(3)100人-五代十国から元
五代十国時代から元まで 907年〜1368
907年−1368年
人口増加と自然災害(さらにそれらの問題に対処する官僚の能力の低下) にくわえて、節度使(地方軍司令官)の力の増大によって反乱があいつぎ、唐は滅亡した。中国はふたたび分裂し、多数の王国が興亡した。九六〇年に末がふたたび中国を統一すると、宋王朝のもとで都市が発達し、飲食店や売店や本屋が道沿いにならぶ、現在の都市生活と変わらない光景が現れた。しかし末は華北を失い、宮廷は南の杭州にのがれた。華北には非漢民族の帝国が次々と興隆し、とうとうモンゴル族が中国全体を征服して一二七九年に国号を元とあらためた。過去の分裂期と同様に、この時期に学問や芸術が勢いよく花開いた。末代の文化のもっとも輝かしい功績は、新儒学思想の誕生である。この思想は儒教に仏教を融合させた革新的な学問だったが、明と活の時代には形骸化し、国家の定める正統な学問となって、融通性を失った。
ID |
人 物 |
記 事 ・ 備 考 |
49 |
耶律阿保機 |
―契丹族首領・遼の建国者 |
50 |
李存勗 |
―突厥系の晉王・後唐皇帝 |
51 |
趙匡胤 |
―宋の太祖 |
52 |
柳宗元 |
ー詩人 |
53 |
王安石 |
―改革を断行した官僚 |
54 |
沈括 |
―科学史家 |
55 |
蘇軾(蘇東坡) |
―天才文学者 |
56 |
方臘 |
―マニ教徒の反乱指導者 |
57 |
徽宗 |
―宋の文化人皇帝 |
58 |
李清照 |
―宋の女性詩人 |
59 |
岳飛 |
―愛国の英雄 |
60 |
張擇端 |
―宋代の画家 |
61 |
朱薫(朱子) |
―朱子学の創始者 |
62 |
馬遠 |
―宮廷画家 |
63 |
丘処機(丘長春) |
―全真教指導者 |
64 |
元好問 |
―詩人・歴史家・金の歴史の保存者 |
65 |
クビライ・カアン |
―中国皇帝となった遊牧民の君主 |
66 |
関漢卿 |
―中国演劇の創始者 |
67 |
パスパ―チベット |
―チベット仏教の指導者・パスパ文字の制作者 |
68 |
トクト― |
―元王朝最後の名宰相 |
49. 耶律阿保機(872−962)
契丹族首領・遼の建国者
耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yel? Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。
契丹(キタイ)族・耶律氏(ヤルート)の迭剌(てつら)部出身で、耶律撒剌的と宣簡皇后蕭氏との間の長子として872年に生まれた。耶律氏は発音によっては移剌(イラ)とも呼ばれる。また天皇帝、天皇王の称号も持っていた。
伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。
初めは遙輦氏の痕徳菫可汗に仕えていたが、906年に痕徳菫可汗が没すると、907年2月27日に可汗に即位(第1次即位)、室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。北宰相の蕭轄剌、南宰相の耶律欧里思が群臣と共に天皇帝号を奉じて皇帝となる。911年から諸弟の反乱が続発するが、剌葛、迭剌、寅底石、安端などを征伐してその与党を処刑した。
契丹の建国
916年3月17日の第2次即位において国号をキタイ=契丹とし、元号を神冊と定め、キタイ人の王朝を建国した。太祖は北宰相に蕭実魯、北院夷離菫に斜涅赤、南府宰相に耶律蘇、南院夷離菫に耶律迭里を任じ、国家運営を進めていく事になる。
西の突厥・吐渾・小蕃・阻卜・タングート・ウイグル・沙陀諸部、北の女真、南の中国10余州、東の渤海を討って服属・占領、長子突欲(劉倍)を封じて東丹国を作った。渤海との戦役からの帰路の途中で病没した。
遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制、遊牧所領内にも多くの都市を建設するなど、遊牧国家に農耕国家の機構を取り入れ、匈奴以来の遊牧国家機構をより強固なものとした。また、920年には大小2種の契丹文字を制定した。
耶律阿保機は八七二年に契丹族迭刺部の耶律氏に生まれた。契丹は遊牧民で、おそらくモンゴル祖語を話す人々だったと考えられている。阿保機の台頭は北魂の初代皇帝、拓践珪 (伝記30) やチンギス・カンの場合と似ていなくもない。当時の迭刺部は徐々に勢力を増してはいたが、契丹のなかでもっとも有力というわけではなかった。いくつかの部がゆるやかな連盟を結んで構成された連合国家、契丹のなかで、阿保機はまず味方を増やし、反対勢力を倒して、三〇歳になる前に可汗の近衛隊長に出世した。
九〇一年、阿保機は迭刺部の首長に選ばれた。それからまもなく可汗の副司令官となる。九〇七年に契丹各部の首長や重臣らが出席する三年に一度の議会 (モンゴルの最高決定機関であるクリルタイに類似) で、阿保機は契丹の新しい可汗に選出された。
しみついた伝統はなかなか消えないものだ。阿保機は叔父や弟もふくめて、契丹の有力者による抵抗にたびたび直面した。とくに吋汗を選びなおす時期が危なかった。阿保機は暴力的な手段や謀略、外部勢力の利用、しりぞくと見せかけて油断させるなど、あの手この手で彼らの攻撃をことごとく跳ね返した。すでに中国語を巧みにあやつれるようになっていた阿保機は、権力の安定と可汗の世襲制を確立するため、中国式の政治制度をとりいれた。
阿保機はおそらく九一六年に皇帝として即位し、中国の先例にならって(達の) 太祖となった。また、中国の長子相続制を踏襲して長男を太子に立て、契丹のほかの有力な氏族が可汗の継承権を主張できなくした。阿保機は契丹に初の儒教寺院を建立し、九一八年に現在の内モンゴルに恒久的な首都の建設を命じた。
阿保機は 「契丹大字」とよばれる表意文字の制定を命じ、九二〇年に公布した。漢字に似たこの文字は使い勝手がよくなかったので、阿保機の弟が「契丹小字」を考案した。こちらは表音文字で、テユルク系遊牧民のウイグル人が使うアルファベットを参考に作られている。阿保機は国内の遊牧民は従来の部族制、増加する漢民族は中国式の制度で統治する二元的統治体制をとった。
阿保機は華北各地の軍事指導者と大小の衝突をくりかえしながら、緊張をはらんだ共存を維持した。国内の支配を万全に固めると、領土の拡大に着手し、おもに北や西の遊牧民を征服して版図を広げた。しかし、阿保機は九六二年九月六日に亡くなり、侵略軍を華北に向かって南下させることはついにできなかった。
帝位は阿保機が定めた太子ではなく、より戦闘的な次男にゆずられた。
この二代皇帝は契丹国の版図を華北の内にまで広げ、国号を達とあらためて北京を首都のひとつとした。西洋ではキタイまたはキャセイという言葉で中国を表す場合があるが、これは古い民族名の契丹―キッタンはキタイの複数形― に由来している。
52 趙匡胤
―宋の太祖

趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。
生涯
河北省固安県の人。父は後唐の禁軍将校であった趙弘殷(後周の武清軍節度使・太尉を追贈され、宋で宣祖の廟号を追贈された)。 母は杜氏。次男として洛陽に生まれる。後漢の初め頃には不遇の身であり各地を転々としていたが、襄陽のある寺の老僧に勧められ、後に後周の太祖となる後漢の枢密使郭威の軍に身を投じる。
後周の世宗が即位すると近衛軍の将校となる。北漢の軍を迎え撃った高平の戦いにおいては、左翼の軍勢が敗走して後周軍が危機に陥る中、趙匡胤は同僚を励まし、北漢軍の前衛を打ち破る活躍をして、後周に勝利をもたらした。
世宗の南唐征伐に従軍し、南唐の節度使であった皇甫暉・姚鳳らを自ら虜にする功も立てる。その後、揚州を攻めていた同僚の韓令坤が南唐の援軍を前に撤退を求めてくると、世宗より援軍として派遣され、「もしも逃げる者があれば、その足を斬る」と督戦し、韓令坤らの必死の防戦の末、南唐軍万余りの首級を挙げることに成功した。その後も趙匡胤は次々と南唐の城砦を抜いた。
趙匡胤の威名を恐れた南唐の李mは趙匡胤と世宗の間を裂こうと、趙匡胤に手紙と白金3千両を贈るが、趙匡胤はすべて世宗に献上して、君臣の間に亀裂は生じなかった。
世宗が崩御して、わずか7歳の恭帝が即位すると、これに付け込んだ北漢の軍勢が来寇する。その迎撃の軍を率いる最中、陳橋駅で幼主に不安をもった軍士により、皇帝の象徴である黄衣を着せられて皇帝に冊立される(陳橋の変)。趙匡胤は軍士たちに自分の命令に従うをことを確認させ、恭帝と皇太后の符氏、及び諸大夫に至るまで決して危害を加えないこと、そして官庫から士庶の家に至るまで決して侵掠しないことを固く約束させた上で、帝位に即くことに同意した。開封に戻った趙匡胤は恭帝から禅譲を受けて正式に皇帝となり、国号を宋と改めた。
その後、各地に割拠する諸国を次々に征服していったが、残るは呉越と北漢のみとなり天下統一が目前に迫った976年、50歳で急死した。その死因については古来、弟の太宗により殺害されたという説(千載不決の議)が根強い。
崩御の翌年である太平興国二年(977年)正月に太祖の廟号が贈られ、英武聖文神徳皇帝と諡された。
諡は大中祥符元年(1008年)八月に真宗によって啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝と改められた[2]。
