は、中国最南端の領土である。海という姓は、イスラム教徒に多いハイダルという名前の一般的な漢字表記に由来している。ハイダル(アラビア語で「ライオン」)は、ムハンマドのいとこで義理の息子にあたるアリー・イブン・アピー・ターリブ(イスラム教の第四代カリフ)の通称であり、シーア派で人気の名前だ。海氏もイスラム教シーア派の末裔と考えてもおかしくない。
1368年に朱元嘩が明王朝を樹立したのち、中国南東部では脱イスラム化が進んだ。海瑞が生まれた頃には海氏にイスラム教の信仰の形跡はほとんどなくなり、中国古来の儒家の家庭に変わっていた。残念なことに、海瑞がまだ幼い頃に国立学校の給付生だった父が亡くなり、海瑞は残された母と貧しい暮らしに耐えながら育った。厳しい儒教道徳を海瑞に教えこんだのはこの母である。
海日市の廟に描かれた海瑞の肖像
1549年、三五歳という比較的遅い年齢で海瑞は郷試(科挙の地方試験)に合格し、挙人の資格を得た。しかし、翌年北京で受けた会試には落第した。海瑞は会試不合格のまま官吏になろうと決意する。1553年に挙人という低い資格で得た最初の官職は、福建省の国立儒教学校の校長職だった。
1558年、海瑞は漸江省の貧しい山岳地帯の知事に任命された。清廉で妥協を許さない官吏として海瑞の名を最初に知らしめたのがこの場所である。有力な総督がこの地域を通ったとき、その好色な息子を逮捕したのを手はじめとして、絶大な権力をもつぜいたくな監察官が華南の八省を巡視のために訪れたときは、徹底的に倹約したもてなしで迎えた。海瑞のこうしたふるまいは、上の人間にこびへつらうのがあたりまえの中国社会に驚きをあたえた。
1564年、海瑞は首都北京で戸部主事(税務事務官)に任命された。嘉靖帝は明中期から後期までの何代かの皇帝と同様に、日々の政務にはほとんど興味を示さず、20年以上も宮廷で政務をとらなかった。帝国の繁栄には陰りが見え、民衆の税負担が増加し、役人の腐敗が横行した。海瑞は皇帝の怠慢と悪行を諌める書面を提出する決心をした。
皇帝の怒りを予想して、海瑞は年老いた母を友人に託し、使用人を解雇し、自分のために棺桶を買った。激怒した皇帝は海瑞の逮捕を命じたが、どういうわけか処刑の執行令状には署名しなかった。1567年一月に嘉靖帝が崩御すると、海瑞は放免された。海瑞はその高潔さによって国民的英雄になった。
しかし妥協を許さない海瑞の態度を快く思わない同僚の官吏は多かった。江南の豊かな江蘇省で副監察官として勤務していた1571年、海瑞は退職に追いこまれる。1585年に七一歳でよびもどされ、南京で位は高いが名ばかりの名誉職についた。その二年後に海瑞は世を去った。後を託す息子はなく、財産もほとんど残さなかった。海瑞の葬儀費用は寄付をつのって支払うありさまだったが、葬儀には一〇〇万人を超える民衆がつき従い、長江に沿って数百里(およそ一六〇キロメートル)の行列ができたという。
海瑞の名は、皇帝を批判した勇気ある高潔な官吏として四世紀後によみがえる。1961年、明史の代表的な研究者で北京市副市長でもある呉恰(1909−1969)は、『海瑞罷官』と題する戯曲を出版した。1965年11月、毛沢東の妻江青の同志だった挑文元(四人組のひとり)は、呉晴の戯曲を激しく批判する評論を発表した。中国をその後一〇年間にわたって大混乱におとしいれる文化大革命のはじまりである。この戯曲は、三〇〇〇万人を超える農民の餓死者を出した大躍進政策(1958−1961にかけて施行された農工業の大増産政策)の爪痕がまだ生々しい時期に発表された。そのため、挑文元が示唆したように、その災厄の原因を作った現代の「皇帝」(毛沢東)に対する批判と受けとられたのである。海瑞は明の皇帝に命を救われたが、呉略は忠実な共産党員だったにもかかわらず、文化大革命の最中に迫害されて獄死し、妻と十代の養女も命を落とした。
74張居正―明の宰相・経済改革者

張居正(1525一1582)明の宰相・経済改革者
張屠正は1525年生まれで、中国史上もっとも成功した宰相のひとりだ。正式な官名は内閣大学士という。
政治権力の集中と独占をはかる洪武帝は、千年の歴史がある宰相職を1380年に廃止した。その後、皇帝の補佐役として複数の大学士が起用されるようになり、彼らはまもなく内閣大学士と称されて、事実上の内閣となった。内閣大学士は大体二名から六名で、過去の王朝の宰相の役割を担うようになった。張屠止は身分の低い家の出身だが、神童のほまれ高かった。15歳で科挙の地方試験に、22歳で首都の試験に合格し、翰林院庶吉士(進士のうちとくに優秀な者に知識を学ばせるための短期の職)という名誉ある職を得て官僚となった。このポストについた者は将来の宰相のよび声が高かった。張屠正は着実に出世し、彼が教育係をつとめていた皇太子が1566年に隆慶帝として即位すると、すぐに大学士のなかで上位から二番目の「次輔」に任命される。
1572年に隆慶帝が崩御すると、有力な任官との結びつきを利用して「首輔」(首席大学土)の地位を獲得し、10年後に亡くなるまで内閣の長として実権をふるいつづけた。張居正は、わずか九歳の万暦帝の指導者および補佐役となり、数々の改革を実施して、二世紀の歴史をもつ衰退した明帝国の活性化をはかった。そのひとつが厳格な成果主義にもとづく官吏と官僚的政治の見なおしであり、もうひとつは検地である。張居正が全国的な耕地調査を実施すると、有力な地主が広大な土地を隠匿して税金のがれをしていたことが発覚した。第三の経済改革は、新たな税制(有名な一条鞭法)の施行による国税の整備で、篠役(労働)を土地税に転換して徴収するようになった。同時に、張居正は政府の歳出を抑え、むだを排した。これらの政治改革によって明の財政は大幅
に改善され、彼が亡くなったときは国庫に余剰金があふれていたという。
張居正は実力のある将軍を昇進させて軍備の強化をはかり、モンゴルの君主アルタン・ハーンと和議を結んだ。
1578年、ゲールグ派ラマ教(チベット仏教)の実質的な創始者で、はじめてダライ・ラマの称号を用いたソナム・ギヤムツォ(名目上はダライ・ラマ三世とよばれる) は、甘州(現在の甘粛省内) にある明の城塞都市を訪れて張屠正に手紙と贈り物を送った。ダライ・ラマ、ひいてはモンゴルとの良好な関係がもつ政治的重要性を十分認識していた張屠正は、ダライエフマに名誉ある称号を授け、仏教寺院の建造を援助する約束をした。
張屠正の絶大な権力は、当然ながら多くの敵も生んだ。張居正の父が1577年に亡くなったとき、政敵にとって長いあいだ待ち望んだ反撃のチャンスが訪れる。親が亡くなった場合は官職を辞して3年間(実際には27か月)喪に服すのが決まりだったが、張屠正は幼い万暦帝が「子としての情をすてよ」とくりかえし命じたという理由で、職務を離れなかった。これが儒教倫理を臆面もなく軽視した行為だと批判され、張居正を糾弾する文書があいついで出された。張居正は権力を失う危機をなんとかのりきったが、面目はつぶれ、政治的な支持をかなり失った。
未熟な皇帝の実質的な摂政をつとめていた張居正が1582年に亡くなると、成人を間近にひかえた皇帝はみずから政治を行なうようになった。その二年後、張居正は死後に政敵からさまざまな罪で告発され、皇帝もその告発を認めた。張屠正の遺族は重い代償をはらわされた。家財はほとんどすべて没収され、長男はそれ以上の処罰をおそれて自殺した。張屠正の改革は大半がくつがえされ、明はまっしぐらに衰退に向かうのである。
76徐霞客―旅行家・地理学者
徐霞客(1587―1641)
旅行家・地理学者
この非凡な旅行家は本名を徐弘祖という。霞雪は友人がつけたあだ名で、広大な中国を生涯かけてほぼ休みなく旅してまわったこの人物にふさわしい名前といえるだろう。
徐霞客は1587年に江蘇省の江陰に生まれた。江陰という地名は「長江南岸」を意味し、上海からほど遠からぬ場所にある。当時、長江下流域のデルタ地帯は、経済・文化ともに明でもっとも進んだ地域だった。
徐霞客がこれほど長期の旅に出ることができたのは、いくつかの幸運が重なったためだ。まず実家が裕福な地主で、利益の多い織物業に進出し、数軒の織布工場を経営していた。次に、この家族はきわめて教養豊かだったが、多くの知識人がたどる官僚の道を選ばず、徐霞客も父も科挙を受けるつもりがなかった。(明代中期に徐家の祖先が科挙のカンニング事件で逮捕され、死亡したためである)。なにより重要なのは、母の王濡人の強い励ましがあったことだ。『論語』には「父母が健在なうちは旅に出てはならない」という古代の賢人の言葉がはっきりと書かれているが、徐霞客の母はこの儒教的な孝行の義務から解放してくれたのだ。
1504年に父が亡くなると、その3年後に徐霞客は広大な明のさまざまな地方への旅行を開始した。かぶっていた「遠距離旅行帽」は母の手作りである。まず近隣の省からはじめ、続いてどんどん遠くへ足を延ばした。
母のぶじを確かめるために一時的に家に戻ると、またすぐに旅立っていった。徐霞客の興味の的は都市や町ではなく、大河や高山などの自然の驚異だった。旅にはひとりの召使が同行した。
徐霞客は30年以上かけて、ほとんど徒歩で明のほぼすべての省を踏破した。もっとも好んだのは、同時代の人間がめったに訪れない僻地への旅だ。前近代の中国では、そうした場所に個人で行くのは非常に危険だった。
盗賊やごろつきに襲われる危険はもちろん、原始的な道具で深い渓谷や急峻な峰を越えなければならない。足を滑らせたり、ふみだす方向を一歩まちがえたりすれば、いつ命を落としても不思議はなかったと徐霞客は回想している。
荒野ではほとんどなにも食べずに何日も歩かねばならず、料理された食事をとれずに一週間歩きつづけることなどしょっちゅうだった。夜はどこででも眠った。豚小屋のこともあれば、星の下で横になることもあった。迫刺に襲われることにも慣れて、そういうときは友人を頼ったり、仏教寺院にかけこんだりして助けを求めた。彼の業績が後世に伝わったのは、毎日かならず日記をつける習慣があったからだ。
17世紀の中国の地図