趙氏の出自
趙匡胤自身は遠祖は?郡の人である前漢の名臣・趙広漢の末裔を自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢の劉備が中山靖王の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。
政策
戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は軍人の力を削ぐことに腐心した。唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。また、科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。ただ、趙匡胤の布いた文官支配体制はその後、代を経るごとに極端に強化され、そのことが軍事力の低下と官僚間の派閥争いを激化させる要因となり、北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となったことは否めない。
趙匡胤は、自身が軍人であったにも拘らず文治主義を進め、唐末以来の戦乱の時代に終止符を打った。中国の歴代王朝においては、夏王朝から西晋に至るまで、項羽の行いを例外として、前王朝の血統を尊重し滅ぼすことはなかった。しかし西晋滅亡以降においては、王朝交替のたびに、前王朝の君主と一族は皆殺しにされるか、殺されないまでも幽閉するのが通例となった。しかし趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として優遇したばかりか、降伏した国の君主たちをも生かして、その後も貴族としての地位を保たせている。 柴氏は300年にわたって家が保たれ、士大夫は朝廷において活発に議論をした(『水滸伝』に登場する侠客で後周皇室の子孫・柴進の設定はこの一事を踏まえたものと考えられている)。
趙匡胤は中国歴代皇帝の中でも評価が高く、清代に執筆された小説『飛竜全伝』の主人公としても知られる。
趙匡胤の評価
『宋史』は、堯・舜、殷の湯王、周の武王以降の、相次ぐ乱世で荒廃した社会を救う、四聖人に匹敵する才の持ち主として高く評価している。
建国してから藩鎮の兵権を奪い、贓吏(賄賂を貪る官吏)を処刑するなど綱紀を取り締まって乱世の再発を防ぎ、農業と学問を奨励、刑罰の軽減など行い、泰平の世を築いた偉大な創業の君主であり、趙匡胤の在位17年間が宋王朝300年の繁栄をもたらしたものとする。
趙匡胤はたびたび「父母が病にかかっても顧みないものは罰する」「父母と財産を異とするものは罰する」など、唐末五代の戦乱で荒廃した秩序を建て直しを図った詔を出しており、『宋史』は唐末五代の戦乱の時代に荒廃した道徳や文化を建て直した宋王朝は、漢・唐に比べても劣らないものとしている。
趙匡胤にまつわるエピソード
騎射が得意で、悪馬を馴らそうと勒を付けずに乗馬しようとしたが、城門に頭をぶつけて落馬したことがあった。目撃者達は首が折れて死んでしまったかと思っていると、趙匡胤はすぐさま起き上がり馬を追っていったが、一つも傷がなかったという。(『宋史』 本紀第一 太祖一)
世宗の後唐征伐の最中、父の趙弘殷が夜中に趙匡胤に城の開門を求めたが、「親子の関係といえども城門の開閉は公務である」と言い、城門を開けなかった。そして趙弘殷は朝になってようやく入城することができた。
以下のことなどから、無駄な殺生を嫌っていたことがわかる。
かつて自分の君主であった恭帝を禅譲後も鄭王として遇し、恭帝が死ぬと喪服を着けて10日間政務をとりやめ、皇帝として葬を執り行った。
亡国の君主である孟昶・李U・劉eらを処刑せずに侯として遇した。
南唐征服の際には曹彬らに「落城の際には決して殺戮を行なうな」と訓令した。
陳橋の変の際、王彦昇が禅譲を妨げようとした副都指揮使の韓通を勝手に殺したことを責め、助命したものの、節鉞(征伐の将軍に与える割符)を決して与えることはなく、さらに韓通に中書令を追贈し、厚く葬った。
王全斌が後蜀を滅ぼした際に降兵2万7千を虐殺し、蜀の財貨を奪うなどを行ったことを咎め、蜀征伐の功にもかかわらず降格処分にした。
呉越の銭俶(趙弘殷を避諱し、銭弘俶から改名)が自ら来朝した時、宰相以下の百官はみな、銭俶を捕らえ、その国土を奪うことを請うたが、趙匡胤は取り合わなかった。銭俶が帰国する際、群臣の銭俶を捕らえるように求めた上表文を持たせ、帰国の途中これを見た銭俶は感動し、後に国土を献じたという。
南漢の最後の君主劉eは、好んで毒酒をもって臣下を毒殺していたことがあった。降伏後、趙匡胤の巡幸に従った時、趙匡胤より酒杯を勧められると、自身を毒殺しようとしてるのではないかと疑い、泣いて「臣(私)の罪は許されるものでありませんが、陛下は私を殺さないでいてくれました。どうか開封の庶民として泰平の世を過ごさせてください。どうかこの酒杯を飲ませないでください」と言った。これに対し、趙匡胤は笑って「自分は人を厚く信頼している。どうして汝だけ信じないことがあろうか」と言い、その酒杯を飲み、新しく酒を酌み劉eに飲ませたという。
建国当初、しばしばお忍びで出かけたことをある臣下に諫められたことがあったが、「自分は天命が下ったので天子になったのであり、世宗が部将の中で顔が広く耳が大きい者を次々に殺していたが、自分は(そのような容貌であるのに)世宗の側にずっと侍していたが、殺されることはなかった」と言い、ますますお忍びで出かけることが増えた。さらに諌める者がいると、「自分は天子なのだから、自分の好きなようにさせろ。お前に指図されるいわれはない。」といったという(『宋史』本紀第三 太祖三)
ある日、政務をやめて不快そうに座っていたので、側近がその理由を尋ねると、「天子であることは簡単なことだといえるだろうか? ある事案を早合点して誤って決してしまったから、不快なのである」と答えたという。
節約を旨としており、娘の魏国長公主が肌着にカワセミの羽を装飾に使っているのを見て、戒めて二度とさせなかった上、「お前は富貴な身分として育った。そのことの有難味を思いなさい」と説教したという。また、後蜀の最後の君主であった孟昶が杯に宝飾を凝らしているのを見て、これを取りあげて砕き、「お前は杯を七宝で飾っているが、何の器で飲食する気なのだ。そのようなことをしているから国を亡ぼしたのだ」と叱咤したという。
晩年は読書を好み、『書経』を読んで嘆いて「古の帝王の堯・舜の世の中は4人の悪人を追放するだけであったが、今の世の中は法が網のように密である」と言った。
弟の趙匡義(後の太宗)が病気にかかると自ら薬を煎じて飲ませ、近臣に「弟は龍虎のように堂々としており、生まれた時に異兆があった。後日必ず泰平の世の天子となるだろう。ただ福徳の点では私に及ばない。」と語ったという
石刻遺訓
石刻遺訓は、趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言で、宋朝の皇帝が即位する際、必ずこれを拝み見ることが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、宰相ですら知らなかったという。金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出た(陳 1992)。
そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である(『宋稗類鈔』「君範」[3][4]、陶宗儀『説郛』によれば、正確には3つあり、第3条は上の2条を子孫代々守れという内容であった)。
趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。
言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。
この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚が処刑されず、政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していること(例:新法旧法の争いでの司馬光や対金講和派の秦檜など)が証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている(陳 1992)。
趙匡胤を主人公にした文芸作品
小前亮著『飛竜伝:宋の太祖 趙匡胤』(講談社、2006年) ISBN 4-06-213785-2 後、「宋の太祖 趙匡胤」と改題した。『飛龍全伝』の翻案小説。
54 沈括 (1032−1096頃)
科学史家
沈括は一〇三二年に現在の杭州に生まれる。この時代に増えつつあった教育程度の高い華南の郷紳階級―官僚有資格者で庶民より上の身分―の典型のような家庭で、父方と母方の家系はともに多数の優秀な科挙合格者を輩出していた。
沈括は両親が年とってから授かった子どもで、中級官吏だった父が五四歳、母が四六歳のときに生まれている。
小さい頃は母に学問を学び、赴任する父につれられておもに華南のさまざまな土地で暮らした。そのため、沈括は幼少期から多種多様な環境や習慣にふれる機会があった。
一〇五一年、沈括が蘇州の母方の親族のもとに滞在して勉学にいそしんでいたとき、七〇歳を超える父が杭州で亡くなった。父の葬儀をすませた翌年、沈括と兄の沈技は王安石(伝記空 に父の墓碑銘を依頼した。王安石は彼らの遠縁にあたり、すぐれた文人、政治家として華南屈指の名士であった。

現代に制作された沈括の胸像。北京古観象台所蔵。
沈括は父が官職にあったおかげであたえられる恩蔭―世襲の特権―を利用して役人になった。まもなく頭角を現して知事代理をつとめるまでになり、潅漑事業で実績を上げた。しかし恩蔭出身の官吏の昇進には限界があった。そこで沈括は辞任し、科挙を受験するために猛勉強した。安徽省の知事をしている兄の家に間借りしているあいだ、沈括は大規模な水利事業を観察し、記録をとった。
一〇六三年、沈括は科挙に合格し、エリート中のエリートである進士になった。有力な州知事の張舞はすぐに沈括の才能を見抜き、沈括が最初の妻を亡くした後、おそらく一〇六八年に三女を沈括に嫁がせた。この嫁はとんでもなく身勝手で口やかましい暴君だった。
沈括のひげを引っこ抜いたこともあり、引き抜かれたひげには皮膚と血がついていたという。また、先妻の生んだ息子を家から追い出しもした。しかし舅との政治的なつながりは大いに役立った。沈括はまず、宮中図書館の校吾郎?文書をつかさどる官? に任命され二一〇六五年)、翰林院で書物の校訂にたずさわった (一〇六八年)。
沈活はこれらの仕事を通じて宮中の膨大な量の書物に目をとおすことができ、将来大臣に任命される足がかりもつかんだ。
王安石の改革がはじまると、沈括は熱心に協力した。宮廷の仕事にくわえて天文をつかさどる部局の長に任命され、天才的数学者の衛朴を採用し、より正確な暦の制作にあた
らせた。
一〇七五年、沈括は領土問題を解決する使命をおびて、使節団を率いて契丹 (遼) の宮廷におもむいた。一説には、沈括が豊富な歴史や地理の知識を生かして末の主張を認めさせ、外交上の重要な勝利を手にしたといわれるが、実をいえば末はかなり達に譲歩している。この年、彼は国家財政の最高責任者である三司使―大蔵大臣―に任じられた。
今日でこそ沈括は先見の明のある科学者とみなされているが、あらゆる分野にまたがる彼の知識は、当時の特権階級からはあまり評価されなかった。この時代には、文学こそもっとも尊い学問とみなされていたからだ。文学面では、沈括は王安石や蘇拭 (伝記51) に比べてたしかに見おとりがする。沈括は、蘇拭の詩には皇帝に対す
る批判がこめられているものが多いと皇帝に告げ口した。そのため、とくに華北の保守層を中心に、沈括はかなり敵を作った。
しかし、神宗の沈括に対する信頼はゆるがなかった。一〇八〇年、皇帝は末の北西に揺するタングート系のとり西夏に対する防衛を沈括にゆだねた。沈括はタングート族の内紛に乗じて緒戦でいくつかの勝利をあげ、この功績によって竜図聞直学士?皇帝の秘書官のような役職?という権威ある名誉職をあたえられ、延州 (硯陳西省延安)知事となった。しかし、宮廷が別の指揮官を前線に派遣すると、戦況は一気に暗転した。一〇八二年一〇月一四日、酉夏軍は新たに建設した末の防衛拠点に襲いかかり、一万二〇〇〇人を超える宋兵が戦死、末の前線は崩壊した。
この大敗の責任を問われ、沈括の政治生命は終わった。彼は罷免されて地方に蟄居を命じられ、一〇九〇年頃、中国全土の地図を作製する重要な仕事を終えて、ようやく自由の身になった。沈括は長江に面する現在の鎮江市に隠棲し、夢渓と名づけた川のほとりに居をかまえた。そこで余生のすべてをかけて、もっとも重要な著作である 『夢渓筆談』 を完成させた。
この本は天文学、数学、地質学、医学、そして神話から未確認飛行物体まで、さまざまなテーマを網羅している。沈括は磁石をコンパスとして使用する方法を世界に先駆けて述べ、コンパスが真の北をさすわけではないとはじめて発見した人物でもある。「石油」という中国語をあみだし、それは 「地球の内部で無尽蔵に産出する」と述べた。英語で石油を表すpetrO−eumはラテン語のpetra(石)と○−eum(抽) が語源で、奇しくも沈括が作った 「石油」という言葉もそれと同じ組みあわせになっている。沈括は高山で発見される貝の化石や、華北で発掘される亜熱帯植物の化石を観察し、地形や気候の変動について認識していた。また、世界初の活字印刷についても記録を残している。イギリスの有名な学者のジョーゼフ・ニーダム―中国科学史の権威。一九〇〇−一九九五―は沈括によるこれらの発見や観察の記録に感銘を受け、沈括を「中国史上もっともすぐれた科学精神の持ち主」とたたえた。一九六四年に発見された小惑星は沈括にちなんで命名されている。
56 方臘
―マニ教徒の反乱指導者
52方臘(?―1121)
マニ教徒の反乱指導者
方臘は宋末期のマニ教(ベルシアで誕生し、シルクロードを通じて中国に広まったグノーシス主義的宗教)の教団指導者である。方臓が反乱者として登場する前近代の中国の小説『水滸伝』は、大半が華北出身の一〇八人の「好漢」―英雄―がさまざまないきさつで無法者となるが、末の宮廷の恩赦を受けて華南の大規模な反乱を平定するために集結する物語だ。無法者が転じて皇帝につくす英雄となるこの物語はフィクションだが、マニ教徒に率いられた華南の反乱は、宋王朝を根幹からゆるがせた現実の出来事である。
シルクロードを経由して中国に伝わった多くの宗教のなかで、マニ教は特別な位置を占めている。マニ教は誕生した西アジアから遠く離れた中国南東部の広大な二倍で、形を変え、変貌をとげながら、何世紀ものあいだ生きのびてきた。政府、儒学者、そして「正統派」 の仏教がよってたかってマニ教を根絶やしにしようと画策するなかで、あらゆる困難をのりこえ、元から明への移行後に完全に消滅するまで、この国に存在しつづけたのである。
マニ教はおもに中国の知識層や政治的主流派以外の人々に伝わった。その信仰は地方の民衆のあいだに、強い杵で結ばれたきわめて結束力の高い秘密結社を作り上げた。マ二という名称と中国語で「悪魔」を表す「魔」をかけて、儒学者は人目をしのぶこれらの信者を「喫菜事魔」―菜食して魔に仕えるという意味―とよんだ。中国のマニ教は、強い平等主義や祖先崇拝もふくむ偶像崇拝の禁止、そしてキリスト教から受け継いだ家父長的な一神教を特徴としている。
書画骨董を愛好した徽宗のもとで、宋の宮廷は民衆に重税を課した。もっとも民衆の怒りをかったのは、「花石綱」とよばれた献納品の特別輸送である。庭園や離宮の造営をことのほか好んだ徽宗の趣味を満足させるために、めずらしい花や奇岩を地方から都に輸送させることだ。奇岩の多くは南方の湖や南西の山岳地帯から運ばれ、南部の亜熱帯地方は貴重な植物の供給源となった。唐代中期以降、中国の経済の中心は華北から華
南に移動していたが、政権の中枢はいまだに華北出身者に占められ、江南地方は王朝を支えるためにますます重い税金をしぼりとられていた。
方臘は、浪費を続ける末の宮廷に対する江南地方の民衆の怒りをあおった。宋の宮廷は北方のふたつの異民族国家、契丹(遼)と西夏を懐柔するために、中国南東部の人民の「血と脂」を気前のいい「歳幣」―毎年の貢ぎ物―にしているとさえ非難した。
一一二〇年の冬、江南地方のマニ教徒はついに行動を起こすことにした。弾圧の危険は覚悟の上である。方臘は一一月一一日を蜂起の臼と定め、わずか数千人のマニ教徒とともに反乱ののろしを上げた。政府軍の一部隊を撃破したのをきっかけに、方臘の勢力範囲はたちまち拡大した。反乱軍はまず一二月二一日に郡をひとつ制圧すると、次にははじめて県を落とし、さらに次の県を落とすという勢いだった。一一二一年一月一九日、方臘軍は杭州を手中に入れた。
農民軍の拡大に宋の宮廷はあわてふためいた。方臘の反乱軍が拡大を続けるばかりでなく、それに便乗して、宋のおもな税収源である中国南東部の各地で数えきれないほどの武装蜂起が起きた。徽宗はやむなく腐敗した徴税担当大臣を罷免し、人々の恨みをかった。

『水済伝』の一場面を描いた15世紀の木版画
また、南部の反乱を平定するため、政府は達との軍事的衝突を一時棚上げにして江南に大軍を派遣した。
その間にも方臘の反乱軍は仏教寺院や仏像を破壊し、儒教学校を焼き討ちにし、多数の儒学者を殺害した。こうした乱暴狼籍を見て、江南の郷神や多くの人々の心は離れた。
一二二年の初め、末の大軍が江南におしよせ、方臘が樹立したマニ教徒の支配地域をはさみ撃ちにした。軍事経験も民衆の幅広い支持も欠けていた方臓の弱点がたちまちあらわになった。わずか数か月後に方臘は人里離れた谷間に隠れた本拠地に撤退した。方臘に殺された地方地主の息子がこの隠れ家の場所を政府軍に密告したため、五月二一日、この谷間を政府軍が襲った。
最後まで抵抗した信徒七万人を虐殺し、政府軍はようやく方臘とその家族、そして側近の身柄を拘束した。こうして捕らえられたマニ教徒の指導者たちは末の都開封で一〇月七日に公開処刑された。非公式の資料によれば、反乱を鎮圧するために送りこまれた政府の大軍によって、二〇〇万人を超える江南の人々が殺害されたという。
57 徽宗
―宋の文化人皇帝
徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。