どんなに人里離れた森のなかにいても、たき火の明かりを頼りにその日の行程と見聞を記録した。彼の日記は客観的で詳細かつ正確である。古代中国の科学を専門に研究する二〇世紀のイギリス人ジョーゼフ・ニーダムは、彼の日記を許して、一七世紀初期の旅行者の手記というより、現地調査におもむいた現代の研究者の記録のようだと賞賛している。
徐霞客は旅行中に地理学や博物学上の発見をいくつもしている。たとえばメコン川とサルウィン川は別々の川であることを発見した。また、カルスト地形の地質学的な構造を世界ではじめて体系的に観察したのも彼である。
訪れた地方の気候、鉱物、植物、動物の詳細な記録がもつ科学的価値は大きい。
1625五年に最愛の母を亡くした後、徐霞客は一段と遠くまで長期間旅をするようになった。1628八年には中国最南端の広東省まで旅し、翌年は北に向かって北京を訪れている。1636年にはもっとも長い、そして最後となる旅行に出かけ、多民族が居住する雲南省南西部と現ミャンマーとの国境まで旅した。チベットや西域(現在の新涯ウイグル自治区) も訪れるつもりでいた。長いあいだ徐霞客に仕えた召使は、この野心的な計画におそれをなし、とうとう主人のもとを去った。徐霞客は雲南で病に倒れ、友人の手を借りて帰郷した。彼を手助けしたのは徐霞客が現地で作った友人で、漢人もいれば、ほかの民族もいた。徐霞客は1641年3月8目に亡くなった。
それから三年後、徐霞客の故郷は満州軍の侵略に激しく抵抗した。彼の多くの友人や長男が戦死し、徐霞客の未編集の旅日記はばらばらになった。散逸した貴重な旅の記録の大半がもとどおりに集められ、出版されて後世に残ったのは、徐霞客の残された息子の辛抱強い努力のおかげである。
78馮夢龍―人気作家
馮夢龍 (1574―1646年)
人気作家
馮 夢竜(ふう むりゅう、ふうぼうりょう、1574- 1646年)は、中国明末期の小説家、著作家、陽明学者である。字を猶竜(ゆうりゅう)、号は墨?斎(ぼくかんさい)といい、また竜子猶(りゅうしゆう)とも号した。弟である画家の夢桂(むけい)、大学生の夢熊(むゆう)と共に「呉下三馮」と呼ばれた。

馮夢龍 (1574―1646年)
礪夢龍は蘇州の生まれで、多作な人気作家である。蘇州は長江下流域の繁栄した都市で、高い文化的な生活が営まれていた。鳩夢龍の家庭は豊かで知的だった。鳩夢龍と、画家である見、そして詩人の弟は、文人のあいだで 「呉下三鳩」(呉は現在の蘇州)として名をはせていた。
鳩夢龍は科挙に失敗し、第一段階の試験に合格すれば得られる秀才の資格ももっていなかった。にもかかわらず彼が執筆した科挙の受験参考書はよく売れた。鳩夢龍は大衆的な口語文学の発展に人生のほとんどをささげ、知的エネルギーの大半をそそぎこんだ。彼は「中国大衆文学の権化」と称されている。
大衆的なじ語文学にはじめて知識人が目を向けたのは前王朝の元のときだ。元では儒学を学んだ知識人の地位は娼婦と乞食のあいだに置かれるほど低かった (伝記62関漢卿参照)。そのため官僚として出世が望めない知識人の熱意は大衆文学に向かったのである。明代には長江下流域の経済的発展により、文字を読める人々が増加(かなり多くの女流作家や女流詩人が出現したことからも明らかだ) し、都市生活がいっそう豊かになって、口語文学はますます発展した。
鳩夢龍が大衆に受け入れられる作品を書けたのは、大衆文学の生まれる環境に実際に身を置いていたせいでもある。大人になったばかりの頃、鳩夢龍は美しく教養の高い候慧卿という妓女に思いをよせた。ふたりは文学を話題にし、ときには議論を闘わせながらロマンスをはぐくんだが、この関係は候慧卿が別の男性と結婚したために終わりを告げた。この失恋の痛手にこりて、鳩夢龍は二度と「赤線地帯」 に足をふみいれなかったといわれている。しかし、善良で一途な妓女が登場する感動的な物語は、悲劇もあればハッピーエンドもあるが、鳩夢龍の作品の大きな部分を占めている。
鳩夢龍の作品は、大衆文学のほとんどあらゆるジャンルにわたっている。科挙の受験参考書も書けば、短編集、歴史小説、民謡集、逸話集、歌曲、歌劇、笑話集、そして人気のあったカードゲームの規則集なども書いたり編纂したりした。鳩夢龍の代表作とされるのは、なんといっても大評判となった三冊の短編集である。当時流布していた通俗小説のなかからおよそ120編を選んでおさめた短編選集で、まとめて「三言」とよばれる。ここに
収録された小説の大部分は末や元の時代に生まれたものだが、鵜夢龍はそれらに大幅に手をくわえて話をふくら ませている。なかには創作小説もあり、そのなかのすくなくともひとつは明の当時の政治問題に憩を得たものだ。
鵜夢龍の読者は主として都市で暮らす庶民で、彼の著作の多くは飛ぶように売れた。大衆の要望にこたえるように、その作品はしばしば煽情的で、性描写も多くふくまれている。あまりの人気ぶりに、鳩夢龍は若者を堕落させるという批判も多かった。
彼の短編小説や歴史小説は、仏教的な因果応報の思想にもとづいた報復の物語を中心にして、道徳的教訓を説いている。しかし地元に伝わる民謡を集めた民謡集はほとんど恋歌ばかりで、それらは儒教や新儒学の道徳とは
まるで無縁だ。
とかした髪は漆塗りのお椀のように艶めいて、
娘は人前できれいな足を見せて男をたぶらかす。
昔は男が娘を誘ったもんだが、
今じゃあ男を誘惑するのは娘のほうだ。
許されない恋だからって、そんなに‥心配しないで。
見つかったら、みんなあたしが悪いのって言うわ。
判事さんの前で、ひざまずいて告白するわ。
顔を上げて、はっきりとね。誘惑したのはあたし、女のほうよ。
あたしがあなたを誘ったの。
もっと色っぽい詞もある。
男‥心をそそる、若い娘の白い胸。
恋人にその胸をなでさせてやりなよ。それだけでいいのなら。
馬が石橋を走ったって、蹄の跡なんか残りゃしない。
短剣が水を切ったって、傷のひとつもできゃしない。
1630年、56歳になった鳩夢龍はようやく科挙の第一段階の試験に合格し、一六三四年に都から遠く離れた福建省の知事に任命された。任地での業績として、女の子が生まれると間引きする風習をやめさせようとしたことが伝えられている。
鵜夢龍が故郷の蘇州に戻ってまもなく農民反乱が起こり、満州族が明を倒した。短命に終わったとはいえ、清に抵抗して南明が建国されると、鳩夢龍は南明の宮廷にくわわった。彼の大衆小説は決して儒教的な内容ではなかったが、礪夢龍自身は儒者であり、民族主義者だったのだ。清が正式に建国を宣言してから二年後の1646年、鳩夢龍は明の忠実な臣下として傷心のまま亡くなった (おそらく殺害されたものと思われる)。
80呉三桂―清にねがえった将軍
―清にねがえった将軍呉三桂 (1612−1678)
呉三桂 (1612−1678)清にねがえった将軍
呉 三桂は、明末清初の軍人、周の初代皇帝。遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。

呉 三桂 清にねがえった将軍
呉三桂は1612二年に遼東で明の軍人の家に生まれた。父は1631年に地方司令官の地位にあり、2年後には副長官に任命されている。
具三桂の死後の評判がかんばしくないのは、彼が満州族の中国侵略に手をかし、かつての明の君主を裏切ったからだ。しかもその理由は、愛妾をライバルの武将、李白成の部下に奪われたせいだという。激怒した呉三桂の姿は、「冠を衝く一怒は紅顔のためなり」(怒髪天を衝くほどの怒りは美女のためであるという意味)と言いはやされた。具三桂が怒りにまかせて清にねがえった結果、中国はとうとう満州族に征服されたのである。
呉三桂の父が遼東で軍務についたのは、満州族がヌルハチとその息子のもとで急激に勢力を拡大した時期である。満州族は明が東北地方南部にかまえる軍事拠点を突破するために、集中的な攻撃をしかけた。明はその頃、干ばつをきっかけに激化した国内の農民反乱の鎮圧に精いっぱいだった。1630年、父が数千人の満州兵に包囲されると、呉三桂はおよそ20名の呉家の護衛とともに救援にかけつけた。1638年、具三桂は最年少で東北地方の最高司令官に就任する。1641年に呉三桂は大敗を喫して不名誉な撤退を強いられたが、明への忠誠心は失わなかった。
1643年、宮廷で皇帝に拝謁するために北京に滞在中、呉三桂は華南出身の陣門円という美しい妓女を見初めた。彼はこの妓女の所有者に大金を払ってゆずり受け、自分の愛妾にした。翌年、最後の明の皇帝が具三桂を北京に招き、首都に迫る李白成率いる農民軍から北京を防衛するように命じた。しかし呉三桂の軍が到着するより先に、農民軍は4月24日に北京を制圧、最後の明帝は王宮の北側にある煤山に昇り、古樹で首をつって自殺した。
はじめのうち、呉三瞳は新たに支配者となった李白成に投降するつもりだった。しかし反乱軍の首領たちは金銭を奪うために多数の明の官僚を拷問した。引退して北京にいた具三桂の父も同じ目にあわされ、さらに李白成の副官のひとりが具三桂の愛妾を奪ったのである。この屈辱は耐えきれるものではなかった。「女ひとり守れなくて、どうして国を守れよう」と呉三桂は嘆き、満州族に和議を願い出た。活の太宗ホンタイジの急逝後、摂政王となったドルゴン(活の六歳の幼帝を補佐した)は、いまこそ中国全土を攻略する好機と見て軍を万里の長城の最東端に向けた。それはこれまで満州族が破ろうとしても破れなかった山海関とよばれる明の軍事要塞で、呉三桂の軍が守りぬいていた。
1644年の初め、呉三桂とドルゴンの連合軍はすみやかに李日成の農民軍を打ち破った。以後、呉三桂は清が中国全土の征服を進めるあいだ、30年近く清の軍人として働いた。ついでに愛妾の陳円円との再会も果たしたということだ。
呉三桂は中国西部と南西部の平定のために遠征し、ビルマにのがれていた南明最後の皇帝(永暦帝)を捕らえて処刑した。呉三桂はこの武功によって親王の爵位をあたえられ、南西の雲南と貴州の二省の藩王に任じられ、この地の軍事・行政権をにぎった。呉三桂の息子は満州族の皇女と結婚した。
呉三桂の勢力は清にとって無視できないほど大きくなった。ついに1673年、清の康黙帝は中国南西部の呉三桂と、同じく活の中国征服に協力した明のふたりの武将にあたえた三藩の廃止を決意する。呉三桂はそれまでたくわえた財力と軍事力を背景に、今度は明の再興を掲げて挙兵した。そして国号を周と定め、「天下都招討兵馬大元帥」と称した。
呉三桂の軍は勝利を重ね、たちまち長江に迫ったが、活軍の勢いがしだいに上まわりはじめた。呉三桂は1678年3月に周の皇帝となるが、半年たらずのうちに病死した。南部の支配権をとりもどしたい康欧州帝の断固とした決意を見誤ったこと、そして明を裏切った過去のせいで漢人知識人の支持を得られなかったことが災いして、呉三桂の支配体制はもろくもくずれた。呉氏は清によって根絶やしにされた。陳円円の運命はいまもわからないままだ。
82朱トウ―烏と魚を描いた風狂画家
朱トウ(1626年頃−1705年頃)
鳥と魚を描いた風狂画家
八大山人(はちだいさんじん、B?d? Sh?nr?n(1626年? - 1705年?)、本名:朱統??(しゅ とうかん)、幼名または通称は朱トウ(しゅ とう、Zhu Da)(?は明時代に驢馬の意味で使われた)。明代末期から清代初期の画家、書家、詩人。石濤(朱若極)は遠縁の親族に当たる。僧号は、傳綮、刃菴、雪个、また个山。款には「驢」「八大山人」なども使っている。
朱トウは八大山人という号でも知られ、中国を代表する「風狂」画家のひとりである。卵を抱く鳥や臼をむく魚などの絵がよく知られている。江西省南昌に生まれた末寺は、明王朝の太祖洪武帝の16番目の息子の子孫である。科挙の受験準備をしていた1645年、清が南呂を制圧した。明の皇族の末裔ということは知れわたっていたので、朱奇は侵入する活軍を避けて山岳地帯の仏教寺院に逃げこまなければならなかった。寺院にこもるのは身を隠して命を守るためだったが、憎い満州族に抵抗する手段でもあった。清は後頭部以外の髪を剃り、残した髪を長く伸ばして編む癖髪という髪形を漢人にも強制したが、僧侶になって頭をまるめれば新髪をせずにすむからだ。1680年、なんらかの悩みに耐えかねたか、おそらく禁欲生活をすてて結婚したいと思ったか、末寺は僧服を焼きすてた。世俗の生活を送り、息子が生まれたが、その後は道教寺院に入って、そこで一生を送った。道教を信奉する道士は明代と同じく髪を伸ばして頭頂部に髭を結うので、朱?はふたたび癖髪をしないことで、清への抵抗を示したのである。
朱トウは明の皇族の血筋だったために、社会の片すみで身を隠して生きるしかなく、ただ生きるために書画を作った。彼は自分の書は王義之やその息子の王献之(344−386)、顔真卿(709―785)や蘇軾に学んだと言ったが、その書風は自由奔放で独特であり、あえて穂先のすり切れた筆を使って仕上げられたものが多い。
末寺の画はたいてい鳥や動物、あるいは魚を描いた水墨画で、筆と墨の大胆な使い方を特徴とし、平明さにおいては群を抜いている。描線の簡潔さは驚くほど近代的で、禅の思想を思わせ、二〇世紀のミニマリズムの萌芽さえ見える。彼の描く鳥の羽はたいてい逆立ち、苦痛を秘めたまなざしはおそれや怒りを表現している。枯れ枝にとまる鳥の下にはしばしばただよう魚が描かれ、見上げる魚の目は、鳥か、姿の見えない釣り人からあたえられる苦難や危害をおそれているように見える。宋音の水墨画は日本で非常に高く評価された。牧硲(一二〇〇−七〇頃)など、日本で愛好者の多い独創的なミニマリストの画家と通じるものがあるのだろう。中国では活が末期に向かうにつれて宋奇の人気は高まった。活王朝が衰退し、民族主義的熱狂が盛り上がるなかで、満州族に抵抗した彼の生き方が見なおされたのだろう。
84康照帝―清の最盛期を作った皇帝
康煕帝(1654−1722) 清の最盛期を作った皇帝
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄Y(げんよう、Yは火偏に華)。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
康煕帝(1654−1722) 清の最盛期を作った皇帝
康熙帝は名前を玄煙といい、即位して康興と改元したので康熙帝とよばれる。1654年に清の三代皇帝である順治帝の三男として生まれた。順治帝は清ではじめて北京に宮廷を開いた皇帝である。康黙帝の母はかなり前に漢化した家族の出身で、中国初のキリスト教改宗者である。父である順治帝が1661年に天然痘で急逝すると、康熙帝の祖母にあたる孝荘文皇后が、すでに天然痘にかかったことのある康配…帝を後継者に推した。孝荘文皇后にはドイツ人のイエズス会士で欽天監監正(天文台長)のアダム・シャールがうしろだてについていた。
1663年に母が亡くなった後は、玄煙はおもにモンゴル族の祖母に養育された。即位したとき、康熙帝はまだ幼かったので、満州族の貴族オポイを筆頭に、四人の摂政による集団統治が行なわれた。1667年からはオポイが専権をふるうようになった。
二年後の1669年、祖母の協力のもと、若い皇帝はオポイを投獄し、権勢を誇ったオポイ一族を滅ぼした。
1673年、康熙帝は有力な廷臣の反対を押しきって華南にある半独立王国化した三藩の廃止を決定し、呉三桂の反乱に立ち向かった。1681年にこの内乱を平定すると、康熙帝は明の遺臣の最後の砦となった台湾の征服を命じた。
一方、康熙帝は漢人のあいだに根強く残る反満州感情の緩和に力を入れた。とくに反感が強かった華南では、華南出身の人材を登用したり、科挙では華北より華南の受験生を優遇し、皇帝みずから科挙に臨席したりした。康熙帝は西洋人や西洋科学に対してきわめて好意的で、自分がマラリアにかかったときは、イエズス会士にキニーネを使って(何人もの廷臣で人体実験をさせてから)治療させた。また、天体現象を計算で予測する西洋の天文学の優秀さに感心し、宮廷にいるイエズス会士から幾何学や三角法などの西洋の数学を学んだ。さらに西洋の楽器や絵画にも興味を示し、専門知識をもつイエズス会士の協力によって、世界地図と中国の地図の作成を命じた。康熙帝は書をたしなみ、さまざまな文学作品を出版した。皇帝みずから作った稲作と養蚕の詩によせて、数多くの宮廷画家のひとりである焦乗頁が措いた「耕織図」はよく知られている。康熙帝の命令で編纂された書物に、唐代の詩の全集である『全唐詩』や語彙を韻ごとに分類した辞書、そして『康配刷字典』1710年に着手、1716年に出版)などがあり、この皇帝の古典中国語への関心を物語っている。『康熙州字典』は現在も古典学者の基本的な参考書として利用されている。
ロシアはシベリアに勢力を拡大し、満州族の故郷である黒竜江(アムール川)一帯に進出した。東北部に侵入したロシア軍をなんとか追いはらったのち、1689年に康熙州帝はイエズス会士をふくむ使者を派遣して、ロシアと和平条約(ネルテンスク条約)を結んだ。
その頃、モンゴル高原西部でオイラト族が勢力を拡大し、清とのあいだにモンゴル高原の支配権をめぐる争いが生じていたため、清はロシアとの和議を急ぐ必要があった。オイラト族はもともと現在の新彊ウイグル自治区を流れるイリ川流域にいた部族である。康熙帝は1696年にみずから軍を率いてオイラト族を敗走させ、外モンゴルのハルハ部に清への忠誠と服従を誓わせた。また1720年にはチベットも正式に併合した。
康熙帝は中国の領土を拡大しただけでなく、国民生活にも多大な影響をあたえた。各地の天候と穀物価格を報告させ、南へ六回も巡幸して華南の知識階級を懐柔するとともに、華南に残る大規模な貯水工事の跡やその設備をしげしげと観察した。1721年には人口が急激に増加しているにもかかわらず、全国の人頭税を廃止した。
長い治世のあいだ、康熙州帝はつねに上奏書に自分で目をとおし、メモをとり、思いついたことを書きこんだ。右手をけがしているときは、左手で書いたという。
漢人と満州族の相続の習慣の違いは、後継者問題をひき起こした。漢人の原則にしたがって、康熙帝は1626年に、皇后が生んだ長男(康熙帝の二〇人の息子のうちの二番目)がまだ幼いうちに皇太子に指名した。
しかし後継者を親族間で競いあって決定する満州族の伝統により、康熙帝の一五人の年かさの息子たちのあいだで後継者争いが起こった。決められていた皇太子は廃太子となり、ふたたび皇太子として復活し、また廃太子とされた。結局、康熙帝の四男が1722年に帝位を継ぎ、薙正帝として即位した。その直後から康熙州帝の死と後継者争いをめぐる疑惑が浮上した。父親殺しの疑いもふくめて、今日まで真相は明らかになっていない。
86曹雪芹―中国最高の小説家
曹 雪芹は清朝・乾隆時代の中国の作家。生まれは江寧、現在の南京市。名は霑、雪芹は字。清朝の八旗軍に属する旗人の家柄で、北宋の名将曹彬の子孫と称する。中国を代表する古典小説『紅楼夢』の作者とされる。『紅楼夢』の出版を援助し評論を付した脂硯斎は雪芹の一族という説が有力である。
曹雪芹(1715―1763頃) 中国最高の小説家
曹雪芹は昔から中国最高の小説家として知られ、その文学的価値はシェークスピアやホメロスにも匹敵するとうたわれてきた。過去100年のあいだにこの作家について徹底した研究がなされたが、これほど有名でわずか二世紀半前に亡くなったばかりの人物であるにもかかわらず、周到な調査をしても、その生涯は謎に包まれたままだ。誕生した年や父親の素性、本人の職業、そして北京郊外のどこで晩年をすごしたのかさえ、まったく知られていない。
曹氏はもともと中国東北部に居住する明の臣下だった。満州族は曹氏を捕虜にし、活の皇族の世襲の奴隷にした。したがって曹氏は漢人ではあるけれども、法的にも文化的にも、満州族で構成された「八旗制」の一員であった。「八旗制」には、それぞれ満州族とモンゴル族の八旗満州や八旗蒙古があり、これらのなかではたとえば漢人の習俗である女性の纏足は行なわれない。若くして帝位についた康煕帝の乳母を曹雪芹の曾祖母がつとめていたことから、曹氏は政治的に優遇された。この曾祖母の夫にはじまって、曹氏は三代およそ60年間、華南の大都市南京で利益の多い織造局(宮廷で使用する織物を生産する機関)の長官の地位につき、その他のポストも兼任した。