書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、水滸伝のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。

北宋の第8代皇帝 徽宗
一〇八二年生まれの趨倍は、神宗(在位一〇六七−八五)の一一番目の息子である。本来なら帝位を継ぐ可能性はかぎりなく低かったが、兄の哲宗が一一〇〇年に二四歳の若さで跡継ぎを残さずに世を去り、ただひとりの存命の兄は片目が見えなかった。趨倍の兄弟が派手で豪華な品物を好んだのに対し、彼は書物や絵画を楽しみ、上質な筆や紙、塁など、学問のための小道具を蒐集した。強い影響力をもつ向皇太后(神宗皇后)によって超倍が次の皇帝に選ばれ、即位して徽宗となった。
それからわずか数年後の一一〇〇年に向皇太后が亡くなると、若い徽宗はやりたい放題の行動をとるようになった。徽宗は地方に蟄居していた落京(一〇四七−一一二六)を中央によびもどした。察京は、いまは亡き「新法党の賢者」王安石(伝記4 9)の娘婿の兄にあたるが、政治家としては無節操きわまりない人物だった。
二六年にわたる徽宗の治世のあいだに、察京は中断をはさみながら二四年間宰相の座に居座った。徽宗が登用したほかの廷臣もまた、私利私欲にしか関心がないという点では似たりよったりだった。
徽宗は都で数々の大規模な建築計画を実施した。彼は豪壮な宮殿よりも、優雅で自然の景観をそのまま再現した離宮や庭園、公園を好んだ。入念に作られた庭園を飾るため、めずらしい植物や奇妙な形の岩が江南から徴発
され、民衆に大きな負担をあたえた(伝記5 2万臓参照)。
徽宗は絵画の才能に恵まれていたといわれ、とくに花鳥画を得意としたが、徽宗の作と伝えられるものすべてが本人の作品とは考えにくい。徴宗は革新的な書家でもあった。徽宗があみだした「痩金体」とよばれる書体は、当時の末で発達しっつあった出版事業において、標準的な活字として用いられた。
徽宗はまた、あくことを知らない美術品蒐集家でもあって、有名な書画骨董の数々を集めた。蒐集した一万点以上の青銅器を陳列するために七五の部屋がある宮殿を建て、貴重な書物をおさめた広い私的な図書館を所有していた。
後宮にはたくさんの美女が集められていたが、徽宗は都で芸術的な才能のある女をこっそり愛妾にしていた。
この人目をしのぶ親密な関係は、皇帝に深い満足をあたえたようだ。
徽宗は熱心な道教の信徒だった。彼が国中に道教寺院を建設させたため、末の財政はますます悪化し、国民の税負担は耐えがたいほどになった。その結果、民衆のなかから反逆者や「山賊」が現れて英雄視され、その風潮が大衆小説『水瀦伝』を生む土壌となった。江南地方で起きた中国のマニ教徒による有名な反乱は宮廷を震撼させ、さすがの徽宗もほんの一時期だけは浪費をひかえた。
北西部の西夏との争いで部分的な勝利をおさめたのに気をよくして、徽宗は末の皇族の故郷である現在の北京周辺地域の回復を夢見るようになる。この地域は契丹族の遼王朝の支配下に入ってすでに長い年月がたっていた。
徽宗は東北部で勢力を増す女真族と同盟を結び、一世紀以上にわたって末と平和的に共存していた遼を今こそ討っべきだと考えた。しかしこの同盟は末の軍事力のもろさを女真族に露呈する結果となり、女真族は遼を滅ぼすやいなや、ただちに末に向かって兵を進めた。徽宗は太子に位をゆずって南へのがれたが、侵略軍が一時的に撤退したすきにうかうかと都の開封によびもどされ、新帝とともに女真族の捕虜となって連行された。敵地までの長く屈辱的な旅のあいだに、徴宗の若い息子のひとりは餓死した。譲位して「太上皇」となった徽宗と新帝は、中国最北の省である里篭江省の僻地に送られ、あたえられた小さな畑を耕して自力で生きるはかなかった。徽宗がわが身を嘆いた詩が残っている。
昔の宮殿はいまどうなっているのだろうか。
今ではときおり見る夢でしか訪れることはできない。
よるべないこの身には、そんな夢さえも遠ざかっていく。
徽宗のもうひとりの息子の構は江南にのがれ、南末を建てて高宗(在位1127−1162)として即位した。高宗はしぶしぶながら徽宗の解放のために努力したが、徽宗はついに帰還の夢を果たせないまま、1315年に亡くなった。
元符3年(1100年)、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である趙佶が皇帝に即位した。宰相章惇ら重臣は趙佶の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王趙似など)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により趙佶に決まったとされている。
治世当初は向氏が垂簾聴政を行ったとされ、章惇・蔡卞ら哲宗時代の急進的な新法派を退け、旧法派の韓忠彦と穏健新法派の曾布を起用、彼らは新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた(通説ではこれらの政策は向氏の策とされているが、徽宗自身の構想とする異説もある[1])。また、徽宗自身も芸術家の魂ともいえる絵筆を折って政治への意欲を示し、成人している皇帝がいるのに垂簾聴政が行われるのはおかしいと批判された向太后が7月に政務の一線を退くと、自ら政務に関わるようになった。だが、曾布と李清臣の新法派同士の対立に旧法派も巻き込み政情は急速に不安定化していく。こうした状況に徽宗は現状のあり方に飽き足らなくなっていく。そんな時に登場したのは急進新法派の蔡京である。徽宗の即位後に向太后の信任を背景に中央に復帰した彼は一旦は徽宗や韓忠彦・曾布の警戒を受けて再び左遷される。だが、中央の情勢の変化に乗じて策動を行い、韓忠彦・曾布を失脚させて政権を掌握するに至る。
蔡京が政権を握ると、旧法派はもちろんのこと、曾布や実弟の蔡卞ら自分を批判した新法派の人々にも激しい弾圧が加えられた。これには徽宗も後悔し、遼との外交政策の対立などを理由に蔡京を何度か追放している。だが、宮廷の主要な官職はほとんどが蔡京の手下で占められていたこと、何よりも徽宗と蔡京の芸術的な嗜好が近いことによる親近感から、すぐに蔡京を復帰させた。
文人、画人としての徽宗はその才能が高く評価され、宋代を代表する人物の一人とされる。痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成、「風流天子」と称された。現在、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝に指定されている。また、『周礼』に基づいた古代の礼制復活を図るべく『政和五礼新儀』を編纂し、自らも執筆に加わっている。
皇帝としての徽宗は自らの芸術の糧とするために、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)。また芸術活動の資金作りのために、明代の小説『水滸伝』における悪役として著名な蔡京や宦官の童貫らを登用して民衆に重税を課した。神宗、哲宗期の新法はあくまで国家財政の健全化のためであったが、徽宗はそれを自らの奢侈のために用いるに至ったのである。この悪政の一環としては、土地を測量する際に正規の尺より8パーセントあまり短い、本来は楽器の測定に用いる楽尺といわれる尺を用い、発生した余剰田地を強制的に国庫に編入したり、売買契約書が曖昧な土地を収用するなどの強引な手段もとっている。
さらに徽宗は芸術に没頭する一方で、自らの権力強化に努めた。特徴的であったのは御筆手詔(御筆)の発行である。御筆手詔の制度の萌芽は神宗期に遡るが、徽宗は事あるごとに自ら詔を書いて各役所などに直接命令し、三省や枢密院が異議を挟むことを認めず、その実施の遅滞は厳罰をもって処したのである。蔡京は徽宗の側近であった息子の蔡攸などを介して御筆手詔の掌握に努めようとしたが、かえって詔を記す徽宗の意向に振り回されることになり、結果的には徽宗の行動を抑止できない彼の政治的影響力の減退を招くこととなり、政和6年(1116年)の封禅中止問題を機に、蔡京の宰相としての立場は名目的なものと化していった。反対に宣和年間以降は、徽宗とそれを取り巻く近臣(宦官や蔡攸に代表される側近)による専制が成立することになり、宰相や執政の力は失われることになった。
このような悪政によって民衆の恨みは高まり、方臘の乱を初めとした民衆反乱が続発した。こうした反乱指導者の中に山東で活動した宋江という者がおり、これをモデルにした講談から発展して誕生したのが『水滸伝』である。
北宋の滅亡
当時、宋の北方の脅威であった遼は、皇帝や側近の頽廃により国勢が衰えてきていた。さらに遼の背後に当たる満州では女真族が完顔阿骨打を中心として急激に台頭し、金を建てていた。金と協力して遼を挟撃すれば、建国以来の悲願である燕雲十六州奪還が可能であると捉えた北宋の朝廷は、金に対して使者を送り、盟約を結んだ(海上の盟)。

徽宗筆『芙蓉錦鶏図』(北京故宮博物院所蔵)。絵の脇の詩文の文字は痩金体で書かれている。