活の皇帝一族は、中国史上もっとも高い教育を受けた皇族である。教育を重視 する皇族の方針はやがて支配層全体に広がった。こうして、人口比では少数派の「旗人」(八旗に所属する人。活の人口は満州族に対し漢人が圧倒的多数だった)のあいだに、満州族、モンゴル族、漢人にかかわらず、多数のすぐれた文学者が現れた。曹雪芹の祖父の瞥寅(1658−1712)もそのひとりだ。傑出した詩人、書籍収集家、出版者として知られ、儒教道徳にあまりしぼられない観点から演劇の批評も行なった。
康煕帝は華南に六回巡幸し、曹一家はそのうち四回南京で皇帝の接待役をつとめた。
皇帝の曹家に対する寵愛ぶりがここにも表れている。気前のいい康配…帝は曹家にたっぷりとほうびをあたえ、曹寅の長女が満州族の爵位をもつ家に嫁ぐためのうしろだてとなり、この娘の生んだ息子はその爵位を受け継いだ。曹一族はぜいたくで豊かな生活を送った。そんななか、1715年頃に曹雪芹は生まれた。本名を雷という。
恵まれた時代は1722年に終わりを告げた。この年、康熙帝が没して薙正帝が帝位を継ぐことになるのだが、後継者が決定するまでに激しい争いがあり、曹家は敗者の側についてしまったのだ。数十年間のぜいたくな暮らしと康黙帝へのたびたびの接待がたたって、曹家は政府に莫大な借金があった。曹家はたちまち宮廷内で失墜し、長いあいだ占めていた織造局長官の地位とその他のポストをすべて失った。1728年に宮廷はついに曹家の全財産の没収を命じた。家族は困窮し、全員で南京を出て北京に移り住んだ。1735年に乾隆帝(伝記撃が即位すると、失脚した官僚が借金を払えない場合は返済を免除するという恩赦が発表されたが、曹家がかつての栄光と富をとりもどすことは二度となかった。
曹雪芹は早々と官僚になる夢をすてた。昔から仕官は貧困から這い上がる唯一の方法だったが、彼は儒教道徳にしぼられない酉晋時代の自然な生き方にあこがれた。八旗制の構成員は旗人とよばれ、政府の基本的な配給を受けとる資格があったが、曹雪芹はときには食べ物にもこと欠く苦しい生活をした。彼は家族が住む都会の家を出て北京西郊の田舎の村に移り、水墨画を売って暮らしをたてたようだ。
1750年代のなかば、曹雪芹は彼の名を不朽のものにする小説を書きはじめた。最終的に『紅楼夢』と題されたこの作品は、有力な資産家一家がしだいに没落し、最後に破滅するまでを描いている。自伝的内容だと一般に考えられており、過去100年の曹家の栄枯盛衰が映し出されている。同性愛や近親相姦、そして官吏の腐敗まで、当時の貴族の生活を生き生きと描いているのが特徴だ。数十人の主要登場人物のなかには、下女もいれば一家の家長の女性もいる。それぞれの描写が個性と生気にあふれているので、実在のモデルがいるにちがいないと考えられていた。
この小説はいくつもの脇筋が並行して進んでいくが、中心となるストーリーでは、若き日の曹雪芹と思われる主人公の票宝玉と、そのいとこで病身の美女の林黛玉との悲恋が無邪気な子ども時代から語られていく。涙を誘うこの物語は何世紀にもわたって数百万人の読者に愛されつづけ、登場するふたりの恋人たちの名前はあまねく知れわたった。曹雪芹は古典的な詩にも才能を見せたが、この小説は主として当時の北京方言にもとづく口語体の中国語で書かれている。
『紅楼夢』の魅力は、未完成のもどかしさによっていっそう高められている。著者は最初の八〇回を書いたところで亡くなってしまい、物語は一家が没落しはじめる直前で終わっている。物語を完結させるさまざまな試みがなされたが、旗人の高顎(1738頃−1815頃)が最後の40回分を書きくわえて完結させた120回本がもっとも普及している。高顎によって追加された部分が曹雪芹の考えた筋書きと同じかどうかはだれにもわからない。曹雪芹は物語を完結させていたのかもしれないが、後半部分の原稿がのちに失われてしまったという可能性も考えられる。
曹雪芹は中国暦の大晦日(1763年2月12日)に亡くなったと伝えられている。その数か月前に幼い息子を亡くし、貧困のうちに世を去った。
88へシェン―腐敗した清の官僚
へシェン(1750−1799九九)
腐敗した清の官僚
ヘシュンは一七五〇年に生まれた。満州族ニオフル氏の出身で、清の統治制度である八旗制では正紅旗に所属していた。眉目秀麗な才人で、満州族の貴族の子弟が学ぶ宮廷学校でみっちり教育を受け、有力な満州族の貴族で法務大臣をつとめる人物の孫と結婚した。
ヘシュンは一七七二年に下級の衛士としてはじめて仕官した。あるとき、乾隆帝(伝記8 3)が上奏文を検討しながら『論語』の一説を引用した。居あわせたほかの満州族の衛士はだれも皇帝の言葉の意味がわからなかったが、ヘシュンは同じ『論語』のなかから適切な言葉を引用して返答することができた。皇帝はこの下級官僚が示した博識に大いに喜び、これをきっかけにヘシュンは官僚の世界で出世の階段をかけ上がっていくのである。
ヘシュンは四年たらずで財務副大臣、軍機大臣(皇帝の補佐として政治の中枢を担う)、内務府大臣(皇帝の生活と事務を管理)、領侍衛内大臣(首都北京の防衛を統括)などの要職を兼任するようになった。一七八〇年に乾隆帝は末娘とへシュンの息子を婚約させている。一七八二年、ヘシュンは活の正式な宰相職と人事担当大臣に昇り、人事、財務、朝貢を統括する部の長官もかねた。以後、へシュンは一七九九年に死ぬまで、中国史上もっとも強宰相として権勢を誇った。
汚職にまみれた寵臣へシェン
ヘシュンはさまざまな悪どい汚職の手口を駆使して莫大な富をたくわえた。財務と軍事を担当する部を掌握しているおかげで、政府資金を自由にできたのである。人事担当大臣という地位にあったので、とくに地方の知事からの賄賂が絶えなかった。陝西省の知事は銀二〇万両(清代の一両は六二四〇キログラム)をヘシュンに渡そうとしたが、ヘシュンの私用の納戸に賄賂を置くためには、まずへシュンの部屋の前に立つ番人に銀五〇〇〇両を贈る必要があった。
乾隆帝の寵愛のおかげで、ヘシュンは汚職の摘発をすり抜けることができた。また、汚職がばれるのを防ぐへシュン独特の手口があった。たとえば政務の監察をするポストが空席になったときは、かならず六〇歳以上の者で埋めるように命じた。その年になれば汚職を摘発するよりも、快適な老後を手に入れることで頭がいっぱいだからだ。
一七九三年にへシュンは皇帝の代理として、イギリス初の訪中使節ジョージ・マカートニーを北京郊外の別荘(現在は北京大学キャンパスの一部になっている)に迎えた。ヘシュンはそこでイギリス大使に随行した医師に脱腸帯をあつらえさせている。
乾隆帝は一七九五年に名ばかりの退位をした後も実権をゆずらなかったので、帝位を継いだ嘉慶帝はヘシュンの不正を知りながらどうすることもできなかった。「太上皇」が亡くなると、へシュンはただちに逮捕され、私有財産は差し押さえられて監査された。ヘシュンの全財産は銀八億両という天文学的な数字(現在の金額にして一四四億ドル)で、当時の政府の年間歳入額(およそ七〇〇〇万両) の一〇倍を超えていた。一七九九年二月二一日、ヘシュンは自害を命じられた。乾隆帝の死から一四日後のことである。
清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三人の皇帝により、全盛期を迎え、この時代は三世の春と呼ばれる。しかしその一見華やかな時代の陰で徐々に社会矛盾・官僚の腐敗・地方農民の没落などが進行していた。
乾隆年間には、それまで勢力を弱めていた白蓮教が次々と新教団を作るようになる。1774年、山東省で八卦の新教団が結成され、首領の王倫(中国語版)が反乱を起こした。また、四川省でも厳しい取り立てに抗議する反乱が起こり、鎮圧された後、信徒は白蓮教に吸収された。
清朝は白蓮教の教主である劉松を捕らえて、流刑に処し、劉松の高弟である劉之協の逮捕令を出した。1794年に劉之協は捕らえられるが、護送中に脱走した。
勃発
乾隆帝が劉之協の捕縛を命じてヘシェン(和?)の兄弟のヘリェン(和琳)を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で過酷な取調べが行われ、無関係の民衆多数が犠牲になり、加えてこれを良いことに官吏たちは捜査の名目で金銭の収奪などを行った。
1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、ヘシェンが地位を利用して専横を開始した。
これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で王聡児・姚之富率いる白蓮教団の指導の元に反乱を起こした。これを契機として陝西省・四川省でも反乱が起こり、更に河南省・甘粛省にも飛び火した。
白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万といわれる。
それを鎮圧するべき清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった。
白蓮教徒たちも組織的な行動が無く、各地でバラバラな行動を取っていたために次第に各個撃破され、1798年に王聡児・姚之富が自害。
1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永?(嘉慶帝)に譲位し太上皇となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷いた。いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆上皇は王朝に老害を撒き散らした。
1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。ヘシェンは乾隆上皇の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位への布石にもなった。
89林則徐―英國のアへン密貿易を禁止した官僚
林則徐 (1785―1850)
イギリスのアへン密貿易を禁止した官僚