宣和3年(1121年)、金は盟約に従い遼を攻撃したが、北宋は方臘の乱の鎮定のために江南に出兵中であり、徽宗自身の決断力の欠如もあって、遼への出兵が遅れた。翌年、ようやく北宋は北方へ出兵し、遼の天祚帝のいる燕京を攻撃した。宋軍の攻撃は失敗を重ね、成果を上げられないことを理由に誅殺されることを恐れた宋軍の指揮官童貫は、金に援軍を要請した。海上の盟では金は長城以南に出兵しない取り決めであったが、金軍はこの要請に応え、たちまち燕京を陥落させた。この結果、盟約通りに燕雲十六州のうち燕京以下南の六州は宋に割譲されたが、金軍によって略奪が行われていた上に住民も移住させられていたため、この地からの税収は当分見込めない状態であった。さらに金は燕京攻撃の代償として銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を要求したが、北宋はこれを受諾せざるを得なかった。

徽宗直筆の崇寧通宝
宣和7年(1125年)、このように燕雲十六州の一部奪還に成功した宋朝は、金に占領された残りの州の奪還を計画し、こんどは遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。しかしこの陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗が宋に対して出兵する事態を招く。12月23日(西暦で1126年1月25日)、慌てた徽宗は蔡攸や李綱・呉敏らと図って「己を罪する詔」を出すと退位[2]し、長男の趙桓(欽宗)に譲位して太上皇となった。徽宗はさらに金軍から逃れるべく、蔡攸やわずかな宦官だけを引き連れて開封を脱出した。ところが、鎮江に落ち着いた徽宗は、金軍が一時撤退した後も帰国の気配も見せず、自立の動きすらあった。そのため、欽宗・呉敏らの画策で開封に連れ戻されて幽閉され、蔡京父子・童貫らは配流され、後に蔡京ら病死者を除いて処刑された。
靖康元年(1126年)、金軍は開封を陥落させ、徽宗は欽宗らと共に金に連行された(靖康の変)。紹興5年(1135年)、徽宗は五国城(現在の黒竜江省依蘭県)にて54歳で死去した。またこの時、共に徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、天会5年(1128年)6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた[3]。南宋を建てた高宗の生母であった韋妃は老齢に達するまでこの境遇を耐え忍び、南宋で高宗に迎えられて長寿を全うしたが、朱皇后はその境遇に耐えかねて投身自殺している[4][5]。
道教との関係
徽宗は道教を信仰し、道士の林霊素を重用した。林霊素は「先生」の号を授けられ、道学が設置された。徽宗自身は「道君皇帝」と称し、『老子』や『荘子』に注釈を行った。その矛先は仏教に対する抑圧政策にも現れ、仏(如来)を「大覚金仙」、僧侶を「徳士」などと改名させて、僧侶には道服の着用を強制した。ただし、これは1年間で撤回された。
59 岳飛 (1103−1142)
― 愛国の英雄
岳 飛(がく ひ、?音: Yu? F?i、崇寧2年2月15日(1103年3月24日) - 紹興11年12月29日(1142年1月27日))は、中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。
岳飛は1103年3月24日に生まれ、武術の訓練と基礎教育を受けた。政府軍に歩兵としてくわわり、契丹(遼)の「南都」(現在の北京)を奪還するための軍事遠征(失敗に終わった)に参加したようだ。北末が、女真族が建てた金と同盟という名の戦略的愚行を犯していた時期のことである。
1125年にはじまった金の総攻撃は、華北で宋を破壊しつくした。しかし、これは岳飛のような傑出した才能の持ち主が、南宋(金の侵攻によって都を南の杭州に移した) の初代皇帝のもとで軍事的にのし上がるチャンスでもあった。1130年のなかばに岳飛は軍司令官となり、同時に文官として長江下流域デルタ地帯の長官に任命された。1133年以降、岳飛は長江中流域の防衛を指揮し、南末を代表する四人の軍事指導者のひとりに数えられた。
岳飛は兵士に厳しい軍規を守らせたので、岳飛の兵は民衆の受けがよかった。彼の軍隊が「岳家軍」の名で知れわたるにつれて、岳飛の人気も大いに高まった。
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将軍岳飛(左から二人目の緑衣)の肖像。末代の絵巻。
南宋の画家劉松年(中国語版)が宋の英雄を描いた「中興四将」。劉光世、韓世忠、張俊、岳飛の全身像が描かれており、岳飛は左から2番目である。 |
岳飛は黄河流域に生まれて育ち、奪われた末の領土をとりもどさんとする愛国者だった。金とその塊偏で、女真族と漢民族の緩衝材の役割を果たしていた斉国を打倒するために、1134年、1136年、1140年を中心に、何度も華北に遠征し、古都洛陽まで侵入した。勝利はことごとく一時的なものに終わった。しかし岳飛によせる宮廷の信頼は大きく、二三六年に岳飛の母が亡くなったとき、岳飛は 「子としての情」をすてるように命じられ、儒教で定められた長期間の喪に服す余裕もなかった。岳飛の母は息子に恥じぬ愛国者で、彼の背中に「忠義をつくし、国の恩に報いる」という意味の「尽忠報国」という四文字の入れ墨をきざませたといわれている。徽宗が金に拉致されたとき、ともに捕虜となって連行された秦櫓という男がいた。彼は1130年に解放されて末に戻ってきたのだが、彼だけが帰還できた背景にはかなり疑わしい点がある。1138年の春、秦槍は宰相と枢密使−軍政最高機関の長― を兼務するよう命じられる。高宗から万全の信頼を得て、秦櫓はただちに金と和平交渉に入り、末は屈辱的な譲歩を強いられた。この講和の内容を知った岳飛は失望をあらわにし、そのせいで1141年に軍権を剥奪された。続いて岳飛は謀反の疑いありとして拘留され、1142年1月28日に処刑されてしまう。岳飛の謀反は実際にあったのかと問われて、秦槍は 「有るべきこと莫らんや(莫須有)」―あったかもしれないーと答えている。以来、中国では根拠なく提遺された罪を「莫須有」と言うようになった。
岳飛は1162年に南末の新帝によって名誉回復され、中国の国民的英雄となった。杭州に岳飛の墓である岳王廟が建立され、多くの観光客が訪れる名所になっている。訪れた人々は岳飛に礼拝し、鎖につながれた秦櫓の像に向かって唾を吐きかける風習が、つい最近まで残っていた。
岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。やがて21歳の時、北宋末期の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、1134年には節度使に任命された。
しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。
1140年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、『金史』にこの会戦の記録はない。
その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛の養子岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)の「尽(精)忠報国」の4文字があったという。
後に(秦檜の死後)冤罪が晴れると、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王に追封された。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。
61 朱薫(朱子) (1130−1200年)
―朱子学の創始者
朱熹(朱子) 朱子学の創始者
朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。朱子(しゅし)と尊称される。祖籍は徽州?源県(現在の江西省)。
南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。
朱子学の創始者である朱熹―朱子は尊称―の祖先は、江西省と安徽省の省境地域の出身といわれている。朱熹自身は1130年に、もっと南の沿岸部にある福建省で生まれた。父は中級の地方官で、南宋と金の争いでは金に対する屈辱的な講和に反対したひとりである。
朱熹は生まれつき探求心旺盛で鋭い知性の持ち主だった。三歳のとき、頭上にあるのは「天」だと父から教えられて、すかさず「それでは天の上には何があるのか」とたずねたという。父は朱熹が13歳のとき、今後は宋代に生まれた新儒学の思想家として名高い程寮と程鴨兄弟の三人の弟子に師事するようにと言い残して亡くなった。この三人の師は、道教や仏教も偏見のない態度でとりいれた。
1148年、朱熹は一八歳で科挙に合格し、進上になった。しかし朱熹は官僚の仕事にあまり熱意がなく、学問を深め、ほかの学者と意見を交換し、新儒学の理論や学説を発展させることに没頭した。科挙に合格してから亡くなるまでの半世紀のあいだ、朱熹が政府の役人として仕えたのは10年たらずで、宮廷につとめていたのはわずか46日しかない。
朱熹が重視したのは教育で、長いあいだ弟子に学問を教えた。1179年、朱熹は鹿山のふもとの私立学校、白魔洞書院を再建し、学校の標語や学則を定めている。この学校はそれから8世紀ものあいだ、中国でもっとも重要な学問の場のひとつでありつづけた。