林 則徐は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。 字は少穆。諡は文忠。イギリスによる阿片密輸の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは阿片戦争を引き起こした。
林則徐は1785五年に貧しい教師の家に生まれた。生地の福建省は中国南東岸に位置し、もっとも小さく山がちな省のひとつである。19歳のときに競争率の高い科挙の地方試験に合格するが、最終段階の試験には二回落第し、福建省の知事に要請されて職員として働きはじめた。1811年にようやく最終段階の試験に合格し、名誉ある翰林院のポストに任命された。
1821年以降、林則徐は重要な地方官の地位を歴任し、公正さと実務能力をかねそなえた官僚として認められる。道光帝は林則徐を問題解決能力にすぐれた官吏として信頼していた。不正を許さず、人民の幸福を第一に考える人として、庶民からは尊敬をこめて「林青天」とよばれた。
アヘン窟を処分している絵。1842年。
1824年に母が亡くなると、林則徐は儒教の定めにしたがって喪に服すために長く職を離れた。すると皇帝からよびだされ、江蘇省の供沢湖の堤防が決壊し、北京への穀物の出荷が止まっているため、服喪期間を切り上げて堤防の修繕を監督してほしいと要請された。こうした緊急事態が起きるたびに頼りにされるのが林則徐だった。
林則徐は1832年に江蘇省巡撫(長官)に任命され、農業改革に実績を上げた。1837年には湖北と湖南を合わせた地域の総督に就任する。ここで取り組んだのはアへン密貿易の廃止とアへン中毒の根絶である。
1780年代以降、イギリス東インド会社はインドにおけるアヘン生産を独占し、アヘンは密輸業者によって中国に輸出された。中国のイギリスに対する大幅な貿易黒字(主として茶の販売による) は、中国へのイギリスのアヘン輸出によって巨大な赤字に転じ、さらにアヘン中毒は深刻な社会問題をひき起こした。数千万人という中国人庶民がアヘン中毒になり、宮廷や政府、軍隊など、支配層にもアヘンが広まった。一八三〇年代にはイギリスは年間推定一八二〇トンのアヘンを中国に輸出していた。すでに一七二九年に清政府はアヘンの生産、販売、使用を禁止す る厳しい法律を公布していたが、ほとんど効果は見られなかった。アヘンの公然の密売は社会と政府の激しい堕 落をまねいた。
林則徐はアヘンの密貿易を禁止するため、断固たる緊急措置を求めて皇帝に上奏文を次々に提出し、欽差大臣(特定の問題について皇帝から全権を委任されて対処する臨時の官)に任命されて、アヘンの禁輸を断行するため広東に派遣された。一八三九年三月一〇日、林則徐は広州条約港?外国との条約によって開港された貿易港? に到着するやいなやイギリス商人に通商停止を申しわたし、アへンの在庫を差し出すように命じた。当時の活の役人は情けないほど世界情勢にうとかったが、林則徐はヨーロッパの国際法の手引書から、外国商人を取り締まる行為の根拠となる部分を翻訳させて読んでいた。
広州に派遣されていたイギリスの貿易監察官チャールズ・エりオットは、林則徐の要求にしたがってすべてのイギリス商人にアヘンを引き渡すように命じた。しかし、このときエリオットはイギリス王室が商人の損害を賠償すると約束している。つまりイギリス政府がアヘン貿易に関与しているのを認めたも同然であり、積み荷を奪われた報復としてイギリス軍が中国政府に軍事行動をしかけるお膳立てがここで作られたのである。
林則徐が没収したアヘンは二万箱に上った。一箱の重さはおよそ六三キログラムである。彼はそれを広州に近い海岸で処分した。塩と石灰を混ぜて麻薬成分を中和してから、海に廃棄したのである。一方で林則徐はヴィクトリア女王宛に公開状を送り、イギリス政府がアヘンの密貿易を継続する倫理的な根拠を問いただした。その公開状はアメリカのイエール大学の卒業生によって、中国語からあまりうまくない英語に翻訳された。女王からの返事はとどかなかった。
返信のかわりに、イギリスは一八四〇年六月に小砲艦を派遣した。イギリス軍の優勢は火を見るより明らかだった。林則徐がアヘンを処分した広州はおそらく中国側の守りが固かったせいだろう、イギリス艦隊は広州より北の杭州湾をめざし、湾内の島を制圧してから、首都北京の港である天津港に向かった。
道光帝はたちまちイギリス軍に降参し、林則徐をロシアとの北西の国境にあたるイリ地方に追放した。しかしイギリスの攻撃は止まず、沿岸の都市が次々に占領された。イギリス軍が長江の奥深くまで侵入すると、皇帝は和議を申し入れ、香港を割譲し、廃棄したアへンに対する莫大な賠償金とイギリス軍の遠征費用を支払った。中国が西洋の強国に躁潤される屈辱の世紀がこうしてはじまったのである。
一八四六年に林則徐は追放を解かれてよびもど芋れ、以後、いくつかの地方長官のポストについた。一八四九年に体調をくずして引退するが、翌年、ふたたびよぴもどされて、今度は広西省の反清的な宗教団体「拝上帝会」 の平定を目的として欽差大臣に任命された。林則徐は一八五〇年一一月二二日、任地に向かう途中に広東で亡くなった。外国商人に毒殺されたという噂もある。中国史上もっとも公正で有能な官吏の死の真相は謎のままだ。
林則徐の書
91僧格林泌―モンゴル族最後の猛将
僧格林泌(1811―1865)
モンゴル族最後の猛将
僧格林泌は1811年生まれで、内モンゴルのホルチン部ボルジギット氏の出身である。チンギス・カンの弟のジョチ・カサルの子孫だといわれている。
僧格林泌の家族は貧しく、彼は父とともに放牧をして暮らしを立てた。しかし僧格林泌の一族はモンゴル族のなかでいちばん先に満州族に服属したので、その功により永続的な王位(ホルチン郡王)をあたえられていた。当時の王は活の道光帝の義理の兄(道光帝の姉の夫)にあたる人物だったが、一八二五年に後継者がいないまま亡くなった。僧格林泌はまれにみる武術の腕前を評価されて 「バートル」 (モンゴル語で 「英雄」) とよばれていたので、選ばれて王位を継ぎ、北京に出て宮廷に仕えることになった。
僧格林泌はまたたくまに頭角を現した。1834年にはすでに、皇帝のもっとも近くで身辺警護にあたる四人の近衛兵のひとりである御前大臣に任じられた。僧格林泌はモンゴル旗(行政・軍事の単位)のひとつを統括し、続いて満州旗のひとつを統括した。
キリスト教の影響を受けた太平天国の乱(洪秀全を参照)遠征中の僧格林滝を描いた19世紀の絵が勃発すると、僧格林沌は1853年に欽差大臣として首都北京二倍の防衛をまかされた。彼は1855年に太平天国の北伐軍を全滅させ、ふたりの指揮官を捕虜にした。太平天国軍は二度と黄河以北に攻めこまなかった。
1859年6月、僧格林沌は英仏連合艦隊を破って天津を防衛する。しかし、翌年英仏軍が戦備を増強してふたたび侵入すると、僧格林滝の勇猛果敢な騎兵は、最新式の西洋の武器の前になすすべもなく虐殺された。英仏連合は北京を占領し、円明園を徹底的に破壊して火を放ち、洋館が立ちならぶ西洋楼は廃櫨になった。僧格林沌は厳しく責任を問われ、降格されたうえに爵位を剥奪された。
1861年、清政府はさらに深刻な危機に直面した。華北の捻軍とよばれる農民反乱の拡大である。捻軍はときには南京の太平天国と連携しながら清に対抗した。僧格林沌はもとの地位に戻され、捻軍の平定を命じられた。
彼は五年にわたって全力で戦いつづけ、宮廷から厚い信頼を得た。同じ1861年に威豊帝が死去すると、僧格林滝はクーデターによって実権を掌握した西太后(伝記89) の味方についた。そのため彼の地位と権力はますます高まり、王位にくわえてふたつの爵位をあたえられた。
その後の捻軍との戦いで僧格林沌は多数の有能な部下を失い、厳しい戦いを続けながら華北各地を転戦した。
1865年5月、ついに山東省で待ち伏せしていた反乱軍に包囲される。護衛する兵の半数を失い、空腹と疲労に苦しめられながら夜を徹して戦い、ついに戦死した。
宮廷は僧格林滝の死に衝撃を受け、皇帝が祖先の祭祀を行なう紫禁城内の太廟に彼を祀り、その功をたたえた。
死後にこうした名誉をあたえられたモンゴル族は、僧格林沌をふくめてふたりしかいない。
93西太后―清王朝の最期を彩る女帝
西太后(1835―1908)清王朝の最期を彩る女帝
西太后は1835年に満州族エホナラ氏の中堅官僚の家に生まれた。エホナラ氏はヌルハチが所属した氏族と通婚関係にあったが、このふたつの氏族の同盟は決裂し、両者に深い確執が残った。エホナラ氏の呪いによって、清王朝はいずれエホナラ氏の子孫に滅ぼされるだろうという言い伝えが残ったほどである。西太后は1851年に16歳で身分の低い寵姫として後宮に入った。その翌年、西太后の父は、侵攻する太平天国軍(洪秀全参照)から逃げるために職場を放棄したという理由で、中国南部の安徽省の官吏の職を解かれ、その後まもなく亡くなっている。
1856年に西太后は威豊帝の息子を生んだ。これが彼女の歴史上の運命を決定したといっていい。その頃には満州族皇室の初期の生命力はすっかりおとろえてしまったようだ。その証拠に、活王朝はこの先まだ55年は続いたというのに、夫折したもうひとりの皇子を除けば、西太后が生んだ息子はときの皇帝に生まれた最後の子どもとなってしまったからだ。
第二次アへン戦争のさなかに英仏連合軍が北京に迫ると、威豊帝は熱河省(現在の河北省承徳市)の狩猟園に避難し、一八六一年の夏にそこで急逝してしまう。同治帝として即位した五歳の息子をつれて、西太后は成豊帝の皇后だった東太后とともに北京に戻った。
ふたりの皇太后は、亡くなった威豊帝が摂政として指名した八人の重臣を罷免し、そのうち三人を処刑した。
野心満々で冷酷な西太后が、生きるか死ぬかのクーデターに決定的な役割を果たしたのは想像にかたくない。西太后と東太后は共同で皇帝を補佐し、「垂簾政治」(幼い皇帝に代わって皇太后が行なう摂政政治。皇太后は御簾の陰に座っていたのでこうよばれる)を行なったという。ときには実際に玉座の陰に隠れて座っていたらしい。ふたりの皇太后が西太后と東太后とよばれるのは、それぞれが紫禁城の西と束の宮殿に暮らしたからである。東大后は西太后に比べて政治への関心が薄かったので、中国語に堪能な西太后の力がしだいにまきっていくのを気にとめなかった。