朱熹は儒学の経典のなかから 『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』を教えの中核として選び、それ以来これらは「四書」とよばれるようになった。朱熹は口語に近いわかりやすい言葉を使って、これらの古典的書物に注釈をつけた。宋代以後は四書と朱熹の注釈が科挙の出題の基本となり、中国が中華民国となる直前に科挙が廃止されるまでそれは変わらなかった。朱熹の弟子たちは、朱熹の問答や発言を集めた語録を編纂したが、これはおそらく口語的な文体で注釈をつけた師のやり方にならったのだろう。また、禅宗の高僧の言行を記録した語録が、宋代にはかなり口語に近い文体で書かれていたので、それをモデルにしたとも考えられる。
朱熹の思想は万物をつらぬく「天理」(自然法則)に重きを置いた。朱熹は人間に内在する道徳的本性を天理のひとつと考え、我欲を悪や不道徳の根源とみなした。社会の悪を解決する方法は、「天理を存し人欲を去る」―天理に従い欲望に打ち勝つーことだと朱熹は説いた。道徳的厳格さを求めるあまり、寛容性や憐みの情に薄い面もあった。朱熹のそうした性質は、1194年の夏、宋の光宗が息子に帝位をゆずったときの行動に表れている。
朱熹は皇帝譲位の報を聞くと、新帝即位の慣例にしたがって恩赦が布告される前に、ただちに18人の死刑囚を処刑してしまったのである。
同様に1182年の夏、朱熹は漸江省東部の税務監督官在任中に、その地域の知事を弾劾する文書をくりかえし宮廷に送っている。朱熹は知事が妾と不道徳な関係にあると告発し、その女性を逮捕して拷問した。皇帝でさえこの論争を「学者同士の無益な争い」と評したといわれている。拷問された無力な遊女は何か月も牢に入れられて衰弱しきっていた。この女性の書いた詩を朱熹の後任が読んで、ようやく彼女は釈放された。
だれが好んで風塵に身をさらすでしょうか。
これは前世の宿命なのでしょう。
花が定めのときに咲いて散るように、
すべては夫の定めです。
だれもがいずれは旅立ちます。
どれほどとどまりたいと願おうと。
髪を飾る野花が少しあるだけでいいのです。
この卑しい身がどこへ帰るのかと、どうぞおたずねくださいますな。
朱熹は官吏としての手腕を評価され、宋の知識人のあいだでしだいに名声が高まった。しかし宋の皇帝や同時代の有力者には朱熹の教えや理論はあまり評価されなかった。朱熹の思想は「偽学」の熔印を押され、1196年に監察御史―官吏の行状を観察する官―が朱熹を10項目の罪で告発した。そのなかには彼の個人的な道徳性に対する悪意に満ちた攻撃の数々もふくまれていた。なんとふたりの尼僧を妾にしたという罪状もあったのである。
理由は明らかではないが、朱熹は簡単な文書一枚でその告発を認めてしまった。朱熹の思想が弾圧されると、官僚になった大勢の弟子たちも罰せられたが、朱熹はこれまでどおり弟子たちに教えつづけた。朱熹は1200年4月23日に亡くなった。名誉が回復されるのはそれから九年後である。朱熹が集大成した新儒学は朱子学とよばれ、中国だけでなく韓国や日本でも近年まで社会規範として尊ばれた。
父・朱松
朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱?(しゅかい、?は懐のりっしんべんを王偏に変えたもの)で、?源(ぶげん、江西省?源県)の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。 その八世の子孫が朱熹の父・朱松(1097年 - 1143年)である。
朱松は周敦頤・程・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年(宣和5年)より任官して県尉(県の治安維持を司る)に任命されていた。1127年(建炎元年)に靖康の変が起き、北宋が滅んで南宋が成立した後の1128年(建炎2年)に南剣州尤渓県(なんけんしゅうゆうけいけん、現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。
1130年(建炎4年)、この尤渓県にて朱熹が生まれる。
その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されている。1140年(紹興10年)に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官[注釈 1]の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、1143年(紹興13年)に47歳で死去した。
師との出会い
父と同じく学問の道に入った朱熹は、9歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子?の三者に師事するようになる。
1148年(紹興18年)、19歳の時に科挙に合格。この時の席次は合格者330人中278番だった。この頃は高宗の信頼を受けた秦檜が権勢を振るっており、秦檜は金との講和に反対する者を弾圧していた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなった。朱熹が低い席次であるのにはそうした理由があると考えられている。
1151年(紹興21年)、朱熹は左迪功郎と言う階官(官職の上下を表すもの)を与えられ、泉州同安県(現在の福建省廈門市)の主簿(帳簿係)に任官された。この任官途中で父の同門であった李?(李延平)と出会い、その教えを受けている。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたのだが、李延平の禅宗批判を聞いてその考えに同調し、以後は禅宗を捨てて儒学だけを志すようになる。
1156年(紹興26年)には主簿の任期である3年を過ぎたが、後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞している。1160年(紹興30年)、朱熹は父親と同じように祠官に任命されることを希望し、それが認められると李延平の元で学問に励むようになった。李延平は朱熹に「道学」の真髄を伝授し、朱熹も李延平の教えを次々と吸収したので、やがて李延平に「自分の後継者は朱熹しかいない」と認められるまでになった。
政治家として
1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命じられるが、これを辞退して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。
1170年(乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年(淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。なお陸象山の死に際して朱熹は「惜しいことに告子を死なせた」と孟子の論敵になぞらえてその死を悼んでいる。
1179年(淳熙6年)からは南康軍(江西省。軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を辞退し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。
1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州の治所は現在の浙江省臨海市)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。
これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である[注釈 2]。 結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。
偽学の禁
1189年(淳熙16年)、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年(紹熙5年)の孝宗の死後、趙汝愚と韓?冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は長沙の知事から政治顧問(喚章閣待制兼侍講)に抜擢された。しかし功労者となった韓?冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。
その後の政界では韓?冑が独裁的な権限を握る。1196年(慶元2年)、権力をより強固にするため、韓?冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年(慶元6年)、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。
朱子の業績
経書の整理
『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は"四書一経"となり、四書が五経よりも重視されるようになった。
朱子学の概要
朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、"理"という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。
なお朱熹の言う"理"とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は"不離不雑"の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。
朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。
後世への影響
朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。元代に編纂された「宋史」には、朱子学者の伝を「道学伝」としてそれ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。

日本においても、中近世ことに江戸期に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。
著作
70余部、460余巻あるとされる。
著作の一部
『朱自家訓』
『四書章句集注』
『参同契考異』
『童蒙須知』
『資治通鑑綱目』
『楚辞集注』
『宋名臣言行録』
なお、弟子がまとめた問答録『朱子語類』が存在する。
朱子の書
朱子の書
朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』])と記している。
古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある。
韓gが欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓gの書は常に端厳であり、これは韓gの胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる。
朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米?の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる。
朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる。
劉子羽神道碑
『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は1179年(淳熙6年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張?の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張?は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。
劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉?(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉?(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。
劉?が1178年(淳熙5年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。
尺牘編輯文字帖
『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、1172年(乾道8年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている。
論語集注残稿
『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で1177年(淳熙4年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm。
有名な言葉
「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきていることについては「少年老いやすく学なりがたし」の記事を参照。
精神一到何事か成らざらん
65 クビライ・カアン
(1215年9月23日 - 1294年2月18日)
クビライ―中国皇帝となった遊牧民の君主
クビライ(1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(薛禪皇帝)と号した。
大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では Хубилай хаан (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。
その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。
1215年にチンギス・カンの四男トルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。
雲南・大理遠征
1251年に兄モンケがカアンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征(→雲南・大理遠征)に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。
ドロン・ノールでの謹慎
雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(中国語版、英語版)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服(→ジャラルダイの第六次高麗侵攻、1253年 - 1258年)の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。
しかし、アラムダル(阿藍答児)によるクビライ派への調査を受けて、1256年にモンケは不満を持つクビライを南宋作戦の責任者から更迭し、南宋への戦線を東方三王家筆頭でテムゲ・オッチギンの孫タガチャルにまかせたがすぐに撤退してしまった為、モンケ自らの陣頭指揮により行うことを決した。南宋を早急に併合することを望むモンケは、1258年に自ら陝西に入って親征を開始し、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年の釣魚城(中国語版、英語版)(現重慶市合川)攻略中に、軍中で流行した疫病(赤痢)に罹って病死した。
カアン位をめぐる争い
詳細は「モンゴル帝国帝位継承戦争」を参照
モンケの急死により、その年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。一方のクビライは、モンケが死んだとき中軍が北帰して取り残されて長江の中流域で転戦していたウリヤンカダイを救出したことから、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。1260年、クビライの本拠地、金蓮川でクビライ支持派によるクリルタイが開かれ、クビライのカアン即位を一方的に宣言した。5月にはアリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。
三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦のシトム・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国農耕地帯の豊かな物資を背景にクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。
新国家の形成
1260年に即位したクビライは、モンゴル王朝で初めての中国風の元号(中統)を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。中書省には六部が置かれて旧来の尚書省の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政を司る枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備された。紙幣として諸路通行中統元宝交鈔を発行して、それまで他のモンゴルや漢人の諸侯も発行していた通貨を統一した。
アリクブケとの内紛の最中の中統3年(1262年)には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライは反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。これによりモンゴル皇帝であるカアンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた。