1873年に同治帝が成人すると、表向き垂簾政治は終わったはずだが、西太后は政治にも皇帝の私生活にも目出しを続けた。まだ若い皇帝はどちらかというとひかえめな東太后に愛着を感じており、1872年に妃を選ぶにあたって東大后の勧める相手を選んだので、西太后の逆鱗にふれたといわれている。同治帝は1875年1月12日に亡くなった。北京の売春宿をおしのびで足繁く訪れていたため、梅毒に感染したという説があるが、公式には天然痘で死んだとされている。
西太后は三歳の自分の甥を後継者に選んだ。束太后とふたりで摂政政治を続けるつもりだったのである。残された同治帝の妃は身ごもっていると噂されたが、自害して果てた。1881年、束太后はなんの前ぶれもなく急に亡くなった。これで西太后の邪魔をするものはひとりもいなくなった。
西太后の長い摂政政治のあいだに、中国の国際的な立場は悪化の一途をたどったが、国内情勢はかなり改善された。途方もない数の犠牲者を出しながら、太平天国の乱はついに平定された。その他の反乱も同様に鎮圧された。国内がふたたび安定すると、大半の国民の日常生活は改善された。とりわけ太平天国が荒らしまわった地域では、人々の暮らしはようやく落ちついた。そのため、西太后の摂政時代は清の復興期ととらえられている。もっとも、この時期の繁栄と平和は、太平大同の乱のせいで中国の人口が減少したためだという説もある。

西太后は自分の60歳(数え年)の誕生日を祝うためにけたはずれの出費をした。北京の北西郊外にある願和園を大々的に改修したのもそのひとつだ。宮廷は日清戦争開戦直前の1894年に、海軍予算を流用して西太后の生誕祝賀会の費用を捻出しなければならなかった。これでは活の海軍が日本に海戦で大敗したのはむりもない。
西太后が瞳和園に大理石の船を建造させたのも皮肉な話である。
甥の光緒帝が1889年に成人すると、西太后は形ばかりは表舞台からしりぞいた。しかし決して政治の実権を手放すつもりはなかったのである。若い皇帝は外国勢力に中国がくりかえし躁潤され、領土を奪われたことに衝撃を受けた。とくに1894四年の日活戦争後に台湾を日本に割譲したことは大きな屈辱だった。皇帝は瀕死の清王朝をよみがえらせるため、抜本的な制度改革の必要を切実に感じた。西太后の支持を受けた保守派は、この皇帝の前に断固として立ちふさがったのである。
改革派は新進の漢人武将衰世凱を招き、西太后に権力の放棄を迫るよう要請した。しかし保身に長けた衰世凱はすぐさまこの計画を西太后の側近で直隷総督(北京一帯の軍事・行政を統括)の永禄に密告したといわれる。西太后は1898年9月に改革派に対抗するクーデターを決行し、光緒帝を幽閉、改革派を代表する六名を処刑し、重要な改革政策をことごとく廃止した。
西太后は西洋の侵略に嫌悪感をつのらせるあまり、1900年に義和団(排外的秘密結社) や活国軍による外国大使館への攻撃を容認した。これに対して八か国からなる連合軍は北京を攻撃して占領し、外国公使館の包囲を解いた。西太后は北京を脱出せざるをえなかった。
有能な廷臣李鴻章の粘り強い交渉のおかげで、清はなんとかこの危機をおきめたが、四億五〇〇〇万両という巨額の賠償金の支払いを飲まなければならなかった。もっとも、賠償金の大半はのちに免除されるか、海外の中国人学生の教育のために使われている。西太后はかすり傷ひとつ負わずに北京に戻り、それからは外国文化に対してやや寛容な態度を示すようになった。
抜け目ない政治家であった西太后は、宮廷に外国婦人を招くようになった。外交官や宣教師の妻たちは、自分たちを寝台に座らせてイギリスのロイヤルウースター製の茶器で紅茶を勧める一見気さくな老女に魅せられた。
西太后は自分の思いどおりの印象をあたえられるように応接間の装飾に気を配り、仏像を一時的にかたづけて、そのかわりに西洋の時計を置いた。また、アメリカ人の女流画家キャサリン・カールを宮廷に迎え、一般に公開するための肖像画を描かせた。これはまさしく伝統破りの行為である。中国では、皇族の場合はとくに、肖像画は死んでから祖先を祀る祭壇に掲げられる場合がほとんどだったからだ。
時すでに遅しとはいえ、西太后は近代化のために数々の改革を容認した。たとえば近代的産業の導入や、科挙の廃止、纏足の禁止である。しかし、それぞれの改革は意味のあるものではあったけれども、もはや手遅れでしかなかった。知識層は次々に立憲君主制に見切りをつけ、共和主義革命にくわわった。
1908年11月15日、ほぼ半世紀にわたって中国を支配しつづけた西太后が世を去った。1898年以降、実質的に幽閉の身に置かれた光緒帝の死の翌日である。エホナラ氏の昔の呪いを思い出させるように、清王朝はわずか三年後に滅亡する。
宮中の西太后
西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは危害を加えられることなく後宮で生活している。前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生んだ後、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕?の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。また、「四春」と称された4人の寵姫(禧貴人、慶貴人、吉貴人、?貴人)は、同治、光緒朝に嬪、妃に加封され、平穏な生活を送る。
一方で西太后は権力への執着が強く、同治帝が西太后の推す慧妃ではなく東太后の推した阿?特氏を皇后とした事を忘れず同治帝の崩御後に阿?特氏を死亡させ、また光緒帝に親政を促した寵姫の珍妃を殺害させるなど、自分を脅かす可能性のある人物を排除している。
95孫文―理想主義の革命家・中華民国創立者
孫文(1866―1925)

理想主義の革命家・中華民国創立者
孫文(1866〜1925、孫逸仙、孫中山とも号した)は広東の農民出身の華僑の一家に生まれたクリスチャンであり、14才で兄を頼ってハワイに渡りカレッジに学んだ。アメリカの民主主義社会の空気を体験して19才で広東に戻り、香港で医学を学び、医師を開業したが、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医とるほうが大切だとして、改革運動に加わった。清朝の改革を目指して1894年、ハワイで興中会を結成、1895年日本との講和に反対して広東で武装蜂起したが失敗し、日本に亡命した。亡命中は横浜に居住し、宮崎滔天の紹介で犬養毅などと知り合った。
孫文は1866年11月12日に、広州からほど遠からぬ村で生まれた。孫家の祖先は客家だといわれている。
農民の子の孫文は、子どもの頃に標準的な儒教の初等教育を受けた。商人として成功していた年の離れた兄と暮らすために一三歳でホノルルに移住する。孫文はイオラ二・スクールに入学し、すぐに英語をマスターした。この頃アメリカによるハワイ併合が進められており、孫文はアメリカ市民権を獲得した。
孫文がキリスト教に傾倒したため、保守的な兄は心配して孫文を1883年に中国に送り返した。しかし孫文はアメリカ人宣教師によって香港で洗礼を受けている。1884年5月、孫文は田舎育ちの娘と親の決めた結婚をする。ふたりのあいだには一男二女が誕生した。1892年、孫文は香港にある中国人のための医科大学を卒業し、医者として開業した。
西洋教育を受けているあいだも、孫文は中国語と中国史を学ぶのを忘れなかった。外国や香港で目にする西洋文化と比べて、清のあまりの後進性に衝撃を受け、孫文は中国社会の改革と近代化の必要を強く感じた。
1894年の初め、重臣の李鴻章(西太后を参照)に改革案の提出を試みるが、返事はなかった。孫文はハワイに戻り、1894年2月24日に中国初の近代的革命組織である興中会を組織し、すぐさま香港にも組織を拡大した。
資金はとほしく支持者もわずかだったが、興中会は1895年5月に広州で地元の秘密結社のネットワークを利用し、反清軍事蜂起の計画に着手する。ところがこの計画は清政府にもれてしまった。孫文はかろうじて国外に脱出し、最終的にアメリカに向かった。孫文には政府の懸賞金1000ドルがかけられた。孫文はそれでも改革の必要を訴えつづけ、主として海外に暮らす中国人から資金を集めた。1896年、孫文はロンドンに到着するが、偽名で中国公使館を訪れたとき、身元がばれて拘束されてしまった。孫文はひそかに中国に送還されそうになるが、当時ロンドンで暮らしていた香港の医科大学時代の恩師になんとか急を知らせることができた。この恩師の働きかけで世論の批判が高まり、孫文は解放された。数週間たらずのうちに孫文の名は世界に知れわたり、孫文は多数の支持者を獲得した。1897年に訪れた日本では、反活思想をもつ大勢の中国人留学生から、まぎれもない指導者として大歓迎を受けた。
孫文が唱えた政治思想は三民主義(民族、民権、民生)とよばれる。孫文は不屈の指導者であったが、正義を求める情熱が先走り、理想を実現するための実務的な能力が追いついていない面があったようだ。
1900年から1901年の義和団の乱と、それに対する外国の軍事介入が起きているあいだに、孫文はまず李鴻章に、続いて広東省と広西省の総督によぴかけて、華南に非満州族の政府を設立しようとした。ふたたび武装蜂起に失敗すると、孫文は革命への支持をとりつけるためにアメリカやヨーロッパをまわった。東京ではいくつかの革命団体が連合して中国革命同盟会が結成され、孫文が総裁となった。
革命運動の流れが変わるのはここからである。武装蜂起はあいかわらず失敗続きだったが、革命運動のプロパガンダは中国の知識人層にかなり浸透し、近代化された清軍のなかにも秘密結社のネットワークがおよぶようになった。1911年に長江沿岸で革命が勃発したとき、孫文はアメリカにいて蜂起には直接かかわっていなかった。急きょ帰国した孫文は、広州での武装蜂起に失敗して国外に脱出して以来、16年ぶりに祖国の土をふんだのである。国際的名声と長年の革命遂行の努力によって、孫文は満場一致で新たな国家の指導者に推され、中華民国臨時政府が樹立されると、初代臨時大総統に就任した。
しかし、組織としての結束が弱く、ほとんど華南出身者ばかりの革命家の集まりは、旧清政府で独裁権をにぎっていた哀世凱にとうていたちうちできなかった。交渉のすえ、孫文は中華民国の正式な初代大総統を衰世凱にゆずらざるをえなかった。独裁化した哀世凱に対して孫文は1913年に「第二革命」を起こすが失敗し、日本に亡命しなければならなかった。
孫文は日本で中華革命党を結成。かつてハワイで組織した輿中会の流れをくむ政党で、この中華革命党がのちに改称して中国国民党となる。この頃、東京で宋慶齢と結婚した。孫文にとっては二度目の結婚で、相手は上海の客家の家系で有力なキリスト教徒の家庭に生まれ、孫文の息子よりも二歳年下の女性だった。
中国で軍閥が支配を強めた頃、孫文が帰国した。孫文は1921年に広州で広東軍政府を設立し、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の協力を受けて、中国共産党と積極的な連合政策を進めた。孫文は新設の革命軍の仕官を養成するために陸軍軍官学校を設立し、蒋介石を校長とした。そして中国国民党をレーニン主義的な政党国家体制を特徴とする政党に変えた。
国共合作は、孫文の三民主義がもつ平等主義や社会主義的な性質によって推進された面があった。しかし合作は中国国民党内に深いイデオロギー上の分裂を生んだ。その結果、孫文の息子は忠実な国民党員として一九七三年に台湾で亡くなり、孫文の二人目の妻宋慶齢は、1981年に北京で亡くなる直前に、「中華人民共和国名誉首席」の称号を贈られた。
中国の統一は軍事的手段でしか達成できないと確信しながらも、孫文は理想主義的な立場から、1924年末日、軍閥が支配する北京政府との協議におもむいた。一九二五年三月二一日、孫文は北京のロックフェラー病院で、肝臓ガンで死亡した。最後の言葉は 「平和、奮闘、中国を救え」だった。
辛亥革命の指導
1905年、東京で中国同盟会を結成、三民主義を理念とする四大綱領を掲げた。1911年10月、武昌蜂起が起こると滞在先のロンドンから年末までに帰国し、辛亥革命(第一革命)を指導した。翌年1月1日に成立した中華民国の臨時大総統に就任したが、清朝の実力者袁世凱が清朝皇帝を退位させることを条件に臨時大総統就任を要求すると、3月に譲り渡した。
第二革命
袁世凱の独裁が強まると、それに反対して第二革命が起こった。孫文は袁世凱の独裁に抵抗するため、1912年8月に中国同盟会などの政治結社を統合して国民党を結成した。袁世凱も妥協して暫定憲法として議会制度を採り入れた臨時約法が制定され、1913年に初めての選挙が実施されると国民党が第一党に躍り出た。しかし、この事態を恐れた袁世凱は実力で議会を解散させ、国民党の指導者宋教仁を暗殺した。国民党側では各地で武装蜂起して袁世凱政権と戦ったがいずれも弾圧されてしまった。この袁世凱独裁政権を倒す蜂起を第二革命と言っている。弾圧を逃れた孫文はやむなく1913年日本に亡命、東京で秘密結社として中華革命党を結成し、革命運動を継続した。
第三革命
中華民国では袁世凱が正式に大総統となった。1914年の第一次世界大戦では中立を宣言したが、1915年日本が二十一カ条の要求を突きつけるとそれを受諾した。これに対して激しい反対運動が起こった。袁世凱は帝政宣言を発し自ら皇帝となってこの難局を乗り切ろうとしたが、帝政反対の第三革命が起こり、実現できないまま1916年に死亡した。1917年には孫文は広東軍政府を樹立し、大元帥となって北京の段祺瑞軍閥政府に対抗したが失敗し上海に逃れた。
中国国民党の結成
1919年に二十一カ条要求を容認したヴェルサイユ条約反対の五・四運動がナショナリズムとして高揚すると、孫文はそれまでの革命政党としての政党活動ではなく、公然とした大衆政党としての運動へと指導方針を転換させ、中国国民党を結成しその総理となった。また世界大戦中に起こったロシア革命の影響を受けて、自らソ連に接近するようになった。そのころ中国でもマルクス主義をもとにした中国共産党も結成され、北京軍閥政府に対する二つの有力な政治勢力となっていく。
孫文の革命論
孫文の三民主義は中国革命の指針としてその後も標榜されていくが、孫文自身は、中郷で直ちに西洋風の民主主義的な議会政治が可能であるとは考えていなかった。その革命論は、「三序」と言われる段階論であり、憲法に基づく民選政府と民選議会を有する民主体制は、君主制度が廃絶されるとすぐに実現されるのではなく、第一の段階として「軍法の治」、第二の段階として「約法の治」という二つの段階を経て「憲法の治」へ至ると考えた。「軍法の治」とは革命直後の革命党を中心とした軍事独裁体制であり、旧体制の打破と民主化の環境整備の段階とされる。「約法の治」の約法とは臨時的憲法の意味で、地方自治などの部分的な民主化の実現させ、中国国民が民主政治の訓練を受けて成長・自覚をとげた暁に、国民選挙で正式の憲法を制定し、「憲法の治」を実現させるという段階的革命論であった。その根底には、中国人はまだ十分に自覚していないという愚民観があった。その点は宋教仁ら、一挙に選挙による民主政治を実現すべきであると考えた若い革命派とは違っていた。
97蒋介石―国民党の指導者
蒋介石(1887年10月31日-1975年4月5日)

国民党の指導者
蒋介石 1887年10月31日-1975年4月5日。中華民国第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。
蒋介石は1887年に斬江省の小さな港町、寧波市で塩商人の家庭に生まれ、標準的な儒教教育を受けた。1895年に父が亡くなると、一家の生活は苦しくなった。蒋介石の母はかつて仏教の尼僧だった女性である。息子を軍事教育のために日本に留学させるほど進歩的な面をもつ一方で、蒋介石が一四歳のときに四歳年上の地元の女性と結婚させるような古いところもあった(妻の毛福梅はたまたま毛沢東と同じ氏族の出身だった)。
蒋介石は日本で中国人留学生のための軍人養成学校で学んだのち、1909年に日本陸軍に入隊する。この頃、日本に亡命していた反活革命家と深い結びつきをもったことが蒋介石の人生に大きな影響をあたえている。蒋介石は孫文の創設した中国革命同盟会に1908年に入会し、その翌年孫文と対面している。
1911年に辛亥革命が起きると、蒋介石は秋瑾の同志だった人物とともに戦い、「決死隊」を組織して上海で蜂起した。そして革命派の新軍(西洋式軍隊)の団長に任命される。
しかし1912年に蒋介石は上海で孫文のライバルだった革命指導者の暗殺にかかわり、日本に亡命せざるをえなかった。また、国民党創設メンバーのひとりである彼は、中華民国の初代大総統に衷世凱が就任することに反対したため、哀世凱は蒋介石を逮捕するために3000銀ドルの懸賞金をかけた。蒋介石は上海に戻り、秘密結社「青封」(アヘンの密売など、犯罪的性質もあわせもつ)から資金その他の援助を受けた。そこで何人かのいかがわしい暗黒街のボスと「義兄弟」の契りをかわしたという。
蒋介石は孫文のために忠実に働き、とくに1922年6月に孫文と対立した軍人が広州で孫文を攻撃したとき、ともに広州を脱出するという経験をして以来、孫文から厚く信頼された。孫文は軍閥によって分断された中国を統一するためにソ連の支援を受け入れ、蒋介石をモスクワに派遣して共産党の政治・軍事制度を視察させた。蒋介石は当時国民党の本拠地となっていた広州に戻り、1924年に新式の陸軍士官学校である黄摘草官学校の校長に就任した。以来、黄輔軍官学校は蒋介石の勢力基盤となる。国民党の精鋭軍の中枢を占めたのは黄輔軍官学校の卒業生であり、彼らは国民党が1926年に軍閥を倒して中国を続一するため北伐を決行すると、主力となって働くのである。その結果、蒋介石は国民党の上層部を押しのけて権力をにぎり、ついには国民党の実質的な指導者に上りつめることになる。
蒋介石は長男(唯一の実子)蒋経国をソ連に留学させていたが、1927年に中国共産党とたもとを分かち、共産党員を弾圧して南京に国民政府を樹立した。同じ年、蒋介石は宋美齢と三度目の結婚をしている。最初の妻も二度目の妻も離婚してすて、愛人とも手を切り、キリスト教に改宗してまで手に入れたこの女性は、亡くなってまもない孫文の義理の妹(孫文の妻宋慶齢の妹)で、アメリカで教育を受けた才媛であった。蒋介石は新しい妻とともに、1934四年2月に新生活運動を提唱する。これは儒教道徳を基本にした規律正しい生活の教育を通じて、民族復興につなげようという運動だった。
それから10年間、蒋介石政府は近代中国の創生に力をつくした。実質的にはこの時期の中国統一は名目的なものであり、蒋介石は中国東南岸や長江中流域と下流域の数省を掌握したにすぎなかった。しかし軍事的ライバルや共産党による反乱を鎮圧しながら、南京政府はしだいに支配領域を拡大した。
近代教育制度が整えられ、科学研究を目的とした国立の中央研究院が設立された。南京政府ははじめて漢字の簡易化に公式に取り組み、「非科学的な」中国の伝統医療を禁止しようとさえした。スポーツの全国大会が三回にわたって開催され、この時期に南京と上海に建設された運動施設は1970年代まで最高水準のスタジアムとして利用されつづけた。
南京政府は初期にソ連から受けたレーニン主義体制の影響を色濃く残していた。独裁的傾向が強く、投獄や暗殺による弾圧が続いたが、この時期に中国はかつてない文化的復興をなしとげた。
蒋介石はドイツ人の軍事・経済顧問を継続して採用した。蒋介石の支配下で中国が発展した10年間のうち、最初はマックス・バウアーが1927年から29年まで蒋介石の初代軍事顧問をつとめ、続いてアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンが就任して、1934年に広西省の中華ソヴィエト共和国を敗走に追いやった。
中国の発展と安定化につくした蒋介石の努力は、日本軍の侵略によって危機にさらされた。蒋介石は「国外の敵を討つには、まず国内を安定させなければならない」と主張して、抗日より中国共産党の討伐を優先してきたが、1931年に日本が満州(中国東北部)を占領すると、この「安内壊外」政策への批判が高まった。