このような一連の改革から、クビライの改革はモンゴル王朝の中国王朝化であり、クビライとアリクブケの対立は、中国文化に理解を示し帝国の中心を中国に移そうとする派と、あくまでモンゴル高原を中心と考える守旧派の対立として説明されることが多い。しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。中書省の高官はクビライの夫人チャブイの甥にあたるアントンらモンゴル貴族の支配下にあり、州県の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。
また、クビライはチベット仏教の僧パクパ(パスパ)を国師として仏教を管理させ、モンゴル語を表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めた。パスパ文字によるモンゴル語文は特にモンゴル帝国の公的な性格を持たせていたため、制定以後、元朝ではパスパ文字自体を「国字」や「蒙古字」あるいは「蒙古新字」と称した。クビライは華北支配を進める中で姚枢等の漢人系の諸侯や知識人の登用にも積極的だったが、歴代中華王朝の伝統的なイデオロギーである儒教は特別には重視しなかったため、科挙の復活もクビライのもとでは行われなかった。これは13世紀に入りモンゴル帝国との戦乱が続いた華北では長らく科挙が断続的にしか行われなかったため、クビライが即位した時期には漢人知識人達の間で科挙の有効性を疑問視する者も出て来た事も関係していた。しかしながら、クビライは華北支配にあたって漢学の必要性は十分認知していたようで、即位後にモンゴルの王族子弟に漢学を学ぶように命じており、クビライ自身も「堯、舜、孔子以下の経典・史書に記載されている嘉言、善政」の記録(主に『尚書』『五経要語』)等をモンゴル語に抄訳、上奏させた。また「魏徴のような人物を求めよ。そのような人物がいなければ、魏初に似たような人物を求めよ」というような聖旨をさえ出している。クビライに限らず、歴代もモンゴル宮廷では「見るべき『前代の帝王が天下を治める』文書」の収集に熱心だったようで、漢籍についても後の武宗カイシャン等の皇帝たちは『貞観政要』『帝範』や『孝経』等の儒教系の漢籍類のモンゴル語訳もたびたび作らせてあるいは出版させており、近年発見されたカラホト文書のなかには漢文とウイグル文字モンゴル語で併記されたモンゴル語訳『孝経』の断片が発見されている。クビライによるモンゴル王侯への漢学奨励の結果、後のチンキム、英宗シデバラ、文宗トク・テムルら歴代の皇帝・皇族達の漢学愛好の気風が生じたといえる。
外征と内乱
クビライの狩猟図(劉貫道『元世祖出猟図軸』より、国立故宮博物院蔵)
軍事的には、アリクブケの乱以来、中央アジアのオゴデイ家とチャガタイ家がハーンの権威から離れ、本来はハーンの直轄領であった中央アジアのオアシス地帯を横領、さらにクビライに従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。
そこで、クビライは夫人チャブイとの間に設けた3人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。安西王マンガラはクビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、クビライは3子率いる3大軍団の上に君臨した。
至元13年(1276年)には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都臨安を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(モンゴル・南宋戦争)。この前後にクビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらした。これにともなって東西交通が盛んになり、クビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。
中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧した後、13世紀末には事実上滅亡させ、傀儡政権として王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させた王太子王ュの王統を立て朝鮮半島支配を確立した。また至元24年(1287年)にはビルマのパガン王朝を事実上滅亡させ(→モンゴルのビルマ侵攻)、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。しかし、日本への2度の侵攻(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国(→モンゴルのヴェトナム侵攻(英語版))、ジャワ島のマジャパヒト王国(→モンゴルのジャワ侵攻(英語版))などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。
モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、至元12年(1275年)にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、翌年モンケの遺児シリギをはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こした。司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの諸王家を統合して公然とクビライに対抗し始めた。
クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせたが、至元24年(1287年)には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛いた。老齢のクビライ自身がキプチャクやアス、カンクリ(中国語版、英語版)の諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。クビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えた。カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。カチウン家の王族カダアン(中国語版)(哈丹大王)がなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を劫掠したが、至元29年(1292年)に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した(ナヤン・カダアンの乱)。
晩年
クビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、至元10年(1273年)に皇太子に冊立された。一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。
対立が頂点に達した至元19年(1282年)、アフマドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。この事件の後アフマドの遺族も失脚し、政争はチンキム派が最終的な勝利を収めた。これにより皇太子チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、クビライに対してチンキムへの譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは至元22年(1285年)に病死してしまった。
一方、カイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねた。外征を支えるためにクビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。至元24年(1287年)に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚サンガ[要曖昧さ回避]も至元28年(1291年)には失脚させられ、クビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかった。
至元30年(1293年)、クビライは高原の総司令官バヤンを召還し、チンキムの子である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、それからまもなく翌至元31年(1294年)2月18日に大都宮城の紫檀殿で病没した。遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所であるモンゴル高原の起輦谷へ葬られた。同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テムルが上都で即位するが、その治下でカイドゥの乱は収まり、クビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになる。
テムルが即位した1294年6月3日には、聖徳神功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・カアン(薛禪皇帝)と追贈された。
鶴雲堂 おもしろページ 石崎康代