1936年12月12日に有名な西安事件が起こる。蒋介石が「中国共産党に対する最後の戦い」を進めるために西安におもむいたとき、軍司令官の張学良によって拉致監禁されたのである。張学良は蒋介石の「義兄弟」であり、蒋介石の妻宋美齢が姉妹のように信頼する女性の夫でもあった。身柄を解放する条件として、蒋介石は国民政府と中国共産党の協力による抗日民族統一戟線の実現に同意させられた。
1937年7月7日に起きた虚構橋事件の後、日本軍は中国全土に戦線を拡大し、蒋介石は8月13日に上海で徹底抗戦を開始せざるをえなかった。日中戦争が長引いているあいだに、中国共産党は「敵の陰に隠れて」成長・拡大のチャンスをものにし、国民党がおよびもつかない組織とプロパガンダ能力を育てた。戦争がもたらした想像を絶する破壊と貧困、そして中流階級を襲った経済的苦境によって、国民党の支持基盤は弱体化した。八年間の抗日戦争のあいだに国民党の党員にも深刻な堕落が生じていた。それでも連合軍がようやく第二次世界大戦に勝利をおさめたとき、中国は蒋介石によって国際連合の安全保障理事会常任理事国として五大国の仲間入りを果たし、すべての不平等条約の撤廃と、香港を除く中国内の租借地の返還を勝ちとった。
蒋介石は1945年秋に毛沢東と面会し、国民党と共産党のあいだに和平交渉が進められた。しかしまもなく和平協定は双方から被られた。日中戦争のあいだに100万の兵力を擁するまでに成長した中国共産党は、続いて起こった国共内戦でついに勝利を手にしたのである。蒋介石は1949年にやむなく国民政府を台湾に移した。
蒋介石は最後まで中華民国総統として一党独裁体制を維持したが、「本土主権回復」 の夢はついにかなわなかった。忠実な妻の宋美齢と大勢の孫に看とられて、蒋介石は1975年4月5日に亡くなった。その後を追うように、わずか一年後に毛沢東も世を去った。
99毛沢東―共産主義革命家
毛沢東 (1893年12月26日-1976年9月9日)

共産主義革命家
1921年、中国共産党創設に参加。農民解放に携わりながら31年に瑞金に中華ソヴィエト共和国を樹立。国民政府軍の構成を受け長征を行う。その途次、主導権を握り、延安に根拠地を置く。国共合作成立後は、日本軍と戦い、45年に勝利を占める
長じて急進的な革命家になる毛沢東は、1893年に湖南省の農村に生まれた。家は豊かで、大多数の農民には望めない教育を息子にあたえることができた。毛沢東は省都の師範学校(高校に相当)を卒業している。
1918年に師範学校の校長の楊昌活につれられて北京に出た。楊昌済は権威ある北京大学で教授の地位をもつ人物だった。
楊教授の斡旋により、毛沢東は北京大学図書館で司書補の仕事につき、そこで西洋思想に刺激された学生たちがくりひろげる学生運動に強い感銘を受けた。毛沢東は胡適(伝記聖の講義をはじめとして多数の講義を聴講したが、正式な学生にはなれなかった。彼は郷里で一度親の決めた結婚をしている(妻は1910〇年に病死)が、楊の娘の開慧と二度目の結婚をした。毛沢東はマルクス主義に傾倒し、1921年に上海で開催された中国共産党第一回大会に出席して以来、党の創設メンバーの一員として活動する。
毛沢東はコミンテルンの仲立ちで成立した中国共産党と国民党の最初の短い連合(第一次国共合作)期間に頭角を現し、国民党の政治宣伝責任者となった。その後、国民党の農民運動講習所長となり、地方で農村の状況を熱心に視察した。1927年に国民党が共産党を弾圧したため、国共合作は崩壊。以来、毛沢東は農民による革命という、当時はまだ急進的とみなされた思想に傾いていくのである。共産党主流派は都市部のプロレタリアに比べて農民を遅れた階級とみなし、彼の考えを相手にしなかったが、毛沢東の思想は中国史に対する鋭い理解にもとづいていた。古来中国では、新しい王朝はしばしば農民反乱をきっかけに誕生してきたのである。
1927年に毛沢東は故郷の湖南省で初の農民の武装蜂起を組織するが、この反乱はあっけなく鎮圧されてしまった。この経験から、毛沢東は国民党軍の手がとどきにくい遠隔地に反乱の拠点を移すことにした。そこで江西省の那剛此に本拠地を置くと、それをしだいに発展させ、1931年に献釦に「中華ソヴィエト共和国」を樹立した。毛沢東は共和国政府の主席に選出された。毛沢東は井岡山にいた1928年5月に地元の女性と結婚している。二度目の妻の楊開慧が1930年の秋に湖南で国民党によって逮捕・殺害される二年前のことだった。
毛沢東の中華ソヴィエト共和国は二方向からの攻撃にさらされた。ひとつは蒋介石による国民政府軍の包囲攻撃であり、もうひとつは中国共産党中央からの批判である。共産党中央は上海の快適な環境をすてて、1932年に毛沢東のいる江西省南東部の瑞金へ移転を余儀なくされた。党中央は毛沢東から実権を奪い、軍指揮権は周恩来が引き継いだ。ドイツ人顧問の協力のもと、国民軍は1934年に第五次包囲討伐我を実行し、ついに中華ソヴィエト共和国を壊滅させた。瑞金を脱出した中国共産党の紅軍は、反撃の好機をうかがうために、のちに「長征」とよばれる大移動を開始した。
毛沢東と中国共産党指導部との不和は、長征を開始して紅軍がまず南西に下り、続いて北上するあいだも解消されなかった。1935年の初め、僻地の貴州に達したとき、毛沢東は党内クーデターを敢行した。党の特別会議をむりやり開催し、はじめて党全体の主導権をにぎって、ソ連で教育を受けたコミンテルン派を権力から遠ざけた。紅軍がようやく陳西省の延安にたどり着いたとき、脱出時の兵力の九割が失われていた。
毛沢東がのちに認めているとおり、日中戦争は共産党に「敵の陰に隠れて」成長・拡大する絶好のチャンスをあたえた。1945年に日本が降伏したとき、100万の兵力をもつ共産党軍は無敵の強さを誇り、1949年には台湾を除く中国全土を制圧した。中国共産党の勝利は、毛沢東率いる大規模な農民軍による「人民戦争」の勝利であると一般に考えられているが、中国共産党が唱えた平等主義的なイデオロギーが中国人知識層の支持を獲得したこともまた、勝利に大きく貢献したことを忘れてはならない。
100万人を超える地主や「反革命分子」の処刑を除けば、毛沢東が支配する「新生中国」の最初の数年間は、経済復興と政治的団結という点で大体において成功したといえよう。ロシアから派遣された顧問は、技術面や科学面で重要な援助を提供した。1960年代初期に毛沢東がソ連と決裂すると、彼らは即刻追放された。)毛沢東は覚上層部の多数の反対を押しきって農業の集団化を推進した。1957年には「百花斉放、百家争鳴」運動を開始し、党外の知識人からの建設的な批判をよぴかけた。しかし、毛沢東の支配体制が知識人から予想以上の痛烈な批判を浴びると、今度は突然「反右派闘争」が指示された。毛沢東の要請に応じて建設的な批判をよせた数百万人の「右派分子」は、そのほとんどが高い教育を受けた知識人だったが、党の内外を問わず親族もふくめて粛清された。
1958年に提唱された毛沢東の「大躍進」政策は、大規模な「人民公社」の設立と「急速な工業化」が特徴だが、実際には農家の庭に炉を作り、原始的な方法で鉄鋼を生産するというお粗末なものだった。むりな鉄鋼の増産によって農業生産にしわよせが行き、3000万人を超える餓死者を出す悲惨な事態となった。毛沢東は人生初の、そして一度きりの「自己批判」を行なって、1962年に政治の実権を劉少奇にゆずった。
1966年、毛沢東は共産党内での影響力を劉少奇などの現実派に奪われたと感じ、プロレタリア文化大革命にふみきって、「終わりなき階級闘争」と 「永続的革命」を推進した。劉少奇とその一派は徹底的に粛清された。
毛沢東はすべての中国人青年に学問をすてて農村で肉体労働をすることを奨励し、権威をまとったあらゆるものを攻撃し、「封建的、ブルジョア的、修正主義的」と名ざされたすべてのものを破壊した。こうした暴力的行為の矛先はおもに教育制度に向けられた。教授や専門家は殴打され、農村に送られて肉体労働に従事させられた。
毛沢東の文化大革命にはふたりの代表的な協力者がいた。毛沢東の新しい後継者、林彪元帥と、毛沢東の四人目の妾で元映画女優の江青である。毛沢東は党幹部の強硬な反対を押しきって、長征からまもなく江青と結婚している。林彪との協力関係はほどなく決裂した。林元帥は毛沢東に対するクーデターと暗殺計画を疑われ、1971年に逃亡をくわだてたが、乗っていた旅客機がモンゴルで謎の墜落事故を起こして死亡し「偉大なる舵取り」とよばれた孤独で年老いた毛沢東は、「永続的革命」の手をゆるめようとせず、さらなる政治運動を展開した。急進的な毛沢東に対抗できる穏健派とみなされた周恩来が亡くなった後、1976年の天安門事件で民衆の不満が噴出した。この年の7月、北京からそれほど離れていない地域で大地震が発生し、25万人近い人々が亡くなった。あたかも毛沢東の天命がつきた証のようだった。それからまもない1976年9月9日に、毛沢東は亡くなった。
一世紀にわたる外国との戦争や侵略で打ちのめされた中国を統一し、1950年代初期に経済を立てなおした毛沢東の業績は、平時としては過去に例のない大量の餓死者を出した大躍進政策と、晩年の冷酷無情な政治運動の推進によってかき消されてしまった。
毛沢東は詩人としても書家としてもかなりの腕前で、彼が執筆した政治的著述は中国の事情に合わせたマルクス・レーニン主義の彼なりの解釈を示している。しかし、文化大革命(1966−1976)に先だって『毛沢東語録』が編纂されているが、そこに引用された短い言葉の数々からは、毛沢東が駆使した文体の複雑さは見てとれない。数多くの儒教的伝統を修復不能なまでに破壊した毛沢東は、しばしば中国最初の皇帝(秦の始皇帝)にたとえられ、自分でもそう語っていた。毛沢東は中華帝国の歴史と、その未来を根本的に変えたのである。
鶴雲堂 おもしろページ 石崎康代
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